hotpantsさんの「世界ノ全テノ全テ」の感想

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**ネタバレ注意**

ゲームをクリアした人むけのレビューです。

これ以降の文章にはゲームの内容に関する重要な情報が書かれています。まだゲームをクリアしていない人がみるとゲームの面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。

曇天を分かつ曙光、覚め遣らぬ記憶の残滓、時は移ろうとも過ぎし日は美しく心に在り続ける――追憶する。叙情的情景描写と良質の劇伴で物語世界は独自の雰囲気に包み込まれ、いくらかでもリアリティを帯びた造型で克明に描かれる、「他者」の「まなざし」に晒されることで起こりうる苦悩や葛藤。この物語は、未熟で不器用な少年少女の春を辿る物語、人間存在の学である。或るパースペクティブで以て存在の様式を捉えたうえで「連鎖」の内の人間の実存を見事に描いている。理解し難い登場人物の諸行動も彼等自身の観点に立ってみればその大部分が了解可能となろう。フロムの措定する愛を下地に多方面の知識を織り交ぜてきているため、詳細な読解には困難を極めることが危惧されるのと、幾度のリファインを経てもなお有る誤字脱字、整合性の欠如が難点か。まあ、私も理解できていないのだけれど、駄目なりに考察。
▼基本情報(限定版)
対象年齢:18歳以上
ジャンル:青春アドベンチャーゲーム
形式:ヒロイン攻略型マルチエンディングADV
音声:フルボイス(主人公除く)
容量:3.25GB
操作性:標準
システム:微難
内容物:組箱(282×212×35)、ゲームディスク(CDケース内プレスDVD)
サントラCD3枚ドラマCD4枚、マニュアル、萌えゲーアワード投票用紙


▼CG枚数及びHシーン数
イベントCG数:約150(差分や特殊立ち絵除く)
シーン数:約10


▼プレイ時間詳細
共通    3:00
草薙ほのか 3:50
草薙かすみ 1:05
櫻井まりも 3:10
小西智子  3:50
Total   14:55


▼備考
プロテクトコードによるインターネット認証が必要
roy版との大きな変更点として新規CG、remind of youシナリオ後日談追加(約40ワード)
限定版のみDC版智子ルートクリアー後『世界ノ全テ』『世界ノ全テ-remind of you-』追加
(『世界ノ全テ two of us』追加シナリオはDC版に組み込まれていると思われる)
DC版フルコンプで未回収CG枠六つ。無印版智子ルートとroy版智子ルートで回収可能(通常版では不可)
roy版は共通ルートのフラグ管理を無視して強制的に智子ルートへ移行する




▼考察

◆はじめに

 われわれは当たり前のように日々を過ごしている。「生きる」ただそれだけのことで必死になる必要がない。
そうなってくると余裕が出てくるのか、「どう生きるか」を考えるようになってくる。精神の時代である。
すると、心を病むひとたちがあらわれはじめた。体は痛くないのに、心が痛い、そんな人たち。
 いまやわれわれは「どう生きるか」に苦しんでいる。周囲のまなざしが、他者の視線がくびきとなっている。
なりたい自分がいるのに、まなざしに怯えるあまり、なりたい自分に目を背ける。われわれの周囲にはいろんな「まなざし」がある。
そういった社会体系、ないしは「連鎖」(ネクサス)の内の人間の実存とは。この問題を思春期を生きる少年少女から捉えたい。


 1章では実存的精神医学・現象学的-社会学的観点から、登場人物達の世界内存在[*1]の全体を考察してみようとする試みがある。
というのも、実存的-現象学的解釈をなすことにこそ性格異常者や精神病者の在り様の一端でも捉えうるアプローチとして
有効であって、たとえ精神病者であっても「人間そのもの」[*2]なのであるから、それは了解可能であることを示している。
精神分裂病者、精神分裂病質者[*3]理解のための方法には、特にそうしたアプローチが適しているであろうと思うのである。
本作の其処彼処に散見する「例外なくその人間が生きうべからざる状況を生きるために発明した、とっておきの戦術」(Laing 1967
 :120)は、われわれに観察可能な登場人物達の諸側面の、凡そ一般的に到達されないであろう世界内存在の様式の表現として
理解されんとする不可視の要求があるように思える。拙い見識ではあっても、作者の意図するところを汲み取らずにいられようか。


 2章では、主に登場人物達の恋愛の根底にあると推測されるフロム的「愛」の観点から、各ヒロインルートについて考察する。
フロムの述べる「愛は、人間のなかにある能動的な力である。人をほかの人びとから隔てている壁をぶち破る力であり、人と人とを
 結びつける力である。愛によって、人は孤独感・孤立感を克服するが、依然として自分自身のままであり、自分の全体性を失わない。
 ……純粋な愛は生産力の表現であり、そこには配慮、尊敬、責任、理解(知)が含まれている。愛は誰かに影響されて生まれるもの
 ではなく、自分自身の愛する能力にもとづいて、愛する人の成長と幸福を積極的に求める」(Fromm 1956:45-46,95)といった、
固性・全体性の把持と愛の能動的四要素からなる生産的な境地においてこそ、真実の愛があるのである。本物語では、登場人物達の
愛の能動的要素の「欠如」が彼らの恋愛に亀裂を生じさせ、或いは「獲得」によってその様相を変える。愛の生起でさえ
その出発から狂いが生じている浩においては、軽音部の仲間達や家族によって、その狂いを真実の愛に変えうるきっかけを
得られるか、気づけるかにかかっているのであるから、その過程を順に追っていくことで多少は理解するに到れるはずであろう。




◆1章 死に至る青――精神病理学のパースペクティブ

1.1.分裂病因性の家族――家族布置の力動

> 俺の世界は
> 徐々にその色を無くしていた……
                  ――『世界ノ全テ –director’s cut-』prologue――

 生を全うする過程において、なかんずく青年期に集中しているよう見受けられる自己の在り方への接近は、
あらゆる方法を以て自己という存在、その固有性――恐らく浩のいう「色」――とでもいえよう「アイデンティティ」[*4]の獲得、
或いは把持――いわば、自己の存在を証明――せんとするア・プリオリ[*5]とした態度として、自己の存亡をかけての適応がある。
ここで重要なのは、このアイデンティティには他者による承認が必要不可欠ということである。
存在者を存在せしめる存在なくしては、存在者は存在し得ない。
法的性質を捨象すれば、「親子」という体系では親が子どもを子どもとして承認しなくては決して親子関係にはなり得ない。
本作の主人公・宮本浩の家族はどうであったろうか。一般的な家庭ではあるが、その内実には問題を抱えている。
家父長主義体制のもと、家長である父晋司が形式的な権威者としてあるところに、
極めて「家長的」である対象に従属することで二次的な存在論的安定[*6]を得ている母芳江、
社会的立場、所謂体面を重視している傾向にある父に課された、一定の外面的評価を保持する長男竜彦、
反対に一定の外面的評価の獲得を放棄した次男浩の計四人の核家族構成において、浩は安住しえない境地に陥ってしまっている。
本作の処作的位置にある『世界ノ全テ』[*7]発売当時に於ける近代的人間観では、理想の子供は「大人の言うことに従う子供」と
措定されていたことに呼応するかのように素描された、晋司の息子に対する態度からこの家族体系の問題を見ていきたい。


