残響さんの音楽コメント(新着順)

残響

そんじょそこらのB級イチャラブ&百合エロゲーマーです。よろしくお願いします。
2018/02/10 音楽感想に「芋虫」(elf「鬼作」のED)、体験版感想に、はちみつそふと「HarmonEy」の体験版感想を書きました。次に書くのは、「つよきすfull Edition」についてざっくり纏めたのを書きます。

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コメント(新着順)

200芋虫 (鬼作のED )
手足の無い俺、陰茎肉欲だけ。何も為せず、何も残せず。朽ちていく……悔いていく……怪奇派ハードロックバンド「人間椅子」による、救いの無い絶唱


「人間椅子」という3人組の日本のバンドがいます。バンド歴今年で確か28、9年。そろそろ30年にもなろうとしています。90sのTV番組「イカすバンド天国」でデビューし、一時の休止もなく、ひたすら……売れない時期を含め、ひたすらに、怪奇・猟奇・文学をモチーフとして、ツェッペリンやキングクリムゾン、そしてとくにブラック・サバスといった70年代ハードロックをサウンドにし、日本で……いや、世界で、人間椅子にしか演れない音楽を、30年間続けてきました。

バンドの中心人物はフロントの2人。ギターボーカルの和嶋慎治(通称ワジー)。ギブソンSGを手に、自作エフェクターを駆使し、演奏スタイルは「三味線ギターの鬼リフ」と賞される、切れ味と重み鋭い、一度聞いたら忘れられないザクザクのギターサウンド。それを、彼の故郷である、青森津軽の伝統音楽、津軽三味線っぽくキュルキュルテケテケとギターソロを弾きます。こんなギターを弾くひとはワジーしかいない。
 そして、人間性溢れる、深みと広がりのある説得力のある声をしています。主に人間椅子において、猟奇・凶器の幻想文学苦悩世界を「きっちり」歌ったり、聞き手に独特の鼓舞をするときは、ワジーが歌います。ていうか、人間椅子においては、曲を作った人が歌う、って話なだけなんですが。舞台衣装は和装の文豪風。

 そしてもうひとりのフロントマン、ベースボーカルの鈴木研一。今回のこの文章ーー「芋虫」においては、この人が主役です。
 非常に重い、ゴリゴリしたベースで、破戒僧のような白塗りのスケキヨ坊主の格好をしています。そして、歌い方は……えーと、サウンドホライズンに、じまんぐって居ますよね。あれをもっと荒々しく、下品にした感じって言って通じるかなぁ。独特の「こぶし」と、奇怪な笑い声でもって、彼独特の「地獄」を表現します。彼もまた、和嶋と同郷で青森出身(この二人は中学からの同級生です)、青森の「ねぷた」に代表される、「おどろおどろしい、心じゃわめく」文化を幼少期から浴び(刷り込まれ)、それでもって人間椅子のダークでおどろおどろしい文学ヘヴィメタル世界を表現しています。
 しかし、これは「鬼作」のEDなだけあって……皆さん、鬼作さんのユーモアは、プレイしてない人でも知ってますよね。自分もプレイはしていないのですが、それでも音に聞こえし「ユーモラスな鬼畜主人公」として、その存在感は知っております。その通り、人間椅子には、ねじれた・とぼけたユーモアがあります。例えば、研ちゃんは毎回アルバムで「地獄の○○」という「地獄シリーズ」と呼ばれる曲を書くのですが、例えば地獄の獄卒が、生首で野球をするという内容の、「地獄の球宴」では

♪なまーくびーが 絶叫するー!
なまーくびーが 号泣するー! 
(中略。どうせ生首のことです)
風が吹いたら、元通ぅりぃ!
(ここでワジーの鬼リフだったり三味線ギターソロだったり!)

それじゃあコミックバンドじゃねえか!と突っ込みをいれたい人が山のようにいると思いますが、よーしここからやっと本曲「芋虫」について語れます。
とりあえず、この記事の末尾にようつべとか張っておきますので、それ聞くなりでもいいですし、あるいはアルバム「怪人二十面相」や、特におすすめなのは、二枚組のライブ盤「威風堂々 ~人間椅子ライヴ!」における、テルミンまで導入した最近の「芋虫」ライヴを是非聞いていただきたいですね!

曲の内容ですが、まず非常に悲痛なベースとギターのリフから入ります。これが延々続きます。ヘヴィではなく、アルペジオ。なんだか悲しくて、静かで。そう、この曲、2/3はバラードなんです。飛翔することはまずない、っていう感じのリフが延々。落ち込む、落ち込んでいく。1音、1音が、どこまでも。それなのに、ちょっとだけ甘い感じもするんですね。音色と、フレーズに。てろん♪って感じで。しかしそれも、精神としては「自嘲」の表現なんだ、とすぐに気づきます。「こんな俺……」っていう。

♪ひねもす隠れ ひねもす食らう

この「芋虫」は、「鬼作」のED曲という以前に、江戸川乱歩の短編「芋虫」を歌った曲であります。
乱歩の「芋虫」は、戦争で両手両足を奪われた「夫」が、家で「妻」と、肉欲の限りを尽くす、という非常にインモラルな内容です。

♪ 何も判らず 何も残さず
何も……何も……

両手両足が使えない。まさに「芋虫」。彼を苛むのは、「俺には何も出来ないのだ」という痛切なもがきです。両手両足が使えない。夢があっても実現できない。ただ、屹立する肉棒でもって、刹那の肉欲に溺れる。それだけの存在。何も、残せず。

 鈴木研一は、そういう男の鬱屈を、

♪ 俺は芋虫 貪るだけの 俺は芋虫 肥えてゆくだけの

と歌います。ここがサビです。このフレーズで「歌い上げ」ます。こんなフレーズを、こんな歌詞を! このエロスケでも、povでこのフレーズに言及されている方がいますが、それだけ印象的に「おーれーはーいーもむーしー」と歌われます。何の希望もなく、自分を呪って。頭脳が良いわけでない。何かを作れるわけでもない。ただ、何も出来ない。のたうつだけ。

♪ 闇に蠢き 闇に悶える
何も得られず 何も叶わず
何も……何も……

 ある種の人間にとっては、蠢くだけしか出来ないのです。生産性なんて何もない。ただ、闇の中に。そのひたひたとした汚れた羊水の中に。そして、自分自身を恥じ、フラッシュバック……! ころしてくれ、ころしてくれ!と声なき声を叫んでいます。 実際につぶやいてみたりなんかしちゃったりして。ころして、ころして、しにたい……なんて、ね。そしてその浅ましさ、情けなさに余計、
「屑が!」
と自分を責め、破壊し、恥じ、自分から自信というものをはぎ取っていきます。多少、自分に知識とかがあったとしても、それが何なのか。何にも接続出来てない、何も作れていない、誰をも幸福にしていない、依存してばっかりの俺が何を……

