紅殻町が在って、よかった。
時たま、夜中、眠れない時があります。
そんな時に、例えばこの作品をプレイします。
体を寝床に横たえているので、身体的には休まっています。
別に明日、気分が絶望的になるくらいの仕事量があるというわけでもない。差し迫ったヤバ目なことがあるわけでもない。だけれど目が妙に冴えて、神経が妙に高ぶっている。
こんな時に通販サイトや、SNSをちょいと覗いたりすると、非常にボンバーしてしまうことですね。そんな風に眠れない夜。
あるいは、過去の出来事に関する、ちょいと悪い夢を見て、妙な時間(午前2、3時頃)に目が覚めてしまった時。
その出来事を具体的に想い返すだけでしんどく、まして夢の中でデフォルメ&不可思議に再配置されて、自分をぢくぢくと苛むという。手元の飲み物をガブりしても、首もとの寝汗が全然気持ち悪くてやまない。もうしばらくは眠り(暗闇)に戻りたくない。
こんな時に通販サイトや、SNSに出陣したりすると、非常にカウンターボンバーしてしまうことですね。
生きることは、出来事を通して、事実と記憶を重ねていくことです。いいこともあれば、思い出したくないこともあり。で、たまにそういう「出来事を生きていく」……生きるという営為に、なんだか疲れて、エアポケットにひょいっと入り込んで休みたい時があります。
深夜のレイルソフト作品プレイ。
それは、自分にとって、あまりにおあつらえ向きな行動なのでした。
レイルソフトの作品は、V=Rシステムという「テキスト最大特化」のシステムを採用しているので、その「プレイ感覚」はどの作品も同じです。
つまり、延々と続く希テキストの愉悦を味わうということ。
ひたすら、希の文を読むという、最大限の愉悦。
夜中、深夜レイル(略称)をしていると、非常に心地が良いです。すでに何回も読み返したストーリーを再読する。エーテルがひたひたと、自分の心を静かに満たしていく。
文章の全部を覚えてはいないから(このテキスト量で、それは無理です)、改めて希の文章をゆっくり読むことになる。それで良いのです。かつて(同じように眠れぬ夜に)記録したセーブから物語を再開してみて、一度読んだはずの希の文章、雑学、表現、キャラのセリフが、違った響きをし出してくること。これは、深夜レイルの醍醐味です。
大体、深夜レイルは、毎日しているわけではないのです。数日続くことはあっても、やがていつかはまた普通に眠れる日が続くようになる。それでも、どうしても深夜レイルをしたくなる時、しなければ心の動乱が落ち着かない時、というのがある。
レイルソフトの作品は、自分にとって、そういう存在です
●おと、まちなみ
紅殻町のBGMは、まあ何と懐古的で、心を静かに愛撫することでしょう。夏のしょわしょわとした蝉しぐれを通して、影ぼうしの色濃い、夏の感覚を味わう。冬のしんしんとした雪を通して、外のくらやみの濃さに手が吸い込まれそうでも、この部屋の暖かさをしかと味わうことが出来る。
同じBGMなのにね!w
しかし同じBGMなのに、夏の時は「紅殻町の夏!で、冬の時は「紅殻町の冬!」という感覚になります。それも当然で、ここは変わることのない紅殻町。千変万化を良しとせず、常に同じ「紅殻町」である、ということが、この町の意味です。
背景。これもまた、何回も同じ背景を使いまわすのはビジュアルノベルの基本ですが、本作紅殻町にとってみれば、背景もまた主役。それも当然。この物語の登場人物は、ともちー、白子、エミリア、松実さん、十湖、そして紅殻町そのもの、なのです。ともちーは紅殻町をフィールドサーチという攻略をしていきますが、結局紅殻町に篭絡されてるじゃないか!というオチです。
半ばは冗談ですが、半ばは本気です。この物語を通して、ヒロインを知って(攻略して)それでOK、とは自分はどうしても思えません。ヒロインを知り、ヒロインと紅殻町の関係を知り、ヒロインと珍奇物品の関係を知り、紅殻町の中での珍奇物品の関係を知り、ともちーがいつしか喪ったものを知り、そしてプレイヤーが喪ったものを「ああ……」と甘く知るのです。
その時、ともちーとヒロインとプレイヤーは、紅殻町に囲まれているのです。紅殻町の「時代に取り残されるのを良しとする」佇まい。その過剰性にちょっと呆れ、その懐かしさの甘さに涙し、夏の陽炎の中凛と立つ姿にやはり惚れ、冬の雪の暖かさに抱かれる。これをヒロインと言わずして何というのでしょう。
