kazu0001さんの長文コメントへレスがついたもの

kazu0001

シナリオと音楽重視です。エロは求めていません。採点は直感です。(w

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kazu000001

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86智代アフター ~It’s a Wonderful Life~ (Key)
まさに智代ビフォーアフターですね。Keyというか麻枝さんが描きたい家族の姿というものが見えてきた気がします。批判も多いようですが、どうしてこういうストーリーになっているかを考えてみるべし。後味はCLANNADより良かったと思います。CLANNADより低評価なのは物足りなさが多いから。 → 長文感想(1479)(ネタバレ注意)(7)
最新レス2日放置していたらレスが沢山ついていて、ちょっとビックリしてます。

kimさん>小説・映画なら主人公の死を傍観出来ますが、ゲームにおいては主人公=プレイヤーなので死はマイナスに働いてしまう。

この点が私と受け取り方の異なる最大の原因のような気がします。
私はゲームでも主人公と一体化するようなプレイはしないので、常に一歩引いて見てしまっています。特に麻枝さんのシナリオはいつも幻想世界など叙情的に描かれる部分があるので、ゲームというより小説だと思っています。

自分が主人公になりきってプレイしていたら、「君望」とか、まして「さよ教」なんて、とてもクリアできなかったと思います。客観的にやってても辛かったですし。

kimさん>ただ、社会人になって幾ら頑張っても智代超人に追いつける筈もなく、智代の人生のパートナーには成り得ない。強さを得て完璧超人になった智代の今後に、主人公が長く連れ添うのは困難。

智代って完璧ですか? 私は結構子供っぽいと思っています。
ああいう何でもできてしまうような女の子っていますが、先のことを考えず今しか見ていない、感情的に動く、大人に対していい子ちゃん的行動をする、そのくせ肝心なところで他人に頼る、ちょっと強めに反論するとすぐ泣く、といった脆さを持っていることが多々あって、智代は典型的だなと感じています。
ともと別れるまでの智代だと、学生としては優等生かもしれないけど、社会人としては非常に弱いでしょう。ともが成長したときに実の母親にどういう感情を抱くことになるか、その一点だけでも智代の行動は子供っぽかったと思います。朋也はどんなに辛くても乗り越えたその先に明るい未来があることに気づいていたからこそ、母親の元に居場所を作ろうとしたのだと思います。朋也は説明不足でしたけどね。

kimさん>宝箱の中の永遠の愛は、困難な状況でも持ち続けた想い・愛とそれへの自負といったものではないでしょうか。

私はあまり仰々しいものには考えていませんでした。むしろ、所謂「古き良き想い出」として、AIRで言う「幸せな記憶」として、朋也との想い出が智代に、母親との想い出がともに残ればそれでいいのではないかと思います。
ただ、うまく感情を整理できなかったり強すぎたりすると、智代が他の人を愛せなくなったり、ともが母親や最悪は智代達まで恨んでしまうのは確かで、その為にも自身の在り方というものが大切になってきます。
ともの母親を探しに行く直前の智代だったら、朋也の死をとてもラストシーンのようには受け入れられなかったでしょう。それは智代だけではなく去り行く朋也にも不幸です。それがそのまま永遠に残ってしまうなんて悪夢でしかないですよね。
家族である限り別れは避けられませんが、この辺りの違いを描きたかったがために、ともとの別れと朋也の死が用意されたと考えています。

surviveさん>永遠の愛は、存在すると思う。そう言った智代を信じてみたいのです。

上の説明と重なるのですが、愛が続かないとしても、真の愛ではないもの(不幸)が続くのだとしても、そんなものが家族の間にあったら耐えられないでしょう。永遠の愛を自力で存在させないと家族なんてやっていけないのではないでしょうか。

re009053さん>ショックから如何に立ち直るかが強さの見せ所だと思います。

私は立ち直るというよりも、いい意味で受け流すくらいの感じで見てました。ちょっとニュアンスが違う気がしますが。
朋也との最後の日々は、ホスピスの終末医療と同じように考えればいいのではないかと。終末医療自体よく知らないのですが。

re009053さん>今回ここで今まであまり物語りに関与してなかった家族を出すのは不自然なのでとりあえず主人公に死んでもらおうと言うことだと思います。

別の見方をすれば、ともを殺すとCLANNADと被ってしまうしロクな人生でなくなるし、智代を殺すとヒロインを恋愛対象に見ているプレーヤーから刺されそうだし、他の人物では話が作りづらいし、何より朋也の成長物語ではCLANNADと変わりませんから、適任者は朋也しかいないかと。

で、戦争などで生き別れになるのは今の日本では現実的ではないし、天寿を迎えるのでは間が持たないし、結局病気で殺すことに落ち着いたような気がします。
ただ、朋也の症状を見る限りとても後頭部の脳腫瘍とは思えず、側頭部から脳室の脳出血か、治せないのが気にかかりますが慢性硬膜下血種のほうが近いのではないかと思うのですが。(w

