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jericさんの家族計画の長文感想

ユーザー
jeric
ゲーム
家族計画
ブランド
D.O.(ディーオー)
得点
100
参照数
10373

一言コメント

これは寂しい物語なのだ。

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

家族計画である。
家族愛を描いた感動系最高峰といわれ
ファンタジー、ご都合主義展開の目立つ従来の泣きゲーに
リアリティを導入したゲームと評される。

田中ロミオこと山田一の出世作でもある。

いったいこれ以上何を語ることがあろうか。

あらかじめ断っておくが、自分は家族計画が大好きである。
これを超える美少女ゲームは過去現在未来永劫存在しないだろうという確信があるくらい好きである。
にもかかわらずこれから述べることは、どちらかといえば家族計画の欠点をあげることになるのを許していただきたい。

この作品についてはこれまで数限りない賛辞の言葉があげられてきた。
いわく、あったかい、現実感がある、笑えて泣ける、など。
これ以上こうした言葉を積み重ねても家族計画の魅力に迫ることにはならないだろう。
だから、逆の道からいこうと思う。
家族計画の目指したものは何だったのか。
それはどのくらい達成されたのか。
そして改めて問おう。
あの感動は何だったのか。



ご存知のとおりこの作品はサザエさんのパロディである。
だがそこに描かれているのはもはやサザエさん的ななにかではない。
サザエさんが家族の意義は相互扶助だ契約だといちいち考えるだろうか。
あたりまえやなんとなくの自然発生的な集団をゲマインシャフトといってその代表に家族があるって高校で習った気がする。
プロローグというにはあまりに長いプロローグのハイライト。寛は
お互いがお互いを助け合う契約こそが家族なのだ。
と熱弁を振るう。
これって実はすごいことを言っているんじゃないのか。
あるいは、寛の言葉にそれほど違和感を覚えないとしたら、そのことは僕たちがサザエさんとは違う時代に生きている証左になるんじゃないか。
それはつまり家族を営むことが自明のものではなくなってきているということ。
家族を作るということは意識的にもう一度選びなおす対象となったということ。
家族に対する意識がゲマインシャフトを定義したドイツ社会学者の時代と変わってきているということ。
極端に言えば、家族をつくることと株式会社を立ち上げることの境界がなくなったということ。利益がなければ作らない。利益が出なくなったら解散する。

実際、現代の日本では司のようにアルバイトをしつつ特定の集団から距離をおいた生き方も若いうちなら可能だろう。金さえあれば老後の面倒も見てもらえるだろうか。
日本の低い出生率、30代未婚率の増加。大人になったら結婚して子供をつくって…という生き方はもう当たり前じゃない。家族をつくれば自由を失う。家族を作らなくても生きていける。家族を営まない人生のほうが幸せな生き方だと思っている人もいるんじゃないのか。
だから山田一は、家族が必要という前提から出発するのではなく、家族が必要だという帰結を導こうとした。家族ごっこから本物の家族ができる過程を描こうとした。
この点において、本作品で扱っているのはノスタルジーでもファンタジーでもなく現代的な事柄だった。リアリティをもちうるテーマを掲げた。
では、その試みは成功しただろうか。
美少女ゲームとしては成功したが、家族計画としては中途半端な結果に終わったといわざるを得ない。

「思えば家族計画とは壮大な無茶だった。」

そもそも美少女ゲームという枠組みの中で家族というテーマをあつかうのには無理があった。
このことは家族計画で技巧的に頂点に達した美少女ゲームフォーマットとでも言うべき問題と関係している。
家族計画はなにより美少女ゲームであった。美少女ゲームたらんとして、家族計画というテーマの持つリアリティ、広がりを失ったというのが本稿の趣旨だ。



本作は山田一名義の美少女ゲームの3作目にあたる。彼のデビュー作「加奈」(1999年)では、ヒロインは二人だけ、妹の亡くなり方でエンディングにバリエーションがつくなどと今からみるとずいぶん特殊なことをやっている。作者がいい意味で美少女ゲームになじんでいなかったのと、(大げさな言い方になるが)時代が違っていたのだ。

2001年、美少女ゲーム作家として経験を積んだ山田一は当時完成しつつあった美少女ゲームフォーマットという魔法のステッキを自家薬籠中のものとして完璧に使いこなして見せた。それが家族計画である。

ご存知の方も多いと思われるが、美少女ゲームフォーマットというのは大体以下のように要約される。

前半は共通ルートと呼ばれ、おもしろおかしくヒロイン達と掛け合い漫才をしながら選択肢を選んでいって、後半、個別ルートと呼ばれる各ヒロインに割り当てられたルートに入る。そこで選ばれたヒロインは自身に傷(トラウマ)があることを告白する。どうにもできない主人公。そのとき奇跡がおこり、彼女の傷は癒される。感動のフィナーレ。