と、ここまで論(妄想)をたくましくすれば、もはやこのゲームの背景はただの背景ではなくて、「ヒロインビジュアル」と呼びたくなるほどです。このゲームの背景は、ライアーソフト・ブランドらしく、ネタを積載しつつ、シックに書き込まれています。
しかし当然、この背景だけでは、「ヒロイン」としての物語は成立しません。BGMがあり、女性たちが生き生きと活動し、ともちーが町を散策する。そしてその一切合切を、希の文が描写する。
背景のひとつのパーツから、希の文章はやたらに妄想たくましく、種々の物語を延々と炸裂させます。場末の秘宝館の金返せ的しょうもなさ、野の坂道を小型スキーで走破、町と外との境界の電柱やパイプを、十湖との再会の爽やかな約束にさせる。
何度も言われていることですが、希のレイル文は、やたらに饒舌で、長く、クドく、引用過多で、伝法で、メタ的なジョークを挟んでやみません。
その一方で、常に希の文章はシナリオとして、情景を書き込み、登場人物の行動を妨げず(むしろブーストさす)、プレイヤーに「目」で、その場の情景……シーンの内容と、情実を、きっちりプレイヤーの脳内に書き込んでいくのです。
文章には、「目」の要素と「耳」の要素があります。
「目」の要素は、プレイヤーに対するビジュアル喚起力。プレイヤーの脳内に「絵」を浮かばせるのです。
対し、「耳」の要素とは、プレイヤーが文章を読んでいて、その文章リズムの心地よさに恍惚とするもの。
希の文章は、とことんまで情景を書き込み、ネタを満載しながらも、その一方で音読したくなるリズムを持っています(と、少なくとも贔屓筋のわたしは思っています)。
七五調を基本とした伝法な文体ですが、時折外来語や、強引なルビを混ぜる。それもまた明治大正の文学っぽいのですが、希の文章は頻繁にプレイヤーに対して「読者諸氏は……」的に語りかけてくる。
様々な文章テクニックを使ってリズムを作る。プログレッシブロックのようなリズムですが、これがたまらなくなってくる。そんな複雑な文章のリズムに恍惚となって、ふいに平易な言葉で爽やかに「冒険」の愉悦をストレートに語るのが卑怯だよ希ちゃんっ!
少なくとも、こういうのは一般的な「わかりやすい文」とは光年かけ離れているわけですが、すでに希の文に篭絡された者にとっては、これら希文体のすべてが「リズムの愉悦」となって、文でもって「耳」を楽しませてくれるわけです。
レイルソフトの作品がこれだけ圧倒的テキスト量でありながら(世の大作ノベルゲーに比べて、レイルソフトが取りざたされないのは、「言ってもしょうがない」ってとこですよね)、ファンは一向退屈しない、というのは、まずこの希の変幻自在な文章リズムと、次々に書き込んでいくシーンの魅力にあります。
●おすがた
しかしそれにしても、紅殻町の女性たちは、ほんとに四人ともどうしようもないながらも、いやはや魅力的です。
希がそもそも、彼女たちの魅力は「欠点の存在」にあるのだ、と言わんばかりに、彼女たちの欠点から「愛しさ」を羽ばたかせる術を自家薬籠中のものにしているので……。
彼女たちを愛するのは、彼女たちの欠点と寄り添うことであり、そう、それは愛なのです。
紅殻町の女性たちを形容するに、「萌える」という言葉よりも、よりしっとりと「愛すべき」とした方が、自分はぴったりくるのです。
そのあたり、四者四葉でね。
松実さんの「ふと、弱さを出してしまう」匂いたつ色気も、
エミリアの背筋の良さゆえの「折れそう」なところも、
十湖の「手を伸ばしてもすり抜けていってしまう」自由さと孤高も、
白子のあの薄明の中に「堕ちていく」感覚も、
これら彼女たちの欠点……欠点?
いやいや。確かに自分は「欠点」という表現でもって語ろうとしましたが、紅殻町博物誌という物語を愛する者としたら、彼女たちのこれらの要素を「欠点」と呼ぶことに、非常にためらいを感じてしまいます。
それでも、やはり一般的エロゲヒロインからしたら、このあたりの「過剰さ」は、やはりノイズ的に「欠点」とされるアクの強さなのかもしれません。欠点……欠点。
だが、しかしそれは作品の「傷」であろうはずがない!その表現こそがまさしくdisだ!
