ハルカと過ごした「一年」が、剣に自分を重ねたユキカゼの「一念」を結ばせた。 犬狐の仲、混ざり合わない化けふたりを乳化させるような五木の存在は尊く、美しく。 本当に素晴らしい物語だった。
越冬編では雪にひたすら耐え抜く描写、そこで過ごす人々のクローズドな営みに目が向けられていましたが、本作・明治決別編ではこれと対照的、物語が起伏に富んでいます。神祇省の解体、化けの冷遇、政府の分裂、天狗の国への侵攻。新たな仲間との交流、そして猪との対決。冒頭から押し寄せる怒涛の展開と情報量は前作の比ではなく、同じシリーズとは思えない程でした。
またそれだけではなく物語の終わりには余韻と合わせて「決別」を色濃く描写されているのも良かったですね。
五木とユキカゼ、刀について少し言及した後、本編の感想をつらつらと書き連ねた感想になります。
〇刀と拵え、ユキカゼと五木
「剣とは我々にとって心であるはず」
五木の言葉です。
ユキカゼも五木も剣、刀を使います。まぁ使うと言うか、穿って言えばその人の本質に近いと思うのですよね、特にユキカゼはアイデンティティとして定義しているほどですし。
だからこそ自分の持つ刀にはこだわりがあり、刀にはその時の自分が表されていると思うのです。
越冬編でユキカゼが手に入れた、下賜された刀について、こう表現されています。
「金銀装飾の柄と鞘、豪華絢爛をこれでもかと誇示するような代物」
「はっきり言って下品。外はこれでもかと着飾っているくせに、中の刀身は痩せていて、実用に耐えそうにない」
生まれ故郷を捨てて得た刀に対する評価としては辛辣、ユキカゼ自身もこの刀の性質に落胆し「鳥の刀」と呼びました。
しかし、この時点のユキカゼを表すのにこの刀は最適なのです。何もしなくても良い、権威の象徴であって欲しい。政府が化けに望んだ役割と一緒なのですね。
その後、ユキカゼは新たな刀を買い求めました。
「実用性のある二尺三寸、大ぶりの無銘」
「おそらく清麿だと見ている」
※清麿ではないと思いますが、とりあえず清麿と呼びます。
清麿は「刀剣復古論」の賛同者の一人で、実用性のある刀を打つことに定評のある刀匠です。仮に清麿でないにしても、そういう実用性のある刀はユキカゼの求めていた条件に合致します。
そして彼女は清麿を「拵え」ました。
※「拵え」とは日本刀の外装や作りのことを指します。購入した直後は白木の鞘ですから、切り合うためには鍔やらいろいろと付けなければならないのです。
刀に限らず、服装や準備全般に使う言葉でもありますが。
しかしこの「拵え」、実用の域から外れるほどには金をかけていたようです。
「目抜きも凝ってる。相当、金がかかっていますね」
五木は清麿を見てこう評しました。
※「目抜き・目貫」とは握る部分、柄に取り付ける金具ですが、往々にして華美なものを取り付けたりします。おそらく清麿のそれもそうなのでしょう。
実用性にほれ込んだはずの刀に対して相反する装飾はちぐはぐにも見えますが、広義に見た場合、刀というものは切るだけの道具ではないということは鳥の刀を見ればわかります。そもそも見てくれが良いに越したことはないでしょう。
そしてそれが、この時点でのユキカゼなのですよね。
研ぎ澄まされた切ることに特化した刀こそ至高であり、己もそれであると言うのであれば、闇討ちでもなんでもしてハルカや五木の血を清麿に吸わせてやれば良かった。
それを正々堂々だなんだと言って場を整えてやる様子は、鞘柄、鍔に目貫とこだわって「拵え」た清麿のようで。
対して五木。