長くなってうまくまとまっていないのですが、私の拙い感想への理解を補っていただければと思います。
kazu00012005年12月01日

86智代アフター ~It’s a Wonderful Life~ (Key)
まさに智代ビフォーアフターですね。Keyというか麻枝さんが描きたい家族の姿というものが見えてきた気がします。批判も多いようですが、どうしてこういうストーリーになっているかを考えてみるべし。後味はCLANNADより良かったと思います。CLANNADより低評価なのは物足りなさが多いから。 → 長文感想(1479)(ネタバレ注意)(7)
最新レス>単純な解釈だと、智代はこの後他の誰かを愛するのが難しくなってしまいます
まあ、そうなる可能性も高かったような気はしますが本編の最後では「三月、七日~その後のハナシ~」のラストのようにきれいにまとめています。

>智代の強さは手術前に十分描かれているので、最愛の人を死なせてまでしてその確認を取る必要は無いと思います
まあ、確かにそんな気もします。一応書きましたがこれには確認作業的な意味合いと製作者の嗜好以外に意味は特に無いと思います。この人たち人死なすの大好きですから。ですから納得できる理由を求めるのも結構だとは思いますが特に意味があるようには思えませんね。そこまで考えて作ってるのかどうかすらわからないですし。まあ、そういう意味では別れ(死別)は内包していたカップル。という可能性も十分ありえると思います。結局永遠の愛を謳いながらも智代の成長物語をメインにして考えたとき(というかそれがメインだと個人的には思ってます)には朋也の存在など都合の良い成長・美化材料ぐらいでしかないのかも知れません。

まあ、私個人としては永遠の愛がこの作品のテーマではないと思うので死んだ朋也のことは結構どうでも良いです。

書き忘れてましたが、
>今後また走り続ける可能性を考えない方がおかしいでしょう
まあ、そうでしょう。おかしいとは思います。本人次第とは便宜上書いたもののそう考えるのが物語として妥当であり、綺麗であるのは言うまでもありません。私が作者でもそうしたと思います。ただあまり断定口調で~が正しい的な発言をするのはどうかとも思ったので一応ストッパーをかけて置いただけですから気にせずに心に留めておいてください。
re0090532005年12月01日

86智代アフター ~It’s a Wonderful Life~ (Key)
まさに智代ビフォーアフターですね。Keyというか麻枝さんが描きたい家族の姿というものが見えてきた気がします。批判も多いようですが、どうしてこういうストーリーになっているかを考えてみるべし。後味はCLANNADより良かったと思います。CLANNADより低評価なのは物足りなさが多いから。 → 長文感想(1479)(ネタバレ注意)(7)
最新レス私はまず、クラナドシナリオの2人の結び付き方と智代アフターのエンドに対して不満を持ちました。
それに智代がネットカウンセラーを始めるというピースを加える事により、この作品の見方が決まりました。
カウンセリングすることにより周囲・社会の不満・問題を考えるようになり、性格的にそれらを解消・改善するように行動する可能性大だし、能力的には問題ないキャラ設定。
カウンセラーとして成功すれば人望・名声が集まるし、元々そういった事になり易いキャラ設定。
ネットであれば世界規模になるし相談件数も増え、上記の確率が上昇。
桜の木を守る為に走り続けたように、今後また走り続ける可能性を考えない方がおかしいでしょう。そして、そうなったら主人公では役不足。
2人を別れさせるライターの意向が伺えます。
智代が活躍するには大学等も出る必要があるし、2人で夕陽を眺める場面で帽子(後姿の白髪と思われる物は帽子の房)と車椅子が描かれているし、第一手術は記憶を取り戻す以外は失敗しているので手術から死までは1~2年ぐらいと考えるのが妥当でしょう。

>智代が本当に強く生きれるようになったのかどうかの確認作業のためには最愛の人を死なすのが一番ではないでしょうか?
ショックから如何に立ち直るかが強さの見せ所だと思います。

智代の強さは手術前に十分描かれているので、最愛の人を死なせてまでしてその確認を取る必要は無いと思います。
物語中の主人公の生死には十分納得出来る理由が必要ですが、私の納得出来る理由は始めから別れ(死別)は内包していたカップルだったということです。

永遠の愛の解釈については、単純に男女の愛は薄まったり途切れたりするのでそれが無く、深いまま継続出来る愛と考えてました。
でも、智代の宝物に永遠の愛が入っているので単純ではなかったようです。単純な解釈だと、智代はこの後他の誰かを愛するのが難しくなってしまいます。
宝箱の中の永遠の愛は、困難な状況でも持ち続けた想い・愛とそれへの自負といったものではないでしょうか。
kim2005年11月30日

