流れた月日の中で零れ落ちた耽美性。膨れ上がった大衆性。鉛筆の先端も削らなければ丸くなる。
“異聞”というだけはある。
「吉祥寺ドロレスとは何者か」と巷説に取り沙汰されたのも今は昔。
13年も前に、本作と同一人物が見事なまでに物語と文章を練り上げ、
退廃的な妖異譚を書き上げたことが俄かに信じられない。
それほど、この作品は俗物的で筆致が異なっている。
主たる要因はシナリオライターにあるようだ。
本作では衆人の嗜好を意識して創作に取り入れたり、
大衆的な風刺やパロディを軽易に扱ったりするなど、
形振り構わぬ凡俗さが際立つ。
其れは、姫の愛らしさを全面に押し出していることであったり、
淫語のバリエーションが耽美性を通り越して道化的であったり、
種々雑多な副因も考えられよう。
しかしながら、官能性と耽美性、倒錯性といった美点を自ら放棄し、
過去の美少女万華鏡シリーズに確かに存在した“霊台方寸”たる定石に則らず、
敢えて試作したかのような筆致は、到底是認できるものではない。
官能的な淫語表現はなお健在だが、物語の核とは然程リンクしておらず、
大衆性が顕在化してしまったのが大いに悔やまれる。
この作品群に限って言えば、安易な実用性の伸長は、
物語の俗物性を助長させる遠因ともなるからだ。
この物語は、もはや往時の耽美性とそれに伴う官能性の相乗効果を喪っており、
熱狂的な愛好者が挙って賛美する類の作品ではないと断ずる。
一連の作品(特に1・3・4作目)にて、魂を揺さぶられたほどの衝動は、
微塵も感じられなかった。
八宝備仁氏の蠱惑的なイラストレーションには
年を追うごとに鐘愛の念すら湧き上がるも、
この作品を美少女万華鏡という多面鏡の一つの側面として観劇した時に、
物語の筋が“譚”としての方向性を見失っている気がした。
やはりと言うべきか、
八宝備仁と吉祥寺ドロレスのコンビは、
不同不二の存在でなければならぬ。
鉛筆を使うには削らなければならない。
正確に言えば、削り続けなければいずれ使えなくなる。
迎合的でもなく、実験的でもなく、そして誰にも届かない、
耽美でありつつも、孤高の領域を探求してほしいと切に願う。
【雑記】
八宝備仁×吉祥寺ドロレスで、
『Xanadu ―吸血鬼は花嫁の夢を見るか―』という
女性向けのASMR作品があるのですが、
こちらも方向性を見誤っている気がします。
膨大なASMR作品が溢れる“食傷気味のエロス”の中で
一人でも多くの聴き手に選んでもらうには、
『美少女万華鏡 -罪と罰の少女-』が持つ、倒錯的かつ官能的な、
所謂“ねっとりとしたエロス”が肝要であると考えます。