若さは浅慮と同時に希望。そして成長と成熟の先にあるのは「老い」。人間のみならず化けにも押し寄せるそれは実に無常で切なくて。 本当に、胸を打つ物語だった。
ハルカの国といえどもハルカはなく。
舞台は人間の世界、江戸の名残を引きずる明治は終わり大正へ。
「幼き明治」の形容は若かったユキカゼの比喩でしょうか。黎明の明治に比べれば文明が成熟してきた大正は、同じく成熟して寛容を覚えたユキカゼのように見えました。
好景気に沸く人間の世と対照的なのが化けを取り巻く世情。信仰と神秘は日常に取り込まれ、相容れない化けは消えていく。衰退、もしくは斜陽という表現がふさわしい気がします。
そんな生きにくい時代でなんとか生きる意味を見出したり、失ったり。ユキカゼたちを取り巻く人々に悪い人はほとんどいないのに、環境は彼女らを厳しく切りつけてくる。狼谷のような厳しい冬も無くて、政府や猪の化けのような明確な敵もいないのに、真綿で首を絞めるようにゆるやかに消滅を強いてくる。
化けらしさを失って人間のまねごとをして生きるも生ききれない苦悩の描写は本当に切なくて、私の胸を打ちました。
また弥彦、亀吉、大将、尾道の警官。形は違えどおトラを、化けを愛しく思いつつもそれを許してくれない世情との軋轢で苦しむ人間の描写もまた見事で。
雪子の国の時代ぐらいお互いの距離が離れてしまえばおさまりもつきやすいのでしょうが、手を伸ばせば届きそうで、しかし近いうちに届かなくなることは明白な時代ならではのお互いのリアルが重なっていた最後の時代のお話なのでしょうね。
以下、ネタバレ満載でつらつらと感想を。
〇化けとほどけ、認知症と介護
変遷していく環境で失われていく役割と居場所は彼らのアイデンティティを喪失させ、彼らを「ほどけ」させていく。
このほどけ、まぁ認知症、呆けですよね。仕事をやめたりして役割を失ったら一気に呆けていくじゃあないですか、そんな感じ。
加えて、呆けた存在に対する介護ですね、誰が、どこで、金は、etctec……。
とても現実的で、胸躍らせるようなものでは無く。正直目をそむけたくなるようなテーマですが、そもそもハルカの国シリーズはこれについての言及が多い気がします。
・越冬編
狼谷は厳しい自然と住環境により生産性のない老人を養う余裕がありません。
そこで60歳を越えた人間を山に連れていき、山犬に食べさせる、言葉を飾れば自然に還すシステムが構築されていました。所謂姥捨て山ですね。
・決別編
そこまで明確なシステムは存在していませんでしたが、猪に襲われた村で名主がハルカに告げた一幕がこれに類すると思います。
「子が親を捨てることなど、出きることではね。それは道に外れたことだ」
「老いた親を負ってでも進むのが、人ってもんだ、正しさってもんだ」
「己の血をすすらせてでも親を助けるのが、人ってもんだ」
これは、狼谷、ハルカが守っていた村に対する強烈なアンチテーゼです。
あの村で願われ生まれ、長年にわたり務めてきた御犬様としての役割。そしてそれが残される家族や仲間のためであると信じて、粛々と従い、また見送ってきた村人。
彼らが人としての道に外れた、畜生に同じと言っているようなものなのです。
狼谷の姥捨てシステムを介護施設に例えて、両親を入居させようとしたら「在宅で家族が面倒見てやるのが子供の勤めだ」と責められるようなものですね。
・星霜編
「ほどけ」というものが認知症・呆けであることは先述の通り。
雪子の国で見たホオズキは恐らく「ほどけ」なのでしょうね、ホオズキは子供の外見故に無邪気さが際立ち認知症のイメージはわきませんでしたが……おトラのそれは姐さん気質の彼女とのギャップのせいなのかなんともいたましくて。
自活能力を失ったそんなおトラをどうやって世話していくのか、ということがこの物語後半のキモであったと言えるでしょう。
最終的にユキカゼが面倒を見るということで決着したわけですが、当然そこに至るまで沢山の人間が悩み苦しんだのです。その葛藤、決断たるや。
〇ユキカゼ
ハルカを追いかけ、剣を突き詰めていた若き日のユキカゼはもう無く。
化けの中で自分は強いほうだと自分の強さを客観的に認知し、ハルカには到底及ばず力ではクリに劣るなど周りとの比較もできる。わがまま放題のクリを宥め、慰め、助ける姿は貫禄すら感じさせて。
ハルカに振られて以来、蝦夷、大陸、日本の各所を廻った日々は逃避の性質こそあれ、無駄では無かったのでしょう。
例えば炭を買い求めるときに
「冬になってから求めたのじゃ高いから」
「夏が終われば秋、つまりは冬の準備だよ」
と先を見据えた考えができるのは越冬編の教訓が生きている気がしてなんだか微笑ましいところした。
しかし年月が全てを変えてしまったわけでは無く、ハルカについて調べるおトラに激昂し、図星を突かれて憤慨する様子は若き日の彼女の片鱗が見えました。
決別編で「全て変えられると思わないでいただきたい」と自己のアイデンティティを強く主張した彼女、そこでは剣についての問答でしたが、それを別にしても彼女の本質は変わらないのでしょう。