86智代アフター ~It’s a Wonderful Life~ (Key)
まさに智代ビフォーアフターですね。Keyというか麻枝さんが描きたい家族の姿というものが見えてきた気がします。批判も多いようですが、どうしてこういうストーリーになっているかを考えてみるべし。後味はCLANNADより良かったと思います。CLANNADより低評価なのは物足りなさが多いから。 → 長文感想(1479)(ネタバレ注意)(7)
最新レス失礼だとは思いますが、横入りします。

>(恋愛相手と仕事のパートナーは違いますが、智代には両方の資質を持つ人が相応しい)
いやいや、それこそ本人が決める問題ではないでしょうか。自分の才能を生かすも殺すも本人が決めることだと思います。それに才能を生かすことが良い人生と一義的に言い切ることはできないと思います。

>(永遠の愛を謳うのは確かに美しいですが、異性間の永遠の愛は相手が生きていてこそでしょう)
まあ、永遠を如何に定義するかにもよりますが、一般的な意味で解釈するなら相手が生きている間は愛が続いているだけで、それを永遠とは言えないでしょう。継続していることが永遠ではないはずです。それに、生きていてこそ。ってことは死んだら終わりな訳で人間の生が有限である以上全然永遠ではないと思います。まあ、そんなこと言ったらこの世から永遠が無くなって議論が破綻します。
そこで本題な訳ですが、製作者が言いたかったであろう永遠というのは単にその場限りの付き合いとしてではなく、愛したというその気持ちが永遠に続いていくならばそれは永遠の愛と呼べるのではないだろうか?ということだと思います。その期限を双方が死ぬまでとしたのか、それとも双方が死んでもその気持ちを抱いたと言う事実は消えないから何時までも続いていくとしたのかは知りませんが少なくとも相手が消えたぐらいで消える愛のことは指して無いと思いますよ。

>(テーマが「強くなることで永遠の愛を獲得」であればシナリオは手術前で終わっており、手術は成功でも失敗してもリハビリによる奇跡の生還でも構わない。ワザワザ死別を用意したのは、ライターもこの2人の組み合わせを不自然に思っていたからだと思えてならない)

智代が本当に強く生きれるようになったのかどうかの確認作業のためには最愛の人を死なすのが一番ではないでしょうか?ショックから如何に立ち直るかが強さの見せ所だと思います。勿論他にも確認作業の方法はあるでしょうが最愛の人の死を超えるショックを与えるとなると智代の家族を殺すとかぐらいしかないと思います。ですが今回ここで今まであまり物語りに関与してなかった家族を出すのは不自然なのでとりあえず主人公に死んでもらおうと言うことだと思います。別に死以外にも方法はあると思いますが、そこら辺は製作者の嗜好だと思います。過去の作品を見る限りでは。
re0090532005年11月30日

86智代アフター ~It’s a Wonderful Life~ (Key)
まさに智代ビフォーアフターですね。Keyというか麻枝さんが描きたい家族の姿というものが見えてきた気がします。批判も多いようですが、どうしてこういうストーリーになっているかを考えてみるべし。後味はCLANNADより良かったと思います。CLANNADより低評価なのは物足りなさが多いから。 → 長文感想(1479)(ネタバレ注意)(7)
最新レス>能力相応の人間としか付き合えない等と、そういった考えには賛同しかねます。
能力相応であれば、無理なく付き合えるのは確かでしょう。
恋愛相手と仕事のパートナーは違いますが、智代には両方の資質を持つ人が相応しい。判り易い例は「夜明け前~」のフィーナ姫のパートナーが挙げられます。智代のキャラ設定を鑑みると、本人の頑張り次第で将来は何にでも成れそう。

また、永遠の愛を謳うのは確かに美しいですが、異性間の永遠の愛は相手が生きていてこそでしょう。特に、まだ若すぎる智代には。
テーマが「強くなることで永遠の愛を獲得」であればシナリオは手術前で終わっており、手術は成功でも失敗してもリハビリによる奇跡の生還でも構わない。ワザワザ死別を用意したのは、ライターもこの2人の組み合わせを不自然に思っていたからだと思えてならない。
kim2005年11月30日

86智代アフター ~It’s a Wonderful Life~ (Key)
まさに智代ビフォーアフターですね。Keyというか麻枝さんが描きたい家族の姿というものが見えてきた気がします。批判も多いようですが、どうしてこういうストーリーになっているかを考えてみるべし。後味はCLANNADより良かったと思います。CLANNADより低評価なのは物足りなさが多いから。 → 長文感想(1479)(ネタバレ注意)(7)
最新レス>ただ、社会人になって幾ら頑張っても智代超人に追いつける筈もなく、智代の人生のパートナーには成り得ない。強さを得て完璧超人になった智代の今後に、主人公が長く連れ添うのは困難。

