マルセルさんの「仏蘭西少女 ~Une Fille Blanche~」の感想

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**ネタバレ注意**

ゲームをクリアした人むけのレビューです。

これ以降の文章にはゲームの内容に関する重要な情報が書かれています。まだゲームをクリアしていない人がみるとゲームの面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。

昨今のエロゲの作風に真っ向から対立する作品、と思っていたが「アンチ○○」レベルを超えた「怪作」になってしまったようだ。NTRや輪姦があるとかそんなレベルじゃない。そもそもこの作品は構造的に「ハッピーエンド」や「トゥルーエンド」といったものが存在しないのだ。物語的に幸せなエンディングはあるし、不幸なエンディングもある、だがそれらの量が膨大で「死んですぐ終わり」的なバットエンドだけではなく、それぞれのエンドまでに異なった長いシナリオがあるから、膨大なエンドがそれぞれ正しく見えてくるのだ。迷宮の「出口を探す」物語ではなくて、ただ「迷宮の内部をもっとよく知るために」物語の内部をさまよい続ける作品、といえば正しいか。その為「攻略フラグ」にユーザーの注意が向かい「物語」の印象が弱まりがちな嫌いがあり、普通のエロゲ好きにはお奨めしかねるが、普通のエロゲに飽きている方ならこの迷宮を堪能できるかもしれない。
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本題に入る前に一応はコンプ率の確認をば。今のところエンド回収率7割、CG回収率も同じく7割といったところで、。
所謂「コンプリート」状態ではないわけだが、このゲームの目的は「CGコンプリート」にあるわけでもないと僕は思っているので、
ここらで感想を書かせていただこう。いつものCG枚数やエロ評価は未コンプなんで無理ぽ。
まぁ、OHPに書いてあるCG枚数「165枚」はウソじゃないし、そのクオリティも今までのトニィ作品の中で最高峰であることは間違いない。

さて、まず巷で流れている、この作品が「作業ゲー」だという批判について考えてみよう。
結論から言うと、これは70%ぐらい正しく、30%ぐらい間違っていると思う。

「作業ゲー」という言葉は一見中立的に見えるが、もちろん言葉というものが必ずそうであるように、この言葉にも使い手の主観的判断が隠されている。
「ドラクエは作業ゲーかどうか?」という問いを考えて頂きたい。確かに、ドラクエには「経験値稼ぎ」や「ゴールド稼ぎ」といった作業的な要素があり、
それを評して「作業ゲー」だと言うのはわりと客観的な批評ではあろう。しかし、この基準を遵守するなら全てのRPGは大抵「作業ゲー」であることは間違いない。
そして、大抵の人はそうした基準を守らず、ただ特定のゲームを「作業ゲー」と非難するだろう。
つまり、この「作業ゲー」という批判は、一見客観的にみえながら、実は批判者の「俺はドラクエの経験値稼ぎがつまらなかった」という主観的判断を語っている。
言い換えれば「作業ゲー」という批判は、その「作業自体」を責めている訳ではなく、
その作業自体が個人的に「詰まらなかった」ということを批判しているといった方が正しいだろう。

とはいえ、このような「詰まらない作業プレイ」という意味で言っても、これは「作業プレイ」と批判されても仕方がない作品だと言える。
以下に大雑把にこの作品のフラグ構造を記述しよう。これは攻略フロチャートを正確に記述したものでもなんでもないが、
「だいたいこんな感じ」が理解できればいいとおもう。

記号の説明は、まぁ何となくわかると思うが、ABCといったアルファベットは、それぞれ3人のヒロインを表現したものだ。。
つまり、Aルートと書いてあったら、Aヒロイン物語であり、Bルートと書いてあったら、Bヒロインの物語。
ABとかBACとかAAABといった表現は、AとBのヒロインが出てくるとか、Aの物語の次にBの物語が出てくるとかそんな感じである。
→といった記号は主に図の整理のために使われているが、→の数が多いほどそのルートが長い、といったことも表現している。

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(図1)

