マルセルさんの長文コメントへレスをつけたもの

マルセル

おそらく5年ぶりくらいの近況報告。えー子供が無事に生まれまして(嘘)その後に結婚いたしてまして(大嘘)無事に維新の会から出馬してソフ倫理事に就任しまして(本当だと思ったら楽しそう)まぁ無駄に歳を食って、そのぶんだけ無駄に社会的責任と仕事が増えてエロゲレビューの更新が滞っている状態ですが、これからもちょくちょく更新するかもしれないので、エロゲブランドと同じ感じで頭の片隅に入れてくださると幸いです。

んで、この欄は昔は「エロゲ論壇」的なことをちょっと書いていたんですが、うーん、今は特にあんまし書くことが無いんですよね。昔はエロゲ業界の衰退だの、同人エロゲがどうこうっていう話を良くしていたんですが、売り上げのマクロな要因は、基本的に今の日本経済が先進国の中ではビリっけつなのが悪いって話で緊縮政策をどうこうしないと意味がないし、同人エロゲだって良くも悪くも「棲み分け」が出来てしまったので、これまた具体的なミクロ作品を除いてどうこういようがない。ただ、そこで何も話題が無いっていうのも良くないので、なんか業界ネタを書こうとするなら…

そうですねー、今回はポジティブネタってことで「今のエロゲ業界で素晴らしいメーカーはネクストンである」っていうマンセーネタでもやっておきましょうか。 これ、こういうことを言うと僕はネクストン信者で「恋姫シリーズ」のファンだ!みたいな話になりそうで、まぁ恋姫は好きな作品ではあるんですが、レビューも基本的にはやっていないし、 今回のリメイク版にしても、おそらく「蜀」以外はプレイしないとは思うので、そこまで積極的なファンっていうわけでもない、まぁ派生ブランドも含めて、結構好きな作品は多いんですけど、 今回のマンセーは「自分の好きな作品が多いから」っていう話では無いんですよ。どちらかというと、その企業戦略が素晴らしいなぁって言う話なんですよね。

まずネクストンはそれなりに恋姫のソシャゲとかやって、まぁエロゲオタには非常に腹が立つミスとかも時々やっているんですが、エロゲメーカーではあまり類例のないことに「ソシャゲだけに全力投球しない」っていうところが素晴らしいですねーねー聴いていますかぁ「アリスさん」や「八月さん」は。別にエロゲオタは「ソシャゲをやることそれ自体」には、 原理的に反対しているわけじゃなくて、ソシャゲをやると「ソシャゲだけに全力投球」になってしまうことが問題なんですけど、ネクストンはここをきちんとクリアしていて、 「ソシャゲもエロゲも自社のコンテンツを売り込む様々なジャンルのひとつ」としてきちんと多角形経営出来ている。これが「型月」みたいなガチャに魂を売り渡したブランドとは違うところですわ。

(ええ、もちろん、今回のお題はネクストンを盾に他のソシャゲ墜ちブランドを叩くっていう意図では全くありませんが何か?) さらに、今のネスクストンが素晴らしいのは、この方向性が今後どうなるのかのはまだ良く分からないところがあるんだけども「巣作りカリンちゃん」という作品が今年の12月に発売予定になっている。

http://nexton-net.jp/KarinProject/karinchan/

これは「ソフトハウス」キャラとの「コラボ作品」と一般的に言われているけど、もうこれは「共同開発作品」と言ってと思うんですよ。実際の共同開発の内訳は未だに良く分からないものの、 たぶん「ゲーム性部分とシナリオ」部分はソフトハウスキャラがやって、CG部分に関しては何故か「こ~ちゃ」氏が入っているのがなぞでありますが、まぁ基本はネクストン系列が開発していると思われる。 このような共同開発作品は、まぁエロゲ業界はいろいろと「下請け」だのはあると思いますが、ここまで本格的な共同開発はかなり珍しいものであり、この方向性は今後も生かして欲しいと思うのですよ。

何故なら、今のエロゲ業界は概ね不況状態であり、さらに深刻なのが「小さいブランドの認知度が低い」という状態。これに対してソシャゲ的な「コラボ作品」は、 そのキャラクターを出すそのソシャゲに出すことによって認知度を上げるというが、実際のところソシャゲに食われているだけというのが大半でしょ。 例えばサクラ大戦のキャラクターをあるソシャゲに出したところで、なるほどサクラ大戦のファンがそのソシャゲをやることはっても、そのソシャゲのファンがサクラ大戦をやる可能性は極めて低い。 またエロゲ業界がときどきウンコのようにまき散らす「全ブランドのヒロイン総結集」みたいな「各ゲームのヒロインがソシャゲの主人公に食い散らかせる」ソシャゲも単に既存ファンを怒らせている自爆スキーでしかないわけだし。

そのてん、この「ソフトハウスキャラ×恋姫ネクストン」のコラボは実に適切なウィンウィンを実現しているといえる。恋姫は未だに強いコンテンツで新作エロゲを未だに出せるが、 流石に毎回毎回紙芝居というのはキツクなってきたから、変わったジャンルの作品を出したいし、キャラもキャラで未だにゲーム性作品の開発力は落ちていないものの、いかんせん知名度が下がってきている。 この両者の強みと弱みを両者が「共同開発」することによって上手くカバーできるわけですよ。ネクストンは恋姫の新作を違うジャンルで開発できて、キャラは自社のゲーム性を恋姫ユーザーにも認知が進む。 これは非常に優れた戦略と言えて、ネクストン以外のブランドも是非に参考にして欲しいものですね。

レス

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75吸血姫のリブラ (onomatope*)
「イチャラブ最高神海原」レベル10と「ハーレム天使オノマトペ」レベル8と「厨二病堕天使燃えゲ」レベル6をメガテン三神合体させ、生まれたのがこの「吸血姫のリブラ外道ゲー」レベル4である。このタイトルの「リブラ」とは「ライブラ」つまり「天秤」を指し、物語としても吸血鬼と人間、またはハーレムと純愛と言ったような「価値観のバランスを探る」ような展開になるのだが、この物語と「イチャラブ」「ハレーム」「厨二病燃えゲ」の組み合わせが最低最悪。正妻と最後は悲劇だがイチャラブしつつイリスちゃん(ルート無し!)をプチレイプして責任取らずに終了とか、世界の滅亡よりも自分のアイデンティティの方が大事話が連発され、まともに主人公の葛藤に付き合う気が失せるプロットになってしまってる。唯一素晴らしいのは、主人公が意に反して発生させる魅了からの魅了Hであり、ヒロインを寵姫にしちゃうメロメロ背徳感が物語と共に伝わってくる。 → 長文感想(31538)(ネタバレ注意)(2)
最新レスあのー、ここは別にあなたのレビューを書く場所では無いんで、僕のレビューに対する反論の形でレビューを書きたいならば、
それは自分のアカウントでやってくださいっていうのが先にあります。正直そういう非常識な人にはあまり関わりたくありません。
別に僕はあなたのレビューに何の反論も無いのに、勝手に自分のレビューに対する反論だからここで答えたみたいな文章もデムパを感じますし。
なので手短に反論します。

まず、僕が批判しているのは主に葵ルートの後半に見られるような「吸血鬼のネタバレを知っても何も決断せずにグタグタ主人公描写」であって、
あなたが長文で反論しているような「アイデンティティの不安」については、僕のレビュー本文中にも、

>前半からの「吸血鬼に対する何らかの葛藤」っていうのが、主人公や葵にもまだ続いてるとかそう言う話は出来るんですけど、それよりも単なる描写不足+最後の悲劇展開に無理に繋げたいんだろw
>が先に立っちゃうわけで、どう見ても説得力のあるシナリオじゃないわけですよ。「カレン」や「マリ」ルートはそこらへんのところをそれなりに書いているんで、悲劇展開であっても多少の説得力はあるんだけども。

こう書いているように「ネタバレ以前のヒロインルートの描写においてはそれなりに説得力を持っている」くらいは評価しています。また僕が理性的すぎてそのような不安を考えていないというのも、
上の文章でそのまま反論できることです。んで、takaisoraさんの意見に対しては、


>仮にあなたが主人公と同じように、「吸血鬼の始祖にならなければ世界が滅ぶ。世界を救うという大義名分があるから、今の自分を捨てて始祖になってくれ」と言われたとしよう。
>今、あなたの中に、「どんな理由があろうと、自分じゃなくなるのは嫌だ」という気持ちがわいてきたとしたら、あなた自身が、主人公の葛藤が茶番ではないということを示していると言えないだろうか? 
>その気持ちこそが、本作が伝えようとしていた「自分自身を大切にしたいというわがままな気持ちの大切さ」を示しているのではないだろうか?

>そのような気持ちは全く湧いてこなかったというのであれば、私の感覚が狂っていると判断してもらって構わない。


とのことですが。その程度のことをこの作品が言いたい、またはその程度のことを感じさせたいのだがこの作品の目的である、と言う話でしたら、それはそれで別に良いんじゃ無いでしょうか。
そりゃ誰だって「自分自身を大切にしたい」という気持ちを「一瞬くらい」は思いつくでしょうからね。そんな気持ちを「一瞬だけ」浮かび上がらせれば成功というのは、とても低いハードルだとは思いますけど、
takaisoraさんが、ふだんそのようなことを考えずまた感じず、この作品をやってそのようなことを改めて再認識させられたことがそんなに素晴らしいことであれば、takaisoraさんがこの作品を評価するのも頷けます。
それについて僕がどう思うかと言えば「そんなの当たり前じゃね?」の一言でFAなのですけど、世の中にはそんな当たり前のことが大切に思える人もいるんだなぁと少しは勉強になりました。
マルセル2015年11月12日

87妹スパイラル (まかろんソフト)
「シナリオはイマイチだけど妹属性が好きな人にはお奨めの作品」であるが然しこの作品のシナリオはサイコーである。まずそれを順接的に言えば、傑作ロリシナリオが犇めく今年においても凜火のロリ妹っぷりは、お兄ちゃんに無自覚におしっこしーしーさせてぇと誘惑してくるほどの破壊力を保持しており、もはやギャグに等しいツンデレ妹キャラ霞空も今年で一番笑える駄忠犬妹っぷりを披露してくれるだろうが、それを逆説的に言えば、妹スマイルが義妹的テーマを用いた作品であり、妹スタイルが実妹的テーマを用いた作品であるとするならば、この妹スパイラルはエロゲならではの「可能世界妹」に照準を合わせている。複数の個別シナリオの別世界を無理矢理ひとつの世界に次元融合させ、その別世界での記憶や能力を持たない兄とそれらを持つ妹との恋愛物語から、いろんな夢を見続けるようにして、兄妹関係の新たなイチャラブ可能性を描く異次元規模の傑作なのだっ! → 長文感想(31866)(ネタバレ注意)(3)
最新レスこちらこそ始めまして。つい昨日、そういや「あ、妹スパイラルのエロクリック数計測するの忘れた!」と思いだして、
残響さんのレスに今ごろ気が付いた粗忽者のマルセルであります。本当にお返事が遅れてしまい申しわけありませんでした!

僕のレビューがそれなりに「しとろん」作品に興味を抱かせるきっかけを作れている、と言う事実ほど嬉しいものはありません。
SMEEあたりは「らぶでれ」のときはちょい危なげでしたが、ラブラブル以降なら「そのうち評価されるだろ」と安心は出来ていたんですけど、
「しとろん」系列の作品は、その作品の良さがわかる人はそれなりに多いとしても「バカ抜きゲー」という作品の表面的なイメージが、
そう言う人を遠ざける可能性が高くてちょっと危ないなぁと思っていましたので。単に「しとろん作品はバカ抜きゲーだけで済まされるものじゃない!」を、
主張するためなら「初恋タイムカプセル」と他しとろん作品をやるだけで、一発でわかる人にはわかるのですけど、そこまで持っていくには、やはりなんらかの評判が必要ですし。

そんな感じでしたので、この「妹スパイラル」が、確か一年ぐらいでしたよね、延期というか発売時期が行方不明になったのは。
僕もまた「初恋不発地雷カプセル」の二の舞になるんじゃないかと心配していたんですよ。別に「よくあるバカヌキゲーだから他スタッフで出しても構わない」とか上が判断したんじゃないかと。
その結果は、残響さんの仰るように全くの杞憂でした。何があってのこの延期かは知りませんけれども、結果的に今まで以上にシナリオが洗煉されていたのは事実で、
少なくともいつも以上に作品作りに時間を掛けていたんだなぁと妄想することが許される、完成度の高い作品になっておりました。
この「まかろんソフト」がいつまで続くかはわかりませんけれどもw、しとろんスタッフが3年に一作ぐらいのペースでいいので、作品を作り続けて欲しいものであります。

>あと、いつか申し上げようとしていて、先延ばしになっていたのですが、
自分のラブラブルの論考で、マルセルさんの論考をたびたび引用させていただきました
http://www.geocities.jp/modernclothes24/erg
とくに早瀬氏の「可塑性」は、まったくその通りで…というかフレラバでもそれはそのまんまで……。


読ませていただきました。いやぁ大変なモノですよ。よくもまぁ「初恋タイムカプセル」にあそこまで言及できるモノです。
僕も最初は嫌味ったぷりな長文を書いてやろうと2000文字ぐらいまで書きましたが、
そのあたりで「あー、でもこれを書いたライターさんも基本的にお仕事書きだろうなー」と思い始めたら、
何か急に虚しくって……ではなく!「ラブラブル」のほうですね。僕も基本的にヒロインの可愛さを描くのはあんまし得意じゃなくって、
基本的にはどのレビューも、作品の機能分析からヒロインの可愛さの軌道をシミュレーションしているようなものですから、残響さんの語りにも共感します。
アレですね。ヒロインの「可愛さだけ」を語ってしまうと、どうもそれ以外の要素というか、端的にヒロインの属性を並べて立ててしまうような感じになるのが、
僕的にはちょっと不満なので、なるべく作品全体との関連性をもって語ろうとしているという感じですか。ここらへんは、もっと細部の表現が上手い人なら、
もっと上手く語るんだろうなぁと改善を望みながらも、とはいえ、僕の出来ることはこれくらいしかないだろうという絶望感のなかで、のたうっている毎日であります。

ところで、上では「可塑性」とありますが、これは「遡行性」または「遡行的」の間違いではないでしょうか。取りあえず、僕のレビューの文のなかでは直接的に「可塑性」は使っていないとは思うのですけど。
ただ「可塑性」という言葉は「しとろん作品」を語るには結構良い感じのキーワードになるかも知れませんね。SMEEの「遡行性」と対照させればしとろん作品の味わいを上手く語れるかも知れません。

まずSMEE作品としとろん作品の共通点を考えると、そりゃまぁどちらもイチャラブ描写が良い!とか主人公が妙にノリが良い!とかヒロインのネジのハズレっぷりが良い!だのと、
表面的な共通点はいろいろ探れそうな気がしますが、もっと深いレベルで言えば「物語のテーマが直線的に発展して語られないこと」という点が挙げられるでしょうか。
僕が言ったSMEEの「遡行性モデル」というのは、そのようにも表現できますわな。つまり「物語というか日常描写の連続において語られることが、その物語の中で重要なイベントに発展し、
そのイベントの解決なり葛藤なりが作品のテーマなりキャラクターの重要な特徴を描写する」とでもいえるモデルではなくて「物語りや日常描写の連続において語られるものが、一つの事件に発展するようなことは少なく、
そうした日常描写のなかのなんらかのモチーフなり特徴を、物語の最後に「それは全て日常描写のなかで解決されていた」と言ったような形で表現するやり方。

それじゃあ、しとろん作品はどうなのか?というと、此方も直接的には物語は発展しませんけど、だからといって「遡行的」に表現しているわけでもないですよね。
しとろん作品の場合は、ヒロインが抱えているような問題というのは、その点わりと明確なんですよ。この妹スパイラルで言えば、霞空は「あいつは兄さんにみえない」であったり、
千風悠は「人間のこころがよくわからない」であったりと。ただ、しとろん作品が結構むずかしいのは、そのヒロインの問題に「でもそれってわりと仕方が無いことなんじゃないの?」的な、
まぁ現実世界で言えば妥当と言えば妥当な突っ込みがいつもある点ですね。例えば、凜火のような純粋な少女的ヒロインが居て、そう言うヒロインにエロ知識を教えて嗚呼なるのは問題と言えば問題ですけど、
じゃあ、ああいう凜火の「何が問題でどうすればいいのか?」と言われたら、こちらも答えに窮するじゃないですか。この妹スパイラル全体の作品テーマで言ってしまうと、
「別次元の兄さんと現時点での主人公が何が同じで何が違っていたり、もしかして同じなのか?」なーんて言われたら、真面目に考えた場合「そんなこと現実に起こりようがないんだから気にしても無駄だよ」みたいなに、
それが「考えても無駄なんじゃね?」という常識性を前提としながら、しかしそれでも「考えてしまうヒロインや主人公」を添えつつも、だけどそれを「シリアスな問題」にせずギャグ混じりの日常描写で語ってしまうところに、
しとろん作品の独特のおもしろがあると言える。マーラーっぽく言えば、生は暗く、しかし今日も御飯は美味しい!ってこりゃクレンペラーになってしまいますがw。

とはいえ、それでも、ヒロインや物語は最終的には「なんだかんだ合ったけど、最終的に自分は兄さんが好きだったんだ」みたいな結論になったり、いつもの日常に戻ったりするのが、大抵のしとろん的結末であります。
これを「可塑的物語り」というのも可能でしょう。つまり、外からいろんな力が加えられて、ゴムの人形みたいにぐにゃんぐにゃんに広がったりゴム玉にみたいに丸まってしまうけれど、
その「元の形からぐにゃんぐにゅんに歪んだりする」と「そのぐにゃんぐにゃんな形から、自然に体が膨らむようにふんにゃりと元の形に戻っていく」過程を描く物語と言った感じで、
ヒロインや主人公それぞれの個性や、或いはヒロインや主人公が元から持っていた関係性の「可塑性」を描いているとでも言えるでしょうか。だけれども、その可塑性は遡行的にしか見いだせず、
その可塑性を遡行的に見出している時点で、もう主人公やヒロインは少なくとも「元の形」には戻っていない、というのも妹スパイラルが語っていることのひとつですよね。
SMEE作品が「いつの間にか自分は変わっていた(救われていた)」と言うことを日常描写の中では明確に語らず、それを遡行的な形で最後に明確に語るとしたら、
しとろん作品は「いつの間にか自分は変わっていなかった(元から救われていた)と言うことを日常描写のなかで明確に語ろうとして失敗する(そりゃ理窟的には単純に変ですからねw)ことで、
何らかのかたちで主人公やヒロインが変わったことを示そうとしている、といった感じでしょうか。これは、今後とも考えていきたい論点のひとつであります。


>アーノンクールのバッハ演奏、というのは「ふふふふふ……」とニヤケました。
ふと自分なりに連想したのですが、アーノンクールの古楽器演奏で、「志はわかるけど、己のスタイルと「やり口」に固執しすぎじゃなかろか?」みたいに僕は思うのですが、
それは海原氏のある種の過剰性に似てはいないかと。世界観全然違いますが。


いやぁ、アーノンクールのバッハ演奏、という言葉がどれだけ通じるか結構不安だったので、反応してくれてありがとうごぜぇますです。
このレビューをかいているとき、僕は40度ぐらいの熱がありまして、こりゃアーノンクールを聴くのに絶好の体調だろうとおもい、アーノンクールのシューマンを聴きながらレビューを書いたものです。
アーノンクールと海原氏が似ているなぁと思ったのは、過剰性と言うのもそうですけど、全体の流れやシーンの構成を犠牲にしてまで、レガートとスタッカートを同時に演奏するような無茶振りというかある種の誠実さもありますね。
海原氏もアーノンクールも表面上はスタッカート気味にバッサバッサと作品を進めていきますけれども、そのテキストの切り方やフレーズの切り方は、妙にレガートちっくというか、
感情的な内容やエモーショナルな旋律部分を強調しながらも、それを滑らかに綺麗に独白的に語らずに、対位法的に処理したり滑らかな感情的な台詞のあとにイキなり大声でギャグを喋らせたりする。
これは「テレ隠し」と見えなくも無いし、実際そんな感じの台詞もありますけど、でも自分が妙に感情的または感傷的になった後に「いやそれってバカらしくね?」と思うような感情と理性が切り替わる瞬間っていうのは、
現実においてもそれなりにありますよね。そういう独白的な感情のズレや会話でのズレを「綺麗に流したり綺麗に纏めよう」とせずに、むしろそこらへんをこれでもかぁぁ!と追求したり、
声部と声部の衝突や混じり合いをグリグリとねじり込んで、それが異様な熱さや濃厚なイチャラブ空間を生み出しているところがアーノンクールと似ているなぁと。
そこらへんのズレを綺麗に流すのがカラヤンで、そこらへんのズレをミクロレベルまで解剖分析しながらも綺麗に描くのがチェリビダッケってことでしょうか。カラヤンタイプの名前を挙げるのは差し当たりがあるので、
チェリタイプはトノイケダイスケだとはいっておきましょうか。


>本当はもっともっと書きたいことがあるのですが、長文になってしまったので、ここで。
もしよろしかったら、お相手いただければ幸いです。
これからも、面白くも考察力甚だしいレビューを、楽しみにしています……とくに「どこでもすきして いつでもすきして」「魔法少女の大切なこと」をいつかいつか、みたいな感じでw


いえいえ、こちらこそ遅レスのうえ、好き勝手にいろいろ語ってしまい申しわけありません。
ときには2ヶ月後にレスをしたり、とんでもない方向から残響さんの文章を引用したりと、常識からずれた行動をするかもしれませんけど、末永く付き合って頂けると此方も幸いです。
「どこでもすきして いつでもすきして」は実質某ルートレビューになってしまうでしょうから難しいでしょうね。「魔法少女の大切なこと」はいつかレビューしたいと思っています。

それでは、この異常気象を讃えるような音楽を聴きつつ、残響さんにも僕みたいに体調を崩さぬようお気をつけて。

http://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=rq1q6u3mLSM#t=353
マルセル2013年10月17日

70KISS+100 KISS特区、始動せり (WINTERS)
天国の大気は神の奇跡を強く帯電しているので、自分が雷に打たれてもそれを笑っていられる覚悟が必要で。エロが生成される仕組みが分かる教科書的な作品だった(個人的に実用性が高かった)。 → 長文感想(3434)(ネタバレ注意)(4)
最新レスお返事が遅れてしまい、まことに申し訳ありませんでした。vostokさんと言葉をやりとりしていると、いろんなことを想いだしたり、話題に関係するまだ読んでいないまたは新しい本や読んでみようという、
怠惰な僕にしては珍しい能動性が甦ってしまうもので。まぁ夏の乾物状態の反動もあるとおもいますが、この一週間近くで本を13冊読破とかほとんど異常ですね。
まるで学生時分の次々から次へと読みたい本が見つかっていき、世界と知識は本当に広いものだなぁという知的陶酔気分を久しぶりに味わっています。しかもこういう調子の良いときにやるエロゲもまた格別ですね。
「知的陶酔と痴的陶酔はおなじ快楽の別の側面である」と言うようなことを誰かエロイ人が言っていましたが、賢者モードに入ったあと一時時間ぐらい本に熱中すれば何時の間にか下半身も回復しているわけで……
と下品なネタはこれぐらいにして本題を。あと補足のメールもありがとう御座いました。当該本は昔(といっても高校生ぐらい)のときに読んでもさっぱりわからなかったのですが、
今回話題になっている各種の本をある程度押さえてから読み直せば、その大きな文脈のなかで当たり所はつきそうかも……と勝手に期待しています。

>>僕の感想にコメントつけている暇があったらもっとエロゲーをやってもっといっぱい書いてください!と言いたいところですが、マルセルさんにとっては5000字や1万時の文章など一息で気がついたら書けているものでしょうか。

とのことですので、調子に乗ってまたレビューを書いちゃいました。まぁたぶんvostokさんはあんまし興味なさそうな萌えゲだと思いますが、昨今の萌えゲーにおけるイチャラブ重視の結果、
ほとんど物語展開が放逐しニマムな萌え描写を如何に効率よく配置するかを追求してしまった萌えゲの最南?端の有り様を知る上では良い作品なのではないでしょうか。
ここまで徹底的に物語展開を排除するとちょいWinters作品に似てくるのかなぁとも思いました。まぁとはいっても「小綺麗にまとめている」作品ではあるので、あんまし面白みはないかもしれませんが。
物語やらバランスが破綻していたほうが面白いなら、マインディアのほうが楽しめるかもしれません。最後の第五階層とか、エロ的にはぜんぜんダメだとおもいますけど、ファミコン時代の歪んだRPG世界の怖さは味わえますから

