マルセルさんの「Clover Point」の感想

ネタバレ感想を見たくない場合、文字を背景色に設定することが可能です。 → 設定変更

**ネタバレ注意**

ゲームをクリアした人むけのレビューです。

これ以降の文章にはゲームの内容に関する重要な情報が書かれています。まだゲームをクリアしていない人がみるとゲームの面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。

エロゲにおける血縁関係の背徳感というのを冷静に分析してみると、基本的にはまぁバカバカしいといえるわけだ。たとえばあるヒロインシナリオのテキストを一字一句変えずに、そのキャラ設定を「義妹」を「実妹」と一文字変えるだけで、レッツ背徳だと萌えてしまう人は結構多いわけで、ここで起きていることは、その作品のベタ物語内容による背徳感の想起ではなく、ユーザーの心理において「オレは本来はイケナイ実妹キャラを攻略しているんだ」とメタ自作自演的に背徳感を生成しているのである。そして、この作品の夜々シナリオは以上のような二つの視点のレベルを犯罪的なまでに利用しまくる。夜々が普通の後輩キャラだったとしても、このキャラ造形と凄まじいデレ日常描写で相当に評価されていただろうが、そこにメタ的な近親相姦設定を匂わせつつ、しかし確定させないことにより、普通の恋愛物語は背徳感を帯びながらも運命的な純愛物語へと変身するだろう。
(0)系譜の近親相姦の聖戦の近代の背徳の悪魔の天使の変奏曲

「ファイアーエムブレム 聖戦の系譜」というゲームをご存知だろうか。ファイアーエムブレムってそのままカタカナで書くとファイアーボール!みたいで超絶的にカコ良すぎるんで、以下はFEって略することにはする。
いまさっきWIKIを見たところによると、発売当時は49万本とエロゲ感覚で言えば超ヒット本数だけれども、当時のゲーム販売数から言えば「プチヒット」程度の売り上げだったらしいし、
以降は特にリメイクもされずにその噂もなく、2007年にwillで出来るようになったくらいの商業展開しかしていない。だが、ググってみると、未だに複数の攻略ページやファンぺージが定期的に出来たりはしているみたいなので、
基本的には「あまり人には知られていないけど、濃ゆいマニアが割といるカルト的人気を誇る作品」だと言ってもおかしくはない作品だと思う。むろん、実妹スキーの諸君らは必ずやるべき作品であるのは言うまでもないが。

さて、この作品の何がそんなに凄くて、どうしてこのクロボのレビューで寄り道的に取り上げる必要があるのか。
後者の点に至っては、この素晴らしいエロゲーが何故かこのがエロ助のデーター覧に載っていないこともあるのだが、WIKIを見ても余りにも情報量が多すぎると思うので、今回のレビューに関係するFE聖戦の特徴をふたつあげると、
まず一つ目は「恋愛出産システム」である。キャラ同士の相性やら会話イベントやら色々あるんだけど、基本的には異性ユニットを隣接するヘックスに置いておくと、そのキャラ同士の好感度が少しずつ上がっていって、
それが100になると二人は恋人同士の関係になる。恋人同士になると戦略SLGシステム的には金を渡すことが出来る(妙にリアルでいやーね)ようになったり、恋人同士を隣接させて闘うとときどきラブラブアタックが
炸裂したりはするんだけど、戦略SLGのゲーム性においていちばん重要なのは親世代のカップルの能力(成長値やスキル)の総和が子世代ユニットの能力(成長値やスキル)へと受け継がれるという「種付けシステム」であろうか。
各カップルが産むのは二人の兄妹なんだけど、二人とも大抵違う職業(魔法使いと剣士とか)についており、兄妹が要求するスキルや能力値が異なるものだから、そこで、それでも二人のバランスを取るのか?とか、
いやここは妹キャラを優先させてカップルを選ぶのか?、いやいや、おれはもう能力値関係なくカップリング萌えでいくぜー!とかいろいろ妄想しながらカップリングを組み合わせていくのはなかなか楽しい。

んで、二番目の特徴としては、いまさっき少し触れたけど、この作品の「二世代にわたる物語」における何重にも張り巡らされた近親相姦のテーマである。まず、二世代にわたる物語の大筋をざっくり紹介すると、
シグルト君つーのが「親世代」の主人公であり、伝説の十二聖戦士の血を受け継ぐ王子様なのね。それで、幼馴染みの国が蛮族に侵略されて、彼女を助けに軍を動かすところから物語は始まるんであるが、
幼馴染みを助けたり親友の妹をこれまた助けたりしている最中に、ディアドラという女性に出会って速攻で恋に落ち、前述した恋愛システムとは関係なく強制シナリオ進行でこの二人は結ばれる。
んでも、ディアドラがセリスというシグルトの子供を産んだのち彼女は何者かに誘拐されてしまい、そこからシグルト君の転落人生がスタート。幼馴染みを助けるのも、親友の妹を助けたのも、基本的には全て、
「グランベル家」という連合王国の王様の命令と言うことでやっていたんだけど、その連合王国の王様が突然殺されちゃって、殺したのがシグルトのとーさんってことで逆賊扱いされちゃうんだよね。
シグルト君はそこから必死の闘いを挑み、何とか自分の無実を晴らそうとすげー勢いで立ちふさがる敵をぶっ殺しまくって、グランベル王国の首都に辿り着く。しかし、そこに待っていてのはNTRオタが射精しそうなバットエンド。
なんと、その首都に玉座に立っていたのは、シグルト君に蛮族どもを倒してくれと命令したアルヴィス君であり、アルヴィス君の隣にいたのは亡き王様の血を受け継ぐ娘として、そして、アルヴィス君の妻としてのディアドラじゃないですかと。
そう、全てはアルヴィス君の手のひらでシグルト君が踊っていたってわけだ。自分に刃向かう敵をシグルト君にやっつけさせて、最後にその騒乱の責任を全てシグルト君になすりつけて、自分はまんまと王様になろうってオチでシグルト君糸冬。

しかし世の中うまい話はあんまし転がってないわけで、シグルト君の闘いの数十年後、アルヴィス君とディアドラの息子であるユリウス君が暗黒竜の力に目覚めて、オヤジを蔑ろにして子供達を生け贄にするような恐怖政治をやり始めてしまった。
そう、全てはアルヴィス君の手のひらで踊っていたんじゃなくって、アルヴィス君もロプト教団という世界を滅ぼす暗黒竜の復活を目指していた連中の手のひらで踊っていたと言う話だったのだよ。
細かい話を抜きにすると、アルヴィス君には炎の聖戦士の血と暗黒竜の血が半分受け継いでいる。そして、ディアドラには暗黒流に唯一対抗できるナーガの血(グランベル王族の血)と暗黒竜の血が半分混じっている。二人は異母兄妹だったわけだ。
この二人の暗黒竜の血を一つにすれば、真の暗黒竜の血を持った子供が生まれるのだから、ロフト教団はシグルト君の元からディアドラを奪って記憶を消し、アルヴィス君にも異母兄妹の関係を告げずにこいつと結婚すればお前も王様になれると唆して、
みごと彼らの計画は成功したって話である。あとは、暗黒竜に唯一対抗できるナーガの力を受け継いだ、アルヴィス君とディアドラのもう一人の子供で、ユリウスの妹であるユリアをぬっころせばしゅーりょーなわけだが、間一髪のところで、
ディアドラが身体を張ってユリアをテレポし、自分のもう一人の兄であり、世界を救うために立ち上がった第二部の主人公であるセリス君と運命的な出会いを果たす。だがユリアは今までの記憶を失いそれらの経緯を知らないセリスは互いに恋に落ち……

以上が第二部のオープニングである。まぁ二転三転するストーリーというか二姦三姦しまくるエロエロストーリーであり、僕のこの粗筋紹介でちょい勃起したり、神話的なんたらとか抜かす変態諸氏はいますぐにこの作品をやるべきであろう。
むろん、このメインプロット以外のサブプロットにおいても、近親相姦の主題はあちらこちらで展開されまくっている。まず、そもそもの設定からして、前述の暗黒竜云々の下りからもわかるように、
この作品の世界観では基本的に近親婚が推奨されていると言っても良いわけだ。何故なら、同じ聖戦士の血を持った者同士が結婚すれば、それだけその聖戦士の血が強まりその分だけ能力も向上するのだから、
味方キャラ敵キャラも含めて、そのままガチで近親相姦してますみたいな設定が(むろんボカされてはいるものの)ちょっと深く考えればすぐわかる程度にはポンポン出てくる。
味方キャラで言えば、親世代のクロードとシルヴィアはガチで実兄妹であるものの、二人ともその記憶を失っているため、まぁこれは強制カップリングではなく、あくまでカップリングを選択すればの話ではあるが、
基本的にガチで兄妹カップルになりガチで子供を産んでしまうわけだ。しかも、この組み合わせは戦略SLGシステムで言えば「最良」の組み合わせであり、この組み合わせではないと子世代ではクロードの聖戦士の杖は使えないのである。
ガチ近親相姦ではないにせよ、例えば親世代ではアイラ×ホリン、子世代ではほぼ関係ある血筋キャラ全員に「同じ血族の者同士は何故か惹かれ合う」という近親相姦オタが狂喜乱舞する設定が仕組まれており、
現にそういったカップルは、恋愛システムにおいても好感度が高まりやすいような相性設定になっていて、結ばれた後には「やっぱ近親者同士の恋愛もエッチも相性が良くてサイコー」みたいな会話イベントが必ず発生するオレ得世界観。
「恋愛システム」と「近親相姦マンセーな物語世界観」が淫靡なかたちで共犯関係を結んでいるのは、言うまでもない。基本的に「恋愛システム」は(表面的な兄妹設定や既婚者を除き)どんな男女のカップルの結びつきも自由であるが、
その「自由に恋愛できる」という表面的なシステムを前提としておきながら、しかし前述のようにガチ近親相姦カップルが異常に優遇されていたり、いとこ近親相姦が発生しやすようなゲームバランス調整が暗になされており、
この「ゲーム性」と「物語性」の近親相姦はセリスとユリアの恋愛においてクライマックスを迎えるであろう。ここでは「自由な選択」と「近親相姦の運命論」が、これから述べていくように、実に伝統的なやり方で結びつけられているのだ。


一般的に、西欧近代の文学作品における近親相姦というのは、みんな何となく「ありそうありそう!」とは言うものの、じゃあ具体的にどんな作品があるんですか?と言われると、すぐさま思いつかない場合が結構多い。
例えばWIKIの「大衆文化における近親相姦」でもシェイクスピアとワーグナーぐらいしか例にあがっていないわけだが、この二つは近親相姦の文化芸術コードの上では、あまり重要ではない作品である。
歴史的に見ると、近親相姦物語を結構と書いたばかりではなく、そこに重大な意味を継続的に見いだし後に大きな影響を与えたのは、年代的に言うと18世紀の中ごろから19世紀の始まりにかけての時代であり、
思想史的にはルソーやヴォルテールやディドロといった啓蒙主義派や百科事典派と言われた連中であり、文学作品的には「若きウェルテルの悩み」の代表とする「ロマン主義」の先駆け的存在である疾風怒濤運動である。
そんなこと言われてもワケワカメですと言う人のために簡単に説明するならば、まずディドロのあまり知られていないが「ブ-ゲンヴィル旅行記」という作品がある。これはこの時代に腐るほど書かれた、
「ヨーロッパ以外の文明や民族の特徴」を描くことによって、自分たちが属するヨーロッパの規範や文化の因襲を「外じゃそんなことやらなくても立派にやってるよバーカ」ってノリで批判するようなフィクションであり、
ディドロはそこでヨーロッパ以外じゃ近親相姦ってフツーに行われてますよと(やや誇張を込めて)書いたわけだ。ここで一つ「近親相姦をタブー視する」という常識が一つ破られたわけである。

そこに「若きウェルテルの悩み」のような文学作品が思わぬ加勢をする。この作品については物語の内容も、それが時代にどんな影響を与えたのかという点も、ググればわんさかである話なので省略するけど、
これも簡単に話を纏めれば、アカデミック界隈で言えば「ブルジュワ主義的恋愛物語」に対するアンチであり、まぁこれを今の言葉に直すと「常識的勝ち組恋愛結婚物語」に対するアンチということになるだろうか。
これによって、今までのように理性と分別による恋愛が社会の調和を実現するような「恋愛物語」ではなくて、情熱や直情的行動やむしろ反社会的な行動を巻き起こす恋愛こそが「ホンモノの恋愛物語」ってことになったわけだ。
一つだけ、ウェルテルの特徴を現すシーンを紹介すれば、それはウェルテルが姦通の相手であり恋人であるロッテから、自殺の為に使う拳銃を受け取って、喜びながら死んでいくシーンであろう。
別にウェルテルの気が狂っていたわけではない。女の手で直接殺されるということは当時の常識ではありえないことであり、それだけロッテはウェルテルを思っていた、つまり死後の世界で二人は幸せになれるとウェルテル君は妄想したわけだ。
この二つの結合が「近親相姦の物語」を強力に推進したのは言うまでもあるまい。しかも時代は所謂「フランス革命」の時代である。旧世代の美徳や分別や世界観を表すモノとして「ブルジュワ主義的恋愛物語」が槍玉に挙げられて、
そういった理性や分別や計算性を投げすてさった「本能」や「熱情」に突き動かされる、しかも運命的な「近親相姦の結びつき」こそが真の恋愛だと革命的な気分で盛り上がってしまったような傾向があったわけだ。
むろん、賢明な読者の皆様がたは、この結びつきはある種の飛躍となんというか「矛盾点」みたいなものを感じる人もいるだろう。理性と旧体制批判が結びつくことはあるかもしれないけど、
理性と本能、熱情と合理性が乖離することだってあるんじゃないのか?と。こういった矛盾点や飛躍は、おいおい個々の作品の分析を通して明らかになっていくことだろう。

