Sek8483さんの「木洩れ陽のノスタルジーカ -Raggio di sole nostalgico-」の感想

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ゲームをクリアした人むけのレビューです。

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音声まわりに粗があり、SF考証はいろんな意味で甘いし、個別ルートはちょっとチグハグ。でも「問題じゃないさ」。あまねく物語で、しねまは笑いかけると笑い返してくれる。この子の機械の手が冷たいことで自分がまだ温かいことを思い出させてくれる、ひたむきに優しいおとぎ話です。

 嵩夜あやシナリオを読むのはおよそ初めてでしたが、ひとつひとつの会話を大事に積み重ねていくことでお話が作られてました。共通シナリオでの一姫が、素直にひねくれた言い回しをしてるところが本当に楽しそうで、あれくらいの間合いでのやりとりを好むライターさんなのだろうと感じます。

 さて、プロローグの電子空間にいる彼が「きみの心はどこにあるんだい? 頭の中の脳だって? 本当かい?」とたずねてくるように、本作のテーマは "心の所在" となります。と言うといかにも分かったふうですが……じゃあ、心って何だ?
 嵩夜あやも自認するように『木洩れ陽のノスタルジーカ』は正確な科学にこだわったガチガチのSFではなく、言葉の意味の豊かさや、それを使う人物の優しさを見つけようとするおとぎ話となっている。いかにも一姫がやりそうな、こんな言葉遊びを思い出させます。
{
What is mind? ―― No matter.
What is matter? ―― Never mind.

心って何だ? ―― 物質ではない/問題じゃないさ
物質って何? ―― 決して心ではない/気にすんな
}
 人と機械のふれあいに優しい目線を注ぎ続けたこの作品は、心の哲学や神経科学の出した答えをただ引っ張ってくるのではなく、それを見つめながらも「いやむしろ心ってこういうものかも」と夢想します。そうして映画ガイドであるしねまを通して示されたテーマは、一見すると凡庸なのに、とてもこのライターさんらしい答えでした。
 本作の出した答えは "人やモノに向ける気持ちにこそ心は在る" です。キーワードとなるのはフレーム問題。キービジュアルはもちろん、両手の指で作ったフレームから木洩れ陽を覗き込んでみて「きれい」と云ったしねまの姿になります。

 以下のことを書きました。

 1, 表面的にはチグハグな作品だけど、根底には "しねま・フレーム・映画" を束ねた一本の軸が通っている。
 2, 歴史を取り戻すことは、技術研究・救世主の復活といった背景をふまえ、人類とメトセラの共存の鍵になる。

 なお、《 》のカッコ書きは作中でのルビにあたります。

──────────────────

 1-1, 個別ルートの乱暴さ、短絡的なヒロインたち

 共通ルートでの物語の立ち上げが非常に丁寧になされています。しかしそれゆえ、個別ルートでアクションに入ったとき展開が軽々しいのは悪目立ちすることに。また恋愛についても、メトセラ設定に落とし込めるフロゥの唐突さはともかく、一姫の豹変については説得力が足りてません。朗やカヤの一途さも、その後の事件展開と安直につなげてしまったゆえ印象が悪くなっていました。

 個別ルートでのSFアクションはこの作品の要でないだけに雑なところがあり、敵ボスキャラの二人にしても「来た、見た、負けた!」とばかり駆け抜けていった感。アゲートの正体ばらしなんて意図がよく分からないです。
 機械嫌いの一ノ瀬も含めて、敵対者たちはもう少しだけ掘り下げてあげてもよかったと感じます。しねまのもつ善性は揺るぎないものだから、もういくらか負荷が加わったとしても作風が崩れることはなかったはず。主人公たちがエリートのお坊ちゃん、お嬢様ばかりで、善人やることを許された子たちだから、それとバランスをとって綺麗な世界からガス抜きできるような悪人は欲しかったような。あくまで作風を損ねない範囲で。

 アクションや敵役はさしあたり重要でなしとしても、そもそもヒロインについてのミスキャストもあったのではないでしょうか。例えば、朗と一姫の担当シナリオは逆にしたほうが、それぞれヒロインは映えていたように見えます。
 しねまに使われたアルゴリズムの美しさに訴えかけられて棟方とその夢について語り合うのは、本来ならプログラマ・朗の役どころのはず。母である篝理にしねまの問題についての助けを受けたとき、彼女がまず製作者の志向から理解しようとした共通シナリオの流れを汲めば、なおのことです。老衰して脳みそ以外を機械化してしまった大戦の亡霊へ、野生的思考の若きロジカル・ギークが挑みかかる姿は、さぞ絵になったことでしょう。
 他方で、しねまのために社会のルールを破って警察と攻防して、確執のあった親を巻き込んだりケツを拭ってもらったりをやるのには、優等生である一姫が適任だったように考えます。参謀役として計画作りや渉外などを主に担当していたオールラウンダーの一姫が、エンディングで専業研究者へと転身したのにも、やや違和感が匂っていたり。彼女自身のキャラはむしろ行政官向きだったように思うから、棟方から衣鉢を継いでも、シナリオの場当たりさとして目に映ってしまうのです。
 このように二人の役どころにはチグハグさがあります。篝理が正面きって立ちふさがらないなら朗が悪いことする意味は薄いですし、店長さんの来歴なんてのもいくらだって別のシナリオへと移せる報酬。それぞれのヒロインに最適のシナリオが割り振られたようには見えません。
 ところが、これで良かったという理由もないではない。棟方が「まるでシュレディンガーの猫のように、等しい確率で破滅と美しい未来とが共存しているような」とビミョーなたとえを口にしてしまっているあたりからすると、はたして棟方と朗による中身のともなった専門家トークを書くことができたのかはやや疑問です。そもそも、コテコテのSFにはせず人と機械の交流について描かれたこの物語においては、それをやるべきなのかも微妙なところですね。
 そこまで慮るなら、一姫にノートに書かれた序文の美しさだけをピックアップさせて話を広げずにおいたのは、良いまとめ方だった気もしてきます。いっそ、もう脳みそしか生身が残ってない棟方だからこそ(電子的処理ではなく)紙媒体に手を使って書き記すことにこだわっていた、そんな設定だけでも補われていたらば、一姫とは似合いだったかもしれません。