因みに、僕はそんなに文章を書くのは早くないですよ。まぁ5000字ぐらいだったら別に構成を考える必要はないので、テキトーにパーっとかけると思いますけど、
一万字を超えると、読んで下さる人のことを考えると「それなりの長さを読んでそれなりに得るもの」がないと失礼だと思うので、ハッタリかもしれませんけど、一応は最初から最後までの構成を考えて書いてるつもりですから。
しかも、僕の場合はレビュー書いている途中で「メーカーのカコ作品のアレって確かこんな感じだっけ?」だとか「そういやこの作品のこのエロしーんはよかったなぁ」とか、いろいろとどーでも良いことを思い出してしまい、
その度にレビュー作品をやり直したり過去作品をやり直したりしちゃいますからね。今回のラブクエもそんなこんなで、合計で半日以上は掛かっているんじゃないでしょうか。
まぁレビューの構成を考えて(実際はその計画の1%も満たない杜撰なモノになりますが)文章を書くのは嫌いじゃないし、レビューをしながら作品の面白さやつまらなさに新たに気づくのも嫌いじゃないので、
別に「苦」にはなってないんですけど、流石にこういうレビューを例えば一週間に一回ぐらいのペースで書くのはちょい辛いかなと思います。なんせエロゲをやる時間よりもレビューに向かう時間の方が長くなってしまう。
それに、僕は基本的に怠惰な人間ですから、たぶん「レビューを書かなきゃ書かなきゃ」ってふうに自分を縛り付けちゃうと、ソッコーでエロゲレビューなんてもーやめーたになっちゃうので(そうやってスパっと決めた方が良いのかもしれませんが)、
いまのペースでのんべんだらりんと続けたほうがいいのかなぁ、と、こんな自分に甘いことをずっと続けているから全く成長しないんでしょうねまったくもうまったくもう!
(っていう口癖の妹キャラが出てくる「さくらビットマップ」もわりとお奨めです。中古でいま2kぐらいなんで、軽い息抜きの萌えゲを求めているならソンはないでしょう)

>>僕は宗教教育を受けていたこともあって「ぱふぱふ」といわれても当時はイメージが貧困で下半身につながることもありませんでしたが、マルセルさんは昔から高度なプレイスタイルを身につけておられていて驚きです。

なんとそうですかっ! 僕は宗教教育などという高等な教育は受けていませんが(なんせ幼稚園の入園テストで「なにか好きな言葉を言ってください」との園長先生の質問に僕の答えが「ゲゲゲ」ですよ。もう悪魔に呪われてますな!)、
ウチの爺ちゃんがクラシックオタ繋がりでカソリックの牧師さんと知り合いで、しかも近所に教会があり、僕も子供の頃からブルックナーとかバッハは好きだったもので、入信はしませんでしたけど教会には随分よくしてもらったものです。
僕みたいな半端モノにキリスト教の教えを学ばせたら酷い異端信仰の虜になってしまうだろう!という配慮のおかげが、入信に誘われることも強い説教をうけたこともなく、まぁキリスト教の美味しいところだけを頂いてしまったようなものですね。


>>『ロシア宇宙開拓史』は面白かったですか。自分も必要になって買おうとしたんだけど、値段がえらく高かったので必要箇所だけ立ち読みして済ませてしまっていました。
先月プロトンMの打ち上げに失敗して、「ロシアがまた宇宙にゴミを打ち上げた」なんて現地の新聞にも叩かれていましたけど、
極東に打ち上げ基地を作ってもう一度宇宙大国に返り咲こうとしているらしいのでこういう本を読んでおくのもいいかなと思います。

いえいえ、僕が買ったんじゃなくって友人のSFマニアに借りました。コイツはSFマニアのくせに(ってどんな偏見かっ?)金持ち野郎でして「もしも何かのときのために買っておかないと」というマニア理論で、
ほとんど読みもしないSF本を大量に集めているマニア本出版文化の守り人のひとりですね。そんで「ロシア宇宙開拓史」が面白かったんで、隣にあった「ロシアの宇宙精神」そいつの家から黙っても借りてきちゃいました。
最初に手に取ったときは「ゲゲゲ。宇宙開拓史だけじゃなくてロシアの宇宙精神もあるのか。ロシア人恐るべし!」って感じのギャグネタでパラパラ捲っていたんですけど、なんか表紙を見たらフョードロフって名前が載ってるじゃないですか!
フョードロフと言えば、ロシア芸術だのロシア思想に関する本を読んでいれば、だいたいメタルスライムぐらいの確率で要所要所に登場し、そこでは一応それなりの人物著作紹介が為されるんだけど、
それだけじゃ正直ワケワカメたんであり、たぶん言っていることは電波オンリーだけど文体やらナマの迫力やらが凄かったロシア超人のひとりなのかもナー、と興味を頂きつつもスルーしていた人物です。
その人物の著作がほんの少しであれ、この本で翻訳されているといまそこで知って、ちょい興奮気味にこの本を無断で借りてしまいました。まだ前半の概要説明とフョードロフの項しか読んでいませんけど、これはすごい!

>そもそも聖堂は宇宙の似姿なのだが、現実にはもとの宇宙よりかなり低いものだとは言え、もとの宇宙より比較にならないほど高い意味をもっている。聖堂の意味は、それが宇宙のプロジェクトであって、
そこではもとの宇宙で殺害されたすべてが蘇生させられ、蘇生させられたものすべてが、かつて盲目であった生物の意識となり、この生物に統御されるものとなるということにある。どんなに巨大な聖堂でも、
それがあらわしている宇宙と比較すると、無に等しいほど小さい。だが、この無に等しいほどの大きさのなかで、死すべき有限の生物は力を尽くして、無窮無限の彼方、深淵、そして広がりを描き出し、
盲目の自然のなかで一瞬の間だけ生きるものすべてを、そのなかに住まわせようとしたのである。この束の間の存在を人間は一日だけの復元に変えたのだ。なぜなら、復元されている期間が短ければ、
それだけそれはおおくのものを含み、容量は後代になり、過去の全体をいれることができるからである。人の子は無限さ、強さ、生命を、聖堂のなかで彫像、絵画、そしてイコンとして表現しようと努めた。
音を用い、言葉を用い、文字を用いるようになった。ついには、生きている自分自身のなかで、死んだものたちを描き出すようになった。こうして共同の祈りが聖堂の勤行となったのである。
(フョードロフ「科学と芸術の矛盾はどのようにして解決できるのか?」より)

http://www.youtube.com/watch?v=lfrz2PlqfaI

思わずブルックナーの長大なアダージョ楽章が頭のなかで鳴り響いちゃうような広大なスケールの文章ですよ。いやぁもちろん原理的には原文を読む必要があるんでしょうけど、
たとえ翻訳でも他人の紹介文ではなくて「元のテキスト」に当たる必要を忘れちゃいけませんね。うえの引用部分を一瞥しただけでも、このフョードロフって人がタダモノではないことはすぐに理解できます。
天上への上昇のイメージと地上への下降のイメージを対比させながら論述を進めるのは、まぁキリスト教神秘主義テキストのの基本的戦略でありますが、うえの文章はあくまで淡々と論理を積み重ねているだけなのに、
そのロジックとイメージの連なりがまるで聖堂にひとつひとつ石を積み上げていき確実に天上の目的に近づいていくような揺るぎなさを読者に与える。
フョードロフの議論(って言ってもこの翻訳だけじゃ全体像はよくわからないのですが)に賛成するか反対するかはさておくとしても、これはおおくの人間がついつい耳を傾けてしまう類の凄まじい感染力がありますね。
どうやら、このロシアの宇宙精神とおなじ著者の「フォードロフ伝」も翻訳されているらしいので、そっちもそのうち読んでみようとおもいます。

>>極東といえば、ロシアは自分たちだけでは効率よく発展させられないので、最近は北方領土での共同開発を日本に呼びかけています。経済開発はガスプロムや某物産などに任せるとして、文化振興にはぜひともWintersに参加してほしいですね.

そういえば随分前に自分のお勉強用の本で「ロシアの新戦略」って本を買ったなぁと思い出し、

http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/486182379X.html

これを切っ掛けに読んでみました。ああ、なるほどねぇ。プーチンも結構苦労してますねぇ。日本の報道だとなんか冷静沈着なプーチンがガスプーチンと化して元ソ連地域を痛めつけている!みたいに言われがちですが、
いやそれは半分ぐらいは当たっているっぽいですけど、そのまわりの周辺各国も別に善人の被害者ではなく(まぁ国家間の喧嘩のとばっちりを喰らう民間人は被害者でしょうが)、
ガスフロムに外交カードを使ってさんざん値引きを引き出しておきながら、まえの約束を守れとロシアがいうと「えー、ぼくそんなの知らないなぁ」とフツーにシラを切っちゃう踏み倒し野郎も結構多いみたいですね。
ロシアもロシアで露骨に政治干渉して露骨な傀儡政権作ろうとして(しかも失敗してやんの)いるから、ここらへんは五十歩百歩だと思いますけど、まぁ別にロシアが世界征服を企む覇権国家だ!みたいな話は単なる誤解で、
内実は周辺各国の外交でいろいろコケたりたまには成功していたり、結構深刻な住民問題を幾つか抱えてその処理に手間取っているとゆー、良くも悪くもいろいろ大変な大国であることが何となくわかりました。
そして、極東地域で日本と共同開発を望んでいるというのも、この国内事情を知れば「そりゃ日本以外に組む相手はいないよなぁ」とはわかります。ヨーロッパ方面または中央アジア方面に今後いろいろと勢力を拡大するよりも、
シベリア耕して太平洋方面を繁栄させたほうがリスクは少ないでしょうね。そのシベリアもロシアの意向とは別に着々と中国の勢力圏に入りつつあって、ここは日本と手を組んだほうが良いというか、日本と手を組む以外にベタな方法は無い。
ここらへんのロシアの事情がもっと日本でも広く伝われば、ロシアとの交渉も口を開けば「北方四島早く返せ」(これを主張するのは良いとしても)で終わるんではなく、もっと広い長期的な視野で日露問題を捉えることができて、
そして、そういう視野に立てばロシアと日本はもっと協力できるところを簡単に見つけられるハズなんですけどね。北方四島問題さえなければ、日本とロシアの外交問題はお互い、他の曲者揃いの周辺各国に比べたら無きに等しいのですから。
まぁ我らエロ助ロシア支部としては、まずはエロゲ業界で「ロシア人キャラ」を流行らせる地道な活動から頑張りましょうか。個人的に期待しているのは、来年あたりに発売予定のこのソフト

http://www.getchu.com/soft.phtml?id=753363&gc=gc

の、ソフィーヤ・アレクセーエヴナ・フェオファノワというロシアっ娘に期待しています。しかしこの副業が声優といった設定を見るとついつい、
「ウルップ在住の日本オタクのロシア人で、海○版エロゲのロシア語吹き替えを行いその界隈で絶大な支持を得ている。こんかい日本のエロゲオタクの正しいオナニーの方法を学ぶために日本にやってきた。チュパ音でイクのは邪道なのか?」
みたいなシナリオとキャラを作れば絶対に話題になるんじゃないかとバカなことを考える僕には、ちっとも日露友好のために役に立たなそうですねハイ。もちろんラストはふたりの愛の力で日本列島とカムチャッカ半島が感動の再会ですっ!
最後に、こんなバカな文章を読んでくれたvostokさんと、奇特なギャラリーのためにシベリアのオーケストラでも紹介しておきましょう。シベリアあーんど極東北方地域こそ、これからの世界の文化の最先端だぜっ!

http://www.youtube.com/watch?v=ZRAqTliiEYw&feature=youtu.be
マルセル2012年10月03日

70KISS+100 KISS特区、始動せり (WINTERS)
天国の大気は神の奇跡を強く帯電しているので、自分が雷に打たれてもそれを笑っていられる覚悟が必要で。エロが生成される仕組みが分かる教科書的な作品だった(個人的に実用性が高かった)。 → 長文感想(3434)(ネタバレ注意)(4)
最新レス>>Kiss x 500は時々思い出しては進めしているうちにもう3年くらい経ってしまい、選択肢が多すぎてどのヒロインを攻略しているのか忘れてしまい、
>>いくらテクストが面白くてやるたびに笑わされることがあっても、さすがにテンションが落ちてしまいそろそろ攻略際を見ながら一気に終わらせようかと思いつつも、
>>抜きゲーを攻略サイト見ながら一気に終わらすのは空しいので躊躇っているうちに放置扱いになってしまうのと比べると、

「ってアンタ結局まだコンプしてないんかい!」と言いながらも「いやまぁ僕もコンプしていませんけどね!」と同意ツッコミからお久しぶりでございます。
いやぁ、Wintersの作品はそういうプレイをしても全く気にならないというか、はやく続きをやらなきゃ!とか兎に角作品を終わらせないと!とセコセコした感情を刺激しないのが良いですよね。
そういう積み話で言えば、つい最近「ロシア宇宙開発史: 気球からヴォストークまで」という本を読みまして、

http://www.amazon.co.jp/dp/4130611801/?tag=hatena_st1-22&ascsubtag=d-czvs

これは素晴らしい本だったなぁ……でも、何か忘れているような……と三日間ぐらい考えた結果、そういやvostokさんからお奨めされていた亀山ロシア音楽本まだ読んでねーやと6ヶ月ブリにその事実に気づく始末ですよ。
確か三月のコメントを頂いた時点で、次の日には本屋に向かった記憶はあるんですが、本屋でパラパラ立ち読みした感じでは、ロシア音楽の初心者向け用の解説口調のページと、
もうお前らショスタコの交響曲なんて全部聴いているよな?って感じのマニア前提のページの口調がまるでバラバラで、どっちつかずの中途半端な本だなと思って買うのをやめた記憶があるんですが、
昨日あたりに近くの図書館に行ったらちょうどその本が置いてあったので一応真面目に最初から読んでみますた。うーん、まぁそういう全体の構成がどーとか、ラフォルジュルネの広告本とか言っているけど、
これで(一部の変態的な音楽ファンは兎も角として)一般の客は付いてくるのか?といった疑問を全てブンなげれば非常に面白い本だとおもいました。ヴェデルニコフのCDのライナーノーツの文章は、
こういう新即物主義を極めた「神」即物主義演奏を拷問の如く延々と聴き続けていると頭が麻痺してやがて恐悦の時を迎えるのだ!といったような、警視庁薬物科の人が見たら即座に逮捕しにいくような文章でしたけれども、
ヴェデルニコフの全く物怖じしない(即物主義演奏っていうのは、いくらクールにやっても「オレはクールにやっているんだ!」みたいな熱が籠もっちゃいますからねぇ)演奏の特徴を捉えていて感心しました。
スクリャーピンを語ったページも面白かったですね。後期作品のスクリャーピンの神秘思想の「痛さ」を的確に語りながらも、ページの締めに「しかしわたしにはもうインスピレーションが残っていない」と書いて、
「お前もスクリャーピンと同じでインスピレーションが枯渇したのかよ!」と即座に突っ込ませるこの技術は並大抵のものでありません。他にもラフマニノフの項だけは、もう完全にオレオレセンチメンタルで押し通したりと、
まるで20世紀初頭の伝説の巨匠系ピアニストを彷彿とさせる、まるでボケ老人の如く予想の付かないバッションとロジックの連続に笑いを止めるのに非常に苦労したものです。とても面白い本を紹介して頂き、ありがとう御座いました。

まぁ余談はさておき、このKiss+100のレビューは、少なくとも僕にとっては非常に参考になりました。vostokさんは「本質的には抜きゲーなので、無駄に力んだ感想を書いて恥を晒すことになるといういつものパターンになった」と、
ご謙遜なさっておりますが、アカ恥の数ならエロ助一だぜ!を唯一の自慢とする僕にしてみれば、このレビューはとても立派なものだと思いますよ。だいたい、Wintersの作品を抜きゲーとして楽しんでいる人はそりゃ大多数でしょうが、
「普通の抜きゲと楽しんでいるよ」と答えるような人は、そもそもその人自体がWinters世界の住人に等しい人間なわけでして、Winters世界に憧れながらも、しかしWinters世界の住民ではないvostokさんのような理性溢れる人が、
Winters世界の魅力を普通の人の言葉で紹介しようとすることは、とても意味のあることだと思います……と、ここまで書いておいてアレですが、

>>北海道の東威子府村でイスラムというのはやや唐突かもしれないけど、どちらも荒涼とした風土ということを考えればそうでもないのか・・・。
>>といっても、よく見ると背景は自然公園みたいなところもあり、星などは気味が悪いほどにくっきりと見えたりして、それなりに風光明媚といえなくもないのがありがたい(あまりに汚いところだと性欲もなくなる)。

こういう文章をサラっと書いてしまうvostokさんは、やっぱりどこかにWinters世界の遺伝子を持った超人なのではないかという疑問も巻き起こったり。
問題なのは最後の()の文章ですよ。この(あまりに汚いところだと性欲もなくなる)という感性は、少なくとも僕にとっては「こりゃ凄いことを言っているなぁ」と思わせる発言です。
この前やった「おたマ!」というエロゲの体験版の、いいなって銀髪オカルトロリっ娘のエロシーンで、晴れた日の公園でいきなり「今日は天気が良いからせんせいとエッチしたくなったの」とか言いだすんですよね。
その発言もなんか凄いなぁ(曇りの日だから近親相姦をしたくなる兄妹とかいるんだろうか?)と思いながらエロシーンを進めると、そのいいなちゃんがエッチの途中でとつぜん「わたしをつかまえてごらんなさーい」と逃げだし、
いいなちゃんを追いかけた先には公衆便所……とまぁその先の展開についてはネタバレなんで伏せますが、そのなんつーかロジックではなく感性だけで性欲をさりげなく説明してしまうところが、
しかもその感性がロマン主義的もしくは近代的な暑苦しくさからは一線を画していて、まさにWinters世界の住民のような瞬発性を持って語られているところが、vostokさんの文章のすげぇところだと思います。
あと、これは別のゲームのレビューになってしまいますが、ときどきサラっとみんなが言わない(言いにくい)事実を言ってのけるあたりもすごいですよね。たとえば、

>>ファンディスクは登場人物たちに対する製作者の愛情を前提に出来ており(ファンなのはユーザーというよりはむしろ製作者というか)、それを共有することがユーザーにも求められるという面があると思うのだけど、

これは実に鋭い指摘だと思います。ぼくがこういうことを書くとついつい嫌味口調になってしまうのですけれども、ファンディスクがまず「商業的」ある程度成り立つ為には、
それはある程度の売り上げと、ある程度のユーザーの評価が必要になるわけですよね。これはいっけん「ユーザーがファンディスクを求めている」ようにみえるし、実際はユーザーもファンディスクを求めているでしょう。
ただ、この事実とvostokさんの上の指摘はぜんぜん矛盾しない。むしろ深いところで繋がっている。ユーザーもファンディスクを求めている、そしてそれがメーカーにもわかってFDを出せるとわかったときには、
すなわち「製作者」は自分たちの作品がユーザーにもかなり支持されたと自身を持つハズです。少なくとも「この作品が売れるか支持されるかはわからない」というFD無しまたは前編なしの本編よりかは自信を持つでしょう。
そして、その自信は「実際にユーザーがその作品を支持する理由」とはわりとズレていたりする。それはメーカーが多少は舞い上がってしまっているからかもしれないし、作品を熱狂的に支持するひとが明確な理由を述べないせいかもしれませんが、
理由はどうあれ、そのFDは名目上は「ファンのために」作られるし恐らく製作者の本心からいっても「ファンのために」作っているのかもしれませんけど、
実際に出てきたモノは「製作者たちが本編で素晴らしいと思っているモノをさらに凝縮したり、本編ではかけなかったものを煮詰めたような」場合によっては、本編のファンでもえ?と思うようなモノが出来上がってしまうんですよね。
それが失敗した場合には「ファンディする」とか呼ばれちゃうわけですが、vostokさんの指摘はそこらへんの事情を鮮やかに説明しているように思われます。実際、WintersのFD作品が出たらトンでもないものが出来上がりそうですもんねぇ……

>>ヒロインたちは、繰り返しになるが、みんな可愛くてえろい。設定で時間的な厚みをつけたりせず、基本的に驚きと喜びと不安と官能の極点の間を野蛮なほどのスピード感で行ったりきたりするような状態にあるので
(テクストが説明するテンポよりも速く服が脱げたり、第2のヒロインが部屋に乱入してきたり、夜が明けたりする)、寝取られシーンでは積み上げてきたものが崩れ去るような喪失感はなく、
偶発的に隣りにいた人エッチをしていたという、僥倖としてのエロさというか、説得しようとしない、暴発としてのエロさというか、そういう突如現れたエロさがその場を支配して駆動することにこちらも押し流される心地よさがある。
そういうエロさは寝取られシーンだけのことではないのだけど、寝取られの背徳感は特区が設定するルールの背徳感とつながるところがある。
エッチが発生するのは主人公の怪物的な振る舞いだけが原因ではなく、ヒロインも自らそういう磁場を発生させられるエロさをもっていることがわかって嬉しいというか、
しかしそれはやはりおビッチなヒロインではダメで、自らそういう場のエロさに驚くようなヒロインでなければならないというか。

まぁ僕はまだこの作品をやっていないので、基本的には作品内容については論評できないのでありますが、Winters作品の特徴をじつによく捉えた文章だと思いました。
設定で時間的な厚みをつけていないのもそうですが、基本的にWinters作品にはそれこそブツ切り気味のエロゲに比べても、そもそも始めから通常のフィクションの時間感覚を想定して書いてませんよね。
それは別に過去から未来への時間進行が混乱しているとかそう言う話でなくて、単に「これこれこういうことがあったら、この現象や行動や発言はこうなっているのだ」といった時間的因果関係をあんまし使っていない。
だから、そもそも寝取られシーンがWinters作品のなかで起きたとしても、それはユーザーのメタレベルから見ても、そもそもヒロインはオレのモノだと思わせる物語的因果が作中には含まれていないのであるし、
それは作中のベタレベルからみても、ヒロイン達は概ね主人公を好いているかもしれないけれども、しかし基本的に主人公と普通の恋人関係にないのだし、普通の恋人関係が前提とする(だから寝(取られる)、
お互いの身体または精神の独占関係といったものはあんまし重視されていない。でも、だからといって、主人公またはヒロインがビッチというわけではないんですよね。
僕が言うと非常につまんない言い方になりますけど、彼らはたんに彼ら自身のルールと論理に基づいてまぁ恋愛という言葉が正しいかどうかはさておき、強いていえば繋がり合っていて、
その繋がりは時間的因果関係で説明できるような論理や感情の「積み重ね」ではなく、あくまでその場その場で発生する僥倖または暴発的なエロによってのみ表現される。その後腐れの無さが時として非常に心地好かったりする。
なんだかんだ言っても、エロゲといえども所詮近代的な価値観を前提として萌えだとかネトラレとかやっているわけで、まぁその最たるモノのクラシック音楽なんぞを愛好している自分が言うのも自己欺瞞極まりないですが、
とはいえ、そういうものを続けていると、どこかでもう「勘弁してくれよ!」と言いたくなるときがある。そういう時にWinters作品は実に良いですね。まさに自我から遠く離れたところにある「僥倖」を実感できる。

>>律儀に抜きゲーを作り続けている。xシリーズのほうは個人的にはエッチシーンのボリュームにシナリオパートがついていけていなくて単調でバランスが悪いと思っているので、
>>抜きゲーとしての最適化はこの+シリーズで続けて、xシリーズでは何かエロ以外の部分で思い切ったことに挑戦してもらえないかと期待。

そうですよね。僕も平井氏の作品はあまり抜きゲを意識しない方が面白いと思います。まぁそれは僕が抜きゲをあまりやらない(単に性癖が合わないという理由ですが)ので、
それらのジャンルを軽視しているせいなのかもしれませんけど、この人は変に「エロに凝ろう!」と思って作った作品よりも、「感覚の鋭い牙」みたいなどこを狙ったのかよくわからない作品のほうが抜群に面白い。
まぁ平井氏の不幸は「狙ったような作品」を作ってたくさん売ることは出来ず、取りあえず一定の売り上げが見込まれる抜きゲジャンルに留まるしかないということだと思いますが、
+シリーズで取りあえずは売り上げを確保しつつ、xシリーズでは何かエロ以外の部分で思い切ったことに挑戦してもらえないかと期待というのは僕も真に願うところです……と、こう書いて適当に締めようと思ったのですが……

>>ギズモはまだそういった常識も背徳感も知らないような子供だったから。でも平井先生が書けばやっぱりエロくなるのかもしれない。xシリーズで元長・藤木コンビとコラボして、人間と怪物とエロスについての壮大なゲームをぜひ・・・

いったいそんな作品だれが買うんですか!と思わずツッコミを入れてしまった僕をお許し下さいませ。まぁ僕はたぶん買いますけどね。それにWHITESOFTのタイトルをそのまんまWinters作品のタイトルにすると、
確かに人間と怪物とエロスについての壮大なストーリーが展開されそうな感じがするのも事実であります。『運命が君の親を選ぶ 君の友人は君が選ぶ』というなんだかよくわからんタイトルも、
メーカーWinters、作者平井次郎というふうに変えてしまうと、まさしくYU-NOに匹敵する壮大な神話的近親相姦ドラマがちっとも描かれずに、四畳半で性交に明け暮れる父娘の狂った日常を神々しく書いてくれるに違いありませんっ!
マルセル2012年09月22日

79Coming×Humming!! (SAGA PLANETS)
ハニカミよりもエロくて、かみぱみよりもコンパクトで、この中では一番立ち絵が微妙にショボかったりするのが、このComing×Hummingことカミハミである。複数ライター&複数ゲンガー作品ってことで、原画家によって塗りが違ったり、攻略ルートに攻略ヒロイン以外が殆どでなかったりと、表面的な統一感が全くないのが球にキズだが、個別ルートシナリオでみるべきヒロインは多い。美海シナリオはキャラクターと声優の嵌り具合が異常だ。まるで初めてエロゲボイスを聴いたときのような新鮮な気分で、のめり込むように声に聞き惚れがら一気にプレイしてまった。シナリオもエンディングへと緩やかに加速する物語の上昇が快く、安心して読める内容だ。鈴香シナリオはダメ主人公シナリオと見せ掛けた、正統派的な幼馴染シナリオ。露骨に屁タレな主人公が幼馴染を鈍感に泣かすシナリオに苛々しちゃう人は、この作品をやって是非に癒されてほしい。 → 長文感想(10276)(ネタバレ注意)(5)
最新レス>>imotaさん

どうも、ご無沙汰しております。お返事が遅れてしまい大変申し訳ありません。個人的には18世紀半ばぐらいの活版印刷が発達した時代ぐらいのコミュニケーション速度がいちばん丁度良いんじゃなねぇの?と日々クレンペラーの如くローテンポな生活
に送っている身としては、ツイッターやらで何分単位で情報のやりとりをしている皆さまを見ていると、人類はどこまでCPUの周波数を上げれば気が済むのかと溜息が漏れるばかりであります。まぁ、こんな遅漏れエロゲオタクですが(なんせエロゲで
セックスするときには二時間ぐらい掛かりますかねぇ)末永く付き合って頂けると幸いです。

>>正しくは「imotaの汚い上履きを何故か借りることになったX氏の残り香を求めてくんかくんかするimota」だと思います。
>>ああでも謙虚なサリエリたる俺様が「俺の尻をなめろ」とモーツァルトなX氏に下克上するのは倒錯的で興奮しますねごめんなさい。

サリエリってなにか名前からしてNTRキャラっぽいですよね。モーツアルトほどの才能はないけど、同時代の人間の中ではモーツアルトの真の才能を見抜いていて、モーツアルトに嫉妬できるぐらいの能力は持ってしまっているぐらいの惨めさがNTRキャラっぽくっていいと思いまする。しかし、imota氏とX氏が同じ学園に通っているという設定は、マジでエロゲ化出来そうな感じがしますね。ここエロ助の有名レビュアーを、それぞれのレビュアーのファンの人に彼らをヒロイン化した原画を描いて貰って、エロ助チャリティーエロゲみたいなものを作れば結構逝けるかもしれません。彼の高潔たるX氏には七尾氏あたりに書いて貰えば雰囲気ピッタリでしょう。imotaさんは……うーん、朝青龍とか?

