長山香奈について
前置きになるが、才能について話したい。
人の才能は3つに分類できる。天才、才人、凡人である。
まず、天才とは、才能を忘れさせる存在である。また、ありのままを描くことにより芸術を作り出す存在である。
ここで言う才能を忘れさせるとは、天才が生み出した芸術のあまりの美しさに心を奪われ、考えるまでもないというのが正しいだろう。
天才によって生み出された本当に美しい芸術品は、感情の入り込む隙を与えない。
高尚だとかそういう感情すらも忘れ、ただただ魅入らされる。天才とはそういう作品を生み出す、いわば常人とはかけ離れた存在だ。
しかし、天才が楽々と芸術を生み出せるかと言えば、それはそうではない。
趣味として描かれた芸術はただの趣味に過ぎず、作品ですらない。天才が芸術を生み出すにしても、そこには多大な苦労を伴う。
そうして天才が苦労して生み出した作品が芸術として世に認められる。いくら天才であっても、苦労することなしには芸術は生み出すことができない。
すなわち、作中の言葉を借りるならば「天才は1に限りなく近い存在」である。天才は0.9であって1ではない。
苦労して芸術を生み出すことにより1になる。この1に至る事実上の特権を持っているのが天才という人種である。
才人とは、天才ほどの才能を持ち合わせていないが、芸術を見分けることができる存在である。
才能に従って芸術家を分類するなら、才人ほど生きるのが苦しい人種はいない。
天才の描く芸術を見分けることが出来ながら、自分はその芸術を生み出すことはできない。そして凡人と同じように扱われる。
悔しいとかいうレベルではないだろう。天才の苦しみを理解しながら、自分も同じだけ苦しんだとしても、天才と同じ作品を作り出すことは出来ない。
ただ、才人の特権として、「努力することの大切さ」がある。
才人は自分の才能の無さを自覚している。天才に届きそうで届かないことも自覚している。
だからこそ努力することは怠らない。技術を以てすれば天才にも届くかもしれない。そういうほぼ皆無に等しい希望を捨てずに生きている。
1に至ることは出来ずとも、0.9を循環させることは出来るかもしれない。世界が望めば天才を超える瞬間が来るかもしれない。才人とはそういうものだ。
凡人とは、文字通り凡人である。
これに関しては特に言うこともないが、サクラノ詩の内容に照らすならば、スポットライトが当たっていないキャラクターは基本凡人だろう。
芸術を見分ける能力がない。芸術を描く能力もない。ただ、凡人から見れば中々綺麗だと思えるような作品を生み出すことはできる。
だが、やはり凡人の作品は心には響かない。認識が感情を上回る。作品に純粋に感動することができない。
凡人に可能性があるとすれば、努力することで才人に至ることはできる、ということだ。
技術は人を裏切らない。たとえ才能がなくとも技術力だけはどこまでも磨くことができる。実際職人とはそういうものだ。
絶え間ない努力によって凡人にも天才に追いつく可能性は残されているのである。
そこに執着できるかどうかは個人に差があるが、芸術への狂気的なまでの執着は、逆に美しさを生み出すのではないだろうか。
「0.9が1に至る」という芸術の理論の中で、才能だけがものを言うわけではない。
というのも、作中でも言われていたことだが、芸術には求められる場所と時間がある。その場のニーズに合った芸術はまさに天啓であり、才能を超える。
それには間違いなく運も必要である。時と場所と運が時に才能を超え、例外的に天才を超越する場面も存在する。
次に、主人公草薙直哉の芸術の才能について見ていきたい。
草薙直哉は紛れもなく天才である…というのはこの作品をプレイすれば分かることだが、普通の天才と同じ括りにしてはならない。
というのも、今作で出てくる圧倒的な天才(御桜稟、吹)及び潜在的な天才(夏目圭)と比較すると、同じように扱うことができないことが分かる。