「One」(1998年)において発見され、「Kanon」(1999年)によって確立したこの枠組みは、お手軽確実に感動を生み出すことのできる金の卵を産むめんどりとして盛んに模倣、引用された。「Kanon」が社会現象と化すほどの人気を博したことで、「Kanon」以降のしばらくの間、このフォーマットに乗らず感動系美少女ゲームを作ることがほとんど不可能となった。それは「Kanon」印の美少女ゲームが、プレイヤーにある程度安定した泣き、笑い、萌えの快楽を保障し、メーカー側には製作過程の効率化をもたらすという共犯関係によってもたらされた衝撃だった。その余震は現在にまで及んでいる。
「Kanon」と「加奈」の発売時期はほぼ重なっている。「加奈」は「Kanon」の刻印を免れることができた。だが、「家族計画」は免れなかった。「加奈」と「家族計画」では作られた時代が違うというのはこのことをさす。

1999年:「Kanon」発売。
2000年:「Phantom」、「Sense off」そして「Air」。
「Kanon」に則って「Kanon」を超えようとする試みが盛んになされた。
2001年:「みずいろ」、「水夏」、「君が望む永遠」、「Bittersweet fools」。
注目すべき作品もみられるが、美少女ゲームフォーマット自体がそろそろマンネリ化してきた。家族計画が発表されたのはそういう時代だった。

「Kanon」類似作品の氾濫で、定着を通り越してやや陳腐になりつつあったテンプレートをいかに新鮮なものとして蘇らせるか。これが家族計画に課せられた二つ目の宿題であったといっていいだろう。

家族計画のパロディの射程は美少女ゲーム自身にも及んでいる。
春花シナリオのラストで劉は「少女の涙が奇跡を起こす」と茶化すし、
寛は「そっちにいくとフラグが立たなくなる」と警告してくれる。
山田一が上述の美少女ゲームフォーマットを意識していた証だ。

だが後に詳しく述べるように、今現在日本に生きる私たちの問題として家族を描くことと美少女ゲームフォーマットに沿って物語を紡いでいくことは必ずしも両立するものではなかった。
これは完全な想像だが、製作過程で作者も一度はこのジレンマを意識したのではないか。テーマを優先して「加奈」のように奔放に振舞うことは販売戦略上大きなリスクを抱えることになる。商業作家として山田一が「世の中へのアンチテーゼ」よりも「美少女ゲームとしての完成度」を優先させたのは当然ともいえる。

またそうすることが、山田一の資質を生かすことでもあった。
山田一こと田中ロミオ作品を、家族計画を、他の作家、他の作品と区別するのはいったいなんだろう。
自分は「規則正しいシナリオ」にあると思う。
家族計画において事件はその効果が最大限発揮されるよう計算され配置されている。
・モチーフは期間をあけて3度繰り返される。
(例:茉莉と青葉 一回目・部屋にこもる 二回目・土管にこもる 三回目・家出
春花と母親探し、準の摂食障害、青葉の思い出探し、真澄と昔の男等も同様)
彼女らの心の傷を一度にではなく徐々に明らかにすることでサスペンスを発生させる。
またそこに関わるかどうかの選択肢をつくることで、個別ルートへの移行にもつながる一石二鳥。

・ギャグ的事件とシリアスな事件が交互にくる。
おきる感情の大きさはその落差による。幸せの絶頂から悲しみのどん底に叩き落されるのと、どん底近くの状態から少しひどくなってどん底に行くのとでは、受ける衝撃が違う。
シリアスな場面の中にもギャグを入れるという徹底ぶり。(これの意味するところは後に述べる)

ゆえにこの世界では二度あることは必ず三度目が起こり、ハートウォーミングは破局の前触れであろう。
こんな世界はない。
シナリオの波に感情を弄ばれながら、ふとそこに神の見えざる手を見るとき、どんな困難が降りかかってこようとも

「最終回にどーんと解決」

を期待する。
予定調和を期待する。

感情を揺り動かされるのが美少女ゲームとりわけ泣きゲーといわれる分野の快楽だとすれば、こうしたあり方は正しい。しかしそのために、よくできた小説や映画などに見られる、物語の中で彼らは生きていて次に何をしだすか予想もつかない、というあの感覚を幾分かは犠牲にせざるを得なかった。
あるいはこう言いかえてもいい。
ここで描かれているのは、あまりに幸せな箱庭的世界なので、手を触れずそっと眺めていたいという気にさせてくれるほどだと。