 シナリオ自体のチグハグさだけではなく、個別ルートでは人物像がブレてしまいメインライターからの引き継ぎが上手くいってないところが散見されます。
 例えば、一姫なんて個別ルートに入ったとたん別人になった。文学少女が圧倒的な一文によって人生を変えられてしまい衝動的なセックスから事を始めたという、そのシナリオの意図は分かるのですが、その上でもやっぱりあれは別人に見えてしまった。一姫というキャラクターは人づきあいもそこそこ、情報処理もそこそこ、わかりやすい長短がなくて、独特のセリフ回しがもっとも印象的。どうも、彼女は生み出したライターさん本人にしか書けないキャラクターになっていたように思います。作品のシナリオは分業体制であるというのに、嵩夜あやによる共通ルートだけが彼女を魅力的に描き過ぎてしまってる (いいぞもっとやれ)。
 これは一姫だけの話ではありません。会話の端々でもって創られる嵩夜あやワールドの空気感は一点もの過ぎて、個別ルートに参加したライターさんの欠点と呼ぶべきでない小さな癖すらもが悪目立ちしてしまい、作品全体としてクオリティが維持できてない印象を強くさせました。一姫は衝動的なセックスにおよび、朗たちには社会への罪悪感が足りず、カヤの後輩つぶしや二度目のダイビングは軽挙でしたし、フロゥは一ノ瀬をばっさり意識外に追いやる。このあたりから感じる乱暴さには、嵩夜あやの文体がかっちり丁寧すぎたがために起きる反動もが加わっていたよう思います。共通ルートでは全員がハマリ役をもらいながら心地よい人間関係を固めており、あの空気感を受けながら、ひとりひとりのヒロインについて書きはじめることは、サブライターにとって手のかかる仕事だったのではないでしょうか。

 しかしそのような話とはまた別に、それぞれのヒロインのする "短慮" は、シナリオに一本の軸が通っていることからきたものでもあります。そのシナリオの軸というのが、木洩れ陽をなんとかして捉えようとしたしねまの姿であり、作中で繰り返し繰り返しに描かれているフレーム問題となります。


 1-2, No matter. Never mind.

 この作品が機械の心を描くにあたっての切り口はフレーム問題であり、この "フレーム" が作品のモチーフとなっている。それゆえヒロインとの恋愛もその切り口で描かれると、"細かいことまで考えず、自分の気持ちを信じて、まずは行動してみる" という信条が善しとされました。

 まず、作中の用語解説からフレーム問題を確認しておきます。
{
>フレーム問題
>人工知能における重要な難問の一。無限に出来事が発生する現実世界の中で、その何処までを情報として受け止めて、必要な情報を抽出出来るのか、という問題。
}
やけにあっさりした説明なのも当然で、これについてはストーリー上でいくたびも実例が登場してきますし、また終盤に向けて独自の解釈もほどこされていく語句なので、きっちり科学的な説明がつけられるのは好ましくありません。
 さて、早いうちに白状しておくと、わたしはフレーム問題の詳しいところなんてさっぱり分かっておりません。ですので、作品での用いられかたに則して「あれこれ考えすぎると、動けなくなること」くらいのテキトーな意味合いで考えておくことにします (※ダニエル・デネットによるロボットの例でいえばR2-D1段階)。

 フレーム問題がいちばん大きく取り上げられるのが、カヤルートで発生する黄金の羊毛《ゴールデン・フリース》です。ここではしねまが無限の思考ループに陥って動作不能になってしまいますが、店長さんは、これこそアンドロイドが人に近づくために必要な試練であるとしている。
 他にも、キスをしたフロゥが茹でダコになり煙ふいたのは、認識フレームを広げ過ぎたためです。朗と篝理は『炎のランナー』を手がかりに暗号解読をすることで、直観から認識の枠組みをつけれる人間のスゴさを示してみせる。一姫シナリオで鍵となったのは、フレーム問題について述べられた棟方ノート。海の大きさが計算しきれなかったり、人魚の髪飾りとアコヤ貝を関連づけられなかったりしたフロゥの思い出などなど、作中ではフレーム(認識の枠組み)にまつわる話題がとにかく頻出してまいります。

 そしてエロゲの主眼である恋愛についても、このフレーム問題を切り口としつつ描かれます。「もしかしたらお兄はドン引きしているかもしれないし、もしかしたらこのまま幼なじみでいる方が良いのかもしれないし、もしかしたら彼女は親への反発から自暴自棄になってたのかもしれないし、もしかしたらメトセラが恋をするのは本人のためにならないかもしれないし、もしかしたら……」AIが延々と星の数をかぞえ続けるようにしてループ処理、ハングアップしてしまいました。
 そこにきて、しねま(&フロゥ)に恋愛相談をもちかけることで、恋に迷い込んだときの割り切れない心をフレーム問題と合わせ見てみる。理知的な会話をくどいほど重ねがちのキャラクターを生み出す嵩夜あやならではの視点です。フレーム問題を中心へと据えたカヤルートが、ヒロインの心情や、しねまと咲かせる恋バナをいちばん描き込めていたのも、こうした全体の流れとうまく噛み合ったゆえなのでしょう。
 フレーム問題をモチーフとしているため、この作品が善しとするのは "細かいことまで考えず、自分の気持ちを信じて、まずは行動してみる" という信条になります。ひたすら恋愛へと背中を押される朗とカヤ。ゆくりなく恋愛(というかセックス)に飛び込んでいった一姫とフロゥ。また、朗は「無謀とわかってても」ハッキングを決意し、そこへ加勢するフロゥは「行動によって検証してみることも大切」とセレスから教わってました。カヤは「たとえ自己満足でも」サルベージを強行して、その横では翔太が「悩むのは構わんが、迷うな」と武術の師匠から説教もらってます。篝理ママがたまに真面目になって言ったセリフはといえば「不安は頭のなかのペットにでも食べさせて、自分の仕事にだけ一生懸命になればいいんだよ~ (※まきいづみ時空)」。それぞれの行動の是非として必ずしも褒められないところはありますが、作品の主旨へしっかり足並みがそろっているのです。