 世界的ベストセラー『愛するということ』の著者であるフロム[*8]は、父親が子供に向ける愛について次のように述べた。
「父親の愛は条件つきの愛である。『わたしがおまえを愛するのは、おまえが私の期待にこたえ、
 自分の義務を果たし、私に似ているからだ』というのが父親の愛の原則である」。
父親の愛には、こうした「条件付き」、「資格が必要」であるという否定的な側面がある(Fromm 1956:71)。
対偶をとれば分かるように、宮本家にあてはめれば、子供への態度として「一定の外面的評価を持つ」
或いは「一定の外面的評価を持てるよう努力する」という条件に満たない浩への愛の喪失は道理であろう。
こうした父親に対しての有効なアプローチは、芳江が行なっているような「従属すること」ではあるが、
親子という体系において、父によってアイデンティティを否定されてしまった浩は、従属ではなく
「私のあるがままを理解されたい」とした一貫して不服従の態度をとろうとする。
対して父親は、或る「類型」[*9]で以て、浩を理解しようとするが、「外面的評価」という遥かに大雑把な「類型」であるから、
その到達には、固有性に如何関わりなく望まれた息子ではないことを示唆してしまっている。
この理解の過少が生む、自己のアイデンティティの不確かさが、浩をアイデンティティ・クライシス、
すなわち、レインが示したところの「存在論的不安定」の実存的境地へと辿らせるのである。
レインの記述には、こうした存在論的安定にむかって生来賦与されているはずの遺伝規定的な傾向を「阻害」する在り方を、
分裂病因性の概念のシニフィエ[*10]としているのであるから、まさに晋司は、分裂病因性の父親といえよう。


 分裂病因性の存在との共棲にあってか浩が分裂病質者になってしまっていることは彼の諸感情を見れば明白であるが
分裂病質者の特徴に「社会からの孤立」が代表されるように、父だけが齎したものではなく、母や兄もその一因を担っている。
芳江に関しては、家長である晋司、特に、次期家長と思しき竜彦に依存しようとする在り方であって、浩への対応は全て
彼らの論ずるところに無批判に依拠してしまっているため、迂遠的、間接的な関係に補完性(相互承認)は見られようもない。
浩は兄弟には到底回避し得ない比較によって生じた劣等感とそれによる自己愛性の欠如から、譬え一方がどう思っていようと
孤独感を感じざるをえず、それは父晋司の対象化によって極端に増幅されてしまっているのであるから、家族にありながら
「共謀的アイデンティティ」を持たない浩は、世界内存在の全体が始源的部分より分裂してしまっているといえよう。
この家族は概して分裂病因性の家族といえ、かくして浩は「所与と構成との統一体」[*11]として家族全体の力動に曝されている。
虚構の存在である智子も同様に分裂病質者であって、それは祖母という理解者がいながらも、
父親の恐るべき妄執によって成されたアイデンティティの積極的な否定が、彼女を存在論的不安定の実存的境地へと辿らせている。




1.2.補完性ネットワークと恋愛への過程

 分裂病質者の特徴と違いなく社会的関心が致命的なまでに欠如している浩は、御室学園転校当初には画一的な防衛をして
「別に」という態度で見せ、接近する他者との繋がりを忌避し、「受動的」態度で以てあらゆる能動的行為を避ける。
他者による承認を希求していようと、「期待して裏切られるのは嫌だ」から、はじめから、繋がりを諦めるのである。
「分裂病質者の自己は、始源的存在論的不安定のなかで彼が直面する一時的不安定のなかで
 一時的危険からのがれて二次的安定を得ようとする試みと理解されなければならない」(Laing 1960:118-119)。
しかし、これは自己の防衛であるはずであったというのに、防衛としての社会への隔意があり続ける限り、
結果論的には、もはや彼の自己のアイデンティティは“望ましくない”ものへと、自らの意思で成り代わってしまっている。
彼の感じた「色」の消褪とは、つまり、主体の位相が完全な孤立状態にあるネガティブ・アイデンティティ[*12]への変容を意味する。
精神分裂病質者とはこうあって、自己のアイデンティティの喪失のあるところには、精神分裂病へと移行するのである。
しかし、もし、彼の前に、彼のあるがままを能動的に受容、乃至、承認する或るネットワークが存在するのならば、
彼は喜んで「能動的」にそのノードとなり得て、かつての「色」を取り戻すであろう。それが旧友であったならば特に見込みがある。
浩が望んだ孤立から生じる不安からの解放は、かくて集団への同調により成し得たのである。


 集団への同調による合一は、しかし「偽りの一体感に過ぎない」(Fromm 1956:37)。
バンドとは ――麗次曰く、「ライブみたいなもの」で、諍いも、喧嘩も、スランプも、皆で超えられてはじめてバンドになるという。
麗次のいうバンドとは、浩のいう「お互いの気持ちが分からない」状態からの脱却であるが、より具体的には、個々の欠点に目を瞑り
アイデンティティを「認められるから認める」ような表面上生きている「死んだ」関係から、個々の欠点を快く受容し、
アイデンティティを「認めるから認められる」関係へとなり得たとき、その状態こそ真に「生きた(ライブ)」バンドにもなろう。
 「祝祭的興奮状態」という言葉がある。文化祭でのライブは祝祭的儀式といえ、それを行えたときに感じる、つかのまの高揚状態が
それである。これには擬似的な人間同士の一体感を助長、孤立感の解消を促す効果がある。文化祭時点の浩はあたかも軽音部と一体と
なれたかのように見えるが、ほのか・かすみルートにあるライブ中止シーンにて露呈してしまうように、未だ未熟な彼のみ麗次のいう
バンドではなかったため、心的に孤立している浩は、「祝祭的興奮状態」を得られない場合その孤立を解消しようと「駆り立てられる」
(受動的態度)。ほのかへのキスは駆り立てられた結果であって、孤立からの逃避による恋愛は、彼の成長なくしては決して成熟した
愛にはならないのである。愛は集団への同調とは違って、完全なる人間同士の一体感であるから、それを得たいために行われた
本能的なものではあったにせよ、受動的に行われたそれは偽りであるほかないのである。ライブに成功しても状況は同様で、
ただ現在に孤立感がないだけであって、まりもに「愛されたから愛する」浩は受動的であるから、彼はその恋愛において彼自身の
未熟さにキズつきながら、キズいてゆくほかない。本物語では彼の未熟さがつきまとうためにあらゆる問題に見舞われてしまっている。




1.3.にせ-自己体系による生存戦略

> 「かっこいい」という言葉が似合う、そんな女性だ。
(中略)
> こっちに向けられた視線から、年齢に不相応な悪戯っぽい光が見える。
> でも、さっき会った時と比べれば、なんか態度がずいぶん違うように思える。
> まったく、大人ってのは調子がいい。

                  ――『世界ノ全テ –director’s cut-』9/12(月)午前中廊下――

 草薙かすみが生産的人間として人生に参加するということは、つまり、社会と不断に接触しなくてはならず、
その社会に適合し得ない境地にある彼女にとっては、自己を致命的脅威に不断に晒すことに他ならない。
否応なしに関わらざるを得ない状況にある時、彼女は傷つくことを恐れて、防衛の形態をとるのである。