「きれいなものがすきなんだ。」


美少女ゲームと私たちの家族という問題のジレンマがより先鋭化するのは以下の点である。
主人公と深く関わった、つまり個別ルートに入ったヒロインは弱体化する。
茉莉は家出したまま帰ってこない
春花は何度もこっそりと母に会いに行き
準は徹底的に姿をくらまし
青葉は自身の記憶が偽りと知って壊れかける
真澄はすべて司に白紙委任
逆に選ばれなかった場合、各ヒロインの抱える問題はなんとなーくで、いつの間にか解決している。
すべてのヒロインの問題が、それぞれのルートばりに同時に噴出したらさすがの司でもどうにもならない。
「人一人が守れるのはせいぜい一人」なのだから。

このことが示しているのは
「人は一人では生きることしかできない」
というメッセージに反して、物語を支えているのは
「人は一人でもなんとかなる」
という事実であったということである。

ヒロインを一人選ぶことで、選ばれなかったヒロインは不幸になる。
これは「Kanon」以来指摘されてきた美少女ゲームフォーマットの欠陥である。
(不幸なヒロインの境遇を想像して泣けるという利用価値はあるが)
心温まる物語を目指すため、従来の美少女ゲームを超えるため、山田氏はこれをひっくり返した。
選ばれなかったヒロインは自力で立ち直って、主人公と選ばれたヒロインをサポートする。
茉莉シナリオの青葉、春花シナリオの準に彼女自身のシナリオとは別のポジティブな魅力を感じるのは私だけではあるまい。
そしてここでも、(現実の)家族というテーマ(=人は一人では生きられない)に対して美少女ゲーム(=フォーマットに則って計算された感動)が優先されている。



児童虐待、マフィア、麻薬、といった事柄を扱っているからといってこの作品がリアルであると断じるのは早計だ。
作品を通じてこれらの要素の位置づけは変わらない。なによりも、作中でこれらにたいする私たちの認識が最後まで固定されたのっぺらぼうなままということが問題なのだ。
茉莉の受け入れ先の家族はただ私たちが憎悪をつのり、のちにくるカタルシスを準備するための対象に過ぎない。
襲ってくる中国マフィアの顔は文字通り最後まで見えない。
悪役には悪役の背景やら悲しみがあるだろうにそれが一切描かれない。
彼らは入れ替え可能な張子の虎にすぎない。
麻薬が生産され消費されていくシステム。そこにはどこか遠くの国の貧困の問題も関わってくるかもしれない。悪はなにゆえ必要とされるのか。それはこの作品の扱う限りではない。

したがってヒロインたちの悲惨な過去は、それがどんな社会派な単語に彩られていてようとも、プレイヤーが感情移入するための記号、斬新な萌え要素以上のものではない。

登場人物の背景、利害関係を逐一描写していたら「もののけ姫」になってしまう。美少女ゲームのなかで近いのは「リアライズ」(2004年)か。どちらの作品もラストでは収拾がつかなくなってカタルシスを放棄した点で共通している。ただ商業的に「もののけ姫」が大成功だったのに対して、「リアライズ」は低調に終わった。世界の混沌を活写することなど美少女ゲームには求められていないのかもしれない。少なくとも当時はまだ。それよりもまずは萌えだ感動だと。

だがしかし、美少女ゲームにこうした生生しいギミックを持ち込んだという限りにおいて、この作品は画期的であった。同時にある意味、成功する美少女ゲームの限界というべきものを暴露してしまったのかもしれないが。
以後、美少女ゲームは虚構の時代に入る。



家族計画という問題は寛という存在に凝縮されているように思える。
彼は存在自体がこの物語はフィクションであり実在の人物団体等とは一切関係ありませんお忘れになりませんようにというジェスチャーであり、不可能を可能にする超人であり、様々な矛盾、亀裂を笑いで覆い隠す役目を帯びたトリックスターである。
寛がいたから高屋敷家の団欒はあれほど騒がしく、笑いに満ちていた。
寛がいたからマフィアの襲撃にもあれだけ耐えられた。
その意味で彼は一家の大黒柱であった。確かに高屋敷家を支えていた。
寛が正気を取り戻すのと、家族計画が破綻するのが機を同じくしているのは偶然ではないだろう。
非現実性と笑い
寛が持つ特徴と機能をまとめればこのようになろう。