♪ 俺は芋虫 醜いだけの
 俺は芋虫 卑しいだけの
俺は芋虫 嫌らしいだけの

 鈴木の研ちゃんは、木訥な歌い方をします。シャープではない。ちょっと頭の悪いような歌い方すらしています。「だからこその楽曲・芋虫」なのです。卑しいと、嫌らしいの繋げ……これは言葉遊びなんかじゃない……心からの、自信をねじ曲げ狂わせ殺していく、心の叫びなんです。

 そして、ここから和嶋は、芋虫が糸を吐くように、「ヒュルヒュルキュルキュル」みたいな音を、ギターとエフェクターを使って(前述したように、最近のライヴではテルミンを使って)表現します。
 そんな、なんだか不気味なギターソロから、曲はミドル・アップテンポになります。しかし拳を振り上げきれません。芋虫という男が「進んで」いることはわかります。のたうちながら進んでいます。でも、そこで歌われているのは、

♪ ああ ずるずると血膿のぬめる肉塊
ああ どろどろと はらわた腐る肉塊
ああ 朽ちてゆく 朽ちてゆく 朽ちてゆく

人間界で生きていくことを……何かを作りながら生きていくことを、「ヤスリで全身を削るように」と表現した人がいました。血膿も出ますよ、これほどまでに鬱屈した人間性を、欲望を、怪奇を猟奇を、生々しく描くのが、文学派ロックバンド・人間椅子なのですよ!
クソがクソが、屑が屑が、ゴミが、しねよしねよ、と世界を、人間を呪いながら。四肢もなく、それでも前に進もうとする。傍目からみたら、もうその場でのたうって、一歩も前に進んでいるようには見えないけども。それでも、ほとんど恨みにも似た狂熱の妄念によって、動き続ける。正しさなんて知らない。お前らの「正しさ」「論理」ってやつが俺を殺したんだろう、と言外に含みながら。
 それでも動き続ける。悩んでいる。俺はこんなものか、と。クソが、と。それでも……生きている、生き続けるとは、結局は墜ち続けることだとしても、醜く足掻く。

 人間椅子は、イカ天でデビューし、こういう曲ばっかり歌っているから、そりゃあ売れません。メジャー契約も打ち切られ、長い間バイト生活をしながら音楽活動を続けました。
 そのくだりは、和嶋の自伝「屈折くん」で垣間見ることが出来ますが、とにかく赤貧。そして悩みっぱなし。おそらく、和嶋も鈴木も、この「芋虫」のような精神だった……ことは間違いない。でなければ、こういう曲は書けません。鬱にも、アル中にも、ギャンブル中毒にもなりました。
 それでも、光を求めて。音楽を裏切りたくなくて。活動を続けて、続けて。在るとき、悟りを開いて。いつしか、人間椅子には、デビュー当時をしのぐ、「新しいファン」がつくようになりました。この文章を書いている筆者もその一人です。こんど神戸でライヴがあるので、島根からはるばる行きます。
 
 最近の人間椅子は、本当にすごいです。楽曲にも、演奏にもパワーがみなぎっていて、スタジオアルバム最新作(20枚目)「異次元からの咆哮」は、曲それぞれのキャラが立ちまくっていて、妖怪大集合!みたいな感じがあります。それでいて、シリアスにキメるところはキメて、しかしいつも怪奇とユーモアを融合、そして楽曲のヘヴィネスとメロディは素晴らしく……。
 迷う、とは何でしょうか。「これでいいのか……?」と思いながら、日々を過ごしていって、何も作れていけていない、というのは、本当に苦しいです。自分も、この数年、キツかった。
 最近、ふとそれが「抜けた」かな、と思います。いろいろと理由はあるのですが、とにかく「抜けた」。そして抜けてみると、「ああー、おれってこの程度なのか」とちょっと拍子抜けすると共に、「しかし、もう迷わない。あとは突き進んでいくだけだ」というハラも座ります。「これでいいのだ」というバカボンのパパ的悟りですね。自分が「恋カケ」の長文感想を書いてた時は、かなり迷っていました。あのときも、「これでいいのか?」とキツかった。しかし、今、こうして「よし……やっていこう」としてる今から見ると、あの時期もあれで、意味はあったのかな、と、手垢のついた表現で恐縮ですが、思うのです。

 その「得心、悟り、抜け」というのは、ほんと、理屈ではどうにもならんのです。蠢いていくしかない。死んでは、この「得心、悟り、抜け」には、いけない。物理的に、ね。まあ単純な話ですが。
 ホントに、理屈ではこの「得心、悟り、抜け」にはいけなかったなマジで……恥ずかしい話なんですが、ライフハック的なんとか、自己啓発的なんにも、かなりハマってしまいましたよ。いろいろ手を出してね。はっきり言って、エロゲに使う金以上に、ツールや本にも手を出してたんじゃねえか、って思う。

 大事なのはそこではなかった。静かな心で、「丁寧に行動する」っていうことだとわかった。模型で例えれば、雑に、スピード工作して、いっぱい作って承認欲求を稼ぐというよりも、丁寧に、じっくりヤスリをかけ、今ただこの時を充実させる、ということが、大事なのだと。
 はっきり言ってトロい。たいしてスマートではない。それでも、世界と自分とを若干でも握手できてたりする。それだけで、自分にとってはたいした達成だったりします。
 それが出来てなかったから、今まで、何万文字も文章を書いて、しかし病気が治らずに、っていう生活をしていました。
 「世間」と仲良くする必要は、とくに自分の場合ないですが、「世界」と握手する必要は、あるのかもな、とことばを弄してみますが。

 それでも、ここでこうして分かったようなことを書いてますが、本質的には自分は「芋虫」です。のたうつ、蠢く、芋虫。いつか蝶になりたいと。自由に飛びたい、と。ここでこうして蠢いていた記憶があるからこそ、自由の意味っていうのが判るんだ、と。この苦しみがあってこそ、判る自由の意味。創作の意味。自分はどこにでも行けるんだ、と。想像の世界へ。体力の限り、世界のどこへも(ということで神戸にも行きますし、4月末には東京行きますよ)行けるんだ、と。そう、キャンプして旅するくらいの自由ささえ、あるんだ、と(ゆるキャン△サイコー! マジサイコー! なでしこ×しまりん尊い……)

というわけで、同じ人間椅子の近作の大作にして名曲から、歌詞を引用して、ここはどっとはらいにさせていただきます。長文お読み頂いてありがとうございました。

♪空を行く雲は 好きに変わるのよ
蝶になり 花になり 雨になり 風になり

空を行く鳥は 好きに行けるのよ
海を越え 山を越え 夜を越え 時を越え
(人間椅子「マダム・エドワルダ」)

※参考音源
https://www.youtube.com/watch?v=gXI4UlPDfp4

http://www.nicovideo.jp/watch/sm1674904

(ライヴ盤「威風堂々」トレーラー」)
https://www.youtube.com/watch?v=fJx_79h_Gqk
同一のメロディ。それを何度も繰り返し、大事なところでグワーッと聞かせる。8分音譜でタラララ、と下降する音型は、まさに流れる涙を表現しています。と同時に、もう取り戻せないんだよ、という「零れ落ちる感覚」をも。