「情に厚い狐」
泣ける化けというのは相当に珍しいということが作中で語られていました。
ふと思い返してみると彼女が自分のことで泣いたことはあまり無いように思えます。カサネしかり、ウメしかり、五木しかり、他者の感情に共感して彼女は涙を流す。
裏を返せばそれは、他者無くしては彼女の存在が維持できないということに繋がるのではないかなと私は思うのです。
おトラの手記には、自身は回復の見込みが無いので引き取るな、と書かれていました。合理的に考えればおトラを引き取らず第五への移送を許容するほうが皆、生きやすいでしょう。世話の手間もいりませんし生活費にも余裕ができます。おトラも本心はどうあれそれを分かっているから見捨ててくれと書き残しているのです。ユキカゼも理解はしているのです、涙を流してカサネを見送った時のように。
ではなぜおトラを引き取ったのか。クリのためなのか、ユキカゼが情深いからなのか。どちらも正しいのでしょうけれども、私はユキカゼが生きるために必要だからだと思うのです。
目標としたハルカを見失い、化けを許容しない「人間の国」に怯え一生という不確かな時に脅かされ続け生きていくことはユキカゼだけではおそらく無理で。
ここでおトラを失ってしまえば、早晩ユキカゼもほどけていくことは想像に難くないのです。
「何かもっとかないと、しんどいよ」
おトラがユキカゼを諭した一言ですが、ユキカゼはその「何か」におトラを据えたのでしょう。
回復することがおそらく無いこと、ふたりの日常は苦しい日々になることも承知の上で、それでもおトラといたい。もしかしたら亀吉や弥彦に頼れたとしてもその選択はしないという覚悟のもとに。尾道で泣き明かした、決意のまなざしのユキカゼからはそんな心境が窺えました。
でも、もしかしたら元のおトラに戻るかもという奇跡も捨てきれてはいないと思うのです。
「希望を持とう」
「私はな、案外、得意なんだよ」
「小さなことでも、楽しみ見つけてさ」
「それ目指して、頑張るんだ」
ユキカゼ自身がこう言っているのですから。
ただ、起こったその奇跡をユキカゼが見ることがなかったことが何とも切なくて。
願わくば、おトラの手から刀へと結び替えられた紐にこめられた意思がユキカゼに伝わっているといいなと願ってやみません。
刀といえば、ユキカゼが流浪の日々の中で突き詰めた剣術は一定の極みを得て、彼女の本質を映し出す鏡でした。巌津霊は他者がいなければ成り立たない、つまり他者を必要としたものでした。何処にいても誰かとともにいた、またおトラを見捨てられなかったユキカゼらしい剣術と言えるのではないかなと。
〇クリ
立派になってしまったユキカゼの対比というか、過去のユキカゼの立ち位置に据えられているのがクリですね。
若さゆえの浅慮、責任感のなさ、人間への悪感情、理想ばかり見て現実が見えていない危機感の無さ。化け不遇の時代だからか、昔のユキカゼよりも愚かさが際立って見えます。それ故に成長も一塩であるのですが。
私はそんな彼女の行動、変化がこの物語の主軸であるといっても過言ではないと思っています。
テーマ的にはおトラと「ほどけ」の意味合いが強く、それに対するユキカゼの苦悩がシナリオの相当を占めてはいますが、それは停滞もしくは衰退でしかなく、春を夢見ていない。
自らのカンパニを夢見る向こう見ずなクリのほうが春を待つにふさわしく、ハルカの国らしいなという私の印象ですね。
さて、クリといえば栗箪笥。奪われまいといつも携行する姿が印象的ですが、これはユキカゼが剣を大事としていたことを思い出します。
「奪われ易き物を大事、命などと思うから、簡単に操られる」
決別編でハルカがユキカゼに呈した苦言ですが、本作前半のクリは誰にというよりかは、栗箪笥ひいては狸の里復興に操られている、縛られているといった感じでした。良いものは良いものだと意固地になって、相手がどう受け止めるのかを考慮しない、自分の都合しか見えていない。
「白ネギなんて気持ち悪いもの!」と関東のうどんを悪し様に言い、おトラに食べさせるべく押し付ける様はまさにそれで。
そんな彼女が紆余曲折を経て独り立ちしていくまでの前向きな経緯が本作後半の見どころ。
特に箪笥をひっそりと質に入れていたところは直前まで気が付かなくて、してやられたと膝を打ってしまいました。そりゃあそこまで魂込めていたら腰も抜けるよなぁと。また悔しくて悔しくてどれだけ地団太踏んでも涙は決して流さないのが実に化けらしくて。
その後にユキカゼからの手助けを受け、おトラの言動から残された想いを感じ取りトラユキを完成させるところは王道であり読んでいて面白い。
ここでそれまで考えなしの部類であったクリが自らアイデアを出した、という一幕はユキカゼが猪と戦う戦法を自ら編み出したことに繋がる気がしますね。
物語通してのクリの成長はユキカゼなどに比べると早すぎるのかなとも思えるのですが、ユキカゼが頑固で遅すぎるだけかも…?