こうした物語や時代の全体的な気分は、一件余り関係ないような物語にも「近親相姦物語」の影響をおよぼして、近親相姦の文化芸術コードを微妙に変えている。それが、ゴシックロマンとE・A・ポーという作家の結びつきである。
ここらへんの話は嘘屋信者さんの方が詳しいと思うけど、まぁ教科書的に纏めると、ゴシック・ロマンつーのは、1764年のウォルポールの「オトラント城」を嚆矢とはするものの、当時はあんまし流行することはなく、
しかし1789年以降にラドクリフ夫人が「イタリア人」を代表とする一連の作品を書き上げてから、全世界的に「ゴシック・ロマン」という名前とその典型的な物語が広がった。他にはルイスの「修道僧」とかね。
ここらへんのジャンルは近親相姦物語とそれ以上にマニアが多いので、まぁ適当にググって頂ければ物語の内容はわかると思うが、物語を思いっきりパターン化すると、まずは大抵若い女性が主人公であり、
彼女らが大抵は「古いお城や古い教会跡」を何らかの事情で訪れると、そこで何やら恐ろしげな人物やら正体不明の幽霊や怪物が襲ってきて追いかけ回されて、時には捕まってレイプ寸前になりながらもまた助かって逃げ回ったりと、
まぁそんな感じの繰り返しを300ページほどやっているうちに、その恐ろしげな人物の正体やら朽ち果てた城や教会に伝わる「血塗られた歴史」が明らかにされていき、最後は彼女を助けるためにやってきた青年が、
いろいろな方法でその怪物をやっつけたり、血塗られた歴史を何らかの方法で解決すると、古い城や古い教会や古いお屋敷がお約束の通り「燃え上がって崩れ落ち」命からがら脱出した二人は結婚してハッピーエンドというパターンである。
このゴシックロマンにも、上の近親相姦物語と同じく、啓蒙主義理論と反ブルジュワ主義とフランス革命の関係性を跡づけることが出来る。上の説明を読んで、わかる人にはすぐにわかるとは思うが、
ゴシックロマンにおける「古いお城や古い教会跡」というのは、大抵は旧世代は今にも残る旧世代の権力の象徴であり、ラドクリフ夫人の「イタリア」に代表されるような「怪しげな教会や怪しげな牧師」というのは、
そのまんま「腐敗しまくって怪しげな陰謀を張り巡らせている」プロテスタントの反カトリックのイメージである。んで、そういうワケのわからねぇ旧世代のモンスターたちにヒロイン達が追いかけ回されていても、
結局は「正義の主人公」みたいな理性あふれる人間が、「血塗られた過去の正体」を暴いたり、実は幽霊だと見えたモノが単なる機械仕掛けのカラクリだったりするのを暴いて、旧世代の象徴である「お城やお屋敷」を陥落させちゃうわけだから。
実際にゴシック・ロマンの書き手の多くは、啓蒙主義理論の擁護者であり、フランス革命に賛成するかはさておき、旧世代や旧支配階級への批判という点では、わりと共通するところが多かったと言える。

ただし、もちろんそれは「あくまで表面的な一貫性」に過ぎない。というのも、例え書き手の意図が啓蒙主義を擁護し、旧世代の悪癖や因襲を非難するために「ゴシックロマン」という形式を選んで、
作中の中で必死に「旧世代のモンスター」たちに罵倒を繰り返していたとしても、精神分析的に見れば、いやべつだんフツーにテキトーに読んだとしても、彼らが「旧世代のモンスター」に魅惑されていることは明らかなのである。
ここらへんは、今のオタ問題で言えば、たとえば10数年まえだと某庵野監督が(どこまで本気だが知らないけど)オタクやオタ作品をあれこれ罵倒している癖に、実際にはそのオタク達に一番好かれる作品を作ってしまったように、
或いは、反オタク的な発言を繰り返している人が、実は一番オタク的な特徴を現す発言や行動をしてしまう人が多いように、過剰な嫌悪や批判対象への過剰な執着は、まぁだからといって「同族嫌悪じゃねw」とバカにすることはないと思うけど、
しかし批判対象が持っている何らかの要素に、彼らはどうしようもなく強く突き動かされているとは少なくとも言えるだろう。上のゴシックロマン作家で言えば、彼らは理性的には旧世代の悪習や血塗られた歴史に反発しながらも、
その「旧世代のモンスター」が発する、何とも言いがたい恐ろしさや血塗られた歴史が語る人間の暗部といった部分に、どうしようもなく魅了されており「批判をする口実のため」にそれを何度も繰り返し描写してしまっている。
これは穿ち過ぎる議論だとは思うけれども、上のような「ゴシックロマン作家の表面的な理性的批判」は、この時代によくあったポルノグラフィティの形式的言い訳と同じなんじゃないかという人もいる。
ポルノの形式的言い訳つーのは、基本的には序文で「私はこんなエロイ物語なんて書きたくないんだけど、世の中にはこんなエロくて酷いことが現実にあることを示そうと思ってやむなく」と棒読みで書いたあとエロエロ物語を語ったり、
最初から大不況の真っ直中に増税したりデフレ誘導政策を取るような悪徳貴族の悪逆非道サド物語を語りまくったあと、最後の数ページに悪人が突然死し「駅前留学ならNOVA、円高誘導なら野田」とアリバイオチをつける行為である。
これは、前述したように些か疑いすぎな議論ではあるが、以下にも少し述べるように、近代の文化芸術コードでは意識的にエロ批判説教に見せかけたポルノグラフィティがそれなりに出回っているものだし、
時としては本人が真面目に説教をしていて、近親相姦を批判しているように見えながらも、それが結果的には近親相姦の魅力を語ってしまっているようなことが多い。近代以降においてはしばしば聖なるものと性なるものの対立関係は表裏一体である。

とはいえ、そこらへんの事情を、たぶん19世紀の作家の中では、少なくとも10本の指に入るぐらいは知り尽くしていたのが、一方では理性と合理主義のシンボルである「探偵小説」の元祖ともいえる作家であり、
もう一方では「ロリコン」の語源となった作品の原型的作品を書いてしまったE・A・ポーである。彼の半生についてはガチでリアル13歳の従姉妹と結婚し彼女を「sis」というあだ名で呼び続けた偉業を語ればそれで充分だろう。
そして、ポーにとっての「sis」はもちろんそれが「妹」の意味であると同時に、それはスターウォーズ的に言えば「暗黒卿」の力であるのだ。ポーの近親相姦を主題とした作品は非常に多い。というのも、
それが直接近親相姦を扱っていないような作品でも、たとえば「モレラ」や「ルイジア」のような主人公とヒロインに何ら血縁関係のない作品でも、ヒロインに死んだ妹の魂が乗り移っていると暗示されることが多いので、
まぁ少なくとも三分の一ぐらいの作品には近親相姦主題の変装を見ることが出来るんだけど、直接的に血縁関係が示されているのは「ペレニス」や「エレオノーラ」であり、ガチに実妹だと書かれるのが、
たぶん名前ぐらいはきいたことがある人は多いだろうけど「アッシャー家の崩壊」である。ただ、これは直接的に近親相姦が描かれるわけではない。表面的な粗筋を紹介すれば、謎のお屋敷に住んでいる友達に招かれた語り手が、
友人の最愛の妹の死を目撃し、その友達が最愛の妹が死んでから謎の病気に掛かっているのを知り、ついにはその死んだ妹が墓から甦り兄の元までいき一緒に死んで、そしてゴシックのお約束の通りに謎の屋敷は崩壊する。いっけん訳がわからない。

しかし、これは上で書いたゴシックロマンの文脈と、ポーの前述の執拗な作品群を知っておけば意味は明白だろう。ポーにおける近親相姦というのは、妹のマ○コにぶち込んでみたい云々の性的欲求とは少し違っており、
どちらかと言えばある種の死体愛好癖とマゾヒズムが混合したような性癖だろう。むろん、これは直接腐った妹のあそこがええ感じでグチャグチャでキモチイイーって話ではない。
概念的に病弱で今にも死にそうな健気な妹を見守る兄という妄想に萌えながら、死んだあとも自分を慕って墓から自分を向かいに来てくれる妹にハァハァしつつ、
タナトス(死の衝動)とエロス(性の衝動)を同時に与えてくれる、ゾンビ妹の死の抱擁で絶頂しながら一緒に天国に逝こう!という完璧なエンディングなのである。
このように見れば残りの物語の謎も小学生でもわかるハズだ。つまり、語り手の人間がアッシャー家に行ったからこそ、兄と妹の閉じられた闇黒のパラダイスのバランスは崩れて、妹の方は死んでしまう。
兄の病気は妹があの世から送っている死の合図であり、妹は墓の底から甦り兄をこの世からあの世へ向かいにいって、そして、もう誰からも邪魔が入らないようにとアッシャー家全部を墓に変えて二人の愛の死の巣へと変えるわけだ。
このアッシャー家の崩壊が発表されたのは、1839年であり、ラドクリフ夫人が巻き起こしたゴシック・ロマンブームからだいたい半世紀近くたっているわけであるが、この時点で40年前のゴシックロマンの意味が、
180度反転していることに、注意をして欲しい。最初のゴシックロマンは、例えそれが表面的に見えるとしても、一応は理性を持って過去の恐怖や因襲を批判するという形式を持っていた。
しかしポーはそれを全部ひっくり返して悪徳と暴力が蔓延るゴシック・ロマンの物語世界を、その暗闇におおわれた閉鎖された空間こそが妹との真の合一を完成させることができる最高のユートピアに変えてしまったのである。


そして、これは「近親相姦の成就に否定的な近親相姦物語」においても、似たようなことが起きているのである。近親相姦を否定するはずの物語が、その近親相姦の物語と全く同じ論理を語ってしまって、それを逆転させてしまっている。
そのようなジャンルの物語とはどういうものか。おそらく、上の「アッシャー家の崩壊」も、僕が言ったような解釈をしたとしても、そのようなジャンルの物語だと認識されて「これは近親相姦を文学的に語っているからOK」みたいな、
反応をする人は実に多いだろう。その大半はまぁE・A・ポーという文学的権威に単純に平伏しているだけの可能性は高いが、とはいえ、似たような物語を「これはポルノじゃなくって文学的作品だ」とかいって、積極的に褒める可能性も高い。
二年前の「非実在青少年」問題の時に、近親相姦の物語が認めるか認められないかみたいな話になって(無論、真の論点は、たかが役人風情になんでそれを決める権利を与えるかってところであるが)、某役人は一丁前のツラをしながら、
「近親相姦を肯定的に描いている作品はダメだが、文学的に描写されていたり、近親相姦を否定的に描いている作品ならば許される」と言うようなことを言った。これはその法案の是非を除けば、たぶん大多数の人間が支持する見解だろう。
つまり、実妹と平気にフツーにセックスして世の中からも認められる物語は絶対に認められないが、実妹と周囲に反対されながらもセックスはするが、世間に追い詰めれて心中する二人を描けば「文学的だ」という理由でたぶんOKになるのである。
ポーの物語のような「天国で二人は幸せになりました」も基本的には認められるのだろう。彼ら役人や世間の大多数の人々にとっては、彼ら近親相姦を犯す人間は自分の目に見えるところから排除してぶっ殺せばそれでOKだからであるし、
さらには「世間の規範を破らない程度には」そのような背徳感やら葛藤やら劣情やらを楽しむことは彼らも望んでおり、それを悲劇的な運命やらのお涙頂戴の物語を楽しみながら下半身ではなく涙腺を勃起させてオイオイ泣くことは、
文化的にも社会的にも実に素晴らしい人間的な態度であると認められているからである。フクシマで頑張っている人のニュースを見て勇気を貰いながら、彼らを痛めつける政策に賛成することの間には何ら矛盾を感じないことが美徳とされているわけだ。

このような態度は、端的に言うと「感傷的な態度」というべきものだろう。「感傷的」という言葉は結構広い意味で使われてはいるが、基本的には「鳥かごの中の鳥は可哀想だから助けたい」と思うのは、
その鳥が実際に幸せか不幸せであるかに関わらず、基本的には感「情」的ではあるとは言える。しかし「鳥かごの中の鳥を可哀想だと思う自分が感動的だから、その鳥をそのまま放置して何度も感動を繰り返す」というのは、
これはもうは感「傷」的であると断言してもかまわないだろう。この「感情」と「感傷」の絶え間ないループこそが、近代文学における基本的主題の一つであり、「ウェルテル」を書いたゲーテはそれを「親和力」と言ったし、
ルソーはそれを「共感する心」や「憐れむ心」と言ってそれらを讃美し、ここエロ助でもそこらへんを「人間的うんぬん」と言う人は多い。この「憐れむ力」だの「共感する力」だの「親和力」だのを一言で説明するのは難しい。
ぶっちゃけこれは未だにエロゲーの中でも「人間的なんたら」みたいな形で非常にいろ濃く残っているモノなので、今にも残る主題である。ポストモダンといったところで「モダン」は未だに残ってしまっているのだから、
今にも残っているモノを明確に説明するのはなかなかに難しいのだ。とはいえ、ルソーやゲーテの時代に書かれた様々なフィクションを読めば何となくな輪郭は見えてくる。
それは「ウェルテル」を代表として、その祖先に「クラリッサ・ハーロウの陵辱」を持つ一種の「姦通文学」や「誘惑文学」であることが多いが、
要は社会的に認められない恋愛感情は正当化されるのか?とか、性欲の発露と純粋な恋愛感情(純愛!)は両立できるのか?とか、経済的社会的な理由で結婚したりさせられたりするのはおかしいのでは?といった、
今でも充分にメロドラマとして通用する主題群である。「姦通文学」というのは何となくわかるとしても、「誘惑文学」というのは聞き慣れない人が多いと思うが、これはエロゲ的に言うと金持ちヒロインシナリオで、
我が愛する娘を「たぶらかし」おって!許せん!みたいな糞シリアス展開のご先祖サマみたいなものであり、基本的には結婚する気がないのに女性をナンパ気分で弄んだり、或いは今ここでマルセルたんがやっているように、
「純愛思想だとか恋愛物語なんて別に歴史的根拠なんてないんだしー今すぐエッチしようぜー」みたいな悪魔の合理主義を女性に吹き込んで娼婦にさせたりするような主人公や悪役男性キャラが出てくる物語である。

このような「誘惑者」や「姦通者」は大抵においてネガティブに書かれてはいるものの、しかし100%ネガティブな存在だったらそもそも「人間的葛藤」をメインとするメロドラマにはならないわけで、
例えばまぁ「望まれない結婚」をしているような物語だからこそ「姦通」が一種の正当性を帯びるわけで、単に因習的な理由のみで結婚制度が維持されているような状態の物語では「誘惑者」が一種の正当性を持つのであり、
主題の展開としては「強固で因習的で今や殆ど感情的論理的正当性を失った社会の恋愛規範」と「淫欲を好み破壊的だが熱情的で論理的な誘惑者や姦通者」が対立し、その両者によってヒロインや主人公の男性たちは引き裂かれていくと言った塩梅。
そして、この主題の対立を解決するのが、先に言った「親和力」だとか「憐れむ力」だとかそういうヤツである。平たく言えば、論理的にもなりすぎずに、感情的にもなりすぎに、因習的にもなりすぎずに、
相手の感情や社会の状況を「お互いが深く考え感じあって憐れみ合え」ば、喧嘩みたいなギスギス雰囲気はなくなるんじゃないか野田総理だって一生懸命頑張っているんじゃないかといった調子で、
お互いがお互いのことを思って泣き合ったりすれば「その清らかな涙によって全ての罪は購われて、同情の力によって結ばれた」全人類はハッピーになりますよという「ヒューマニズム宗教」がココに生まれたわけである。