御桜稟も夏目圭もそうだが、同じ天才であっても自分を中心に見た天才である。自分の中に圧倒的な才能を持ち、その才能を問題なく発揮できる。
(ただ、夏目圭の場合は先程述べたような、芸術家の苦労を更に多く伴っているように思われる。)
自分の作品単体を芸術として生かすことができ、他者の芸術に寄生する必要はない。そういう意味で「独立した芸術」と言えるだろう。
更に噛み砕いて捕捉すると、「0から自分の作品を生み出すことができる」と考えることが出来るものである。
本来の天才の在り方であり、天才という括りからズレない正統派である。
対して草薙直哉は、少し特殊な工程を必要とする。
「自分一人で0から作品を生み出すことよりも、他者の芸術に寄生することで圧倒的な才能を発揮する」というものだ。
「寄生する」という表現がここで適切なのかどうかは分からないが、以後同じ表現を使い続けていく。
これについては、本編の草薙直哉の作品を振り返ってみれば分かりやすいと思う。
雫√過去編で見られる「櫻六相図」
父草薙健一郎の作品の贋作として生み出され、テーマもそれに沿ったように、そして父親に向けたメッセージとして描かれた作品。
共通√2章で見られる「櫻達の足跡」
父の設計図を元に明石が最初に生み出そうとしたものである。これについては少し特殊だが、明石の作品に寄生したと言ってもいいだろう。
5章での吹との対決
主人公は吹の作品を彩ることによって芸術を生み出した。吹すらも唸らせる結果となったこの芸術は、吹の作品ありきに生み出されたものである。
5章後半で描かれる「蝶を夢む」
夏目圭に対抗する意識を燃やすことによって生み出されたこの作品は、やはりこれ単体では完全な芸術として認められることはなかった。
確かに6次審査を通過こそしたが、真の天才であった夏目圭には及ばない。
最終章のブルバギとの合作
典型例だろう。ブルバギが塗り替えた「櫻達の足跡」にステンドガラスの芸術を作ることで寄生する。そうすることで0.9の芸術が1の芸術へと昇華される。
草薙直哉は、他者の芸術に寄生することによって真価を発揮する。
だから、草薙直哉が天才であり続けるためにはそれを支える他者の芸術が欠かせない。
単体芸術でも確かに才能はある。しかし天才には及ばない。とは言っても努力は怠ってこなかったので、ここは才人と呼ぶべきだろうか。
他者の作品に寄生することで「自己の限界=世界の限界」を超える。
自分の世界の限界を超えて、他者の芸術の世界へと足を踏み入れるのである。つまり、自分の世界と他者の世界が繋がる。
これが可能なのが草薙直哉という天才であり、サクラノ詩という作品においてはこの才能の唯一の持ち主であった。
長々と前置きを書いてきたが、本題に入りたい。
この作品は前半~中盤部分で芸術を語り、終盤では思い出したかのように幸福を語る。果たしてこの作品の真の目的とは何なのかは自分には察しかねる。
芸術と幸福は関連しているのか、それとも別のものなのか。この作品が本当に伝えたかったことは何なのか。
しかし、あくまでも自分の観点でこの作品を語る時、「凡人(才人)でありながらどこまでも天才に食らいつこうとした一人の芸術家」の存在を重要視したい。
長山香奈の存在はこの作品を語る上で欠かせないものだと考える。それを明確にした上で、彼女の芸術と幸福について見ていきたい。
長山香奈は絶対的な美意識を持っている。それは確かに芸術界隈で見た時の美の基準と似ているが、それ以上に自分の絶対的感性である。
【香奈】「信じてますよ。絶対的な美の基準」
【香奈】「でも、それは弱いものです。だから強いものにしなきゃなりません。」
【直哉】「お前の美はなんだ?」
【香奈】「私が美しいと思うものです」
【香奈】「私の心が、美を感じたならば、それが絶対です」
【香奈】「はい、私は言うだけいいますからね」
【香奈】「当然、実力と噛み合ってない事も重々承知です」
【香奈】「自分が信じる美こそが正しい…」