人生のパートナーとは個人が決めるものではないでしょうか?
能力相応の人間としか付き合えない等と、そういった考えには賛同しかねます。
私は、朋也は十分に智代のパートナー足り得たと思います。
社会人になって、彼は学生時代の彼から脱却しました。好感を持てて、一定評価を得られる人物だと感じましたがどうでしょうか?
勿論智代にとって朋也が最良のパートナーであったとは言いません。もっと良い相手が居たかもしれません。
ですが、

永遠の愛は、存在すると思う。

そう言った智代を信じてみたいのです。
survive2005年11月30日

86智代アフター ~It’s a Wonderful Life~ (Key)
まさに智代ビフォーアフターですね。Keyというか麻枝さんが描きたい家族の姿というものが見えてきた気がします。批判も多いようですが、どうしてこういうストーリーになっているかを考えてみるべし。後味はCLANNADより良かったと思います。CLANNADより低評価なのは物足りなさが多いから。 → 長文感想(1479)(ネタバレ注意)(7)
最新レス>ストーリー上、朋也の死がどうして必要だったのか。

テーマを描く為には、主人公の死は有効な手段ですが必然では無い。
クラナドの智代シナリオが不評だったのはテイタラクな主人公に不満があったからであり、ライターはその仕切りなおしの為に智代アフターを作るに至ったのでしょう。ただ、社会人になって幾ら頑張っても智代超人に追いつける筈もなく、智代の人生のパートナーには成り得ない。強さを得て完璧超人になった智代の今後に、主人公が長く連れ添うのは困難。智代はアクションを起こすだけで自然に人望を集めるファンタジーな存在なので、今後の大活躍は自然な流れ。
物語としては別れよりも死別の方が綺麗に纏めらるので、このようなエンドになったのでしょう。
ただ、小説・映画なら主人公の死を傍観出来ますが、ゲームにおいては主人公=プレイヤーなので死はマイナスに働いてしまう。まして、テイタラクな主人公=我々18禁ゲームプレイヤーと暗に思ってしまったら、このシナリオに対して反感さえ抱いてしまうでしょう。
kim2005年11月29日

99シンフォニック=レイン(非18禁) (工画堂スタジオ)
音楽とシナリオは素晴らしいです。諦めないで、グッドエンディングは全部クリアしましょう。そうしないと、歌詞とシナリオの意味は理解できないでしょう。鬱ゲーと鍵盤入力(?)に耐えられ、ファンタジーを受け入れられる人ならやってみる価値があります。 → 長文感想(1667)(ネタバレ注意)(6)
最新レス>raccoonさん
・フォーニエンドの歌声
これについては、まだ良くわからないというのが正直なところです。
ただ、フォルテールという楽器、それの動力が「感情」だという説がある以上、
クリスのフォーニへの強い想いが、そのままフォーニの声として、音となった?
という仮説を立ててはいますが、根拠はありません。

・クリスはそれぞれの結末で、それぞれを愛している?
ええ、ですので、それが「偽装」なんです。
リセを愛しているつもりでも、彼は「許している」だけなのです。
彼女に「歌うこと」を許したのは、クリスに他なりません。
フォーニを愛しているつもりでも、彼は「許している」だけなのです。
フォーニエンドの、ラストシーンを見なおしてください。

トルタの件に関しては、もう一度私の文章を読み直して頂ければ。
ちなみに『僕は、アルが好き』とは、作中では一言も言われていません。
(言われていたかも知れませんが、嘘です)
私たちが勝手に、「そう思いこんでいる」だけです。


>しかし、フォーニルート1/5、クリスがトルタに全てを告げたとき、嘘の連鎖、罪悪の積み重ね、全てはリセットされて消失したのです

これがよくわかりません。なぜ、リセットされるのですか?
なぜ、「トルタは諦められた」と、断言できるのですか?


・DPC『妖精の本』(ルート名)
ご指摘の通り、このテクストは、大変重要な意味を持ちます。
なぜなら、このテクストは、『シンフォニック=レイン』を構成するテクストの中で唯一、
「第三者視点」、いや正確には「作者の視点」で書かれているからです。
すなわち、『妖精の本』の記述だけは、私たちは全面的に信頼して良い。

そして――その作品の中で、「飛べない妖精」ファータが行ったこと。
それは ど の よ う に 評価されていたでしょうか?
これは、大変重要です。
hajic2005年03月22日

99シンフォニック=レイン(非18禁) (工画堂スタジオ)
音楽とシナリオは素晴らしいです。諦めないで、グッドエンディングは全部クリアしましょう。そうしないと、歌詞とシナリオの意味は理解できないでしょう。鬱ゲーと鍵盤入力(?)に耐えられ、ファンタジーを受け入れられる人ならやってみる価値があります。 → 長文感想(1667)(ネタバレ注意)(6)
最新レス<その真相③>
※下の投稿の続きです。その真相①から順にお読み下さい。