我ながらずいぶん乱暴な纏めであるし「本当にそうなのかよっ?」と突っ込みたくなる人も多いと思うが、これはこのヒューマニズム宗教の発展系で最悪の堕落形態である現代人もだいだいだーいすきな「幼女もしくは天使ちゃんヌッコロし感動物語」を、
想定すればある程度はわかるんじゃなイカちゃんが「イカの寿命は一年じゃなイカ」とか言って急に死んだら感動できないじゃなイカ。そう、イノセント幼女や天使ちゃんな萌え萌えヒロインが「世界の罪」を浄めたり、
「人間たちの闘争」を和解に導くために「そのイノセンスな心」を犠牲に捧げる瞬間こそがもっとも感動的らしいっすねあーやだやだ。この代表作はたぶん名前ぐらいは聴いたことがあるであろうストウ夫人の「アンクルトムの部屋」における、
可愛い可愛いリトル・エヴァちゃんであり、彼女の合法的で神聖的な殺人シーンに狂気乱舞的涙腺射精をビュービュー起こしたアメリカ人の皆様方ストウ夫人の思惑通りに南北戦争を引き起こし、かたやイギリスのディケンズも、
「骨董屋」という作品でまぁ似たような可愛い可愛いリトル・ネルちゃんをヌッコロして、当時の下の口は固いが上の口は脆いヴィクトリア王朝の皆様がたがたをこれまたわんわんキャンキャン楽しそうに泣かせまくった。
まぁ、説明するまでも無いというか、今でもこのパターンは殆ど変わっていないので説明不要かと思うけど、要するにその作品内における世界の罪やら社会の対立というのは、基本的には現実の世界の何らかの葛藤を反映しているわけで、
しかしこれに深く突っ込むと「片方の利害ばかり擁護するのは余りにも政治的」(by マスゴミ)とか言われちゃうわけだから、残る手は「中立的でありどちらの立場の心情も理解できるイノセンスな」幼女やら少女やら天使ちゃんヒロインを召喚して、
彼女をその両者に引き裂かれるようなかたちでヌッコロし「おおっ、純粋で憐れみ深き魂が君たち世俗の社会の和解を願って天に召されてしまった!テメーラちっとは仲良くしろよゴルぁ」と「中立的」な説教をするしかないんである。
これほど効率的なエンタメはないよね。だって、一応は現実の社会の対立やら葛藤やらを題材にしているからなにか身近で現実的な感じがするし、そこらへんを抽象化して語れば哲学っぽい雰囲気も出るし、しかも作者はどちらの立場にも、
偏る必要もないからどちらからも文句は言われないままドヤ顔で説教できるし、、読んでいる人も自分の立場を気にしないで安心して幼女をヌッコロし「うう、なんて可愛いな○○たんっ」とか自分の清らかな涙に自己陶酔してりゃいいのであって、
何よりもそのフィクションにおける問題を全て「天使の感動的な死」によって読者の涙と共に解決できるんだからこりゃもう全世界が感動するしかないって。ヒトラーもスターリンも毛沢東もこの手の人間的なお話が大好きだったもんね。

むろん、このヒューマニズム宗教はあらゆる宗教がそうであるように、その宗教を信じている人間にとっては紛う事なき真理なんだろうし、それは人間の重要な美徳であれ悪徳であれその真実を強烈に表現はしてはいるだろう。
しかし、あらゆる宗教がそうであるように、ヒューマニズム宗教の聖人(まぁ彼はそれ以上のベートーヴェン教の開祖なのかもしれないが)ベートーヴェンが全人類の調和を謳う第九交響曲において「仲良くなれないヤツはでてけ!」と、
嬉しそうに合唱隊に謳わせているように、そのヒューマニズム宗教から実に注意深く排除されている三種類の人種がいる。一つは正真正銘のロリコンである連中であり、彼らは上のような感動的なフィクションを読んでも、
「なんで○○たんが死なないといけないんだおー ○○たんのおしっこ早くのみたいおー」と実に正しすぎる不満を覚える健全な人間であり、偉大なるロリコン聖人のうちのひとりでリアル少女にガチ求婚し続けたアントン・ブルックナーは、
ワーグナーの近親相姦楽劇「ヴァルキューレ」のなかの、近親相姦で兄と結ばれたものの罰せられるブリュンヒルデを見て「なぜあの女は焼かれなければならなかったのだ?」と実に良識的なコメントを吐いて下さったわけだ。
他の芸術家なら芸術的なんたらとか神話的なんたらとかを言いだすあのシーンで「なんで?妹と結ばれるのは当たり前だろ!」と言ってくれるあたり、ブルックナーせんせいが真に偉大な芸術家あることを余すことなく証明しており、
やれ女をヌッコロして世界を浄化させたり女に都合良く救済されることを願うゲーテやワーグナーや某きのこや某プラモ屋といった二流芸術家と、幼女が世界を統治せんと言わんばかりの宮崎駿や始めに幼女ありきの神話を想像するトノイケダイスケらは、
基本的に芸術家そして変態としての格が違うわけである。二つめは、今のように僕のようにネチネチと嫌味ったらしく理屈でヒューマニズムを批判する人間で「彼は人間的な清らかな魂」を持っていないのだから、ナチがそうしたように、
「人間的ではないオタクみたいな動物野郎は殺してもOK]と今でもオタ批判の文脈で語られているわけである。そして、ヒューマニズム宗教が弾劾してやまない最後の人種こそが「近親相姦を犯したカップル」たちである。
彼らは、上のワーグナーの楽劇がそうであったように、少なくとも、死なない限りはふたりは結ばれないらしい。

こともあろうに、アメリカで最初に出版されたと(目録には記されている)小説の名前が、ウィリアム・ヒム・ブラウンという作者が書いた「共感力、または自然の勝利」というタイトルであり、
そのエンディングを飾るのが近親相姦の成就の否定の物語だというのは「自由の国アメリカ」の欺瞞性を見事に現していると言えようか。この物語も先ほど紹介した「姦通」や「誘惑」の主題をテーマとしており、
物語の後半を占めるハリントンとハリオットの恋愛物語も、最初は「誘惑者ハリントン」が「純粋で素朴な田舎娘ハリオット」を言いくるめて籠絡するような物語が展開するが、、
ここはお約束通りで、ハリントンはハリオットの「清純なるこころと人を憐れむ共感力」によって「真っ当な人間に改心」し、ハリオットと真剣な結婚を誓い合うとする。タイトルの共感力というのは先の親和力とだいたい同じ意味であり、
そして「自然の勝利」というのは、そのような誘惑者ハリントンと純粋な田舎娘ハリオットが「お互いを補うように出会うような」運命は自然が、ハリントンによれば自然を治める神が二人を結びつけたということである。
と、ここまでは基本的に上記のヒューマニズム信仰の中にあるといえるだろう。ただ、ここから先が、真面目にこれをやっているとしたら随分と錯乱しているし、わざとメロドラマを煽るためにやっているとしたら、
この作者は相当にタチが悪い人間であるが、確かに近親相姦の文化芸術コードの一つを作り上げたパターンであるはいえる。しかも、たぶん作者は真面目にやっているのだから、この問題は実に根が深いのだ。
ハリオットと結婚しようとしているハリントンの耳に衝撃的なニュースが飛び込んでくる。なんと、ハリオットはハリントンの異母兄妹だったのだっ! ハリオットはマルシア・フォーセットという人物とハリオットの母親が不倫して、
生まれた子供であり、そのフォーセットは別の女性とハリントンを産んだというわけである。この事実にハリオットとハリントンは思い悩む。それは「二人は結婚できないから」という規範的倫理によるだけのものではない。
それくらいなら「誘惑者」であり合理主義者であるハリントンにはさして問題は無かっただろう。二人にとって重要なのは、彼らがその事実を知る前に「共感力」だとか「または自然の勝利の運命」だと思い込んでいたものは、
結局のところその「自然の勝利の運命」は、ハリオットとハリントンの親世代が犯した不義を、子世代が互いに愛し合うようになった異性を絶対に結婚できなくすることで、罪を購わせようとしたに過ぎなかったのではないか?という疑問である。
このことを語る以下のハリオットの手紙はなかなかに感動的であると同時に、なかなかに馬鹿らしいと言えるだろう。

「私たちの出生では兄妹ということになっておりますが、私たちの魂をお互いに結びつけた同情が異常なものだったとはどう考えても思われません。私たちは私たちを結びつけた自然のきずなに逆らわなければならないのでしょうか?」

つまり、お互いが兄妹であることを知らなかった当時の「同情の力」から始まった恋愛は真実であるのに違いのだから、それを肯定するためには、親世代の罪を購わせるために不可能な兄妹の恋愛を導いた自然の運命を否定しなくてはならないのでは?
というようなことを言いたいのであろう。むろん、これは基本的に倒錯した論理であることは言うまでもない。片方の「同情の力」の運命論は肯定しておいて、もう片方の背徳の運命論を否定すること難しいからである。
そうした葛藤の末に、ハリオットは思い悩んで衰弱死し、ハリントンはハリオットと同じように悩み抜いた挙げ句に自殺する。ハリントンは自殺の直前に、二人の長い苦悩の代償として神様が、
自分とハリオットを天国で結婚させてくれることを妄想し、作者もそれを容認しているようには見える。姦通や誘惑を批判しつつ、尚かつ「同情し涙するモノは救われる」というヒューマニズム宗教を両立させるにこれがベストだからだ。
とはいえ、この近親相姦の成就の否定は、先ほども言ったようになかなか混乱しているとも言える。基本的にこの物語は「姦通や誘惑を行った男性や籠絡された女性は罰を受ける」という説教を行うために導入されたものであり、
その悪行は親世代だけに罰を負わせるだけではなく、子世代にも罪が及んじゃうので真面目に生きなベイベーとシャウトしたいのだろうが、しかし冷静に考えればわかるように、これと「同情し涙するモノは救われる」はなかなかに矛盾するだろう。
もしも「同情し涙するモノが救われる」のだとしたら、ハリントンとハリオットは「兄妹だと自分たちが知るまでは」その同情の力によって結ばれたわけだから、彼らが救われないのは「同情の力」の否定を現していると言えないだろうか?
いずれにしても、作者はここでたぶん自分でも予想だにしなかった問題と予期せぬ物語の発展に驚いている。最初は単に誘惑と姦通の罪を語るための設定に過ぎなかった近親相姦の物語が、兄妹と知らないで惹かれ合った恋人達は、
「兄妹という神秘的な運命によって惹かれあったのか、それとも、生来の何らかの血縁的相性によって惹かれあったのか?」という別の主題を引きよせてしまっているからである。これに収集をつけるためには二人を殺すしかあるまい。

二人を自殺させないまでも、似たような物語展開で実にアメリカ的に上手い欺瞞的なやりかたで問題を解決したように見えて、実はあるレベルでは悪化させている小説にスザンナ・ローソンの「ルーシー・テンプル」がある。
これは「シャーロット・テンプル」の二部作目であり、一部目は毎回お馴染みの純粋なヒロインが誘惑者に騙されて捨てられて親友の女友達にも酷い目にあって死んでいくというテンプレ悲惨物語で、二部目はそのシャーロットの娘達の物語が語られる。
そのうちの一人はシャーロットの「誘惑の罪」を償うためか、シャーロットとほとんど同じような運命を歩み、もう一人はわりと幸せにはなるが、物語の中心は三番目の娘であるルーシーの人生が描かれるのである。
これも基本的には先ほどのハリオットとハリントンの物語と途中までは同じだ。今度も異母兄妹モノであり、なんとっ!ルーシーの結婚相手がシャーロットを捨てた男が別の女性の間に産んだ息子であることが発覚するわけである。
しかしローソン夫人は二人を死に追いやらない。これはたぶん今でもバリバリに活用できるプロットであり、鍵とか葉っぱあたりがコンシューマーのエロゲーで妹シナリオをやるときには、こんな感じのノリでやれば、
「これこそが真の妹との純愛シナリオだっ」とか「シナリオ重視派」の皆様や「人間的な」皆様はモーレツに感動するに違いあるめぇ。ルーシーとその恋人でもあり兄である人物は近親相姦のタブーを守るために苦悩を引きずりながら別れるが、
兄はルーシと別れインド(!)を放浪するうちに完全に苦悩から回復する。それを知ったルーシーも、お兄様は私たちの兄妹愛をもっと大きな人類への愛に昇華させたのだっ!と思い込み、私もお兄様の意思を継がなくてはと、
教会の尼となって女の子たちを教育する仕事に専念するというハッピーエンドを語るわけである。なるほど、これはいっけんなかなかええ感じにまとまっているように見えるけれども、このような近親相姦の成就の否定が、
結局のところこれは「兄妹の純粋なる愛は、人類愛にも匹敵するパワーを持つ」と、なんかすげぇ勢いで「近親相姦の純愛」を歌いあげてしまっていることは押さえておいたほうが良いだろう。もちろん、これも「同情の力」と同じく、
基本的には「誘惑」と「姦通」や「近親相姦」といった悪習を非難し「同情の力」を肯定する為に作られた物語であり、その手段として以上のような近親相姦の物語を語っているわけであるが、
しかしそれが何時の間に手段と目的が逆転しており、最終的には「近親相姦の運命的な純愛」を褒め称えているような結果に終わっているわけだ。でも、こういう「マイルド」で「エロ抜き」の近親相姦物語は、
今も昔も「文学的だっ!」だとか「人間の繊細な同情心がなんたら」みたいなノリで褒め称える傾向があり、たぶんそういう人たちはエロゲーよりもコンシューマゲーのほうが妄想をそそるのでエロイぜ!という上級者なのかもしれぬ。


この終わりなき近親相姦の系譜に、いいかげんここでピリオドを打つとしたら、「白鯨」ぐらいはタイトルだけは知っている人が多いであろうハーマン・メルヴィルが書いた「ピエール」の紹介が適当であろう。
と、ここまでに勘の良い方は既に気がついているかもしれないが、ここまで紹介した作品を書いた作家はその殆どがアメリカ作家である。これは、別に僕がアメリカ文学研究者だったりそのマニアだということでもなくて、
アメリカ文学と近親相姦(或いはロリコンや死体愛好癖)のテーマの結びつきは結構根深いのである。ここらへんをクドクド語っていると、あと30万文字ぐらいは必要になってしまうけれども、
一言で言えば、まずヨーロッパ文学において近親相姦のテーマは19世紀になると、おおむね「前期ロマン派から後期ロマン派」にかけて「ブルジュワ恋愛結婚と対立する純粋な精神の結びつき」といった、
主題に結びつくような傾向がある。前期ロマン派はそれを主に何らかの「革命」的な主題と結びつけ、後期ロマン派は(まぁ革命が失敗したので)それを引き篭もり審美主義的な「内面」的な主題と結びつけるわけである。
アメリカ文学もそういったヨーロッパ文学の文脈に影響を受けているし、厳密にこの両者は分けにくいのだが、比較的わけやすい主題群を説明するならば、アメリカ文学では上で語ったように「姦通」の主題が、
「近親相姦」の主題にいつの間にかと変身していることが多く、二点目としては、ヒロインや女性登場人物の造形がヨーロッパ文学に比べると、記号的だとか人間的ではないといった言い方はあまり好きではないんだけれども、
まぁ何というか男性登場人物に比べると実に薄っぺらい役割や、時としては物語から端的に排除されていることも多く、重要な役回りを演じるときは大抵「天使のような女性」或いは「悪魔のような女性」の二極端になりがちなのである。

