ライターの筆致をこの上なく重用した作品で、“それぞれ”が理想的に仕上がっていると思う。丸谷秀司氏が手がけたルートはPULLTOPらしい雰囲気を醸し出しつつスムーズなプレイが出来た。健速氏はメッセージ性を重視した作りで人の立場の是非を問い、ユーザーに考えることを求めた。一言で評するのはとても難しいのだけれど、言うなれば、携わった人々の技量の全てが生きた作品ではないだろうか。
長い作品が必ずしも良い作品とは限らない。今まではそうだった。だから、“かにしの”はこれまでに例のない特異な作品かもしれない。長さというわけではなく、“形”としての話だ。ライターの性格がそのままシナリオに表れているので、これをひっくるめて共通の話と見るのは些か作品に対して厳しすぎる。分校系を丸谷氏が担当し、本校系を健速氏がそっくりそのまま担当していることから、単純に2つに分けて書くことにする。
(以下の感想は、『こなたよりかなたまで』、『ゆのはな』などの内容を含みます。作品自体のネタバレはありませんが、嫌な方は参照を避けていただきたく存じます。あと毎度申し訳ないんですが、いつもよりも極端に長いので、ざぁーっと読み流すか、そのままページを閉じるくらいの勢いで構いません。続きは以下です。)
【丸谷秀司】(分校系)
主人公は前作『ゆのはな』の草津拓也とよく似た人格者である。
仁礼栖香
ニヤニヤというか苦笑いというか・・・・・いずれにせよ、終始楽しくプレイさせてもらった。こういうこそばゆいシナリオはなんともいじらしくて病み付きになる。というか、見てるこちらが恥ずかしい気持ちになる。この上ない上流の人間とこの“下”ない底辺の人間の「アホくさい」恋愛劇と言えば、それはもう身も蓋もない答えになってしまうが・・・実はそれがいい。
蝸牛が這うくらいの速度でしか進展しない仁礼栖香こと“すみすみ”と司の関係に、プレイヤーは、さぞやきもきしたことだろう。だが、それくらいの魅力が彼女にはあると思う。一途で、とても不器用で、遠回りをすることしか知らない彼女の意固地なところ・間抜けさ・ひたむきさ・生真面目さ・その反面にある愛らしさ等等、その全てがいとおしくなってしまうユーザーもいたことだろう・・・、たぶん。そのせいだろうか、回想シーンが飛びぬけて多いのは気にならないと言えば嘘になるけれど、なんだろうなー・・・・・・そのギャップがグッとくるというか・・・・・・許せてしまう。そして、遠回りして遠回りして遠回りした挙句の果て、やっとゴールインした彼らの行状を見て、「おまえらバカだなぁ。でもヨカッタネ!」と称えたくなるほど甘酸っぱい気持ちでいっぱいになった、いい意味で。
救いようのない朴念仁であるすみすみと、かなり軽薄者のお上り教師滝沢司という釣り合いがとれない両者だから、非常に軽いテンポで物語が進んでいるように感じる。実際はもっと時間がかかっているのだけれど、そんなことは気にもさせない。そもそも、丸谷氏のセンスからすれば、その軽薄さというものがどういった形であれかっこよさに繋がれば、それはしてやったりなわけで。そう言えば、『ゆのはな』の草津拓也も相当バカをやったし、司とそっくり。この主人公は丸谷氏と健速氏の大きな相違なので、その辺は‘らしさ’が出ている。
ま、それは置いとくとしても、姉妹の不仲という一見重いはずのシナリオが、味付け次第でこんなにもライトな雰囲気を楽しめるシナリオに変貌するものなのか。あんぐりと開いた口がふさがらない。・・・畏れ入りました。雑学的な箇所の多さといい、(以下略)やら(略)やら早口言葉からも、この上なく丸谷氏のよさが表れていると思う。
相沢美綺
原敬ではないが、どちらかというと平民宰相的なシナリオ。驕り高ぶらない人たちの心意気溢れる物語である。“みさきち”らしい包容力のある展開となっていて、ライトな雰囲気で首尾一貫している。決して心理の奥深くを衝くような言動はないし、内面の描写も多くない。舞台設定の補完という意味合いもあるこのシナリオは、受容する側としてもそう斜に構えず、流して読むくらいの軽い気持ちでプレイしてほしい。色々と考えるのは本校系のほうで。なにぶん、ワンボ、みさきちパパ&ママのアホな漫才が多いシナリオなので、『ゆのはな』で言う穂波シナリオと性格が同じという点で評価したいところだ。若干こちらのほうがインパクトに欠けるきらいがあるが、『ゆのはな』において穂波の影響力が存外に強かったので、これは仕方のないところだろうか。