 そして『ノスタルジーカ』が、「まず行動してみる」と口先で喧伝するだけの作品とならなかったのは、その信条をしっかり埋め込まれながら体現するしねまのおかげでした。
 物語では、しねまの電源ケーブルを探して復活させ、バラバラになった手足を修理して動けるようにして、『炎のランナー』を引きながら「心臓を鍛えていくため」ピエゾ素子システムを起動させる。その背景には「しねまに人間らしくあって欲しい」という店長さんの願いがあったわけですが、彼はしねまに人間らしい身体を与えることでフレーム問題を解消しようとしています。
 一般的に、人間がフレーム問題での思考停止を起こさずに済むのは、身体性をもつところに理由があると考えられています。かなり大雑把に訳させてもらうと、私たちの目玉には水平160度の視界しかなくて、視点や、入ってくる情報量が限られているからこそ無限ループの思考停止に陥らなくて済む、という考え方です。よって、実のところアンドロイドである時点でフレーム問題にはある程度まで解決の目処がついているのですが、店長さんはここでさらに "運動自体の知覚"、"試行錯誤" といった要素を加えながらその根本的解消を目論んでます。その試みに対応するハードウェアが、運動エネルギーをフィードバックさせるピエゾ素子システムであったわけですね。
 様々な点でチグハグなところもある作品ですが、根底には一本の太い軸が通っていて方向性がついています。フレーム問題を中心にすえながら "気持ちを信じて行動すること" をひたすら説いたのが要領を得ており、また、この陳腐な主張をプレイヤーに新鮮な気持ちで受け取らせることのできる説得力が、しねまのキャラクターには秘められていました。

 余談だけど、しねまを仕上げるにあたっては、CV菜ノ花さくらが独特の節まわしで良い仕事をしています。しねまのセリフは「はい! ~~~です」と頭に返事がついたパターンをもつのだけど、話しかけてもらった嬉しさがあふれ出るような「はい!」の力強い音でよく耳をひきつけてから、機械ならではの少したどたどしくて綺麗すぎる言葉づかいへと移るグラデーションが絶妙だと思う。素直な内容が沁みこんでくる。「アルファ・バスケット・クレイドル・デポジット」とか、もう名シーンすぎる。

 さて本題へ戻りますと、ルートシナリオは二つのタイプに大別できます。
 ひとつ目は朗とカヤ。感情的なヒロインが恋心に気づくと尻込みをして、思い悩んだヒロインがしねまと対話をしながら気持ちに整理をつけ、事件 (ハッキング、サルベージ) を自発的に起こすシナリオ。
 ふたつ目が一姫とフロゥ。理性的なヒロインが突如として恋に踏み出し、戸惑う主人公がしねまの示す映画に照らし合わせてその行動への理解をつけ、事件 (棟方、アゲート) に巻き込まれるシナリオ。
 これらのうち、ひたすら大事件に翻弄されるばかりで、一見するとフレーム問題からやや離れた感もあるのが、棟方、アゲートというぽっと出のボスキャラが襲ってくるあたりの展開。しかし彼らの描かれ方をみてみれば、利己的な悪人ではなく、フレーム問題の解決に失敗して暴走した人となっているのです。ヒロインのような可愛いらしいタガの外れ方でなくとも方向性は似てまして、理屈をつきつめて暴走した一姫と棟方、人間に激しく恋したメトセラであるフロゥとアゲートがそれぞれ対応しています。
 この二人のボスキャラは果てしなく考えを突き詰めた末、きびしい計算による結論以外をもう容れられなくなっていて、棟方はどこまでも世界を俯瞰して、アゲートはメトセラという種そのものが間違っている可能性を見据えてしまう。棟方は左門宗矩の「憐憫」という言葉に眉をひそめ、アゲートがセレスに「憐れむな!」と激高します。人間でありながら機械化し、メトセラでありながら人間化して、その末に自分すら信じられなくなって妄執に囚われてしまい、自分を含む人間たちを愚かだと断じて、自分を含むメトセラたちは死に絶えるべきと断じる。そんなふうに悲壮だった『ノスタルジーカ』の敵役たちです。
 彼らが破滅的な計算結果にこり固まってしまったのは、友人やマスターとのつながりを喪って、孤独になって、自分を保つフレームを失くしてしまったゆえでした。あるいはそれは、覗き込めば笑い返してくれるしねまに出会えなかったということ。映画のキャラクターに、自分の似姿を見て笑う体験もなくなっていたということ。


 1-3, きれいなもの

 『木洩れ陽のノスタルジーカ』の本質は、心をフレーム問題により捉えたSFギミックにあるわけではない。しねまがフレーム越しに美しい木洩れ陽を見つけながら、フレーム越しに見やる映画の美をも引き込みながら、"自分の気持ちを信じて行動すること" を美しいものとして描く。そのさり気ない暖かさこそ物語の根幹にあったものです。

 この作品が集約されているシーンをたったひとつ選ぶとすれば、それはやはり、しねまが木洩れ陽を見て「きれい」と言ったあの時でしょう。とても計算しきれない木洩れ陽を、その美しさをなんとか捉えようとしたしねまは「映画を撮るときにこうするって、店長さんが教えてくれたんです」と指で四角形のフレームを作ってみる。果てしなく広がった世界から美しさを切り取れるよう、大事なものだけ視界に収めようとしてます。それは、原画・のり太お決まりの顔アップCG、見つめ合ってのキスシーンみたいな、とてもとても狭い視界でした (……なんだか『うな天』とかの頃よりも顔が接近しています?)。
 そうやって木洩れ陽を見るしねまに主人公たちは感動すると、みんながその姿についてセリフを述べたあと、モノローグでもって「それぞれがそれぞれの言葉で語っていた」とされました。これとまったく同じ会話の流れとなるのが『英国王のスピーチ』鑑賞会のとき。バトルシーンが無いのに眠くならなかったといぶかしがる清十郎、映画作法について高く評価する一姫、聴覚士をセレスに見立てるフロゥなどなど、全員が感想を出しあってから「それぞれ見ているところが少しずつ違う」というモノローグで締められます。いずれのシーンにおいても、朗たちが「しねまは自分を映す鏡」とした発言、店長さんが「映画を人の似姿」とした発言をふまえながら、四角形のフレームの中に美しいものを見て取ることになる。しねま=シネマ。
 『木洩れ陽のノスタルジーカ』はこのような補助線を各所にひきながら、フレーム問題を克服する姿勢、自分の気持ちを信じて行動することを美しいものと関連づけてゆきます。例えば、フロゥが朗のハッキングに加担することを決意するシーン。答えの出ない思考を巡らすのをやめて行動を起こすことにしたフロゥなのですが、それを導き出すメトセラたちの謎めいた会話は "美" の概念についてのもの。ここに添えて「尊重したくなるものには美を感じている……」と声にもらしたフロゥの脳裏には、木洩れ陽をきれいなものとする、メトセラにすら困難なことが出来るしねまの姿がきっと浮かんでいました。