                                     AA√→→→→→AA√分岐>>AAエンド 
                                       ↑       ↓ 
                                       ↑       ↓   AAB√→→→→→AABエンド   
                                       ↑       ↓      ↑
                                       ↑    AAA√→→→AAA√分岐→→→AAAエンド 
                                       ↑              ↓  
                                       ↑          AAAA√→→→AAAA√分岐→→→AAAAエンド    
                                       ↑                      ↓
                                       ↑                  AAAB√→→→→→→AAABエンド                   
                                       ↑ 
                                   A√→→A√分岐→→Aエンド 
                                   ↑   ↓        
                                   ↑ AB√→→→→AB√分岐→→ABエンド 
                                   ↑          ↓
                                   ↑        AC√→→→→ACエンド
                                   ↑         
                                   ↑     BB√→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→BB√エンド     
                                   ↑       ↑ 
プロローグ→(膨大な選択肢群と細かい分岐テキスト群)→個別ルートの分岐↑→B√→→→B√分岐→→Bエンド BACC√→→→→BACC√分岐→BACCエンド
                                   ↓  ↓                  ↑        ↓
                                   ↓  ↓                  ↑   BACCA√→→BACCAエンド     
                                   ↓  ↓                  ↑
                                   ↓  ↓   BAC√→→→→→→→→BAC√分岐→→→BACエンド
                                   ↓  ↓      ↑           ↓
                                   ↓  ↓      ↑       BACA√→→→→→→→→→→→→BACAエンド   
                                   ↓  ↓      ↑
                                   ↓BA√→→→→BA√分岐→→BAエンド  
                                   ↓                             CA√→→→→CAルート
                                   ↓                               ↑      
                                   ↓                               ↑
                                  C√→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→C√分岐→→Cエンド         
                                                                   ↓ 
                                                                   ↓
                                                                 CB√→→→CBエンド

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もう一度断っておくなら、以上は正確な攻略フラグでも何でもない(だから、実際のゲーム攻略には何の役にも立たない)。
実際のフラグ分岐はもっとゴチャゴチャしている。
個別ルートの選択肢によって分岐が決定されているだけではなく、実際は共通ルートの選択肢によって、個別ルートの「分岐条件」も決定されているので、
ある分岐点、例えば上の図で言うなら「BAC√分岐」のことろで一端セーブしてのちに「BACC√」と「BACA√」に進む、といった攻略法はなかなか難しい。
適切に共通ルートの選択肢を選んでいないと「BACC√分岐」の選択肢が登場しないということが結構ありえるので、上のようには上手くいかないことが多い。

まして、僕は上のように「フラグ」を適当に可視化して示したけど、当然のことながら、こんなモノはゲーム内にハナからドコにもかかれていない。
ある√がどこで分岐するのか、それともここで打ち止めなのか原理的には分からないから、ユーザーはどこを探せばいいのかすらも、検討がつかないわけだ。
フラグ構造だけで言えば、例えば「せんせいだいーすき」みたいな作品に似たようなフラグ構造はあるが、あれは最初から攻略フローチャートが可視化されている作品で、
分岐条件も基本的にシンプルなものであった。僕はPC98以前にエロゲはあんまし詳しくないし、
そもそもこの手の「選択肢重視ADV]はあんまし好みじゃないので、まぁ断言は出来ないわけだが、
少なくともエロゲ史上「10本の指に入る」超難解難易度のエロゲーであることは間違いないだろう。「正直やってられるかw」という称号がこの作品に相応しい。

このような作品の攻略を普通のエロゲユーザー「つまんねー作業プレイ」と感じるのは、まぁ無理もないことである。
昨今の普通のエロゲは、シナリオ分岐を「キャラシナリオ分岐」に使うだけであり、バットエンドすらない作品だって多い。
好きなキャラを優遇するような選択肢を選んでおけば、勝手にそのキャラのルートに入っている、というのが現在主流の攻略フラグであって、
そのような仕様に慣れた人にとってこの作品は地獄でしかないだろう。勿論、僕はここで攻略フラグ性の「良い」「悪い」の話をしているのではない。
まぁ色々なやり方はあるとは思うのだが、単純に好きなキャラに好きに萌えるのが目的な萌えゲーなら、別に以上の「嫁選びADV」で全然構わないのであるし、
それはそれで「好きなキャラをユーザーが選択して将軍さま気分になれる」というゲーム性が発生している以上、何の嫌味でもなく立派なゲーム性と言うべきだ。
そして、そのような作品を殊更楽しむユーザーが、このような異常な攻略フラグを持つ作品を楽しめないのは無理もない。
僕がこの手の作品を何とかプレイができるのは、小五の頃から兄貴の部屋で98時代のエロゲをやっていたという経験があるからで、
そんな下らない「教養」を威張ったところで、アナタはガキのコロから人生終わっていますねと言われるのがオチなのである。