天才が唯美論や美の流動を語る中、彼女の答えは非常に分かりやすく、淡々としたものだ。
その価値観は絶対的な主観によったものである。これほどまでに主観が全面に出た解答があっただろうか。
長々と美の流動を語る草薙直哉でも、自分を中心とした唯美論を語る御桜稟でもない。
彼女はただ一言、「ものさしは自分の中にある」と言った。それが彼女の全てであり、彼女の持っている美意識である。
素晴らしき日々風に言うならば、「自己の限界=世界の限界」である。自己=世界であり、自分を世界そのものと見ると仮定した時の絶対的な価値観を持つ。
長山香奈の美意識に沿って3章までの行動を振り返る。
そうすると今まで見えなかったものが見えてくる。彼女は単なるストーカーなのではなく、自分が感じた美を必死に追い求める姿勢である。
ただ、手段を誤っている感は否めないし、ウザキャラとして否定されることも仕方ないと思う。現に3章では常にそういう行動を繰り返してきた。
だが終わってみた今だと、そのストーカーとも取れるような行動さえも、彼女の美への絶対的執着とも取れる。
自分の美の基準の中で、自分が一番だと思っていた絶対的な価値観を、櫻六相図が塗り替えていった。
心がそれを美しいと感じてしまった。自分の美意識は絶対なので、その作品を認めなければならない。
だから櫻六相図は乗り越えなければならない対象となった。届かないからこそ、草薙直哉を追い続ける理由が出来た。
そして、自分の心が感じた確かな美を確認しなければならなかった。草薙直哉の絵を見るために執着したのは、自分の基準の再確認の意味合いが強いはずである。
才人であり、なおかつ自分の中に絶対的な基準を置いている長山香奈にとって、自分の認めるものへの執着は凄まじいものだ。
それが才人でありながら天才を超えようとする狂気的なまでの執着であり、彼女の生き様である。
6章に入ってもそれは変わらない。彼女はブルバギという現代的芸術集団に所属し、自分の求めるがままに、天才を超えようとした。
ブルバギという集団が果たして彼女の目的に沿っていたのかどうかは分からないが、たいそう充実した日々を送ったことだろう。
草薙直哉にこれから天才を超えるかのような発言を残したのも、その充実した日々の裏付けとなる。
そしてブルバギは「櫻達の足跡」を上書きするという形で新たな作品を世に生み出すこととなる。
その作品はただの落書きのようにしか受け取られない。美の基準を持たない凡人たちから見ればそうである。
ただ、それはただの落書きのようで、天啓であった。ここで草薙直哉がステンドガラスを作ることにより、それが実現される。
こうしていわばブルバギと草薙直哉の合作が完成する。運と天啓を経て生まれたこの作品は、最高の芸術と呼んでもいいだろう。
しかし、この芸術はブルバギ単体でも、草薙直哉単体でも生まれなかった。
ここで草薙直哉の寄生性の話が生きてくる。草薙直哉がブルバギの芸術に寄生することによって新たな芸術が生まれた。
また、ブルバギは草薙直哉に最後の一押しを貰うことによって最高の芸術を作り出した。
「櫻達の足跡」が最高の芸術として改変されるためには、ブルバギと草薙直哉、どちらもなくてはならない存在であった。
つまりこの瞬間、どちらも「天才」であった。彼女はこの瞬間に限り、才人を超越した。
櫻ノ詩の2番の歌詞にある「世界の限界を超える絵画」とはまさにこのことであろうが、ここでは、「世界の限界を超えた」という事実が重要だ。
この瞬間に世界の限界を超えたのは間違いなく草薙直哉であるが、ブルバギも全く同じで、草薙直哉の芸術を生み出すために必要な存在であった。
だから、「ブルバギの芸術が世界の限界を超えた」とも受け取れるし、「長山香奈が世界の限界を超えてしまった」とも受け取れる。
自己の限界=世界の限界とし、自分を絶対的な基準に置いて美を判断してきた彼女が、自己の世界を超えてしまった。