 そしてこの作品がもつ、美しいものを思わず美しいと言ってしまえる素朴な感性は、私たちプレイヤーのノスタルジーにも訴えかけてきます。
 そのひとつが、フロゥがボディを換装しなかった理由が明かされるくだり。周囲の子供たちと異なって大きな身体にとまどい、無邪気に言い交されるひそひそ話に傷つき、そして無邪気な少年の言葉に救われた回想シーン。
 あの光景って、小学校高学年くらいの私たちがしばしばぶち当たる問題にも似ています。幼なじみのあの娘のほうが先んじて背が伸び出し、今までと同じようにケンカしても、お姉さんぶって「チビ」とか言われたときに胸がチクリ刺されることになる時期。わたしにも覚えがありますっ! ……スミマセン見栄はりました。そんな羨ましい幼なじみはいませんでした。我が少年の日のノスタルジーカ (捏造)。
 さておき、こころと身体の差異に悩む時期。入学式の日にはまだセーラー服に着られてる感まんてんで、「みんなと違って一度にこんなに大きくなってしまって……」と己の身体が呪わしくなってしまうフロゥの姿は、たとえ機械の身体だとしてもごく身近で普通の女の子でした。ちょうど、背丈のある子がヒールを履きたがらないのがいじらしく思えるみたいな感じ。周囲にはなにくれと気を配るくせしてフロゥとの一件は忘れてたとかぬかす翔太が、女性陣からフルボッコされるのも当然ですよ。ピューレックスのシルバーとか鼻から飲めばいいんですよこの野郎。
 ただ、あの日の翔太のことは褒めてやりたいです。
{
>【翔太】「おお! フロゥか、すげえ! 良いじゃん、新しいからだ!」

>【翔太】「なに云ってんだよ、メトセラってそういうもんなんだろ」

>【翔太】「なんつーか、可愛くていいじゃねーか。ネットキャストの女優みたいでさ」
}
「身長高いの恥ずかしがる子、萌えー」なんてのもそうですが、「女優みたいでいいね」というのも、大人になって考慮しなければいけない範囲が広がった私たちにはそうそう公言できることではありません。「はぁ!? 女は小さくて可愛いだけが能ってこと? ジェンダーガー!」といった横ヤリが入りかねませんし、それでなくとも人の美醜について触れることへは当たり前の慎重さがついてしまいます。
 子供ってまだ視野が狭く、その目玉すら水平160度の視界は使いこなせないです。無思慮なままに「映画の女優みたいでさ」と口に出してしまえる少年の日の翔太には、しねまの姿が重なってくるようでした。指で作ってみた狭いフレームのなかに木洩れ陽を見つけると「きれい」。ひねりのない感想をつぶやきながら子供みたいに驚いて、笑う、しねま。そんな気持ちを向けてもらえたフロゥはどれだけ有り難かったことか。
{
>――肯定してくれる人がいること。
>今までも、明確に否定されたていたわけではなかったが――けれど、興味本位の人間が見せる無遠慮なリアクションというものは、フロゥにとっての日常であり、その傾向は明らかにマイナスの方を向いているものが多かった。
>だから、翔太のそんな一言は――まるで、心に温かい光が灯ったようなイメージをフロゥに覚えさせて。
>そしてフロゥは、周囲から聞こえて来る、今まで心に瑕《ノイズ》を残していた言葉に影響を受けることなく、考慮範囲《フレーム》の外に追い出せるようになったのだった。
(原文ママ)
}
こんなにもノスタルジーの詰まったボディだから、フロゥには捨てることなんて出来ない。すごく、よくわかります。なればこそ結婚式を迎える日が来ても、彼女のボディを大人verに換装させるだなんてこと、わたしには出来ませんでした。フロゥのからだに宿っている想い出には代わりなんてないのだから、大切してあげたいからもうっ! ……スミマセン言い繕いました。正直ちっぱいがペロペロでした。

 さて。
 先ほど引いたシーンにおいては、"考慮範囲" という語句に《フレーム》とルビがふられているのですが、しねまが木洩れ陽を捉えようとするシーンでは (映画の) "枠組み" という語句に《フレーム》とルビがふられたりもします。
 そしてフロゥルート最大の山場となるアーク襲撃時のこと。セレスとアゲートが鏡合わせに対峙しているその裏で、しねまは5980Fと鏡合わせに対峙し、まだ無表情な白紙状態にあった自分の似姿をそこに見出すと、誰に見せるでもなくひとり微笑みました。そしてここに来て、作品はちょっと突飛なものへ《フレーム》とルビをふる。
{
>――そして、閃きの中から闇の中に手を伸ばし、目的の物をつかみ取るタフな予測法を朗との想い出から。
>そのアイディアと応用を、理解出来る限り自分のコードへの刻み込んでいく……!
>【しねま】「実装完了。動作効率の三十二パーセント向上を確認……感受《センシング》フレーム、全開放《フルオープン》!」
>そしてしねまは、すべての気持ち《フレーム》を外に向けて解き放った……!
(原文ママ)
}
ついに "気持ち" をフレームと呼んでしまったのです。
 SF考証にこだわらなかったこの作品は、フレーム問題を扱いながらも、AI研究などの文脈へは距離をとりつつその意味をふくらませていきました。そしてついには、"自分の気持ちを信じて行動すること" を善しとしながら、誰かに向けた気持ちというものをフレームと呼び、心の所在について作品としての回答を出します。
 しねまが自己犠牲に走ったのは、メトセラのためではなく、マスター登録されたフロゥのためでした。おそらく "気持ち" のみには《フレーム》というルビは付かないのであって、"誰かに向けた気持ち" こそを作品は《フレーム》と呼びそこに心を見つけたのだと、わたしはそう考えます。