ちなみに私も関東のうどんつゆを最初に見たとき「え……」となったのを覚えています。
〇弥彦
登場人物の中で随一の資産と権力を持っています。しかしそれは絶対的なものでは無く、危うい立ち位置ですので少し歯車が狂えば失いかねないものでした。
金があるのだからおトラを引き取れば、というのは道理ですし合理的ですが、それは彼にとってリスクです。人間の国で役に立たない化けを引き取るということは全く合理的では無く、ともすればそこから糾弾され立場を追われていく可能性も十分にあったでしょう。当然そのようなことはおトラ自身も望んではおらず。
だからユキカゼに対して小規模な支援に留まった彼の判断は正しいのです。誰も彼を責めてはいませんし、合理的な判断です。
しかしおトラに育てられた子供の彼はそれでは納得できない。
「俺はおトラを捨てるんだっ!」
「雪さんついていてくれるから、大丈夫だって」
「おトラは大丈夫だって、片づけて」
「俺は目ぇ瞑ろうとした」
「まだ居るおトラのこと、仕舞いにかかった……!」
特に印象深いのが次のセリフ
「ああ。どうやって生きていくんだろ、俺」
これは尾道、おトラを引き取って素寒貧なユキカゼのシーンで出てきた
あ、あ、
これから
どうやって生きて行こう
というメッセージとの繋がりを感じ、とても私の胸を打ったシーンでした。
金は無くとも世話をしなければならないおトラを抱えて、物理的な生活苦に対するユキカゼのそれ。
金はあれども世話はできず、自分の冷酷さとそれを正当化する自分の傲慢さ、甘えに気付き自己嫌悪のそれ。
見事なまでの対比で、思わず唸ってしまいました。
〇亀吉
弥彦と同じく長年の付き合い。子供の面倒を見てもらったりと、おトラに対する感情はやはり親のようなものなのでしょう。
しかし彼は面倒を見ることができない。弥彦・ユキカゼのようにお金の問題ではなく、そもそも彼自身が介護を受ける側の立場なのですから。仮に面倒をみようとしたところで老々介護の極みで、早晩立ち行かなくなるのは目に見えていました。
どうにもできないということはわかりやすく誰もが納得できる理由で、弥彦と比べれば実にシンプルですね。
しかしそれ故に無力感がヒシヒシと押し寄せるのです、老い・衰退は“何か”を奪い去っていく。“何か”をさせてくれない。
単純で、当たり前で、実に残酷。
〇おわりに、ほどけと老化
老化、介護の問題はこれまで人間たちの命題としてあって、化けは直接的当事者ではありませんでした。人間が望むのならそれを手助けしてやる、といった役割ですね。化けを神とするのならば人間は信徒のようなものであり、いわば下々の悩みであるのです。
しかし化けのほどけは、穿って言えば神を人間に落とす現象のようなもので。
加えてこの時代は法律で縛り、金銭で働かせ、彼らの神秘性を消失させる。まるで「雪子の国」で天狗を人間の枠組みに押し込めていた政策のようです。天狗は人間に堕ちても生きていけますが、化けはそうではなく。
化けは人の意思、必要性から生まれるとしたならば、文明の発展により必要性がなくなればもう要らぬ、ということなのでしょうか。
すなわち、「ほどけ」とは人の願いによって編まれた化けという存在がほどけてしまうということなのかな、なんてポエミーな感想で締めたいと思います。