前者について上の作品の粗筋から何となくわかると思うので、二点目について語れば、例えばアナタがタイトルだけでも知っているようなアメリカ文学の作品には、おそらく女性が重要な役割を演じていないか、記号化されているかのどちらかだろう。
「ハックリー・ベリー・フィンの冒険」? なるほど、その前作になるトム・ソーヤーの冒険にはレベッカ・サッチャーというヒロインが出てくるが、彼女もトム・ソーヤーの時点で脇役気味ではあるし、
続編のハックになると、彼女の存在すらマーク・トウェインは忘れているようだ。メルヴィルの「白鯨」は基本的に船乗りのお話で男オンリーの話であるし、ヘミングウェイの一連の作品に作品に書かれるのも
「男同士の絆」であって、作者は明確に女性から遠く離れた男同士の共同体を肯定的に描いていることが多い。その典型例が彼の絶え間ない戦争への執着であり、穏やかな形で言えばそれは「釣り」への趣味となって現れる。
フォークナーの作品になってくると、これはもう極端な女性嫌悪がそのまんまの形で描写されて、いくらなんでも女性のあそこにトウモロコシをぶち込むことはないと思うのだ。
上で説明したポーも、一連の作家と同じで、なるほど確かに女性ヒロインをそれなりには書いているが、しかしその描写も物語展開も、「アッシャー家」を頂点として最後は「アナベル・リー」で、
終わる彼の近親相姦萌えの黄金パターンを毎回なぞっているようなモノである。これは20世紀になっても、基本的には変わらなかったようだ。サリンジャーの「ライ麦」も、
最終的には世の中の腐敗と偽善に疲れた主人公が妹によって慰められるお話であるし、エロゲ好きの間にもファンの多いフィリップ・K・ディックですらも、いくら不条理で悪夢めいた世界を描こうとも、
女性ヒロインだけはわりとまぁ健気で可愛かったりするものである。比較的マシなのは、一応はヨーロッパ文明とその文学を知り尽くしたヘンリー・ジェイムズあたりだろうけど、彼の作品も男性主人公は遠くから世俗の世界やそのヒロインを、
「よりよく観察する」だけであり、なるほどその観察眼や心理把握は確かに素晴らしいのだが、自分からはその生々しい世界に一歩も踏み出さずに、いつもカーテンの裏側から世界をのぞき見るだけで終わってしまう。

このような特徴が、何に起因するモノなのかは、まぁそれこそアメリカ文化の基本構造がうんぬんという原理的なお話であり、僕のような素人に手の出せる問題ではないが、こういった特徴や主題群がアメリカ文学や
アメリカ文化において「いろいろな形で変形されながら出てくる」ことをある程度は知っておくと、作品を読む上でわりと便利な「とっかかり」になることは事実である。そこで「ピエール」のお話を始めさせていただくならば、
最初はメルヴィル自身が出版社に「今回の作品は売れ線を狙ってみました!}と手紙で書いているように、当時の文学作品というかまぁ大衆小説でウケが良かった設定と主題から始まっている。
ピエール君はある大金持ちの田園地帯の土地持ちの息子であり、繊細な感性を持って、ほぼ将来の芸術的成功を約束された詩人の卵である。彼の家にはピエールの婚約者であり、これまた芸術的感性と慈悲深い心を持ち、
こちらは絵を少々嗜む金髪の美少女であるルーシちゃんと、息子と将来の娘であるルーシちゃんを溺愛する母親が一緒に住んでいて、まるで楽園のような生活を送っていますと。これがまぁ当時の「文学的な」流行の設定である。
そして「近親相姦」の物語も、ある意味では流行だったのだ。上のような設定をある程度は描いたあと、例えば主人公の「姦通」の変わりに、「生き別れの妹やら姉」を登場させて、まぁどちらを選ぶのか?みたいなメロドラマをやったらしい。
「ピエール」の場合もそこらへんは王道に近い流れだったようだ。ピエールの元へ自分はピーエルの異母姉だと名乗るイザベラという人物から手紙が届く。実際にイザベラに合ってみると、彼女は少々メルヘン気味な性格の持ち主で、
その異母姉であるという証拠も少々怪しいものだったが、ピエール君の繊細な感性は自分とイザベラの間にある「運命的な結びつき」をすぐさまに感じて、イザベラを自分の姉だと確信する。

イザベラは小さい頃から身よりもなく、今も苦しい生活を送っているため、ピエール君としては自分の姉を救いたいんだけど、イザベラが異母姉だという事実を世間やピエールの母に伝えることは、
ピエールの亡き父の社会的名声と母の父への信頼を傷つけるだろう。ということで、ピエール君は自分の姉を救うために、ルーシちゃんとの婚約を裏切った形にして、実は自分はイザベラは全くの他人であり、
しかしふたりは既に婚約していたということにして、自分の母とルーシちゃんの元から離れ、イザベラと駆け落ち同然に結婚してしまう。母とルーシちゃんを裏切ることにはなるが、世間の目からは普通の結婚に見えるので何の問題もないわけだ。
ここで、既に「姦通」の主題や「三角関係」の主題が「近親相姦」に変わっていることに注意をして欲しいが、流石まぁアメリカ文学史に名前を残すメルヴィルだけあって、僕のような糞オタクの要約では纏めきれない、
いろいろな主題が同時展開されてはいる。一つにはルーシーとイザベラという二人のヒロインの象徴的対立である。ルーシちゃんが語る言葉はいつも優しく穏やかで、その論理も基本的には明晰で、一切の影も隙間もないが、
イザベラ姉さんはどこか、うわごとめいた夢を見るような口調が多く、時として予言者のような謎めいた言葉を発してピエールを混乱させる。ピエールが最初にイザベラを選んだのも、表面上はイザベラ姉さんが可哀想だから、
ということなんだけど、もう少し正確に言えば、ピエールは母とルーシちゃんと一緒に暮らしていた楽園のような生活のどこかに「嘘」があるんじゃないかと心の底で微かに思っていたわけだ。そこで「自分の姉を名乗る」イザベルに会って、
ピーエルは直感的にイザベル姉さんの中にこそ、自分が追い求める「真実」が隠されていると彼の芸術家魂に火が付き、そこに「姉さんは可哀想だ」という憐憫の情も加味されて、自分は真実を追い求める芸術家であり、
ついでに可哀想な姉さんを助けるキリストのような犠牲者であると盛り上がってしまったというわけである。ここらへんの人間の心理を克明に追っていくメルヴィルの筆はなかなかに晦渋で、ピエール君にこう語らせている。

「だが……魂の名状しがたい闘いには描けないものもあり、苦悩には語れないものがある。出来事の曖昧模糊たる進行にそれ自身の曖昧さを啓示させることにしよう」

そう、この作品は、表面的には当時流行の設定を用いた大衆メロドラマを語っているようには見えながらも、メルヴィルの「白鯨」や諸作品がそうであったように、大雑把な言い方をすれば、
主人公がある種の「世界の根本的な謎」に立ち向かうお話なのである。「白鯨」におけるエイブラハムの「世界の謎」の象徴が「白鯨」であったように、このピエールにおける「世界の謎」がイザベラとの近親相姦だったわけだ。
自分がイザベラに感じた「真実」とは何だったのか? そして、自分はなぜイザベラの謎めいた言葉にここまで魅惑されるのか? と、このように悩み続けるピエール君は、そのうち180度思考が回転して、
イザベラ姉さんは本当に自分と血を分けた兄姉なのか?と疑い始める。これはテキストを客観的に読んでも、メルヴィルはその事実性に正確な答えを与えていない。証拠になった記憶や絵画を見てみても、
イザベラとピエールは兄姉のようにこころと性格は似ているようではあるが、兄姉と似ているような外見は持っていないのである。だとしたら、自分がイザベラに感じた「真実」というのは「兄姉」の何が関係があるというのだろう?
ピエール君はその思考錯誤の末に、取りあえず世間で言う美徳やら悪徳やらというのは所詮ナンセンスであり、近親相姦の悪徳だの兄姉という清らかな愛といったものは存在せず、イザベルが自分の姉であろうとなかろうと、
自分はただ単にイザベルたん萌えだぜっ!って言う感じでイザベルとたぶんエッチしてしまう。イザベラのこの時の台詞を引用しよう。

「あなたが境界でためらっていたときは、ピエール、あなたは私には謎でした。でも今は魂の深淵の奥底におりてきてくれたんですもの、賢い人たちにはたぶん狂人でしょうが、無知なイザベルにはいま始めてあなたがわかりかけています」

しかし、イザベルがピエールをわかりかけたと言ったその瞬間から、逆説的にピエールはイザベラから離れ始めるというか、この二人の間にルーシーちゃんが闖入してくる。ルーシーちゃんはピエールの裏切りにショックを受け、
一時期は他の男と結婚しようかと思い詰めていたが、ピエール君がイザベラと結婚した真の理由を遂に知って、自分はその「天使のような愛」に感動し、自分もピエール君のヒロイズムを見習って、
ピエール君とイザベラを助けるために自分は「従妹」として二人の間で暮らしたいと言いだすのだ。むろん、ここでのルーシーちゃんはマジ天使だと言ってもいいし、僕としてはここでおおっついにハーレムエンドかっ?
とハッスルしちゃったりしたわけであるが、もちろん、ここでのポイントはイザベラとピエールがエッチしたあとに、ピエールの行いを「天使のような愛」だと理解したルーシーちゃんがくるという劇的アイロニーであり、
さらに、ルーシーちゃんがピエール君の抱えている「世界の謎」に対する問題をちっとも理解していないことであり、そして、ピエールがそのような「天使のような愛をもっている」ルーシーに「可愛い従妹」として惹かれていると言うことだ。
むろん、これはイザベル姉さんとエッチしたからもう飽きたぜっ!って意味ではなく、テキストを読んでみれば、ピエール君はもう既にイザベルの「謎」に惹かれている自分に、疲れてしまっていることがわかるだろう。
イザベルもこのことを直観しており、ある意味で実に正しかった予言をピエールに向かって語っている。

「夢の中であのかた(ルーシちゃん)は青い眼をわたしに哀願するように向けていたわ。まるでわたしにあなたから離れて欲しいと頼んでいるみたいに。善天使があなたのところへくるのね、ピエール。
そうすれば二人ともあなたのそばにいるところになるわ……。そして、あなたがたぶん選ぶことになりそうよ……悪天使が善天使の世話をすることになるわ……」



本来ならば、ここで終わりにしたいところであるが、「お前は結局クロポと何も関係ない文学作品の話をして、何がやりたかったんだ?」と疑問に思われる方も何人かはいるとは思うので、そこらへんを語っておこう。
一言で言えば「歴史は繰り返さない。但し、韻を踏む(マーク・トウェイン)」ということである。もちろん、以上の作品群の物語とクロポを「関係づける」ことは出来るし、僕もそのような議論は嫌いではないが、
その関係性は「韻を踏む」以上のモノではないし、逆に言うと「韻を踏んでいる」という関係性が重要だといえるのだろう。もう少し丁寧に言えば、僕らはあるレベルでは物語を繰り返しているが、
あるレベルではその物語を繰り返しているようでいながらも、いつの間にか物語を変えてしまっているということである。さらに重要なのは、僕らは(たいてい)そのことに全く気がつかないで、
新しい物語を語っていると思い込んだり、今までと同じような物語を語っているだけだと思い込んだりしているということだろうか。エロゲ神学議論において「○○属性」や「○○シチュ」という言葉がある。
これらの議論はその「○○」に関係しているなんらかの「お約束」を暗示しているわけであるが、この「何らかのお約束」はここでいう「歴史的な韻」と同等のモノである、といってもいいかもしれない。
それは「何らかのお約束」であって、別に深く考えたり、何らかの深い意味があるように思えない、ちょっと気の利いた言い方をすれば「記号的なもの」であるとされているが、それらは明確に記号的な意味を確定出来ないモノであり、
いくら「お約束でそれ以上の意味はない」と嘲笑的に扱ったとしても、殆どの場合その「お約束」からは逃げられないモノである。そして、その「お約束は」よぉく見るといつも微妙に意味を変えているものであるが、
それが同一の「○○属性」や「お約束」という言葉で評されるのは変わらないわけだ。むろん、そういうのを「神話的なんたら」やら「文化人類学的なんたら」みたいな言い方で議論するのも可能だし、
上記の作品群ならある一定のパターンを導いて中心的な構造を云々するのも可能ではあるだろう。とはいっても、たぶん、実際に近親相姦フィクションを読んでいるときに感じる面白さやいかがわしさや劣情やら背徳感やらは、
そうした神話的なんたらみたいな纏めだけでは説明しきれないモノであろう。それは確かにある一定の説明を与えてくれるものだけど、実際に上のような近親相姦の変奏曲を聴いているときに感じるのは、
「これってお約束の主題だよなぁw」と思っているうちにその主題が微妙に姿をかえつつ、時として作者が思いもかけずに主題に新たな意味を微かに与えようとしているところに妙なリアリティを感じつつも、
しかし結局は「いつもと似たようなモノだ」といった感想に終わるパターンである。そして、僕らはそこで感じた「似ている」と言うことの差異と同一性の神秘に気がつかずに、今日も知らず知らずに歴史の韻を繰り返していく。

おそらく、上記の作品群をクロポのライターであるJ・さいろー氏は、聖戦の系譜あたりはやっている可能性はあるが、他作品は全く読んでいないだろう(基本的にアッシャー家やウェルテル以外はかなりマイナーな作品だ)し、
これらの作品とクロボとの間には100年近い年月が横たわっており、直接的であれ間接的であれ、何らかの明確な因果関係を立証したりするようなことは難しいというか、
やったとしても「友達のまた友達の友達の……」とった議論にしかならないように思われる。とはいえ、上記の作品群の物語構造とクロポの物語の間に「何ら関係はない」と言うのもおかしな話ではある。
こういう話になると、やれパクリだオリジナルだぐらいしか言えないあたりが、近代文学の作家主義の貧しいところではあり、基本的な物語構造や何らかの主題の再生産や一部革新と言ったものは、別に「文学」や「名作」だけではなくて、
「大衆文化」や「駄作」と言ったもののなかでも、次々とコピーされて変奏されて、言わば文化の遺伝子といわれるものが常にあちらこちらで、古い物語から新しい作品、また逆に新しい作品から古い物語を産みだしているわけだ。
しかし、それは「アトランダムに無秩序」に行われているわけでもない。完璧なパターンが存在するわけでもないのだが、ある種の枠組みのようなものがあって、その枠組みを前提とした上で、その破壊や再生や繰り返しが行われている。
「前衛」やら「脱マンネリ」やら「新しい何か」を求める人はこのような言い方を嫌うが、そういう人は残念ながら自分の依拠する主張が何によって支えられているから理解していないことが多い。全てがアトランダムに無秩序に行われるとしたら、
定義上「前衛」やら「新しさ」といったものは存在せずに、まぁ「マンネリ」も存在しないかもしれないが、脱マンネリの開放感などは存在しないだろう。むろん、このように言ったからと言って、別にその中心となる枠組みは変化しないだとか、
一切新しいものは存在しないといった極論やニヒリズムに陥ることもないわけである。あなたがそんな極論で脳内オナニーしているあいだに、今も他の人の脳内の中では新しい妹キャラがお兄ちゃんによって犯されているのだから。

上記の文学作品とエロゲの近親相姦シナリオの何が違うのか?ということを言えば、まず大雑把なところか言えば、上記作品は基本的に「近親相姦」のモチーフを作品が語ろうとしている別の主題のために利用しているとはいえて、
エロゲーや萌え作品の場合は近親相姦するキャラクターを魅力的に描くために、意識的か無意識的かどうかはさておき、大抵は上記作品のような文学作品から近親相姦の物語展開に影響されていることが多い……とは一応は言えるだろう。
むろん、じゃあ実際の作品はどうなのか?と言えば、文学作品であれエロゲーであれ「思ったよう」には逝かないのである。そもそも「○○のために××を利用する」と言うような論理は、○○が××を支配しているように見えて、
××ではないと○○がなり立たないと○○が思い込んでいる程度には××に支配されているとも言えるわけだ。上で見たように、有名な文学作品ですら近親相姦を利用するように見えながらも、逆に近親相姦に魅せられてしまっている。
さて、エロゲーの近親相姦シナリオは果たしてキャラを描くためだけに、本当に物語を利用しているとはいえるだろうか? 僕としては近親相姦作品の面白さは、ここらへんの「いかがわしさ」にあると思うんだけど、皆さんはどう思うだろうか?