■”この世界”の嘘と真実
雨は、偽りでした。なのに、雨が、真実を教えてくれた。でも、その真実とは、気づかぬ限り嘘でした。私たちは気づかない限り、一生でも「嘘」を「真実」だと思い続けてしまう。そこに「本当のこと」があるとしても、それがわからなければ意味がないのです。私たちは何かを見たとき、それを嘘か本当か、「信じる」しかない。少なくとも、神ならぬ私たち人間にとって、「真実」なんてのはその程度の価値しかない。世界は「こうこうこうであると信じる」多くの人の常識の上になりたっています。だって、そもそも私がこうして記述している「文字」自体、「”あ”とはaと発音され、カタカナで書けばアである」と「信じ」るから使えるわけであって、「なぜ”あ”はaと発音するの?」という疑問には答えようがありません。それはただ、みんなが「”あ”とはaと発音され、カタカナで書けばアである」と「信じている」からです。少なくとも人間の世界に、「真実」はありません。
もしあるとしても、それは「いつか人は死んで、帰らない」ということだけです。


■愛がなければ、全ては空しい
ちなみに、トルタエンド以外のクリスの選択は、常に彼に「許し」という行動を行わせていたことに注目してください。例えばファル。例えばリセ。フォーニエンドの描写さえも、『愛』ではなく、「許し」なのです。クリスはトルタとの『愛』を選ばず、常に「許し」を与える側――優位者になろうとしていた。そもそも3年前、彼は”横に並んで歩くトルタ”ではなく、”一歩下がってついてくる”アルを選んでいます。彼は、いつも、恋人より優位に立とうとしているのです。それははたして、『愛』なのでしょうか?

観念論的になりますが、『愛』とは全て相手に投げ出し、与えることです。これはとても恐ろしいことです。相手が受けとってくれないかもしれないわけですから。自分の全てを投げ出して、投げ捨てられたとき、それはある意味「死」です。あまりに恐ろしい。それ故に、クリスはずっと、『愛』から逃げてきたのです。「許し」続けてきたのです。そしてal fineで初めて、『愛』を”受け入れる”(この臆病者!)ことができた。

つまり、ここに来て、ファルやリセといったいわゆる「グッドエンド」が、なぜあんなに「違和感」に満ちていたかがわかります。それらは確かに、「バッド」ではなかったかもしれない。その意味では確かに、「グッド」だったのかもしれない。しかし、それらは間違いなく、「空しい」のです。そこに、『愛』がないから。愛がなければ、全ては空しいのです。


■この嘘だらけの世界で
ではなぜ、私たちは『愛』だけを信じるべきなのでしょうか。どうして『愛』だけが、物語を結末に導くことができたのでしょうか。
正直に言いましょう。私は、この部分に明確な結論を下すことはできません。ただ、それこそが『シンフォニック=レイン』の告げたかったことであり、それはおそらく、『シンフォニック=レイン』の語り手が――すなわち岡崎律子が――(おそらくは極めて深い悲しみと悩みに満ちた)彼女の人生をかけて辿り着いた、「”この世界”を生きることの意味」の答えなのだと思います。それは、ただ彼女の得た確信。だから、この答えは、それはもう「信じる」か、「信じない」かしかない。
そして私は、彼女の答えを、信じます。


>ごめんなさい。ほとんど全てが、嘘なの。でも、これだけは信じて。
>私はトルティニタ。そして、あなたのことを愛してる。
>それが全て。


まさに、『シンフォニック=レイン』を総括する言葉です。
世界に「真実」はないか、あるいは見つけられなかった。
ただ、そこにあると「信じたい」もの。それは『愛』であり、
それが「全て」なのです。
hajic2005年03月22日

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音楽とシナリオは素晴らしいです。諦めないで、グッドエンディングは全部クリアしましょう。そうしないと、歌詞とシナリオの意味は理解できないでしょう。鬱ゲーと鍵盤入力(?)に耐えられ、ファンタジーを受け入れられる人ならやってみる価値があります。 → 長文感想(1667)(ネタバレ注意)(6)
最新レス<その真相②>
※下の投稿の続きです。その真相①を先にお読み下さい。

■ではいったい、「何が」おかしいのか ――そして 「誰が」偽っているのか
納得がいかない。どうして、アルを思い続けたら、こんな結末になってしまったのでしょうか。
この疑問は、「結局、クリスは誰が好きなのか」という疑問に置き換えて考えるべきでしょう。
そしてその疑問の答えは、da capoトルタパート12/25に存在します。


>12/25 天蓋広場にて トルタと
>「僕は上を向いて、その丈夫で美しい天蓋を見上げてみた。
>トルタの言うように、漏れるなんてことはありそうにない」
>「雨を避けるために作られたその屋根は美しく、機能のためだけそこに存在しているとは思えなかった」