>>つまり、マルセル氏も萌えゲの桃源郷に浸りつつ、ディスプレイという絶望的な距離によってヒロインの桃の香りが遮断された現実を知り、しかし総合エロ芸術たるエロゲの限界を超えようと悩み、

しかし僕はNTRゲは詳しくないんですけど、そのDVDが送られてくるっていう設定はなにが良いんでしょうかねぇ。わざわざ律儀にハメハメしているところの映像を送りつける相手も相手だし、わざわざそれを見るほうも見るほうじゃないのかなぁと。
いや別にNTRゲを馬鹿にしているわけじゃないんですけど、あんまし興味のないエロシチュは冷静に見ちゃいますからシュールに感じちゃいますね(抜きゲのタイトルとかもそうですよ。「不良にハメられて受精する巨乳お母さん」とか、どこら辺がそんなにクルクルなのかようわかりません。これが「ナマズに舐められて出家する貧乳女教師」ならどうなるんでしょうか?)。って余談は兎も角、本題に入りますと、僕はエロゲをやるときにはPCに特殊プロジェクターを接続し、そんでそれをお風呂の水面に投射しますので、お湯に潜ればらくらくと画面の中に入ることが出来ますので問題ありません。水中から映像の裏面を見れば貧ぼっちゃまよろしく、ヒロインたちのハイレグパンツ状態のアナルを視姦することも出来ますし、みなもにゆらゆらと揺れるヒロインたちに目掛けて熱きセーエキを水中でぶっ放せばティッシュの手間も要らないし、お湯の温度も温まるので非常に経済的であります。スクリャーピンあと100年あとに産まれていればもっとバカなことが出来たのに、非常に残念であります
ね。。

>>マーラーやプロコフィエフというよからぬ音楽に手を染めてしまったのだ。

此方は一応真面目に答えますが、エロゲじゃなくって現実の糞ムカつくニュースやら野田首相のドヤ顔を見たりしたあとには、やっぱりマーラーやプロコの音楽がいちばん良いですね。特に311から一ヶ月後ぐらいは、ほぼ毎日彼らの音楽を聴いていました。なんつーか、現実が悪い冗談になっており、しかもそれを悪戯にひた隠そうとポポポーン!なポジティブさが席巻しているときには、彼らのよからぬ音楽が現実のBGMとして笑えるほど耳に応えてきました。ちょうど原発がメルトダウンしている
最中(そのとき現実は「日本の科学技術力は世界一だからメルトダウンなんてあり得ない!」とかいっていましたねぇ)に聞いていたのがチェリのプロ五番でして、いやぁエロゲにもああいう作品があったらいいと思うんですけどね。何の皮肉も嫌味も批評もなく、全世界の人間が一気団結して歓喜の声をあげながら凄まじいカタストロフィに突入してハッピーエンドみたいなヤツ。まぁ最近はまっているというかよく聴くのは、ベトたんの「ディアベリ変奏曲」でしょうか。この作品、随分前から敬遠していまして、というのもまぁベトたんの後期作品はかなり好きな方なんですが、このディアベリは率直に言ってワケわからねぇと申しましょうか、変奏曲マニアのベトたんがディアベリに対して「お前のクソみたいな主題をオレサマが好き勝手に弄り回しってやったぞハッハハハ感謝したまえ」と高笑いしているだけなんじゃねーのとテキトーにスルーしていたんですけど、マリア・ユージナという、まぁこの人に関してはたぶんvostokさんのほうが詳しいのでしょうけど(なんせパステルナークのマブダチでショスタコの師匠ですぜ)唯一、スターリンに真っ正面から逆らって生き残った伝説のピアニストがいます。彼女のショスタコのソナタのCDは高校生の頃から愛聴していたんですが、その他の録音はいかにもソ連製って感じの粗悪な録音が耐えられず、半ばシカトしていたんですよね。でも、最近、彼女の演奏を纏めてきく機会がありまして、特にそのディアベリの演奏を聴いて、これってひょっとしたら凄い曲なんじゃないの?と遅まきながら感心した次第であります。幸いなことに著作隣接権がきれているので、全曲版のリンクを張っておきましょうか。

http://www.youtube.com/watch?v=mJ0ofaeREuo&feature=BFa&list=PL64F1F92483B0C9B6&lf=results_video

これを聴いてからアウラだのソロコフだのいろいろと聴いている最中でして、まだ曲をある程度掴めたとも言い難い状態ですけど、しかしこのユージナたんは凄いです。「解りにくい曲はロシア人の演奏家に任せろ!」は鈴木氏の名言ですが、まさしくユージナたんはこの曲を完全に自分のものにしちゃって、聴き手になんにも疑問を抱かせることなくこの難物を、形式的に言えば一種の幻想曲のように聴かせてしまっているんですから。しかも、これが戦前のピアニストにありがちな、「ロマンティックな解釈」のように、やたらに感傷的なタッチになったりだとか、不自然にテンポを弄りましたりするような、演奏家の主観的な解釈を強く感じさせないところもなかなかに凄い。いや、もちろん「客観的な解釈」がどーこー言えるほど、僕はこの曲を聞き込んではいないんですけど、このユージナたんの演奏は「わたしがこう感じたんだからこのように弾くの文句ある?」っていうタイプの解釈(強いて言えば同年代のエリー・ナイとか)じゃなくって、曲と演奏家の間のそういうスキマを感じさせない「私は単にこの曲を弾いているだけだ」といったような、作品の核心に向けて脇目を振らず一直線に突き進んでいく芯の強さが素晴らしい。ベートーヴェンなんてシャラ臭くて聴いてらんねぇ!、というのでしたら、リスト編曲のバッハとか、モツのピアノ協奏曲あたり(これはかなりロマンティックにやっちゃってますが)が比較的音質が良いし、ホロヴィッツからリヒテルそしてウゴルスキまで、ロシア人ピアニストの必殺技であるところの展覧会の絵の魔改造演奏もご期待に敵うものと愚考します。もし、宜しければご試聴くださいませ。

http://www.youtube.com/watch?v=RxIBmbLJfv0

http://www.youtube.com/watch?v=5Wkv3tf3laI

http://www.youtube.com/watch?v=JI3HCVVajKU&feature=BFa&list=PL02BBE4BFA7B15828&lf=results_video





>>とまあ無理筋でクラシックな話題にして、スナイパーでの吉田秀和特集はマルセルさん的にどうだったのかなぁと聞いてみるテスト。

うーん、僕としてはわりと素朴に読んだといいますか、全体的にレベルが高いなぁとは思いましたね。わりとどうでも良い個人的なことでありますが、
中学生の頃に確か吉田氏が敗戦後すぐぐらいに書いた名曲300選を読んで、敗戦後すぐにショスタコ5番の正体を的確に言い当てているを見て、
評論なんて所詮はその当時の典型的なイデオロギーを尤もらしく言い換える欺瞞的な手段に過ぎないんじゃないか?とこれまた典型的なシニカル厨二病を煩っていた僕が、
世の中にもスゲぇ人はちゃんといて正体を見抜くものだなぁと偉く感心した覚えがあります。しかし、よくよく考えてみると、スナイパーの記事にもあったように、
吉田氏も戦時中は文化統制のお仕事――まぁ日本の文化統制は中国やらソ連やらナチス、いやアメリカに比べても随分ヌルイものでしたがだった(そのヌルさにはポッポポーン♪的な気持ち悪さがあるにせよ)――
をやっていたから、「強制された歓喜」みたいな感覚は普通の評論家以上に敏感だったんでしょうね。ロジェベンはまぁ仕方がないにしても、ムラヴィンスキーあたりの演奏家の評価が低いのもそのあたりが原因でしょうか。
むろん、だからといって吉田氏の批評家としての見識になにか泥を塗るお話にでもありませんが、まぁ吉田氏も時代の影響を受けた一人の批評家だったんだなぁと改めて認識した次第であります

>私的には、吉田秀和氏があそこまで敬して遠ざけられる立ち位置とは思っておらず、肩透かしながら腑に落ちたというか。
>>まあ私は素朴なんで、「マイナーだけど傑作じゃね?」という曲を落ち穂拾いしてくれた氏に対して勝手に同士扱いしちゃう的なー。

そこらへんの立ち位置の微妙さが「吉田秀和はそんなにエラいのか?」という、許氏の言葉を借りれば低脳を装った邪悪なタイトルをつけた理由ではないでしょうか。
特集の中にもありましたけど、個人に向けてアンケートを送れば「そんなに興味がない」とか「あんまし読んでない」とか、そこまで「敬して」いないコメントがわりとフツーに返ってくるんですけど、
なんといいますか「論壇的」というほど僕は論壇に詳しくはないんですが、そういう業界内部の不文律コードでは吉田氏について言及するのが、なにか躊躇われるような空気があるのは事実でしょう。
で、しかもそれには、個人の中には特に深い理由はないんですよね。普通に気軽にアンケートを送るとわりと気軽に返ってくる。でも、それが論壇だとか、まぁそういう共同体内部に入ってしまうと、
たんに「みんなが気軽に言及していないから」という理由だけで、それが不文律コードになってしまうという恐ろしさがある。だから、たぶん個人個人の感覚で言えばimotaさんのいうように、
あそこまで遠ざけられてはいないし、わりとimotaさんのように素朴に読んでいる人は沢山いるのでしょうけど(この前なんか村上春樹が吉田氏のシューベルト評論を絶賛しているのを見ましたし)、
それが何故かある共同体の中に入ると「吉田秀和がそんなにエラク」なってしまうところに、吉田秀和氏本人の問題ではなく、それを取り囲む共同体内部のほうに問題があるとは思います。
しかし、それもこの吉田秀和特集がでることによって、わりとあっけらかーんに変わってしまって、空気変わったから即言及可能みたいになってしまうところが、これまた面白いというか日本のあっぱれなところではありますが。

>>だってネット環境のない当時、ほんの二言三言の同意を得るために図書館を徘徊とか当たり前でしたもの。

あとはまぁ、いささか大仰な言い方になりますけど、そういうある種の権威のある批評家の存在が、この先どうなっていくんだろうなぁというのも大いに考えさせられました。
一昔前の僕はわりと許氏に近い考えを持っていて、批評家の権威なんてもはやゼロに近いし、この先も復活することはないだろう、とは思っていましたけど、
どうもここ最近は考えが変わってきてまして、人間はそう簡単に都合良く「衰退」しないし「動物化」もできないだろう、だから悪い方向でも良い方向でも、いや九割方は悪い方向で、
批評家の権威みたいなモノがある種の悪い冗談みたいなかたちで復活するんじゃないかなぁと考えたら、それはそれでちょっと怖い思いがしたのは事実です。

別に吉田氏のテキストが時代遅れだとか、そういうことを言いたいんじゃないし、少なくとも日本の批評に興味がある人なら吉田氏ぐらいは読んで欲しいとさえ思うんですけど、
知り合いのディスクユニオンで働いている人が、この前大学生ぐらいの男の人が、吉田氏が推薦したCDのリストをずらっと持ってきて、これ全部持ってきてくださいとか頼んだそうな。
いや、別にそういう権威に頼るのが良く無いだとか、ちゃんと全部新品で買えよwってツッコミ以前に、未だに吉田氏の推薦版が推薦版として機能してしまっていると言うことが、
僕には結構グロテスクな現象に思えます。まぁ情報化が進めば進むほどその反動として、人はある種の権威に頼らざるを得ないわけですし、別に情報化が進んでも日本の原発は絶対に安全だったんですから、
情報化が進んだところで、世の中大してかわんねーだろwっていうのもあるんですけど、それでも多かれ少なかれ変わるものはあって、昔の権威は今の時代では上のようなグロテスクな変化を被るかもしません。
そう考えると、ネット環境がなかった時代はわりと牧歌的だったのは事実でしょうね。imotaさんのエピソードは、僕が一日かけて3000円もするCDを毎月選んで買ってもらっていた小学生の時分を思い出させてくれます。
マルセル2012年03月08日

79Coming×Humming!! (SAGA PLANETS)
ハニカミよりもエロくて、かみぱみよりもコンパクトで、この中では一番立ち絵が微妙にショボかったりするのが、このComing×Hummingことカミハミである。複数ライター&複数ゲンガー作品ってことで、原画家によって塗りが違ったり、攻略ルートに攻略ヒロイン以外が殆どでなかったりと、表面的な統一感が全くないのが球にキズだが、個別ルートシナリオでみるべきヒロインは多い。美海シナリオはキャラクターと声優の嵌り具合が異常だ。まるで初めてエロゲボイスを聴いたときのような新鮮な気分で、のめり込むように声に聞き惚れがら一気にプレイしてまった。シナリオもエンディングへと緩やかに加速する物語の上昇が快く、安心して読める内容だ。鈴香シナリオはダメ主人公シナリオと見せ掛けた、正統派的な幼馴染シナリオ。露骨に屁タレな主人公が幼馴染を鈍感に泣かすシナリオに苛々しちゃう人は、この作品をやって是非に癒されてほしい。 → 長文感想(10276)(ネタバレ注意)(5)
最新レスはじめまして。お返事が遅れてしまい、大変申し訳ありませんでした。自分はネット引き篭もりな人間でして、いやネットに引き籠もるんじゃなくって、
この御時世なのにテレホーダイの時代かよっ!っていうくらいに、仕事関係以外でネットを見るのは一週間に三時間ぐらいの有様でして、
どうにもネットの世界のレスポンスが遅れがちになってしまいがちです。いや、べつにリア充とかそー言う話じゃなくって、よからぬ本を読んだり、よからぬ音楽を聴いたり、
よからぬ文章を垂れ流したり、よからぬちんち○を弄ったりしているうちにネットをやる暇がなくなるという……うーん、妄充?な体たらくを送っている始末であります。
ここエロ助で、活発にコミュニケーションをされているネト充(もちろん、寝取られ充実生活の略ですけどねっ。ああっ、オレのX氏がimota氏の汚い上履きをくんくか以下自粛削除)の皆さまと、
まともな付き合いができるかどうかはわかりませんけど、まぁ原始時代のサルと付き合っているんだなと言う感覚でお戯れになって下されば幸いです。

さて、質問の件ですが、本来ならばカミハミを再プレイし、当該の部分について再考した上でお答えすべきかと思いますが、
時間のというか他の嫁との関係上それができません。なので「確か、レビューを書いたときはこういう意図で書いたような……」
といった、当時の自分の意図を思い出すようなかたちの返答になってしまいますが、お許し下さいませ。
もちろん、そういった説明に対して、dovさんが再反論なさるのは自由ですし、僕も時間と他の嫁が許す限りにおいて、
まぁ一ヶ月ぐらいのスパンはありそうですが、対応したいと思います。


>吉乃姫が優月を完璧に操られるという設定があるため、それを言っているのが「優月の本心」なのか「吉乃姫の策略」なのか白黒がつかないことがある。

>>とのことですが、吉乃姫が操っている時は立ち絵の目の色が変わるので判別可能ではありませんか?

えーっと、ここらへんは実際に再プレイしてみないと繊細なところはわかりにくい問題だと思いますし、たぶん、実際に最近プレイしたであろうdovさんのほうが、そこらへんの記憶は信用できるかと思いますが、
まず、曖昧なところからいくと、確か僕がやったときの記憶では、吉乃姫が優月を目の色も変化させないレベルで、完全に操っていたと見られるシーンやそうした展開があったような気がするんですよね。
目の色の変化は誰でもわかるじゃないですか。で、それを頼りにシナリオを読んでいたら、どう考えてもこれ吉乃姫が完全に操っているじゃん、みたいなシーンがあったから、完全に操れる云々を書いたんだと思います。
たぶん、立ち絵表示で吉乃姫=優月が出てるシーンじゃなくって、シナリオの展開上のシーンでそういうところがあったように記憶しています。

それでわりと確定的なことをかいておくと、まぁ自分のミスや思い違いを糊塗するような弁解になってしまうかもしれませんけど、たぶん、目の色での人格の判別が完璧に出来るような設定だったとしても、
僕の優月シナリオの評価は大して変わらなかったと思います。まず二分法で問題をざっくり整理すれば「人格の主導権」と「優月と吉乃姫の本心」というのは基本的に別の問題です。
人格の主導権、つまりその場その場における人格を「誰が握っているのか」は、確かにヒロインの目で理解できたように思えます。ただ、その場その場の人格の移りかわりは、二人の本心までは判別できないですよね。
たとえば、吉乃姫が優月を操って主人公に好きだと言った場合には、たしかに、その場のシーンでは吉乃姫が優月を操っていることは「判別可能」ではありますが、優月が主人公を好きかどうか、
或いは吉乃姫が主人公のことを好きかどうかは、少なくとも「目の色」つまり、人格の主導権がどこにあるか?と言った点では判別が不可能でしょう。
その目の色は確かに「二人の本心を知る上で」のシナリオ上のある手かがりではありますけど、それだけで「判別可能」な点ではないし、優月シナリオも目の色だけを読解の重要なキーにはしていなかったように記憶しています。
と、なると「目の色で人格の主導権は完璧に理解できるか?」は、シナリオの理解においてそれほど重要な問題ではないように思えるんですよね。主導が完璧に理解できたのであれ、理解できないのであれ、
どちらであっても優月と吉乃姫の本心は「目の色」以外のテキストをも読まなくちゃいけないんですから。そして、いちばん重要なのはそこらへんのテキストがあんま面白くなかったと言うことでしょうか。

そこらへんはレビューでも書きましたけど、ここでも繰り返すならば、そうした主題をプロットの中心に置いているのはよくわかるんですけど、そういうプロットだけが先に進行しているようなところが否めずに、
吉乃姫や優月自身にあんまし魅力を感じることがないまま、なんか伝説がどーこーといったお話を盛り上げるために、二人の人格と本心をクルクル回しているだけって感じだったんですよね。
仮に「目の色による人格の完璧な判別」によって「ヒロインの人格と本心を巡るプロット」が、何らかの意味で奥深く感じられたとしても、基本テキストの面白さは、それで大して変わるものではないでしょうから、
僕の評価はあまり変わりそうじゃないなーというのが僕の本心です。どうも、ここらへんが進んで再プレイして検証するモチベーションを得られないところではあります。
マルセル2012年02月01日

80VenusBlood -ABYSS- (DualTail(DualMage))
ただの触手ゲーだと思ったそこのお前。味噌汁で顔洗って出直して来い。 → 長文感想(1638)(ネタバレ注意)(1)
最新レス始めまして。この度、この作品の長文レビューをグダグダやらせていただくにあたって、donsukeさんのレビューがとても参考になりまして、僕のレビューのほうでも一部文章を引用させて頂きました。

http://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/memo.php?game=15535&uid=%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%83%AB

厚かましい限りですが、ここに御報告しておきたいと思います。

ですが、2万文字ちょいの文章をわざわざ読んで頂くというのも恐縮ですから、donsukeさんの文章とそれに関係するようなところを一応引いておくと、(2)の始めから終わりにかけてのゲームバランス分析のところがメインで、
他は(4)のあたりの総括めいた文章のところで、間接的に触れている程度でしょうか。もし、この戯け者が何を言っているのか、ほんの少しでも興味を持たれたならば、そこらへんをざっと斜め読みすれば問題ないかと思います。
それでは、大変に失礼しました。donsukeさんの今後に、立方体オナキューブの加護があらんことを!
マルセル2011年10月22日

88ワンコとリリー (CUFFS)
トノイケダイスケの作品にはイベントらしいイベントがないとか、物語らしい展開が少ないと言われがちではある。これは相対的な評価、つまり「他のエロゲと比べた場合の特徴」という意味では正しいんだけど、その作品そのものを見た場合にそのように評価できるか?と言われたら結構むずかしい話ではある。もしも、正確に定義してみるなら、トノイケダイスケにおける物語とは「発展しない」「展開しない」物語、或いは「循環する物語」や「変奏する物語」というべきものだろう。登場人物たちが巻き込まれる状況であるところの物語空間は存在するのだが、それがある一定の方向をもって「進み」はせずに、前に進んだりうしろに戻ったり、方向がわからなくなってその場で昼寝をしたりする。この作品の「お散歩」のように、お散歩に目的地は必要かもしれないが、お散歩は目的地にたどりつくためにするものではない。それはただあるいて誰かとなにかを話す物語である。 → 長文感想(38720)(ネタバレ注意)(7)
最新レス>>imotaさん

>>お二人が楽しく弦楽二重奏に興じるところに、作品未プレイな私がカスタネット持って混ざってすいません。
でもクラオタとしては、ああいう話題を出されるとどうしても反応せざるを得ない。

おーけーおーけ-、矢でも大砲でもぱんつでも金田まひるでも地下原発推進者でもゾンビ与謝野馨の死骸でも何でも持ってきてご一緒にマーラーの交響曲第8番変ホ長調「千人の交響曲」 を奏でませう!
というわけで、こちらも始めまして。クラオタの人がちょっとでも反応してくれたのはホント嬉しいです。日本のクラオタみたいな超現実逃避野郎ならトノ作品の死海の水のように純粋な超絶ハーモニーで、
今日も明日も明後日も愛ちゃん先生トリップが出来るに違いないし、それに(imotaさんや僕は違うということにしておきますが)、法螺、クラオタって変な人が多いじゃないですか。
偶然にも、その変なクラオタが僕のレビューをよんでトノ作品に嵌ってくれたら、彼は必ずトノが住んでいる家を粘着ストーカー能力で割り出して、背中にステレオ装置を担いでトノの家に直行し、
額にはキョンシーの如く「トノ早くパッチだせゴルぁ」というお札を貼り付けて、家の前にてケーゲルの「力と光の波のように」を大音量で流し続けてくれる違いありません。
そうすりゃ、いくら「どーせウチの会社は他スタッフが優秀だしぃ」ってな感じでサボテン鑑賞に毎日勤しんでいると久弥がゆってたトノだって、ケーゲルの音楽から現実逃避するためにはシナリオ執筆に向かうしかないでしょう。
ふっふっふ、我が叔母信長の野望の完成の時は近いっ。imotaさんっ、協力有り難う御座いますっ! 我が野望が実現した暁には「水月」のどーでもいいメガネのNTRシナリオを書く権利をあなたにあたえよう! あ、原画は聖少女オンリーね。