とはいえ、だ。じゃあ、この作品が「ゲーム性重視」な「昨今の紙芝居エロゲに慣れたヌルオタ」には相応しくない、
「エロゲーがエロ「ゲー」であった時代」の「硬派なエロゲオタ」にこそ相応しい作品かと言えば、それも些か怪しいモンである。。
確かに、こんな複雑なフラグ構造を持つ作品は最近のエロゲじゃありえないし、ここ2~3年でエロゲを始めた人がやったのなら、
まぁ8割方クソゲ決定な作品ではあるだろう。「最近のエロゲオタはこの作品を楽しめにくいだろう」というのはわりと正しいとは思うが、
じゃあ昔のエロゲオタなら「楽しめやすい」作品かと言えば、これもイエスとは言い難いのである。

前述した「紙芝居萌えゲー」を批判するような所謂「懐古厨エロゲオタ」言説が肯定する「ちゃんとした選択肢型ADV」というのは、
だいたいが「EVE ~burst error~」だの「YUーNO」だの「野々村病院の人々」だのといった、言うならば推理系ADVを前提としている。
このジャンルが意味するところは、物語内容が推理系だとかミステリー要素が強いといった点もあるが、一番大きいのは、プレイヤーが選択する行動の結果が全て、
「ある一つの真実」という物語内容に直結しているということである。簡単に言えば、幾ら視点をグルグル変えようとも(EVE)、
幾らバットエンドをたくさん作ろうとも(野々村)、幾らエロゲ史に永遠に残るような超洗練されたシステムがあろうとも(YUーNO)、
それらの要素は、たったひとつのエンディングにいたるまでの「試練」(攻略性)としてしか機能していない、ということである。。

これらの古くさいゲームをやったことがない人に、わかりやすく説明すれば、恐ろしいまでに単純化して言うのなら、
これらの作品の「攻略フラグ性」は、はっきりいって「Fate/stay night」と同じである。
いや、もちろん、YU-NOと笛を一緒にするんじゃねぇYO!といった怒りはわかる。
エロゲ文体の礎を作った蛭田氏とエロゲ文体をメチャクチャに破壊した某きのこ氏を比べるなんて国賊ものだ!といった批判も理解できる。
とはいえ、僕が言いたいのは、あくまで「攻略フラグ性の共通性」という大まかな議論をしているだけであって、作品の細かい質はここでは関係ない。
それらの過去の古典と「Fate」が共通しているのは、99%のバットエンドやバットルートの存在によって、
たった一つのハッピーエンドを作り上げていくような、バットエンドの存在を用いたハッピーエンドの語り方が似ているということを指摘したい。。
つまり、また単純に図式化すれば、



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(図2)

プロローグ→→選択肢→→→バットエンドA
        ↓
        ↓
        →→→→選択肢→→バットエンドB
              ↓
              ↓
              →→→→→→ハッーピエンド
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

というようなフラグ構造のことであり、これらのゲームにおける選択肢は「バット√」と「ハッピー√」を分岐するためにしか機能していないということだ。
もちろん、細かいことを言えば、笛とEVEとYU-NOと野々村では、それぞれ攻略フラグは違うし、上の図式までに単純なフラグ構造はない。
だが、これらの作品のフラグ構造に共通しているのは、それぞれの選択肢が「それぞれの異なった物語」に分岐するモノではなくて、
それぞれの無数の「間違ったエンド」と、たった一つの「正しいエンド」へと分岐するために使われている、ということなのである。

ところで、僕は先ほどから「正しいエンド(ハッピーエンド)」と「間違ったエンド(バットエンド)」という価値判断を使っている。
これに疑問を覚える人もいるかもしれない。その「正しい」とか「間違っている」という判断は、どのような基準からもたらされたものだろうか?と。
「主人公が死んでオシマイ」的なエンドはほぼバットエンドに違いないけど、「主人公が事件から身を引く」的なエンドは即バットとは言いにくいではないか?と。

なるほど、そのような「物語的価値判断」で言えば、Fateのバットエンドにはハッピーエンドと言いたくなるモノが結構ある。
個人的に言うと、Fateのハッピーエンドと言われるモノは納得するエンドが少ない。どうして、毎回毎回イリアたんが犠牲にならなくてはいけないのか?
純粋な少女を生贄に捧げて頽廃した世界を救おうだなんざ、ゲーテからワーグナーへと続くドイツバカ浪漫主義の最悪なロリコン趣味じゃないか?
そんな僕からすれば、Fateの最高のハッピーエンドとは何よりもまずイリアたんに催眠術をかけられ、一生イリアたんの奴隷として尽しますエンドであり、
二番目にくらいには、士郎くんが聖杯戦争に参加しない日常エンドだろう。たぶんあのまま逝けばある日突然「妹」を名乗る銀髪の少女が士郎くんの前に現われ(以下略)。