この(0)の文章を読んで、そして全く関係がないように思える(1)の文章を読んで、出来れば(0)で言及した作品とクロポをやってみて、そのような「歴史の韻」をほんの少しでも感じられたのなら、これ以上に嬉しいことはない。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

(1)正月は冥土の三里塚

最初に断っておくと、まぁだいたいの人は(0)の前振りでわかると思うんだけど、今回のレビューで取り上げるのは基本的に夜々シナリオだけである。別に他のシナリオも僕の評価では「そんなに悪くはない」程度であるし、
やろうとすれば、夜々シナリオと他シナリオの関連性を云々するのも可能だ。ただ、僕がこの作品のなかでたぶん30周ぐらいしているのは夜々シナリオであって、他シナリオは一周やって「もういいや」と思って、
以降は完全にスルーしていることを考えると、単にレビューの体裁を整えるために他シナリオに言及するのは、些かナンセンスのように思えるのである。僕にとってこのクロポは、基本的に夜々シナリオしか意味していないのだから。

30周もやったというと、まぁ大半の人からは退かれるし、残りの何パーセントの人は「よくも同じシナリオを何周もできますね」とか「クロポの夜々シナリオってそんなに深い内容なんですか?」と言われたりするモノであるが、
個人的には自分が何か凄い変なことをやっているという自覚もないし、さらに言えば、確かに僕はこの夜々シナリオを楽しんでやっていることは認めるが、別になにか深い内容(これが何を意味するのか毎回謎なんだけど)があるとは思っていない。
普通の人にもわかるような比喩で言えば、例えば自分の好きな音楽というのは、少なくとも30回以上は聴いたことがある音楽だと定義しても問題は無いだろう。だいたい、僕のエロゲ30周もそれと似たような感覚だと言っていい。
正確に言えば、僕は後述する理由でこのシナリオの後半部分は大抵スキップするし、共通ルートもスキップすることも考えれば、一周におけるプレイ時間は一時間ぐらいだと考えれば、これは自分の好きなアルバムCDを30回聴き直すのと、
時間感覚的にも大して変わらないのではないだろうか。いや、もちろん、僕が変態エロゲオタクであることを訂正するつもりも、最近の若者の流行であるらしい「オレは本気でハマっていないしw」を言うつもりも毛頭ないのだが、
ぼく個人としては、何か特別な熱狂や興奮を持ってこの作品を毎回プレイしていると言うよりも、ある種の習慣みたいな感覚でこの作品をプレイしていると言いたかったのであり、そして、ぼくの見たところでは、
この作品の夜々シナリオにおける夜々の可愛さは、何か具体的で個別的なシーンにおける夜々の行動や台詞が可愛いというよりも、何回も夜々とその時間を共有したくなるような、夜々と一緒にいることのその日常的な普通さから、
夜々の可愛さがジワジワと伝わってくるものではないだろうか。ぼくがこのシナリオを何十回もやっているのは、一つには何度もその作品の時間を堪能したかったのと、それがどのような作品の構成によって生まれたものなのかを、
自分なりに理解したかったからだろう。少なくとも、ぼくにとってこの二つは概念的には二つにわけられるものの、同じ楽しみの二つの作用の同時進行である。エロゲにおいて知ることとはオナニーしたりハァハァすることこと同じことである。

実際のところ、共通ルートから始めるとしても、共通ルートの時点で夜々をもの凄く可愛いと思う人はたぶん少数派だろう。これには、この作品の共通ルートの構成とお話にも関係してくる。
これはJ・さいろー氏の大抵の作品に共通することではあるが、まぁそこらへんはおいおい語るとして、まずこの共通ルートでは例の演劇会を成功させるために、主人公がいろいろ頑張りながら、
「初対面のヒロインと知り合っていく過程そのもの」にテキストの大半が占められているので、この共通ルートでは、夜々だけではなく各ヒロインも「登場人物紹介」以上の印象は薄いのである。
そのなかで、特に優遇されているのは夜々であろう。夜々だけは劇のメインヒロインということもあり、この共通ルートのなかで唯一主人公と繋がりを持つシーンが多く、まぁ好感度云々みたいな話をすれば、
共通ルートの中で唯一「よく知らないウザイ人」から「お兄ちゃん」への6階級特進を遂げるヒロインである。とはいっても「相対的には印象に残る」とは言えても、特別印象に残るかどうかと言えばノーには近いだろう。
その理由は、これはもちろん「意図された」印象ではあるものの、夜々のファーストインパクトから劇のメインヒロインを演じることの戸惑いといったシーンを見ても、ユーザーの多くは途中で劇の主人公を降板したモブ男と同様に、
「どこか踏み込んでいない」ような歯がゆさを覚えるだろう。むろん、誰がどう見ても、最初の出会いから、劇の役回りと主人公のやりとりをみれば、夜々と主人公の間になんらかの「兄妹」的な関係性を推測することは出来る。
ただ、ここではその兄妹的な関係性をあからさまに示すシーンは少なく、演劇における最後のシーンのやりとりに関しても、主人公がまぁそれなりに常識的なことを言って、夜々もまぁそれなりに思うところがあったのだろうなー、
程度にしか感じないだろう。別に、悪いシナリオだと言うつもりは全くないが、しかし共通ルートの演劇部分に関して言えば、登場人物達が感じた感動なりはユーザーにそれほど伝わってくるものではない。

さらに言えば、共通ルートのおわりのほうの「お兄ちゃんって呼んでも良いですか?」発言に関しても、これもさほど違和感を覚えるものではないけど、しかし「きたぁぁぁ!」と絶叫するほどのハマリ具合はないだろう。
まぁこう言っては言い過ぎかもしれないが、しかし別にネガティブな意味でもなく、別に過剰に冷静になる素振りとしてのそれでもなく、良くある展開の認識としての「まぁお約束だよね」といった感じだろう。
なにしろ、演劇云々のところで主人公と夜々の「兄妹性」は何回も仄めかしてあるし、夜々がいっけん冷静なクールキャラに見えながらも、プチプチ潰しシーンに暗示されるように、
実は(というかまぁ冷静な御仁というのは大抵そうなんだが)わりと生真面目でしかも結構執念深いキャラだと言うこともわかっているので、「プロット」的な理由でそろそろ兄妹関係に入るんだろうなぁとは思うし、
「キャラ」的な理由でも夜々みたいなキャラはわりと強引に関係を迫ってきそうだなぁとは思うので、この「お兄ちゃん宣言」は特別に違和感も強い情感も覚えることはなく、わりとあっさりと認める人が多いだろう。

また、少々形式的なことを言えば、シナリオ全体が「カレンダー形式」で語られるところも大きい。カレンダー形式といっても、その「カレンダー」の使い方には色々あるので、別に確たる形式的定義はないんだけど、
まぁ「今までのだいたい」の使われ方としては、「その日に起こったこと」を「その日に起こったことだけ」として語ることができるという日常性を描写できるということだろうか。具体的に言えば、例えばカレンダー形式を持たない作品において、
「主人公が今日一日勉強してました」みたいな内容をたった50クリック程度の文章で何回も語ったとしよう。これは、むろんテキストやら演出やらの上手い下手はあるだろうが、「何でそんなことを毎回書く必要があるの?」と思う可能性は高い。。
とはいえ、カレンダー形式において、そうした描写の頭に「8/15」だの「8/16」といった具体的な日付が「毎回形式的に」表示されたとしたら、これは先ほどの例に比べたら、何某かのリアリティを持つだろう。
前者の例において「主人公が今日一日勉強していました」といった短めの描写が何回も繰り返されるのに違和感を持つのは、まぁその作品の物語がどんなモノかにはよるとは思うが、基本的には普通の作品において何らかの描写は、
その作品の物語との関係性において何らかの意味を持つと思われているのに、その些細な描写の繰り返しがなんら意味を持たないんじゃないか?と思われるからだろう。カレンダー形式もその基本的な原理は同じだ。
フィクションがフィクションである以上、その語られた描写はその限定されたフィクションの世界でのみ意味を持つように機能する。そして、カレンダー形式という形式性は「一日の何でもないことを日記のように記す」という意味性を、
その作品に与えている傾向があるわけで、もっと単純に言えばユーザーは「なんか日記ぽいフィクションなんだなぁ」という緩い認識ともに、そうした短めで日常的で反復的なテキストを読もうとするわけである。
そのカレンダー形式が、どのようにこの作品に使われているかというと、ここまで語った部分では、どちらかと言えば「省略的な日記」で使われていることが多く、日常的で反復的なテキストはどちらかと言えば少ない。
「それって日記の逆じゃねーかw」と思われる人もいるかもしれないが、まぁ別に日記に拘る必要はないんだけど、しかしこれは「飛び飛びの日記風の記述」だと言えばわかりやすいだろう。
8/15から8/18ぐらいまでは続けて日記を書いていても、そこから急に8/28まで飛んで「いろいろと仕事が忙しくて云々」といった調子で始まる例のタイプである。この場合はその「仕事の忙しさ」を直接的に描写することによって、
それを伝えようとしているのではなくて、その日記の「空白」を利用し、いわば「日記を書く暇がないほど忙しかった」と語っているわけだ。この作品の共通ルートは、そのテキストの内容と言い、この省略された日記の語りと言い、
どちらかと言えば事件や時間が「慌ただしく過ぎ去った」ことを感じさせることがおおく、それはそれで納得できるんだけど、その事件や時間やヒロインの印象が特に強く残るかと言えば、この時点では結構薄味だとはいえるだろう。


もちろん、これはおそらく作者の意図した計算である。これは夜々シナリオだけではなく、他のシナリオについてもある程度は言えることだろう。月ねぇ以外のヒロインは、演劇祭が終わった後でも基本的に、
「演劇を一回やっただけの仲間」に過ぎないのであって、二人きりであって話し合う程度の友達関係にも成っていないのだから、個別ルートに入る前に、主人公(=ユーザー)がヒロインを始めて選択する段階で、
はじめて恋愛シナリオらしい、主人公とヒロインの会話を中心としたテキストが始まるわけである。しかし、それにしても、特に夜々シナリオでは、あまり使いたくない言葉ではあるが、共通ルートと個別ルートのじつにギャップが激しい。
これは客観的に「個別ルートに入ると他のヒロインが出てこなくなる」みたいなことを言いたいんじゃなくって、まぁ確かに普通の萌えゲ程度には他キャラの出番が少なくなり、あるシーンからは一気に他キャラの存在が消えるが、
この感覚がなんというか、夜々ルートに入った途端、まるで違う世界の扉をあけてしまったかのように、作品の空気全体が変わってしまうような恐ろしさなのである。先の日記の比喩で言えば、まぁ今時こんなリアル高校生がいるかどうか知らんが、
ふだんはわりと好い加減に一週間に一回三行程度の生存報告していた高校生のブログが、ある日エロゲと運命的な出会いを切っ掛けに、徐々に文章量が増え始め、ついには一週間程度でマルセル氏を大幅に上まわる糞長文をモノにしたのを、
リアルタイムで観察しているような感じだろうか。これほど、共通ルートと個別ルートの変化、もっと言えば、ある特定の女の子と意識的に毎日会うようになったときの変化を感じられる作品はちょっとないだろう。

とはいっても、よく言われるように夜々がいきなり「激デレ」になるところが、この個別ルートの衝撃ではないのである。確かに、この作品の魅力を一言で語るとすれば「夜々は激デレは実妹の中でも最高クラス」と言っても間違いではないけど、
それはもちろん「いきなり激デレになる」ということを意味しないだろう。とはいえ、確かにユーザーの意表を突くというか、思ったよりも違う、そして早いやり方で夜々がデレ攻撃を仕掛けてくるのは確かであり、
たぶん大半のユーザーは個別ルートの最初の20分ぐらいのところで夜々に屈服するとはおもうのだが、夜々には武士の情けの心はないのかどうか、ユーザーの脳細胞が完全が破壊しても夜々のデレ攻撃はますます破壊力を増すばかりなのである。
何がそんなにヤヴァイのかと言われれば、まず筆頭にあげるべきなのは「基本的に敬語口調+お兄ちゃん」という禁断の組み合わせ技をラウンド開始そうそうユーザーの顔面に何発も食らわせるところであろう。
はぁ?普通は「敬語口調」だったらそれに該当するのは「お兄さん」とか「お兄様」だろう?と思ったアナタは一生良い脳内お兄ちゃんにはなれないだろう。考えても、いや、パンツ一丁になって、真冬の寒空のしたで感じてみたまえ。
上のような「敬語口調+お兄さん」というのは、いわば兄と妹の距離が適切に保たれている場合である。格ゲーで言えば、自分と相手が中距離ぐらいの離れていて、そこから大キックあたりでお互いが牽制しているような状況であろう。
「敬語口調+お兄ちゃん」というのは、確かにその二つの間に適切な距離は保たれていないが、これも格ゲーで言えば、それは自分と相手が遠距離ぐらい離れている状況なのに、相手が「お兄ちゃん」という魔法の呪文を唱えた途端、
画面全体が一瞬フリーズし、相手キャラが一挙に自キャラに接近しガードの姿勢を取らせる前に小キックや小パンチを何発も喰らわせるようなモノである。なるほど、こういった「敬語口調+お兄ちゃん」のシーンはそれ自体、
特別に大きな印象を与えるものではないし、テキストにおいても特別これを強く印象づけるように大袈裟には書いていない。しかし、攻撃力は少ないモノであっても、このような小デレ攻撃は確実にユーザーの理性を少しづつ削っていく。

もう少し丁寧に言うならば、この「敬語口調+お兄ちゃん」というのは、その台詞単体自体が萌えるとかそういう話もあるが、基本的には主人公との関係や夜々のキャラ描写の中で実に「正確」だという点もおさえておきたい。
先にも言ったように、共通ルートでいくら夜々が優遇されていて、主人公との仲も特別に進んで、主人公を「お兄ちゃん」と呼ぶようになったとしても、しかし未だに二人の中は「ちょっと仲の良い他人」と言うことでしかない。
だから普通の後輩が先輩に話しかけるように敬語口調ではあるし、じっさいに会話の流れも最初のほうは些か固く、「お兄ちゃん」という魔法の呪文もそれほど連発はしないわけであるが、
むろん、基本的にはそれほどまだあまり馴れ合っていない状態なのに「お兄ちゃんと呼んでも良いですか?」というようなことを、ついつい熱情的に言ってしまう夜々の性格がこうした会話の流れの中で実に正確に描写されているわけだ。
そして、これは当然のことながら「自分を妹ということにして、主人公を兄ということにしないと、上手くコミットメントが出来ない」夜々の結構厄介な性格をも同時に浮き出している。敬語口調で喋っているときは、
ちょっと堅苦しいことが残っていて、まぁ結構冷静なことを言ったりするんだけど、そこで「お兄ちゃん」という言葉を自分で言ってしまった途端に、堅苦しさは徐々に消えて、結構アレなことを言っちゃうようになり、
口調もときどき「~ます」や「~です」から「~の」へと無意識的に変化してしまうわけだ。この微かな緊張感と何の羞恥もなくごく自然に出るお兄ちゃんボイスのコントラストが絶妙なエロスを醸し出すのである。