彼が腰に差していたのは「薩摩拵」。初登場時のサブタイトルにもなっていますね。薩摩拵えは薩摩に伝わる示現流の太刀打ちに沿うように拵えられたもので、無骨・実用的であり、柄は太く長く、目抜きをあまり付けないのが特徴です。
実に五木らしい。そもそも五木は人生観を薩摩拵えになぞらえて語っていますから多少は自覚的といいますか……薩摩隼人の在り方がそうなのかもしれません。
しかし、いくら実直・実用的とはいえ抜身の刀のままではなく、使いやすいようにそれなりに別の形にも拵えらえており、五木でいうならば「抑制」のようなもの。これは英彦に潜入するときや、その他の任務の障りになるということで方言や訛りを抑えていることなどに表れている気がします。
そんな彼が方言丸出しで吠えたシーン、最後のユキカゼらを見送るところですね。あれは余計な装飾を捨てて、彼の本来、薩摩拵えが見えた瞬間でした。
まぁ少しばかり剣をかじった人間として、こう見たら面白いなという勝手な妄想でした。
※妄想ついでに、清麿は山口・萩で刀を打っていた時期もあるようで、雪子の国の舞台と共通させているのかなと少し思ったり。
以下、小分けにしてストーリーの感想を。
〇冒頭~牢破り(最上川)まで
山から下りたハルカとユキカゼ。そのまま都に行くのかと思いきや、そうは問屋がおろさない。何度尋ねようとも暖簾に腕押しの官側にしびれを切らして荒ぶるユキカゼは、またこいつ何かやらかすんじゃないかな、と思わせてくれますが案の定でした。
ハルカにやめろと言われているのにも関わらず役所に押し入り、まんまと罠にはまり、五木に敗北。正々堂々正々堂々……デジャヴですね、越冬編でこの展開見ましたよ。
しかしこの愚かさが物語を動かす原動力であり、「心の赴くままに動いてこそ」をモットーとする彼女らしいです。あの越冬で何を学んだのかと思わないでもないですが、何も学ぼうとも変わらない変えられないものもあると思うのですよね。先の話ですが、猪の戦いで正論で諭すハルカに対して「全て変えられると思わないでいただきたい」といった言葉にはこれが感じられました。
また、どこか中途半端だからこそ五木もユキカゼに対して戦いを挑めたとも思うのです。甘さはつけ入る隙と言えると言いますか。
さてこの五木。
敵として現れ仲間に加わる彼の存在は非常に大きかったです。
これまでに登場する人間は、権威者か一般人、同じ目線で相対することはなかったのですが、五木はそれなりに強く賢く分をわきまえている。
賢さがあるからハルカと話ができ、小難しい話に辟易するユキカゼに対して嚙み砕いて理解を促すことができる。
化けふたりの間を取り持つ、橋渡し的な立場は一見すると柔軟性があるように感じるのですが、私は必ずしもそうではないと思うのです。
彼はもっと不器用で、実直で、ただハルカとユキカゼが彼に嘘をつかせなかったからこの関係性は保たれたのではないかなと。
「五木は賢いよ」
賢さと分別がハルカからの信頼を得て、
「あれは真っ直ぐなものを持っている男ですよ」
「心に優しさのある男ですよ」
実直さと優しさがユキカゼからの信頼を得た。
ただ賢く分別があるなら、化け二人の疾走に付き合ってへばるまで頑張りませんし、根に持って恨み節を言うこともありませんしね。タニシについての俳句をからかわれてすねるところも人間味がある。
このような冗談を言い合える、多少けなすようなニュアンスを含んでいても許容される関係性は実に微笑ましく、これを構築できたのは、五木の真っ直ぐさあってのことだと思うのです。
〇最上川(猪探し)
面白いなと思ったのは川下りをしている最中の猪について語る船頭の発言。
「空にかがってた月、見えなぐなるような影さかかって、がらがらあ! と山さ崩れたかど思ったんだと」
