価値観を問い直すこと、「生まれ変わる」ということ ネタバレ中
2017年2月9日 10周年に寄せて
「むかし、むかし、あるところに……」
「いいえ――」
「ほんとうは、それほどむかしというわけでもありません。
ですが『おとぎばなし』というものは、たいていむかしむかしというひとことからはじまるものですので、」
「だから、このおはなしも『むかしむかし』のことなのです」
「むかし、むかし、あるところに……」
この物語の最初に出会うことば。
この物語を必要としていたものは、この文章でこの物語が己の必要としていたものだと気づく。
この物語は、ただこれだけのことを繰り返しているだけとも言える。
幸運にもこの物語を必要としないもののために翻訳をするならば、
「あたりまえ」があり、その「あたりまえ」を問い直し、しかしその「あたりまえ」を愛するに足る理由があるならば、「あたりまえ」を大切にしよう。
あるいは
「僕だけの大切なもの」があり、その「僕だけの大切なもの」はどうして大切なのか問い、そしてその「僕だけの大切なもの」を守っていくに足る理由があるならば、「僕だけの大切なもの」をもって生きていこう。
そして
「あたりまえ」でも「僕だけの大切なもの」でも、それがどうして必要なのか自分の言葉で見つめよう、そうして見つけたものが、あなたのしあわせなのです。
ということ。
これだけのメッセージを、形を変え立場を変え、何度も何度も、プレイヤーに愚直に訴え続ける。
そういう作品です。
「ぼくのはなと、そうでないそれいがいのはな」。
100万本のバラがあったって、絆がないならばそれはどこか遠くの知らない誰か。
たった1本のバラでも、絆があればそれは大切な誰か。
どこにでもあるはずのいしころも大切な宝物になるし、同型機がたくさんいるR-タンポポのうちの一人が妹という大切な家族になる。
そうして出会った大切なものを、私は本当に大切に思っているのだろうか。
R-シロツメグサはある時思い悩む。
「イチヒコがイチヒコだから好きなのか」「イチヒコが<マンカインド>だから好きなのか」。
悩んで暴れて喧嘩して、見つけた答え。
「この宇宙でただ一人、大切な『ひと』イチヒコ」。
ここでは人間とロボット、作中の言葉で言うならマンカインドとチャペック、それは絶対の基準ではなくて、
作中世界ではマンカインドとチャペック(とセーバーハーゲン)には階級と言ってもいいほどの地位の差があるけれども、そんなにそれは大事なことなんだろうか、
そうやって既存の基準(価値観と言ってもいい)を問い、解体し(なんせイチヒコは自分をチャペックに改造するのだ)、再構築した答えはイチヒコという一人の『ひと』。
ただこれだけの優しく、人によっては厳しいお話です。
さてこれで終われたら幸福なんだけど、今この作品を振り返るならPSP版にも触れなければなるまい。
有体に言えばこの移植版、駄作としか言いようがない。そこにあるのは予定調和という名の思考停止。
ロボットより人間のほうが素晴らしいよね!という答えを先に用意してそこへ無理やりつなげていくような。
ピラミッドを下から積み上げて応えにたどり着くのではなく、空中に答えを用意してそこまでの柱を立てるような。
そこには優しさはなく、はみ出るものを許さない傲慢さだけがある。
そんな悲しいものになってしまった。
詳しくは実際にやってみればわかるだろうけど、こんなに素敵な作品がこんなに悲しい結末を迎えてしまったことが、僕は今でも悲しくて仕方ないのです。
以下は旧版ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
何から何まで世界観を作り上げる材料に仕立てられ、終始フワフワ浮いているような妙な昂りを覚えた。開始直後の一文にこれほど魅了されたことはない。
雰囲気ゲーと言ってしまえばそれまでだが、その雰囲気の作りようが半端ではない。