彼女たちを愛するとは、彼女たちの過剰さ故の弱さを愛することであり、まさに良くも悪くも「愛すべき」魅力なのです。
だから、彼女たちの四様のラストも、どれも「彼女(の業)」の表象であり、そのラストを選び、そのラストに成ったことに、疑いを入れる余地はありません。あとは、好悪・趣味の問題です。少なくとも、「このヒロインでこのラストはないわ」っていうのは、この作品のラストでありはしなかった、と自分は思います。
●かえりたい、かえりたいよ
自分語りです。
自分は、小学生の頃、都会のベッドタウン的な町に住んでいました。父方がそちらの生まれなのです。
特に特色もない町です。普通に生活する分には揃っており、しかし都会の最新のモードを取り入れるにはちょっと遅れている。でもベッドタウンだから、都会はすぐそこで、わりにしょっちゅう都会に行っていました。
その一方で、自分の母方は完全にド田舎の出身でした。なので、夏と冬は、母方の祖父母の家に帰省しました。
やがて、自分の一家は、母方の家業を継ぎ、商売を替える意味で、居住地をベッドタウンから、ド田舎へと移すことになりました。
自分は今に至るまで、このド田舎を、故郷と思ったことがありません。
ド田舎に移り住んで、中学、高校、と生活し、その間ロクでもないことが多発したのです。その度に、自分はあのベッドタウンに「かえりたい、戻りたい」と願ったものでした。自分の「本当の」居場所はあそこだ、と。
しかし、新たに家業を継ぐことになり、仕事や移住生活に忙しく、そのようにひょいひょいと都会の方に戻れることはなく。自分の親も「退路を断って」という感じだったのでしょう。
遠かった。
幼少期を育ったあのベッドタウンの方が、自分にとっては確実に故郷……というか、中学、高校での悲惨が、あのなんでもないベッドタウンを「故郷化」した、というか。そんな手の届かない故郷は、いつしか「懐郷」の精神となり、あのベッドタウンに夢を見るようになりました。
あそこだったら幸せ……とまではいかなくても、人間として穏やかな生き方が出来る。自由になれる。自分が自分で居られる、と。
「懐郷精神」、その思いは、狂おしく自分の中にありました。
大学に入って一度、軽くベッドタウンに行きました。
そして社会人になって本格的に、いろんな自由を得たので、ようやくあのベッドタウンにきちんと再訪することが出来ました。
そしそこで改めて思ったのは、「この町はこんなに小さかったのか!」ということです。自分の世界の広さだと思っていたあのベッドタウンは、思っていた以上に小さく。そして、経年劣化がどんどん進んで、団地マンションなどは廃墟のようでした。商店街も軒並みシャッターが閉まっています。町は、どんどん寂れていき、自分のことを知っている人間も、そりゃ、ゼロから数えた方が早いって寸法です。
そうか、もうあの狂おしい懐郷の「故郷」は、無いんだな、と、悟りました。
もとから自分の想像の中の故郷であった節もあるのですが、「この世界に自分の故郷(と認めることが出来る場所)は無いんだな」、と痛感しました。
……で、自分語りを終えて、紅殻町感想、とくにともちーの懐郷精神です。
紅殻町は非常に懐かしい場所です。それは、この場所にあふれているオーラもですし、希が懐かしく思わせるように描いていることもそうですが。
しかしやはり、青年ともちー自身が、この場所を「もう一度再訪したい」と心のどこかで意識・無意識に思い続けていたから、この溢れる懐かしさ、懐郷精神が、この作品全体に溢れている、と思えてならないのです。
紅殻町は夕日の痛いくらいに綺麗な町ですが、それは幼い日のともちーの夕暮れを写してやまなく、青空もまた、幼い日のともちーの純粋さを掬い取ってやまない。それは「万能星片」の章で狂おしく!
幼い頃の祭り、雑多な街並み、周囲の自然の躍動。
それら「紅殻町」が……懐郷の幻想が、今もこの世に確かに存在していること。「ともちーにとっての紅殻町」は、今もここにある、ということ。
……それが、羨ましい。
ノスタルジーにせよ、冒険にせよ、共通しているのは「ここではないどこか」への遠望です。
この作品は泉鏡花文体を下敷きにしつつも、どうしようもなく諸所で大正・昭和時代の「冒険小説」のエッセンスをぐいぐい入れてくるのも、「ここではないどこか」を意識させるものだと思います。
人間には……特に一時期、弱くなってしまった人間には、「ここではないどこか」へ、幻想を見ることが、どうしても必要なのです。
それを、逃避だと慰撫だのと言わば言え。人間には幻想が必要なのだ。
今回、この文章を明治・大正の近代文学から、「人間は幻想が必要なのだ」論をやろうかな?と少し思ったのですが、それよりもどうしようもなく、自分は「懐郷」の夢から、この作品を語りたくなりました。
だって、そういうことを想わせてくれる作品、自分にとって、他にないんですもの。
紅殻町が在って、よかった。