絵が認められた後、草薙直哉に虚勢を張りながらもどこか釈然としないような表情をしていたのは、このためではないかと思う。
自己の限界を超えることによって自分の中の絶対的な美の基準が揺らいでいく。果たしてこれは自分の芸術なのか、草薙直哉の芸術なのか分からなくなる。
だから胸を張って自分たちの作品だと言うことができない。美の基準を見失い、そうだと言い切れる自信を失ってしまったからである。
簡単にまとめるならば、一時的に才人を超越し天才となった彼女だが、それが草薙直哉との合作であったためにその気持ちが揺らぎ、自分を見失ってしまった。
それが6章の彼女の迷いの正体であり、彼女が胸を張って誇ることの出来ない理由だと自分は考える。
だから5章と同じような内面を持っているはずなのに非常に釈然としないキャラクターとなり、長山香奈という芸術家から人間的な美しさを損なうことになった。
実際自分はプレイ中は、5章の彼女は非常に輝いていると感じたが、6章の彼女からあまりそれを感じなかった。
しかし今作の幸福のテーマから言うなら、「彼女は幸福だった」と思う。
【直哉】「すべての最高には、最悪がべっとりはりついている」
【直哉】「もちろん逆も然り」
【直哉】「最高は最悪で、最悪は最高なんだ……」
【直哉】「何も感じることが出来ないなら」
【直哉】「生きているのか死んでいるのかわからない」
あの瞬間、彼女は確かに釈然としない何かを自分の中に感じたはずだ。そして自分の美意識について心の中で必死に問いかけたはずだ。
それは「櫻達の足跡」を塗り替えたからこそ生まれた新たな感情であり、あの作品が生まれたからこそ存在することができる感情だ。
だから、その新たな自分を感じることができた彼女は、「最悪の瞬間」に「最高の人生」を生きたと思う。
釈然としない苦しみ、自己を見失う苦しみ、そういうのがあるからこそ人生を最高だと思える。そこに幸福な人生の真の姿がある。
凡人として芸術家を目指した彼女は、ブルバギと草薙直哉の合作を完成させ、後にまた凡人としての迷いを手に入れた。
ここには、天才という括りでは見ることが出来ない「人間的な幸福」と、「人間的な一生懸命さ」があると思う。
彼女が凡人であるが故、また彼女が美に対して狂気的なまでに執着していたが故、手に入れることができた人生の一瞬である。
人生の全てが最高の瞬間だとは限らないが、間違いなくその中に彼女にとっての最高の瞬間はあった。
それこそ、思い返せば掴めるかもしれないがその瞬間には気が付かないような、人生の幸福の瞬間である。
上手く言葉にできたかは非常に怪しいが、だから自分は長山香奈が大好きである。
天才が蔓延るこの作品で、彼女は良い意味で人間的であった。
彼女の生き方を見習うことができるかは定かではないが、自分はその生き方を美しいと思った。
「芸術」と「幸福」という異なるテーマが混在しているように見える今作。
最終章は急に気色が変わり、これまでの芸術の話を交えながらも、主人公の幸福について語る。
困惑したプレイヤーもいるのではないだろうか。少なくとも自分はその一人である。今作は芸術について語られる作品のはずだったからだ。
しかし、長山香奈という凡人の生き様を見つめることで、その2つの異なるテーマが繋がっていく。
少なくとも自分には、彼女が芸術を探求する中で幸福を手にすることができたように考える。つまり芸術の探求が幸福へと昇華された存在である。
今作においては、この2つのテーマを繋ぐ唯一の存在が彼女なのかもしれない。
そこにあるのは、ただ真の美を求め続けた芸術家の存在であり、その芸術家の人生の一部である。
サクラノ詩の2つのテーマは、長山香奈によって繋がり、長山香奈によって表現されるのである。
好きな台詞
【香奈】「それで良いんですよ。実力がなきゃ言えない真理なんて真理でもなんでもないです。それは強者の理屈でしかありません」
【香奈】「ああいう連中は、すぐそれっぽい事言うんですよ」
【香奈】「自分がたまたま成功しているだけなのに」