この8分音譜の主題メロの構造は、「さよなら」でトレモロ、「きー」のところで一番伸ばしレガート、そこから「こえ」でとどまって消える、みたいな「落ち込み型」の音型です。飛翔しているように歌い上げますが、実はその先に行くのが喪失であったり、闇のようなものであります。

「さよならきみのこえ」の主題メロディ。まず最初にピアノでもって、この8分音譜。次に独白のような形で、歌唱でもって「さよならきーみのーこえー」。続くヴァースでは、感情を抑えつつ、高める。ぎりぎりの心情を、ぐっとこらえながら、こらえながら。
そして、次の「さよならきみのこえ」8分音譜で感情決壊。いやあエモーショナルな展開です。

ひとつの短編小説を読んでる感じと申しましょうか。それは、ポップソング歌詞に対する最高の賛辞なのですが。メロディにしっかり「食い込む」詩であります。それは音韻の質感においても、意味においても。

スコアで書くと、最初のヴァースでは、最初の一音からコーラスに至るまで、常にクレッシェンドでもって音量低めから大きめへと、長いディレクションでもって。「一度感情を落とし、感情をサビに向けて高めていく」という構造です。
ピアノとvoの構成、弱めのバンドサウンドと歌唱の構成、意外とドラムスが大きく叩く感じのサビのバンド構成。これを繰り返すのがこの曲のサウンド構成です。様式美といって差支えはない。
とはいっても、シンフォニックメタルのようなバンド+オーケストラ、のようにはなってない。実はいままでこの曲、少しはストリングス入ってるだろ、と思っていたのですが、炸裂するバンドサウンドが、音響面で非常な広がりをもっていたのですね。それくらいオーケストレーション感のあるバンドサウンドの感情決壊です。。
エモーショナルに聞かせるバラード寄りの歌でありながら、エモーションの表現はすごく直接でまき散らしタイプ。

サビ(コーラス)のことを言えば、もうほんとエモーショナル、という、グワー感。まさしく涙の決壊です。感情を決壊させる、ということ。ほんとにこの歌の主人公は耐えて耐えて、でも心の中でエモーションは全然死んでなく。
歌詞も、大人しく別れを受け入れよう、とする「きちんとした」部分と、「もう泣くしかないじゃないっ!」というどことなく幼さを感じさせる部分ががあります。というかこれは歌手の表現力ですね。泣くとは、感情を決壊させるとはそういうことなんだよ、と。

しかしそれにしても「もうなーいてーも、いーいよね」とレガートの極みでもって哀切の感情表現にはまいりました。ほとんど泣き出しそうな歌声です。そこから翻るかのように「強くなんかないよ」と流れるようにリズム感をキープしながら歌う。ここにまた決意のようなものも見えるわけです。それでも今だけは泣かせてほしい。この感情を墓標とするから、みたいな。混乱こそが我が墓碑銘……ってそれキングクリムゾンやないか!

まーーったくどうでもいい話、今Twitterで2009年何してた、ってタグが回ってきて、そういえばこの曲のエロゲであるとこの「ましろ色シンフォニー」で、数年間やってなかったエロゲに復活したんだなぁ、あれからそんなに時間たったのかいな、と結構がっつり時間性に衝撃を受けたりしてます。

そんなふうに、しばらくエロゲにもエロゲソングにも触れてない状態だったもので、この曲聞いたときに「うわっ、演出も曲も進化してるー!」と驚いたものです。まずはその「鳴らし方」。バックにストリングスのアレンジをほどこしてる感じすらした、と思うほどの臨場感あるギター、ドラム、ドラムの鳴り。そして非常に生々しいピアノ。それに比べれば楽器ソロは案外印象が薄く、なにしろ基本となる音の迫力がすごいので。説得力というものがある。メロディは確かに流れるようなメロディアスですが、そこに感情と説得性を持った歌詞、歌唱がのればもう満点ですよ。

そもそもこの曲は、みう先輩とぱんにゃの白き別れのところで、ここぞ!というところでまさに「挿入歌」というベストタイミンで入る演出であります。

「もう泣いてもいいよね 強くなんてないよ」
シーンもそういうものでした。いやー、演出ってすごいな、歌詞と音楽とゲーム内容(みうルート)をここまでリンクさせるか、という。それは「エロゲはアニメ文化発祥なんだから、アニソンのせておけばいいだろ」的な考えとは全く光年離れているものです。
とはいうものの、当時からこれは思っていたのですが、ぱんにゃとの別れ、というゲーム内容に自分はいまいちノれなかったのですね。だから、ここでこうやってエモーショナルにグワーっとアゲられても、どうにもテーマにノれない以上、そのシーンでグワーの号泣にはなれなかったです。しかしそれはゲーム内容と自分との個人的齟齬な話であって、ゲーム内容にぴったり感性がドはまりしてしまった人は、そりゃあこの曲をゲームとの相関性において、神曲認定しますよ。

ゲームとの相関性における神曲認定ですが、これ難しい問題ですよね。少なくともわたし自身、「memories are here」はカタハネあっての歌ですし。もちろん曲自体がいい、っていうこともありますし、このさよなら君の声にしたって、もともとの曲がいいし、シナリオもいいらしいし(まだ言う)、そういうどっちにしたって三ツ星レストランのメインディッシュなモンなのですから、そりゃあ神曲にもなりますよね、って話。すべての挿入歌、OP曲、ED曲が、本来そうあるべきなんでしょうけど。
もちろん、微妙な齟齬があってこその挿入歌道、OP道なのだ、と言われたらそれもそうかな、と思わなくもない。そこんとこは、また微妙な齟齬をきたしてるOPの感想とかでやってきたいとは思いますが。

ともかく、2009年の時点でこのような曲に触れていた、というのはエロゲ再復活体験として、かなり贅沢な経験をしていたんだなぁ、と感慨新たにするところです。それを思えば、今のエロゲにおいても、良い曲、よい演出というものはありますよね。なにしろ2009→2017であります。時間って経ちましたね。うわー8年かよーと思います。いつのまにかわたくしもアラサーっていうか来週32になるけどさ。それでも、この曲を語るにおいててめえが懐古してる……ようで、実は音楽を虚心に聞いて未だに「おおぅ」みたいに新鮮な気づきがある(なにしろストリングスの件でありますw)っていうのは、この曲の力でもありますし、やっぱり自分はエロゲが好きなんだなぁ、っていう話でもあります。キープ・オン・エロゲであります。エロゲをやったらやっただけ、その「自分エロゲ史」は、きっと自分をあたためてくれるものだ、と思うのです。たとえその時は「この記憶なんになんのかなぁ、無駄になるんじゃねえのかなぁ」とは思っても、時間を経ってみれば、案外そうでもなかったり。ここでこういう文章書いてるようにね。だから、キープ・オン・エロゲであると同時に、もう少しだけ生きてみる価値もあんのかな、って思ったり。そんなわけで、もうちっとだけ、このエロスケにおける「さよなら」を先延ばしにしたいですね。まだまだ皆さんのレビューと言う「声」も聞こえてきますしね。
(この感想は、「カタハネ オリジナルボーカルアルバム」に収録されている「2017Ver.」について、原曲と比較しながら語っています)