>「B級エロゲのB級とはなにか?」の追求は、音楽評論の鈴木淳史氏のスタンスにすごく親しいですよね。
巷でB級演奏、作品とされるものに別の意味を見出す。そのB級にハマる自分もネタにして、論を進める。
洋泉社で活躍した、邪悪な評論家の文章で、「クラシックはこうでなくでは」な認識が随分と改まったもんです。

鈴木淳史氏の本は僕も昔から読んでますよー。「クラシック批評こてんぱん」「クラシック名盤ほめ殺し」「チラシで楽しむクラシック」あたりはマジで00年代の批評の裏ベストに入ると思いますぜ。
あと、普段のCDレビューも普通に参考にさせてもらっています。鈴木氏のおかげでその存在を知ったエルネスト・ブールやハンス・ロスバウトやハンス・ツェンダーあたりの微表情系指揮者や、
最近だとジョン・ネシュリングとサンパウロ交響楽団のような、まぁ普通じゃちょっと手を出しにくいというか、その存在すら僕のようなヌルオタでは知らなかった異境系演奏を紹介してくれて、
氏のレビューを読んだあとだと、ついつい「おっ、スロヴェニアのオケのショスタコなんて塩味がキツくてよさそうかも」とええ加減な気持ちでHMVでポチってしまいまする。困ったものです。

氏の「B級クラシック」論には確かにかなり影響を受けましたけど、違うところと似ているところがくっきり分かれていますね。違うところつーのは、あくまで鈴木氏がB級というのは、
まぁあとで後述するように、それにも色々な意味があるとは思うんですが、大まかな枠組みで言うと、鈴木氏が信奉している(僕もかなり嵌りましたが)ヴァントやチェリを基本的に「A級」いや「SSS級」と見なして、
その「SSS級」を基本的な基準として個々の「B級クラシック」を見ていく、と言ったようなところがあると思うんですよ。べつだん、ヴァントやチェリを金科玉条にしている……というわけではないと思うのですが、
「B級」という位を使うためには、その上位ランクたる「A級」やそれ以上のランクを前提としないと成り立たないわけでして、氏はそれを(自分でもちょくちょく書いているように)ヴァントやチェリあたりに置いているのは間違いない。
これは、批評家としては当たり前の行為だと思います。「B級」を云々する以上、それは自らの価値体系における「A級」以上のものを明確に既述しない限り、「A]と「B}との差異がわからなくなってしまうし、何よりも
「価値を明確にすることを嫌がる」くせに結局のところ「みんなと同じ価値観に付き従って他を排除する」日本の批評風土のなかでは、あえて「A」級と「B」級の違いを自らの立場に立って鮮明にするだけで、ある種の批評効果は存在すると言える。

では、このマルセルたんの場合はどうかというと……正直なはなし、僕は前に「B級エロゲ」と言いましたけど、この言葉をある種の「一般論」と言いますか、まぁ大雑把な「○○ゲー」の意味でしか使ったことがないというか、
その「B級エロゲ」というある種のジャンルにおいて、どういうものが「A級」でどういうものが「B級」でどういうものがC級以下なのか、明確な価値体系が未だに存在していないんですよ。
つまり、まぁなんとなくなイメージとして「B級エロゲ」という概念はあるけど、なんでそれがB級と言われるのか? 或いはじゃあ「A級エロゲ」や「C級エロゲ」はどういうものなのか?と言われたら、その辺はまだ上手く応えられない。
「エロゲ自体がB級なんではなかろうか?」というように逃げようかと思いましたけど、べつだん僕はクラシックも文学も他芸術も「個々の作品」は兎も角として、それ自体が「A級」だとはおもってませんからねー。
個々の作品を比較すれば、それは確かに「ハイカルチャー」の方が一応は「SSS級」の作品が多いのではなかろうか?とは思うんですけど、エロゲだって僕の評価ではSS級ぐらいの作品はあるし、SFの何%がクズだか忘れましたけど、
クズと味噌の割合はある程度歴史と作品の広がりのあるジャンルなら、どのジャンルも同じですからねー。こうして考えると、僕の「B級エロゲ論」は鈴木氏のそれと比べたら、完成度やその覚悟という点で滅茶苦茶ヌルイのは否めない。

まぁ、それっぽいことを言えば、僕がエロ助でエロゲ批評を書き始めたきっかけというのは、そこらへんを概念的じゃなくって実践批評のなかでやってみたらどうなるんだろ?という気持ちもあったんですけどねー。
昔から僕はエロゲ批評における、たとえば「萌えゲーにはシナリオは要らない」だとか「記号的キャラを出せばどんなエロゲーも売れる」だとか、そういう「人間には足と手が二本ある」的物言いがなんだかよくわからなくて、
実際に「その個別の作品に即して」ある作品における「萌え」と「シナリオ」の関係とか、どの「リアリティ」が強調されてどの「リアリティ」が後退しているのか?といった点を記述してみれば、
自分がどのようなエロゲを「A級」として見なしていて、エロゲにおける「B級」や「C級」とは、いったいどういうモノなんだろうーか?、とこのへんが、少なくとも自分の価値観においてはスッキリするだろうと思ったんですよ。
自分の頭の中でなんとなく「A級」とか「B級」とかテキトーにスルーしている審級を、個々の作品に厳密に適応させて具体的な言語で語ってみるとどーなるんだろうか?みたいな好奇心があったんですね。結果、次々とB級な文章を増産中ですがw
だから、僕の「B級エロゲのB級とは何か?」とは、B級を知るためだけではなくて、エロゲにおけるA級やC級といったものを、自分のなかである程度は明確にするためにやっている行為なのかもしれまえんね。まだ修行中って話です。


で、似ているところは、まぁこれは僕が勝手に「似ている」と思い込んでいるだけなのかもしれませんけど、imotaさんの文章をもう一度引用すると、

>>巷でB級演奏、作品とされるものに別の意味を見出す。そのB級にハマる自分もネタにして、論を進める。

これは実に的確な要約だとは思うんですが、ちょっと足りない部分があるなぁと思っていて、問題を二つにわけたほうが良いと思うんですよね。一つは、これは勝手に僕が考えた名前なんですけど、
「B級」作品と「B+級」作品というのは微妙に違うなぁと思っていて、例えば、鈴木氏が偏愛している(いや僕もかなり好きですが)クレンペラー、アーノンクール、ギーレンあたりは、
鈴木氏的には「B級」ではなくて「B+級」だと思っているんではなかろうか。おそらく、特定の演奏においては彼らは「A級」に「近い」演奏をするとは思っているでしょうけど、
それをたぶん「A」と言うには躊躇われる何かがあって、一つはまぁ「一般受けしない」と言うこともあるんでしょうけど、もう一つは「尖りすぎて」どうもそこらへんがA級とは言い難いアクの強さがあるのかもしれません。

たとえば、僕も大好きな演奏で言えば、クレンペラーのスタジオ録音のマラ9ですよ。第一楽章の「ありったっけの暴力を込めて!」とマーラーがスコアに書き込んだ、三回目の壮絶なクラッシュのところで、
クレンペラーは「ありったっけの暴力」のクラッシュに焦点を当てる(バーンスタインやカラヤンのやりかた)というよりも、この楽章のなかで音楽が最頂点に上り詰めていく各声部ポリフォニーの絡み合いを、
そこで時空が一瞬歪んでしまうようなもの凄いリタルダントを決行し、あらゆる声部を分解しつ執拗に強調することで、まるで人体の健全な細胞が異常に進化した結果ガン細胞となって、徐々に人体を蝕んでゆくような気持ち悪さを描こうとする。
カラヤンやバーンスタインの場合だとあのクラッシュも、なんか宇宙から隕石が降ってきたようなかんじで、クラッシュのそのものの音響上の破壊力で言えばそちらの方が強力と言えるんですが、
クレンペラーの場合だと頂点で2回目のシンバルの一撃を食らったあとも、世界貿易センターに飛行機が突っ込んだあとのように、その衝撃によって全てが一気に崩壊していくのではなくて、
ブスブスと黒い煙をしばらく上げながらも、超巨大な建築物が自らの上昇を必ず裏切る重力の呪いの運命によってゆっくりと瓦解していくような、何とも言い難い因果応報の時間の暴力が聴き手に伝わってくる。

この後に来る再現部の美しさについてはクレンペラー盤が今のところのベストです。冒頭の歩みのモチーフは今やもう死期を告げる葬送の鐘へと変化しながらも、クレンペラーの演奏だと、
やっとここで、逆に言えばスコアで言えばたった七小節、実際の演奏時間でいってもせいぜい1~2分ぐらいのこの瞬間だけ、第一主題の肯定的な音楽はついに真の肯定に辿り着く。
というのも、普通の「名盤的な演奏」だと、今までの第一主題の再現やその部分的変奏の部分でもちゃんと「肯定的」に響いてしまうんですよね。それがクラッシュを引き起こすキーなのはどの演奏でもそうですが、
少なくとも盛り上がる明るい部分はそのままわりと明るく聞こえて、クラッシュの部分はそれに対応する悲劇として聞こえる。でも、クレンペラーの演奏は、この演奏が気にくわないクラオタの友人に言わせると、
第一のクラッシュ、第二のクラッシュ、そして第三のクラッシュにおいても、そうした肯定の頂点に至る過程が実にわざとらしいというか、別にテンポを上げてオケを煽っているわけではないんですが、
ぬったりとした死臭の森を歩むような部分から頂点へと至る音楽までの流れとの間に、連続性が欠けているように思えるらしい。これについては、僕も基本的にそうだと思っていて、確かに鬱病気味な人がブツブツ言っているなぁと思ったら、
ドグマチールとか元気一発オロナミン尿を飲んで自分を奮い立たせているような音楽に聞こえちゃうんですよね。エロゲの屁タレ主人公が急に脈絡もなくヤル気になって無理矢理シリアス展開を解決させているような、と言ってもいい。

だけど、そうした神経質的な切迫感が、この最後近くの主題再現部では見事に浄化されている。陳腐な表現になりますけど「心の底から希望を願っている人間の声」がようやっとここで、葬送の鐘が鳴り終わったこの時間になって始めてきこえてくる。
もちろん、こうした肯定を求める声は「今となっては全てが遅すぎる」という絶望の影をすぐさま呼び起こすし、そんな人間のカイロス的な時間認識とは関係なく冒頭のシンコペーションと葬送の歩みはクロノス的時間を刻みカイロスを嘲笑うが、
もちろん、こうした肯定を求める声は「今となっては全てが遅すぎる」という諦めの境地に立ったからこそ、先ほどの神経質な切迫感から解放され、葬送の鐘を感じ取ったことで、なにかの「慰め」のようなものからその希望を得たのかもしれないけど、
もちろん、こうした肯定を求める声は「今となっては全てが遅すぎる」という絶望と諦めと慰めとクロノスの反復が彼岸的なポリフォニーが奇跡的な一致を見せるこの瞬間のなかでしか歌うことが出来ず、それはコーダーの消滅の運命を必然的に導く。
マーラーが一般に言われているように「ロマン派芸術家」だとしたならば、このたった七小節の音楽こそまさにマーラーが描いた最大のロマンティック・アイロニーというべきものではないでしょうか。
つまり、今までの全ての構築はたった一瞬の肯定のためにある。しかし、その肯定は「たった一瞬」にしか感覚的に得られないもので、その後には必ず言葉の沈黙と消滅が待っているというような、まさに彼岸の音楽と言っていいでしょう。
ここを完璧に演奏できているのは、今のところの僕が聴いた限りの演奏では、クレンペラーぐらいなんですよね。他の演奏も基本的には悪くないんですが、バーンスタインはどの演奏でも何故かこの七小節をはっさり過ぎ去ってしまうし、
ラトル/ウィーンフィル或いはベルリンフィルだと、おそらくサイコーに頭がよろしいラトル君のことだから、この七小節の意味はわかっているんでしょうが、個々の奏者がうますぎる所為なのか、
「諦めと慰め」と「肯定」のバランスがイマイチ取れていないような気がする。ジョナサン・ノットになってくると、クレンペラー以上に個々の声部の分解と言う点では凄いんですが、
なんだかマーラーの死体解剖ビデオを延々と見せられ続けられるような感じで、それはそれでかなり倒錯的な気分にはなれるんですがw、まぁ感動は全くないんですよね。


では、どうしてこれほど素晴らしいクレンペラーの演奏が「A級」とは言い難いのでしょうか。いや、本当はギーレンのマラ10だのアーノンクールのモツだのブルックナーだのについて、もっと説明したほうが良いかと思いますけど、
「コメントをあわせるともう5万文字越えていますぜw」といったメールをこれ以上受け取るのも困るので、ここはクレンペラーのマラ9に「B+」的なものを代表させるとしましょう。
それは端的に言うと「確かに凄い演奏だし、オレはこれが超大好きだとは認める」けれど心の底で「でも、これはやり過ぎじゃないのか? こんな演奏を本当にクラシックとよんで良いのだろうか?」と思えるところがあるんじゃないのか。
またクレンペラーのマラ9に戻ると、第三楽章のロンド=ブルレスケが実にわかりやすいかと思います。「イヤポーン!」といった感じの、このように擬音風に既述すると表面的には勢いが良さそうに見えるけどなんか間抜けっぽい、
調子外れなトランペットの一吹きが地獄の道化たちの猛レースを導きながらも、丁度中間あたりでシンバルの一撃が茶番劇を断ち切って、先ほどの調子外れなトランペットが、第四楽章アダージョを予告する天国の響きを開始する。
んでも天国の時間はそうそう長く続かず、天使たちはアヘ顔に歪み、下半身からは巨大な男根がムキムキと生えて、トノイケダイスケのキャラクター達はかき氷を奢らされ(庭のあざみんシナリオは超先生的傑作!)、
音楽は元の地獄の茶番劇に戻ってしまう。いや天使たちを貶めてますます調子に乗ってしまったのかどうか、ピュ・ストレットの指示が入ったのもつかの間、その約20小節後にはさらにプレストの指示が出されて、
地獄のロンドのテンポはどんどん速度を増していきながらも、最後には収集がつかなくなった音楽が混乱の極みのまま車が商店街に突っ込むようなスピードでコーダに激突していく。バーンスタインのBPOライブは、この部分はホント凄い。

しかし、クレンペラーの演奏は……流石マーラーの愛弟子ということもあって、完璧にマーラーの指示を無視していますわなw
基本テンポ指示はアレグロ・アッサイですが、このクレンペラーの演奏は「トノイケダイスケの執筆スピードよりも遅く」と言った感じで、ハッキリ言って第四楽章アダージョと同じテンポを取ってしまっている。
天国からの失墜以降のピュ・ストレットもプレストの指示も無視しているのはいうまでもなく、一貫したトンテンポで地獄のロンドと天国のロンドが演奏されてちゃっているわけでござる。
まぁ、このようなスコア指示破りを「スコア指示破りだからイカン」という理由だけで批判出来るわけではなく、例えば、最初の地獄のロンドと天国のロンドのテンポ指示が、基本的には同じだとスコアに暗示されているから、
クレンペラーのインテンポ無茶振りを擁護できなくはない。つまり、この楽章でマーラーが描きたかったのは、地獄から天国への上昇(そしてまた地獄への降下)という展開ではなくて、あくまで地獄の中に天国が存在するような、
天上の音楽と世俗の下品な騒音が矛盾しながら闇鍋的に共存しているマーラー的ポリフォニーを描いているのだと考えれば、確かに「地獄」と「天国」の音楽が陸続きで聞こえてしまうクレンペラーの演奏は「規範」よりも
「真実」を選び取ったのだ!と強弁できるかもしれない。でもさ、天国失墜以後のピュ・ストレットとプレストの無視はどうするんだよ。マーラーはここで意図的にテンポを上げて演奏すると、
前のみりになって足並みが乱れて音楽がグチャグチャになっていくような長いリズムを置いているぜ? こんなところをゆっくり演奏したんじゃこの楽章の破滅的コーダーの意味がよく理解できないじゃないか。と天使が突っ込めば、
キミはいつも表面的だね。これだからエコだエコと乗せられてひんやり冷感マットを6000円も出して買っちゃったりするんだ。だいたい、クレンペラーとマーラーはユダヤ人なんだぜ? 天国とか地獄とかんなカトリックの生臭坊主が、
商売の為に勝手に作り上げたでっち上げ話を信じるわけないじゃん。「空の空 空の空なる哉 すべて空なり 日の下に人の労して為すところの諸々のはたらきは その身に何の益かあらん(伝道の書)。コレだよ。コレ。わかんねぇかなぁ。
だって、マーラーがいくら複雑なリズムを仕掛けとテンポ上昇を命じてどんちゃん騒ぎのコーダーを目論んでも、マーラーの時代のぽんぽこりんオケなら兎も角、今の技術的に洗煉されたハイパーオケならこんなのらくらくに弾き通しちゃうもんね。
クレンペラーは冷戦下の最中で擡頭しつつあるテクノクラート的価値観を横目に睨みながら、それが結局は楽譜に込められた意味を無効化してしまうことを予言するために、こんなゆったりまったりロンドを敢えて演奏したのではなかろうか?
このようなユダヤ的な態度がマーラーの意図したRondo, burleske,の道化っぷりであり、そのsehr trotzig極めて反抗的な態度はアキレスと亀のパラドックスのように、最先端の時代のallegro assaiテンポをスルリといつも追い越すのだと言えよう。
……と悪魔が囁くような感覚をクレンペラーの演奏から聴き取っているんでしょうなぁ。

ま、ここらへんのやりとりを妄想させるような演奏が「B+」的なところだとは思うんですよ。つまり、その極端にやり過ぎであったりあまりにヘンテコ過ぎる部分は、なにがしかのインパクトがあるのは事実であり、
自分はそれすらも愛しちゃっていたりするんだけど、まぁ冷静に考ると、作品全体の構造から見るとやっぱイキ過ぎなところは否めない。それを何とか正当化しようすると、その屁理屈である程度は正当化出来るところもあるんだけれども、
もう自分ですらそれは「屁理屈じゃねぇ?」と半ば認めちゃっているところもあり、それをさらに正当化するためには、さらに別の屁理屈を持ち出すほかなくなりと考えていくにつれて、ますますそのB+演奏にズブズブとはまり込んでしまっており、、
そのイキ過ぎ演奏鑑賞とその正当化のための理屈づけの絶え間ない経験の積み重ねが、共依存スレスレのダメカップルの変態気味なセックスのように退廃的でありながらもミョーなところでは醒めている思考と嗜好のスキマ風をふっと涼しむような感覚。
ここらへんの「B+」的な感覚は、僕のエロゲ体験でも非常に親しいところだと思うんですよ。ライターで言えば、まぁ僕のトノイケダイスケスキーもその延長線上にあるだろうし、古参のエルフ信者の皆さんにぶっ殺されるかもしれませんけど、
蛭田氏にもそういったB+臭を感じます。他にぱっと思いつく限りでは、今は何をやっているのかよーわかりませんけど、木之本みけ氏とか、おるごぅる氏、J・さいろー氏、保住氏、丸谷秀人氏、妹スタイルがもうすぐ出る海原氏とかその辺です。
いや、もっと言えば、某きのこ氏だって僕には「B+」に思える部分が強いし、ハッキリ言ってだーまえ氏なんて普通の人にはよくわからんちんな「B+」な部分に満ちあふれていると思いますけど、色々怖いのでワータシはヤッテナイー♪潔白だー。
むろん、他にA級なライターの皆さんもいますし、僕だって基本的にはクレンペラーばっか聴いてるばかりではなく、古い人だとセルとかモントゥーとか、新しい人だとセガンとかダウスゴー(あれ、それもなんだかB級っぽいぞ?)とか聴くんですけど、
そういう人たちの多くは、こっちが深く付き合わなくても楽しめるというか、別に否定的な意味じゃないんですけど、深く付き合わなくても充分にその凄さがわかる人なんですよね。でも、B+的なライターの皆さんや、
或いは萌えゲーのなかに突如として現れるB+的なシナリオは、いっけん何かインスピレーションをそそられる強度があって、それはそれだけで楽しんでも充分なんだけど、さらにそれを深く突っ込んで見たらもっと深いものが見つかるかも……
と妄想させるような、妖しげな魅力があって、A級的なライターの皆さんには(あくまで個人的には、ですけど)そういうのが欠けていて、どーにもアッサリ通り過ぎちゃんですよね。ここらへんの感覚は鈴木氏と似ている部分かもしれません。


しかし、世の中の「B級」作品の全てが「B+」作品なわけではなくて、というかその大半以上は「B」どころか「B-」いや辛うじて「C+」と言えるような作品であって、鈴木氏のB級クラシック論で言えば、これらは、
アバド、バレンボイム、メーター、ベーム、バルビローリ、ヘレヴェッへ、そして、フルトヴェングラー協会に消されることを恐れて表立っては言っていけないけどフルトヴェングラーあたりで、じつのところ、

>>巷でB級演奏、作品とされるものに別の意味を見出す。そのB級にハマる自分もネタにして、論を進める。

というのはちょい逆で、世間的にはA級演奏だと思われているような演奏家のB級なところを探しちゃうようなことが多いんじゃないかと思いますが、まぁその辺の細かい話は置いておきましょう。
これらの演奏の特徴は、あくまで鈴木氏から見れば……なーんてアリバイ作りをちりばめるのはやめにして、要はぶっちゃけメーターのブルックナーをどうやって評価したらいいのか?って話ですわな。
クラシックを全く知らない人には、わけわからんチンな話であり、どれどれ、一つメーターとやらが振ったブルックナー第八番を聴いてみようじゃないのと、図書館(偽装A級B級演奏は図書館に結構多い)に偶然あったのを聴いてみたら、
なんだ結構イイ感じの音楽じゃないの。どれどれライナーノーツにはブルックナーはカトリック信者でなんとかかんとか……へー、よくわからんけど、まったりした癒しの音楽でええのうええのう。これのどこがB級なんじゃろうか?
と、こんな感じで疑問に思う人が大半だと思われますが、そういう「なんとなくええ感じ」的なヌルい軽さが作品から伝わってきながらも、それがその作品が本来持っている本質と完全に乖離しているのがB級演奏だと言えましょうか。
個人的には、アバドのベートーヴェン全集とかは鈴木氏の言うように「ホントはべつにやりたくないんだけどー、仕事だから頑張らないとねー」的な涼しげで前向きなやる気の無さが感じられ、ホントはそんなに疲れてないんだけど、
なんか微妙にやる気のでないときに、その適度なスカスカっぷりが逆に元気を与えてくれるわけで、本当はそういう「ヌルくて軽いなんとなくええ感じ」が今の時代にあったクラシックなんではなかろうか?という実感や疑いも多少はありつつも、
しかし普段は「けっ。くだらねぇ演奏だぜ」といかにもクラオタ的な態度で見下してたりしているんですよね。つまり「B+」的なB級演奏はimotaさんの言うように、

>>そのB級にハマる自分もネタにして、論を進める。

最初から積極的に自分がその論すらに嵌っていくような感じがあるのだけれども、純B級w演奏は「なんてくだらねぇ演奏なんだ」と心の底では思って、そこらへんを基本的には半ばからかうために、

>>そのB級にハマる自分もネタにして、論を進める。

わけなんだけど、そのメタ的に「嵌る自分をネタにしている」という行為のなかで、どうにも自分の心の底にも「くだらねぇB級の演奏」にちょっとは惹かれている自分を発見してしまようなところがある。
そして、そういうレベルでは、その演奏は「わりとうまくできていたり」するところがこれまた悩ましいんですよね。単に下手くそな演奏だったり、特に心の惹かれない凡庸な演奏の場合は全てがわりとテキトーで面白くないですが、
こうい偽装A級純粋B級演奏はさっきの「敢えてメタに嵌る振りをしてバカにする」的な視点から見ると、そうした視点からはなかなかに完成されちゃっているところが見えてしまう。メーターのブルックナーだって、
完全にポリフォニーをぶっ殺して、安手の癒しミュージック風にネットリとした主旋律を垂れ流していく、という点から見れば、つまり「これはブルックナーではない」ということを前提とすれば、なかなか立派な三文音楽になっているわけですよ。
これをエロゲで言えば、まぁ大半のエロゲはこれに当たるわけで、屁タレ主人公だの唐突な鬱展開だのDQNヒロインだの連れ子は結婚できねぇ義妹とも結婚できねぇから背徳感でフルボッキだといった展開は、
もちろんそうした「展開自体」が悪いとかそういう話ではなくて、そういう展開を何の脈絡もなく行き当たりばったりに使うから「B級」展開に見なされちゃうわけですが、これを嫌味っぽくからかうために、、