「われわれ人間が、この世のなかに適応して生きてゆくためには、外的な環境に対して適切な態度をとってゆかねばならない。
 外的環境はつねにわれわれに、そのような態度をとることを要求している。つまり、父親は父親らしく、教師は教師らしく、
 子どもは子どもらしく、ある種の期待される行動に合わせて生きてゆかねばならない。」(河合 2009:215)

 草薙かすみは化粧する。自己の化粧――にせ自己は、真の自己の「存在のもっている像を変形させることによって、存在そのものを
 修正しようとする」(Bédouin 1963:20)行為でなしえた客観的存在である。「あるがままの私」――真の自己の消褪の恐れは、
にせ自己をつくりあげ、社会との接触は全てにせ自己が行うのであるから、そのにせ自己(外的自己)――かすみのいうところの
「殻」――とは遠くにある、真の自己(内的自己)は超越的となり、所有されないことによって、「傷つかない」のである。
本作中引用部のように、他者によって適応しうるペルソナ群が“直情的で抑えがきかない”「弱さ」を守るにせ-自己体系なのである。
こうしたにせ-自己は特殊な人間を除けば、程度の差こそあれわれわれにも必ずあるはずであり、器用に駆使しては社会を生きている。


 かすみが言うには、期待されたにせ自己の内的自己との統合は大人には難く、であるから殻を欲する他者には意味を見出せない。
他者に期待された「綺麗で、強くて、明るくて、みんなの人気者」の「センセイ」は生きてゆくための方法でしかなく、
真実は妹であるほのかの「配慮」によって、成人の達しうる悟性があるにもかかわらずそれを用いようとはせず、私秘的には未だ子供
でいて甘えている無垢的な内的自己であって、「未成年状態」[*13]の境地のまま留まっているため、内的にはか弱い「少女」である。
第一であり、もはや母としてあるほのかを裏切ることは決してできないのである。社会に接している自負だけが、彼女を支えている。
草薙かすみは、であるから、幼いその身を「傷つかない」殻で覆うため、自己へのアイデンティティのみを所有している場合には
現実的には存在し得ない。そんなわけで草薙かすみは、草薙かすみそのものは、存在しない。




1.4.分裂病質者の実存――近代的現象学的社会学における感覚論

> 熱せられたコンクリートから立ち上がる揺らぎの向こうの彼女は、なぜだか現実味を帯びていない。
> 確かにそこに立っている彼女。
> しかし、陽炎のように近づけば消えてしまいそうな、そんな幻のような印象を受けた。
                  ――『世界ノ全テ –director’s cut-』9/12(月)昼休み屋上――

 屋上にて小西智子との邂逅の際、浩は彼女を、まるで「陽炎」のようで、その場に居るのか不明瞭であるとさえ感じた。
一人の人間存在の面前にいるにもかかわらず、そこにまるで誰もいないかのような感情――「プレコックス感情」[*14]。
ジンメル[*15]が「われわれが一般に周囲の人間を感覚的に知覚するという事実は、二つの方向にむかって展開し、この二つの方向の
共働作業は根本的な社会学的意義をもつ。ある人間についての感覚印象は、主観のなかへ入りこんで作用をおよぼしながら、彼の姿や
あるいは声の調子によって、同じ空間に彼がたんに感覚的に現にいることによって、われわれのなかに快と不快、特有の高揚あるいは
消沈、興奮あるいは鎮静の感情をひきおこす。……彼の感覚的な形像にたいする感情のこの反応は、彼自身をいわば外部に放置する。
感覚印象の展開は、それが他者の認識の手段となるやいなや、たちまち右とは反対の次元へとひろがる。すなわち私が彼について
見たり聞いたり感じたりしたことは、いまやたんなる架橋にすぎず、それをこえて私は私の客体としての彼に到達する。
……すべての感覚印象は、主体のなかへ主体の気分や感情として入りこみ、客体に向かってはその認識として出てゆく。」
(Simmel 1908:247-248)と述べたように、認識に先立つ感覚印象に齎す影響として「視覚」によって感覚した際に、
見ること-見られることの相互作用的レリヴァンスの欠如、すなわち、見られるだけの人間は、「つまり、総体生活における方向喪失と
孤独化との感情に、さらにあらゆる方面において閉ざされた門にとり囲まれているという感情に寄与する」(Simmel 1908:252)
のであるから、これの意味するところは逆説的に、まなざしを向けられ、また自分もまなざしを向けたことによって心的な本質
(精神病的境地)を認識し得たこの事実から、宮本浩と小西智子はこの場において、分裂病質の徴候を消し去っている。
浩は周囲の視線を気にするが関心は全て己へと向かうはずなのに、この場では自らも理解し得ず“声をかける”のである。
智子は周囲への関心を放棄しているにもかかわらず、こののち、見つめるといった、浩へと“関心を向ける”のである。
 シンパシー原理にもとづいた共鳴は、社会への隔意を減衰させるだけに及ばず、欠如した自己愛(ポジティブな意味)の再帰を促す。
彼は彼女と似ている、彼女は彼に似ていることを周囲は気づいていても浩は気づかなかったが、自己の内奥では知覚していたのである。
こうした意味で既に彼の「世界ノ全テ」には小西智子が息づいていたため、後に気づくようにこの時点から彼は彼女に意識を奪われた
=恋愛感情を潜在的に持ち合わせていたということであろう。自己実現理論[*16]的観点からいって、分裂病質者は所属と愛の欲求を
放棄する傾向にあるために、孤立している境地にある彼が自己の安住し得る「居場所」を確保していないようでは、
存在論的安定の境地になるまでは、彼女への気持ちに気づきようもないのである。


 本作の描写は特に浩の「感覚」に拘っているように見受けられる。上述した「視覚」においてもそうであるが、「嗅覚」や
「聴覚」によっても彼の心情に密接にかかわっている。「感覚」でしか推論しえない感情、行動が彼にはあるのである。
 ジンメルが嗅覚について述べた、匂いによる「騙し」の作用は、主体へ向かわせる自己催眠的行為のように思われるが、
それに倣えば、潮の香気は浩にとって一時的な「鼻の媒介による装身具」であったわけである。なぜそれを好むのであろうか。
潮の香気は「あるがままでいられた」かつての彼の象徴で、そう再帰したく思っている彼は彼自身を「騙し」て、
彼――過去と違っていまや存在論的不安定の実存的境地にある――の自己の実存を擬似的に実感できるからであると考えられる。
 「視覚」に比して「聴覚」は、受け取るのみで与えることはしない「利己的な器官」であるといえる。
浩において耳に関するものは特にラジオとイヤフォンをおいて他にない。これには二つの意味が込められている。
先ず第一に彼は耳を塞ぐことによって社会への隔意を表明するとともに超個人的に社会にたんにいることができること、
第二に唯一者に定められた、ラジオ音源によって特別な心的強調を持つことができることである。
彼がラジオを聞く行為には幾分かの利己主義があって、また、彼の孤立感を一時的に和らげるのである。ルートによってある、
ラジオを聞かなくなることや潮の香りを感じないことは、上記を必要としなくなった、或いは出来なくなったことを意味している。