 そしてこの作品の美点は、これらの想いをしねまの身体にしっかり愛情をもって組み込んでいたところにあるでしょう。彼女の心をずっと手探りし続けた共通ルートがあったからこそ、その機械の身体《フレーム》を通すことで、それだけ眺めてしまえば陳腐である自己犠牲シーンにもきれいなものを見い出せました。
 わたしがこの作品でいちばん好きなシーンが、あの後、しねまが帰ってくるところ。脳筋の悪友がメインヒロインのおっぱい揉んでる光景に感動して、ボロッボロ泣き笑いすることになるとは夢にも思ってませんでした。




 2-1, 作品世界の奇妙さ

 この作品では懐かしいものへの愛着がたくさん描かれて、また今の私たちから見てテクノロジーがほとんど進歩していない奇妙な世界となっている。カッコイイ未来のしかも見慣れた世界でもって安心な恋愛劇を読みたかったわたしのようなユーザーのため、サイバーパンクSFやジュブナイルや学園ラブコメから継ぎはぎをしたゆえの奇妙さです。
 設定をひもといてみると、ここが歴史を失った「白紙の世界」であること、技術的特異点を引き起こすはずだったメトセラが足踏みを続けていることが、この世界のユニークさを生み出した要因となってます。
 以下では、作品のやわらかSF設定を全面的に受け容れながら、ザナドゥが解放されて「白紙の世界」に歴史が戻ってくることになるラストエピソードまでの背景を脳内補完してみたいです。かなり本編から外れたところまで話がすっ飛んで行っちゃったりします。


 2-2, 懐かしい未来

 この作品ではSFギミックが抑えられているというか、いくつかのスーパーテクノロジーをもちながらも、私たちに理解しやすい道具や機械、生活習慣と倫理がそのまま残った世界観となっています。SFとしては宝の持ち腐れというか、ナノテク工場で石斧を研磨しちゃってる感じ。

 この世界の決済システムは身体に入ったナノマシンを用いており、お互いの手を触れ合うだけで瞬時に決済ができます。ところで、アレ実現したら、わたし、ちょっと困る。例えば一姫のような綺麗な娘さんに手を触れるのとか、ちょっと困る。会計時にはJKに必然的に触れなければいけないシステムだとかそんな申し訳なくて申し訳ないけど素晴らしい発明だししょうがないからゼヒおさわりしたいやあばばばば。一姫(CV青山ゆかり)に「ちょっと。その手汗はどうにかならないの? 決済処理がエラーしてるのだけど」とか底冷えした声で言っていただけたなら税込¥9,504くらいは誤送金してしまいかねません。
 でもこのシステムって、ようするにSuicaみたいな非接触型ICカードと同等のことをやってるだけなのですよね。私たちにとても馴染みある運用手法のサイバネティクス。あるいは同じようにして、カヤと手を触れて料理レシピのやり取りをしている様子にしても、タブレット端末でもってクックパッド見ているときと同等のことしかしていない。キャラクターが何をしようとしているのかがひと目で判る、見慣れた動作になっています。しかもエロゲとして然るべく、手を触れての決済や同期通信を行うことになり、わたしみたいなプレイヤーが女の子におさわりしたい気持ちまで汲んでくれてる。

 私たちの現実では、基本的に情報のやりとりに距離が関係なくなる方向へ技術が進んでおり、SFもまた、冷戦期の宇宙開発競争が終わってPCが普及しはじめると、本作も流れを汲むサイバーパンクがひととき隆盛したりとその後を追ってきました。作品舞台である二十五世紀ともなれば、生身で会うということそのものがひとつの嗜好品となっていてもおかしくはないです。ネットワーク上の自分がより頭の回転速くなれるようエミュレートするため演算装置のリース料を払ったりしつつ、アパートの家賃くらいの感覚でもってブーブー不平を漏らしているやもしれません (未来予測なんてどうせ当たらんのでテキトー言ってます)。
 しかしながらこの作品では、キャラたちの生身への執着は私たちとなんら変わりないままだから、すんなり感情移入できる。しかも、とりわけ生身の身体にこだわりを見せたのがフロゥだったりするのです。この作品の通信技術はホログラムを用いてあたかもその場に居るかのような挙動を実現しており、半透明の立ち絵が表示されるとキャラは一喜一憂のリアクションをとります。ところがカヤルートで、定期メンテナンスに入ってしまっていて話し合いの場に来られなかったフロゥは、"Fluorite" と記された胸像を静止画表示させるとサウンドオンリーモードで参加するのです! ただ単に、普段使っている身体をエミュレートして動かして見せときゃいいだけの話なのに、今は自分のボディが無いということにめちゃくちゃこだわってる。メトセラである彼女が。
 バイク、紙の本、デザインを変えてない学校の制服や浴衣、祭囃子に花火の音、5.1chサラウンドスピーカー、映画、フロゥのちっぱいボディ。愛着を感じさせる懐かしいものがふんだんに盛り込まれているのがナゼかといえば、それは、制作者が古びたものを愛してやまないゆえなのでしょう。それ自体が目的 (いいぞもっとやれ)。
 ただ、ノスタルジーカと名づけられた本作は、この落ち着く世界を作るためにいくつかのSFギミックもちゃんと用意しておりました。それが、人類のことを愛してやまないゆえに、技術的特異点になりきれなかったメトセラたち。そして、インフォ・クラックによる歴史の遺失です。


 2-3, 技術的特異点なんて無かった

 この「白紙の世界」が生み出されることとなった原因はメトセラの誕生から始まる二年戦争にあるのですが、序盤の早弓先生の歴史講義においては、メトセラの誕生こそが技術的特異点となったと説明されます。
 わたし、技術的特異点とは何なのかイマイチよく理解できておりませんので、例によって用語解説を引いてみましょう。
{
>技術的特異点
>人類の技術開発史から推測して得られる、未来モデルが正確、且つ信頼し得る限界の時点を指す言葉。つまり、そこから先の未来が予測できなくなるような、そこから先の未来が「発明そのもの」に強い影響を受けてしまうほどの大きな技術発明が発生した時点を指す言葉。
}
この「発明そのもの」というのが、メトセラのことになるみたいです。言い換えてしまうと、今後の科学技術研究は人類よりも格段に優秀なメトセラが全部やってしまうから、人間の研究者なんて要らなくなる(よって人類の歴史を学ぶ意味も無くなる)といったお話です。
 これはちょっと怖い。産業革命にあたってネッド・ラッドが手工業者の仕事を奪う自動織機を壊して回ったようにして、ネオ・ラッダイト運動なんて立場があるのもわからないでもないところ。何しろ、うっかりすると機械が人類を奴隷にする『マトリックス』の世界が待っています。

