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eroger_tさんのファタモルガーナの館の長文感想

ユーザー
eroger_t
ゲーム
ファタモルガーナの館
ブランド
Novect(Novectacle)
得点
92
参照数
689

一言コメント

良い点はいくつもあるが、特に感じたことを一つ。

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

本作では呪われた館が見た歴史を「傍観者」たる「あなた」として館の女中と共に目撃する。しかし冒頭で女中の語る「館」と「あなた」との関連や、そもそも導入で目的として語られる『記憶をなくした「あなた」の記憶を取り戻すため館の歴史を見せる』ということからも「あなた」の本当の立ち位置は傍観者ではないことはなんとなく察しがつくのではないだろうか。現に僕は、見せられる扉の数々でどこに「あなた」の欠片があるのかを探った。この時点で「あなた」は「僕」と同一になり、見事に導入部で本作がさせたかったであろう、プレイヤーと主人公の一体化を無意識に行っていたのだ。

思えば、昨今ではどこか物語的にあるいは俯瞰的に作品を見ることが多いと感じる。僕がプレイするADVはいわゆるエロゲであり、主人公に対する自己投影は非常に困難である。それは生きづらい世の中に対する逃げ道として、理想として、溜まった鬱憤を吐き出すような、そんな作品が多く存在するからだ。エロゲに限らずだが、それは自己投影の出来る主人公よりも、自分には出来ない爽快感・万能感のある主人公を求めるというニーズの変遷が齎したものなのかもしれない(俺TUEEEのブームはそれが顕著だ)。ただ、正味僕自身はそこまで難しく思考を巡らせながらエロゲをプレイしているわけではないからこそ、フィクションはフィクションとして楽しむことが出来ているのだと思うし、あるいは単にそうした空想の中の人物に、自分を殺して当てはめることに慣れてしまっているのかもしれないからこそ、そう言えるのかもしれない。それはそれで悪くないことだし、そもそも僕自身そうした変遷を特別悪く感じてはいない。だがしかし、長くなってしまったが、まずはこの圧倒的なまでの主人公との一体化の力強さに賛辞を贈りたい。ところで、導入部は全て惨事であったがそんなギャグは今はどうでもいいだろう。

さて、そうして序章たる四章までを経て僕は「あなた」となるが、僕はようやく「他人の悲劇だから耐えてこられた」という言葉の意味を知る。ここで、2つの選択肢が与えられるからだ。「真実を知る」か「知らないままでいる」か。真実を知ってしまえば他人の悲劇で済まなくなる。他人の悲劇で済まないとはすなわち「あなた」の悲劇であり「あなた」となった「僕」の悲劇だ。こうした自己投影あるいは感情移入は確かにノベルの楽しみの一つであるが、本作ではその先が悲劇であることを予め知らされている。ここは呪われた館で、この館では悲劇しか起きていない。この選択肢は僕達の「意思」に重く問いかける。悲劇を見る覚悟はあるのか?と。個人的には、性格上ここまで来たならば「あなた」が「僕」であろうが、なかろうが当然YESなのだが、自分が選んだ自分の悲劇だという認識こそが大事なのだと思う。こうして館にやってきた「あなた」は画面の前にいる「僕」となり、僕は「傍観者」から「主人公」に成るのだ。このプロセスは、「どうしてこんなにもファタモルガーナの館に登場するキャラクターたちに魅力を感じるのか?」のアンサーにもなっている。要するに他の誰でもない「僕」が交流を深めたキャラクターたちだからこそ、魅力を感じるというわけだ。

物語の細かな部分に関しては、残念ながら僕自身の実体験が豊富なわけではないので「かなしかった!」とか「すごかった!」とか「おもしろかった!」とか「ヤコポのツンデレ!」とかそんな言葉しか浮かばないため、ここではカットするが、そうした非現実すらもまるで実体験のように思えてしまうのだから凄い。もし本当に現実世界の中でどうしようもない弱さに自分が飲まれそうになったとして、僕がここで学んだことを活かせるのかどうか正直に告白するならば自信はないのだが、出来るならばグッと堪えて正しい選択をしたいと思えた。一面の事実を真実と捉えない視野を持たなければいけないと思えた。こうした作品から学べる自己の在り方が提示されるゲームはやはり心に残るモノがある。