1.5.それ-過程――有機体としての運動

> 何かが、凄いスピードで俺の脇をかすめた。
>『それ』にイヤフォンがひっかかり、ラジオが俺の手からするりと飛び出す。
(中略)
>『それ』に引っかかったラジオは、そのままの勢いで壁に叩きつけられてしまった。
                  ――『世界ノ全テ –director’s cut-』9/12(月)昼休み廊下――

 母親が櫻井まりもに支配的に接するのは、自分のナルシシズムを満足させようとする行動であると察せられる。
そういった意味でまりもは母親よりの愛を受容し得ず、また確実ではないものの逃避行後のまりもの表情からも分かるように
父親もまりもにとっては愛してくれる対象ではない。しかし、彼女は宮本浩とは違って、社会への関心も持ち得ていて、友達にも
恵まれていることからも健常であることが分かるが、健常の範囲内にいて合一感を得たいがために愛を求めている行動には、外観から
してみれば畸形的ではないものの、嫌われたくないといった利己心の優先がある。この利己心を浩は主観的に異なって認識していた。
本稿で論ずる彼女の問題は偏に上のような、人間ではなく有機体として見られることであって、その概念化に賦与される行動過程には
誤解を恐れずに言えば、一定の筋肉の収縮や弛緩といった、物理レベルで認識せしめる実存的境地におかれている。
有機体として見られた人間は事物化されて、もはや他者による認識は「それ(it)」である。
両親や浩にとって彼女の行動は「それ-過程(it-process)」であり、認識には体験と志向の側から見え得ない畸形が存在している。




1.6.差別化のアプローチによる生存戦略

>???「はぁ……かすみお姉さまを見習ってやねぇ」
                  ――『世界ノ全テ –director’s cut-』9/12(月)昼休み廊下――

 草薙ほのかは、何より姉であるかすみとの比較を恐れる。何せ「綺麗で、強くて、明るくて、みんなの人気者」の姉妹が
同じ学校にいるのであるから、自分が明るくもなく、強くもないことを知っている彼女は、自己を「劣等」として対象化している。
彼女が常に前かがみでいるのは胸にコンプレックスを抱いているようで、実際はただの差別化にほかならない。
かすみが堂々と胸を張っていて綺麗で格好良い大人という印象を持たれているから、彼女は常に対照的であろうとするのである。
髪を飾ることも少女として見られたい気持ちから来ている。そうして比較されることを避けている。全ての根幹に劣等感があるとした
アドラーの理論では、劣等感から生じる優越性への欲求の生起がその人の心や成長に大きな影響を与えると説かれているのに対して、
彼女が受動的態度で以ってして逃れようとしていることは、その境地が致命的であることを暗に示しているものである。


 もし、比較されたとしよう。誰かは彼女に対してこう言う、「お前は姉と全く似ていない」。
さて、彼女は果たして傷つくであろうか。否、傷つかない。いや、多少は、一瞬固まる程度には動揺してしまうであろうが、
他者による比較の、自己存在の間接否定は、彼女の防衛によってその意味をなさないからである。
前述した彼女の差別化によるものであるが、むしろ貴方はこう思ったのではなかろうか。
「似ていないのが問題ならば、普通は少しでも似るようにすることが良いのだろう。なぜ彼女はもっと深刻にしてしまうのか」
筆者は彼女のアプローチを「謙遜」のメカニズムのそれと捉える。
話は簡単である。不細工な女性が、誰かに不細工と言われる前に、自分で先に「私って不細工なのよね」と言ってしまう。
すると、誰かが彼女に不細工であることを指摘したとしても、彼女は既にそうであることを表明しているのであるから「傷つかない」。
ほのかは彼女自身によって似ていないことを誇示するのであるから、たとえ似ていないと言われようと、
何をいまさら、と「傷つかない」のである。彼女は謙遜する。そんなわけで草薙ほのかは、草薙ほのかそのものは、存在しない。




◆2章 春に舞う想い――愛と所属のパースペクティブ

2.1.respect for you/尊敬

 「君を知り、解きはなつための物語。」(西尾維新『花物語』講談社BOX)

 宮本浩は草薙かすみに突如「センセイ」ではなく「女」の印象を受ける。途端、「衝動」が浩を支配する。
――リビドー(フロイト的-性衝動)に支配された浩は彼女に性行為を要請するが、驚くべきことに彼女は受けてしまう。
好きだからである。元型イメージにあるアニムスとは女性の持つ異性像であって恋愛対象はアニムスに近い男性ということからも、
学生時代の彼女の初恋の人に似ているというだけで浩に好意を寄せうるのは、ユングの理論に則るならばであるが、想像に難くない。
また、浩のリビドーに対してもそうである。彼のアニマは「子供」そのものであってかすみの「女」の印象と同一視しかかっている。


 しかし彼女には「責任」がある。ほのかを裏切ってしまうわけにもいかず、また、教師としても生徒と交際するわけにはいかない。
こうした「責任」のために忘れようとするも、ずるずると関係を続けては、在るべき自分(成人)との乖離に苦しんでしまう。
 他方、浩は浩で「女」の印象を与えた「瞳の奥に隠された妖艶な輝き」――かすみの内的自己に魅了されていく。
彼女の内的自己の表出によって、尊敬――フロムの定義とするところでは、人間のありのままの姿をみてその人が唯一無二の
存在であることを知る能力――を徐々に得ながら、それに伴って、智子への好意すらも薄れほのかや軽音部の皆を裏切ってしまうと
わかっていながらも、「好き」の気持ちが加速していく。その感情のコントロール不可能性を浩は「弱い」といった。
かすみも同様に「弱い」ために、浩の前でにせ自己を保ち続けようと決意しているのに、内的自己との断裂がそれ自身を苦しめている。


 「尊敬」とは他者の内的自己の成長発展を気遣うことである。浩は軽音部との破局を回避し得ないと分かっているのに、
恐れるがゆえにその関係を引き伸ばしてきたが、彼女の涙の痕を、苦しみの理由を理解するに至ると、遂に決意する。
彼女は「尊敬」を以てして接しなければ壊れてしまうから、自分からほのかや麗次、そして自分との訣別を決意したのであった。


>かすみ「アジアンタムよ。冬にはあんまり売ってへん植物なんやけど、
     この前ここに置いてあるのを見つけて、どうしても欲しくって」
                  ――『世界ノ全テ –director’s cut-』12/3(土)午後ビル街――

 
 浩はかすみのために「いろんなものを捨てて来た」。かすみであってもそれは一緒であろう。
全体性の致命的な欠損によって、浩はもう潮の香気は感じる事が出来なかった。
けれども、現に手を繋ぎ合って微笑み合う二人が、不幸であるようには見えまい。
アジアンタムの花言葉は「無垢」である。浩はそんな花言葉が似合う彼女の手を、離さないことを誓ったのであった。




2.2.care about you/配慮

 「青春に、予定調和はおこらない。」(西尾維新『暦物語』講談社BOX)

 櫻井まりもは全体性に「配慮」する。外観からすれば非常に自由な印象が持たれ、好き放題に生きているようにも見えた
彼女の全体性への考慮は、瑞樹のために麗次へ抱いた好意すら幻のものとし、やがては錯覚と思い込むほどである。
自分の気持ちを無意識に押し込めて、周りを気遣う人間である。しかしこれは「嫌われたくない」といった利己心からきているため
外形的には「善」であっても――条件付きであるこの仮言命法(仲を失いたくない“ならば”、他者の思いを優先させる“べし”)
は善意志(動機が普遍的道徳法則=義務)に基づくものではない――ただの「偽善」である。