改めて原曲「it's just farewell」を聞いてみて、Ritaの歌唱のまっすぐさ(それはときにパセティックなほどに)と、バックのドラムを中心とした、追い立てるような軽快なアレンジだということが、解りました。とくにドラムなんか、表拍でバスドラムをドスタッドスタッと鳴らすほど「次へ、次へ!」という意志を感じさせます。ベースの動きっぷりもそれに合わせます。
 つまり原曲verは、若者たちの未来へ向かって、過去にとらわれることなく「次へ、次へ!」の曲であったのだ、と言えるのでしょう。もちろん、「過去をいつまでも忘れない」の役目は、「Memories are here」が受け持つわけです。

 カタハネの構成は「カバルート」「アンルート」そして「ココルート」の三つによって成り立っていますが、「過去を清算する」がもちろんココルート(グランド)です。そしてカバとアンのルートは、つまるところ、若者が羽ばたいていくルートです。

さて、本曲「2017Ver.」ですが、「軽快だけど結構重いような不思議な感じがするぞ!」というものです。
アレンジ的には、あえて音数をぐっと絞ってドラムとベースとピアノのバンド編成。電子音などのオカズは使っていません。オーガニックな編成です。
原曲と聞き比べてすぐ解るのが「テンポの遅さ」です。それはアレンジ自体が「タメ」をきかせた遅めのテンポで演奏しているのもそうなのですが、何よりRitaが、「演歌とは言わんけども、これはいわゆる”こぶし”なのでは?」と思わせるほどの「タメ」を聞かせて、歌詞の言葉をひとつひとつ噛みしめるようにして歌う(語るように歌う)サマにも現れているのです。

原曲からして、ハネるようなリズムを持つ曲でしたが、2017verではよりオーガニックなアコースティック・ボッサ・アレンジです。あえてここで「ボッサ・リズム・アレンジ」という風に書いて、「ボサノヴァ風」とは書かないのは、ボサノヴァのようなどこまでもクールネスを大事にする静謐の音楽とは、ちょっと位相を異にするのではないか?と思うのです。このあたり、ぶるよぐ本隊や、ソロワークスとしてのRitaの活動よりも、ユカキラリタなどのアコースティック・バンド編成でのRitaの活動がフィードバックされている、と考えても、それほど的外れではない解釈ではないか、と思うのですがいかがでしょう。自分も数年前、ユカキラリタのライヴには行ったことありましたが、アコースティックなサウンドを、どこまでも深みに誘っていくような音世界であり、Ritaの「言い含めるような」骨太の歌唱が、実に説得力あるものでした。しかもそのアンコールでアコースティック版「Dorchadas」演ってくれちゃって。さすがにアンコールで観客の皆さん息吞みましたね。

「カフェでよく流れているかのようなアレンジ」とは断じて言い切りたくありません。2017verにあるのは、非常に心が温まる、非電子音・非ロック・非テクノアレンジでのオーガニックな味わいです。
 アコースティック。曲(歌詞)の精神性をぐっと高め、伝えるようにしてこちらに響いてきます。「心地よさ」を重視したアレンジのようで、聴き応えはかなりヘヴィです。それはRitaの「重い」歌唱と、タメのきいたバックの演奏。「甘い曲でさえぐっと考えさせられてしまう」、偉大なるジャズ・シンガー、ビリー・ホリディの存在すら脳裏には浮かんできてしまう……といったら言い過ぎですが。

 噛みしめるように、言葉を。もし物語の中にこの音楽があったとしたら、それは本編ラスト直近ではなく、少し経ったころ。若者たちが未来に向けて旅立って、少し経ったころ。笛氏のカタハネ同人誌漫画ネタ(超ドマイナーネタですいません)で言うならば、ベルが人形の修理をしようとして、まずアンに電話で相談するようなとこ(なぜかそこでアンは海賊の船長っぽい役だったり)。こういう、「着実に夢をつかむための道を歩み、安定してきた頃」が、この歌には似つかわしいでしょう。ーーそう、あの旅より、少し大人になったセロ一行たち。
 それでも、停滞はしていないのです。彼らの持つ光は、停滞などしません。歩み続けます。そんな「夢への日々」の中でも、少し休むような日があるでしょう。ときに、昔を思い出すような。
 あのシロハネドタバタ旅行の中では、他人を真に理解しあうだけの余裕はありませんでした。カバも、アンも。お互いの才能と人間性に、「しょうがないな」な呆れと、お互いに宿る光に対するリスペクトを抱いて、一気にモスグルン演劇祭に向けて若さで突っ走っていったのが、セロ一行でした。
 やっと、「ああ、あのときあの子はこう思っていたのかな……」と思い至るような、そんな時間。それが、この2017verの似つかわしい風景でしょう。

 うーん、すごい妄想解釈になってしまいましたなw
 もう一回音楽性の方向に戻せば、全体的にタメを聞かせながらも、しかし十分以上に「ハネる」アレンジです。んちゃ、んちゃ、って。裏拍のタメがあるからこそ、そのハネが「ちゃんと地面を踏みしめて飛んでいる」という実感がある。シルヴィアとトニーノもまっとうになったのだよ……(涙

 しかしそれにしてもリズムセクションがよい仕事をしています。
 そしてRitaの骨太な歌唱に、迷いはありません。それだけに、歌詞がすっと(テンポが遅いということもあって)こちらに染み渡ってきます。そして、過去・現在・未来を肯定する説得力さえあります。
 未来へ続くアウトロとして、よい出来です。

 なお、「あなたのはじまりを見届けることが 私の役目」のところで、すうっとバンドサウンドにフィルターをかけて、少し抜けて、Ritaの歌唱のみになるところが、なんともココの立ち位置を表現しているようで涙。
95Scarlet (DRACU-RIOT!のOP )
エロゲソングを語るにおいてどれだけ「歌謡スカコア」と呼ばれるジャンル表記をして通じるか全く未知数であるので、音楽ジャンル論的に語ってみます。基本的には好きですよ、この曲!