>>そのB級にハマる自分もネタにして、論を進める。

しようとすると、まぁでもぶっちゃけ「日本の原子力は絶対安全です!」をほぼ半数以上が信じていた日本のリアリズムって、そういう何の脈絡もない行き当たりばったりな「B級」展開に満ち満ちているなぁと納得しちゃうわけですよ。
まぁエロゲでリアリズム云々を言う人が、なんでこういう「端的なリアリズム」から眼を背けるかは未だによくワカランチンなのですけれども、むろん別にエロゲが端的なリアリズムに付き従う必要性はまったくないし、
そんな全てのエロゲに殆ど当て嵌まるような「端的なリアリズム」をある作品において言及したとしても、そんなの他の作品でも基本的に同じじゃーんと突っ込まれて糸冬になっちゃいますよね。
でも、そういう「ベタなもの」に接する機会は現実のなかであまりに多いし、そういうベタベタな現実がベタベタなB級エロゲのなかでべたべたに展開されたりすると、なにか悪い夢の中にエロゲのキャラが出てきたような、
現実と妄想空間の悪夢的な融合が変に居心地がよくて、あぁこれがほんとうのリアルなんだろうなぁとトリップしてしまうような経験すらある。これが僕の見るところの、純粋B級エロゲのB級さ、ってところでしょうか。

最近のエロゲで言えば、体験版で申し訳ないんですが、まぁ体験版でB級分を思いっきりで摂取できたのは「よめはぴ」ですかね。主人公がウザイと大変な評判を呼んでいるこの作品ですが、まぁ確かに主人公は実にうざいんですけど、
それ以上にB級なリアリズムに溢れているのは、登場ヒロインたちのびみょーな冷たさでしょう。たぶん、このウザ主人公を絶対必ずいつも擁護しているような萌え幼馴染みなり、萌え妹キャラなりがいれば、ここまで叩かなかったと思うんですけど、
一応は「主人公を昔から愛している幼馴染み」とか「主人公に一目惚れした巨乳キャラ」みたいなキャラは存在しながらも、この娘たちは主人公のウザさには的確に冷たい眼を向けているのが実によく記述されている。
「じゃあ何でお前ら主人公のこと好きなの?」とツッコミ視線で見てみると、そういう好意を示すときは必ず「いや、だって昔からの幼馴染みって設定だし」とか「いや、だって一目惚れって設定ですし」というような
「設定だから仕方ないじゃん」と裏声で聞こえそうなデレ設定が語れるときで、その現実的なヒロインたちの冷たい目と、あくまで設定以上に説得力がないデレ描写の二重奏が、萌えが氾濫しつつも自殺者が急増しているリアルな現実像を暗示している。
もちろん、上の似非批評は「わざと嫌味にB級に嵌る振り」をして描いたものですけど、先にもいったように、だんだんそのネタに自分も嵌ってしまうようなところが、この「よめはぴ」にあるのも事実でして、B級エロゲ批評の面白さは、
自分でも、そして多分作品でも意識していなかったような、現実とエロゲとその作品とそれを批評するレビュアーのベタベタすぎるB級な関係性を露わにしちゃうようなところでしょうか。こういう見方も、鈴木氏から多くの影響を受けたと思います。


>>そして、一見すごく回りくどく思える文章。こちらは吉田秀和氏の文章を通じるものを感じます。
音楽という最も言語化しにくいものの本質を語るために、平易な言葉を縦横に駆使して記号化を避けようとする。
結果、文章は長大になるのだが、ブルックナーよろしく茫洋としてもきちんと主題を展開させている。

で、お次は吉田秀和氏なわけですが……えーっと、気がついたら、鈴木氏についてもうなんだか滅茶苦茶書きまくってますね(汗)。しかも吉田氏となれば、僕が小学校高学年の頃からよんでいた人なわけで、
これはもう鈴木氏の三倍近い長文を書き散らす恐れがあるので、これ以上駄文を書き連ねないためにも、えらくアッサリと済ましちゃいます。もっとゲロを吐きまくれ!とお希望でしたら、お求めに応じるのに吝かではないのですけれども。
僕の文章が吉田氏に似ているというのは、いや僕はどうでもいいのですけど、吉田氏とその愛読者の皆さんに大変失礼な話だと思いますが、下手くそなパロディほどパクリ元の実に底の浅い特徴が見つけられやすい、というのはあるかもしれません。
ここ10数年ぐらい「似ちゃう」のが怖くて、吉田氏の文章を意図的に避けていますから、本当のところ遠くに逃げたつもりが、結局のところ振り出しに戻ってしまっているのかもしれませんね。やっぱり親からはそう簡単には逃げられない。
そういう意味でimotaさんは実に有り難い忠告をなさってくださったのかもしません。まぁトラウマゲロるのは僕の趣味ではないんですけど、簡潔にことの粗筋だけを書いておくと、中学と高校の推薦を貰うための論文というか、
まぁ系列校主催の読書感想文コンクールみたいなもので、僕は両方とも「吉田秀和論」みたいな底の浅い文章を書いて推薦貰っちゃった経緯があるんですよね。どれくらい底の浅いレベルかというと、

>>結果、文章は長大になるのだが、ブルックナーよろしく茫洋としてもきちんと主題を展開させている。

むろん、imotaさんの仰りたいことは、僕のワンリリレビューの方は交響曲第0番のようなヌルヌルっぷりっと、理屈バカ的な流れの悪さが共通しており、貴様にメーターのブルックナーをバカにする権利がないのは明らかであるが、
しかし0番ぐらいの完成度に届くかもしれないからもっと精進せよ!という有り難い励ましだと思います。その二つは僕の胸に深く刻み込んでおくとしても、どうにも僕の心に刻まれたトラウマの古傷が疼いてしまう。
僕は中学と高校の頃に「いや、吉田氏の思考はどちらかというとシューマンの音楽に似ている、シューマンは基本的に息の長い旋律を作ることは出来ないが、それでも彼が音楽に要求したのは、
俗に言われているようなロマン的な瞬間の感情だけではなく、その瞬間の感情を、か細い声の訴えによって語り続けることだったのだから、必然的にシューマンの音楽は短い旋律を各声部に張り巡らして歌い回すポリフォニーを志向するだろう
これは息の長く表情豊かな旋律を大量に産み出すことが出来たショパンの音楽と、シューマンのピアノ曲のなかでは抒情的で比較的よく知られている「トライメライ」を比べれば一目瞭然だ」といった調子の文書を偉そうに書き連ね、
ピアノを習い立ての小学生でもすぐわかる楽曲分析をそれっぽくしたのちに、吉田氏の文章の中からシューマンとショパンを論じている文章を何個か適当に引用して、「人間には足と手が二本ある」といった程度の共通性を云々し、
ただ感情にどっぷり浸って音楽を聴くのではなく、知性を使って音楽を聴くことも大事なのではなかろうか?みたいなオメーに言われたくないぜwと突っ込みたくなる荘厳で軽薄たるコーダのヤッツケ文章を書いてしまった前科がありますゴメンなさい。

しかも、それが見事に落選したのなら、若いうちに過ちに気がついたのでしょうけど、なんか結構イイ所まで行って楽勝に推薦を貰ってしまったのですからタチが悪い。もちろん、ああいう作文コンクールみたいなものは、
文集の内容なんてどーでもよく「如何にそれっぽい文章をそれっぽく書き連ねることが出来て、特定の共同体に効率よく媚びることが出来ているか?」を評価するところですから、僕もそれなりに「これからの介護時代に必要な人材かもしれん」と
評価されたのかもしないですけど、この所為で僕の十代は非常に困ったちゃんな青春を送ってしまいましてねぇ。まぁこの失敗があったからこそ、imotaさんやvostokさんにこうして出会えたわけで、
大いなるネ申ひろいん氏の与えてくれた運命には感謝しなくてはいけませんが、まさかここエロ助で今まで逃げていた吉田秀和氏とばったり出会うようなことが起きるとは夢に思いませんでした。しかもそのきっかけがトノ作品とは……出来杉だぜ運命。

まぁそうですね。ここでこれ以上グダグダ言っても、多分自分の古傷をエグリ返してのたうちまわるだけだと思いますから、ガキの僕が始めて「批評」という概念を意識した吉田氏の有名なテキストを引用して御茶を濁しておきます。
このテキストを読む前に、僕は確かジョージ・セルのCDについていたライナー・ノーツとかで彼の文章を読んでいて、「僕の大好きなセルを評価している人なら、僕にもわかる文章を書いているんじゃないか?」と実に子供っぽい無邪気さと、
しかし子供ながらの壮大で無茶な無計画と「僕は大人が読んでいるような全集を読むんだ!」という背伸びした高ぶった気持ちで、図書館で「吉田秀和全集」を全部読む予定で、最初に借りれる分だけ借りたんですよ。
アレは確か朝から曇っている夏休みが始まって何日かたったころで、今日なら暑いなか重たい本を持って帰らなくて済むぞ!という小学生らしいアホ計算高さを発揮して図書館に行ったら、案の定、図書館の近くで雨が降り出し、
半濡れ気味の身体で図書館に入って前からなんとなく目をつけていた吉田秀和全集を手に取りカウンターに持っていくと「濡れた手でみんなの大切な本に触るのは止めましょうね」とおばちゃんに優しく注意され、
どこからかタオルを取り出し僕のスポーツ刈り頭をわしゃわしゃ拭いてくれて、「まぁ、お父さんに頼まれた本をお使いしてくれたのね。偉いわぁ」とミッフィーちゃんの絵が描かれた子供用のブックバックに吉田秀和全集を丁寧に入れてくれた。
そとの雨はますます土砂降りになり、僕の気持ちはますます砂場で泥だけで独りぼっちで遊んでいる小学生のようになり、肩に食い込む吉田秀和全集はますますその重みを増していき、子供用の閲覧室で休もうと中に入ると、
クラスメイトのデブでマルコメ頭で頭が悪そうな事をいつも言っているのに何故か要領だけはよくクラスで人気者のS君が「ズッコケシリーズ」を楽しそうによんでいる。彼とは一応「友達」の間柄だったけれど、今の自分を見られるのが、
猛烈に恥ずかしいような気がして、慌てて子供用の閲覧室を飛び出して、でも大人用の閲覧室は椅子と机の高さが自分には合わなくて、もう自分の居場所はどこにもないような絶望感に襲われ図書館を飛び出して、
図書館の近くにある旧日本軍が昔防空壕として使い、その後GHQが弾薬庫として用い、今は「戦争の悲惨さ」を伝えるために夏のあいだだけ公開している穴蔵に転げ落ちるように潜り込んだ。そこはクーラーもないのにヒンヤリした場所だった。
どうして自分はこういつも上手くいかないんだろう? どうして自分はこういつもズッコケたままなんだろうか? どうして自分はこういつもあのジョージ・セルのような完璧に制御された音楽を奏でられないのか? だから、僕はそのページを開けた。


「あれは、今から二十年近くまえのことだ。ぼくは、さる外国のピアニストの演奏をきくために、日比谷公会堂のまえに座っていた。/初夏だった、手のひらのなかで、会堂のまえで拾った小石がつめたかった。ぼくはそれを、
その夜ここであうにちがいないある人にぶつけてやろう、と思っていた。ぼくには、Gegenlieというものが、まるで信じられなくなっていた。人間と人間との関係を規定するものは、憎悪だけだ。一方から他方への愛はありうるが、
それは、もう一方にとっては耐え難い重荷であり、正直なところ人間には他の人間が存在することが許せないのだと思っていた。ぼくは生きると言うことが、自分の中に何の確信も与えてくれないことを悩んでいた。
こういったやくざな考えが、そのほかにも頭のなかに、うようよしていたが、今は大部分忘れてしまった。/ぼくは音楽が好きだった。いってみれば、音楽は、ほとんど数学的思考の厳密と透明をもちながら、
心情と感覚の世界を通じて、陶酔と忘我を実現してくれるものだ。音楽を注意深くきくとき、ぼくらの精神はいつもよりはるかに目覚めているが、同時に目覚めていればいるほど、ぼくらの陶酔はふかくて全身的だ。

(吉田秀和「ロベルト・シューマン」1945)


今の僕の手許に吉田氏の著作は一切なく、上のテキストは鈴木氏の「クラシック批評こてんぱん」からのまた引きです。今度実家に帰ったら部屋の片隅に封印していた「吉田秀和全集」を改めて持って帰ろうとは思います。
imotaさん、随分とキツイ僕のトラウマを甦らせて頂き、本当に有り難う御座いました。たぶん今年の夏休みは「クラシック・スナイパー」の吉田秀和特集を横目で睨みながら、吉田秀和と自分を読み直す夏になるかもしれません……


>>私も音楽では時間と空間とかは一応考えるけど、流石にそれをエロゲの文章に当てはめる発想はありませんでした。
>>音楽で感動が優先されるように、エロゲではエロを優先し、思考停止状態になった俺を誰が責められようか。

……と綺麗に纏めようと思ったんですけど、ひとつ、重要なことを書き忘れていましたよ。ああ、これは、単純に言ってクラシックとか批評とか芸術論とかカンケーなくて、
単に僕のオナニーがもの凄い遅漏れ野郎ってことが原因何じゃないっすかね。個人的にはこれを「ヌルニー」と呼んでいますけど、萌えゲーやりながらああヒロインが可愛いなぁまったりしてて良いなぁおパンちゅエロいなぁとか、
脳髄と下半身を半ボッキ気味にしながらも、物語展開はやっぱB級だから、このキャラとこのキャラをこう組み合わせて何とか属性を倍増させるためには、このまったり空間をどれくらいの時間で流せばええ感じになるのかなぁとか、
もう半分の脳髄と下半身では作品全体の構造とテキストの部分との関係を無意識的に考えたり考えなかったりするもんで、そこらへんとクラシック音楽との関係がちょい似ているかもーという安易なアナロジーで僕の駄文が生まれたと妄想。
なにせ僕は、まぁいつもではないですけど、エロゲーでオナニーするときはだいたい、1時間から長いときは3時間ぐらいティンティンを弄ったり頭を弄ったりしてアヘアへしてますからねー。
imotaさんのようなストイックなエロゲプレイでないと、僕にはハードな抜きゲは楽しめないしれません。どうも、エロゲでエロだけがを優先されていると、みんな真面目にエロってるなーとエロどころかむしろ感心しちゃうダメ人間なもので。
というわけで、imotaさんの抜きゲレビューをこれからもエライエロイとめっぽう感心しながらもこちらも読んでいくおつもりなので、これからも、どうかよろしくおながいします。


>>vostokさん

またまたレスを返してしまい申し訳ありません。前回は「わお、あの憧れのロシア超人にレスを返して貰ったぜ!」と舞い上がってしまい、ついついあらぬ事を書きすぎました。お気分を害したようでしたら、本当にゴメンなさい。
まぁ、今回はimotaさんがご覧のように僕の長文汁をぶっかけられまくって、最早imotaさんのエロゲ主人公クラスの超イケメンもバカ殿(早くバッチ出せよゴルぁ)様状態になっておられるので、前回のように酷いことにはならないと思いまする。


>>クラシックに関しては、僕は本当に素人でお恥ずかしいだけでなく、ロシア文学経由でアプローチする邪道の輩なのでお話を振られると困るのですが,

すいませんっ。確かブログでスクリャービンについて結構鋭いことを書いていたので、コレはかなりの達人かと勘違いしてしまいました。でも、半分近くは僕の予想もあっていたと思うんですよね。だって、

>>あと、グバイドゥーリナとアヴェルバフという名前もなにやら懐かしいです。実は昔、お二人がそれぞれ来日したときに、少しだけお世話をお手伝いさせていただいたことがあります。紀尾井ホールかどこかに向かうタクシーの中で、
グバイドゥーリナさんにつたないロシア語で沖縄民謡の素晴らしさを力説したのは恥ずかしい思い出です。レーラさんはキングレコードかどこかにお連れしたような。今思えば当時の自分は恵まれていましたね。

グバイドゥーリナに沖縄民謡だと……ゴクリ、もうこのテキストだけで現代音楽マニアは1ヶ月間くらい夜のオカズに困らないと思いますよ。「琉球湾を泳ぐイエス・キリストのガムランのお昼寝」というようなタイトルを勝手に捻り出して、
作曲能力がある現代音楽オタなら自分の手で曲まで作ってしまうことでしょう。しかし本当に素晴らしい体験ですね。僕ももうちょっと真面目に勉強していれば、そういう偉大な芸術家とナマで対面できたのかなぁ。僕もトノイケダイスケに直接会って
「早くパッチだせよゴルぁ」と賞味期限の切れた納豆を投げつけたいぜ! まぁ、こうやってvostokさんと会話らしい会話が出来ているだけでも、自分の人生に多少の感謝は必要かもしれませんけど。沖縄民謡、良いですよね。昔、確か照屋林賢さんという沖縄でバントをなさっている人(うろ覚えなんで別人かもしれませんが)がラジオに出ていて、そこでベートーヴェンと沖縄民謡について熱く語っていまして、僕は沖縄民謡は一般知識程度しかしらなかったのですけど、照屋さんのベートーヴェン語りが実にイイ線つきまくっており、こりゃ照屋さんを信じて沖縄民謡聴いてみっかとCDを買ったところ、その日のうちに嵌ってしまいました。



>>クズミンは確かにそのCDの人です。日本でクズミンのピアノ曲なんて全く需要ない気がするのですが、僕は嬉しいです。(彼が書いていたのはあくまでアマチュア的なサロン用の小品だったはずです。ビャチェスラフ・イワーノフという古代ギリシャ文学研究者でニーチェ主義者の詩人が、ペテルブルクで「塔」と言われる昼夜逆転のボヘミアンのたまり場を主催していた、というか自分の家である「塔」にルナチャルスキーからディアギレフからメイエルホリドから、誰彼かまわず引っ張り込んでいたのですが、当時クズミンは「塔」に居候していて、よくピアノを弾いていたそうです。ブロークやツヴェターエワも顔を出していました。)
 ロマン主義的な重苦しさのない、底知れないセンスと博識の持ち主として、学生の頃に結構気になって読んでいました。連作詩「アレクサンドリアの歌」などは、昔ペテルブルクの古本屋で、革命前の旧字体で刷られた1914年の版だか何かを安価で見つけて宝物にしていたこともありました。普通のCD屋に入荷するか怪しいですが、発売されたら必ず見つけて買います。

>>ちなみに文学系の音楽CDと言えば、パステルナークのピアノ曲集とかもあるんですよね。パステルナークは小さい頃にスクリャービンに師事していただけあって、少し変わったリズムや和音の感覚の曲だったような気がします。結局途中で詩人に転向したので、音楽は中途半端で終わりましたが。後は、音楽と言えばアンドレイ・ベールイですね。シベリウスの交響曲とかを参考にして、センテンス単位でテクストに番号を振って、対位法とかの規則に基づいた長編韻文小説シリーズ「交響楽」を二十歳そこそこで書いて以来、生涯ひたすら奇妙な詩や小説を書き続け、文学における音楽性を研究しているうちにロシア・フォルマリズムの生みの親になってしまったという変人です。よく即興でピアノも弾いていたそうです。残念ながら録音とかはないですが。


おおっ、ズバリビンゴでしたか。やったぜクズミンゲットだぜ。CDが気に入ったらもうあと四枚買っちゃいます。えーっと、保存用と観賞用と友人に勧めようとトノイケダイスケになげつけようと……って、それじゃあvostokさんの分が無くなって
しまうかもしれません。個人的には僕もネットの予約通販は風情がねぇなぁと思っていて、なるべく店頭で買おうというか、普段はざっと30枚ぐらいカゴに入れて店頭で試聴してからよさげなものを買っているんですけど(注:普通の店なら迷惑ですけどヘビィなクラシック関係の店なら逆に喜ばれます)、たぶんこのクズミンのCDは日本で買う人は僕とvostokさんと知り合いのクラオタと他7人ぐらいだと思われるので、おそらく店頭には全く並ばない可能性が高いです。まぁ、その小数点な遭遇の可能性を信じるのもロシア神秘主義の詩人クズミンっぽくて良いと思うし、どーしてもダメなら前に紹介したナクソスオンラインに頼るというのもありますから、vostokさんとクズミンとの奇跡的な再会を僕も慈悲深きネ申ひろいん氏に強く祈っております。

おおっ、そういえばパステルナークのピアノ曲集もありましたね。僕は随分昔に聴いた覚えがあるんですけど、スクリャービン系といったら大雑把すぎますけど、そうですね、vostokさんの仰るように変則的なリズムや和音を使っているんですけど、そこらへんが別にわざとらしくなく、外人が変わったアクセントの日本語で日本の桜を讃えているような、なんかヘンでズレているんだけどそのズレヘンが妙に人懐っこい暖かみのある曲だったような気がします。パステルナークといえば、高校生の頃に「ドクトル・ジバゴ」の江川さん日本語訳を読んで、「コレのどこが体制批判なんだ?むしろ愛国小説と言っていいくらいじゃないか?」と疑問に思ったものの、その恍惚に包まれながらもどこか影のある雰囲気の世界に惹かれてしまい、ロシア語が読めない
自分の語学力の無さを痛感しながらも、工藤正廣さんが二年に一冊ぐらいのペースで発表していたパステルナークの詩集翻訳を楽しみに待っていた歴史があります。またショスタコーヴィチに嵌ったり、プロコフィエフのいかがわしさにドキドキしたり、
トルストイの「ぶくぶく肥ったモンスター(by ヘンリー・ジェイムズ)」の中に潜まれる不思議な一貫性に驚愕したりする、「個人的ロシアブーム」が起こるたびに大きめの本屋に行くと、パステルナークの翻訳が新しく出ていて妙な運命を感じちゃったりしたものであります。詩作品、特にモダニズム以降の詩はその国の言語に滅茶苦茶密着していますので、翻訳でその本質の10%ですら味わうことが出来るのか?と毎回不安を覚えていますが、しかし1%ぐらいなら通じるところもあるのではないか?と勝手に納得して工藤正廣さんの翻訳を楽しんだものです。アンドレイ・ベールイもいいですよね。ってもちろん僕は日本語訳が出ている小説しか読んでいませんですけど「20世紀の前衛文学を代表する傑作」ってなお題目に惹かれて高校生の頃に読んでみたら、僕の読みが正しいかどうかはわかりませんけど、筒井康隆氏のスラップティック小説に濃厚な神秘主義を織り交ぜたようなハチャメチャファンタジー世界観に惹かれて勢いだけで最後まで読んでしまった記憶があります。「音楽と文学作品」の関係については、そりゃまぁ一応はアメリカのポーからドイツのジャン・パウルといった前期ロマン主義作家からフランスのボードレール、マラメルからそしてイギリスのペイターへと言ったような、大雑把に言えば19世紀芸術全般の通底に
に流れる「象徴主義運動」があるわけですけど、ロシアの場合は一般に知られている以上に「音楽」と「文学」の関係はそりゃ深いんでしょうね。個人的には、交響曲の構造を「時間と意識の流れ」とのあいだでうまく捉えたと思っている小説に、ヴァージニア・ウルフの「灯台へ」があるんですけど、、ロシア・アヴァンギャルドにはそれ以上の傑作が埋まっている予感がピンピンしちゃいます。このへんも、もしよろしければ、今後vostokさんのブログで語っていただけると非常に嬉しいです。



>さて、音楽については憧れるばかりで何も知らず、むしろ「音楽」というオレ概念についてしか語れないので、口を開けばろくでもないことしか出てこない可能性が高いのですが、透子とワンコたちと主人公の「アンサンブル」としての会話というものについて考えてみると、音楽という概念で納得できそうな仕組みがあるような気もしてきて、あらためてうまい比喩だなあと思います。
>
> 音楽の基本は反復であり、音楽の特性は音という素材が組織的に組み立てられていることである。音楽外の世界でももちろん反復や組織性はあるけど、そこにはやはりそれらを壊すような「現実」の「出来事」があったりするわけで、むしろ組織性は壊されるほうが普通。功利主義が出張ってきて、いらないところを削ぎ落として用件だけにまとめてしまう。音楽は、要らなくても、「意味」がなくても、形式の要請に従ってある軌跡を描き続ける。透子たちの会話は大雑把にいくつかのパターンに分類できるのではないか。ある形でモチーフが導入されたら、相手はそれに対してある決まった角度で反応し、三人目がそこから導き出される反応をすると、一人目はまた決まった返事をするというような。そういうパターンがいくつかあるのではないか。別に犬の散歩をするだけなのだから、別に一言もしゃべらなくてもできる。ということはしゃべっている内容自体は、功利主義的には不要なものであり、意味がない、形式の戯れのようなものともいえる。しゃべる代わりに、例えばずっとワルツを踊っていてもいい。一緒に犬の散歩をすることになった時点で、もう勝っている。形式の戯れに応じてくれるということは、共通の決まりを受け入れ、ルールに従って意味のないスポーツを一緒にやってくれるということ。
>
>ある形式を楽しむ中では、ちょっとした即興は許される。女の子とワルツを踊りながら(僕は踊ったことありませんが)、何かの拍子に接近しすぎてしまったりしてドキッみたいな感じのやつです。キュッとターンを決める際に「あっ」と何かが刺さったり入ってしまう場合もあるでしょうか。お互い「あっ」という間のことで(何しろ形式の規則性の狭間で生じることなので)、次のターンではまたスポッと抜けてしまい、またどこかで何かの拍子に「あっ」と入ってしまったりするのです。これは主人公と透子のおしゃべりにおいては、何かの拍子に思わず恥ずかしいことを口走ってしまい、赤面するのですが、次の瞬間にはまたおしゃべりが再開されているという流れとなります。