しかしながら、このようなエンドに対して僕が幾ら下らん妄想を吐こうとも、これがバットエンドであることには変わりがないのである。
確かに、物語的内容から見てハッピーエンドよりもハッピーみたいなバットエンドが存在することはママある。
「ココロに残るバットエンド」と言うヤツであろうか。判を押したような「みんな幸せ」的なハッピーエンドよりも、
それほど幸せではないがべつだん不幸でもない「俺はそのまま普通の生活を送った」的な日常的エンドの方が却って心に染みることもあるだろう。

だが、エロゲーにおける「ハッピーエンド」と「バットエンド」の峻別は「物語内容」だけで決定されるわけではない。
僕らが士郎君の日常エンドやイリアたん奴隷エンドを「ハッピー」だとは普通認めない理由は何か? なにも別に難しく考える必要はない。
それはぶっちゃけって「マトモなエンドロールが流れない」からであり、CGや回想がまだ全部埋まってないからだろう。
エンディング主題歌とスタッフ全員のエンドロールが流れないということは、そのエンドが「本当のエンドではない」ということになっているし、
CGや回想シーンがまだ殆ど埋まっていないと言うことは、まだ物語が続く可能性を濃密に示唆している。。
これらの特徴を総して言えば、「違う選択肢を選んだ方が物語が長く続く」から、途中で物語が終わるエンドはバットであるいう判断を下しているわけだ。
このような判断においては、それらのエンディングの「物語内容」は特に問われていないということになる。


このような問題をもっとよく考えてみるために、(図2)の「バットエンド」を「ハッピーエンド」に、
そして「ハッピーエンド」を「バットエンド」に置き換えてみよう。。
さらに付け足せば、それらのハッピーエンドあとににマトモなエンドロールが流れて、CG&回想も全部埋まっていると仕様。
つまり、物語が始まって最初の選択肢に「当たれば」ハッピーエンドが見られて、「間違え続ける」と最後にバットエンドが見られるという作品。
具体的に肉付けすれば、それは推理物語であり、開始早々の選択肢に成功すればゲーム開始5分で犯人が見つかるけれども、
選択肢を間違え続けると延々と三日間ぐらい探偵の失敗談を聞かされるというお話。

いやまぁ、そんな作品誰もやりたくねぇYO!というのはわかる。しかしまぁ、想像してみよう。
もし、このような作品を何も知らずにやっとしたら、
僕らは最初の10分ぐらいで辿り着く「犯人逮捕」のハッピーエンドをハッピーエンドと見ることができ、
そして三日間ぐらい続く探偵の失敗談をバットエンドルートと見ることができるだろうか?

答えはNOである。もうちと正確に言えば「NO」とははっきりと言えないが、「YES」とは絶対にいえないような微妙な感覚を引きずったまま、
僕らはこのよく解らない作品をプレイするに違いない。何故、最初の犯人を見つけたハッピーエンドをハッピーだといえないのか?
これはわりと簡単に答えられる。仮に、そのエンディングが「物語は全部終わったんだ」と主張していたとしても、僕らはそのあとに違うルートを発見してしまうので、
そのエンディングの答えが「本当かどうか?」イマイチ判断つきかねるのである。さきほどのエンディングで捕まえた「犯人」が本当の犯人かどうか分からないし、
いやまてこの作品は推理物語の態を装っているが、こんなに早く犯人が捕まる推理物語なんてありえないから、本当は違うジャンルの物語かもしれない……
といった疑問が「まだ残っている攻略ルート」という存在によって生まれてくる。物語が、いや、テキストが今までのテキストとの関連性を失っていないと、
なんらかの形式的な指標によって明示されない限り、原理的には今までのテキストが「嘘ぴょーん♪」である可能性が捨てきれないわけだ。

簡単に言えば「メデタシメデタシ」というエンディングのお決まりの呪文は、それが実際にテキストにピリオドを打たない限り、なんら効果を発揮しない。
だから、いくらあるエンディングの物語内容が「ハッピーエンディング」に見えたとして、そこでメデタシメデタシを言っていたとしても、
まだまだ他の物語(テキスト)が続いていると認識できる以上、それは確実なハッピーエンドには見えないのである。
そして、ある物語が例え幸せな終わりではないにせよ、とにかく、これ以上先がないと理解できたのなら、
それをハッピーと呼ぶべきかバットと呼ぶべきかはわからないものの、それを「トゥルーエンド」つまり「本当のエンディング」と呼ぶことは出来る。