(1)曲構造

まずはこの曲の構造から。イントロで「チャチャーチャ、チャカチャカ、チャッチャッチャー」と軽快なギターのカッティングが入ります。この時点で胸が高鳴りますね。生演奏主体というサウンドがここから明記されます。と同時に、スカコアサウンドにおける魅力の一つが、この軽快なサイドギターであります。
次にドゥルン!とぶっといベース。ドラムがズッタンズッタンと裏打ちスネアを響かせながら。そして高らかにホーン・セクション(金管楽器。トランペットとトロンボーン、サックス。これも打ち込みでなく、生演奏であることはクレジットで表記されています)。
(なお、ここまでのOPムービーの縦横無尽に動く演出は、ろど氏によるゆずのOP演出の中でもとんでもなくスタイリッシュな演出であると思います)
そこから榊原ゆいによるLazy(怠惰、どことなくの我が儘っぽさ)な憂いの歌唱が、サビまで続きます。アダルティ、と書いてもいいでしょう。
歌唱を裏打ちするように、「ぱぱらぱぱっぱ、ぱーらぱっぱ」とホーンセクションがリフを繰り返します。後述しますが、「コレ」がスカ、スカコアの魅力です!
やがてサビに至るにおいて、陽性の歌唱がメロディアスに歌い上げます……

っていうのが、ざっとの「イントロ→ヴァース(Aメロ)→コーラス(サビ)」の展開です。さて、ジャンル論を語りましょう。


(2)ジャンル「スカ」

歌手・榊原氏は、確かサントラのコメントで「こういう【スカパラ系】の曲は新鮮で~」と語っていたように覚えてますが(当音楽感想はiTunesにサントラぶっこんだものを記憶だけで書いてます)、ここには若干の音楽ジャンル的な表記ミスがあると同時に、「歌謡スカコア」というこの曲のジャンル論的に見た場合、「それ以上の本質を語っている」とも言えます。

「東京スカパラダイスオーケストラ」
通称スカパラ。
ゆいにゃんが「スカパラ系」と言ってしまうほど、本邦日本のスカ、スカコア界隈にて、この大御所の存在は、それだけ存在感の大きいものです。

「スカ」とは何か。ここでエロゲ的クソ連想を一切働かせないでいただきたい。

北中正和編集のワールドミュージックガイド本「世界は音楽でできている 中南米・北米・アフリカ編」の「メント・スカ・ロックスタディ」の項をざっと纏めますと、「スカ」とは、1960年代以降のジャマイカ音楽の基底となる音楽スタイルです。アメリカからジャズやR&Bなど様々な大衆音楽が流入し、そこにジャマイカ的なラテンリズムが合体します。
まあそんな講義っぽいノリでこれ書いても即読み飛ばされるだけだと思うので、重要な点だけ3つ。

(1)ジャマイカ人は普通のビートよりも、ギターや金管楽器などで過剰にバックビートを強調したリフを好んだ
(2)要するに基本的にスカは「ンチャ!ンチャ!ンチャ!ンチャ!」と追い立てるような8ビートミュージックである
(3)リフ命!

これがつまりは、スカパラにおける、
(1)金管ホーンによる煽りたてるキャッチーな反復リフ(ホーンセクション)、
(2)追い立てるラテンバンドリズムセクション「んちゃ、んちゃ! んちゃ、んちゃ!」(スカパラ風)に、
(3)そこに男伊達、漢の粋(イキ)っぽさ溢れる歌謡メロディを融合させる。

まあとりあえずは「Paradise Has No Border」聞いてみてください。

https://www.youtube.com/watch?v=1zKo_I8VhkA

これと、「Scarlet」を合わせて聞けば、「スカ」ってののイメージはつかめると思います。
途中で魚類が出てきてるけど、もうそれすらも味にするという祝祭音楽だっ!

(なお、微妙にここまでの議論で「スカ」と「スカコア」を混ぜて語っていますが、この欄でさすがにスカタライツから始まるジャマイカ音楽の伝統(スカ→ロックステディ→レゲエ)やら、90s以降のスカがメロコアと合体したところの「スカコア」について語りまくるのは手狭に過ぎるので、そういうのが欲しかったらやっぱエロスケじゃなくて別のとこ行こう的な。さらに言えばおれが本気で語りたいのは、実はスカパラじゃなくて、英国が生んだ偉大なる人種混合スカ、金管ホーンで武装した最強のモッズ「スペシャルズ」について語りたいんだ!!!しかし偉大なるジェリー・ダマーズも言ってるじゃないか、モッズもパンクスもロッカーズも、純愛イチャラバーも百合ゲーマーも、凌辱ゲーマーもNTR者も、(些細な違いの内ゲバではなく)皆戦うんだ、敵は遠くに居るんだ!「エンジョイユアセルフ」!!)

歌謡スカとは、こういったリズムに乗せて、日本の粋の歌謡メロを乗せたり、表現したり(夏ですね)。結構ラテンリズムと日本歌謡って相性良くてね。
それからこの「Stay & Go!」(タメと爆走)な緩急のついた祝祭リズム。これもまた「祝祭ソング」には相性がよく。
でもスカは、どことなく哀愁があります。それもまた歌謡と結びつくと……というか、スカそのものが、歌謡と結びつく以前から、最初から持つ歌謡成分とは、やはり「南国の哀愁」なのでしょう。

そう、スカは、どんなに爆走しても、なんかどっかで一抹の哀愁がある。それが日本の歌謡成分とうまく結びついたら、「爆走、漢粋の歌謡哀愁!」になります。

さて、そんなんが本邦エロゲソングになると……?


(3)評価しつつ、一部納得しないという……

個人的な暴露をすると、この曲、「サビ以外」はそういうスカ文脈において、非常に完成度が高く、好きなんですよ。ギター、ベース、金管ホーンの生演奏を積極的に導入して。この曲がエロゲソングライヴで「映える!」と、TwitterのTLで時折レポ感想を聞きますが、さもありなん、と。

何より「バンドサウンド」を前面に出したガチなチューンというサウンドアレンジがいいですね。このヒリヒリした勢い、これこそがスカコアにおいて大事であります。

まず第一の歌唱で一気に「タメ」て(アナタの中に潜む~)、「何故かあたしを引き寄せるの~」のところでレガートに歌う。この「Stay & Go」はここにおいても、波の満ち引きのようにスカの魅力を伝えてくれます。それをサビまでで2回。
その間、常にホーンは煽ります。一度聞けばこのスカ・リズムのホーンの魅力は、曲の好みとは別に(どんなに影のある曲が好きであろうとも)耳についてしまうくらいの強度です。


では、とにかく外に「開く」曲であるのか。どこまでも祝祭な曲であるのか。

ここで、H3O氏のこの曲に対する音楽感想

http://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/user_music.php?user=H3O&music=1019#userdata

で、興味深いことが書かれていまず。これを引用することで、ルーディたちへのメッセージを放つぜ(まだスペシャルズに未練がある)。

(引用)ーー「fripSideの「Red」やデンカレの「Vampire」のような暗く妖しく退廃的といった、これまでのエロゲ吸血鬼ソングの王道(?)から外れた明るく前向きな曲と詞」(引用終わり)

とあるが、まさに卓見と呼んで良いものと思う。

比較されている前者は退廃的な歌詞にアトモスフィア、そしてfripside王道ののデジタルサウンドに若干のゴシック要素を加えた曲(ガチゴシック風味というよりは、デジタルサウンドにゴシック音階を通した、って感じ)。
後者はデンカレらしくメロディックスピードメタル(メロスピ)にこちらもチェンバロとクワイアのゴシック要素を加えた疾走チューン。所謂「同人音楽界隈」における「同人ゴシック」というものと非常に親和性の高い、というか直系の元祖とも言える曲であろう。(この辺の歴史性は、自分も若干「同人音楽界隈」にいるにも関わらず詳しくないので、間違ってたらコメントください)