>>トノイケテクストの恐ろしいところは、関係ないキャラが出てきたときにも間違ってそいつと踊ってしまうことです。さくらむすびではヒロインの可憐(一番可愛い)の兄の邦彦がけっこう会話に首を突っ込んできて、しかも彼なりに主人公のことを気遣ってくれたりするのですが、邦彦と「くすぐり」あっても嬉しくない。邦彦とワルツを踊って、キュッとターンした拍子に「アッ」と刺さってしまっても困る。


いえいえ、グバイドゥーリナに沖縄民謡を語ってしまうと言う、これはもう生まれたときから音楽センスに恵まれているとしか思えないvostokさんに比べたら、僕なんかはトイレットペーパーの芯で理論武装したぐらいの音楽知識・感性しかありませんよ。
だいたい、僕がワルツ音楽を始めて「美しいなぁ」と思ったのは、ラヴェルの魔改造ワルツ音楽「ラ・ヴェラス」とワルツ音楽が代表する高級文化が完全に崩壊したことを懐かしむようなノスタルジックワルツ音楽「優雅で感傷的なワルツ」ですからねぇ。
正直なところ、なんかいつの間にか恒例になっているウィーンフィルのニューイアーコンサートなんて、殆ど面白いなぁと思ったことがありませんから、僕のクラシック感性もかなり怪しいものだと言えましょう。

それに、今回のvostokさんのワルツの比喩の方が、僕のクソ長文なんかよりもトノ世界の本質に迫っているような気がして、これはもう今度のトノ作品のレビューでもパクリパクラレしちゃうぜぅヒヒと涎が抑えきれません。そうですよね。よく他のエロゲでも「攻略ルート外のヒロインの方が可愛くて困る」というようなことはよく言われますけど、トノ作品の場合はこれが男の娘にも通用してしまう……って、つい単語を間違えてしまいましたけれども、さくらむすびの邦彦と主人公の菊門の為のカノンもなかなかよさげですけど、庭のほうの主人公×島津純一という基本イケメンでメイド服に変装すると男の娘にも慣れるキャラとの衒学二重奏も背徳的でよろしいですよ。って、一応真面目モードになっておくと、一応僕には腐女子趣味はないですけど、
トノ作品の場合だと、なんかいつのまにか男キャラですら「踊ってしまうような」雰囲気が濃厚なんですよね。男キャラですらそうなんですから、所謂「女性サブキャラ」になったらコレがさらに強力で、また「庭」から例を出すと、メインヒロインの鈴村あざみというキャラに、茜と葵という二人の姉妹がいるんですが、これがもう主人公と会った初めての時から「もう踊ってしまいそうな」磁場が発生してしまう。一応テキスト的には「あざみんお姉ちゃんがよく話題にしている人だから、きっといい人
だと思った」みたいな説明があるんですけど、むろん、そうした説明より先に前述したような磁場が発生してもう半ば踊ってしまっているのは火を見るよりも明らかです。

これを考えるには、この逆のケース、つまりトノイケダイスケ作品において「踊らない」あるいは「踊ることを拒否しているような場面」を探してみるのが良いと思うんですよ。vostokさんの言葉を借りれば「音楽」が発生しないのは、いったいどういう場面であるか? 或いは「不協和音」がまき散らされている場面はどういうものか? まず、誰でも思いつくくらい強力なのが、邦彦と可憐の関係ですよね。二人の間には誰が見ても居心地の悪い空気が流れ続けている。これを作品全体の物語的設定が割り出して「義理の兄妹関係が云々」とか「実は可憐は主人公の実妹なんだ」とかやるのも結構ですし、そのような「物語の因果関係」も僕は重要だと思いますけど、取りあえずそこらへんは棚上げにしておいて、「主人公と桜」と「主人公と可憐」と
「主人公と邦彦」と「可憐と邦彦」といった会話の状況(もちろん、テキスト上でこれらの会話は複数のキャラが混じって行われますが)をよく見てみると、その会話の場面だけに限定しても、邦彦と可憐の音楽が不協和音にしかならないのは明らかですよね。本当はもっと細かくやるべきでしょうけど、まぁ大雑把に言って「甘えていることをよく知らない桜が主人公に甘えて、甘やかすことしか知らない主人公が桜を甘やかす」会話の音楽はうまく鳴るし、「甘えることに飢えている可憐と、桜を無意識に甘やかしている妹殺しの主人公」の音楽もうまく鳴るし、ついでに言えば前者の音楽を基本的には側で聴き続けている可憐はその音楽に聴き惚れながらも、しかし自分が桜と入れ替わって主人公と音楽したいという欲求をも覚えていると言える(だから、可憐シナリオには必然的に桜と主人公の音楽が対旋律として含まれる)。そして、おそらくは「こうした音楽の構造を殆ど知りつくながらも、自分では絶対にそこに入れない邦彦と、自分が音楽を演奏していることに無自覚な主人公」の音楽もこれまたうまく鳴ってしまうが、「可憐が何を望んでいるか完璧に知っているのに絶対にそれができない邦彦と、自分が邦彦に何を望んでいるか邦彦を絶対知っているのに、それが言えないし言ったところで適わないと知っている可憐」との音楽は絶対にうまく鳴らない。それはもちろん、「キャラ同士の性格が云々」といったような説明も出来るし、その「性格」をキャラの「楽器」だと考えて、あるキャラとあるキャラの楽器は和音になるけど、違うキャラの場合だと不協和音になる、といった説明も出来るかもしれない。でも、もっと全体的な視点でこれを捉えることはできないだろうか。つまり、前述した四パターンの会話とそれぞれの音楽は、独自にその組み合わせの音楽を奏でているのではなくて、それぞれの会話の音楽は実際のプレイ上の感覚がそうであるように、可憐と主人公の音楽に桜と主人公の音楽が対旋律で流れているように、それぞれのキャラクターとの会話から発生する音楽は、別のキャラクターとの音楽によってそれぞれ関係しているのではないだろうか。可憐が邦彦を嫌っているのは、もちろん性格が元からあわない云々もあるんだろうけど、実際のテキスト上でその「不協和音」が発生するのは、基本的に「主人公と桜」の音楽との連関で鳴らされるのが常であるように、トノ作品におけるイチャラブ的な音楽の和音はつねにどこかで「コイツとは絶対あわねぇ」というような不協和音と対置されている。

これが露骨に出るのは、庭における「坂上 仁」というサブキャラクターだと思います。wikiで彼は、

>>涼のクラスメイト。陸上部のエースで自信家。完璧すぎて好感を得られないタイプ。涼や絵里香をしきりに陸上部に誘う。

とかなんとか書かれちゃっているキャラなのですが、一応作品内では「メインヒロインたち」以外の「クラスメイトの女子たち」にはヒーローとしてモテているキャラなんですよね。でも、メインヒロインたちは総じて彼を嫌っている。
もちろん、これを「エロゲオタたちの劣等感を慰めるために、社会の勝者を敢えて敗者にすることで溜飲を下げるため」といったリアル人間の溜飲を下げるための説明をするのも可能だし、
「エロゲにおける主人公ハーレム状態を作るための、道化的キャラを導入するため」といった道化的批評をするのも可能です。日下部 俊也くんだったら、わざとそんな道化を演じてくれるに違いありませんからね。
まぁ、この両者の主張を仮に認めるとしても(どのフィクションにも当て嵌まりそうな要素でありますから、絶対に当て嵌まるとも言えますし)、トノの作品の場合そのご都合主義的要素は恐ろしいほど完成度を持っている。
メインヒロインたちが、この「坂上 仁」を程度の差はあれ総じて嫌っているのは、それは、メインヒロインたちが主人公のことを程度の差はあれ総じて好いているのと同じ理由なんですよね。

もっと細かく言うと、メインヒロインたちが坂上君を嫌う「それぞれの理由」が基本的に彼女たちの性格とその背後にある物語を暗示していると言っていい。絵里香については、これはもう絵里香ルートのネタバレになってしまいますから、
vostokさんに配慮して伏せておきますけれど、この何気ない伏線が徐々に明らかになっていくあたり実にトノはうまい描き方をしていると思います。瑠璃が坂上君を「嫌っている」とまではいなくても、絵里香の気持ちはわかると言っているのは、
まぁ瑠璃が「本当に心が読める」キャラなのかは未だにわかりませんけど、心が読めなくても読めたとしても、坂上君は自分に優しくすることができないところが、瑠璃にはたぶん気にくわないのでしょう。でも、主人公は心の何処かで自分に優しい。
あざみんの場合だと、まぁ彼女のシナリオはトノは書いていないのですけど、基本的には坂上君は自分と同じ真面目人間で性格が合いそうなのに、坂上君は自分よりも能力は高く努力していることは充分認めつつも、
しかし「天才ではない」と言ったら言いすぎだけれども、あんなに努力して頑張っても「自分でもある程度はたどり着けそうと想像できるくらい」の坂上君レベルしかいけないというところを見せつけられるところが複雑なのでしょう。
でも、主人公は自分と同じレベルで頑張ってくれそうで、妹たちを可愛がるように見守ってあげたくもなるし、自分を妹として可愛がってくれるように見守って欲しくもなってくる。
あざみん妹たちとの「音楽」が出会ってすぐ始められるのも、彼女たちは「あざみん」と同じような音楽の構造を持っているからでしょう。トノが彼女たちのシナリオを書いていたら絶対に素晴らしい4Pセックスが(以下自主削除)
もちろん、別にここでトノは「坂上君」を「イヤなヤツ」とか「道化的キャラ」として書いているわけでは全然ない。主人公はメインヒロインたちとは違って(メインヒロインたちも内心理解しているように書かれていますが)
坂上君を基本的には立派な人間だとリスペクト気味に語っています。まぁ、坂上君が本当に立派な人間かどうかも、これまたトノは微妙なエピソードを用いて曖昧にぼかしているのですけど、
少なくとも決定的にダメなヤツとして書いてるわけではない。むしろ、坂上君が「立派な人間」だとテキスト上で語られれば語れるほど、メインヒロインたちのある意味で「ダメさ」が明らかになり、それが坂上君との演奏に不協和音を発生させ、
主人公との演奏に素晴らしいハーモニーを奏でるように作品全体の構成が作られていると言えそうです。


なんかまたゴチャゴチャ書いてしまいましたが、これを強引に音楽という言葉に関連づけて一つの言葉に纏めるとしたら、imotaさんのレスでもちょくちょく触れたセルジュ・チェリビダッケという指揮者の言葉を引用するのが適切でしょうか。つまり、

>>「音楽の本質は音と人間の関係性のなかにある。そして、響きとこの時間的な構造と人間の感情とうごきのあいだの関係を探求することにある」

これを僕のマズイ言葉でトノ作品にパラフレーズするなら、

トノ作品における本質は(敢えて俗な言葉を使うなら)萌えと人間の関係性の中にある。そして、個々のシーンのイチャイチャと作品における時間的な構造と各キャラの感情の動きのあいだの関係を把握することにある

といったなんかB級っぽい猿まね文章が生まれてしまいましたが。つまり、vostokさんの言うように、トノのキャラクター達との会話には、ある種の音楽の反復とその組織系にも似た「何個かのパターンがある」ことはその通りであり、
その「形式」をお互いに受け入れたものが、形式通りの反応をしたりまたはそこからの逸脱としての「即興」を行うようなところもある。これはまったく持ってその通りだと思います。でも、それらは、それぞれが独立して存在して、
違うゲームと違うゲームがそれぞれ別の時間に何の連続性もなく発生しているわけではないし、何個かのパターンを全くのアトランダムに単純に反復しているわけでもない。その「即興」というのも、まったくの出鱈目が即興として
成功する可能性は極めて低く、成功する即興は常に何らかの機能においてそれまでの音楽との連続性を持っている。個々のキャラクターの会話を「あくまでその場面」だけに限定して云々するなら、vostokさんの言うことはその通りだと思うのですが、
例えば、同じ「ような」場面が作品のなかで反復した場合、僕らはその反復を「単なる反復」ではなくて、「前回と似ているけれど、ちょっと違っているな」というように、前回と今回の「差異」を時間的構造のなかで認識するように、
それぞれのキャラクターと主人公が演奏するさまざまな音楽を同じ作品のなかで体験するにつれて、僕らはそれらを「違う音楽」としてではなくて、「違う音楽だけれど、どこかに共通点があるなぁ」という薄ぼんやりした同一性を感じている。
おそらく、僕が言いたかった「アンサブル」というのは、もちろんこれは僕の説明不足が全て悪いのですけれども、個々のシーンの個々のキャラクターによる「演奏」だけに限定するものではなくて、
個々のシーンの個々のキャラクターの演奏と、また別の個々のシーンと個々のキャラクターの演奏が、物語的・時間的構造のなかでそれぞれに混ざりあうなかで和音や不協和音として機能し、それが作品のなかで一体化していく、
作品における「ミクロ」(この点ではvostokさんの仰るとおりです)と「マクロ」のアンサブル的融合のことを言いたかったのだと思います。本当に言葉足らずで申し訳ありませんでした。


>>まあでもマルセルさんの説明を聞いているとさくらむすびも読んでいて心地のよい作品だったような気になってくるし、Gardenとかもやってみてもいいんだろうなあと思いました。やはりストーリーだけではない何かがあるように感じられると、あとはテンポがおかしかろうが未完成だろうがある程度はどうにでもなってしまうのかもしれません。

僕のマズイレビューが幾らかトノ作品への興味をかき立てたのなら、これ以上嬉しいことはありません。ただ、一応断っておくと、Gardenという作品のなかで(今現在)トノイケダイスケが書いているのは「絵里香シナリオ」と「愛先生シナリオ」の2本だけ、というトンデモな仕様だけは覚悟しておいてください。「瑠璃」シナリオは未だに書かれていないし、他キャラのシナリオは別ライターによって書かれています。まぁトノイケダイスケと別ライターの「圧倒的な違い」を確認するためには、面白い
仕様だとは思いますけれど、普通のエロゲーだと思ってやると面食らうので、そこらへんはさぁvostokさんもご一緒にトノ早くパッチ出せやゴルぁを唱えませぅ!

>>猫撫ディストーションはあまり無理にはお勧めできないかもしれません。トノイケ作品と同じくある種の過剰性があることは確かなのですが、こちらはそれほど感覚的なものではなく、もっとB級感があって器用貧乏な感じです。とはいえ、いくらグダグダ言っても、ヒロインのビジュアルや声が気に入れば全部どうでもよくなることもあるわけで、僕はストーリーも込みでけっこう好きになれた作品です。

いえいえ、ぼくはそういうB休刊(←誤変換ですけどなんか気に入ったのでそのままにします)のある器用貧乏な作品な作品も大好きですよー。というか、元長氏の作品は昔からわりと好きで、哲学的な話は僕にはよーわかりませんけど、vostokさんの言葉を借りれば、理屈バカ的なコンスタティブな言葉よりも、その「理屈バカ的なコンスタティブな言葉」を語っている作品の時間的な流れが、なんかラーメン屋でテキトーな哲学っぽい話に興じているような風情があって、そこらへんをパフォーマティブ
に楽しんじゃっているような気がするんですよね僕は。おそらく、vostokさんの今回の夏コミの猫撫論で作品のコンスタティブな部分は明晰に理解出来ると思われるので、そこらへんを僕はパフォーマティブに置き換えて楽しめば何かあたらしいものも発見できるかもしれません。夏コミの猫撫論と、猫撫ディストーション、楽しみに待っています。
マルセル2011年07月05日

88ワンコとリリー (CUFFS)
トノイケダイスケの作品にはイベントらしいイベントがないとか、物語らしい展開が少ないと言われがちではある。これは相対的な評価、つまり「他のエロゲと比べた場合の特徴」という意味では正しいんだけど、その作品そのものを見た場合にそのように評価できるか?と言われたら結構むずかしい話ではある。もしも、正確に定義してみるなら、トノイケダイスケにおける物語とは「発展しない」「展開しない」物語、或いは「循環する物語」や「変奏する物語」というべきものだろう。登場人物たちが巻き込まれる状況であるところの物語空間は存在するのだが、それがある一定の方向をもって「進み」はせずに、前に進んだりうしろに戻ったり、方向がわからなくなってその場で昼寝をしたりする。この作品の「お散歩」のように、お散歩に目的地は必要かもしれないが、お散歩は目的地にたどりつくためにするものではない。それはただあるいて誰かとなにかを話す物語である。 → 長文感想(38720)(ネタバレ注意)(7)
最新レスお返事遅れてすいませんでした。なにぶん慣れない片手打ちでキーボードを打っているもので、何箇所か稚拙なタイプミスをやってしまう可能性が高いのですが、どうかご容赦のほどを。
しかしネット上のレスというよりは、19世紀の作家の全集に収められているような、長文の手紙のやりとりみたいになってしまってますね。もちろん、vostokさんが御高名な作家の方で、
僕のほうはその高名な作家に勘違いめいた妄想議論をふっかける迷惑な作家志望の青年って感じなのは言うまでもありませんけど。

>>(ロシアネタに反応してくれたマルセルさんのような奇特な方は別にして、大抵の人は上の素晴らしいレビューの後でこんな蛇足を読んだら気分を壊される可能性があるので、
僕の感想の方にご返事を書こうと思ったのですが、ここはやはり、この恐ろしい変態紳士マルセルさんに敬意を表しつつこちらに投稿させていただきます。失礼いたします。)


いやいやいや、それは多分逆ですよ。比喩的に言えば「なんでこんなヨッパライが撮ったようなものをTVで流すんだ?」と言いたくなる酷い映画を最後まで見ちゃったあとに、
淀川長治さんの「どんな糞映画でも必ず一つはイイ所を見つける」素晴らしい映画解説をつけてもらったようなものですから。最後の最後まで僕の糞長文を読んで「こ、こんなものを読むためにオレは1時間も使ったのか?」と、
項垂れているような人や、賢明にも最初の数行読んで「これはダメそうだな。結論だけよも」とスッ飛ばした御仁も、vostokさんのコメントを読んでくだされば、マルセルたんの粗雑な議論もスムーズに理解できるうえに、
おまけに「なんだ。このマルセルとか言うヤツもそれなりにマトモなことを書いているんだな。勉強になった」と僕のテキストを過大評価してくれるに違いありませんから、これほど有り難い不労所得は他に考えられませぬ。
しかし、よく考え見てみると、こうして僕がレスをしてしまうと、vostokさんの有り難い解説効果も無駄になりしないか?……えーっと、以下の文章は全てフィクションであり登場人物は全員130歳以上のピチピチの老婆だから気にしてください。



>>僕の書く感想は、書いているときはうまいことを言えた気になるのですが、書き終えてしばらく経つと、どこか肝心なところをはずしていて、問題と回答をマッチポンプででっち上げてしまったような気になることが多くて、
我ながら困っています。思考が硬直しやすい粘着質な性格と、用語に振り回される未熟さと、あとは単純に頭の悪さが原因ですね。


うーん、あくまで僕が見る限りでは、vostokさんの文章にそのような欠点を感じたことはないんですけどねぇ。まぁ今まで生きていて、文章を書いていて「上手いことを言えた」気分になったことが一度もない僕が言うのもアレな話ですが(笑)。
本人の前でこういうことを書くのもどうかと思うんですけど、僕にとってvostokさんの文章は実に「利用しやすい」んですよね。読んでいて、どういう問題を挙げていて、どういう回答を導き出しているか?、
そして、それらの問題系列が、その作品のなかでどのような位置にあるのか実によくわかるので、偉そうな云い方でまことに申し訳ありませんが、vostokさんの出している「問題」や「解答」が、あくまで僕にとって「筋違い」なものだと思えても、
こちらはその「筋違い」なところを明確に認識できて、そこから自分の考えている「問題」や「解答」を今まで以上に正確に形のあるものに作り上げることができる。実際、今回のレビューなんて、殆どがvostokさんの文章を僕の言葉で、
「翻案」したような部分で占められているようなものですからねぇ。vostokさんの「思考が硬直」しているかどうかは僕にはわかりませんけど、僕はその「硬直」をお湯で溶かしてブルーハワイぶっかけてウマウマやっているようなものですから、
vostokさんのレビューがなかったら、絶対に今回のレビュ-は書かれていませんでしたよ。本当にありがとう御座います。願わくば、他の誰かが僕のレビューをたたき台にして、もっと素晴らしいワンリリのレビューが書かれることを祈っています。

しかし、用語に関しては、それはもうvostokさん以上に僕の方が数百倍酷い!と自慢できる部分なので、この点については譲れませんな。そもそも、最初は自分が物事や対象を整理する為に「用語を使い回す」ハズだったのに、
知らぬあいだに「自分」が「用語」に振り回されている有様で、文章の最後の方になってくると「自分」が考えているんじゃなくって「用語」のある種の一貫性を整えるためだけにテキストを書き進めているような気分になってきちゃう。。
特にエロゲ批評の場合の「萌え要素」だの「シナリオ」だの「○○属性」みたいなものは、基本的に確たる意味は存在しないと言ったら言いすぎですけど、もともと「何となくこんな感じぃ?」っていうレトリック風味が強くて、
レトリックならレトリックでそれで良いんですけど(レトリックでしか語れないものというのは、確かに存在しますから)それがなにか確たる意味があるものとして硬い議論のなかで使ってしまうと、
結局は「○○の中に好きな意味を代入してください」みたいな文章になってしまう。んで、エロゲ批評つ-のはそれで結構通じてしまうところが怖いんですよね。「未来にキスを」をさらに2~3歩進めたような感じで、
自分は相手のなかの○○を通じて、相手は自分の中の××を通じてコミュニケーションを取る(別にコレはそんなにぶっ飛んだ考えではないと思うんですが)んじゃなくって、同じ「○○」の定義を信じているようなコミュニケーションをしているのに、
実際にその○○と言った批評用語は各人のあいだで××や△△といった意味の違いがあるのに(それ自体は良くあることだと思いますが)、それを全く認識せずにスルっと「そうだ!そうだ!」となってしまうところがなかなかに風流ですよねぇ。

僕の文章が基本的にクソ長いのもその辺が原因でしょうね。上のような状態になると困るから、なるべく「用語」を使わないか、もしくは自分の文章で使う用語の意味範囲をなるべく明確に記述してから用語を使うようにしている。
そうすると、確かに「用語」に振り回されることは少なくなりますけど、思考のスピードや文章のテンポが鈍くなるし、どうしても繰り返しや余剰な部分が増えてしまう。なんか蛮族の兵隊を指揮して人海戦術と大量物量作戦で
対象をぐるりと囲い込んで包囲殲滅しちゃうような品のない文章になっちゃうんですよねぇ。で、最後には結局、包囲殲滅しようとした相手はとっくに逃げて、ブチ切れた兵隊さんたちに指揮官マルセルはリンチを受けて死亡しますたと。
原文のロシア語はどうだか知らないですけど、昔フェチ心で全巻読破したスターリン全集の文章に似てきてしまう。あんなものを昔の人は必死になって読んでいたんですよね。エライもんだナーと感心した覚えがあります。
まぁ「ワンリリ」みたいに作品そのものが、早い思考では捉えにくいものだったら、このようなスタイルも悪くないかなーとは思ってついダラダラやってしまいましたが。


>> これをエロゲーで表現しているのはトノイケ作品くらいなのでしょうか。小説だとけっこうあるんでしょうかね。話が脱線しますが、革命前夜のロシアにはミハイル・クズミンという作家・詩人兼ピアニストだった人がおりまして、クズミンは分離派(異端派)でホモだったのですが、なんとなく似たような「流れていってしまう」明るい宗教的な小説を書いていたのを思い出しました。ハッテン的な方向にも流れていってしまうのですが。クズミンには古代アレクサンドリアを題材にした連作詩があるのですが、これも不思議な明るさに満ちています。ワンコたちも爽やかなアレクサンドリアの小道か何かを散歩していれば、その非現実的な明るさ(おしゃべりの内容は全く日常的でも)にすぐに気がつけたのかもしれません。というよりはおそらく、けちくさい現代の日本を舞台にこうした雰囲気を現出できることのほうに驚くべきなのかもしれません。

>>調子に乗ってまたロシアネタを書きましたが、要するに、浮世離れしたという形容がこの作品に合うとするならば、それを世俗から離れたと言い換えて、そこに宗教的な雰囲気を読み取るのもいいのかなとマルセルさんの文章を読んで思いました。世間は分かりやすく始めと終わりがある物語を求める。仕事でも、商材には「ストーリー」が必要だとか言われてるし、そういうパッケージングされた物語は今の世相にもあっているのかもしれません。こういう風潮が出てくる背景には、一昔前に「終わりなき日常を生きろ」というフレーズが象徴していた、灰色に塗りこめられた現実の日常感覚があるということかもしれません。エロゲーで社会を語るとか、はしたないまねをしてすみませんが。