これは普通の一家族の普通のお話である。変わっていたところは周囲の環境だけであった。その中で、みさきちの人物像は、人の気持ちを推し量れる素晴らしい女性として描かれていたように思う。母性愛みたいなものが彼女を纏っていた気がするのだ。とくに件のCGからはそれが伝わってきた。無論、美綺は素晴らしい女性として振舞っていたが、父親と母親なくして彼女の人格はなかっただろう。とくにこのお話は父親のかっこよさが光るのだ。自分の娘のことを思って懸命に生きているし、だからこそ子供を裏切るようなことはしたくないと考えていた。2人が美綺に与えた影響力は計り知れない。彼らが頻繁に物語に登場するから、シナリオが映える。ラブコメディだけに終始しないのがいい。
ただしこちらは、前述したすみすみの魅力が半減してしまうという二律背反的な要素を持っているので注意されたい。シナリオをプレイした限りでは、彼女が融通の利かない不器用な人物にしか見えない場面が多々ある。物語の全容を徐々に紐解いていきたいのであれば、栖香→美綺が正しいのだろうが、初見で栖香を気に入った人にとってはあるいは物足りなさ・不満を感じるかもしれない。
榛葉邑那
3つ目つまり最後の最後にプレイしたルート。他に比べてかなり多くの伏線が張られているのが特徴的だった、という意味では最後にプレイして然るべきシナリオだと思う。
人は四つの窓を持つ。表向きの顔は分かっていても、裏の顔は分からないこともある。その中には、人に知られたくないことだってきっとあるはずなのだ。そして、そのことは全ての人に通じる、たとえこの作品の登場人物全てでも。このルートについては、何を書いても物語の核心を衝いてしまいそうなので、あまり多くは語れない。ただ一つ物申すならば、僕は榛葉邑那も鹿野上渉も蘆部源八郎も李燕玲も、誰一人として責めることが出来ない・・・これだけははっきりしている。強いて言えば一点だけ、滝沢司の無力さが僅かに目立っていたのが気にかかった。人というのは、自分が正しいと思っているから争いが起こるし、だからこそ人の頭を踏みつけてまで上に這い上がろうとする人が出てくる。伏線には頷けるものもあったが、一社会の醜部を特記しているため少々陰鬱な気分になった。エピローグに至る行程がおおよそPULLTOPらしくなかったと言える。
そういう状況なので、“統一性”という観点から見れば、このシナリオは明らかに分校系の足並みを乱していると思われる。物語の補完のためのシナリオととるか、単に一つの重いシナリオととるかはプレイヤーの裁量次第なのだ。他の2つと全く味わいが違うので、僕もプレイ中に 「これは本当に丸谷さんのシナリオだっけ?」とライターのHPを見直してしまった。たしかに、物語で落としてきた全ての部分を回収していくような顛末には驚きを隠せなかったが、ちゃんと部分部分を張り合わせているのだから、根本的なところは満たしていると思う。前述の一点を除いてとくに目立って悪い要素はなかったし、むしろよく補完したなと思う、奏とか。だから、これはこれとして評価できるのではないだろうか。
【分校系まとめ】
こちらはPULLTOP特有の(邑那ルートは微妙だが)ややお手軽な雰囲気が楽しめる。本校系を担当した健速氏のシナリオは、毎度のことながら人間の本質を衝いた心に重い話が多いので、あまり気乗りがしない方は、こちらを楽しまれるといいだろう。本校系とは違い、滝沢司という人物の背後にあるどす黒い記憶の多くは問われていない。言わば草津拓也のようにひょうきん者になっているから、気後れすることなく、読み進めることができると思う。萌えゲーとしての質、エロゲーとしての質を分校系に求めているのはHシーンの多さから伺える。たぶんそういう意図の下で、本校系との回想の個数に歴然とした差が生まれているのだ。ただし、攻略に難があるので、これは攻略サイト等を見つつ正確に順路を踏んで行くことをオススメする。普通に考えて、栖香→美綺→邑那の順で物語の視野は広まるので、一応そちらを推奨しておく。が、あくまでも推奨であるため、とくにすみすみ狙いのユーザーはこの限りではないことも併せて明記しておく。