逆説的だが非現実なことが美少女ゲームの文法に照らすと現実的であり、現実的なことが非現実的なことがあるのだ。
補助線として「加奈」を出そう。
「加奈」にも主人公の父親が登場する。彼は寛とは違った。息子が血のつながっていない死に行く妹にあまりに入れあげているのを心配するエゴイスティックな愛情にあふれた父親だった。実際にいそうな現実感を持っていた。
だがこれは美少女ゲームとしては異例である。
美少女ゲームの世界では、通常父親なる存在は登場しない。すでに死去しているか、旅行中、別居、行方不明などがポピュラーな線だ。この父親の不在が何を意味するかはここではふれない。言いたいのは、前述のフォーマットの議論とも重なるが、山田一も処女作では型破りなことをしたが三作目では美少女ゲームの常識を意識したということだ。

家族がテーマである以上、父親を登場させないわけにはいかない。だが、威厳、指導力、などステレオタイプな父親像を出したら美少女ゲームとしてノイズとなってしまう。妥協案として、名目は父親だけど父親じゃない怪物キャラを生み出した。それが寛である。

寛の怪物たるゆえんは何事も笑いにしてしまうことである。いわゆる通常のコミュニケーションはとれない。彼は狂っている。
笑いと狂気
ここで山田一(田中ロミオ)の次作「クロスチャンネル」(2003年)の黒須太一を連想する。
彼が
コミュニケーションとは基本的には他者への攻撃であり、それが怖いから自分はおどけて躱してみせるのだ
という特異なコミュニケーション観を持っていたことも。

山田一はなぜ高屋敷家の団欒を寛と司のどつき漫才にしたのだろう。
思うに彼には高屋敷家の楽しい食卓をリアルに描くことができなかった。
正確には他人同士で囲む団欒が暖かい会話で満たされることにリアリティを感じなかったのだろう。
だから笑いで埋め尽くした。
逃げではある。
だがそこに太一が他人と関わるのを躱し続けながらも他者と繋がりたいと切に願ったあの悲劇的態度と同じものをみる。

ここに至って、先ほど指摘したシリアスなシーンの中にギャグが入ることの意味も違った側面をみせる。
言ってみればそれは作者の照れ隠しなのだ。
山田一は感動的なことを感動的に描いて感動してもらえるとは思っていない。
だから、おどけてみせる。
臆病、とは劇中で司に向けられた言葉ではなかったか。

笑わして躱すのは何もシナリオと寛の専売特許ではない。
家族計画のヒロインは
年少組みは天然系
準はほのぼの舌ったらず
青葉は毒舌マシンガン
真澄は自虐ネタ
とめいめいが独自の芸風をもっている。
加えて劉と景の存在。
この万全の布陣があのどこからでもどんな体勢からでも笑いを取りにいけるテキストを実現した。
物語全体が肝心なところではぐらかすことに万事万端向けられているようだ。



ここまでで、「家族計画」は一見ノスタルジーあふれるリアルでハートウォーミンな話のように見えるが、実はノスタルジーどころか現代的なテーマを宿していること、リアルなのは見せかけであること、ハートウォーミンの奥にはコミュニケーションへの不信が見え隠れすることを書いた。
「家族計画」とは売れるため、「家族が必要」というテーマに沿って描くことを犠牲にしてまでも、美少女ゲームの約束、フォーマットに則ることにこだわり、それらを駆使して作られた非常に精巧な時計仕掛けの楽園であるとも書いた。

では、「家族計画」とはいわばその薄皮を一枚一枚とはいでいくと最後は何も残らない、たまねぎのような作品なのだろうか。
プレイ中のあの感動はみせかけのものなのだろうか。
プレイヤーは激怒すべきなのか。
山田一にだまされたと。

たったひとつのこと

「人はさびしいから家族を作る」
言葉にするとなんと陳腐、なんて当たり前な答え!
それが、長い長い繕いきれてもいない完璧な物語の行き着いた結論
作者の願いであり祈りであると信じたい
きっと、作者は寂しいひとだから。
そして、こんな物語に共感してしまうのも寂しい人間なのだろう。

作者は、コミュニケーションも、言葉で伝えることも信じきれていない。
伝わらないかもしれないという孤独がある。
(毎夜ヒロインが屋根に上ってきて、その時々の人間関係や、行動の背後にある心境について解説してくれるのはなぜだろう。春花シナリオのラストの説明くささ)
パロディにつぐパロディで自己解体しながらも
おしゃべりを止めない。
おどけてもなんにもならない。
でもそれでもつながっているから。
ゼロではないから。
その姿勢が胸を打つ。

ノーマルエンド「バットな日」が好きだ。
人から逃げ出して、投げ出して、それでも人を求める自分を認める。
「話したいことがたくさんあるんだ」
「聞くよ。…いくらでも聞くよ」
二人はどんな話をするのだろう。
景は途中で茶化さずにいられるだろうか。
だがその話は描かれない。
本当にきれいなものは触れずにとっておくべきだから。

「家族計画」は楽しい話ではない。
これは寂しい物語なのだ。