さらに言えば、こうした特徴はユーザーが最も強く感じるものであるが、主人公の方はこのような変化に対して基本的に鈍感であると言うところもおさえておくべきであろう。
というのは、これがもしも「単なる後輩シナリオ」、つまりは主人公を「お兄ちゃんと慕うようになった後輩」シナリオだった場合には、主人公がこうした変化に対して敏感であるのは普通であるが、
まぁどんなにネタバレに鈍感なユーザーでも、夜々が主人公を「お兄ちゃんのように慕っている」だけだとは思わないだろう。この時点で夜々が主人公に「お兄ちゃん」といった感じでデレても、
主人公がそれを殆ど自然のように受け取っても不自然だと感じないのは、そこに微かな兄妹関係の暗示を見ることが出来るからである。このユーザーと主人公の視点の二重性も夜々シナリオの破壊力の特徴だろう。
つまり、ユーザーとしてはもう半ば、夜々と主人公が兄妹であることは予想が付いていて、主人公と夜々の台詞のやりとりの端々からその証拠を収集し、基本的には他人として振る舞っているように見えながらも、
しかしその振る舞いのなかに「兄妹的な絆」が露呈してしまっているところを見て、普通の兄妹シナリオでは感じられない「兄妹の運命的な絆」をあれこれ妄想してハァハァするわけだ。、、
いっぽう、主人公と夜々はそのような血縁性の伏線などは基本的にお互い意識しておらず、あくまでお兄ちゃんと慕っている異性とお兄ちゃんと慕ってくる異性とのあいだで、恋愛に発展するかしないかの微妙なやりとりを続けていて、
このメタ的な近親相姦の宿命的な結びつきと、ベタ的な「お兄ちゃんと慕うようになった後輩シナリオ」が実に淫靡なバランスの上でなりたっている。

その最も素晴らしいシーンは、クリスマス会の準備からその最後のキスに至るまでの一連の流れである。始めてやったとき、正直言って、ぼくはもうこの時点で夜々シナリオに嵌りきっていた。全体から言えばまだ序盤も良いところであるが、
しかしこのクリスマスの為の食材を買うシーンのなんと素晴らしいことよ。私はなぜこれがエロ助のPOVの「クリスマスの食材を買うシーン」で一位を取っていないのか全く理解できない(まぁそんなPOVはないからねぇ)。
今でもちょうどいい時間時にスーパーとかいくと、まんま漫画みたいにに「ままぁー、これって買ってぇー」とクソ餓鬼が片手に矢鱈にけばいパッケージの菓子箱を持って泣き叫び、ママが「もうすぐ御飯でしょっ!」と、
人類の偉大なる闘争をテンプレ通りに繰り返しているわけだが、まさかこの「子供」と「母親」を「兄」と「妹」に変えて、しかもお兄ちゃんがお菓子をねだって、妹が「もうすぐ御飯でしょ!」とか言うだけで、
こんなに美しいシーンが出来上がるとは誰が想像しえたであろうか。しかもこれにはちゃんと素晴らしいオチもついている。主人公がさんざんお菓子をねだっても、ここは良識的な後輩キャラらしく鷹揚に宥める夜々であったが、
「いーじゃん、あとで一緒にたべよーぜっ!}と主人公が逝った途端「もう、お兄ちゃんは仕方がないなぁ」途端にデレてカートにお菓子をポイポイ入れてしまうのだった。こんなの現実でやったらあまりにも萌えすぎて周りの人間が死ぬ。
クリスマスの料理を作っているときも、夜々はあくまで後輩としては主人公の無限の胃袋の陵辱から守るべく、材料やら料理の箱に「お兄ちゃんはさわらないで下さいっ!}とマジックで書く癖に(でもこれも妹っぽくって良いよねぇ)、
主人公がお腹をすかして悲しそうな目で夜々をじっと見つめると、自分の作った料理だけは味見しても良いかと言いだすのである。むろん、これもそれも後輩としての良識的な判断が、妹としての兄に対する独占欲によって覆されているわけだ。
それが頂点に至るのはクリスマスパーティのシーンだろう。当然クリスマスパーティ自体は夜々は大して興味を持っていなく、単に自分の作ったり料理をお兄ちゃんに食べて欲しかっただけなんだから、
パーティーの途中で夜々は料理の疲れが祟って寝てしまう。夜々を背負って夜々の部屋に行き、いったんはパーティに戻る主人公だけど、なんかノリ切れずに結局はプレゼントを持って夜々の部屋にすぐ帰ってきてしまう。
夜々は起きていて、プレゼントの箱を開けるとそこにはパーティでやっていた冗談ビンゴゲームの指令書が入っており「いちばん気になる異性にキスをしろ」とのこと。もちろん、夜々は主人公にキスをするわけだが、
これはぼくがエロゲをやったなかで最高のほっぺキスしーんであることは間違いない。野暮な説明をするならば、この時点で夜々は主人公のことが大好きだっただろうし、別に唇にキスをしても良かったはずだろうが、
まぁそこまで仲が進んでいないと思っていただろうし、夜々もそこまで勇気は持てなかっただろうから、仲の良い兄妹だったら普通ほっぺにキスぐらいはするだろうという言い訳を用意しながらほっぺにキスを選んだのであろう。
だけど、主人公の反応が思ったよりも良かったものだから、夜々は最後にこう付けくわえざるを得ない。「他の男の人にはぜったいにしませんよ」と。この時点でもう既にふたりは完璧に結ばれているといっても過言ではない。


だから、このクリスマスイベントから元旦までの五日間のテキストは、普通なら告白からセックスへと至る重要な流れなので、多かれ少なかれ物語を展開させるところであろうが、ここでは全く物語は進行しない。
やれ世間が師走だろうが騒いでも、主人公と夜々のあいだは時が進むにつれて静けさと甘さが濃ゆいココアのようにとろころに広がっていくのである。一応、物語的にはここで寮のみんなが主人公と夜々いがい帰郷するということになり、
二人っきりシチュエーションが生まれるわけだが、基本的には前にも書いたように共通ルートであれ、或いは他の個別ルートであれ、この作品ではそもそも寮生活というものがそんなに描かれていないので、
別に主人公と夜々がふたりきりになって他キャラが消えたところで、それだけでふたりきりになったなーという印象が強まるわけではない。この五日間のテキストが素晴らしいのは、やや逆説的な言い方にはなるが、
実際に主人公と夜々がふたりきりなのに、そのふたりはふたりきりであることをあんまし意識しておらず、もうこの時点でなんかただっ広い建物のなかでフツーに暮らしているような気楽さえ感じるところだろう。
一応、前のシーンからの流れで言えば、夜々が主人公のほっぺとはいえキスしちゃっているわけで、少しはお互いドキドキするんじゃねぇかと思いきや、まったくそれに触れないわけではないけれども、
仲の良い兄妹だったらほっぺにキスするのが当たり前だよねみたいな感じでリラックスムードが濃厚であり、最初こそはちっとは遠慮したり戸惑ったりするものの、もはや夜々は主人公の部屋に入り浸り気味である。
しかも、そこであんましお互い「ドキドキ」しないだよね。やることがなくても、お互いどうでもいい話をして盛り上がったり、ただボーッとコタツの中に入っていたりして、無為のままに時間が流れてもお互い幸せなのだ。

その最たるモノが、わざわざ一枚絵まで用意されてはいるが、夜々がこたつに入りながら紙パックのジュースをストローで吸いながら両手でプチプチを潰しているシーンね。
エロゲオタにおいてジャンクフードを食いながらエロゲをやっているとき同様に、まさにこれこそ夜々にとっての至福の時間ではあるが、でも両手でプチプチを潰していたら、夜々の大好きな卵ポーロが食べられないじゃないですかと。
そこでお兄ちゃんにおねだりですよ。私の両手はプチプチで塞がっているから、お兄ちゃんの手で卵ポーロをあーんして下さいですよっ! エロゲオタで言えばおれの両手はエロゲで塞がっているから、オレの下半身を誰かしゃぶってくれって感じ?
いや、こんな悪趣味な文章を書いていないと羨ましさのあまり、今手元にあるキーボードクラッシュしちゃうかもしれませぬ。このシーンだけは何度見ても単純にいいなーいいなーって思いますよ。しかも大抵は男性の側に感情移入する僕ですが、
このシーンはどちらかと言えば、そういうことを普通に言えて、そういうことを普通にやってくれる人がいる夜々が羨ましいと思う。もちろん、別に僕は主人公がカッコイイだとか、そういう男の人になら抱かれてもOKって言っているんじゃないし、
さらに言えば、こういうあーんのシーン自体がもの凄く良いと言っているんでもない。他のエロゲーのこういうイチャラブシーンだと、少なくともそれは「ふつうに」やっているんじゃなくって、恋人同士という特別の関係のなかで、
「恋人だからやってあげている」わけじゃないですか。テキストの方もそういうふうにこのふたりはイチャイチャしてますよって感じで書くわけだけど、このシーンはまぁイチャイチャしているといえばそうとも言えるけど、
ふたりともそれがごくごく自然に日常的な風景のなかで、しかもよぉくみるとあんましロマンティックじゃないことをやっているという、その普段着でダラダラしているような甘えっぷりが本当に羨ましいとおもう。
ここでは前述のカレンダー形式のテキスト記述が最高のかたちで生きている。実際にこの五日間は殆ど物語は進行しないし、またシーンの構成としても何らかの特別な出来事を描いたり、ギャグシーンなりをいれるような、
一日なら一日ごとの意味を書き出すような描き方はしないで、本当に今日は卵ポーロを夜々に食べさせてサイコーですたみたいな、単なる一日の出来事をそのまま散文的に書き散らしているだけなのであるが、
その「なにごとも特別なことは起きずに、ただ夜々と一緒にいるだけ」の穏やかで平凡な時間を描くためには、このような形式がじつにぴたりと来るのである。

ここまで完璧で正確なテキストだと、ふだん交わされる何気ない会話ですら、この作品にとって一つも揺るがすところが出来ない黄金の一柱のように思えてくるのだから、まったく傑作というのは何度もプレイするに足りるわけだ。
強いて一つだけ例を挙げれば、劇のおかげで寮にも知り合いが出来たんだから、これからはもっと友達を増やしたらどう?と聞く主人公に、えー、でも友達って作ろうと思うんじゃなくって、自然にできるものじゃないの?
と、いったようなことを夜々が主張するやりとりするところだろう。むろん、僕みたいな引き篭もり気味な人間に限ってこういうことをよく言うモノであるし、夜々も自分で認めるように、こういう人間は劇とかに集まっている人たちを、
素人が集まってなに馬鹿なことをやっているんだ?って感じでやや冷笑的に見下しているフシがあり、だからまぁ結果的に友達があんまし出来ずにこんな長文を書いてしまったりするわけであるが、
このシーンで重要なのは一つは夜々のそういう性格を自分で語らせているところであり、もう二つめはこういうことを平気で自分で言うくらいには、夜々も劇をする前とまぁあんましは変わっていないと言うことであり、
いちばん重要な三つめは、じゃあ主人公とはなんでこんな感じで付き合っているかと言えば、それは主人公との出会いや今までの付き合いは、とても「自然だった」と夜々自身が告白しているのに等しいと言うことである。
これは先ほど言ったように、ユーザーのメタ視点から見れば「近親相姦の事実」をまたまた暗示しているように見えるし、そうした点を除いたベタな恋愛物語としても、この夜々の告白はとても自然でさりげないモノに見える。
そうしたベタ視点で見れば、夜々は映画館のシーンでわかるように、基本的にはロマンティストであるのだから「えー、義理はダメですよ」とか実妹スキーが狂気乱舞するような発言をしながらも、義理兄妹の契りがみたいな話には興奮するわけで、
要は自分から積極的に動いて「運命」や「自然」を「義理」を作るのはイヤなんだけど、相手あるいは何らかの状況に巻き込まれて「運命」や「自然」を感じてそれに乗りかかるのは凄く好きなのだ。だから最初は醒めているように見えたり、
或いは付き合っているときでも、どちらかと言えば奥手で受動的な態度を取るようなことが多くても、やるときはもの凄く積極的に行動するのはそういう夜々の行動原理が基本にあることをさりげなく描写している。ル

もともとJ・さいろー氏にもそのような気質があるのかどうかは知らないが、まぁ事実としてテキストを見るならば、この人はそういう人間が何らかのロマンティックな思い込みに駆動されるなりにして、
異性と異性のあいだが急に盛り上がり「いきおいに流されるような」シーンやそういう雰囲気を作るのがこの人は凄く上手い。この五日間のあいだでも、主人公と夜々のあいだがええ感じになって、
主人公の方がここでキスしちゃおうかなーみたいな流れになって、ユーザーの方もいいぞもっとやれ!と思うようなシーンが何個かある。結局それは最後の元旦のシーンまで引き延ばされるんだけど、
その引き延ばしの理由が、良くあるシナリオ的な葛藤や事件によって二人の間に突然の亀裂がっ!みたいな話じゃないところもいいんだよね。この引き延ばしはメタ的な近親相姦のコードをのぞくと、
良い感じで盛り上がっているけど、でも今はちょっとそういう時じゃないみたいな、基本的にはタイミングの問題でしかないのであり、言い換えれば、いつでもどこでも告白できるような余裕感さえあるのだ。
そして、その余裕感がさらにこのふたりの恋愛感情の親密さを高めることにもなっている。だって、自分が好きな女性が誰かはわかっているし、その人にもいつかは告白しようとは思っているし、
さらには、ある程度は向こうも自分と似たような感情を持っているだろうと此方が推測できるくらいには親密になりきっている女性がいるということは、これは見方によって恋人同士よりもすげぇラブラブ感がありませんかと。
もちろん、ここには先にも言ったようにメタ的な近親相姦のコードが絡んでいる。主人公が告白をやや躊躇うのは、ベタ的に言えば妹分だと思っている女性に手を出すのはなんか不味いんじゃないかということもあり、
これはユーザーのメタ視点では近親相姦を暗示しているように見えるだろう。むろん、この近親相姦の暗示が前述のラブラブ感を阻害することはなく、むしろそのラブラブ感を異常促進させるものであるのは言うまでもない。
まずベタに言えば、普通のエロゲではいくら兄妹が真に愛し合っていることがお互いにわかっていても、大抵はくだらん世間の倫理がどーこーみたいなシリアス展開を経て告白に至るわけであるが
この兄妹かもしれないふたりは、そんなことを気にせずに、まるで兄妹が真にわかりあっているように、お互いの気持ちをわかりあいながら、いじらしく告白のチャンスをうかがっているのである。既にこのふたりは幸福の絶頂にいやしないか。
このふたりが遂に告白に至ったその理由は、たぶんエロゲの実妹シナリオでもこれ以上に幸せなものは考えにくい。大晦日のよる、お互いに思いを伝えあったふたりはおずおずと寮に帰る途中に、コンドーム自販機の前で立ち止まるが……