しかしまあ、丸谷氏は流石に貫禄がある・・・。話自体は軽いものが多いが、ノリで全てをぶっ飛ばす快走劇に加え、シリアスな展開を引っ張ってくるという強引さ。にもかかわらず、上手く収めているのは脱帽の一言。安定して高い実力を持っているライターと言える。
さて、そろそろ分校系そのものの評定はここまでにしておくが、こちらのシナリオから考えた事をいくつか。
こちらのシナリオは本校系より下に見下されがちであるが、果たして直感で上下を判断してよいものなのだろうか。・・・というのも、PULL TOPが求めているのは、過去の作品から言って‘なんでもなくないことをなんでもないことに仕立てること’ではないか、と僕が常日頃思っていたからである。プレイしたものに限って言えば、『夏少女』は少女達の肉体的・感情的成長を毎夏3年間のスパンで平易に描写したものであったし、『お願いお星さま』と『PRINCESS WALTZ』は、もはやファンタジーと思えるような出来事を最終的にドタバタ劇で纏め上げてしまっていた。とくに後者に至っては架空世界で物語せず、現実世界を舞台にシナリオが進行したのが不思議でたまらないほどだった。この件について、ユーザーが大いに肩透かしを食らったことは記憶に新しい。そして、『ゆのはな』に関しても、ギャグパート以外は過ぎ行く日々の些細な対人関係の変化を描くのみに留まっている。
今回も、上述した3つのシナリオというのは舞台設定の割に無難な話として終始していた気がする。物語としてぶっとんだところは何もなく、平坦な学院(ある意味トンデモだが)の日々の中で生まれたちょっとした変化を拾い上げて、僅かな起伏でもって最後までもっていった。そして、その結果としてこの3つのルートが選択された。だから、丸谷氏が担当した分校系のシナリオこそ、その出来はともかくとしても、普通のお話として映えさせようとするブランドの意図が秘められているように思えるのだ。
【健速】(本校系)
主人公は『こなたよりかなたまで』の遥彼方とよく似た人格者である。
風祭みやび
他人の持つ地位や権力にすがりつき、そのお零れにあやかろうとする人間はごまんといる。そして、その人を尊敬するのではなく、表では恐れ、裏では軽蔑している人間のなんと多いことか。弱者が強者につくのは道理であるが、これは非常に矛盾した構図である。欲望の相関関係は醜いもの、善人が入り込める隙など存在しない。
物語はこうである。お付きのメイド以外は誰にも愛されず、絶海の孤島の山頂に立っていた少女に手を差し伸べた青年がいた。彼は、少女を山の頂点と見ず、横から向き合って話そうとした。少女はそのうち青年に惹きつけられ、知らず知らずのうちに手を伸ばしていた。青年も手を差し伸べて精神的な絶望から少女を救い出した。そして、青年と少女は相思相愛になる。だが、青年は彼女の幸せを願うゆえに、自分を鬼にして彼女を拒絶する。自分には彼女を幸せにする“権力”がないからだと・・・青年は苦し紛れに言うのだ。
形のない愛というモノは、儚く、力強く、何にも変え難い。しかし、地位や財産、権力といった俗物とはかけ離れたところに、それは確かに「在る」。愛をばら撒ければ支配できるほど世界は生易しいものじゃないが、愛なくして人は生きてはいけない。権力が何ほどのことがあろう。幼き時分に捨てられた過去を持つ青年が愛を語るのは並大抵のことではないが、彼は産みの親を反面教師として、彼女の幸せを‘裏の愛情’でもって突き放した。この事にメイドは怒った。自分の事を棚に上げて何様かと怒った。結局、それがお互い望んでないことであると気づいた時、2人は結ばれる。「愛より強い力はあるか」と問われれば、「いや、ない」と言える。
かっこ悪く泥をかぶる姿がかっこいい。こんな真似、おそらくたいていの人間には到底無理であろう。だから、よくも悪くもかっこいいと感じてしまう自分がいる。
鷹月殿子
人には立場というものがあり、それは半永久的に付きまとう。立場は、肩書きあるいは交渉のカードとして大いに使える時もあるが、殿子の場合、高貴な家柄という立場は呪縛でしかなかった。両親に愛されない苦痛は、愛されてない人(愛されなかった人)も、そして愛されている人(愛されていた人)も推して量ることが出来る気がする。それがなくなれば、忘れてしまえば・・・・・・、自分の中のどこかがぽっかりと抜け落ちてしまう気がする。