「したらば、夜に目玉つけたようなのが、表さうろついて。とでも生きた心地しなかったと」
これは比喩表現を多分に含む俳句のようなニュアンスを感じ、このシーンのすぐ前に五木がタニシを題材に一句詠んだことに繋がるのかなと少し思えたところです。
俳諧を嗜むとは思えない立場の人間がこれを述べたということは、俳諧めいた表現が人の気持ちに根ざした原始的なものであることだと思うのです。
例えば、官の立場、化けと人間の違いなどですべてをさらけ出して言うわけにもいかない状況の五木が俳句の形で詠んだタニシの一句は、滲み出た彼の気持ちなのではないかなと。
さて、猪を探す段階になり、ハルカとユキカゼの考え方の違いが浮き彫りになってきました。
越冬編では村でのことを知らないユキカゼに対してハルカが教える、師弟関係が無意識的に醸成されていましたので、ハルカの中に「自分が師である」という価値観が出来上がるのは当然で、それが山を降りてもなお残るのは自然です。神通力、膂力、知識、すべてにおいて彼女のほうが勝っているのですし。
対してユキカゼは違うのです、山を下りたならばハルカを供にして政府に戻るのが本来ですから。当てが外れて猪退治のミッションに従事してはいますが、それにしても「剣を取り戻す」自分が主役なのにハルカがしゃしゃり出てくる、出が過ぎている。
ハルカのことが嫌いなわけではないのにやきもきする。
そうして、あなたは指示を出さないと気が済まない存在なのだ、と指摘されたハルカの発言がこれです。
「そんなことは、ないよ」
ここは不覚にも笑ってしまいました、口をすぼめる立ち絵といい、もうすねている様がありありと伝わってくる。
出しゃばりだ、いいや力量不足だと侃々諤々お互いの議論は強引にハルカに打ち切られてしまい、なんだかユキカゼが可哀想に思えて。ハルカの正論はどうにも息苦しいなぁと。
まぁこの議論はこの後も続いていき、五木を交えることで変化が出てきましたから、二人だけではダメだということを印象付けたシーンとも言えます。やはり五木の存在は大きいですねぇ。
そして押し切られる形で村々に調査に行くわけですが、当然うまくはいかず、なんだかんだハルカの言うとおりになっていくのも悔しいもので。
ちなみにこの調査に訪れた村で印象的だったシーンについて少し言及を。
ハルカ「親を捨て、幸福になる道はなかったのかな」
名 主「子が親を捨てることなど、出きることではね。それは道に外れたことだ」名 主「おら達は畜生道とは違う」
名 主「老いた親を負ってでも進むのが、人ってもんだ、正しさってもんだ」
名 主「己の血をすすらせてでも親を助けるのが、人ってもんだ」
これは、狼谷、ハルカが守っていた村に対する強烈なアンチテーゼです。
あの村で願われ生まれ、長年にわたり務めてきた御犬様としての役割。そしてそれが残される家族や仲間のためであると信じて、粛々と従い、また見送ってきた村人。
彼らが人としての道に外れた、畜生に同じと言っているようなものなのです。
住環境も違いますし、裕福さも違うものを一概には比較することがそもそもナンセンスかもしれませんが、普通そんな異国に等しい環境を想像はできないのです。
これは「雪子の国」で都会と田舎の対比の中で、そこに住む人のリアルとフィクションを描いていたことを思い出すシーンでした。
都会に住む人が山中や離島の生活をテレビ越しに見るのと同じく、この村の人に、狼谷の厳しい越冬光景を説明したところで「大変だね」しか思われないでしょう、ましてや老いた親を犬に食わせるなど畜生の所業だと感じるかもしれません。