ところで先程僕は「あなた」と「僕」の一体化と言ったが、それとはまた逆の方向でも本作は優れていたと言える。それはスチルであったりBGMであったり選択肢やバックログの演出であったり、そうした「現実」では存在しないものたちだ。現実には静止画なぞ存在せず全てが動的であるし、BGMだって存在しないし、当然事あるごとに選択肢が頭上に表示されるわけでもないし、目上の人間の話を聴き逃したからと言ってバックログを表示し、もう一度読んだりセリフを言わせたりすることなど出来ない。しかし本作が「現実」ではない「ゲーム」である以上ゲーム的な構造は切り離すことが出来ない。それは即ちゲーム外にいる本当の自分を思い出させる要因の一つ足り得るのだが、背景、CG、BGM、演出そのどれもが「僕」が「主人公」の「ファタモルガーナの館」として高い精度で纏っているのだ。

どういうことかと順を追って説明すると、第一に背景に驚く。殆ど黒塗りで輪郭がぼやけているからだ。それは呪われた館であるが故の表現であるのだが僕は「どうしてこんな背景なのか?」と考えた。しかし今考えればその「何故?」「どうして?」が作品世界を理解しようという気持ちを助長していることに異論はないし、やはりここでも僕は「あなた」へと引き込まれていたのだ。また美しいスチルの絵柄を的確に表現する言葉を僕は持たないが、少なからず作風を掴みながら見たCGの数々はリアルとアンリアルの狭間を表現しておりアンリアル(あなた)に入るリアル(僕)を置き去りにしない。そしてBGMはもはや聞いた者にとっては言葉を必要としないほど秀逸である。全65曲という曲数の多さもそうだが、35曲の歌曲は特にファタモルガーナの館で見られるそれぞれの時代に上手くマッチしたと思う。学がなく、経験もない僕には国や時代に関してイメージ以上のものを考える術がないが「音楽の力を重視」というサークルの理念は見事に果たされており、作品の世界観を深めていたと感じられる。それは「ファタモルガーナの館」という存在の説得力であり、より一層没入できた理由でもある。また「意思」を問う選択肢は他にも存在し(なんとも意地の悪いことに)繰り返し同じ選択を選ばせる演出や、一つしかない選択肢に時間制限を設け、セーブしようと思ったら「躊躇」となり、バッドエンドに飛ぶ演出など、なんかもう・・・なんかもうアレだ。ぐぬぬってなる。そうした趣向を凝らした選択肢の演出は僕自身への問いかけであることを意識させるため、やはりここでも「主人公」は「僕」であり没入の邪魔にならないのだ。トゥルーエンドへの道筋は僕が選び僕が勝ち取らねばならないと思わせてくれる。

これら全ての調和がファタモルガーナの館の真髄であり、だからこそ悲劇は胸をえぐり、正統派ヒロインであるジゼルの笑顔に思いを馳せ、モルガーナの境遇に憤りを感じ、多くの不幸や障害にも、決して歩みを止めず手を差し伸べる主人公ミシェルに勇気を貰い、クリア後の大団円に涙したのだ。だからこそこれほどまでに面白いと感じられたのだ。エイプリルフールネタの「セブンスコート」では「真の傑作は、否応なく人の心を引きずるもの」とのキャッチコピーが起用されていたが、それに倣うなら本作では「否応なく人の心を引きずったからこそ傑作なのだ」と言える。恐らくこれは意識していないと思うが、このような倒錯は本編で多用されておりライター自身も自称した「認識逆転」を好む性格が現れているような気がしてならない。正しく否応なく僕を引きずった傑作だと自信を持ってオススメできる作品だ。