さてそれに比べると、以上で述べた「スカコア」チューンは確かにこれまでの「吸血鬼ソング」と様相を異にしている、と言えるであろう。これだけ見れば明らかに「Scarlet」は陽性。
では、どこまでもこの曲は「祝祭」であるのか。それは、「サビ」(「今心に突き刺す矢が~」)以降のそれは、まさに祝祭であり、前向きな曲で歌詞である、と思います。

ただ、それでもどこかこの曲、不思議に「陰」みたいなものはありませんでしょうか? 「サビ以外」のところにある、アダルティな妖しさというか。
わたしが惹かれてるのは、そこなんです。 

もちろんその「陰」っぽさは、かなり軽い。
音楽構造的に言うと、サビの祝祭で前向きさに至るまでの「タメ(stay)」であります。
しかも逆説的に、それはある面で、スカの哀愁があくまで「陰っぽさ」にとどまるジャンルである故に、どん詰まりの「陰」ずぶずぶにならない、ということも言えます。
ドラクリ本編における「えー、なんだかそれって都合の良いキャッチーでお手軽な【陰】やん」って部分にも符号してしまいますね。
だから、ずぶずぶのどうしようもない「陰」ではない。哀愁の暗がり、みたいな。あるいはそこにアダルティな部分が付いてる、っていうか。

それでもドラクリが「陰」(あるいは「淫」)の方向に行ってみようと決め(キャッチコピー:童貞捨てたら以下略)、そこをまず表現しよう。アクアエデンのアダルティな方面をまずは描こう、としたのが、サビ「まで」のアダルティなスカコアチューン、とわたしは取ります。
ドロドロの吸血鬼な陰・淫・退廃チューンではなく、どこかラテンな哀愁と夏風と童貞……明け透けな性的アッパー。それでいてアダルティな吸血鬼要素、「陰」、ミステリアス成分とをうまく組み合わせ、エロゲOPにふさわしい疾走チューンにしようとしたら……これはたしかにスカになります。サウンドを決めたDの判断は、非常にクレバーです。

だから、H3O氏の言う「王道から外れてはいる」というのは、至極的を得た指摘でありながら、反面その王道から外れ度合いが、ドラクリの「吸血鬼モノでありながら、夜の物語でありながら、どこか開放的で、アダルティ風味」というなかなか微妙に味わいのある世界観にぴたっと合っている、と言えます。つまり、ドラクリそのものが、「所謂吸血鬼モノ」の王道から外れる、という代物でありました。シナリオの完成度はともかく、コンセプトとしては。

そのコンセプトがシナリオとうまくかみ合っていたか……? については、自分も長文感想で書きましたが、どうもところどころで上手くいっていない。
本曲において、自分がさんざん「サビまで」と言ってるのも、そこで。
「なんだかサビ以前のガチなスカと、サビのエロゲソングっぽさの断絶」
「サビ以降」が、スカ的な祝祭感となっているのは解るのですが、あまりにvoが前に「エロゲソング」っぽく出すぎ、というか。無茶な注文をしてるのかもしれませんが、ここにきてリズム、ホーンのアレンジんが単調になってしまっているのが。

これまで「タメにタメて」な美学をもってアレンジし、それをサビにおいて爆発!とさせるのがこの曲でした。ただわたしの場合、「タメにタメて」のスカ・アレンジの完成度の高さのほうが好きになってしまって、「王道エロゲソング!なサビ」の方が点が辛くなってしまったのは因果なことです。

H3O氏の議論をさらにちょっと変な方向にいかせてしまって恐縮ですが、エロゲソングにおける「王道」とは何でしょうか。大体エロゲオタならエロゲソングの「ああ、ああいう感じ」というのが伝わると思います。アニソン的感じ、といいますか。
自分もオタをやるようになって、結構この「感じ」には慣れましたが。それでもエロゲソングのライヴとか、コンピレーションCDを熱心には買いあさらない……というのは、この「感じ」に最終的に「yes!Yes!YES!」とまではいききれない、変なオタクな負け状態なんでしょう。

でもまあ、そんなことを言い放ってても仕方がないですね。スペシャルズも言っています。「やめとけよ、無目的に生きるのは。もっと良い将来を考えてみろよ。時間がお前を、マトモにしてくれる」(スペシャルズ「ルーディたちへのメッセージ」……おれが……このおれこそがルーディ(負け犬)だ!
しかしまあ、自分の今のエロゲソングの聴き方は、そんな「一介の音楽リスナーの理屈っぽい聞き方」と「エロゲオタク」の間をフラフラしています。「一介の音楽リスナーの理屈」は、以上のここまで5000字ある音楽感想をつらつら書けるようにしてくれますが、反面、この曲のサビにノりきれない「エロゲオタク」は、ゆいにゃんのライヴに行ってもこのサビでサイリウムを触れるのだろうか……? ライヴでは頭をヘドバンすることしか知らない自分は……?

まあそれが自分なんでしょうがない、とは言いつつも、もったいないことはしてるよなぁ、とかって思ったり。ただ、エロゲをやるにおいて、「複数のものに足を埋めながら比較論的にエロゲをやる」っていうのは、それ独特の比較論的愉しみを味わえる反面、比較論的罠でもあるよなぁ、って思うのでした。それでも、エロゲオタ生活を「エンジョイ・ユアセルフ」!
この「素晴らしき日々」のOPの音楽感想は、ピクシーズ「Alec Eiffel」との比較をしてます。テーマはひとつ。「空気力学(エアロダイナミクス)」とは。


#1)ピクシーズの詩、ブラック・フランシスの屈折

「モエかん」の昔から、すかぢはピクシーズというバンドから言葉を引用します。
実際すかぢは以前Twitterでバラしておりましたが、この「すばひび」もピクシーズからの引用があります。そう、空気力学。

ピクシーズというバンドがいます。アメリカはボストンで結成され、爆発した狂気の轟音、金切り声をぶちかましたと思えば、時に奇妙に抑制したり、また変なネジくれたユーモアをかますバンドでもあります。一言でいえば、変なバンド。
リーダーでギターでボーカルは、ブラック・フランシスという……まあ、当時はパッと見、パッとしない、ちょいオタクっぽくて鈍そうにも見える青年でした。服装もカッコ悪い。(その後、物凄い禿頭の巨漢になる)
そんな青年は、変なものをやたらと摂取します。SFや、スペイン文学や、古い音楽や映画。それが彼の妄想頭脳のなかで、発酵して科学反応して、異様な世界を作り出します。
ていうか発想からして、着想からして違う。「Alec Eiffel」の歌詞ですが、こんなふうに残響は意味を把握して、訳してます。


Pixies 「Alec Eiffel」
(作詞作曲・ブラック・フランシス)
(訳・残響)

空気力学のパイオニア
(チビのエッフェル、152cmのエッフェル!)
皆は彼をマジ頭良いと考えてる
(チビのエッフェル! クソチビのエッフェル!)
アレックが「大きい」って考えてるものを、
皆はそれを男根崇拝って呼んでる
(ちっけえエッフェル! Little Effel!)