 ところが、おかしな事に技術的特異点から半世紀も経っているはずなのに、篝理やカヤの母・イレーネはいまだ第一線の研究者としてバリバリに活躍中です。それもそのはず、メトセラの主な仕事はアークでするエネルギーインフラの運用・保守だそうです。既に完成したインフラの保守なんてのは人間にも出来ることで、また非常に重大な仕事ではあります。メトセラの素質を考えればこの人材配置はもったいなくて、また別の意味で怖い話でもある。ピューレックス臭い機械人形どもにエネルギーインフラ(&軌道エレベータ) であるアークを握られてしまってるとか、棟方や機械嫌いの一ノ瀬でなくともガクブルもの。それはおそらく戦争の末の妥協点のひとつであり、メトセラの最低限の安全保障ではあったのでしょう。
 人類からしてみれば、たとえメトセラたちの自主的な産児制限や、人間を傷つけないという誓いがあったとしても、どうしても不信感がぬぐいきれません。大幅に海面上昇しているこの世界で、自分たちだけアーク(方舟)に籠もっているメトセラ(ノアの先祖)を信じろだとか、ちょっと難しい。なによりかにより、インフォ・クラックを引き起こして人類の歴史を吹き飛ばしたのはこいつらです。機械どもに破壊された、我らがノスタルジーカ (捏造)。

 さて、アークを話題にしたついでに確認しておくと、しねまはこの世界のキリストなのですよね。プロローグで彼女が発見されたとき、磔にされた格好を見て、一姫は「キリスト像みたい」ともらしていました。
 フロゥルートで (結果的に) メトセラのため身を捧げた日からゆびおり数えてみると、翌日の夜はフロゥと過ごし、明けた二日後に日本を発つと、そこから一日がかりでバックアップデータを持って帰ることに。つまり彼女はイエス・キリストと同じく三日後に復活しているわけです。二世紀頃に復活祭論争を調停した司祭・イレナエウスの名がついたシステムから、彼女が救出されたことも勘案すれば、ラストエピソードで人類のため身を捧げた際にわざとらしく「丸一日ほど時間が掛かった」と語られているのは、マタイ・マルコ福音書における一日の間に復活したというほうの記述を意識しているのかもしれません。ちなみにソフトウェアに隠されている本来の機能とは無関係なメッセージのことを、イースター・エッグ (復活祭の卵) と呼んだりするのですけど、しねまに託されていたメッセージはこれに当たりそうですね。
 このあたりから関連づけられてるのが、セレスとの会談を終えた店長さんがザナドゥの在るソーラーアレイベルトを見上げながら、やや唐突なことに "楽園追放" をたとえに持ち出すくだり。
{
>――神の被造物は、神に非ず。
>それ故に、人《ひと》であれ機械人《ヒト》であれ――蛇の狡智には逆らえず、その林檎の誘惑に手を伸ばしてしまうのだろう。
>やがて、天に掲げられし蛇を見上げて、人がそれを叡智と讃えるその時まで――。
}
ハッキング決行の前日、失われた過去に想いをはせながらソーラーアレイベルトを見上げ「すごい技術だよね~」と感嘆したのは朗でした。

 いったん話をまとめます。
 朗が「閉ざされた楽園」と呼び、店長さんがユートピアだと表現した「白紙の世界」の停滞感は、作中できっちり描かれることがありませんでした。
 しかしメトセラがアークに籠もってしまってる事情を背景にすると、インフォ・クラック (歴史が無いこと) がこの世界を停滞させているという、言ってみただけ感のあった設定にもいくぶん納得がつきます。インフォ・クラックが解消されることで相互不信が打開され、そうして初めてメトセラも研究活動に専念できたなら(人と機械人が知恵の林檎に手を伸ばすなら) 世界は前進することになる。そんな流れは、説明不足ではあるものの整合的です。
 一方では、付喪神みたいな日本の民間信仰の観念、日本人のロボット好きやフランケンシュタイン・コンプレックスの無さ、はかない物への愛着を土台としているように感じられるこの作品にとって、はたしてキリスト教の表象が魅力的だったのか、わたしはやや首をかしげるところもあります。取ってつけたような。
 しかしながら、わたしのするどんな理屈付けよりも大事なのは、本編のストーリーですよね。そこではフレーム問題がモチーフにされると、古い映画や古いアンドロイド・しねまに "自分の気持ちを信じてまず行動してみる" という信条を重ねることで、古いものの復活が未来を切り開くというイメージがすでに導き出されていました。そうした物語のひとつ補助線となるのが、しねまの復活によって人類とメトセラにもたらされた "新しい約束" であったわけです。

 さらには技術的特異点をエンタメに持ち込んだときに、それが古い物、ノスタルジーと組み合わせられるのは常道でもあったり。
 特異点アイデアを広く伝えた人物として数学者ヴァーナー・ヴィンジがいます。彼はSF作家でもあるのですが、その作品『遠き神々の炎』や『最果ての銀河船団』は特異点アイデアを組み込んだスペースオペラとなっており、エンタメとして成立させるために盛り込まれたいくつかのギミックは『木洩れ陽のノスタルジーカ』より壮大でよほど荒唐無稽なものです (思考速度そのものが階層ごと変化する宇宙とか出てきます)。
 ここで、この三つの作品にある共通点を拾い出してみましょう。
{
・はるか未来が舞台
・主人公が懐古趣味である
・相棒役ヒロイン(ヒーロー) はコールドスリープなどで過去からやってきて、現代人に無いものを秘めてる
・未開の異星、しねまの映画といった古い世界(=読者の現在)を観察してそこから何かを感じとる
・人類のルーツ探しをする
・今は使われてない過去のデータベースに宝が眠っている
}
本作にもあった温故知新のスタンスというのが、特異点アイデアを扱ったSFとは相性がいいのです。予測不可能な未来がテーマとして上がってきたがため、ならば私たちは過去をどのように知っているのだろうかと、いったん立ち止まり考えてみる必然になる。
 たとえば『最果ての銀河船団』を見てみれば、メトセラ役に該当する、知能増幅手術を受けた研究者たちがフレーム問題にひどく弱くて、しばしばループ思考の末に暴走をしてしまう。そこを補うようにして主人公のもつ歴史知識が研究者たちに適切な方向性をつけたり、あるいは研究対象である異星(私たちの時代に酷似していてキューバ危機とか起こる)を言語学者たちがひとつのドラマに見立て、その登場人物になりきることで研究成果が安定するといった描写がなされています。
 『木洩れ陽のノスタルジーカ』ではそうした点をマイルドに描いており、人の歴史を象徴する古い映画が、フレーム問題の解決に役立つことになります。本作は雰囲気づくりのよいエロゲであって、別に技術的特異点がどーのこーのをやりたかったわけではないのですが、SFにおいてノスタルジーを重要なものとして描きたいがゆえ特異点アイデアとフレーム問題をもってきて、そうしてメトセラが生まれた設定はよくねらいのつけられたものでした。