うーん、なんだろう・・・このプレイ後のやりきれなさは。多分、この物語に関与した人物というのは、全員が全員思い違いをして行動が空回りしていただけなのかもしれない。司と殿子は仮の父子関係でもってそれ以上の関係をもつことを拒んだし、理事長にも最初から打ち解けていれば、第8章(司の悪巧み)は存在しなかった。鷹月夫妻にいたっては、惜しみなく愛情を注げば殿子は素直に跡を継いでいただろうから・・・・・・血に縛られた二人を責めるというよりも哀れむほかない。
殿子「どれだけ願おうと、どうにもならない事って、有ると思う」 (第7章 それぞれの闇)
そうなのだ。どうにもならないことはたしかに「有る」。が、愛するということはいかな状況において罪と言える?好きな人を好きと言って何が間違いだと言える?このシナリオは、今でも忘れられない『こなたよりかなたまで』の一文を髣髴とさせる。つまり
『在りたいように在るには、他人を考えずに行動しなければならない。
しかし、おおよそ人間は他人の感情を無視して行動することを良しとしない。』 (こなたよりかなたまで・演目紹介より)
というフレーズを最も分かりやすく現出したと思うのだ。もし健速氏が一定のテーマ性を作品に吹き込んでいるとしたら、それが如実に表れているシナリオはこれだ。人の在り様を飛行機にたとえ、自由な空-宇宙を人生の在り方とした。飛行機は何度でも作り直せるが、“そら”は半永久的にそこにある。幸か不幸か、挫折して心が折れてしまう人は多い。しかし、人は立ち直れる生き物であるから、四角い空など持ってはいけないのだ。
ただし、本シナリオでは肝心なところが抜けている気がしてならない。根本的な問題である家族間の不和を地の文の説明だけで端折っているのは如何ともしがたい。ここまで立ち入っているのだから、描くべきところはきちんと描いて欲しかった・・・・・・欲張りだろうか。
八乙女梓乃
人が退嬰を引き起こした場合、時として独占欲が強くなることがあるという。そして、思い込みの激しさゆえに好悪の判断がつかなくなり、関係が崩壊してしまう。八乙女梓乃はつまるところそういう少女だった。自分の檻に閉じこもって、他人のことを行動でしか読み取ることができず、一方的に誤解していただけだった。人が人と関わらなければ生きていけない以上、想いが交錯するというのはよくある事だと思う。人の考えを正確に読み取れる人間は絶対にいない。よかれと思ってやったことでも、当人にとっては全く意味を成さないばかりか、逆に嫌悪される場合も多数見受けられる。梓乃の葛藤は、まさに他人への強い不信感が引き起こした悲劇だった。だから、滝沢司が‘受け止め方’が類稀に巧い人間で本当によかったと胸をなでおろしたし、同時に少々抜けている人間でよかったとも思った。
梓乃「信じますよ?」
司「信じろよ」 (第11話 掴んでいるもの)
過去の事件が梓乃から奪っていったものとは『人を信頼』することだった。人は人と関わりあう運命にある。互いの信頼がなければ、人間関係など構築できやしない。
我々は、向き合ってはじめて人の気持ちが判る。梓乃が後ろを向いている時は司は彼女を親身になって世話したし、司が逃げていた時は梓乃が彼を抱きとめた。しかし、それは本音の会話ではなかった。お互いがはじめて向き合えた時、本音で語り合えるようになった。大事なのは相手を見ること。そうすれば、人は自然に互いが打ち解けあえるものなのだと信じたい。
【本校系まとめ】
健速氏が手がける作品のたびに『こなたよりかなたまで』を引き合いに出してしまいがちだが、これは対比せざるを得ないと思っている。僕自身、“在りたいように在る”というのが氏にとって究極の命題だと感じるからである。
男女関係の始まりが対等なのは勿論のことだが、対等の関係ほど腹を割って話せる存在もないと思う。本校系の物語というのは様々な切り口があると思うけれど、僕は、ぎくしゃくした関係から対等な関係(恋愛も含む)に至るまでの紆余曲折を描いたお話だと考えた。