すなわち、エロゲにおける「ハッピーエンド」や「バットエンド」や「トゥルーエンド」は、
よく言われるように「物語内容」だけで決まるのではなしに、その作品それぞれがもつ独自の「攻略フラグ構造」によって決まるわけだ。
これが通常意識されないのは、その「攻略フラグ」と「物語内容」が普通の作品では大抵一致しているからである。
物語の途中で選択肢を誤って、主人公が死ぬというエンドは誰が見ても「バットエンド」に見えるだろう。
それは「主人公が死ぬ」という物語が内容が悲惨という意味で「バット」であるのと同時に、
「物語が途中で終わってしまった」という、逆に言えば「他の選択肢を選べば物語は続く」という攻略フラグ性があるから、これはバットエンドになるのだ。
このような「バットエンド」の悔しさをバネにして、本当の「ハッピーエンド」を探しに行こうというエロゲ独自のゲーム性と言うヤツは、
それこそエルフの野々村から、クロスチャンネルなループ系から、型月の笛まで共有されている、ごくごくまっとうな伝統だと言っても良い。

しかし、この二つを意図的に「ズラ」してしまうと、この両者が基本的に別ものであることが理解できるようになる
有名な例を挙げれば、初期の鍵作品に結構見られるテクニックだ。
「AIR」における「ハッピーエンド」→「ノーマルエンド」→「(バット)トゥルーエンド」の構成はあまりにも有名だが、
「ONE」においても「わざとバットな選択肢を選ばないと物語が先に進まない」といった、まぁわりと悪趣味な手法が見られる。
物語的に言えば、主人公とヒロインを追い詰めるような選択肢を選ばない限り、例の「永遠の世界」に主人公達が追い詰められずに、
主人公達は平々凡々な毎日を過ごしました的なノーマルエンドにしか見られないわけだ。もちろん「永遠の世界」をクリアしたあとには、
立派なハッピーエンドが待ち受けているのであり、そのような絶望から歓喜の一発逆転こそがこの作品の典型的な魅力なのであるが、
ノーマルエンドの時点でそれなりに幸せなのに、わざわざバットな選択肢を選ばせるというその恣意性も、鍵作品の不思議な特徴の一つであると言えるだろう。

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以上の長ったらしい議論――一言で言えば「ハッピーエンドやトゥルーエンドというのは、もうそれ以上続きがないエンドのことだ」――を理解した上で、
もう一度、上の(図1)を御覧頂きたい。

どうだろうか。もしも僕の議論がちゃんと皆さんに通じてくれたのであれば、(図1)のような攻略フラグの持つこの作品が、
何で「わかりにくい」のかコアなところが一目で理解できるとおもうのだが……まぁ、僕は自分の文章と論理構成に自信がないんで早々にネタバレをすれば、
上の(図1)のような攻略フラグ構成では、今まで言及してきた「ハッピーエンド」や「バットエンド」という普通のエロゲの論法が通じないのだ。

物語内容と攻略フラグ構成をリンクさせて具体的にあるルートを語ってみよう。代表例としていちばん解りやすいのは、香純ルートだろうか。
香純ルートと言っても、僕が確認したところではだいたい6個ぐらいのルートがあるわけだが、まぁ物語を純愛&ハッピールート的に進めたとしよう。
上の(図1)を使えば、香純ルートは「A√」に当たると言える。そしてAAの方向に進めていけば、香純をそれなりに幸せに出来る。
ごくごく一般的な意味でハッピーエンドと言えるのはだいたい「AAエンド」ぐらいである。だが、これはエッチはできない朝チュンエンド系である。
エッチを見るためには、それより続くAAA√に行かなきゃいけないわけだが、そうなってくると物語は徐々にヤヴァイ方向に進んでいき、
実際に香純とセックスするにはAAAA√まで行く必要があるのだが、その結末のAAAAエンドは精神的にかなりキツイバットエンドそのものなのである。