>森本「ああ、『もうみんなには会わない。これ以上みんなに迷惑かけたくないから』……だそうだよ」
(中略)
>まりも「智子先輩……みんなに気を遣いすぎやよ」
>智子の気遣いに触れたまりもは、目に涙を溜めながら独り言の様に呟く。
                  ――『世界ノ全テ –director’s cut-』1/7(土)午後病院廊下――


 上記引用部に見られる小西智子の行為の格律は、道徳法則と一致しているため善意志に依るものであることが分かる。
こうした智子の行為に触れて、まりもは本当の「配慮」――フロムの定義とするところでは、愛する者の生命と成長を積極的に
気にかけること――を知ることとなった。これには自己を顧みない側面があるも、「配慮」のないところに真実の愛は無いのである。
しかしその否定的側面への過剰な同調が、本物語での彼女の命運を作用するものとなる。


 「配慮」はレイプ[*17]される境遇においても発揮される。まりもは自己を顧みない人間なのか、顧みられない人間なのか、相手から
何らかの訴えが起こらない場合には、他者のことだけを思いやる。同じ境遇にいた浩の悲しみを取り除いてあげたい一心なのである。
彼女が浩に向けた手は慰めてほしいからではなく、浩への慰めであったが、それが浩には分からなかった。
浩は「彼女は傷ついて助けて欲しいと思っている」と思い込んでいる。であるから、想像した彼女の苦しみにどう接すれば良いのか
分からずに手を差し伸べることが出来なかった。このすれ違いには浩の「ナルシシズム」が根本的原因になっているものと思われる。


 ナルシシズムとは自分自身にしか関心が向けられていない状態のことをいう。自己愛とは異なるため誤解なきよう注意されたい。
自己愛は自分自身を愛することで他人をも愛せる能動的な要素であって、真実の愛においては必須ともいえるものであるが、
これとは違ってナルシシズムは克服しなくてはならないものである。そうでなくては「理解」が出来ないのである。
自分自身にたいする関心を超越しなくては、相手の立場にたってその人を見ることが出来ず、他者の行為が「それ」として認識される。
ナルシシズム傾向が強い浩は自分の内に存在するものだけを現実として経験するため、他者の本当の思いが分からないのである。
本ルートのみ逃避行後の家族の態度に差異があるのも、実際の家族の行動は恐らく変わっていないにもかかわらず、
依然ナルシシズムの傾向が強い浩の主観に作用された客観性をもたない認識によるものと思われる。であるから、
まりもが「あなたを助けたい」と思っていても、浩によって「あなたに助けてほしい」と間違って認識される。
しかもその助けて欲しい思いに応えられないのであるから、決定的なすれ違いが生じてしまう。
しかし認識を改めることになるのが、智子よりの忠告である。或る行為が他者を思ってのことであることを浩に示唆する。
そして「オーシャンビュー」に投稿されたまりもの本当の思いを聞いて、「オレはなんて馬鹿だったんだ」と改めるのである。


>ただ、まりもの前に立つと、どうしても顔が見れない、声を出す事が出来ない……
                  ――『世界ノ全テ –director’s cut-』1/11(水)昼休み教室――

 間違った認識でのまりもの訴えに対応を迫られた浩が、彼女にそっけない態度をとってしまうことについても見ておきたい。
彼女の話を聴く態度を持っていないのは、言葉を返しようがないとあらかじめ分かっているのと迎え入れられるという
確信が無いからである。「が、それでもひたすら聴かねばならない。最後まで聴き切らねばならない。聴くだけ、
 言葉を受けとめるだけということが意味をもつ……苦しみや鬱ぎのなかに溺れてしまっているひとが、それでもそれについて
 語るためには自分の苦しみや鬱ぎについて、どんなきっかけ、どんな経過でこんなに苦しみや鬱ぎに襲われることになったのか、
 その理由と考えられるものは何か、いまはどんな状態か、というふうに、苦しみや鬱ぎから身を引き剥がし、ことがらを
 時系列に並べ換え、整理して語らねば……自分の苦しみや鬱ぎにある距離をとり、それを対象化するなかで、それらとの関係が
 変わるということが」できない(1990 鷲田:125)。浩の聴く態度があればこそ彼女がようやく思いを打ち明けるに至るので
あるから、それが試される場において宮本浩が櫻井まりもに対するそっけない態度をとってしまった理由や反省を漏らしなく
打ち明けるとともに彼女への関心を証明しなくては、櫻井まりもは受け入れてもらえる確信がもてずに、思いを打ち明けようとは
思わない。人間は関心を抱かれている確信さえあれば、かのような心境においてさえ、重い口を開くのである。


 まりもの「配慮」にようやく気づいた浩は、彼女と付き合い始めてからの暦を振り返る。そして気付けなかった、
気づこうともしなかった彼女の気持ちを考える。あの時の彼女のふるまいは、何を思ってのことであろうと振り返ると、
それは「それ」ではなく、彼女の気持ちの向きを示していた。回想を終えて浩は思う。今の彼女は何を思っているのか。
その気持ちを、今度こそは受け止めてみようとする気持ちが、はたして彼にはあるのであろうか。


・BAD
 宮本浩は櫻井まりもに許されたい=安心したいの“ならば”、彼女に謝る“べし”。浩の関心はいまだ自分自身に向けられていた。
彼はまりもに語りかける。断片的すぎるその内容はまりもには届かない。受容される確信のないまりもは自分の気持ちを言えずにいた。
――カタストロフが訪れる。浩がまりもであると思って語りかけていた「それ」は、人間ですらない「キーホルダー」であった。
本物の彼女は雪の降る公園で待ち続けていた。自己を顧みずに浩のことだけを思い待ち続け、やがては体温が低下して……。
結局、浩は彼女を「それ」としてしか見られなかった。かくして、この物語は幕を閉じるのであった。


・GOOD
 宮本浩は櫻井まりもの気持ちを聴きたい。思いやりたい。“他者を思いやるべき”。動機主義者であるカントは
「すべき」ことが「したい」ことであるという境位においてこそ、人間は真の意味で幸福であるに値するものとなりうると述べた。
ナルシシズムの克服に至った浩にはまりもの姿が見えていた。消えない幻はすでに現実、ちゃんといる。そして真情を吐露する。
今の彼に受け入れてもらえる確信を得たまりもは、「嫌われたくない」思いを告げる。決して利己心からきているものではない。
孤独になるからではない。「ヒロ先輩に会えなくなってしまう」からである。会いたかった。そして二人は、初めて、会った。
初めて、互いの本当が見えた。ぬくもりを感じる。愛し、愛される相互関係は、浩が風邪をひいて、であるのにまりもはキスをして、
そしてまりもは風邪をひいて、浩はまりもにキスをする、この光景が如実にあらわしている。もう彼らは大丈夫である。
最後のライブではまりもを「思いやり」、サプライズとしてボーカルの役を渡す。彼女は満面の笑みを見せながら、歌うのであった。




2.3.think of you/責任

 「君の影、探してまよう帰り道。」(西尾維新『傾物語』講談社BOX)