しかし、言うまでもなく、エロに火が付いた兄妹の勢いを薄いコンドーム如きが止められるわけがないだろう。つーか、夜々先生が初っ端から中田氏をご希望しており、わざわざ安全日を選んでお兄ちゃんに告白するとは、
これこそまさに全世界の妹が見習うべき規範である。まぁ最初のエッチシーンはよくも悪くも普通の処女喪失シーンって感じで、告白の理由はさておくとしても、ここまでは取りあえずは普通の純愛シナリオの展開ではあるし、
初めてのエッチの朝を迎えたあと、兄妹ふたりそろってお互いにエッチしたという事実を言い出せずに戸惑っているシーンなど実に微笑ましく、まさかこの100クリック程度に恐るべきエロ地獄がまっているとは夢にも思わねぇだろう。
J・さいろ-氏のエロテキストはたいへん定評があるが、この夜々の二回目のエロしーん――まぁ普通のエロゲならこれだけで回想枠三枠ぐらい使うだろうが――は、彼のエロテキストのなかでも五本の指に入る素晴らしいものだ。
彼のエロテキストが素晴らしいのは、よく言われるようになんか変態的なプレイをするからエロいわけでもない。この夜々のエロしーんに至っては、基本的には全てのシーンが一般的な性行為(ってそんな定義があるかは知りませんけどね)を
出るモノではなく、またヒロインになにか変態チックな淫語や卑語を連発させているわけでもない。だけど、なぜか、そういった変態チックなエロしーんに比べても、この夜々のエロしーんは異常にエロくて僕はもう20回ぐらいは抜いている。

まぁさいろー氏のエロテキストにもいろいろな傾向があり、例えばこの夜々シナリオのエロしーんと、恋ぷれの淫乱メイドさんシナリオのエロしーんとでは傾向が違うわけで、単一の特徴を定義するのは難しいんだけど、
緩い特徴を二つばかり挙げるとすれば、彼のエロしーんはいつも「エッチが進んでいく時の臨場感と盛り上がり」が凄いのである。比喩的に言えば、普通のエロしーんは、これは抜きゲであれ萌えゲであれ大抵に似たようなモノであるが、
それが陵辱であれ和姦であれNTRであれどのエロしーんにおいても、0もしくはまぁ30程度の興奮と期待から始まるエロしーんは、いろいろな遅延や盛り上げを経て、基本的にはラストの射精が100の興奮度に持っていくように書かれている。
逆に言うと、その100の興奮度がどのようなモノであるかは、それはそのエッチシーンの内容やその作品のジャンルによってさまざまではあるが、始めからある程度はわかるし、そうした劣情のお約束の最後の100の期待そのものが、
基本的にはポルノグラフィティを構成する文法であるとも言ってもいい。もちろん、J・さいろー氏のエロテキストがそれに該当しない革命的なものである!と言うつもりは無く(まぁトノイケダイスケはそれに該当しそうではあるが)、
さいろー氏のエロテキストも基本的にはポルノの文法によって書かれている。ただ、さいろー氏の場合は、前述のラストの100が途中から150とか300といったように果てしなく興奮度が上がっていって、
このエロシーンはだいたいどこら辺で終わって、どんな感じの絶頂までイクのかその最後の絶頂の瞬間まではわからないような臨場感の盛り上がりがあるといえるだろうか。客観的なところから言えば、よく言われるように、
複数回射精がすごくおおく、このエロシーンでもええっとまぁ5回以上は射精しているわけで、射精とヒロインの絶頂がエロしーんの終わりにはならないからそうなるのだっ!とは言えそうかもしれないが、
これはちょっと違うなとは思う。大抵のエロゲーの複数回射精テキストは先の理論で言えば0から100への絶頂を何回か繰り返しているだけなんだけど、さいろー氏の場合はなんか主人公が射精すればするほど、
ますますチ○ポがでかくなっていくような焦燥感と加速感がありまして、いったいこのエッチをしているふたりはどこまでイキ続けるんだろうか?と思いながら見ていると此方もその終わりなきセックスに乗せられてしまう。

そこらへんをもっと細かく見ていくならば、二つめの特徴として「可愛さのなかに含まれるエロを中心的に描いている」と言う点を見ていくのが良いかもしれない。これは正反対の概念を先ず措定するとたぶんわかりやすくて
それは「可愛い子なのにエロかった」というものだろう。表面上は天使ちゃんなフェイスをしているのに、実は毎日オナニーしているみたいなタイプで、いや僕はこの手のタイプもかなり好きなんではあるが、
こういうのは基本的に「可愛い」と「エロイ」が対立軸となっており、俺の妹はエロくないはずなのにこんなにエロかったのだが、つまり「両者のギャップ」がエロいということになるだろう。
では「可愛さのなかに含まれるエロ」は先のそれと何が違うかというと、「可愛い」と「エロイ」が対立軸になっているんではなくて、それが順接の関係になっているとは一先ず言える。
例えばある天使ちゃんヒロインが「ぱんつはいていない」として、それがセックスする為にそうだとしたら「可愛い子なのにエロかった」ということになるわけだが、
これが「主人公に抱きつくときに下半身のあたりからスースーして気持ちよかった」ということになれば、それは「可愛いさのなかにエロが含まれている」ということになるわけだ。
このエロしーんの具体的な台詞で言えば、それはなんといっても夜々の「エッチなひな鳥ちゃんですっ!」発言に集約されるであろう。夜々はこのとき、二回射精した主人公の野田総理を殆ど無意識的に手扱きしてしまい、
主人公にお前エロイ娘じゃねぇかとからかわれるわけだが、むろん夜々の発言のほうが正しく彼女はエロイ娘ではなくエッチなひな鳥ちゃんなのである。これは、師走の卵ポーロのシーンやこれ以降も何回も繰り返されるあーんシチュで、
何度も反復されている夜々のお兄ちゃんに対する甘えデレデレ欲望を踏まえていることは言うまでもなく、ここでは日常の萌えシーンのキャラの可愛さがそのままストレートにエロしーんに繋がっているわけである。
四回目のセックスにおいて駅弁の体位を取るんだけど、たぶん主人公にあんまし筋力がなかったらバコバコやりにくくなってしまった小康状態に。
だけど、主人公が感じているのはべつにピストン運動のシュッシュによる摩擦快感じゃなくって、小さくふにふにしているひな鳥のような夜々を身体に巻き付けている、極論を言えばエロイ抱き枕を抱いているようなふわエロ感であって、
同様に夜々のほうもマ○コに突っ込まれることだけが気持ち良いんじゃなくって、お兄ちゃんに抱かれながらときどきキスの餌を口移ししてくれるような絶対安全の幸福感にエクスタシーを感じているわけだ。
お互いにからだとくちびるをこすりつけあって、ときどき低弦のうねりのような緩い快楽に貫きられながら、最後はキスと絶頂が一緒に起こってまさしくハーモニーのようにふたりを茫洋とした幸福感に包み込む。
実妹とのセックスとは相性が良いとか言うけれども、その相性の良さとはべつに性器の相性が云々みたいなことを言っているのだとしたら、その人はよき脳内お兄ちゃんではありえずもっと修行が必要である。
実妹とのセックスが気持ちいいのは、べつに性器同士をこすりつけ合わなくても、お互いにたとえば手が触れあっただけの幸福感でそのままイッてしまうような、身体と身体を越えた魂のオーガニズムであることをこの作品は証明していよう。

そういえば、CGと声優さんについて全く触れていなかったことに気がついた。特にこの夜々シナリオではどちらも(シナリオの素晴らしさに匹敵する、とまでは言えないのが残念であるが)高水準な仕事をしている。
これは比較対象としてマガフィの茉莉と比べるとよくわかる。ぼく個人の評価としては、マガフィの茉莉シナリオはわりと好きな方であるけれど、二重人格(二重体面と言ったほうが正しいか)のキャラ設定は正直失敗したとおもう。
これはシナリオだけじゃなくって、CGも声優さんもそうだと思う。まぁ「シナリオ」がそうである以上、CGはそう書かなくてはいけないし、声優さんもそう演じる必要があるから、責任所在の問題は別問題なんだろうけど、
表の体面と裏の体面の立ち絵と声があまりに違いすぎて、この二つの体面を一人の連続したキャラクターだと認識することが難しかったのだ。いっぽう、クロポの方は最初はクールキャラに見えながら、実はデレデレの妹キャラであるという、
夜々のキャラクターの連続性を立ち絵とボイスがものの見事に表現できている。僕が夜々の立ち絵のなかで一番好きなのは、そのシーンの状況としては主人公や周りの人間の言葉をやや疑わしげに聞いているんだけど、
でも立ち絵の表情は案外ボケーとしているというか、わりと素直な表情で此方をみている立ち絵である。純粋無垢といったら美化しすぎだが、相手に対して取りあえずはどういう表情を作っておけばいいのかの社交経験が少ないから、
自分の感情がそのままストレートに顔に出るのを隠せない幼さが顔に出てしまっているあたりが実に可愛くて、その巣の表情が主人公に懐いていくにつれて、ちょっと表情が変わるだけなのに、それが満面の笑顔になるところが良いのである。
僕はみるみる教の良い信者ではないし、どちらかというと、この人はキャラの感情の変化を演技しようとすると茉莉みたいに違和感が残ることが多くて、かといって素のみるボイスだけでやっちゃうと、ああみるみるキャラクターなんだなと、
キャラクターよりもみるみるボイスだけが印象に残ってしまって、なにか上手い配役はないのかなぁと疑問に思うことが多いんだけど、この夜々役は皆さんが認めるように僕も最大の当たり役だったとおもう。
デレボイスの甘ったるさの強烈さは言うまでもないとしても、最初の頃のツンボイスとかクールボイスでも、どこか世間ズレしている幼さを表現するのに、いくらキツぃ台詞を言ってもああ可愛いなぁと感じられるみるボイスはピッタリじゃないか。。

さて、三が日のあいだじゅうずっとセックスとイチャイチャしっぱなしだったふたりは、しかし寮の人間が帰ってきて少しは自重しようということになっても、むろん、夜々先生はまったく自重せずに次々に主人公にデレ攻撃を仕掛ける。
ここの部分について、あとはもうユーザーの皆様が各自脳内破壊してもらうしかないだろう。一言で言えば、正月が終わって冬休みが終わってさぁ学校が始まるぞということになっても、学校にこたつを持ち込んで赤外線セックスしているような話だ。
こういうテキストについて、いったい僕らはなにを語ることができるのだろうか。これはもう夜々が可愛いだとか萌え狂ったといった言葉で表せるようなものではなく、もうなにか夜々の行動と言動の全てが現実の存在してそこにある、
といったような生々しさを単に感じるだけになってしまう。だから、夜々がクラスメイトの目の前で愛の力で主人公から離れられないのーと言ったところで、全ては夜々の言うとおりと言うほか無くなる。科学は仮説に過ぎないが兄妹は真理なのだ。
たぶんあの深遠なる夜々科学理論を語るシーンのあと、強烈なエッチシーンをもう一発ぶちかましてエンドマークがついたとしても、このシナリオに一切ケチがつかなかったばかりか、今以上に評価が上がっていたに違いあるまい。
ここまでずっと語ってきた、主にテキストにおけるその凄まじい破壊力だけで、それは演劇の前振りやら設定やらのメタ視点を越えた地点で、既に主人公と夜々は血の繋がりさえを越えた兄妹であることはユーザー全員が理解できただろう。
真実というものは残酷である。それはその真実がときとして残酷なことを告げるという意味だけではなく、その表層的な真実が示そうとしたことが、既に実現されている奥深い真実をときとして破壊してしまうからである。
僕はこのシナリオを30回以上はやっていると最初に言ったが、基本的にはその9割以上が、ここらへんの段階で「この物語はここで終わったのだ!」と勝手に決めつけてそこで終わったことにしてしまう。
僕としても、ここで「このシナリオは傑作だった!」と褒め倒しにして終わりにしたいところであるし、事実それだけの価値はここまでの夜々シナリオにはある。
だから、僕らは「この兄妹はいつまでも兄妹であることを知らずに、でも、真の兄妹以上にエロエロに暮らしましたとさ」と本当のエンディングを今ここで勝手に捏造し、これから偽りのエンディングについて真っ正面から斬りかかるべきである。。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

(2)なんで小鳥遊夜々は幸せになれなかったのか?


いや、最終的には僕が脳内妄想のなかでいつも幸せにしているんで、みなさん心配しないで下さいね。それに、一応この夜々シナリオをクリアした人のなかには「いや、アレはアレで幸せなんじゃないの?」と思う人もいるだろう。
この点についてはおいおい述べるとしても、この夜々シナリオを後半部分をポジティブに評価している人は、どちらかと言えば少数派に属するだろうし、後半部分以外の素晴らしさとこの後半部分を見比べれば、
どうみたって後者は前者に見劣りする、と言う意見の人は大多数を占めるにちがいない。僕も敢えて点数をつけるならば、今までの前半から後半までのシナリオは90点を付けても良いのだが、
この後半部分だって夜々シナリオの一部なのだから、と甘く見積もって60点ぐらいで、普通に点数をつけるとしたら45点ぐらいだろう。まぁ僕は減点主義者ではないんで、
ここエロ助でつけた点数は90マイナス6点で84点ってことにはしたんだけど、それにしたってこの後半部分が大きく響いていることは間違いないのである

ぶっちゃけってなにがつまらなくてなにがダメでなにがムカついたか、といった点をざっと記してみようか。少なくとも、僕は「レッツ背徳」の名台詞が決まったまでは、まだ我慢できるわけである。
だけど、それ以降の展開については「まったく余計で不必要で何でこんなシナリオを書かなきゃいけなかったのか?」と再プレイのたびにいつもおもう。まず、訴訟ポルカの筆頭にあげられるべきは、ここに来て急に屁垂れる腐れ兄貴であろう。
いや、だってコイツ最悪じゃないですか兄さん! まぁ妹シナリオのお約束ではあるんだけど、なんでこう毎回最初は「オレが責任を取る」とかカッコつけておいて、プレイ時間にしてそこから5分も立たないうちに屁垂れているんだか。
しかもただの屁タレだけならまだ許せるところはあるんだけどさ、この腐れお兄様ったらなんか妙に偉そうなのが我慢らねぇよ糞兄貴! いっつも妹が感情的で将来のことを考えているオレのことを分かってくれないから別れるんだ……
とか、どっかの阿呆な首相のように自分の脳内現実妄想のなかでひとりヒロイズムで自己陶酔しちゃってさ。「オレはキツイ決断をしているのに相手はなんでわかってくれないんだ!」って無理心中を強要するDQNみたいですげぇタチワルイっすよね。
だいたい、自分が現実主義者で大人だっていうなら、妹を上手いこと説得して将来は近親相姦OKな国に高飛びするから今は我慢しよーぜwぐらいのことも言ってくれないお兄様なんて大嫌いですわオホホ。
僕も色んな糞シリアス展開をみてきたけど、この主人公もなにげレベル高いよね。最初はなんか大人っぽく話し合おうぜとか言っている癖に、話し合いが平行線を辿ったら「お前がここまでいっても納得しないのなら別れるぞ!」ですよ? 
なにさ、いちばんガキなのはテメーじゃねーかオイそこのクソッタレ。これじゃあ結局最初から夜々が言っていることが正しかったんだよね。冷却期間を置こうとか言っているけど、それに相手が納得しないと別れるっていうことは、
いま別れてもいいってくらい相手のことを思ってないんだから、冷却期間を置いたとしたら、それをきっかけにして別れようとするに決まっているじゃん。こんな阿呆なことを堂々と抜かしておいて自分を大人で現実主義者とか言うのはやめて下さい。

どうせここらへんは、次のクローバーの呪いに繋げるためのテンプレ兄妹喧嘩ネタを適当にやっただけなんだろうけど、まさか次のクローバーの呪いがこれ以上に酷いとは初回プレイ時には予想がつかなかったね。
ここの部分、わりと多くの人が「よくわからんところ」だとか「考察が必要だ」みたいなことを言ったらしいんだけど、問題はべつに考察したって最善の妥当の解を見つけたって、つまらない部分は面白くならないってことでしょうな。
なにがダメかというと、まず基本的にこのシーンって主人公がかけずり回って、そのあとにシロツメさんから単にクローバーの呪いの効果がどーこーみたいなやりとりしているだけっすよね。要は「プロット」の垂れ流しを読まされているようなもので、
ああなるほどライターさんはこういうお話を書きたかったんですねーぐらいの設定を今さらになって急に読まされてもなんかねぇ。しかもそのやり方もあまり上手な方じゃない。ここの部分が「よくわからん」って印象が強まるのは、
クローバーの呪いの適応範囲がシナリオの展開で何回も「実はこーだったんだ!」って繰り返しちゃって、どこからどこまでが「呪い」と言える部分で、どこからどこまでが主人公たちの「意思」の部分なのかわかんなくなっちゃうからでしょう。
もちろん、それは後から「考察すれば良いネタになる」というのは完全に間違いで、まぁ考察したい人は勝手にやればいいだろうけど、設定にあまりにも曖昧な部分が多すぎて、しかもそれがシナリオの展開で設定がクルクル変わるみたいなことになると、
なにこの話なんかテキトーに読者の想像に任せる部分が多いなぁーって醒めてしまって真面目に考察しようとは思わなくなってしまうんである。だいたい、最初からそういう引っ掛け考察ネタを仕組んであるなら兎も角、
いままで最高のイチャラブシナリオをやっておいて、ラスト付近だけなんか「想像の余地を残す考察的展開」をやったところで、それに食いつく人は殆どいないし、なんか恣意的なシナリオの流れでイヤだなぁと思う人が大半じゃないの?