「ええっ!? あの超絶バカテク爆走演奏で有名なクズミンって詩も書いていて、ロシア・アヴァンギャルド時代からの生き残りだったの?」とあらぬ妄想が5分ぐらい頭を駆け巡りましたが、
ググってみたところ、パカテクピアニストのほうは「レオニード・クズミン」で、vostokさんが仰っていたのは「ミハイル・クズミン」だったんですね。しかしこれはクラシックオタの運命の巡り合わせなのかどうか、
ミハイル・クズミンとレオニード・クズミンで検索していたら、なんと「ミハイル・クズミン」の方が、おそらくvostokさんが仰る「アレクサンドリアを題材にした連作詩」に、これまた自作の音楽をつけた歌曲作品が、
今年の七月あたりに「世界初録音」という触れ込みで発売されるみたいです(ナクソスオンライン上ではもう聴けるみたい)。ただ、vostokさんが仰っている詩人とは別の、全く同姓同名の別人かもしれませんので、
もしよろしければご確認して頂けると助かります。

http://ml.naxos.jp/album/NF9993

http://www.hmv.co.jp/product/detail/4095897

僕も本当なら今すぐ、ナクソスオンラインで聴きたいのですが、もうCDをHMVで予約しちゃったし勿体ないなぁという貧乏性があって、あと二週間近くは我慢しようと思っています。
僕は当然のことながらロシア語に関しては殆ど無知ですが、小学校高学年くらいからでしょうか。ショスタコーヴィチの「マリーナ・ツヴェタエワの詩による6つの歌曲 OP143」だの、
「アレクサンドル・ブロークの詩による7つの歌曲 OP127」だのをわりとよく聴いていて、まぁ実際のところ「音楽」に惚れたのか、それともその「詩」に惚れたのかどうかはロシア語に無知な僕ではわかりませんけど、
深海をほのくらい光を頼りにずるずると下降していくような後期ショスタコーヴィチの寡黙な音楽と、小学生の頭では翻訳文を読んでもよくわからなかったものの、少なくともコレは自分の知っている体系の「なめらかな」歌ではないけれど、
言葉の響きそのものが頭に刻まれていくようなロシア語のポリフォニーが癖になって、何度もCDを聞き返した記憶があります。小学生では取りあえずは「詩」の意味はわかりやすい「交響曲第十四番 死者の歌」方が理解しやすかったのですが。
それ以降、まぁメインの趣味ではないものの、ロシア芸術関係のネタはちょくちょくそれ関係の本とか読んでいて、素人に毛の生えた程度には20世紀ロシア芸術を知っていた気分にはなっていましたけれど、
今回の「ミハイル・クズミン」は「なんかどっかで聴いたことがあるような……」ぐらいしか思い出せませんでした。本場のロシア超人は違うなぁ。やっぱ、vostokさんは将来、どんな媒体でも良いから、
殆どあまり知られていないロシア・アヴァンギャルド作家の「魅力」について語る本なり語り下ろしCDなりを出すべきですよ(同人エロゲを出すのも良いかもしれません。ロリコンのマイナー・ポエットが最後にスターリンの娘と結婚する話とかw)
しかし、作家であり且つピアニストであり作曲家つーありようは、いかにも昔のロシア風の芸術家って感じで妖しげでいいですね。昔、ロシアの作家が作った小曲を集めたCDを聴いたのですが、どれも素朴な美しさに満ちていました。

http://www.hmv.co.jp/product/detail/1868699


本題に戻ると、トノ作品と世俗性やら宗教性やらについてツラツラ考えてみると、さらにキーワードとしてここに「浮き世」という言葉を並べてみるとわかりやすいかなぁと思います。僕の見る限りでは、
確かにトノ作品は「浮世離れ」ているように見えますけど、それは「世俗」を「浮き世」としてみている、と言った方が正しい部分があるんじゃないかとも思うんですよ。
ここでいう「浮き世」つーのは慣用句的な意味じゃなくって、やや皮肉な意味合いで「世の中なんてものはいきなりしょせん浮いたり沈んだりしちゃうわからんちんなものなのさ」みたいな小林一茶的な感覚ですね。彼の有名な句を何個か引用すれば、


浮き世にも 浮き世ながらに 塵溜(ちりたまり)

とか、

みな言われ 考えられた 遅すぎた


といった感じで、この句のパラフレーズは不要かと思いますが(特に後者の句はどこぞの長文野郎にたぁんと噛みしめてもらいたいものですね!)こうした感覚は完全に「浮き世」から離れているわけでも、
「浮き世」の中にどっぷり浸りきっている中からは発せられるものではないと思うんですよね。世俗の中に身を置きながら、ある程度世俗の価値観なり行動倫理なりを自分なりに実行しながらも、
そうしたある程度は現実的な生活を「浮いている世の中」として眺めている感覚、とでも言えばいいんでしょうか。

これをワンリリの物語内におきかえてみますと、まぁあの世界そのものが現実の社会と比べて「浮世離れている」と言えばそのとおりかもしれませんけれど(笑)、でも、一応は作品内のレベルでみてみるとどうなるでしょうか。
透子さんなんかは基本的には「世俗」の社会で社会人として働いている人間ですよね。しかもけっこーやり手っぽい感じで、誠一ワンちゃんを無意識に操っているような砂の女っぷりが実に溜まらない。
ぷーたろーの誠一君はなんだか頭の20%ぐらいがいつもボケっとしているようなところが「浮き世離れ」っぽいですけど、一応はまぁぷーたろーながらも社会人として行動しているとはいえるでしょう。
そこにワンコたちがやってきて、彼女?たちはまぁ基本的には「動物」と言っていい存在だから、世俗の世界とは関係ないし、さらに「浮き世」云々も、そもそも人間と同じ価値判断が通じない生き物だから
「浮世離れ」というか単に「別の世界」にいる存在だといっていい。だけれども、この2人と2匹(?)が集まって、例の散歩が始まるとどうなるのか。

その「完全に世俗の世界に入っていない」人間と「基本的に世俗の世界に入っている」人間と、その2人が飼っている「別の世界の存在」が、散歩の会話のなかで、現実世俗的な文脈のレベルの会話が、わんこの存在を通じて、、
主人公と透子さんの「幼馴染み」としての「世俗をまだ完璧に知らないが、世俗の文脈の上に成り立っていた(現在から見ると)浮世離れしている過去」によって奇妙に変形していき、
そして、その二人の会話もワンコたちの「人間的価値とはおそらく違う存在」の行動を解釈することによって、少しずつ意味を変えていくことになる。むろん、それは「動物」の価値判断を「人間」によって捏造している、とも言えるわけですが、
その捏造行為によって少なからず「人間」や「世俗」の価値判断も「動物」によって何らかの変更を加えられていると言ってもいいでしょう。こうしたやりとりはvostokさんの仰るように確かに「浮世離れした純度」を感じさせますが、
会話に参加している人間が基本的に「浮世離れ」しているわけではなくて、この2人と2匹の動物のアンサブルの完成度そのものが「浮世離れした純度」を持ち、またそこで交わされる、さまざまなレベルの「世俗性」の絶え間ない変容が、
現実世界における典型的な「世俗べったりを疑わない」の会話とは一線を画しているので「浮世離れ」しているように思われるのではないでしょうか。
(又は、世俗の価値観が何であれどこであれ、宗教の戒律のように優先権と自意識をもつ現代社会と比べて)。

要するに、トノ作品においては、基本的に世俗から「脱している」ともいえないし、基本的にはその作品が内包する(多くの場合は基本的に幸せな)「世俗」の中にどっぷり浸かっている、と言ってもいいと思うのですけど、
そうした秩序はとても危ういバランスの上に成り立っており、多くの場合はその「世俗」は、一歩扱いを間違えたら完全にぶっ壊しかねない何らかの超越的な存在によって成り立っている感覚がある、と言えると思うんですよ。
そこから、いま現在の世俗の世界の幸せを充分に満喫しながらも、しかしその世俗の世界の幸せの根本的なところを「世俗世界の基本的なルール」や「人間中心のわかりやすい物語」には求めておらず、
それはいつだって人間以上の不条理な美しさを人間たちに与えてくれると言う期待が生まれるし、また一方では人間では理解できないような不条理な苦しみを人間たちに与えてしまうという恐れも生まれる。
それがトノ作品における宗教性ってところでしょうか。具体的な何とか教といった特定の超越性を信じている、みたいな話ではなくて、具体的な世俗の具体的な対象(人物や集団)のひとつひとつは、
何らかの自分ではよくわからない超越的なものに上に成り立っているというような、あくまでも世俗の具体の中に存在している、でもあくまでも世俗のルールや規範では捉えきれないなにかを感じる能力とでも言いましょうか。

一番わかりやすいところで言えば、さくらむすびの「サクラのお化け」とか「化け物」ですね。たぶん、アレを「部落のなんたらかんたら」だとか、近親相姦がどったらと解釈するのは表面的なもので、
まぁそのどちらの因果関係にしても、部落差別だとか近親相姦のタブーなんてものは単に人間がつくり出した利益配分のシステムじゃないですか。だけれども、そのシステムが長い歴史の中で本来の意味性と文脈を失い、
おそらくは登場人物達の全員が「事の真相」を全部は知りきれないながらも、それが「神話」として(多くの場合、登場人物たちがその神話に自分たちのテメぇ勝手な解釈を付けくわえながら)現実の世俗の中で、
さまざまに意味を変えながら自由気ままに駆動しているところに、その宗教的な感覚の「美しさ」もあれば「怖さ」もあるんじゃないかと思います。
まぁ、この辺は出来れば、「さくらむすび」のレビューで描き直したいなぁと思っているんですけど、ややナマっぽい話をすれば、311以降この「神話感覚」が個人的にアクチャルなものに思えてきて、
いや特定の宗教に目覚めたとかそういう話では全くないんですけど、ああいう大震災が起こってもポポポポーンを平気で垂れ流して何の騒動も起こらない今の日本って実は「さくらむすび」の世界と同じなのではないかと、
「化け物」の正体に日々脅えながら、それでもエロゲの紅葉たんにすっかり骨抜きにされている毎日を、どうやって批評化したらいいのかと自分のおつむとティムポに相談する毎日が続いております。
というのも、実のところ、あまり答えたくない問いかけではあったんですが……

>>趣味悪い話になりますが、透子と主人公たちに大きな不幸が訪れたときにはどうのなるのだろうか。

これが問題になるんですね。いやぁ、実に目の付けどころがシャープですよ。僕のレビューに潜んでいるあなたの菊門がソニーですってところをズバっと突っ込んでくれ未知の快感に僕のキンタマが(以下自主削除)
端的に言えば、トノ作品の一つの深淵がそこにあって、なるほど、確かにこの「ワンリリ」や「さくらむすび」の紅葉ルートや、「庭」の愛ちゃん先生ルートのように、
「ヒロインと出会う前に」或いは「ヒロインと一緒に」過去に経験した不幸については、ワンリリのレビューで書いたような「幸せと不幸」を共に条理と見なすような感覚でなんとか語ることができる。
でも、その物語の中でヒロインと共に現在進行形で降りかかる「不幸」については、どのように解決すればいいのか? 少なくとも、現在進行形の悲劇に直面している人にとっては、18世紀のフランスにおいて、
リスボン大地震を経験したのち、当時主流を為していたスピノザ/ライプニッツの楽観主義神学に猛犬の如く挑み掛かったヴォルテールの如く「あなたたちは嘆き悲しむ声で『万事が上手く言っている!」と叫んでいる……」と言いたくなるに違いない。
トノ作品でも、例えば「ばけもの」に遭遇する「さくらむすび」の桜ルートや可憐ルートや、庭における絵里香ルートなどは、正直に言ってなにか不気味なものから必死に逃げ回っているような感情と不気味な沈黙しか語られていません。
「さくらむすび」における紅葉ルートのあらゆる意味での充溢に比べて、他二人のルートでの、単純なテキスト量でいっても「真空と沈黙」は、まぁ基本的には「シナリオの出来が悪い」とは言えるのですけど、
トノ作品全体で見た場合にはかなり不気味な徴候を示していると言っても良いのではないでしょうか。いや、別に僕はそれをわかりやすい物語のように「解決しろ」とは言いたくないし、
逃げ回るなら逃げ回ることに必死になればいいじゃないか!という気持ちすらあったんですけど、まぁ現実の世界がポポポポーンである以上、やっぱ現実はフィクションを越えるものなんだなと痛感する日々が続いております。


>>エロゲーをヒロインとエロいことをするために目的論的に組まれたプログラムと見ると、エロシーンが「「日常シーンの延長」いや「物語全体」から地続きで続いているひとつのエピソードにほかならない」トノイケ作品は、
その原理的な仕組みを無視した変わった構成をしているということになるのかもしれません。時間の流れ方を説明しようとして『猫撫ディストーション』がコンスタティブにやったことを、『ワンコとリリー』はパフォーマティブにやったのかもしれない(次の夏コミのエロゲー論集向けに猫撫論を書いてこの辺ことに触れました。でも『ワンコとリリー』のことには思い至らなかった)。

おお、例の30人ぶっ殺しエロゲ論集に猫撫論を書くんですか。紙にのこすばかりか、シカの糞に文字を刻みつけるのも躊躇われる僕の文章力では5世紀近く掛かっても達成できない偉業ですよ。素晴らしいですなぁ。
次の夏コミって「今年の夏コミ」のことですよね? 去年出たアレは、僕の友人が買ってきたものを借りた読んだという貧乏性でしたけれど、今年のものはちゃんと金だして買おうかしらん。
でも、猫撫はまだやってないんですよねー。こうなったら夏コミの深夜行列のときにネットブックでやってしまおうか。気分的にああいう環境の方が理解しやすそうな作品ではあるし(注:猥褻物陳列罪で捕まるかもしれません)
だもんで、猫撫については僕はまだよくワカランチンなのですが、「ワンリリ」と

>>エロゲーをヒロインとエロいことをするために目的論的に組まれたプログラムと見ると

という点で思いついた点をちょっと書いておくと、僕は確かに「ワンリリ」というかトノ作品はそこらへんをかなり「意識的」に描いている作品だとは思うんですけど、
僕が所謂「そこらへんのB級萌えゲー」や「シナリオという点でみたら非常に低い」評価を与えられている作品や、「たんに萌え要素ばかりを集めた萌えゲー」が好きでよくやっているのは、
vostokさんの仰るそうしたプログラムが「バグったり」「上手く行っていないような」ところがおもしろいと思うようなこともあるんですよね。とはいっても、別に上のような評点に文句があるわけではなくて、
それはおそらく「シナリオ」的な価値判断で言えば、vostokさんの言うプログラムがうまくまわっていない――「ヒロインとエロいことをするを、ヒロインとわかりやすい物語するということを同義と考えれば」――わけだし、
僕としても、ついさっきやった「CAFE SOURIRE」で、抑圧的な家族の物語を書いている癖に、それをまぁいけしゃあしゃあと最後にご都合主義的に「家族愛」だと言い張る糞シナリオをみるとレーニンの如く言葉のこん棒を振るいたくなるわけです。
故に、そうしたプログラムが作動することについては、「やるならちゃんとやったほうがいいんじゃね?」ということで何ら批判はないし、別に僕はプロテスタントではありませんけど、
きちんと仕事をする人間はリスペクトするべきだとは思います。実際「物語」というプログラムをちゃんと実行するにはそれなりに努力が必要ですからねー。

だけれども、エロゲーというプログラムは、少なくとも僕の見る限りでは「物語」や「エロ」や或いは「ゲーム性」でも良いですけど、それらを完全に美的に実行するには「どこか抜けた」ところがあると思うんですよね(笑)。
いや、別に「エロゲーに芸術は必要はねぇ」だとか「エロゲはエンタティメントで充分」みたいなストイックな物言いはどうも苦手な淫乱野郎でございますが、逆に言えば、どうにもエンタメで徹底したらエロゲではないような気がするし、
芸術という言葉になにを含意するかどうかは兎も角、あえて悪く言えば厨二病的なそういう「芸術的な欲望」を完全に捨てきったエロゲなんて、ちっともおもしろくないんではないの?と疑問に思うような中途半端さがエロゲにはある。
こういうのを別の言葉で言いかれば、先ほどのvostokさんの言葉を借りると、


>>そういうパッケージングされた物語は今の世相にもあっているのかもしれません。こういう風潮が出てくる背景には、一昔前に「終わりなき日常を生きろ」というフレーズが象徴していた、
灰色に塗りこめられた現実の日常感覚があるということかもしれません。


つまりは「終わりなき日常」を「キャラ萌え」だの「○○属性」だの「イチャラブ」だとか言ったような概念が代表される言葉でエロゲのなかで求めながらも、
その反対として「わかりやすい終わりと始まり」みたいなものを「シナリオ重視」だとか「現実的な物語」だとかといったような言葉で求めていると言えると思うんですよね。エロゲ批評もだいたいそっちの方向性で二分されていて、
それがエロゲ批評用語の「シナリオ」と「キャラ萌え」の対立となって現れているし、用語だけではなくエロゲ批評の文体や価値判断の基準となっている前提も基本的にはそれを踏襲している。
まぁこれはその作品の「大まかな傾向」や「どういう人がこの作品を買うべきか?」を紹介するバイヤーナビ批評では良いとしても、
ある作品を独自に分析すればそんなスパっと「キャラ」と「物語」が分かれるわけないですわな。キャラを動かすにも「物語」が必要だし、最近だと「特定のゲーム性」を利用するケースが増えています。、
物語から得られる「感動」だってだってキャラが立ってなきゃ恣意的な骸骨の踊りにしかならないわけですわな。泣きゲーが典型的にそうであるように、どーでもいいヒロインをぬっころしたところで「とっとと氏ね」としか思えないし、
いくらシナリオ重視ゲーだって、基本的には「美少女萌え絵」が必要とされているわけですから(「街」みたいな作品がもってあって良いと思うんですけど)

実際のところ、この「キャラ萌え」と「シナリオ」はそれぞれの作品のなかで独自の方法で調和なり分裂なりしているとは思うんですけど、個人的には、どちらかと言えば「萌えゲ」よりに分裂した作品のほうが、
なんていうのかな、現実社会の「終わりなき日常」と「わかりやすい物語」の居心地の悪い同居によって成り立っている現実がより切実に語られていると思うんですよね。
いや、もちろん「現実を知るためにエロゲをやっています」なんて言うつもりはないんですが(笑)、
うーん、もっと卑小なレベルで言えば、たとえばテキトーな萌えゲをやっていて、ある展開が気に食わなかったりしたときは、自分がどういう「終わりなき日常」を求めているのか何となくわかってしまうし、
「退屈だナー」とか思うときは、自分が「どういうわかりやすい物語」を求めているのか何となくわかってしまうものなんですよ。B級萌えゲーというのは、そこらへんの分裂から「けちくさい現代の日本」の感覚がよく伝わってくるし、
まぁ10シナリオに1シナリオくらいのの割合ではありますが、その「けちくさい現代の日本」のなかでしか見られないような、「わかりやすい物語」と「終わりなき日常」が奇跡的に融合するような美しいものが一瞬だけ見られることもある。
基本的に「けちくさい現代の日本」にずっぽりぬっぽり嵌りつつも、その「けちくさい現代の日本」の世俗社会でさえも、こんな非生産的な駄長文をグダグダ書いてしまうくらいには適応しきれていないぼくにっとっては、
そのB級な奇跡がとても切実なものに思えちゃうわけです
(とか言いながらも、今日も今日とて、ブルックナーだのマーラーだのベートーヴェンだのショスタコだのを聴いてウルルルと感動したり、グバイドゥーリナだのシェルシだのフェルドマンだのといった現代音楽に耽溺する淫乱な日々でありますが)


ワンリリを上記の二点から言うと、基本的には「終わりなき日常」を語っているように見えながら、実は「わかりにくい物語」を語っているような作品だ、ということになるんでしょうか。
vostokさんのプログラム論で言えば、もしもこれが普通の作品ならば「父と子」の「わかりやすい物語」を主題にして、その媒介項に「わんこ」や「透子さん」をヒロイン設定にして、
「わかりやすい父と子の物語」と「ヒロインとエロいことをするため」を実現するために、前者の物語は後者のヒロインの恋愛物語とその終局であるセックスで解決されるような感じになるんでしょう。
でも、このワンリリは、確かに表面上は「わかりやすい父と子のエディプスコンプレックス」を主題に上げているように見えながら、そこに「透子さん」や「ワンコ」たちは直接的には関わらずに、
彼女たちの「終わりなき日常」が主に語られてこれはまったりゲーのように見える。しかしながら、まったりゲーのように見えながらも、まさにその「まったりとしたテキスト」のなかで、
ワンリリのレビューで書いたような、とても緻密なアンサブルが組織されており、その機能和声進行によって「父と子のわかりやすい物語」では語りきれない「わかりにくい物語」がそれとなく暗示されながらも、
表面上の劇的な展開はないまま物語は進まないように見えて、しかし最後には今までのプレイ時間のなかでなにか大切なことが語られていたことがわかるようになっている。

だから、プログラムの比喩で言えば、ワンリリはエロゲにおける「物語展開」「キャラ」「日常テキスト」「エロしーん」といった、それぞれの要素の典型的な「組み合わせ」を違うものにしている作品ってことになるでしょうか。
いっけん「物語展開」そのもので言えば、要約すれば「父と子の葛藤」みたいな話になるし、「キャラ」も「幼馴染みゲー」の代表格といえる透子さんだし、日常テキストも「散歩」という日常を語っていると言えるし、
エロしーんもトノ一流のエロテキストというように見えて、それぞれを「個別」の要素として見てしまうとこれは普通のエロゲと変わらない。だけど、それらの要素の機能の組み合わせを、全体的な視点から見ると、
全く異なるものが見えてくるって話なんだと僕は思います。プログラムで使われる記号は全く他のエロゲと変わらないけど、その計算式が全く他のエロゲと違うのがトノ作品ってことになるのでしょうか。
それで、僕の言う「B級萌えゲ」は、おそらくライター氏の不如意のせいで、この組み合わせが変にバグって異臭を放ったりするわけですが、トノ作品もB級萌えゲもそういうところが好きだったりするんでしょうねぇ僕は。
「猫撫」がどのような作品になっているのか、今から楽しみです。それとなくお奨めして頂き、ありがとう御座いました。


ああ、また長々と書いちゃいましたね。こりゃ本文込みで言ったら、2時間いや3時間の超大作コース間違いないッスわ。しかもその内容足る三時間かけて足コキオナニー(しかも自分で!)をスローで記録するようなナンセンス!
まぁなにが言いたいかというと、基本的に僕のレビューの大半はそういう「B級エロゲのB級とはなにか?」を延々と論じているようなものなので、そういうものに興味がないようでしたら、たぶん読んでもあまりおもしろくないと思いますが、
「なんでこんなB級な作品が、評価が高かったりするんだろう?」と蛮族の感情様式に興味を持たれた場合には、それなりに役に立つところもあるかもしれません。バカとハサミは使いようという言葉を信じることにしましょう。
僕がvostokさんに提供できるものと、vostokさんから僕が得ているものを比べたら、どう考えても自由貿易が成立する余地はなさそうですが、ここは慈悲深き大いなるネ申ひろいん氏が統治する地獄のエロ助批評空間三丁目じゃありーませんか。
もしかしたら、庭の追加パッチが今すぐにでも発表されるような奇跡が起こって、vostokさんが僕の糞長文の中からなにか有益なものを発見できるかもしれません。あともうちょっとは使えそうな乾電池とかそれぐらいのものは見つかるでしょう。
そんな奇跡を天とトノに願いつつ、とっととパッチだせよゴルぁと発作的にデスりながらも、これからもどうぞよろしくお願いします。
マルセル2011年07月01日

75ワンコとリリー (CUFFS)
日常の中で日常から離れ、犬の話を読みつつ犬のイデアを観想。いびつなはずだけど心地よい。 → 長文感想(2064)(ネタバレ注意)(1)
最新レス始めまして。最近あまりロシアねたが少ないんで多少残念なんですけど、いつもブログの方を楽しく読ませてもらっています。今回、自分の書いたワンリリのレビューにvostokさんのレビューをわりと長めに飲尿じゃねぇや引用させて頂き、
なんかエラソーなことを幾つか書いてしまったので、ここに報告しておきます。なにかおありでしたら、まぁどこでも良いんですけど、エロ助のどちらかのワンリリのコメ覧か、vostokさんのブログか、僕のユーザーコメのメールにでも送ってください。
まぁ、僕のレビューはいつものようにクソ長いんで(苦笑)、vostokさんのコメントについて触れている場所だけを知りたいなら、本文を「プラトーノフ」とか「みさくらなんこつ」で検索して頂ければだいたいの要旨はつかめるかと思います。
マルセル2011年06月28日

