なにか大きな試練イベントを乗り越えて、相互理解、ヒロインゲットだぜ。というような一般のギャルゲとは違います。
キリスト教徒である新渡戸稲造。「武士道」においてこんなことを言っている。日本人は人前で妻を愚妻呼ばわりすることが多いが、これは妻を愛していないのではない。日本では夫婦は一体なので、妻を誉めることは自分を誉めることと同意であるからだ。
人は理解し合わなくては駄目なのか?というきらりの言葉。これは瀬戸口ゲー三作に共通している価値観だ。そこでは登場人物は究極的に理解しあうことは無かった。主人公とヒロインの関係において他のギャルゲエロゲのほとんどは日本的夫婦和合一心同体異体同心以心伝心で貫かれている。つまり、理解しあったが故のSEXであり、ハッピーエンドであるわけだ。しかし、本作はキリスト教的個人主義。言葉を重んじる。言わなくても分かるなどということは無い。しかし、言葉を費やすほどに理解から遠退くというのもやるせない事実。
序盤でのきらりの大演説(in喫茶店)は瀬戸口作品のセントラルドグマだと思う。きらりが口にしているのは人類愛だがそれは相互理解を超えたところにあるしろものだ。だからこそままならない。世界は、そして心は齟齬と不条理のカオスであるから数式のように幸せを構築できない。なので、瀬戸口ゲーにスカッとするハッピーエンドは無い。楽観的ではない。
ここ数年でギャルゲに貧乏ネタが増えてきました。かつては貧乏はギャグネタ扱いだったんですが、今ではしゃれになりませんね。貧乏が大部分の人にとって遠い世界の出来事だった時代が今では夢のようです。例え貧富の差があっても格差を感じなかった時代が懐かしい。服装や食事、文化程度に断絶はありませんでしたが今では……。今日、結婚相談所では生まれによって趣味嗜好に開きがあり考え方も違いすぎて話が合わないので、同程度の家庭環境出身者の結び合わせが多いそうです。国民は上流と庶民の格差には耐えられても、庶民内の格差には耐えられない。経済格差は世代間格差同様のギャップを生み出すでしょう。今後、この手の鬱ネタが増えるのかと思うと頭が痛くなります。といっても、私はお金に困っているゲーム主人公を見たことが無いですが。ほとんどの主人公は中の上あたりに属しています。そこら辺が限界か。