アイツら皆、彼のパノラマ的な視点なんて分かりゃしなかったんだ
チビのエッフェルはアーチ通路の下に立っている。

身を低くし続けることで意味なんか生まれやしない
いつか民衆は、ごっついクソみたいに密集するだろうさ
アイツら、塔なんて求めちゃいない。
でもアレックは他のやり方で塔を作る。

(小さなエッフェル、何がそんなモノ残るもんか!)

身を低くし続けることで意味なんか生まれやしない
身を低くし続けたら感覚能力は消えてしまうんだ!

小さいエッフェルはアーチ通路の下に立っている。


アレクサンダー、君の立つ姿が、空気力学のアーチ橋の下に見えるんだ
俺には見えるんだ、君の立つ姿が、
空気力学のアーチ通路の上に……
見えるんだよ…………アレクサンダー!



ーー「アレック・エッフェル」とは、パリのエッフェル塔の設計者、アレクサンドル・ギュスターヴ・エッフェルのことです。
この歌詞、かなり意訳しています。(   )内は全部「Little Eiffel!」っていう掛け声コーラスですから、意味を取ろうとするとかなり意訳になります。

しかし、屈折してます。その後パリの代名詞ともなるエッフェル塔の設計者、のちの空気力学(航空力学)の先駆者だったエッフェルの人生に、何かを見出して、何かを語ろうとしています。

エッフェル塔は、1889年にパリで行われた第4回万国博覧会の目玉として建築されました。当時(としては)、この奇抜な高層建築は議論を呼びました。パリの美学を損なう、みたいな。モーパッサンはメッチャ嫌った。グノーも嫌った。しかし、やがてこの塔の価値は、今やもう確定ですね。近代建築の粋のひとつとして。
また、この塔は鉄骨のみで組み立てられたトラス構造の塔ですが、それはつまりは力学の表象といえました。力学……そう、これは、「ただ石を積み上げて高く高く」の建築ではなく、力学の理論を基にした近代建築であります。ようするには、個人の思考による意志、意志による思考が導いて、世界にひとつの成果を打ち立てたものです。
空気力学の。


#2)すかぢの詩、空気力学

ディレイのきいた、不思議な歪みの高音ギターからこの曲ははじまります。しかしドタバタしたドラムです。ベースはどこまでもまっすぐに。ああ、ああ、これこそが「オルタナティヴ・ロック」! そこにはヘヴィメタルの重音はないけれども、どこまでも虚空を貫き、空を駆けるかのような音がある! ピクシーズ、ソニック・ユースなどのバンドが切り開いてきた、細い音が無限に世界を駆け巡る、美の表れ……ノイズの中に人間性と自然性を見出し、哲学や文学性すらもギターノイズと共に語っていく、それが「オルタナ」です。決してメジャーではない。常に影の存在、常に「もう片方」というか、「王道とは違う別の価値観」。王道には王道たる所以があるとわかっていてもしゅぷれーむ、という感じです(わかるか!)

正直、自分、エロゲソングを聞き始めたとき、趣味に合う曲はほとんどありませんでした。でも、この「空気力学少女と少年の詩」だけは別です。本物のオルタナだ。バンドサウンドは線が細く、それでいてどこまでも切れ味が鋭い。始終ドタバタするドラムなんか「これでなくちゃ!」と思わせるし、エフェクトかけまくったギターは「これなんだよオルタナギターの美学は!」という魔法です、魔法がかかってるんだよこの曲には!

「歌い上げる」と「語りかける」の中間でありながら、浮世離れした空気感のはなの歌唱は、もうこの曲にどうしたって欠かせないものです。「この歌詞なんなの?」と思うと同時に「意味わかんねえけど格好いい!」と思わせる。深い哲学的意味性をめぐって、この曲の考察をしているすばひび読者は今日も生まれ続ける。

もうちょっとこの最初のディレイギターについて語りましょう。メインのフレーズ(タラララララララ、タラララララララ)は、「孤独だろうが、その先が孤独だろうが、理解されなかろうが、自分はこの音を空に放つんだ! 世界に響け!」と音楽モノの漫画のように意思表明するかのごとく高音が放たれます。決して演奏的には高度なことはしていない、おそらく開放弦を使ったトリル奏法の単音フレーズ。けど、ショートディレイや、おそらくファズを使ったエフェクターの音作りなどは、高度すぎるほど高度で音楽的。そのバックで、アンプを歪ませてコードをストロークしているのが、メインのフレーズと同期させてふしぎな厚みを得ています。ふつうこういうバッキングだと、もっさりした「音の壁」ができてしまうのですが、この場合、どこかその壁感が薄い。でも、その薄さには意味がある。これをシャープな音といいます。それが描いてるものを言い表すのは難しいですがーー孤独な存在性を、保証してるというか、「これでいいんだ」って言っているというか。ドラムもそれに承認を与えるかのように、スネアを裏打ちでスッタンすったんと響かせます。不思議なほど人懐っこいキャッチーでありながら、どんな夏であろうとも「さわやか」では言い表せないほどの冷たい疾走感があります。青春? そんな手垢表現など、まみれの天使!
もうこの最初のディレイギターでヤラれたもんです、わたしは。

歌詞のことについて今は深くは語りません(いずれすばひびについて語るときのために)。ただここでも、のっけから「空気力学」と歌われます。それに意味がないはずがない。
しかし、「この曲流のダウンビート」というか、サビ前で落ち込むところがあります。そこで「空の青 水に変わり 溺れる人々 世界で沈み」という、矛盾した表現でありながら、この表現でしか洗わせられない世界。「輝く翼で 水をかき分けて 行くんだ」……この表現はなんでしょう?

ここで空気力学です。もっとも、「Alec Eiffel」における空気力学(エアロダイナミクス)とは、正確には「航空力学」で、空気力学の中でも航空機を対象とした領域のことです。ここで揚力や、ヨー軸やピッチについては語りませんが……w いわゆる飛行機の先端フォルムが「魚」に見立てられてることはよく知られたことです。流体力学ですね。そういう方向から見たら、魚と鳥はむしろ近い。

さらに補助線を引くならば、聖書における「生」を象徴しているものは、魚であるという見解も。(イエスの最初の弟子ペテロは漁師でしたし、少量の魚とパンを無限に増やすって奇蹟も)。ただ、イクテュス・シンボルの方向から見ると、これは初期のキリスト教徒の隠れシンボルだからこそ、十字架的に輝いてもいず、世界に対してマイナーであった、という風なシンボリズムでもありました。

そういう風に、メタファー上の補助線を引いてみると、この曲の矛盾表現の美学がよりわかってきます。この詩は単なる幸せなんか歌ってなくて、ひとつの孤独な精神が、世界から疎外された精神が、それでもどこまでも飛んでいくんだ、という詩です。っていうかそのことってこの曲のファンだったら誰でも知ってるっつうの!