83同級生オリジナル版 (elf)
エロゲーの元祖といわれている作品だが、改めてプレイすると、なんともアナーキーな作品である。大日本エロゲ帝国憲法修正九条により、女性キャラクターは全て18歳以下であるはずだが、この作品は同級生といいつつ20歳以上の還暦を迎えたおばはんが攻略キャラの大多数を占め、下は16歳から上は25歳までのババァが幅広く出現する。ゲームシステムも極めて異常だ。一部キャラを除いて、複数キャラを同時攻略しないと狙ったヒロインを攻略できない異常フラグ。主人公は複数のキャラとHをし、ババァから性病を移され痛むチンポを宥めつつ、二股で悩んでいる親友キャラをバツの悪い気分で眺めながら、時にはそいつの彼女を寝取ったり寝取られたりして、夏休みの最後の日までに、本当に好きな女の子と自分の将来を決めなくてはならない。18年前のエロゲの未成熟な試行錯誤と、全てはこれからだという熱気が伝わってくる歴史的な作品である。 → 長文感想(41577)(ネタバレ注意)(18)
最新レス>>fusenekoさん 

おおっ、まさか現役ユーザーの方が読んでくださるとはっ! 小四の頃に「変な主人公とえっちい絵がたまにあるゲーム」だと思ってやった僕が書いたレビューでは、
さぞかし不愉快な表現が多かったと思われます。まぁ、これは僕が悪いんじゃなくって、小四の僕にエロゲをやらした兄貴の責任だと思われるので、
恨むならどうぞ僕の糞兄貴を恨んでくださいませ。だって、アイツ「勝手にやっても良いけど、さとみにだけは手を出すなよ!」とか大マジで言いやがったんですぜ?
そりゃ家族を愛する弟としては、兄貴に「お兄ちゃんって面倒くさい女の子が好きなんだね。その癖治したほうが良いよ」とアドバイスするしかないじゃないですか!
ええ、僕の同級生の記憶は始めてくらったアッパーカットの赤い血と共に刻まれております。これが思春期の頃だったらもっと面白いことになっていたんでしょうが。

>>同級生が画期的だった部分は、まぁ、他にも色々とあったと思うんですが、
>>僕にとって本当に感動的(といっても今の純愛シナリオゲーの感動とは別の意味で)だったのは、
>>いつものように過去の存在として消えてゆくはずだったあの娘を、
>>最後の最後に返してくれて、未来まで見せてくれたっつう、その一点に尽きるのでした。

うーむ、なんだか始めてTVを見た人の驚愕の思い出話みたいで、正直ニンともカンとも言い難いですね。
失礼な言い方かもしれませんけど、安易な共感を拒む絶対的な壁がありますよここには。
純愛ゲーのシナリオの感動というのは、基本的に物語的な感動ですけど、fusenekoさんの感動は、もうなんかそこに「ある」って感じの根源的な発見ですもんそれ。 
僕が初めてやった(前々から他のエロゲをやっていたことはあったかもしれませんけど)は同級生ですから、
そもそも「初めから各キャラのエンディングはあって当たり前」だとばかり思っていました。

ただ、ちょっと似たような話をすると、同級生をやった前後近くに僕はDQ5をやっていたんですよね。
で、例のフローラとビアンカの選択にぶち当たって、まぁ鬼畜小学生だった「あとでビアンカとなら浮気できそうだし」という理由で、
フローラを選んだのですけど、たぶんこのときが初めてでしょうね。ゲームの中のキャラクターの運命が自分の選択肢で変わってしまうということを実感し、
そうしたヴァーチャルな責任感からキャラクターへの感情移入が発生してしまうということをなんとなく知ったのは。
同級生とDQ5,どっちを先にやったのかは良く覚えていないんですが、あの頃から、この先こういうゲームは増えるんだろうなと漠然と感じたのを記憶しております。

>>終わらないループと素敵なゾンビ――エロゲーは永遠に続く。
>>めでたし、めでたし。??????

ただまぁ、人間ずっと同じことをくりかえしていると飽きたりするモンですから、そういうときにはたまには性病に掛かるのもいいんじゃねぇか?とか、
エロゲ業界はもう終わりだとか悲観論に浸ってみたりとか、これからは3Dゲーの時代だよ君たちとか言ってみたりするし、
「もうループ世界なんて懲り懲りだっ!」と言うループ系というジャンルをフラフープみたいにグルグル回して楽しんだりするわけで、
もしかしたらこういう物語には「エンディング」なんて無いかもしれませんよね。後期の蛭田さんはそれを一生懸命探した感がありますけど。
マルセル2010年08月12日

83同級生オリジナル版 (elf)
エロゲーの元祖といわれている作品だが、改めてプレイすると、なんともアナーキーな作品である。大日本エロゲ帝国憲法修正九条により、女性キャラクターは全て18歳以下であるはずだが、この作品は同級生といいつつ20歳以上の還暦を迎えたおばはんが攻略キャラの大多数を占め、下は16歳から上は25歳までのババァが幅広く出現する。ゲームシステムも極めて異常だ。一部キャラを除いて、複数キャラを同時攻略しないと狙ったヒロインを攻略できない異常フラグ。主人公は複数のキャラとHをし、ババァから性病を移され痛むチンポを宥めつつ、二股で悩んでいる親友キャラをバツの悪い気分で眺めながら、時にはそいつの彼女を寝取ったり寝取られたりして、夏休みの最後の日までに、本当に好きな女の子と自分の将来を決めなくてはならない。18年前のエロゲの未成熟な試行錯誤と、全てはこれからだという熱気が伝わってくる歴史的な作品である。 → 長文感想(41577)(ネタバレ注意)(18)
最新レス>>1571さん

はじめまして。この糞長文を書いたマルセルというものです。普段は萌えゲーの下らないレビューを書いている阿呆に過ぎないのですが、
同級生などという過去の古典作品に関わったばかりにこんな有様になっております。やっぱまだまだ「同級生」の名前だけは廃れていないんですねー
1571さんも古典作品にくれぐれもお気をつけくださいませ。僕はもう桜木舞信者さんに夜道を襲われないか心配で心配で僕はもう!

>>初め読んだときには??だったのですが、読み終わった後にもう一度見ると、なるほど、となんとなく解ってきます。
>>もう少しコンパクトに纏められるのではと少し思うところもあったのですが、これでこそマルセルさん節とも思え、読んでいておもしろかったです。

(3)~(4)は自分でも書いていて「これでいいのか?」と何度も思ったところですから、
そこらへんが些かなりとも理解してくださる人が何人か現れたと言うだけでも、正直ちょっと感激しています。さっきコンビニで200円寄付しちゃいました(てへり)。

これ、最初はもっとコンパクトだったんですよ。(3)~(4)のロジックをわりと煮詰めて書いてから「こうしたロジックの上に同級生はなりたっているのだ」
って感じで〆ようかと思ったんですけど、これだと単に机上の空論に過ぎないわけで、そのロジックがどう作品の物語に関係しているかわからないですよね。
それにロジックだけだったら「そういう解釈もありうるよね」と言う話が単に理論上は無限に続いてしまうわけで、そのロジックと同級生が何らかの関係性があるんだ!
と主張するためには、そのロジックを直接同級生という作品のいろんなところにぶつけてみて、
この二つがうまく当て嵌まるのか、それともロジック或いは作品のどちらが壊れるのか確かめなきゃいけない。

……で、その結果がどうなったかと言えば、それはこの状況がものの見事に語っているわけでして、どうやらロジックや作品が壊れることはなかったようですけど、
なんか別の変なものを産みだしてしまったみたいですね。ロジックと作品が悪性な化学反応を起こして、有毒ガスをまき散らしてはいないかとヒヤヒヤしておりまする。
マルセル2010年08月12日

83同級生オリジナル版 (elf)
エロゲーの元祖といわれている作品だが、改めてプレイすると、なんともアナーキーな作品である。大日本エロゲ帝国憲法修正九条により、女性キャラクターは全て18歳以下であるはずだが、この作品は同級生といいつつ20歳以上の還暦を迎えたおばはんが攻略キャラの大多数を占め、下は16歳から上は25歳までのババァが幅広く出現する。ゲームシステムも極めて異常だ。一部キャラを除いて、複数キャラを同時攻略しないと狙ったヒロインを攻略できない異常フラグ。主人公は複数のキャラとHをし、ババァから性病を移され痛むチンポを宥めつつ、二股で悩んでいる親友キャラをバツの悪い気分で眺めながら、時にはそいつの彼女を寝取ったり寝取られたりして、夏休みの最後の日までに、本当に好きな女の子と自分の将来を決めなくてはならない。18年前のエロゲの未成熟な試行錯誤と、全てはこれからだという熱気が伝わってくる歴史的な作品である。 → 長文感想(41577)(ネタバレ注意)(18)
最新レス>>satpさん
いえいえ、こちらこそ些か強気な反論をかいてしまって恐縮です。なかなかイイ所を突くなーという感じで、
てっきり同級生シリーズに詳しい方だとおもって、マニアックな議論をこちらもついふっかけてしまいまして(汗)。

えーっとですね。誤解の無いようにシンプルにまとめますと、そもそもエロゲが「純化していって閉塞化する」というのは、そちらのご指摘通りだと思うし、
そういった意味では全然「見当違い」ではないとおもいます。見当違いと言えば、satpさんの議論を勝手に三歩ぐらい進ませて理解したこちらの方でしょう。
僕はてっきり、satpさんが同級生シリーズを「純化閉塞化の反対方向行に行く作品だと主張した」と勝手に思いこんだのですね。
それでまぁ、僕はそれに反対する議論を長々と書いてしまったのですけど、satpさんは初めから同級生シリーズとは関係のない一般論を言っていたわけで、
こちらの勝手な妄想を押しつけてしまい、本当に申し訳ありませんでした。satpさんの同級生の感想、期待して待っております。


>>ギグさん

はじめまして。まぁ別に狙ったわけではないんですけど、四万字というイカれた数字に興味を引かれて、この同級生というイカれたソフトの存在が、
一人でも知れ渡ってくれたら、良かったことになるのかなぁと勝手に自己満足しています。もし、他に無駄長文が読みたいのでしたら、
「下級生3をレビューする」という以下のイカモノもご笑覧下さいませ。これはエロ助では絶対に見れないレビューですよ。
なんせ「下級生3」なんぞというソフトは僕の脳内以外には存在しませんから! 激レア間違いなし!

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ruehque/elf-dis-extra/extra095.htm

>>にしてもマンセルさん。4万を超える文章を書いてますが結局の所、

>>まあいいや、とにかく俺には美穂という彼女がいるんだ……幸せだぜぃっ」

>>がこのレビューで一番書きたかったことなのですねw

いや、これが最初は違ったんですよね。最初の意図としては(3)~(4)の小難しい話が中心だったんですけど、
これをどうにか普通の人にもわかるようにと色々と掘削作業を進めていたら

「そうだっ、あの腹黒美穂たんを実例に出せば一目瞭然じゃんか!」

と突如閃きまして、そっから先はもう大変ですよ、これがキーになって今では殆ど忘れていた美穂たんの記憶が鮮やかに甦るじゃあーりませんか。
いやぁ、やっぱりこれはもう運命というしかないでしょう。20世紀の初頭のオーストリアにライナー・マリア・リルケという女装っ子詩人がいたんですけど、
その人が確かどっかで「もう一度深く思い出すためには、それを忘れなければならない」というようなことを詩に書いていたんですけど、
つまり長い間寝かせておいたエロ本はそれだけ美味しいって話なんですね! いやぁいい勉強になりましたぜ。
マルセル2010年08月12日

83同級生オリジナル版 (elf)
エロゲーの元祖といわれている作品だが、改めてプレイすると、なんともアナーキーな作品である。大日本エロゲ帝国憲法修正九条により、女性キャラクターは全て18歳以下であるはずだが、この作品は同級生といいつつ20歳以上の還暦を迎えたおばはんが攻略キャラの大多数を占め、下は16歳から上は25歳までのババァが幅広く出現する。ゲームシステムも極めて異常だ。一部キャラを除いて、複数キャラを同時攻略しないと狙ったヒロインを攻略できない異常フラグ。主人公は複数のキャラとHをし、ババァから性病を移され痛むチンポを宥めつつ、二股で悩んでいる親友キャラをバツの悪い気分で眺めながら、時にはそいつの彼女を寝取ったり寝取られたりして、夏休みの最後の日までに、本当に好きな女の子と自分の将来を決めなくてはならない。18年前のエロゲの未成熟な試行錯誤と、全てはこれからだという熱気が伝わってくる歴史的な作品である。 → 長文感想(41577)(ネタバレ注意)(18)
最新レス(続き……なんかここで一定以上の文章を投稿するとエラーがでるっぽいので。くぬぬ……レス覧まで我が長文を拒絶するのかっ!!!)

>>いいまとめと問題提起ですね~。古典主義じゃないロマン主義だというような

だと思われては、まぁ他人が僕の文章をどう読もうが知ったことではないんですけど、僕の意図としてはちょっと困るなぁと思うのも確かです。
個人的な希望としては「40%」ぐらいはまとめとして読んで貰ってもいいんですけど、あとの60%はなんか「座り心地がわりぃなぁ……」と
思って欲しいんですよねぇ。同級生がこれこれこういう理由を持って存在したと位置づけられる「死んだ古典」になるんじゃなくって、
「寄らば斬るぞ」とでもいいますか。なんかあの作品ってキモーイと煙たがれて、一部の好奇心丸出しのバカがひきつけられて
肥だめに落っこちるような「不気味な古典」になって欲しいなぁと思っていますので。

まぁ偉い人の言葉を引用して最後に御茶を濁しておくと、えーっと、誰だったか名前は忘れたんですが(汗)、
西洋美術史の偉い人が確かこんなことを言っていたと思うんですよね。

「マリエリスムなき古典主義は擬古典主義となり、古典主義無きマニエリスムは衒気趣味となる」

古典主義だのロマン主義だの、あるいはマイナーだのメジャーだの、安全志向だの危険志向だのといったお話は、
こういう言葉に落ち着くんじゃないですかね。もっとも、僕は擬古典主義の嘘っぽいセレブっぷりも結構好きだし、
衒気趣味めいたマーラーの交響曲も結構好きなんもんですから、うーむ、こまったこまったと便所でウンウン唸りながら、
こんな馬鹿長文批評がが生まれてしまったというわけでありまする。
マルセル2010年08月12日

83同級生オリジナル版 (elf)
エロゲーの元祖といわれている作品だが、改めてプレイすると、なんともアナーキーな作品である。大日本エロゲ帝国憲法修正九条により、女性キャラクターは全て18歳以下であるはずだが、この作品は同級生といいつつ20歳以上の還暦を迎えたおばはんが攻略キャラの大多数を占め、下は16歳から上は25歳までのババァが幅広く出現する。ゲームシステムも極めて異常だ。一部キャラを除いて、複数キャラを同時攻略しないと狙ったヒロインを攻略できない異常フラグ。主人公は複数のキャラとHをし、ババァから性病を移され痛むチンポを宥めつつ、二股で悩んでいる親友キャラをバツの悪い気分で眺めながら、時にはそいつの彼女を寝取ったり寝取られたりして、夏休みの最後の日までに、本当に好きな女の子と自分の将来を決めなくてはならない。18年前のエロゲの未成熟な試行錯誤と、全てはこれからだという熱気が伝わってくる歴史的な作品である。 → 長文感想(41577)(ネタバレ注意)(18)
最新レス>>satpさん

ども。マルセル長文マラソン完走おめでとうございます。純粋に濾過したトノイケ印の尿茶でもどぞ(*^ー)_旦~~

>>居心地のいい世界に居続けたいっていう需要は萌えゲーが、
>>読んでて面白いものって需要は数多のゲームが純化した。
>>純化されるとどの作品も、外してはいけない所が段々似てきて、閉塞していった。

んー、これは第一世代とか第二世代の問題でもないとおもいますね-。
んなことをいったら、蛭田氏の作品だって「同級生2」や「下級生」である意味純化を行っていて、
それで「MAP探索ADV」という形式が閉塞したともいえるんですから。

そこらへんのことは、もし機会があれば下級生のレビューで書いてみたいなぁと思っているんですけど、
蛭田氏の作品が今でも面白いなぁと思うのは、この人、狙っているのか天然なのか僕にはわかりかねますが、
ある部分で凄いクオリティで「純化」を行っているのに、どうにもどっかでメッキ部分が目立ってしまっていて、
そのパチもんっぽいピカピカがえもいわれぬ輝きを放っているというような、ちょっと説明しにくい魅力がある。

同級生で言えば、長々と説明した「NANPexe」だって、あれだけユーザーを(悪い方をすれば)騙し続ける巧妙なシステムを、
作品全体に張り巡らせておきながら、ところどころでそりゃねーだろwと突っ込んでしまうような所がすけて見える。
下級生はもっと変というか、、いやかなり自棄糞気味なところがあって、後半部分のヒロインのイベント消滅による浮気ゲー化という欠点を、
「だったら浮気ゲーとして楽しんじゃえ」みたいな攻略要素を入れることによって、開き直っている部分さえある。
だけど、もう一方では、ティナというエロゲの記憶喪失シナリオの原型キャラを投入したり、
あれだけ浮気をシステム的に推奨しておきながらも、シナリオ的には全く浮気を許していなかったりする。
ここらへんのバランスがじつに面白いんですよね。調和の欠点を不調和で誤魔化しながらも、それが却って別の調和を保っているというか。

こうしたものを「乱調の美」だとか「ノイズ」みたいに肯定するのは簡単でしょうけど、
そうした要素はあくまで「作品全体の純化傾向」とコントラスで見た場合でのみ体感されるのであって、
ただ単に「エロゲはもっと自由に作るべきだ」とか「アナーキーな作品が歴史を作る」みたいな、
凡庸なリベラル論調で括ってしまうと、その作品の本質的な魅力をとらえ損ねてしまうような気がするんですよね。
蛭田氏は別にキメラを作ろうとして同級生を作ったわけではないだろうだから、意図的にキメラを作るのが良いとも言えない。
同時に蛭田氏は「エロゲの古典である同級生」を作ろうと思ったわけでもなく、結果的に出来てしまったのがキメラたる同級生だったんですから、
キメラを敢えて作ったと評価するのも間違いだし、古典的名作がエロゲの歴史精神によって作られたというのも同様に間違いでしょう。なので、
マルセル2010年08月12日

83同級生オリジナル版 (elf)
エロゲーの元祖といわれている作品だが、改めてプレイすると、なんともアナーキーな作品である。大日本エロゲ帝国憲法修正九条により、女性キャラクターは全て18歳以下であるはずだが、この作品は同級生といいつつ20歳以上の還暦を迎えたおばはんが攻略キャラの大多数を占め、下は16歳から上は25歳までのババァが幅広く出現する。ゲームシステムも極めて異常だ。一部キャラを除いて、複数キャラを同時攻略しないと狙ったヒロインを攻略できない異常フラグ。主人公は複数のキャラとHをし、ババァから性病を移され痛むチンポを宥めつつ、二股で悩んでいる親友キャラをバツの悪い気分で眺めながら、時にはそいつの彼女を寝取ったり寝取られたりして、夏休みの最後の日までに、本当に好きな女の子と自分の将来を決めなくてはならない。18年前のエロゲの未成熟な試行錯誤と、全てはこれからだという熱気が伝わってくる歴史的な作品である。 → 長文感想(41577)(ネタバレ注意)(18)
最新レス>>kenken1231さん

最近は超ひも理論に凝っていまして、10次元的な価値観に基づいたレビューを書いております。
赤いセロハンをつけたメガネでこのレビューを読めば、現代のエロゲ業界の閉塞を打ち破るヒントが、浮かびあがってくるかもしれません。単なる色盲の可能性が高いですが。

>>rats&starさん

いや(3)まで読んで頂いただけでも光栄であります。自分で言うのもナンですが、お疲れさまでした。

(3)~(4)お話は、結構抽象的なお話になっていて、自分でもうまく書けていないなぁと思える部分が多いので、わかんねぇなーと思ったら、すっ飛ばして頂いても結構です。

(5)から作品の内容に即した議論になっていますので、(5)の内容を何となく理解した上で、(3)~(4)に目を通して頂ければ、このマルセルとか言う阿呆が何を言いたいのか、ほんの少しは理解できるかもしれません。まぁお暇があれば、また付き合って頂ければ幸いです。
マルセル2010年08月11日

78あいれぼ ~IDOL☆REVOLUTION~ (SIESTA)
何気に昨今のエロゲ業界では最高の原画家タッグじゃね?と思うほど、フェロモンむんむんなエロCGを描いてくれる「雨音&ゆきうさぎ氏」の新作だが、今回は両者のCGが始めてその実力を発揮した成功作だといっていいだろう。比喩や大袈裟な比較でもなんでもなく、本物のアイドル企画のように「隙のない」作りをしているシナリオだ。野球で例えるなら、ホームランもなければ華麗な盗塁がないが、テンポの良い日常テキストが小気味よくヒットを打ってヒロインの好感度を高め、完璧超人ではないが、ちゃんとした主人公が手堅く守備を固め「7-3」ぐらいで勝利を収める試合とでもいえようか。始めから勝ちはみえているが、それでも微妙に予断を許さない適度な緊張感と平和な日常描写が心地よい。「社会人に大事なこと」から「お兄ちゃんに朝フェラをしながらアイドルを続けるたった一つの舐めたやりかた」まで、ユーザーに色々なことを教えてくれる作品である。 → 長文感想(11298)(ネタバレ注意)(4)
最新レス>>yamabukiさん

ども、コミケ会場の前のクソ寒い広場から、冬の夜空に呪詛を込めてこんばんわです(マジ&マゾ)
本題に入る前に僕から一つ謝っておくべきですね。いやぁ、僕の暴走クソ戯けな文章を読んで下さる人がいるとは思わなかったので、
結構好き勝手なことを書いてしまいましたが、確かに、あそこで雑談をすると、何らかの意見をもった他人が、僕に返す場所がありませんよね。
一応メールは晒しといたので、今まで酔狂な方が何個かメールを下さったのですが、たかが雑談ネタ如きにメールをくれる人の方が少ないのでしょう。
今度からは、ああいうネタは自分で適当なブログを作ってやることにします。わざわざ、yamabukiさんに無礼なマネをさせるようなことをしまって、
本当に申し訳ありませんでした。以後はちゃんと、他者の意見が適当に反映するような場所で、バカなネタを書きたいと思います。
ただ、一応ここは「あいれぼ」のレビューの場所なので、以後の返信はできれば、メール等で頂くか、適当にスルーして貰えると幸いです。

で、本ネタのCUFFSについて。まぁ、ぶっちゃけていえば、業界人ではない僕らにはわからないところが多すぎるのだから、
カフスヤバス倒産寸前妊娠確実とか、いや実は結構儲かっているんだぜぇみたいなネタは、ネタとして楽しむ分には良いとしても、
それ以上については「約束したものはきちんと守れ」というほかないと思います。いろいろ事情はありそうですけどねぇここは。

常識的に考えたら、未完成だの追加パッチ延期といった件の倫理云々はおくとしても、この大事な一年間を、
結果的には無駄だったプロジェクトに当てて、来年からまた新しく作り直すという判断自体が、会社としては狂気の沙汰だと思います。
よくもCUFFSの経営責任者はこんなプロジェクトを許したものですよね。20%くらいは早狩氏的な意味で
「クリエイターを尊重する良い会社なんだなぁ」と思わないことはないのですが、残りの80%くらいは、
「どうやってCUFFSはトノと☆の給料を払っているんだろう?」という邪知に駆られるのも事実です。
もしかして、CUFFSには変態性癖をもったアラブの石油王といった何らかのパトロンがついている可能性も……

>>hurryUPさん

お返事おくれてしまい申し訳ありません。エロ助は自分が投稿する時か、月末に纏めて読む以外は
あんまりチェックしないので、つい返信を見逃してしまうことが多いのです。ほんとうにすみません。

凄まじい量の文ですか~。そうですね。じゃあ、次は三万文字を目指してガムばってみます。応援して下さいね☆

>>ゆきうさぎさんの絵(桃香)はエロかったですねえ。

ええ、今年の巨乳・オブ・ザ・ゲンガーはゆきうさぎ氏に木マリですよ。プリラバのゲンガーも頑張ってましたが、
なにぶんCG枚数が多かった所為か、一枚あたりの質では此方の方に軍配が上がるとバーナンキ議長も述べていました。
来年はこーちゃ氏のカリーナたんの一人勝ちって気もしますが、はたしてどうなることやら。

>>onepiese1031さん
 
こんばんわ。僕の下らないレビューが何らかの参考になったのなら幸いです。

>>このすさまじい詳細はありがたいです。加奈目当てだったんで買いますわw

ええ、たぶん「ヤンデレ妹キモイ。民安喘ぎすぎ」くらいにし言われなそうだよなーと思ったので、
加奈について愛情と劣情を込めてハァハァ書きましたよ! 
マルセル2008年12月29日