雨は、クリスによってのみ見られた「偽り」でしたが、それでも天蓋の下には降ってこなかった。
それは、嘘を嘘として成り立たせるための、最低限の「お約束」でした。
なのに、このシーンで、その「お約束」は破られる。

いや、「降ってくるはずがない」のです。もし降っていたとしても、振り込むはずがない。
それまで、いくら雨が降り続けていたとしても、天蓋のなかで、雨が降るなどということは、「ありえない」。それは「絶対にあってはならないこと」なのです。そう、そこには一つだけ、しかし、絶対的な嘘が一つ、ぽつりと一滴。「落とされる」。

つまり、このシーンが持つ「嘘」は、「暴かれなければ意味がない嘘」なのです。あるいは、「暴かれないといけない嘘」なのです。それは、『シンフォニック=レイン』の根本であるが故に、どうしても暴かれないとならない。けれど、そのためには、「絶対にあり得ないこと」の力を借りるほかなかった。「絶対にあり得ないことが起こる」、それはすなわち、「奇跡」です。この日は降誕祭。ゲームの中で起こった、ただ一つの「奇跡」は、まさに、この聖なる日の、一滴の「雨」です。
何という皮肉。「奇跡」は「嘘」なのです。


>トルタは僕にとって、なんなんだろう…と。
>昼に、おじさんは恋人のようだと言った。
>でも実際は、僕たちはただの幼なじみで、同じ学院に通う親友だった。
>でも、それだけではない。そう割り切ってしまえるほど、浅い関係でもないような気がする。
>それを言葉にしてしまうのは嫌だったから、僕はただ、それを疑問に思い、
>答えに気づかない振りをした。


彼にとってトルタは、親友以上です。でも、恋人ではない。ならそれは何?
もうおわかりでしょう。


■――『僕は、アルが好き』
はい。これこそが、『シンフォニック=レイン』最大の「嘘」です。彼は「トルタが好き」なのです。なのにそれに「気づかない振り」をし続けているのです。そう、この物語で最大の嘘つきは、トルタではなく、クリスです。だから、彼がその嘘を暴かれない限り、『シンフォニック=レイン』という物語は、「ゲームクリア」にならないのです。もう笑うしかない。
hajic2005年03月22日

99シンフォニック=レイン(非18禁) (工画堂スタジオ)
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最新レス>kazu0001さん
とても長いのですが、一応「■」をなぞれば要点が読み取って頂けると思います。
(なお、完全にネタバレです。未プレイ・プレイ中の方は読まぬよう、お願いします)

<その真相①>

■私がフォーニエンドに対し、抱いた疑問が数点あります
・それはなぜ、「da capo」内に存在するのか
・それはなぜ、「ゲームクリア」と叫ばれないのか
・そこではなぜ、他のエンドと同様、「星空を飛ぶ光」が描かれたのか
・なぜそこだけで、アルが甦った――すなわち「奇跡」が起こったのか


■私はこう考えました。
・da capoとは「初めに戻ってやり直し」という意味を持つ
→実際に、思い出すと、da capoはどれもこれも何か問題があり(そうでしょう?)、
最終的にal fineに辿り着くまで何度も「初めに戻ってやり直」さなければならなかった。
da capoに含まれるエンドは、それぞれ何か、「問題」を抱えたままなのです。

・al fineとは「終わりまで」という意味を持つ
→だからこそ、このエンドのみが、物語的な意味で「結末」を意味します。
そして実際に、このエンドのみで、もはやわざとらしいくらいに無遠慮に、
「ゲームクリアおめでとう!」と(”本編のヒロイン”)トルタは叫ぶのです。

・「星空を飛ぶ光」とは、アルの(あるいは他の誰かの)魂を意味する
ゆえに、フォーニエンドでさえそれが飛んだ以上、あのエンドでもアルは死んでいる。
もしくは、「アル以外の誰か」が、あのエンドにおいて「一人、存在しなくなっている」。
ならばいったい、あのアル、クリスの側で微笑む彼女は、「本当は」 誰なのか?


※※※※※※※※※※※ここ以下は、ネタバレです※※※※※※※※※※※※※


■端的に言いましょう
・フォーニエンドで、最後にクリスの側で微笑んでいるアルは、トルタです。
奇跡など、起こっていません。どちらかといえば、呪いです。
アルは死にました。それでもトルタは、アルの振りをし続けるしかない。
フォーニエンドとは、シンフォニック=レインで最も恐ろしい虚偽に満ちたエンドです。


al fineは、12/15から始まります。そして次の日?は、なぜか12/8です。そして次の日は、当然のように12/1を語り、さらに11/24まで戻った翌日?、ついに3年前にまで物語はジャンプします。al fine序盤において、物語は、なぜか戻って行っている。そして、物語が戻るに従って、私たち読者は、その語り手が「アルではなくトルタであること」に気づきます。逆に言えば、12/15当初の時点では、アルとしての「トルタの偽装」はほぼ完璧であり、その「偽装」の嘘を暴くためには、私たちは過去に遡るしか手はないのです。言い換えれば、「トルタはどんどんアルになって行っている」わけです。