私ではうまく言語化できないが、体験版をやれば世界観が感じ取れるはずなので、その雰囲気が気に入ったら是非買ってみて欲しい。
「歪に見えるけど暖かい世界」や、「生命」「ニンゲンが生きていること」「ニンゲンが生活していること」そのもの、が素敵だと思える方にオススメしたい。
(2009年1月13日追記 雰囲気ゲーと思ったのは、恐らく私が最初は伝えられたものを言語化できず、感覚的にしか受け止められなかったからと思う。結局私が言語化したメッセージは、とても単純な「価値観の問い直し」というものであった)
ぼくのはなと、そうでないそれいがいのはな。個人的には一番強く感じられたテーマ。
何もかもが我々と異質で、その姿は滑稽に映るかもしれない。しかし、だからといって、それを笑うことができるのだろうか。
例えば、
朝食にはこれと「決まっているから」、毎日欠かさずトーストと目玉焼きと味噌汁とアジと生卵と海苔とコーンフレークを「全部出す」。
本当は眠くないけど、夜は眠いもので眠い時は「アクビが出るものだから」、夜になれば「アクビをする」。
このように何から何まで、そうと「決まっているから」そう「する」。
決められたことに盲目的に従うのも、発想に0と1しかないのも、
どんなに発達しようとも機械には超えられない大前提だろうし、そこで生きてきた人間も同じ思考なのだとわきまえてはいたが、
初めは続出する差異にもうツッコミが追いつかないような気分だった。
しかしある程度読み進めるうちに考えが変わった。
我々が作ったものを我々と違うように扱うことが「間違っている」と、
我々が作ったものを我々と同じように使うのが「正しい」からというだけで見下すのは、
そんなのはただの傲慢だと思わされるようになった。
記憶を取り戻したイチヒコは世界を否定するが、
その冷凍睡眠に入る前の人間の世界だって今の我々から見れば異質だし、そしてこのぐらいの科学力を持っていれば当然であろう環境だ。
三者のどれが正しく、どれが間違っているかなどないのである。
たくさんの花のなかで大切な1つを見出す。見方を変えれば、それは同時に、
どんなものでも大切なものと思えたならそれはそのニンゲンにとって真実、ということではないだろうか。
それこそ、コンビーフが子守唄でも、ポップコーンがマスターベーションでも、宇宙船がじてんしゃでも。
形だけでもアクビをしているとそのうち本当に眠くなってくる、というように。
これは全体に見られるテーマだが、一方でタンポポルートだけは異彩を放つ。(「妹のタンポポ」自体は明らかに「ぼくのはな」であるのだが)
「詩人のタンポポ」が示した「詩」を、「妹のタンポポ」と触れ合ううちに否定している。
心というのは、いくら文化相対主義を持ち出そうとも譲れない部分であるということだろうか。
それに世界としてはともかくイチヒコが「詩人のタンポポ」の「詩」を初めから受け入れてないというのもあるのだろう。
(2009年1月13日追記 これらの「詩」は、我々から見たらメタクソであるが、チャペックたちにとってはわかりやすいものをわかりやすい言葉で詠ったものなのかもしれない、ということにようやく気づいた。我々と違うから間違っていると思っていたなんて、俺はいったい何を語っていたのだろう。あぁいや、本人らが「むつかしい言葉」と言っとりますがね)
またこのルートはイチヒコが過去の記憶を再び取り戻しながら、しかもそれを否定することのないルートであり、一番きれいな終わり方をすると思う。
話としてもヒロインとしても一番好きなのだが、この直後にミズバショウルートに行ったのは軽いトラウマである。(それと蛇足ながら、シロ姉の詩は作中最も笑った場面だ)
欠点としてはやはりエロシーンが多すぎること。
根本的な設定に関わることなので大体は理由を感じられる場面だが、そんなことしてる場合じゃないだろと思うことも。それ以外は大きな不満なし。