ですが、狼谷がそうせざるを得ない環境で、それを守ることでコミュニティを維持していたことと同じく、この村でもその価値観を守ることでこそ彼らのコミュニティを維持しているのだと思うのです。
「恐らく、この男が髷を落とすことはないのだろう」
名主に対する感想ですが、髷とは本来は武士の象徴、すなわち権威をあらわすものです。この価値観を譲ることはない、ということなのでしょう。もちろんどちらが正しい正しくないということではないのですけれども。
またこの一幕、現代に例えれば、介護施設に両親を入居させようとしたら「在宅で家族が面倒見てやるのが子供の勤めだ」と責められるようなもので、なんとも辛い。
ハルカもそのような辛さは感じていたと思うのです。
ですが、それを名主に言ったところで何にもならない、だからぐっとこらえて、留めた。
ユキカゼの言葉を借りれば、賢さや利口さで心を抑えたのです。
しかしそれではハルカ自身の心が割を食って、損をしている。
ここだけを見れば、狼谷を出ても御犬様・神であるハルカのまま変わっていないのかなと一瞬思うのですが、実際は心を抑えて耐え続けているばかりではなく、この気持ちをわかってほしいと滲み出ている描写があるのですよね。
「私は心のない、冷たい女ではない」
「ハヤはちゃんとわかっていろ、いいな?」
ぶっきらぼうなセリフですが、こういった表現が苦手な彼女らしい。実にいじらしいシーンでした。
そういえば雷に怖がるユキカゼは可愛かったですね、何の気なしにこういう描写挟んでくるのがまた卑怯なんですよねぇ。
〇猪との遭遇
”猪現る”の報を受け、人夫を伴い山中へ。この時のCGがまた何とも言えない。
前方にハルカ、その後方両サイドを固めるのがユキカゼと五木。前回の問答はともあれ、指揮をするのもハルカですしやっぱりこういう布陣になってしまうのだなと。
この山中で印象的だったのは五木ですね。
これまであまり感情を表に出さなかった冷静な彼が、のっぴきならない事情により声を荒らげて急進論を叫びました。もちろん合理的ではないのでハルカの正論を叩きつけられるのですが、そこに割って入るユキカゼがとても頼りになる。
「それは意地が悪いというものです」
「最後まで正しさで囲い込めば、息が出来ません」
辛辣な一言。
「正しさはね、そこから外れた心には苦しみです。辛いものです、きついものですよ。正しさに向こうを張られるなんてのは」
正しさを一義とするハルカに対して「心」を説く。越冬時の問答を思い出させてくれる一言ですね。
何より、このやり取りは五木を助けると同時に、落としどころを見つけさせる妙手でした。
すねるように「そうだろ、私は間違ってないだろ」とハルカが嘯き、それに対して「腹が立つものなんだ、御仁といると」と言葉を乗せる。ハルカがひとまず泥をかぶってくれるならそれに甘えましょうと、そして五木もそれを察してひとまず心を落ち着けるのですね。
1対1だとどうにもならないやり取りが3人になるとこうも人情味を感じる一幕に変化するものだと本当に驚きました、見事。
その後の撤退についてもユキカゼに仕切らせてくれましたし、前回のやり取りも無駄ではなかったのかなと。
あとは人夫ですね。
着物を取り戻しに死地に赴く彼は、金銭及び物質的な要素に支配されている、とすれば実に愚かですが、それは何に置き換えても同じだと思うのです。残される村人のために命を捨てるとか、友人のために強敵に挑むとか。
ハルカはお前が賢明だ、死んだ人間が愚かだと断じましたが、それは彼女の価値観です、狼谷のしきたりがこの周辺の村では悪習に映るように。
大事なことは当人が決断して納得したということなのでしょう。