こうなってくると、物語内容であるエンドを「ハッピー」とか「バット」とか決めつけるのが、非常に難しくなってくる。
単純に一般的な意味で「幸せ」と言えるのは「AAエンド」あたりなんだろうけど、エッチは出来ないし、
その続きであるAAA√で物語や香純の心情の確信が語られているので、AAエンドは何というか「ニセモノ」のエンディングであるかのように思われてくる。。
じゃあ、「バットエンド=作り物ではない本当の悲劇」という言わば「文学的(笑)」的な論理で、AAAA√が「トゥルーエンド」かと言えばそうでもない。
確かに「AAAA√」の終わり方は些か衝撃的だ。単純に物語的内容のインパクトだけで言えば、あの脳髄陥没エンドこそがトゥルーだと感じる人は多いだろう。。
然し「AAAA√」の存在は残酷なまでに、他の「AAAB√」や「AAAC√」といった存在を匂わし、そして「AAAB√」といったものを見ると、
他の「BACCA√」や「CA√」の存在が気になってくる。この作品はあるヒロイン攻略ルートにも、他のヒロインがかなり活躍するので、
香純狙いの人は、他のヒロインルートでも必死に香純を探す必要があるわけだ。そして他のエンディングはさらにまた別のエンディングへと繋がっていき……

つまり、このゲームのエンディングはユーザーに対して「ここでオシマイ」という安堵感を僕らに殆ど永遠に与えてくれない。
あるエンディングがハッピーであろうとバットであろうと、それはただ「一つのエンディング」に過ぎないということが、
膨大なエンディング数と膨大な分岐ルート数、そして決して最後までスッキリしない物語によって明らかになり、ユーザーを物語の牢獄に閉じ込めていく。
前述した論を言えば、僕らが普通のエロゲにおいて目指すのは、それが「ハッピー」であるか「バットエンド」であるかは作品によって違うとしても、
何であれ僕らは物語が「終わる」ということを願う。その作品の伏線が解消されるか、その終わりがちゃんとした終わりであるかはわからないとしても、
兎にも角にも物語は最終的には「終わる」わけだ。それが例え「投げっぱなしエンド」であるにしても、
最悪僕らはその作品が「クソ作品」だということは理解できるから、そういう意味で僕らは安心して作品を「罵倒」して楽しむ事ができるだろう。

物語を終わらせるためには、もっと正確に言えば、物語が終わったと確認するためには、小説で言えば本の最後のページを見なくてはいけない。
その最後のページの「終わり」とか「完」といった言葉を見れば、僕らはその物語が「終わった」と確認できる。逆に言えば、それ以外の方法はない。
小説なら、幾ら複雑な物語であろうと、本の最後に辿り着けば、それが幾ら変な終わり方をしていようとも、
そこでページが終わっているのだからそこで物語は「終わり」である。その「終わり」が適切ではないと批判することは出来るけど、
ページの終わりが物語の終わりだという事実は、作者がその作品の「続編」や「改訂版」を出さない限りは覆らない。


以上は小学生でもわかる簡単な事実であるが、ではこれが「本」ではなく「エロゲ」の場合はどうであろうか?
意外に語られないことではあるが、エロゲは他のメディアと比べて、そのメディア自体にエンドマークを表現するものがない。
本ならそれは「ページ」の終わりだし、CDやDVDならそれは「再生時間」の表示だろうし、PC関係やネット関係で見られる、
あらゆる雑多なコンテンツも基本的には「再生時間」が表示されているだろう。本の場合は1P~300Pというように、
再生コンテンツの場合はO分から~2時間といったように、最初の時間から終わりの時間までが予め表現されているわけだ。
このような、原理的に作品の規模を予め知ることが出来ないエロゲメディアの特殊性は、他のメディアとは異なった問題を引き起こすとは言えるが、
取り敢ず今回は、物語の「エンディング」についてのみ問題を限定することにしよう。
なるほど、こうやって考えてみると、どうやって僕らがある作品のエンディングを判断しているのか?些か不思議に思えてくるだろう。
どこで物語が終わりなのかを示すエンドマークが見つからないし、そもそも複数のエンディングがある場合は、どのエンドが「本当の終わり」なのかわからない。

ただ、現実の答えは意外とつまらないものである。まず、今現在流通している7~8割の普通のエロゲは、簡単に言えば「短編小説」と同じである。。
普通のエロゲは、例えば萌えゲにおける「嫁選びADV」のように、ルート分岐を「ヒロインシナリオ」のチョイスに限定することにより、
それぞれのヒロインシナリオを短編小説の構成のように、同じ世界観を持つ異なった物語のエンドを共存させている。
「共通ルート」のなかで、自分の選びたいヒロインシナリオを決定する、という「メディア性」がユーザーも作り手も共有されているので、
あとはその「ルール」に従って、それぞれのヒロインシナリオを終わりまで一直線に楽しめばいいのだから、物語の正しい終わりは何かなんて悩む必要ないのだ。
それぞれのヒロインのシナリオはそれぞれに正しいのであって、あとは「自分の好み」に従って「俺の嫁は○○たんだ!」とか言っておけば宜しい。

