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nezumoさんのさくらの雲*スカアレットの恋の長文感想

ユーザー
nezumo
ゲーム
さくらの雲*スカアレットの恋
ブランド
きゃべつそふと
得点
88
参照数
847

一言コメント

今作が取り扱う"歪み"という概念について

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

歴史上の出来事とは結局自分が実際に見聞きすることが出来ず、言い伝えや文書によって後世に伝えられます。
それが正しいのかどうかは分からないし、だからこそ諸説生まれる場合がある。
結局のところ本当のことはその当時生きていた人にしか分からず、
現代に生きる人々が知ることができるのは、過去の人々が伝えたことのみに他なりません。

何が正しくて何が間違いなのか、それすらも確定しないような状況であり、
つまるところ、細かい事象が変わっていたところで、歴史の行きつく先は今生きている世界に確定します。
(少なくとも今は)そうならないとおかしなことになりますからね。
タイムマシンも並行世界も存在が確認されていない世の中で、その存在を認めることになってしまう。


今作で主に扱われるテーマは「歴史の歪み」になります。
主人公である司くんが同じく未来から来たという加藤大尉を倒して歴史の歪みを正し、未来に帰るまでのお話を描いたものです。
しかし未来に帰ったはずの主人公は、同じ年代(2020年)ながら、ユーザーが生きているのに近しい、別の日本に飛ばされてしまう。
彼が生きていたはずの第三次世界大戦が起きていた世界は存在せず、そっくりそのまま消えてしまうことになります。
果たしてこれを本当に「元いた未来に帰る」と表現してしまっていいものか疑問なところです。

今作の終わり方は、主人公が伏倉弁慶の野望を塞ぎ込み、歴史の歪みを(ほぼ)完全に正した上で、現代に戻るという内容です。
細かい内容の差異はあれど、大局的に見て歴史は元通りになったと考えても良いと思います。
これが冒頭に書いた文章に繋がる部分になります。
細かい部分の差異は未来へ影響を与えますが、ある意味ではその程度では対局は動かないと考えることもできる。
しかし、タイムマシンの開発という事象が加われば話は別です。時空を行ったりきたりできるわけですから、
これ自体が非常に大きな歪みとなり、あらゆる未来が確定しなくなります。
作中で主人公たちが言っていた部分でもありますが、歴史上本当にありえない事象はなんとしても食い止める必要があります。


こう考えると、そもそもの前提として主人公が昔生きていた日本は、"歪み"から生じた世界なのではないか、という疑問が出てきます。
全ての歪みを解消した上で戻った世界が今の日本ならば、間違っているのは元々生きていた方の日本です。
歴史の歪みを正し、ユーザーが生きる日本に近しい世界に戻る、というのが彼に課せられた使命だったのではないかと考えます。

これはつまり「加藤を倒してより良い未来へ帰る」のではなく、
「本来あるはずだった未来を取り戻す」物語と言えるのではないでしょうか。

タイムマシンは現代日本には当然存在しないし、それは大正時代にも勿論存在しない。
大正時代にタイムマシンの開発を始めているような人間がいるのもおかしいし、それ自体やめてもらわないと困る。
しかし主人公が元居たはずの日本では、伏倉万斎は生きている間にタイムマシンの基礎理論を描き、
後世にその子孫がタイムマシンの開発の礎を完成させるという帰結になっています。
現代日本的に考えるとそもそもこれがおかしいので、やはり伏倉弁慶の存在自体がおかしいのではないかと自分は思います。
いることそのものが歪み…と捉えれば、いくら彼が頑張って歴史を改変しようとしても、
主人公が辿り着いた現代日本のような未来には永遠に辿り着けないことになります。
歪みに歪みを重ねて過去に居座ることは可能だと思いますけどね。
むしろそれしかできないと本人がどこかで自覚していたからこそのあの行動の数々なのかもしれません。

意地悪な考え方をすると、未来に突然この時代の論文が発見されてタイムマシンが作られるなんていう可能性がなきにしもあらず…ですが。
これを言い出したら何もかもきりがないのでやめておきます。

つまりは、"歪み"と称される事象はゲーム開始時点から既に発生していて、
さらに言えば主人公が本来帰ろうとしていた未来もその延長線上にあった、ということです。
タイムマシンの元凶となる伏倉万斎の研究(および子孫の繁栄)を断ち、根本的な歴史の歪みを解決することにこそ、
歴史を正しく修正することに繋がるということです。


「常識を疑う」という部分において、同ライター前作であるアメグレ以上に振り回されたように感じた今作ですが、
その気持ちよさは尋常じゃなく、伏線回収のたびに鳥肌が立つような快感を得ることができました。

その上であえてもう一歩踏み込んでこの作品の中にある常識を疑ってみるならば、
この作品の前提がそもそも歪みの延長線上にあり、それを修正する物語を描きたかったのではないか、と思いました。

こう考えると一体20時間も何を見せられていたんだってなりますよね。
歴史の軌道を元通りにするための物語で、なにひとつ生み出してはいないように思えてしまいます。
まあその過程がとてつもなく面白く気持ちが良いのでどうでもいいんですけど。