このシーンに限らず牢屋を出てからしばらく、ユキカゼとの問答然り、村人の発言然り、ハルカは異なる価値観をしきりにぶつけられているのが見て取れます。
ユキカゼの葛藤や愚かさ、意外な着眼点や聡明さなどのほうが分かりやすく多く描写されるのですが、いつもぐっと飲み込むハルカのストレスも相当にたまっているのでしょうね。
まぁすぐ後に爆発していましたが。
〇猪の正体、最後の問答
猪が蟲毒を付けられていること、その性質がクマに近いことなど明かされたのはなるほどと腑に落ちました。自分の獲物に執着するところや、二本足で立って威嚇するところなどどう見ても熊だろと思っていましたので納得。
また神通力、それを吸う「蛇」の力。ひいてはアカハギの存在。今までの国シリーズに繋がる要素が登場、敵の存在が明らか・強大になり物語のスケールが広がりました。
しかしそれはユキカゼにとって戦力外通告のようなものです。
ハルカは造りが違う、生来の物だと事実を突きつけ、ユキカゼの言動からすでに猪と相対する熱が無いことを察して諭す。
今までの問答とは違う、明確な壁があるのだから感情ではどうにもならないよと。
もちろんユキカゼだって正攻法では死ぬようなもので、どうにもならないことはわかっているのですけれども、正論で諭されても納得できるわけがない。五木を引き合いに出されても余計に自縄自縛になるだけです。
越冬のことを持ち出されたらもう限界です、そりゃああの日々で得たものはたくさんあったと思いますけれども、それまでのユキカゼすべてをハルカの正論で上書きできるわけもない。
だって、そんなことをしたら「賢さや利口さで心を抑え」て、「ユキカゼ自身の心が割を食って、損」してしまうのです。
越冬編で彼女が言った「心の赴くままに動いてこそ」という言葉は無くなって、彼女自身が迷子になってしまう。
それは例えるなら、「もしも着物を取りに行かなかった人夫」のようなもので、猪に殺される代わりにハルカがユキカゼを殺すようなものです。ユキカゼ自身に賽を振る権利が無くてはならない。
と、言うようなことを心のままにハルカにぶつけたら逆鱗に触れたのですよね。
まぁこれまで散々言われ放題だったのですから怒るのもしょうがないのです、狼谷では明確に否定してくる人間もいなかったのですから免疫もなさそうですし。むしろここまでよく耐えたもの、「心の赴くままに動いて」怒髪天を突いた彼女は久しぶりですよね、これまで滲み出ていた気持ちが大噴火したようでいっそ清々しい。
もしもハルカとユキカゼ二人だけだったらこれで喧嘩別れとか、何とか猪を倒せても自然消滅などしていきそうです、後味の悪い「決別」ですね。
しかし二人の間には五木がいます。
「強すぎるのだよ、あの人の理屈は。こっちを生かさすことがない」
「日頃考えてることの半分も喉からでなくなる」
「語れば語るだけ、こちらの本丸に登る取っ掛かりを与えているような」
「喋る側からそれを捕まえて、ぐんぐん詰め寄られるようなね」
「何かあるなら言葉にしろって言ってな、口にする側から引っくり返して来るだろう?」
「毒みたいなものだよ、あの人の理屈は」
「正しいだろ?間違ってないだろ?含むと、こっちが壊されていく」
ユキカゼの言葉を飲み込んで、共感して。
「小さきものの卑しさでしょうか。どれだけ偉大でも、信じることができなければ恐ろしいものです」
「生来そうだったのが、現状の立場になって拍車がかかったのかもしれない」
「私はあの方の正しさや理に、振り落とされない自身がない」
ハルカへの畏れを口にして。
「あの方も私のような凡夫とは、やはり違う」