強いて言えばベニバナサイドの意思をもう少し掘り下げて欲しかったと思うが、機械本来の喜びにはあれ以上の説明は不要とも思う。
取り戻した記憶をあっさりまた忘れる等はご都合主義という意見もあるが、この作品には細かい部分のリアリティーなんてのは瑣末なものに過ぎない。
SF、文学知識はなくてもマイナスにはならなかったが、持っていればプラスされるものが大きいので暇があれば先に触れておくといいだろう。
ヒナギクの歌の元ネタは、SF的に大きな意味を持ったものであったと後で知って軽く震えた。
10月29日 得点修正
11月22日 加筆
「RUR」「山椒魚戦争」「2001年宇宙の旅」(及び2010年、2061年、3001年)、「いさましいちびのトースター」(と同火星へ行く)、「タウゼロ」を読んだ上で。
私はSFを今回初めてまともに読んだのでマヌケなことを書いてるかもしれない。
「RUR」「山椒魚戦争」
ヒナギクルートにてイチヒコとヒナギクが人間でもチャペックでもない新しいものになったのは、ご都合主義とか説明不足の超現象とかでなく、オマージュというかこの形式として本当に必要なことだったのだろう。
あと人外の知的(生命)体の危険性、というものを考えるならベニバナサイドの考えが安全なのだが、やはりあれだけ豊かな心を消すのは完全に(器物破損でなく)殺人と呼ぶべき事なんだろうなと思った。
「2001年宇宙の旅」(と同「2010年」「2061年」「3001年」)と「いさましいちびのトースター」(と同「火星へ行く」)
前者は物語自体の元ネタ、後者は用語に使った程度、とのことだが、私には逆に思えた。
「宇宙の旅」はHALとヒナギクの歌ぐらいしか関連が見つからなかった(まあ1度だけだし、読み込み不足かもしれない)が、「いさましいちびのトースター」の方はRURURと同じような感情を覚えた。家電製品たちの心はチャペックたちと同質だし、我々から見てちょっとおかしい(そしてそれが愛おしい)のも同じだし、こっちでは本当に(本物の花の)ヒナギクが歌を歌っているし、なにより全体に漂う暖かさがあった。
ヒナギクが歌っている場面には感無量であったが、これは偶然か、それとも「宇宙の旅」と同じ由来から来ているSFのお約束なのか。
「タウゼロ」
バサードエンジンと、その特性から来る宇宙の終焉という根幹の設定の元ネタ。RURURの作中ではそれだけの時間が経過している原因という説明はなかったような気がするが。
ビッグクランチを見ながら航行を続け新しい宇宙に入る、というラストは必然だったらしい。
ついでながらそこで皆が泣いているのは、孤独感もやはりあるのだろうが、何より「生まれてきて、すぐに泣くということ」なんだろうと思う。「決まっているからする」このヒトたちにはふさわしいが、生まれて泣くのは呼吸のためで冷凍睡眠後に泣くのは涙腺が溶けたためなら、宇宙が生まれた時に泣くのはなんのためなのだろうか。
2008年1月20日 加筆
今更ながら、コバトムギ先生がすごいというか、「人間らしさ」がこの世界のロボットのレベルを越えすぎじゃないかと思った。
艦内有数の知性を持つはずのヒナギクに「ただしくないし、真実もそこにはない。でも『ほんとう』で『たいせつ』なことなのだ」と教えたり、司法HALに健全でない幸せを主張したり。
人間と接した時間が長いという理由は与えられているけど、そもそも技術・性能の問題としてそれほどの「こころ」を持てるのだろうか。
(上記のように私はこれらのチャペックは2進法的思考と命令への盲目的服従から抜け出せてないと見ているので)
教師によくいる、破天荒だけど物事の本質をついた事を言う、というキャラ造形としては申し分ないのだけど。
もっとも知性レベルの低いはずのセイバーハーゲンらやコバトムギ先生はミズ姉ルートでもあっさり結果を見通しているし、星の王子様を踏まえているのだから小賢しいだけの知識が無い方が本質が見えるという事なのだろう。