 草薙ほのかは他者のために疲弊する。「愛の本質は、何かのために『働く』こと、『何かを育てる』ことにある。
 ……人は、何かのために働いたらその何かを愛し、また、愛するもののために働くのである」(Fromm 1956:50)。
しかし、こうした彼女の「配慮」には「責任」を内包しないために、過労になって周囲に心配をかけることになってしまう。
この出来事を経て、彼女は「責任」――かすみのいうところでは求められたことに対して“安心を与える”対応――を知る。
彼女は彼女の愛する軽音部への本来の働きがもてるよう過剰な自己犠牲を抑えるに至った。生産的な性格を得られた、といってよい。


>責任を果たすとは、自己満足で終わらせるものじゃなくて、周りに安心を与えるものなんだということ。
                  ――『世界ノ全テ –director’s cut-』12/25(日)午後草薙家玄関――


 草薙ほのかはライブの開催中止に直面して自責する。そんな彼女に対して宮本浩の行動はキスをすることであった。
彼女を思っての「配慮」と思われたそれは、しかし実際はライブの開催中止によって合一感の幻想がとけた浩がその孤立感を
払拭しようと駆り立てられたことでほのかという対象に依存しようと潜在的に企てた行為である。
 浩は以前、ほのかを「お母さんみたい」であると言っていた。彼が示す「母」とは実際の母親ではない。ユングによるところの
「太母」の元型であって先述した母親の愛に保護されたいといった彼の甘えである。彼のキスは表面的で「無責任」な「配慮」である。
こうした「転移愛」[*18]は、情緒的発達の幼い母親への幼児的執着でしかない。彼はいまだに受動的であって、ほのかへの
キスは恋に「落ちた」ことなのではと錯覚しただけであり、その恋愛において彼は愛されることに腐心して愛そうとしない。


>ほのか「私……信じてて……いいんですよね」
                  ――『世界ノ全テ –director’s cut-』12/6(火)夜自室――


 草薙ほのかは宮本浩を信じる。彼が小西智子に一途であったから、その彼が自分を選んでくれたことはその一途さの対象が
こちらへと変わることでこれからに期待を持てるからである。勿論、浩の智子への思いが未だ残っていることに「不安」を
抱えてはいるが、それについては彼に確認までしたのであるから、信じようと決めたのであった。根拠のないものへの信頼とも
見えるそれは「可能性」への信頼であって、つまり「自分の愛は信頼に値するものであり、他人のなかに愛を生むことができる」
といった、「自分自身の愛に対する信念」である。その信念は不当な自己でさえ表出してみせる力を持つ、自分自身への信頼である。
真-自己の確信はいわば「芯」を持った状態であり、もはや「比較を恐れる自己」は存在せず、あるがままの彼女が存在する。
浩が強く感覚した彼女の「目」はかくて変貌したのであろうと思われる。しかし相も変わらず浩は彼女に不安を与える。
 彼女が度たび口にする「不安」は、その行動に偏に「責任」が見られないからである。浩は希望的観測といった楽観主義とも
異なる、現在の問題にしか焦点をあてない、或いは問題を先送りする傾向が顕著であるため、行為に伴う意志性が乏しい。
逃避行後にかすみに諌められ「責任」の欠如を知った浩は、ほのかに安心を与え得るようにと、智子との訣別を迎える。
しかしその「配慮」には「責任」が欠如している。たとえ事後に「かすみセンセイに言われた責任感も沸々と胸に宿」ったとしても
その訣別――さよならのキス――を見てしまったほのかは、幻のような期待に沿って生きるのをやめてしまい、信頼を喪失する。


・BAD
 宮本浩は草薙ほのかに信じて欲しい。弁明する。あのキスは君のためのキスであったと――君を愛しているということを。
しかし彼が彼女を愛しているといっても、彼が別の女性に愛を示すかのような行動を見てしまったら、彼女は彼女にたいする
彼の「愛」を信じることはできないであろう。であるから、彼女は耳を閉ざす。当然である。彼女を顧みない選択をしてきた
かの彼は愛されたいだけであって、愛していないのであるから。理解しない彼女に失望した彼は、彼女が自分を馬鹿にしていると考え
自分の感情を正当化し、彼女が悪いと言わんばかりに彼女を…………。かくして、この物語は幕を閉じるのであった。


・GOOD
「同じ言葉〔たとえば夫が妻に言う「愛しているよ」〕でも、言い方によって、陳腐なセリフにも、
 特別な意味をもった言葉にもなりうる。その言い方は、何気なく発した言葉が人間存在のどれくらい深い領域から
 出てきたかによって決まる。そして驚くべき合致によって、その言葉はそれを聞く者の同じ領域に届く。
 それで、聞き手に多少とも洞察力があれば、その言葉がどれほどの重みをもっているかを見極めることができるのである。」[*19]

 宮本浩は草薙ほのかを愛している。本当に彼女を愛している。そんな彼の言葉は、きっと届く。
いままで彼は彼女のための選択をしてきた。確かに智子に気持ちが傾いていたことは否定できないけれども、
それを受容したうえで決着をつけた彼は、いまやほのかを愛しているという「自分自身の愛に対する信念」を持つに至った。
であるから、「驚くほど無意識に、自分の気持ちをゆっくりゆっくり、こぼしていた」。そばにいてほしいと彼女に伝えた。
しかし彼女は行ってしまう。どのような境遇にあろうと信じるべきであったのに、信念が弱かったから、「強くなりたい」のである。
愛情深い自分になれるかなれないかは「すすんで別離に堪えるかどうか、
 そして別離の後も変わらず愛し続けることができるかどうかによるのである」から(Fromm 1956:85)。 


>再会の確信だった。ここで……この場所で……そう遠くない未来に……
>互いを支えられるくらいに、強くなって……
                  ――『世界ノ全テ –director’s cut-』ほのかルート epilogue――



2.4.1.beside of you/理解

 「青春は、いたみなしでは過ごせない。」(西尾維新『傷物語』講談社BOX)

 逃れたい家郷のまなざしを前にして、小西智子は何を求めたのか。自己を肯定的に捉えるはずであろうと予料しうる人物である。
周囲へ関心を寄せない毅然とした表層性の態度は、その人物へ関心を寄せては関わりを密にしていく過程で、少しずつ解かれてゆく。
しかし本質的には彼女は想像だにしない孤独に晒されている。この苦しみを分かってもらえなくてもいい。誰かにそばにいてほしい。

「他者の理解とは、他者と一つの考えを共有する、あるいは他者と同じ気持ちになることではないということだ。
 むしろ、苦しい問題が発生しているまさにその場所にともに居合わせ、そこから逃げないということだ。」(鷲田 2010:130)

 智子が抱えていた孤独は、宮本浩にとって「想像を遥かに越える出来事があったであろう程度にしか理解できなかった」が
しかし彼は、彼女の孤独を、傷を、少しでも和らげたく思い、傍にいることを選んだ。ただそばにいるのではなく、これからもずっと
そばにいられるよう考え、真に智子を守れることであると思えたから、「全ての悩みや問題を直視しよう」と決めたのであった。

