自分にとって必要な物語ではありませんでした。それでも大好きです。
本作を敢えて一文にするならば、死生観でも日常の大切さでもなく、互いの掌にあるたくさんの黄金の価値を知る物語だったと言えるのではないかと思う。三か月後に世界が滅びる際は、それがどういう意味なのかも分からずに、酷くあやふやなまま自身の生死を考えて恐怖するのが普通なのかもしれない。だから死の恐怖からの脱却と残された時間の過ごし方こそがテーマにも見える。
だが、青葉√エピローグにて「俺達がマラソンだと思っていた競技は実は百メートル走じゃあない!!」「借り物大障害だ!!」という言がある。(この文章を読む方の中には細かい部分を忘れている人もいるだろうから補足をするが、いずれ死ぬことは分かっていてもまだまだ死は遠くにあると思っていた。だからあまりにも短い滅びを前に、マラソンだと思って走っていたらいきなり百メートル走だと知らされた気分になった。という例えを以前していたことに対して、そうではなく借り物大障害だと伝える流れである。)
朝陽√エピローグでも「結局、世界を護るものは立場やカタチではなかった。」「それは求め、そして与えるもの。」「どちらか一方ではいけないもの。」と独白するし、
夕陽√エピローグにおいても「結局、俺の日常は夕陽の中に、そして俺自身の中にあった。」と書かれていて、
御波√エピローグでも「現実を認め、それでもなお共にあらんと願う。」「そしてささやかな幸せを探していく。」と述べられた。
ノーマル√(便宜上誰とも付き合わない選択の結果をノーマル√と呼ぶ)に至っては特に顕著で「俺はみんながいるここが大好きなんだ」「それを忘れないようにしようってだけの話。生きるだ死ぬだ、そんな事はもーいいや。忘れたって構うもんか。誰も何も困りゃしないんだから」とある。
つまり、全ての√において主人公はヒロイン達との交流の中で、自分を形作るものは単純な生命活動の結果が支えるのではなく、大事な何かとの繋がりの中に在ると気づくのだ。”世界の終わり”という象徴的な出来事に後押しされて、一時は立場やカタチ、役割にこだわって見失うが、互いが互いにとって必要不可欠な不変の価値を持つことを確信する。それこそが無駄だらけの現実を生きる上でほんとうに大切なことで、本作で最も伝えたかったことなのだと思う。そしてその価値の輝きは世界なんかが終わっても終わらなくても変わることはない。
各√で本質的に同じことを繰り返しているが故の飽きはあれど、テキストも関係性も美しく心に響くシーンもあった。決して悪い作品ではないが、個人的な好みから言えば物足りなさが否めない。例えば、彼らの考える大事な何かとの繋がりとは、頑丈さや見た目に多少の変化は加われども元よりそこに存在していたものである。これがもし価値を新たに獲得する話であれば一段上の評価をしていたかもしれない。また、昔のゲームに言うのもナンセンスだが死生観や価値観が古く感じて、自己へのフィードバックが困難だった。そもそも序盤で"なぜ彼らはここまで死を恐れるのか?"という点に躓いてしまったくらいだ。実際自分があと三か月後に世界が滅びると伝えられたところで、イキリとか衒いではなく彼らほど恐怖できるかは分からない。いや、多分できないんだと思う。無論死ぬのが怖くないとは言わない。今突然ナイフで刺されることを許容できるというわけではない。自分のみが理不尽に死ぬことを手放しに良しとはできないが、皆一様に避けようがなく瞬発的ではない滅亡には恐怖よりも諦観が来そうだと思った。そして、やっと”しょうがなく”終われるのかという若干の安堵も。
本作の恐怖の根源は日常を愛していることにある。けれども私たちの日常はどうしようもないくらいに捨てがたいほど美しく素晴らしいものだろうか?繋ぎ止める何かが積極的な死を呼ばないだけで、消極的な生を送るものが多くないとは到底思えないのだ。生きづらい現実の中で湧きあがり続ける希死念慮と、僅かな友人や愛すべき物語に楽しかった記憶、一応家族も含めた私の死を知れば悲しむであろう一部が繋ぎ止める義務感にも似た生への執着に板挟みにされた今の私には、幸福な人間が幸福の価値を知り世界の美しさに気づく物語は必要ないな、とまで感じた。
それでもなお本作についての感想をしたためるのは薄ぼんやりとした世界認識への思考を言語化してくれたからだ。世界は確かにそこにあるが、私たちがそれを正しく認識することはない。五感を介して世界を認識する以上、世界とは自分のことだ。私たちの自己の輪郭は不確かで、周囲の人間や大切なもの、苦しいことに辛いことを含めた自分を取り巻くありとあらゆるものの位置や大きさから、その形を理解したつもりになっているに過ぎない。
主人公の話に戻すが、島の日常はシンプルで、友人と姉ちゃんと家族と島に住む人々が彼を形作っている。だから主人公は青葉√にて幸福だった日常に存在した”親友の青葉”の喪失が世界を終わらせたし、ノーマル√で島の住人が自身に敵意を向けていることに気づいたときに「世界はもうとっくに滅んじまってた」と言ったのだ。彼は彼を取り巻く人たちの存在抜きにはその形を保てないのである。(だから朝陽√の最後に夕陽がいて、すべてのエンディングで彼はシェルターに行かない。)
世界の美しさには共感出来なかったが、漠然と感じていた世界と自己の認識に肉付けが出来たことには確かな価値があった。他にも過去を思えば悲しく、現在は苦しく、未来に希望がなかった島に移る前の水守に自己投影したからこそ、”普通”を知らない彼女が幸せを知って救われたことには一定の価値があったと思っている。(彼女の言葉運びも大好きだ。)意図的か否かは置いといて、ひと月ほど前までは部外者だった彼女の存在は明らかに異質だから、私たちの生きる現実を見据えた上で島民、もっと言えば『そして明日の世界より――』という物語そのものの特異性を否定したかったがための配置なのかもしれない。
毎度ながら色々と勝手なことを語ったが、屈折した自己が鬱蒼とした世界認識を助長している自覚はあるし、そうした個人的な素養の問題が前向きで美しい彼らへの無理解と抵抗感に繋がったことは否めない。上記は明確な根拠や知識に根差したものではなく、そんな私の世界の話だ。皆の世界ではどうだろうか?まぁ全然違うんだろうなという予感もするし、多少の共感くらいはあるのではないかという淡い期待もしている。少し他の方の感想を漁ってみたところAFTERの評価が高いように見受けられたが、そのAFTERにおいて主人公たちの想いを汲んで感動することとは別に、冷静に考えて俺達がここにいるからなんやねんと思った私はあまりにも世界への接続がヘタクソだ。(だからこんなにも自己の輪郭がスカスカで空いた部分に辛苦が埋まるのだろう。)世界にも誰かにも自身の痕跡を残したい・繋げたいとまでは思わないことが先述の冷淡さの要因だろうが、それでも私はこの感想然り、”ここにいる”と誰かに伝えている。この矛盾を抱えている以上、私も何かのキッカケで世界の美しさを語れる日が来るかもしれないのだから、持病のしゃくが出ないうちは明日の世界にもほんの少しだけ期待してあげようかなと思う。