みやびルートでは、従属関係つまり上下の関係を横並びの関係へと変化させた。
梓乃ルートでは、一方が後ろ向きの関係から一転、対等に向き合って話せるようになった。
殿子ルートでは、二重の視点があった殿子と司の目は一点に絞られた。
ヒロインズと司の立ち位置は三者三様だったが、そのどれもが最終的に手をつないでエンディングを迎えたことに変わりはない。『こなたよりかなたまで』をプロローグからエピローグまで横の人間関係を描ききった物語とするならば、こちらはまず縦に切り口を求め、徐々にその視角を水平にした物語と見ることもできよう。
【両ルート総括・気づき】
特筆すべきところが一点ある。それは、ライターの扱い方によって全く性格が異なる主人公を、躊躇いなく同じ舞台に据えてしまったことだ。これは既存の作品に対する挑戦だと思う。というのも、過去の作品の大多数がルート毎にライターを変えるにせよ、主人公の人となりは極力足並みを揃えようとしてきたからだ。今回のPULL TOPはその上を行っている。未知の領域なのかもしれない。
健速氏はともかくとしても、丸谷氏が手がけた作品のラインナップを見ると、そもそもゆのはな・かにしの自体が異端の部類なのであろう。しかし、こういうライトな雰囲気であっても地を固めたような文章を書いてくるのだから畏れ入る。個人的には本校系の主人公のほうが好きではある。というのも、僕が『こなたよりかなたまで』の主人公遥彼方を好きだから。自分以外の誰かの事を深く思いやろうとする行為が、どうしようもなく美しく見えてしまうのだ。こう言っては失礼だが、丸谷氏の作風は、健速氏のように、人の深奥を衝いていくことを意図的に避けている気がする。『ゆのはな』で日常を淡々かつ克明に描いたシナリオからも読み取れるように、そこには“イマを楽しむ”人々の姿しか捉えていないように目に映るのだ。かと言って決して実力がないわけではなく、日常シーンの連続だけで物語を構成していっているのだから、むしろ、実力がある証左と言ってよいだろう。これからも本作のようなライトな雰囲気の作品も手がけ、長くユーザーを楽しませてほしいと切に願う。
健速氏の仕事ぶりは、何を言おうと光る。僕は幸いにもこの主人公に共感を覚えた(自身が捨てられたわけではないですけども)側だが、彼をかっこいいと思ったプレイヤーはかなりの数に上ったのではないだろうか?それに、過去の作品を鑑みると、氏のシナリオは何らかのテーマ性に則って作られているのではないかと愚考する。『こなたよりかなたまで』、『キラークイーン』、そしてこの『遥かに仰ぎ、麗しの』。僕がプレイした作品は、いずれも人の外面ではなく内面の描写に秀でていたように思われる。人が精神的に育つには、それ相応の経験をしていなければならないのだが、各主人公は過去になんらかの背景を持っていた。主人公の人格的な超越あってこそ、氏の物語はより詰まったものとして成立しているのではないだろうか。低俗な言い回しで恐縮だが、氏は主人公の扱いが抜きん出て長けている珍しいライターだと思う。人を良く分かっていないと書けないシナリオ群には舌を巻く他なかった。
両立しえない2人のライターを起用した代償として、主人公の性格があまりにも違いすぎるという不評を買う結果となっているのは否めない。ここまで主人公の性格が違うと、呆れを通り越して、不思議な感じすら覚える。が、これは、主人公の背景を上手く利用する健速氏と、ポジティブシンキング(=日常なのか?)な演出を心がける丸谷氏の主人公観が生んだものと解釈して差し支えないと思う。“どんな事物にも光と影はあるように、見方によって変わってくる”とは暁光一郎先生のパクりだが、この主人公の表裏はまさにそれであろう。
もともとライターの性格自体が背中をくっつけあっているのだから、当然ながら主人公観が合致するはずはなかった。しかし、物語に幅を持たせるがために、PULL TOPは敢えて両者をコンビとしたのではないだろうか。そう考えると、この起用というのはさほど特異でもない気がするし、むしろ大胆な挑戦のように思える。当然、作品に統一性を求めるプレイヤーにとっては、図らずともマイナス要素にしかならないことは事実だろうから、それについてはがみがみと非難はしないこととする。
【その他】