「側にある巨大なものに隠されてはいますが、本来は才覚のある方ですよ」
「貴方が思っているほど、小さい方ではない」
ハルカへはユキカゼの長所を伝え、諭し。
ハルカもユキカゼも納得はしきれていないのでしょうけど、五木が間に入ってくれたことでひとまず落としどころが付いた。先の山中ではユキカゼが務めた役目を五木が務めたのですね、化けと人間と化け、なんとも絶妙なバランスです。
〇猪との決戦
まず、ユキカゼもハルカも着物で戦いに挑んだのは思わず唸ってしまいました。
猪は着物の匂いに釣られているのでそれを餌にするのは道理なのですが「女性(雌)」というものをあまり意識づけられていない二人の着物姿を見ると、あぁ、そういえばそうだったのだな、と思い出させてくれるのですよね。
ことさらに女性を匂わせず、しかし忘れさせず。それが何に繋がるというわけではないのですが。
さて、猪との戦いでユキカゼの取った戦法は「罠」でした。
これまで正々堂々を掲げて敗北を重ねてきた彼女が、自分の意志で戦法を変えてきたことは驚きで、特にこだわり続けた「刀」ではなく「竹槍」を武器にしたことは大きな決断だったと思うのです。
しかしそれは剣を捨てることではなく、だからこそ剣も猪に食い殺される瀬戸際でユキカゼを助けてくれたのではないかなと。
「ずっと、剣が私を支えてくれたんだ!」
ハルカに叫んだその一念が結んだような気がして。
もしも剣を構えたまま敗北、食い殺されたとしても、剣を命として生涯を生きた彼女にとっては、多分それはひとつの幸福で。
この1年足らずの間で得たものも彼女の中には残っているのですよね、「私を変えようとしないでください!」と拒絶しつつも信頼、尊敬、etcetc……、影響を受けないわけにはいかなくて。
でもハルカの名前をここで呼ぶわけにはいかない意地があって、嚙み潰しても隠しきれず滲み出したその気持ちにハルカが応えたとき、本当に悔しい気持ちになりました。
こうあるべきだと思いますし、こうならざるを得なかった。やれることをやりつくした末のこの結末なので不満はないのですけど……なんだか悔しいですね、理屈じゃあ無いのですけど、やっぱりユキカゼが好きなんだなということで。
〇決戦の後
オイラハステラレタ、オイダサレタ
何故、オイラヲコサエタ
何故、コサエタ。何故、ステタ。
今わの際、猪の言った言葉です。
化けというものは、人間と違い家族もなくただ一人。だから存在意義は自分で定めなければならない、とユキカゼはハルカとの問答の中で述べていました。
人間の親は子供に無条件無限大の愛を持っていると言い切れるほど私は綺麗な心はしていませんが、それにしてもやはり血を分けた家族は切れない縁があるものです。化けに生まれついての縁が無いならば、作り築き上げるしかないということかもしれません。
そもそも私は、化けという存在は自然や人間、誰かがその役割、存在を願ったからこそ生まれたのではないかと思っているのですが、この猪も村か山かどこかで願われて生まれた、こさえられたのでしょう。
しかしすべての化けが願いに応えられる存在とは思えません。ハルカは心を律して、時に村人と触れ合い、彼らにとって理想的な神であったのでしょう。
しかしユキカゼはどうだったでしょうか、掃除もできず、神社の手伝いをすれば物を壊す不器用な様。まぁ彼女の生まれた場所はそこまで困窮していませんでしたし、狐の化けに求めることも村全体としてはさほどなかったから象徴としてそこにいれば追い出されることはなかったのかもしれません。
それにしても役割がないから、剣に存在意義を重ねて生きてきた。そうして自分を定めて来たわけです。
では猪は?