今のエロゲが短編小説だとするのなら、昔の「ゲーム性が高い紙芝居ではない推理ADV」は選択肢のある長編小説だと言っても良いだろう。
(昔の言葉を使えば所謂「ゲームブック」というヤツだが、ほぼ死に絶えているジャンルなのでココでは言及しない)。
なるほど、確かに選択肢は今のエロゲと比べものにならないほど多い。
だが、選択肢は多くても、実際に「物語」としての量を持ったシナリオが分岐することは非常に少ない。
それらの選択肢の多くは「バットエンド直行」であり、そしてそれらのバットエンドは、たった一つのハッピーエンドに辿り着くための試練なのだ。
昔の推理系ADVやループ系ADVは、それぞれのエンドや分岐の99%を「バットエンド」とすることによって、
たった一つの1%の輝かしい「ハッピーエンド」を語ることができたわけだ。そういった意味で、こららのエロゲは未だに通常の美学理論の範囲内にいるといえる。
それぞれの物語にはちゃんとした「一つのエンディングが存在しない」というような、当たり前と言えば当たり前すぎて誰も気がつかないような理論である。

然し、この作品は、小説のように「最後のページを見る」といった方法で終わりを確定できるわけでもなく、、
また普通のエロゲのように、それぞれのヒロインに一つのシナリオと一つのエンディングが確定されているわけでもなく、
推理系ADVやループ系ADVのようにそれぞれのバットエンドが、ハッピーエンドの礎になるわけでもなく、
ただだた複数のバットエンドやハッピーエンドが、広大な墓地に規則的に並べられた墓標のように、それぞれの「終わり」が無数に点在しているに過ぎない。
一部ではこの作品が文学だとか文学じゃないだとか、まるで「構造改革賛成」や「構造改革反対」といったような、その対象が何であるかは不明のまま、
その対象の是非を巡って争うという知的なバトルが勃発しているが、僕はこの作品は「物語の墓場」といったほうが正しいと思う。
それぞれのルートの物語がそれぞれの「たった一つの終わり」という物語の生命条件を奪われて、ただただ無数に散らばっているだけ。

なるほど、僕らもこの作品の「CG枚数」や「回想シーン」や「エンド回想」をコンプリートすることはできるだろうし、
それによって、この作品を「終わらせた」ということは一般的には言えるだろう。だが、そんなことをして、何が満足するというのだろうか。
最早、そのような探索は単なる「ビックリマンカード集め」でしかない。確かにビックリマンのカードの裏面には型月の誕生を予感させる、
断片的な物語が書かれており、バカな子供たちの物語欲望を悪戯に刺激させたものだが、カードを仮に全部集めたところで、一つの物語が完成するわけでもない。
一つのカードの物語はまた別のカードへ、そしてまた別のカードはまたレアなカードへと物語を欲望させるが、
その連鎖は何らかのトゥルーエンドに繋がるものではない。

そういった意味で、この作品の「攻略フラグ探し」はそれなりに楽しく、僕もビックリマンチョコ感覚を久しぶりに思いだして楽しんだのは事実であるが、
カードの方ばかりに気を取られた感も否めない。最初のウチは物語やテキストをそれなりに楽しんでいた僕であったが、だんだん攻略チャートにのめり込むにつれ、
物語の内容自体はどーでも良くなっていた嫌いがある。チョコであるテキストを半ば流し読みして、オマケであるエンディング採集に勤めるばかり。
そして、夢が覚めてみれば、カードが集まったところで何ら物語が完成するわけでもなく、残るはそこらへんに投げ捨てられたチョコレートのゴミクズでしかないわけだ。
この作品のCG枚数回収やエンド集めがある種の「虚しさ」を覚えるとしたら、それはビックリマンチョコ的な虚しさではあるまいか。
CGやエンドを集めるのはそれなりに楽しいけれど、別に集めたところでこの作品の「真実」がわかるわけではない。
野々村や猟奇の檻シリーズ、或いは笛にもこういった「バットエンド集め」的な楽しさは存在するけれども、それはあくまで「正式」なエンディングを見たあとの、
「余興としてのバットエンド」探しと言ったものである。ところが、この作品には正式なハッピーエンドなんて存在しないのだから、
僕らは延々と終わりのない物語のガラクタの破片を採集しているだけに過ぎないとも言えるわけだ。これに徒労を感じない人間はちょっと少ないだろう。