それにしてもこうして考えてみると、なんでも許容してしまう母に、愛情の伝え方が不器用ですれ違う父、といった当たり前のキャラ付けと世界観ならではの設定を結びつけてしっかり完成させたというのは見事だったなと。
余談
ギャルゲーにロボットのヒロインは数多いるけど、どれも「人間らしく」て「人間と同じ」思考をする。そりゃそっちの方がキャラとしても話としても作るのは楽だろうけど、じゃあロボットじゃなくていいんじゃない?というのは禁句だろうか。故障とか寿命の差とか記憶消去とか、それらしいイベントさえ入れりゃあいいってもんでもないと思うのだけど。
5月13日 加筆
コンシューマー移植、ライターブログなどを踏まえて。
移植に伴う変更点に「イチヒコ刷新」とあるのが怖い。ライター伊藤ヒロ曰く
ー引用ここからー
最終的な結論として「『旅』の否定」を。(というか『マツモトレイジ的なもの』の否定)『旅』『ゴール』『険しい道のり』『離別』『故郷を捨てる』などといったものは、この作品の主人公にとっては一切価値を持たない。少なくともプラス側の意味では使わない。主人公の成長についても、レイジ的な意味での『一人前の男になる』とはニュアンスが異なる。
ー引用ここまでー
「成長」という言葉は、「ある特定の」価値観に沿って変化した、ということで、
その価値観は本当に正しいのか、真の幸福というものはもっと別のものがあるんじゃないか、というのがこの作品の核にあるものじゃないかと思っているわけだ。
それが我々と彼らという差を生み、そこが面白くてそこが訴えかけてくるのに、
今の我々から見た「正しさ」を主張してくるんじゃないかという不安を(何の根拠も無いが直感的に)感じずにいられないのは、コンシューマーという媒体のせいなのだろうか。
5月28日 加筆&一言コメント修正
ライター伊藤ヒロ曰く
ー引用ここからー
夢幻廻廊というゲームにはいくつかのテーマが存在しますが、そのうちの一つは「自分のしあわせは自分で決めないといけないよ(他人や常識に決めてもらうことではないんだよ)」というものでした。
さらに言えば、それは「本当に自分のしあわせを自分で決めたなら(他人や常識の決めた『正しさ』に拘らずに決めたなら)、その姿はさぞかし他人の目には奇異に映るだろう」というものでもあります。
このテーマに関しては、もしかしてM調教のシーンなしでも表現できるのでは?純愛ゲー(笑)としてキレイにまとまるのでは?
そう考えてつくったのが、このルルルルでした。
ー引用ここまでー
無垢な幼子を体現したような登場人物・・・記憶喪失+我々換算約12~13歳?の肉体の子供と、古典的SFのような「カタイ」思考回路を持ったロボット。
その幼子に「何が本当に正しいのかは自分で見つけなさい」と優しく諭すように話しかける大人のように、ひたすら易しく柔らかくおとぎ話のようなテキスト。
我々の「常識」を裏切る「常識」の数々とそこに(当たり前だが)平然と暮らすニンゲンたち。
繰り返し繰り返しこうしたメッセージが送られ続け、最終的にビッグクランチを経て世界が生まれ変わる。
全てはプレイヤーに自分なりの価値観というものを問い直させ、「常識」から外れている(と自らは思っている)自分を肯定し救わせ、そして新しい道を探させる。
すべてに対する相対化、これが終始漂う独特の雰囲気の正体だったのだろう。
典型的なキャラ付けと世界観ならではの設定を結びつけた(上述)のが見事なら、
おとぎ話やSFという世界観を作り上げ全てをメッセージの表現に結びつけたのもまた見事としか言いようがない。
余談
音楽担当樋口秀樹の「GWAVE SuperFeature’s vol.8 Class words」に「歌」という曲が入っている。