彼に求められた役割は何だったのか、それを果たすべき能力は、精神的資質はあったのか。わかりません。追い出されたということもどのような事情なのかわかりません。
ただ、求められてもどうしようもできない、他人から認められないことは苦しく、哀しいことだと思うのです。
その感情が、誰に対しての怒りだとか、哀しみだとか、いろんな感情がごちゃまぜになっているのが猪の「怒り」であって、そう見せているのは彼の「意地」です。
これに対して五木は「怒り」を感じ、ハルカは「怒りではない」と同情を示し、そしてユキカゼはいいや「怒り」でありそれを暴く権利はないと言ったのですよね。三者三様の感じ方ですが、それぞれのバックボーンを通してみると実に腑に落ちるところでした。
また蛭に対する涙もこれに通じているのですよね。
「明日の糧にもなれず、誰の役にもたてず」
「ただ邪魔とされて死んでいたったのじゃ、あんまり寂しいじゃないですか」
「何もなくて、ただ居なくなくなったのじゃ、一体、何のためにーー」
「意味が」
「意味が欲しい……!」
「命に、意味が……!」
蛭も猪も自分が生きるために他者を害していましたので、これに対抗する力で排除されるのは道理です。自分も誰かを殺して、場合によっては殺されて。ユキカゼにとってみればどこか同一視して見てしまうのでしょうね、ここで涙がこぼれるのが実に彼女らしくて、女々しくて、でも大好きです。
そしてこれに対するハルカの言説たるや、ぐちゃぐちゃの感情を四角四面にまとめようとするいつものハルカ様。生きているものは狡いとまとめるハルカを見ていると「狡いのはハルカ様だろ」と叫びたくなります。
しかしユキカゼの返しが秀逸で。
「いえ、たぶん違うと思います。私のは、そんなに入り組んだ話ではないです」
いつもは「??????」となる局面なのに、バッサリと断じる一言。たまらないですね。
「私は感心するような、いい話をしていると思うのだがなぁ」
「まず感心させようとする下心がいけませんよ。浅ましい」
猪と戦う前の暖かな三人の関係性が帰ってきたようで、見ていて本当に微笑ましかったですね。
ちなみにここでユキカゼの感情を理論でまとめようとしたこと、また猪の感情をすべて語らず「怒り」と断じた一幕は、タニシの俳句の解説をするユキカゼに対しての五木の言葉、「ユキカゼ殿、野暮ですよ。皆言ってしまえば」を思い出したところ。
〇決別
最後に五木に会おうとするユキカゼと、合理的に見てそれを止めるハルカ。もちろんハルカに情がないわけではないのですよね、いつもこういう時はわかっていてもぐっと堪えている。そんな「冷たい女」ではないともわかってほしくもある。
いつもよりすんなりとユキカゼの行動を認めてくれたことも、この1年で変わったことなのでしょう。
いざ赴いてみれば狐の蜂起に関すること、会えない五木、盛られる薬、詰める兵士。五木への不信感、でも信じたい気持ちなどが渦巻いていく様子は、暖かな三人を思い出して切なくなります。
しかしここで自棄になるユキカゼに対して「愚かでいいんだ」と慰めるハルカは良かったですね。
最後、五木と再会、別れ。
五木に関してはいろいろありすぎますが、特に印象深い一幕だけ。
「俺がここに来れば、姉様が喜ぶ気がして」
「姉様方の元に帰ればね、喜ぶだろうと思って。嬉しさで笑うだろうと思いまして。そうしてみたい気持ちがぐらぐらっと沸いてね」
帰る、とはその人が帰るべき、居るべき場所です。本来であれば「官」が彼にとっての帰るべき場所で。
しかし五木にとってはハルカとユキカゼと居ることが彼の居場所、つまりリアルになってしまっている。彼は官の人間なのだから、官をリアルにした方がよほど生きやすいでしょうに、天秤が傾いてしまったのです。
雪子の国で祐太郎は「いつか君の身体が温かな場所にいったとき、君が眼を背けた何かが遠くで凍えている。それを耐えられるかどうかだ」と説きました。
五木は耐えられなかったのでしょう。
〇大正へ
「雪の字」の呼びかけで目覚める凛々しいユキカゼ。
ハルカがこう呼ぶのは想像しにくいので、大正で近しい仲間ができるのでしょうか。もしそうだとしたら、ハルカは側にいるのか。
仮にハルカと袂を分かっていたとしたら、それも含めての「決別編」なのでしょうか。
長い時間の中での出会いと別れをここまで見事に描いているのは本当に見事というしかなく。100年のビジュアルノベルの名前に違わない、本当に先が楽しみな物語です。