繰り返しになりますが、このトルタ視点の物語は当初(すなわち12/15)、「まるでアルに語られているかのように」思えます。その実、それはトルタが語っていたわけですが、少なくとも私たちはそれを「アルが語っている」と信じそうになった。トルタは大嘘つきです。極めて優秀な、嘘の紡ぎ手です。それが嘘だとわからない限り、彼女の嘘は真実だとしか思えない。嘘は、それが本当だと思いこまれる限り、真実になりえます。少なくとも、そう「信じた」誰かにとっては。

また、al fineで最も注意深く読まなくてはいけない箇所の一つ(実際のところ、本作に「無駄な記述」など一切存在しませんが)。
それは、トルタが「手紙」に関して行う独白です。引用しましょう。


>1/5 アル=トルタ 手紙にて
>『ただひとつ、聞かせてください。トルタのことをどう思っているか』
>もしもクリスが私のことを好きだと言ってくれれば、私は何に変えても彼のために全てを
>捧げるだろう。アルのことも、卒業演奏のあとにきちんと話し、その上で彼の支えになる。
>望まれようと望まれまいと、最後まで彼の幸せを願って行動する。

>『そしてもし、アルのことが一番大事だとクリスがまだ思っているのなら――
>私は身を引き、アリエッタとして彼をいたわるだろう』


つまり、そういうことです。トルタは、もしそうなら、「アルになろう」と決断している。
フォーニエンドは、「クリスにとっては」違ったとしても、トルタにとってはまさに
「アルのことが一番大事だとクリスがまだ思っている」エンドでしかあり得なかった。
そして実際、クリスはアル=フォーニだと結論づけましたし、彼はフォーニを選びましたから
フォーニエンドとは、「アルのことが一番大事だとクリスがまだ思っているエンド」なのです。

トルタは、アルになってしまうのです。なってしまい得るのです。
それは嘘なのに、疑いを持たない限り、本当なのです。
死ぬまで気づかなければ、死ぬまで本当なのです。
hajic2005年03月22日

99シンフォニック=レイン(非18禁) (工画堂スタジオ)
音楽とシナリオは素晴らしいです。諦めないで、グッドエンディングは全部クリアしましょう。そうしないと、歌詞とシナリオの意味は理解できないでしょう。鬱ゲーと鍵盤入力(?)に耐えられ、ファンタジーを受け入れられる人ならやってみる価値があります。 → 長文感想(1667)(ネタバレ注意)(6)
最新レス私は、hajicさんの答えとは多分違う答えを持っていると思います。
それよりも、私の今の考えは、最初の感想からも変わってきています。

「あなたが正しいと思うことをしてください」という言葉はトルタがアルとして書いた
言葉ですが、実はそれはトルタ自身に向けられているはずです。なぜなら、トルタ自身
が自分の行動に疑問を抱いていて、この物語で一番の大嘘つきだからです。

「――認めろ。醜い自分のことを。そして、手に入れればいい。最愛の人を、最悪の
方法で。」という言葉は、それを端的に表しているでしょう。
彼女は実はどこかでアルの死を願わずにはいられなかった。アルが死ぬまでにクリスを
自分に振り向かせなければ、永遠にクリスを手に入れることは叶わなかったからです。
しかし、当然のこととして、そんなことはクリスに対してだけではなく、自分にも隠さ
なければならなかった。誰にも言うことなどできず、皆を騙し続けていたのです。
ニンナさんに諌められて最終的に実行にこそ移しませんでしたが、しかしその背倫理性
からしてal fineエンドはグランドフィナーレにはならなかったのでしょう。そして、
アル=フィーニエンドでトルタは静かに消えていくという罰を背負わされるのです。

--------------------------------------------------------------------------------
この物語の本質は、「自分が正しいと思うように進むしかないこと、しかし他人から
見たときに正しいとは限らず、罪にすらなりうること」でしょう。哲学方面には疎い
のですが、それは価値観について語ろうとしているのだと思います。
 1.価値観は自分自身の中では絶対的であるが、他者と関わった時点で価値観は
   相対的になるということ
 2.しかし、絶対的普遍的な価値観(=truth)というものが存在すること

愛についてもテーマになっているように見えますが、私はそれは切り捨てています。
なぜなら、登場人物の誰一人として「無償の愛」なんてものを持っていないから。
というより、「無償の愛」という言葉は陳腐なものとして否定しているようにすら
思います。