 はじめに述べたように、歴史講義ではメトセラが真の技術的特異点だとされています。しかし、その直後には当のフロゥにやんわり否定されますし、本編をプレイして優しい世界観を汲んでみると、教科書にあった記載はこの作品にいまひとつ適さないよう思えてきます。むしろ店長さんの「メトセラは人類の上に立つことを拒否した」という言を採って、一緒になって林檎に手を伸ばせると信じたいところ。
 ヴィンジの二つのSF小説においては、メトセラ役に該当する存在がそれぞれ "生き神" と "人類の奴隷" として描かれることになりました。ですが、『木洩れ陽のノスタルジーカ』に生きるメトセラの行先はどうやらそれらとは別のかたちになりそうです。人類が過去の記憶を省みながらフレームワークを整えて方向をつけ、メトセラはそれを用いてこそ思考を巡らすことができる。そんな幸せなパートナー関係がありうるように見えます。例えばそれは、フロゥたちみたいに。
{
>【フロゥ】「そうだな。私も、毎日が驚きの連続だ……自分の感情にまだまだ発展性があると知ることが出来るのは、とても楽しい」
> 【翔太】「いつか発展しすぎて、夫婦喧嘩とかすることになったりするんだろうか……」
>【フロゥ】「夫婦喧嘩か……そうか、私たちは今日から恋人ではなくて、夫婦なのだな」
>なんだか感慨深そうな顔をして、フロゥが肯いている――そういうワンテンポ遅い自覚の仕方も、まあなんていうかフロゥらしい。
>【しねま】「おめでとうございます。フロゥさん、とても綺麗ですね」
>【フロゥ】「しねま様……はい、ありがとうございます。この場に立てるのも、しねま様のお陰です」
>しねまに声を掛けられて、フロゥがほんのりと頬を染めた。
>【フロゥ】「そうだな。夫婦喧嘩か……でも」
> 【翔太】「ん?」
>【フロゥ】「私は、それも楽しみだよ……翔太。いつか対等な目線で、そんな風に舌戦を繰り広げられるというなら、それも素敵だと思う」
}


 2-4, ザナドゥの中身

 さて、人類とメトセラが相互不信をぬぐい、手を取り合って世界を前進させていくためにも、インフォ・クラックを修復する必要があるのは確かにわかりました。けれど、これまでずっとプレイしてきたのはまさにその記憶を失くした「閉ざされた楽園」での話だったわけで、この揺り籠めいた世界観を手放すのが少し惜しいような気もしないではありません。
 ちょっと乱暴なことを言いますと、もしも私たちに太平洋戦争以降、半世紀あまりの記憶しか無いとしたらハッピーだとは思いませんか? 戦後レジームという言葉すらそもそも生まれることなく、それに頭を悩ます必要なんてないんすよ? なにそのハッピーぬるま湯! 世界平和っ! きゅうぅぅじょぉぉぉぉぅ!!
 わたしがこんな風にキナ臭いことを喋ってみたところに含まれるような汚さを、『木洩れ陽のノスタルジーカ』がこれまで取り除いてきた現実の毒を、主人公たちもやはり恐れます。しねまが、このおとぎ話そのものである彼女がそれに押し潰されてしまうのではないかと。

 でも実のところ、それは杞憂でしかありませんでした。なぜなら、ザナドゥに残されていて、オーロラにのって地上に帰ってきた過去とは、ただの冷たい情報ではなかったから。
{
「このデータはマスターのお仕事に有用でしょうか?」「何かお飲み物をお持ちしましょうか?」「私は、マスターのお役に立ててとても嬉しいです」「映画をご覧になりたいですか? どのような種類のものがお好みです?」「わたしもマスターと一緒に作ることが出来るのがとても楽しいです」「こちらに予約をとっておきます、必要な際には呼び出してください」「もちろんお手伝いは可能ですが、お母様の許可が必要になります」「私はみなさんのために造られたのです」「マスター、長時間の作業はお身体に障ります」「荷物をお持ちしましょう」「少々お待ちいただけますか?」「私はもう、マスターとご一緒することができなくなってしまうようです」「暖かい格好をなさるとよろしいかと……」
}
そこにあったのは誰かに向けた気持ち《フレーム》のなかに納められた幾多の情報であって、プレイヤーがずっとこの目で追ってきたしねまと同じもの。近藤の婆ちゃんの娘ひとりひとりと同じものであり、高松老人にメールを残したFDV-801c(ID:2554681) と同じもの。何千何万のしねまであり、戦争や時の流れに埋もれていったヒューマノイドたちの何千何万もの追憶の夢。
 そうして穏やかにインフォ・クラックは埋められ、いよいよ人類はメトセラとも向き合わないといけないのだろうけど、むしろ「いま初めて『懐かしい』という言葉の感触をエミュレート出来たような気がする」と言うメトセラが、さらに歩み寄って来てくれそうです。人類、しっかりしてあげてっ。

 戦争や時の流れに埋もれていった古い映画をサルベージしながら、ひとつひとつエピソードを積み重ねながら、テーマに沿ってしねまの姿を描き続けてきた物語はこうして終わりを迎えます。その中身はというとSF考証にせよキャラの心情にせよ色んな意味で甘いから、たしかに暖かいけれど太陽光線くらいにはありきたりです。でもそこで、しねまがフレームとなり耳をかたむけてくれて、彼女の言葉を通したなら、わたしにだってきれいなものが解る。そんな、誰かへひたむきに向けられる目線が優しいおとぎ話でした。