「二人の人間が自分たちの存在の中心と中心で意思が通じあうとき、
 すなわちそれぞれが自分の存在の中心において自分自身を経験するとき、はじめて愛が生まれる」(Fromm 1956:154)

 孤独な二人は繋がりあうことで「互いに生きている実感を共有」した。「彼女の吐息や鼓動、それぞれが不思議なぐらい
 自分のそれとシンクロ」していた。中心的関係には愛が芽生える。それからは様々なことを経てあらゆるものを知り成長してゆく。
ペルソナの必要性、勇気と行動力といった恋愛に対する能動的態度、ナルシシズムの克服と客観性の獲得、全体性への考慮、
人類愛(フロムによれば一人を愛するということは人間そのものを愛することである)意志(逃避行時)、信頼(逃避行時)――。

>まだ、ケツの青いガキ、なのかもしれないけど……俺は、俺達は、まだ成長の余地があるのだから。 
                  ――『世界ノ全テ –director’s cut-』12/7(水)夕方智子部屋――

 小西智子が彼女の父洋一に連れ去られた後、宮本浩は無力さを痛感する。そして、実の兄には無知であることを思い知らされる。
自分を愛していないと思われた両親に向けられていた不器用な愛や、自分より優越していると思われた兄の、自分に対する
「お前が羨ましい」といった言葉は、その時彼には理解できなかったけれども、自分だけが何も考えずに取り残されていたことを
知ることができた。竜彦の応援を受けた浩は、このときようやく前を向くことができるようになった――彼女を取り戻す。

 小西智子が実は玲子であったと告げられても、彼のまなざしは智子という自己に向けられていた。
彼女は生きていた。たとえ肉体に伴わなくとも、一個存在として、現にそこに存在していたのであるから、
たとえ彼女がいなくなっても、思い出す。それが彼女の実存を証明する。
「彼女の残した『大好き』という愛を告げる言葉、絶対に忘れない」。
「もう、ひとりでだって歩いていける」。そして、彼女もまた……。




2.4.2.remind of you補説

 「青春は、きみに恋するためにある。」(西尾維新『恋物語』講談社BOX)

 アナザーエンドというわけで、誰であっても「ハッピーエンド」として認識してくれるよう作られたお話であろう。宮本浩と
小西智子の恋は壊れない、ただそれだけ。世界ノ全テエンドで本作はきちりと完結しているため、おまけみたいなものである。
しかし今回加筆された後日談より、完全にTrueエンドになっている。その部分は成長物語としての本作の締めとしては上出来である。
考察する必要性は皆無であるが、一応、補説という形で載せておく。


 二人は再会した。かくして、小さな小さなこの町が世界の全てであった、彼の青春は幕を閉じる。――そして人生という冒険は続く。
八年の時が過ぎた。公的な領域だけではなく、家族という私的な領域からも撤退していた頃とは違い、彼は世界に立ち向かっていた。
夢を持ち、それを掴もうとしていた。筆者にはそれがどんな夢なのかは想像できないけれども、分からなくてもよいと思える。
「なにであるか」ではなく、「夢を持つに至れた」ことが重要なのであろう。そう、自己が危機に瀕していたあの頃、
ありとあらゆるものが欠如していたために、日々を生きるだけで精一杯だったけれども、仲間たちと「ふれあう」ことで、
如何に己が無知であるかを知覚し、また、自他の在り方を肯定できるようになった。段階を経て、遂には自らをも認めることができた
彼は、もはや承認欲求を超越している。第5フェーズ、自己実現の欲求[*16]、すなわち、夢を持って、叶えようと努力していた。
でも、うまくいかなくて、いまだにフリーターでいて、外面的評価、社会的立場は酷いものであろう。
都市のまなざしは彼を苦しめる。それでも――「俺は俺のままで、あがきながら前に進んでいる」。

 彼には見えている。自分の進むべき道が見えている。
人生がどんな方向に転ぶかなんて誰にもわからないけれども、やりたいことは決まっているのだから。
時は移ろうとも、あの頃の思い出は、気持ちは、色褪せることなく、在り続ける。

>思い出を噛みしめながら……俺はあの頃のように全力で走る。
>今もあの時の、気持ちのままで……
                  ――『世界ノ全テ –director’s cut-』another END of 世界ノ全テ after――



 この物語は「始まり」の物語に過ぎない。けれども、斯くも美しく心に在り続ける「青春」は、冒険の旅路を支えるのである。


                      人生という冒険は続く。


                                        世界ノ全テ 終




◆結言

 行為とは自らの意志に基づくものでなくてはならない。観察力と論理的思考を以てあらゆる他者に向かうあらゆる印象に付随しうる
認識を認識する。超越者としての全能感を以てしてではなく、過少でも過剰でもない理解を示すことによって自己と他者は結ばれる。
自己のみへの関心からの超越は正しい認識を生み、愛は芽生え、その愛は見返りを求めるものではなく愛するから必要とするのである。
恋は落ちるものではなく完全なる能動的態度によって行われるものでなくては、真的には愛し得ない。純愛とでもいうべきものは、
複雑系の恋愛ではなく、真的に愛し得る、自己と他者との結実である。精神病理学のパースペクティブには一見複雑怪奇のようで、
しかし逆説的な人間存在の真理への接近があるように思われた。「心理」から「真理」へ臨む、とでも言ったような。
生物学的であったり、高次的な視点からではなく、固有性や具体性を尊重する態度が必要であることを仄めかす。
 本物語に登場する大人の大半が囚われ続けている近代的価値観は、社会の枠外に放逐された少年たちが相対化することによって
それを見つめる機会を持つ。かくして発展を遂げんとする価値観、人間観によって、少年たち自身が開放される、といった描写さえ
見せるがごとく、本作は前向きな作品である。あまりにも未熟な少年少女は傷ついて痛々しくあるが成長するための糧なのである
――彼らは青を生きる。それは未熟ゆえに生じうる死に至る病である。若さには過ちが憑き物である。
――彼らは春を生きる。それは未熟であっても生へと至りうる希望である。成熟せんとする過程である。


                (弁証法-止揚) 対立 (逆説弁証法-対峙)
                    ヘーゲル───キルケゴール
                      \     /
                       \   /
                        カント(カント認識論、義務論的リベラリズム)
                         │
                         │
                        ユング(ユング心理学)


 まりもルートはカントの義務論的リベラリズム、認識論から成り立っている。ほのかルートは無限性の立場にあって、対立が
ありながら統一に帰入し、そうして統一がまた対立に分裂しては、関係から発展へと止揚するヘーゲルの弁証法的構成であって、
ベクトルが未来に向かっているのに対して智子ルートはまさに今、このときに対峙する。人は何を以てして「生きていること」を
証明せしめるのかといった哲学的思索を浩が行うように、虚構の存在であるはずの智子の自己、精神といったものの実存を唱える。
浩によって「居場所」より思い起こされるたび彼女の実存を証明する。実存主義哲学の祖キルケゴールの思想が根底にあるようである。
かすみルートは物語全体がユング心理学によるフロイトの思想への欠点の指摘の比喩になっている。フロイトは先述したリビドーが
あらゆる心理現象のもとであると言い、全体性や特定の社会構造にある生の営みを無視しているため、フロイト的な愛の行き着く
先には浩やかすみのように社会から脱落してしまうといった全体性の喪失があることを指摘していると考えられる。本ルートが
示すのは「愛を手にするには何かをすてなければならない」といった教訓ではなく、「真実の愛には全体性を考慮しなくてはならない」
といった訓戒である。哲学やらは筆者はとんと分からないため、表面的なことしか理解できないのだけれど、きっと素晴らしい
構成なのではなかろうか。まあ、ようするに、「生とはなにか」「生きるための方法とは」「幸せになるためには」といったものの
集大成である。高校道徳授業の教材になっていても不思議に思わないぐらい真面目なエロゲである。青春とは綺羅星である。綺羅星!