プレイヤーである我々は第三者の視点で見ているので、登場人物たちが決して悪人では
ないと思い、例えばトルタについて擁護する見方も出てくるでしょう。
でも、本当に我々は第三者の視点で見ているのかと言えば、そうではないと思います。
実際のところ、クリスとトルタの視点で物語を読んでいるわけですし、何よりトルタと
アルのやりとりはほとんどありません。トルタとアルがお互いのことをどう思っていた
のか、文章からでは読み取れないです。何せああいうお話ですから。
例えば、アル視点に立った時に、トルタの行動はどうなのか、クリスの行動はどうなの
かを考えてみると、評価も変わってくるでしょう。

そうして考えてみると、トルタはクリスのために献身的に尽くしていたのは確かなので
すが、アルもクリスのことをトルタに託すつもりでいたのでしょうが、しかしトルタは
一線を越え、絶対に思ってはならないことを願ったからこそ、あのようなエンドに
なったのだと思うのです。
私は、al fineエンドこそこの物語の本当のエンドであって、da capoのアルエンドは
謎解きとアル救済の意味しかない蛇足だと思っています。しかし、da capoのアルエンド
の存在自体には大きな意味があると考えています。

al fineエンドでトルタとクリスは結ばれます。それは、トルタの立場になって見れば、
アルの死を願うことはいけないことであったとしても、無理からぬことでしょう。
好きな人と結ばれたいと思うのは自然ですし、現実的に考えればクリスがトルタに
振り向いて二人が結ばれることが、結末としても一番いいからです。
(アルが回復するというのはハッキリ言って奇跡なので却下。)
クリスという他人を騙すことは出来ても、自分を騙すことは、純真な心を少しでも
持った人間には非常に難しいことです。
トルタが最後まで持っていた罪悪感の根源はここにあると思います。

トルタは悲劇のヒロインになってしまいました。
しかし、本当に罰せられるべきは彼女ではなく、彼女をここまで追い込んだそれぞれの
両親、そしてニンナでしょう。(アルを撥ねた人もそうですが)
トルタを責めることが出来るのは、トルタ自身だけでしょう。
だからこそ、私はトルタがかわいそうだと思っています。
kazu00012005年03月21日

99シンフォニック=レイン(非18禁) (工画堂スタジオ)
音楽とシナリオは素晴らしいです。諦めないで、グッドエンディングは全部クリアしましょう。そうしないと、歌詞とシナリオの意味は理解できないでしょう。鬱ゲーと鍵盤入力(?)に耐えられ、ファンタジーを受け入れられる人ならやってみる価値があります。 → 長文感想(1667)(ネタバレ注意)(6)
最新レス
>しかし、トルタは全く損な役回りをさせられていますね。トルタの行動は、
>クリスへの愛の力がなせる業なのでしょうが、それにしては最後のアル
>エンドでの扱いがおざなりで、かわいそうになってきます。

>彼女の行動は100点とはいかないまでも、正しかった

まさにその通り、この点が最大の重点です。フォーニエンドには、明らかに違和感がある。
だとすれば、それはなぜか。なぜ、トルタエンドという”まっとうな”結末の先に、
フォーニエンドという、いわばトルタエンドを「否定した」結末が用意されたのか?
見過ごしてはいけません。シンフォニック=レインという恐るべき作品において、
すべての違和感には答えがあります。
それら全ての違和感を徹底的に疑い抜いたとき、初めてこの物語の持つテーマが見つかるでしょう。

>結局、テーマは「あなたが正しいと思うことをしてください」ということ
>でしょうか? 良いか悪いかは別にして。

その通りなのです。ただし、悪いことをしてはいけない。そうですよね?
では、何をもって、「良いか悪いか」は判断されるべきなのでしょうか?
それが、この作品、『シンフォニック=レイン』のテーマです。
それを知るために、kazu0001さんは、もう一度トルタエンド12/25の「天蓋の中の雨」を、
そしてフォーニエンド12/30の「目覚めよと呼ぶ声」を、読み返してください。

あなたは疑問を抱いた。だから、解き明かせるはずです。 ”語られなかった物語”を。
つまり、「この物語で、一番の嘘つきは誰だったのか」を。

ほ ん と う に フォーニエンドは、最後の結末なのでしょうか?



#追記
>99点にしたのは、私が100点にしている"CLANNAD"と比べて、ゲームとしての
>面白みに少し欠ける部分があるためです。ゲームにしてはちょっと真面目過ぎな気がしました。

賛成です。この作品はいわゆる「ゲーム」としては、あまりに毛色が違いすぎる。
なぜなら、作中からほぼ全て”奇跡”すなわち”ファンタジー”を廃した結果、
その世界はまさに、私たちの世界について物語る、とても残酷な物語となってしまった。
ただ、それでも、「解読ゲーム」としては、これほど素晴らしい作品もないのですが。
「読書」と「ゲーム」の中間に位置する、サウンドノベルのみがなし得る、表現形態。
そして、その本当の結末は、とても幸せなものであると、私は”信じて”います。
hajic2005年03月21日