で、ラストシーンね。これはそんなに評判の悪いところじゃないと思うけど、個人的にはドンアウトっていうか、なんかテキトーに綺麗にまとめようとしているあたりが胡散臭くってイヤだなぁ。
正直なはなし、このエンディングをみると余計に「レッツ背徳のあと強烈なエッチシーンをやって終われば良かったのに」と言う思いが強くなる。だって、そこで物語が終わるのと、このエンディングでこの物語が終わるのとでは、
何が違うかと云えば、このエンディングで二人が「完全記憶を手に入れた」ってことでしかないでしょ。これ、このエンディングまでのあいだに、ふたりの子供時代の記憶が最後まで戻らなかったのなら、これも意味はあるんだけど、
もうレッツ背徳の時点でふたりの記憶は殆ど戻っているわけじゃない。そーなると、この「完全記憶を手に入れた意味ってなぁに?」ってことになって、たぶんここらへんも「読者に想像の余地を残そう」としているんだろうけど、
僕からすると単なる描写不足を読者の側に押しつけているようにしか思えないな。まぁそこらへんの「考察ネタ」はあとでやっても良いとしても、なんでそういう不満が残るかというと、この大人モードになった夜々のエチシーンがないからであり、
いやこれは結構真面目な話で、あの甘ったれた夜々がどうやって大人みたいなキャラになっていまはどういうキャラになっているのかをエチシーンで知ることができないと、このエピローグで綺麗に纏めようとしている「辛いことがあった」ことの、
その経験の価値を最も説得力のあるかたちで表現できないと思うのである。それを如何にも「良いシナリオ」っぽく「あれかれふたりはいろいろあったんだな……」とワケ知り顔で纏めようとしているこのエンディングは、
最初から最後まで無縁の独自の生命力にあふれていた、このシナリオの序盤から後半までの最高の部分を自ら裏切っていると言えるだろう。この後半部分からエンディングまでのふたりは、僕には土塊で出来たゾンビ人形にしか見えない。


さて、基本的な評価はこれぐらいにして、以下はちょっとした考察タイムというか、このシナリオが生まれた背景みたいなものを、ほんの少しは考えてみたい。
むろん、最初に言ったように、既に僕の「評価」は決まっており、べつだんこうした「考察」をすることによって、やれテキストに新しい読解可能性が云々みたいなことになって、評価や点数が上がるようなことはない。
余談めいた話になるが、大抵こういう「考察」というのは、単に作品のある部分を「静的」に――つまり、論じる部分だけをテキストから任意に切り離し、テキストの連続性とは無関係に論じるほうほう――論じているに過ぎず、
それはテキストのある部分を、自分の頭にある何らかの好奇心に結びつけて論じるものであり、その結果は実際にテキストを動的に――最初から最後までテキストが進んでいく方向の中で論ずるほうほう――読んだ結果と異なることが多い。
もちろん、静的なテキスト読解が悪いとか、動的なテキスト読解こそが本当であると言うつもりは全くなくて、単に静的な読解によって得られた視点は動的な読解のなかでは上手く結びつかないことがおおいと言いたいだけである。
どういうことかと言えば、仮にこの後半部分のシナリオだけを「静的」に考察して、そこで何某かの感動的な物語だと解釈できる視点を得たとしても、果たして、その視点を持ったまま最初からこのシナリオをやってみたら、
おそらくこのシナリオの前半から後半にかけての素晴らしいテキストと安易な物語化を許さない強度な日常描写を前にして、自分の脳内で作り上げた貧相で陳腐な感動的な物語解釈など途端に吹き飛んでしまうにちがいない。
実際に最後の部分だけをアレコレ解釈して「この物語にはこういう意味があったんだ」と纏めるのは小学生でも出来るが、その自分の解釈した物語が「最後」だけではなく作品の「最初から最後まで」ぴたりと当て嵌まるどうかは実に難しいのだ。
まぁ今回はべつに静的なテキスト読解の「エロゲ考察」はやるつもりはないから、そこらへんは読者のみなさんも注意する必要はないと思うけど。

最初に考えたいのは、僕が基本的な評価のところで書いたことであるが、どうしてこの作品は「レッツ背徳!」のところで終わってはいけないのか?ということである。
なんでここに拘るかというと、まずこの時点で主人公と夜々が兄妹であることも、クローバーの奇跡が何であったのかという点も、そして、主人公と夜々も「記憶を捨てずにふたりで生きていく」ことを選択しているわけで、
最初にやったときも「ここで終わりなのかな?」と思うくらいに全ての問題が解決されているところであり、何度も再プレイした経験から言っても、基本的に以降のシナリオにこの時点よりも付けくわえる情報も変化もないのである。
強いて言えば、主人公のクローバーの奇跡が発動されて夜々が死にそうになったのをみて、月姉が主人公たちを見守るようになったくらいのことだろうか。それ以外は、申し訳ないが、僕には全て奇跡の茶番劇にしかみえないのだ。

いちばん妥当でいちばんつまらない答えは、まぁライター氏が単に因習的なシリアス展開と感動展開を入れないと読者が納得しないんじゃないか?と思ったか、もしくは最後にシリアスいれろよーとDかPに言われたかなんかだろう。
なにせ、この後半部分に入る前で、この夜々シナリオにはいっさいのシリアス展開は存在しないと言っていいほどであったから、流石にここらへんで絞めなきゃ話がまとまらねーと因襲的に考えた可能性は非常に高い。
とはいえ、こういう答えは原因としてはあっているかもしれないけど、それがなんで「こんなかたちのシリアス展開にはなったのか?」と言う部分については答えていないのは事実であろう。
まぁもともとつまんないんだから、そんなことを考える必要性は全くないんだけど、毒を喰らわば皿までの気持ちでやってみるならば、この後半のシリアス展開のなかには、実ることのなかった主題の種子のようなものが散乱しているのがわかる。
たとえば、主人公は夜々が兄妹である事実を知らされたときに「最初から兄妹と分かって覚悟をきめて近親相姦したなら兎も角、知らず知らずのうちにやってしまったのは、罪だ」といったようなことをいう。、
ちょい深読み気味に読んでみれば、この主題が最後まで主人公の罪悪感と覚悟を決められないことの困惑になっているとも言えるだろう。しかし、この主題は正直言って殆ど展開されていないのに等しい。
普通に考えたら、上の台詞は兄妹が覚悟を決めて近親相姦をするのも罪かもしれないが、そのことを知らないで近親相姦を犯した人間には別の罪がある、と言う論理を言っているわけだが、シナリオのなかでは前者の罪に対して、
主人公が覚悟を決められないことを延々と語るだけなんだから。おそらく、さいろー氏は「兄妹だと知らないで結ばれた兄妹」というシチュエーション自体には最大の興味を持っており、そこから最高の兄妹のイチャラブを引き出すことは出来たが、
それがどのような「罪」を持っているかという点については、正直あんまし考えていなかったのではないだろうか。とにかく、そこに「罪」があるということにしておかないと、兄妹のイチャラブに必要な背徳感は産み出せなかったけれども、
じゃあその罪がいったいどういうモノで、そしてその兄妹はその罪にどのように向き合えばいいのか?という問いにぶつかったとき、さいろー氏のこれまでイキイキしていたペンはザーメンを出し続けるのを止めてしまったのである。

ここで少し振り返る必要があるのは、序盤から後半にかけての、主人公と夜々のふたりが兄妹の事実を知るまでのあいだのテキストにおいて、(1)で執拗に論じたように、
に「ふたりの間には兄妹的な運命によって結ばれている」と言うことを暗示するメタ視点のコードと、しかしふたりの関係それ自体は「主人公を兄のように慕う後輩キャラ」であるというベタ視点のコードが、
テキストの上に二重に被さっていると言うことである。言い方を変えれば、ここではふたりが「兄妹だから結ばれたのか」それとも「兄妹のようにお互いを愛し合ったから結ばれたのか」という点が決定不能になっており、
作者もそこは常に曖昧にボカしたままだと言うところである。ここの基調は、この最後の後半部分も変わっていない。主人公の糞さに呆れるところが多いこの兄妹喧嘩部分でも、たぶん作者が問題にしたかったのは、
この両者のコードの決定不能性であろう。つまり、記憶が戻った状態で考えると、自分たちが愛し合ったのは、自分たちが兄妹だったからなのか? それとも兄妹でなかったとしても愛し合ったのか?と言う問題である。
そして、この主題とクローバーの奇跡の「効果の範囲や機能の混乱」はたぶん並行関係にあるのだろう。もしも、クローバーの奇跡が完璧で「兄妹であることの記憶」をふたりから完全に抹消させていれば、
ふたりが会って恋に落ちたのはそれは単なる「異性同士」の恋愛であることが確定され、メタ的な近親相姦の運命論的コードは消えてしまう。かといって、もしもふたりの記憶が微かに残っていて、それがふたりを結びつけたということになれば、
主人公と夜々が見知らぬ他人として出会って恋に落ちたベタな恋愛物語そのものが否定されるということになるだろう。作者が最後にクローバーの奇跡を使って「ふたりの完全記憶」というオチを残したのも、こうした視点から見れば、
なんとなくその意味が分かるかもしれない。これはまず第一にふたりが兄妹だったと知らなかったときのふたりの時間を取りも出すことによってベタの恋愛物語を肯定し、そして第二にふたりには「完全な記憶」というものが、
ある種の呪いのように降りかかることによって、二人の兄妹の近親相姦の運命的な結びつきをも肯定しようということなのだろう。エンディング部分だけはそれほど評判が悪くないのは、ここらへんのことを読者が何となく察しているからだろう。


と、考察してみたところで、僕としてはこの後半部分の評価は最初に言ったように大して変わらないし、小鳥遊夜々はこのエンディングにおいて幸せになっているかどうかはさておき、
僕はこの後半部分を毎回まいまいみても一ミリたりとも夜々の幸福を感じないのである。幸せを感じられないばかりか、このエンディングには夜々というキャラが生きていると思われるような生命観も必然性も殆ど感じずに、
なんか近親相姦シナリオなんだから、世間の倫理がどーこーみたいな話で揉めて、最後はまわりからは認められないけど、世間の片隅でひっそりと生きていますみたいなプチハッピーエンドが世間的にもいいよねみたいな、
ある種の因襲とある種の遠慮みたいなものを強く感じてしまう。それはたぶん祖父倫がどーこーという「暗黙の抑圧」も、まだ実妹ゲーがそんなに出ていなかったこの作品の発売当時にはあったんだろうし、
まだ実妹ブームがくるちょっと前ぐらいだったから、メーカーも作者も「これくらいでおさえたほうが世間からの反発はないかも」みたいに弱腰になっていたかもしれない。僕がこの後半部分がイヤなのは、
そういう作品外部の糞つまらねぇ「暗黙の規範」に作品がひれ伏しているかのような雰囲気がほんの少し感じてしまうからなのだろう。前半から後半にかけてはそんな世間の規範など超越している素晴らしい作品なのに、
後半になってそういうのを少しでも見せつけられると、あーあーやっぱ世の中って糞だわーって急に現実に引き戻されちゃうのであり、よりにもよって世間よりも妹を大切にしなくちゃいけない主人公までそんなことをいうんだからさ。

だからこそ僕は逆にこの腐った後半部分を否定しようと、何十周もこのシナリオの後半部分以外をやっているのかもしれない。そして、こういう埒のない妄想をよく考えてしまうのだ。
もしもこの作品から「クローバーの奇跡」と言う設定をなくしてしまったらどうなるだろうかと。そうすると、シロツメさんにはたいへん申し訳ない話であるが、べつにクローバーの奇跡がなかったとしても、
主人公と夜々は普通に恋人同士になっていたと思うのだ。クローバーの奇跡がなくっても、まず二人が学園で出会うことには変わりはないだろう。出会っていきなりふたりが兄妹だと認識したとしても、
夜々の秘めたる思いが世間の壁をクラッシュすることは確実であり、もうゲーム期間で言えばクリスマスぐらいにはサンタコスエッチをしちゃうぐらいにレッツ背徳を驀進していたはずである。
いっぽうで、ふたりが兄妹だと認識しなかったとしても、この夜々シナリオのように二人が自然に惹かれあって結ばれることは確実であり、最終的には兄妹の事実を知ったとしても、自分たちの意思で行った恋愛を肯定するはずだろう。
でも、こう考えて始めて、僕はこの作品のクローバー設定と何度やってもムカつく後半部分の意味をそれなりに認めることは出来るのだから不思議でもある。つまり、クローバーの奇跡があろうとなかろうと、
主人公と夜々はなにがどうあっても結ばれてあったのであって、クローバーの奇跡なんてものは、ふたりが兄妹としてそして恋人して必ず結ばれる運命に比べたら、ふたりのエッチにレッツ背徳というスパイスを加えるオマケでしかなかったのだと。

長文感想へのレスを書くには
 ・ユーザーIDを有している
 ・COOKIEが有効である
 ・COOKIEを有効にした状態でログインしたことがある
 ・5つ以上一言コメントを書いている
 ・長文感想を書いたユーザーが長文感想へのレスを許可している
の5つの条件を満たしている必要があります。

コメントデータ

このコメントはだいたい1727回くらい参照されています。

このコメントは3人の方に投票されています。