<注>
[*1]マルティン・ハイデガー(1889=1976)
  デカルト的コギト(我)が現存在の概念であると規定して、現存在の存在するところに関わりを持つ存在(人間や事物)。
[*2]ハリー・スタック・サリヴァン(1892=1949)
[*3]現代では「精神分裂病」の名称は「統合失調症」へと変更されている。同様に「精神分裂病質」は「統合失調質」とされている。
  シニフィアンの類似があるが、精神分裂病質は性格異常の一型、精神分裂病は精神病と、両者は根本的に異なる。が、
  しかし共通項もある。誤解を恐れずに言えば、本稿で例示される登場人物においては、精神分裂病へと移行し得るものとしている。
  なお、詳細に関してはwikipedia[スキゾイドパーソナリティ障害]の頁を参照されたい。
[*4]エリク・ホーンブルガー・エリクソン(1902=1994)
  自我同一性。自分が何者であるかの確信。自分の定義。アイデンティティ確立までの猶予期間が「モラトリアム」である。
[*5]イマヌエル・カント(1724=1804)
  経験にかかわりのない認識や概念。この場合は普遍的に生起し得る他者承認の希求がそれである。
[*6]ロナルド・デヴィッド・レイン(1927=1989)
  E・エリクソンのいうアイデンティティと同義。
[*7]たまソフト『世界ノ全テ』2002年4月26日発売。
  当時の筆者はオナニーすら知らない健全な少年であったため、残念ながら同作に触れる機会は無かった。
[*8]エーリッヒ・ゼーリヒマン・フロム(1900=1980)
[*9]カール・グスタフ・ユング(1875=1961)
  常識的な思考の構成概念。類型による他者への接近-理解は差別と類似、或いは差別そのものである。
[*10]フェルディナン・ド・ソシュール(1857=1913)
  叡智的言語、意味内容。対立概念として「シニフィアン」(感覚的言語、記号表現)がある。
[*11]ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770=1831)
   子供にとって全体性とは両親の所与によって形作られるところが大きく、
   父親的良心と母親的良心の双方が統合されるという発達がなくては、神経症の原因になりかねない。
[*12]E・エリクソンの用語。否定的同一性。客観的に望ましくないとされる役割を自ら選択することによって形成される同一性。
[*13]カントの用語。他者の指導がなくては悟性を用い得ず、成人であっても情緒・精神面が未成年状態に留まっていること。
[*14]精神分裂病でない人間が精神分裂病者と対面する際に生じる奇怪な感覚。
[*15]ゲオルク・ジンメル(1858=1918)
[*16]アブラハム・ハロルド・マズロー(1908=1970)
   低次の欲求が満たされることで段階的に高次の欲求が生起されるとするモデル。
[*17]まりもルートのみ、小西洋一は不良たちに「手をだすな」と言っていない。また、本編では述べられないが背景の名称は
   「小西建設 資材倉庫」である。従ってレイプは洋一主導によるものと考えられる。智子の表情などからも背景が読み取れる。
[*18]ジークムント・フロイト(1856=1939)
   転移とは、本来或る人物に向けられるべき無意識的感情が、それとは別の人物に向けられること。
[*19]シモーヌ・ヴェイユ(1909=1943)
   『シモーヌ・ヴェーユ著作集 3 重力と恩寵/救われたヴェネチア』(春秋社)所収。



<参考文献>
Kant,Immanuel 1785;『Grundlegung zur Metaphysik der Sitten』,1960(カント『道徳形而上学原論』岩波文庫)
Simmel,Georg 1908;『Soziologie : Untersuchungen über die Formen der Vergesellschaftung』,
1994(ジンメル『社会学(下)』白水社)
Fromm,Erich 1956;『The Art of Loving』,1991(エーリッヒ・フロム『愛するということ』〔新訳版〕紀伊國書店)
Laing,R.D. 1960;『The Divided Self : An Existential Study in Sanity and Madness』,
1971(R.D.レイン『ひき裂かれた自己 分裂病と分裂病質の実存的研究』みすず書房)
――1961;『Self and Others』,1975(R.D.レイン『自己と他者』みすず書房)
――1964;『Sanity, Madness and the Family』,1972(R.D.レイン,A.エターソン共著『狂気と家族』みすず書房)
――1967;『The Politics of Experience and the Bird of Paradise』,1973(R.D.レイン『経験の政治学』みすず書房)
Bédouin,Jean-Louis 1961a;『Les Masques』,1963(『仮面の民俗学』白水社)
金子武蔵 1996;『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫
奥村隆 1998;『他者といる技法 コミュニケーションの社会学――』日本評論社
見田宗介 2008;『まなざしの地獄 尽きなく生きることの社会学』河出書房新社
河合隼雄 2009;『<心理療法>コレクションⅠ ユング心理学入門』岩波現代文庫
鷲田清一 2010a;『わかりやすいはわかりにくい? 臨床哲学講座』ちくま新書
鈴木晶 2012;『フロイトの精神分析』ナツメ社
日本社会学史学会 2012;『社会学史研究 第34号』いなほ書房




▼おまけ
 本物語が智子シナリオの後に記憶が欠損した浩の作話(confabulation)である可能性は少なからずある。
精神科医大木温幸の登場によってその可能性が示唆された。remind of youシナリオが旧版では外的焦点化されているのに対して、
「大木の日記」という体をとって不定焦点化されたものに変更されている。既視感、生じ得ない記憶の混在が多く見られる。
ラジオ番組の意図的な曜日ズレ。royがこれまで現実に生起しうる悲劇的な事象を戯画化した、準-写実的な位相にあったプロットで
あったのに対し、奇蹟的――あらゆる脈絡の中から"HappyEnding"となるよう超越的な意思を以て――に展開するストーリーであって
恣意的に選定されたかのような様相を呈しているといえ、つまりは作風にそぐわないといった見方も出来る。
>温幸「大学ではハル~って呼ばれてたよ。春を呼ぶ男なんてね~あっはっは」が伏線で、智子復帰時に語られるよう
>[まるで……指の隙間を、春風がすり抜けていくように。夢をみていたあの頃の思い出が……]春を呼んだのではなかろうか。
智子を失う→分裂病発症→作話→「嵐の夜に君を思い出す」→部屋へ。日記は浩の治療のための創作、後日談の女性は智子ではない。
読み手はわれわれではなく大木温幸で、臨床医として宮本浩を復帰へと導く選択肢を選んでいる、といった視点。
自己のアイデンティティは「自分が何者であるかを、自己に語って聞かせる説話(ストーリー)」(Laing 1961:110)なのであるから。
絶対の確信までには至らないため本文では述べられなかったけれども、もしこれがそうであったならば良いな。九割方信じている。

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