これがたまらなくこの世界(とイチヒコ)をズバリ表しているように思えて仕方ない。
ー引用ここからー
いつもの朝が昨日よりずっと素敵に思えて そんな小さな出来事だけで なんだか嬉しくなったんだ
ああ深呼吸 いつもより大きな空 瞳を閉じれば 歌が聞こえてくる 風の生まれる場所から
心に響いてくそれは 愛おしくて抱きしめたくて まるで広がるこの世界に生まれおちて泣いている 大切な幼子をあやすように
嫌いなトコは こんなにたくさん知っているのに 好きなところは 呆れるくらい何にも知らなかったんだ
ああ大人は 忘れてしまったけれど 世界はいつだって歌ってくれている 愛する子供たちへ
覚えたばかりの言葉は どうしようもなくもどかしくて うまく歌えないけど いつか大人になった時には たくさんのしあわせを教えてあげよう
優しさ温かさ強さ明るい笑顔 繋がる怖さそしてその喜び いつか大人になった時には たくさんのしあわせを教えてあげよう
ー引用ここまでー
その「歌」というタイトルそのものとあわせて、ルルルルをイメージして作ったんじゃないかと思える。
2009年1月13日 追記 & 1月15日 修正
私はこの作品をプレイするまでSFというものに興味がなくて、
そのくせプレイ後はルルルがあまりに面白いので、理解する手助けになるかと思って参考文献を読んでみたら、今度はSFのあまりの面白さにどっぷりハマリ込んでしまったのだが、
実は本当にSFを好きなのか確信が持てなかった。
何年も前の音楽に、曲自体への想いだけでなく当時の感情も付加されて好きと感じるように、
SFを読むことでこの作品への想いも呼び起こされてSFが好きだと感じているだけでないかと。
そこを今回久しぶりに起動して、適当に進んでたどりついたのが奇しくもシロ姉ルート、「イチヒコがイチヒコだから好きなのか」「イチヒコが<マンカインド>だから好きなのか」悩むも、「この宇宙でただ一人、大切な『ひと』イチヒコ」にたどりつく話。
しかもラスト前、イチヒコが自らを改造する場面、ここはアシモフ「バイセンテニアル・マン」にてアンドリューが少しずつ「人間」となっていくのを読んだのと同じ気持ちになった。
多分SFそのものに「ほんとうにたいせつなもの」を求めるということが備わっていて、ルルルはその部分を突き詰めた作品なのだろう。
それからなぜロボットかということにも合点がいった。一番大きな理由は多分、価値観の再定義が普通なこと。
「それでは”心をこめて”喜びましょう。そして”心の底から”祈りましょう」が、
「『こころ』をこめて、『こころ』から――」に。
それを偽りと見るか真実と見るかは自由だけれど、でもそれは「ほんとう」のことであるというのが追い求められていく。
そうして見るとこの作品の脱帽する点は、
「ほんとうにたいせつなこと」を求めるSF(の主にロボットとビッグクランチ)を、舞台設定と「生まれ変わり」と「たいせつなものはすぐそばにあること」の象徴として取り込み、
ひらがなやこどもに語りかけるような口調の柔らかいテキストと童話モチーフで、小さな子供に「たいせつなこと」を押し付けるのでなく悟らせるような教え方を体現し、
愛情の伝え方が不器用な父、子供の幸せだと自分が思うことを押し付けてしまう母、世話をしなければならない手がかかる妹、破天荒だけど物事の本質を突く教師、けんかばかりしているけどそれだけに一番「たいせつなこと」を分かり合ってる幼馴染、という当たり前の設定を本当に「設定(役割)」として認識し実行するメタ要素を含み、
それらの役割をメインテーマとして個別のシナリオを見事に作り上げ、
これだけのことを組み込んでも(だからこそ?)全体がちゃんと核となるテーマ「やさしい夢幻回廊」を実現できていること。
この構成の見事さは、Ever17とはまた違った意味で芸術的と言えましょう。
あっちは考え出せたことが驚異的。こっちは達成できたことが脅威的。