最後は声優陣さんと原画家さんに。青山ゆかり(以下略、50音順・・・個人的には北都南がトップか)を筆頭とする声優陣の面目躍如は作品に大きな影響を及ぼしており、これは否応なしに諸手をあげて賞賛したいところだ。やたらエロいんだよなあ、、、お嬢様のくせに!!でもまあエロゲーである以上エロくないのは正直どうかと思うんで、すみすみがいくらエロかろうと、みやびのHが1回しかなかろうと、最低限のエロは愉しめた・・・と。上原奏、三嶋鏡花、リーダ、暁光一郎などなど、立ち絵のないサブキャラまでもが目立った理由もおそらくはこの点に尽きる。いや、もちろん声以前に藤原々々氏の絵あってこその分校系の萌エロ(とくにすみすみ)なんだけど、それ以前にイメージがマッチしたからキャラ萌えだのウンだのスンだの語れると思うわけで。その点うまくあわせたなあと感心した。
ああ、本校系のほうの回想が圧倒的に少ないのは、心情的つまり物語的には一回で事足りるからだと思う。2度、3度とないのが、シナリオをきっぱり終わらせる役目を果たしているかと。健速氏もメーカーも「そのぶん分校系でサービスしてますよ」くらいの面持ちなんじゃないですかね?不満な方はそりゃもう不満タラタラなんでしょうけども。
【まとめ】
上記、やんややんや羅列しただけに過ぎないが、評価点等等を書き連ねた次第。
どう考えてもボリュームに見合うような大きなシミはないと判断させて頂きたいのだが、いかなプレイヤー諸姉兄にとっても、きっと地雷域の作品にはならないと思われる。あまりにボリュームがありすぎるので、それ以外の良い点が霞んでしまっているのも事実ではある。しかし、長さ・クオリティ・どれをとっても中位あるいは上位のものが揃っており、久しぶりに大作をやったという気分になった。元々期待が高かった作品にもかかわらず、品質では並ぶか上回るくらいのところを行き、予想外の長さを誇る・・・最低でも良作と評定したい。総評するならば、原画・シナリオ・声優ほか“携わった人々の技量その全てが生きた作品”と言っても過言でないだろう。あるいは“生きすぎて”不評なのかもしれないが・・・サブキャラとかとくに。
僕はかつて購入予定者のコメントにて「進化の途上にある」とPULL TOPを評していたのだが、この『遥かに仰ぎ、麗しの』という作品は、同ブランドの話題作となった『ゆのはな』を大きく上回ったように思う。ブランドに安定感が見られる今となっては、この勢いがどこまで続くのか追随したくなる気持ちに駆られた。が、同時にエロゲーの伸び悩みをこの作品に見た気がして、どうも悄然としない気持ちにもなった。というのも、特筆すべき事項がさほど作中でそう目立ったわけではないし、第一、否定する要素があまりに少なすぎるのである。こういう作品を他のメーカーがなぞったように追随するのであれば、徐々に個性というものが失われそうな感じがするのだ。業界は発展してほしいし、質を上げてほしい。この利害はたぶんメーカーもユーザーも一致する。しかし、大作は適度に出るから評価されるのであろうか。作品としてはあくまでも高い点数を投じているが、展望性は必ずしも高いというわけではない。ふと、業界の発展に一線の影を見た気がした一作であった。
【雑談】
主人公の扱い方が、ライターの性格をよく表している作品。PULL TOPというブランドに限らず、両者は注目する価値があるように感じます。が、申し訳ないことに、どうやら自分はPULLTOPを“そこそこ安定しているブランド”と過小評価しすぎていたようです。これほどスキップ機能を使わない作品も珍しい。いやはや、今後もスキップ機能の多用で時間を潰したくないもんです。とは言うものの、コンプしてからまず最初にやった事と言えば「背伸び」でした。疲れました・・・・・・難しいところです。
どんな作品も綻びはあるのですが、一旦綻ぶと作品の価値が捻じ曲げられた状態で堕ちてしまうので・・・。僕としてもそういうのは本意ではありませんし、それにあまりにも大きすぎる重箱の隅はつつきたくないので、箱の大きさに見合った大雑把な評定の上で点数を投じています。なにぶん勝手ですが、ご理解頂けると幸いです。
いつも以上に長い文章にお付き合いいただきまして、ありがとうございました。