──────────────────

 以上が、『木洩れ陽のノスタルジーカ』を覗き込んだ、わたしなりの見方《フレーム》となります。

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 ErogameScapeの『木洩れ陽のノスタルジーカ』感想を参考にして書きました。特に影響を受けた感想を挙げさせていただきます。

amaginoboruさん{
http://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/memo.php?game=17470&uid=amaginoboru
}

Cyanさん{
http://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/memo.php?game=17470&uid=Cyan
}

deltanさん{
http://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/memo.php?game=17470&uid=deltan
}

mntldomeさん{
http://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/memo.php?game=17470&uid=mntldome
}

trumpさん{
http://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/memo.php?game=17470&uid=trump
}

unkounko69さん{
http://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/memo.php?game=17470&uid=unkounko69
}


 2014/07/01 追記
{
 ヴィンジ作品への言及などを、ちょっとだけ修正。

 ちなみに、ヴィンジ『マイクロチップの魔術師』はサイバーパンクの先駆けでもあります (あんまり電脳くさくないけど)。一姫ルートの語彙とかはギブスン『ニューロマンサー』をもろに意識しているようで、障壁破り《アイスブレイカー》が鍵となってたり、夢想家《ロマンサー》である棟方が亡くなるとき平穏《フラット》になったり。
 ここからは雑感でしかないけど、善人すぎるメトセラたちを見てるとホーガン『ガニメデの優しい巨人』を思い出しました。あとプレイ中に「白紙の世界」のユートピア感が足りなかったので、民族も宗教も力を失くしたという本編テキストから、コードウェイナー・スミス『アルファ・ラルファ大通り』の人類補完機構を思いなしたりも。

 SFなんて人に薦めれるシロモノじゃないのですけど、それでも、本作の懐かしくきれいな世界観が好きな方にコーニィ『ハローサマー、グッドバイ』は合うかも。サイバーパンクとかまったく関係ない、海辺の町の青春恋愛SF。わたしのオススメです (……しねまの真似してみたかったんです!)。
}


 2014/08/30 追記
{

levoleurdebijouxさんの感想{
http://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/memo.php?game=17470&uid=levoleurdebijoux
}
こちらで話題に出ていた、OPムービーにある『アエネーイス』からの引用 "Sunt lacrimae rerum et mentem mortalia tangunt." それをたどって行ったところ色々と面白かったのでメモ。

 まず軽く解説しておくと、『アエネーイス』にその引用文が出てくるのは、トロイア人の主人公・アエネーアースがカルタゴへと流れつき、自分たちが辛酸なめたトロイア戦争を題材にした絵が、その異郷の地にまでも描かれていることに「本物ではなく絵であっても」なぐさめを見い出す場面(って、ぐーぐる先生が言ってたよ)。

 英語が不自由で、ましてラテン語の知識なんて皆無だからアヤシイのですけど、Wikipediaの "Lacrimae rerum" 項目によると、rerumという語を目的格と主格のいずれで解釈するかによって件の引用文は両義に訳せるとのこと。
{
"sunt lacrimae rerum et mentem mortalia tangunt."

(英訳)
There are tears for things and mortal things touch the mind.
There are tears of things and mortal things touch the mind.

(試訳)
ここには世の物事への涙があり、人の営みは心を震わせる。
ここには世界が流す涙があり、人の営みは心を震わせる。
}
 目的格として訳せば「世の物事への涙」もしくは文脈を汲みながら「歴史への涙」といったニュアンスになり、わたしたちに縁深いものを引き合いにすると「もののあはれ」みたいな言葉も思い起こされることとなる。
 一方で主格として訳せば「世の物事が流す涙」もしくは「世界が流す涙」となり、あたかも森羅万象が人の心を解するかのようにして涙を流しているニュアンスとなる。しかしここで『木洩れ陽のノスタルジーカ』をプレイしたわたしが思い出すことになるのはラストエピソード、店長さんとザナドゥでの作業を終えたしねまの頬を濡らした涙です。アンドロイドという "もの" が流す涙。
{
> 【しねま】「なんでしょう? 目から……水滴が」
>【店長さん】「涙だね……ここではしねまも、人の模倣体《エミュレーション》だから」
>周囲の空間から、二人に情報《ディジット》が集まり始める。
> 【しねま】「なみだ……しねま、ないているのですか……」
}
 ところで件の引用文については、そもそも主格と目的格によるダブルミーニングが意図されているという説があるそうです (※1)。本作のノスタルジー、人の歴史を象徴していたのが映画であることを考え合わすなら、引用された "lacrimae rerum" が示しているのは「シネマへと流す涙」と「しねまの流す涙」の二重の意味合いとなる。そんな見方も魅力的かもしれません。

 『アエネーイス』の該当シーンは、人の歴史を記録した "ただの絵" によってなぐさめを得るところに『ノスタルジーカ』とのつながりをもっており、件の引用文に続く一文なども、本編にあるフレーム問題への態度とは絡みそうで面白い。
{
"Solve metus; feret haec aliquam tibi fama salutem."

(英訳)
Release your fear; this fame will bring you some safety.

(試訳)
不安をぬぐい去るべし。ここに描かれた誉れが何かしらの安息をもたらすことだろう。
}
原文の "Solve metus" を「恐れを解決せよ」と直訳してみれば、本作にはうってつけかと思います。

 ついでながら、篝理ママのお勤め先である企業体ヴァルカンの名づけの由来がイマイチ分からなかったのですけど、これも『アエネーイス』からのネタみたいですね。第八巻に、未来のローマの場景を描いた盾がアエネーアースに渡されるシーンがあるようで、それを作り上げたのが鍛冶神ヴァルカン。未来を開くことが大目標であるこの物語の、ひとつの補助線となっているのでしょうか。


※1
Wharton, David (2008). "Sunt Lacrimae Rerum: An Exploration in Meaning". The Classical Journal 103 (3): 259–279. 
オンライン・ジャーナルが公開されてます。ちなみに、わたしは内容よくわからんかったですww
http://www.jstor.org/discover/10.2307/30037962?uid=2129&uid=2&uid=70&uid=4&sid=21104430650197

}


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