だからもっと深く読まなきゃならない、ここまで文を重ねたからには。
で、空気力学、航空力学のことですが、「空気をかき分ける」というのは、今ここでニューリン、もといニュートン力学はやめときますが、何らかの空気抵抗を受けるということです。空を飛ぶということは、何の抵抗もなく理想環境下で飛べるという抵抗なしのものではありません。だからこそひとは空気力学でもって抵抗を減らそうと考えます。

その抵抗を減らすということは、「身を低くし続ける」ということとイコールなのでしょうか。あるいは、身を低くし続けることを良しとして、日々を暮らし続けることをどこまでも肯定するのでしょうか。
この歌は……そうではない、と言います。いくら自分がエッフェル的に世間の無理解だったり、男根崇拝と揶揄されても。ブラック・フランシスが奇妙な妄想を抱き続けて、それでも空気力学のアーチ橋の下に立つ小さな偉大な男に自らを重ね合わせたように。すばひびのキャラは……すかぢは? それはここでは語りきれないけれども、ある程度わたしが言いたいことっていうのは、ちょっと伝わったかなぁ、って思うのでありました。空を飛ぶことは無抵抗条件では決してありえず、水の中で溺れるような感触さえありますが、それでも空を飛ぶことの意志と、空を見続けること。孤独のなかで病むことと、それでも孤独の中の美しさを見出すこと。

それらを全部踏まえた上で、そんな空気力学少女は、少年と出会うっていう、ね。そんな詩です。
 この曲が収録されている「しとろんソフト メモリアルソングス」というミニアルバムは実に奇妙なCDである。収録曲のエロゲタイトルは、「みここ(じょうずにできる恋愛成就)」「妹スマイル(Yes,You can maki it!)」と、ここまでは確かに「しとろんソフト」。だがラストトラック、3曲目に入っているのは「どこでもすきして いつでもすきして」のOP曲「君のスキにしてして♪」である。
 実は「どこでもすきして いつでもすきして(以下してして)」は、「しとろんソフト」作品ではもともとなく、「C:Drive.」の作品であることは、このえろすけを見れば一目瞭然である。ではなぜこの曲がしとろんコンピに入ってるか? 
 単純に「してして」がそれなりにヒットしたから、この路線(ギャグ&イチャラブ路線)を突き進むべく、Cドラ系列で新たにブランド「しとろんソフト」が立ち上げられたわけである。なので、「してして」こそがしとろんの直系の元祖であり、むしろ2013年、onomatope*「ずっとすきして たくさんすきして」が何か「してして」の直系の後継作っぽく売り出したのは、「え……このタイミングで? それも、その後継の仕方、ええんか?」とわたしは疑問に思った。
 さらにもっと言えば、このしとろんソフトが現在呼吸をしていない、というのは、3作目「初恋タイムカプセル」開発時に、「なにかとてもいやなこと」があったらしく、「初恋タイムカプセル」の出来は非常にお粗末。というか「なにかとてもいやなこと」があったとしか思えない、不穏さがバリバリに漂っている作品……敗戦処理作品であった。
 このあたりは当批評空間の「商品の説明」欄では語られない、というか語ってはいけないことだろうからここで語る。
 さて、「しとろんソフト メモリアルソングス」は2010年にドロップしたものだ。しとろん第一作「みここ」は2009年2月作、第二作の「妹スマイル」は2009年11月作品である。「妹スマイル」のまあまあのヒットを受けて、「ここで稼ぐ!」と思ったのかは知らんし、もっとも「結構この路線(ギャグ&イチャラブ路線)も定着したな、よし、なんか出すか!」と思ったのかも知らない。ただ、このミニアルバムが出た当初のしとろんファン界隈は、「そんなに悪い感じじゃなかった」ということだけは付け加えておきたい。その後のしとろんを語る界隈が、「妹スタイル」で海原・鯉川ライターコンビが生存してることが確認されるまで、非常にビミョーな感じだったことも併せて……。
 うん、たしかに、このアルバムは、そういう、凪のように幸せな一時の花めいたものだったのかもしれない。

さて、どんだけ前事情語るねん、ということで、「Yes,You can make it!」の話に入る。
「妹スマイル」ははっきり言って妹もののB級エロゲである。ルート間の出来はバラバラ。しかしルートによっては非常に良いイチャラブ&ギャグを繰り出してくれる。
 そんなエロゲなのに、大変良い曲なのである。全体的にデジタル系のアレンジをしているのにかかわらず、非常にオーガニックな味わいで、これを分析すると、二つに分けられるだろう。
(1)新藤真弓の説得力ある穏やかでのびやかな歌唱
(2)ストリングス、デジタルサウンド、バンドサウンドのそれぞれ中間点とも言える音像の調和

(1)の新藤の歌唱であるが、ここには電波はない。あるのは、兄視点から妹との絆、その日常を描く、非常にしっとりした歌唱。歌詞もしとろんのくせに非常に詩的。タイトルをあえて訳せば「そう、君は「出来る」んだよ!」。
 それは恋なのか、それともシナリオで描かれた「妹が、自分のやりたいことを兄と共に出来た」を描くことであるのか。……後者寄り、とわたしは見たい。路線としては、「少女の日常の中で、妹がいろんなことを「出来た」」、という。
 なにしろ妹スマイルは、近親相姦的なアプローチのない妹ものである。むしろ重要視しているのは、妹の日常での生活。とくに夏希、秋穂のシナリオは、日常のどーでもいいシーンを丁寧につなぎ合わせて、日常の中で兄妹、お互いが手を取り合って、何かが「出来た!」という感情を大事にしている。詩季シナリオの同人風景だって、個人的には描写的に「うーん」と思うとこもあったが、それでもその「出来た!」の感情のみずみずしさは覚えてる。 それもこれも、この非常に実直な歌唱、アレンジ。主題歌自身が、その「出来た!」の感情を裏切ってないのである。(2)の嫌味なく、非常に「懐の深い」と思わせるサウンド・アレンジだってそうだ。非常に丁寧な出来で、聞かせるサウンド。最初、ほわぁあ、というアトモスフェリックなデジタルでテックなサウンドから、一気に羽ばたくようにストリングスが響く。バックはタイトにドラムを響かせる。時折、寂しげなエレクトリック・ピアノがバックで鳴らし、そこで感情性というものを描く。
 サビに至るところでは、またストリングスが空に駆け上がるように響く!「広がる無限の空へ」「その小さな背中 飛び立てる勇気与えよう」
 ……そう、これは実は兄の歌であるのだ。サビ以降の葉加瀬太郎か、それともアイリーン・アイヴァ―スかとでも言うような熱情的なヴァイオリンソロと、ギターソロの絡み。この熱よ。兄視点で、「いつも妹を応援する」「君(妹)の健やかな生き方を失わないでほしい」という思いがまっすぐに伝わってくる。そういう佳曲……を通り越して、隠れ名曲の域だとわたしは思う。
 しかし、新藤の歌唱の「与えよう」という大事な歌詞が「あたへぇよほぅ~」と聞こえてしまう箇所、ここだけはどーにかならんかったのだろうか。