よくよく考えたら学生時代から今に至るまでコイバナなんて終ぞしなかったなぁという悲しい事実に気づいてしまった。長文は愚痴。
めぐり先輩が振るところは好きだったけど、結局どのヒロインともライトに付き合ってワーワーやってたので、フタ恋大好き太郎としては(求めてたものとは違うなぁ)となってしまった。ヒロインが全員、前作で言うところのしょうもない理由で恋しているから、これが八日なのか氏の考える一般的な青春像というやつなのかもしれない。
「A子のこと気になってんだろ?」みたいな、そういうコイバナが恋愛感情の確認作業になって、”何となく気になる”をどんどん補強したり言語化しちゃう。コイバナは恋愛までの助走で洗脳なのだ。
八日なのか氏のテキストから見える価値観やキャッチーな言葉を取り入れてるところ、登場人物たちの緩くてIQ低めな会話劇も好きだから、作品全体としては決して嫌いじゃないけど、やっぱりエッチするための薄味日常を描く作品よりも、もっと面倒くさくてひねくれてる主人公やヒロインの心を解き明かすような作品のほうが好きだと感じた。彼の作品ならフタ恋は別格として、デートやバイトが交流の手段になってた恋借りのほうが心の機微が分かりやすかったし、初恋の呪いや元カノが出てくる恋ロワのが尖っていて面白かった。
でも、そもそも恋愛するのに一々心の歪みやわだかまり、交友関係や家庭内の不和等の諸問題を解決しなきゃいけないほうがおかしいんだよな。もっとしょーもないキッカケで(アイツのこと好きかも)なんて思い込んで、付き合うためにちょっとした努力をしたり周りに相談したりして、結果振られたってポジティブに次に向かっていくような恋愛こそがマジョリティなんだ。そうじゃないと子孫残せないしな。
それは分かってはいるんだけど、果たしてエロゲはそっちに行ってもいいのだろうか?こうした大衆化は女の子をナンパして報酬を得る、あるいはステータスをあげて高嶺の花を攻略していくみたいな大昔のギャルゲーへと逆行しているような気持ちになる。俺は三次元では早々お目にかかれない二次元的な記号が、ふんだんに盛り込まれたヒロインだって好きだし、主人公がいなければ数日~数年以内に死んでそうな、ある種の運命的なヒロインだって好きだ。もっと物語を愛してくれ。つまんない恋は十分なドラマティックの後にしてほしい。
皆さんはどう思うだろうか。エロゲの恋愛はマジョリティであるべき?なんて、この問いが極端すぎるのは分かってる。実際はマジョリティであってもいいし、マイノリティであってもいいんだろうな。とは思うけれど、最近の流行はインスタントに付き合って、適度に萌えて(死語か?)、実用的なスケベが沢山あることなんじゃないか。エロゲにわかだから分かんないが、HOOK系列やあざらしなんかはどんどんこっちに寄ってる気がする。ロープラも増えてるし。
感性の変化は棚に上げて、令和エロゲ界の風潮らしきナニカになんだか肩身の狭さを感じつつも、新時代行きの船が勝手に出発してしまわないことだけを祈っている。