なるほど、僕はまだ「全部のエンディング」を見ていないのだから、全員が幸せになるような「トゥルーエンド」を見ていないだけかもしれない。
そうした探索の末に「トゥルーエンド」に辿り着く可能性はまだ捨てきれないし、トゥルーエンドで普通のエロゲのように感動する可能性も捨てきれない。
とはいえ、7割方コンプした感想では、もしも残りの三割でトゥルーエンド的なモノが語られていたとしても、この作品の本質は変わらないと思うのだ。
もしも、最後のトゥルーエンドに辿り着くまでに、こうしたビックリマン集めがユーザーに要請されているのだとしても、
ユーザーにそのような「トゥルーエンド」の存在を確信させないのだとしたら、その作品の本質はあくまでビックリマン集めにあるといっていいだろう。

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じゃあ、ズバリ、この作品のドコが僕にはそんなに面白かったのか。一応82点という高得点を僕はつけているわけで、
これはまぁ多少は「面白かった」作品じゃないとつけない点数ではあるだろう。これまでのテキストを見てみるに、
なるほどこの作品が「レア」だということは解るかもしれないけど、別にレアな作品だからといって面白いわけでもあるまい。
「サ行」の単語しか使わないエロゲがあったらそりゃ超レアかもしれないし、主人公含めヒロインたちの日常的な排便シーンを必ず描いた、
「リアリティ重視」な作品があったら激レア間違いなしだろうが、「だからどうしたっていうんだよw」という評価で済まされるアレな作品ではあるだろう。

僕が上で云々してきた、この作品独自の特徴にしたって「だからどうしたっていうんだよw」と突っ込む人は多いだろう。
それはそれで正しい突っ込みだし、この作品を楽しめない人がいるのは当然だと僕は思うが、この作品を楽しめた僕からすると、
僕はオタク特有のニヤケタ嫌な笑い顔をしながら、陰鬱な声でこうひっそり主張したいのである。。

「その、どーしょもなさがいいんじゃない♪」(CV:ヘルシー太郎)

そもそも舞台が大正十二年の五月六日という時点で、この物語の結末がどーせロクなもんじゃねぇというのはハナからわかっている。
エロゲで必要以上にリアル云々を言う趣味はないけど、一応年号がきちんと提示されている場合は、それなりに設定に注意を払う必要があるだろう。
金子光晴といった当時の作家達の自伝やエッセイ、そして江戸川乱歩の小説などをよく読んでみると、大正デモクラシーなる当時の泰平文化が、
「象徴的に」崩れ去ったのが誰の眼からみてもあきらかになったのが、大正十二年の九月一日に起きた大災害……そう「関東大震災」である。

もちろん、物事は全て象徴的に起こるわけでもない。アメリカの飛行機テロ事件が起きたからイスラム過激派が活発になったわけではなく、
元からイスラム過激派がアメリカに敵意を抱いていたから、あのような事件が起きたのである。昔の日本にしても、今と同じく日銀が最高に無能だったために、
折々から日本は大不況に見舞われていて民衆は逼迫しており、大震災がきっかけになって、そのボロボロの感情が露わになり泰平文化が壊れてしまったに過ぎない。
この物語はある時代のカタストロフィの「一歩手前」から始まるのであり、未来に地獄が待っているのは当然であって、
そしてゲーム開始直後から地獄の前兆が蔓延しているのは、こういった時代設定から簡単に読み取ることが出来るのである。

とはいっても、これは当時の「文化的状況を正確に描写した」作品でもない、大正時代オタクなる人がいたらアレコレ時代考証にケチをつけるだろうし、
僕もこの時代の作家なり作曲家には多少興味があるので、首を傾げるところも多少はあったが、んなオタクの戯言など普通の人は興味はないだろうし、
あくまで僕の理論によれば、その作品の所謂「リアリティ」はその作品の「目的」との関係性によってその機能性を問われるわけで
(故に、リアリティ重視の作品はヒロイン達の排便シーンを描かない。その作品が重視するリアリティと「排便」のリアリティは関係ないからだ)
細かいイチャモン以上の批判になり得るとは思えない。おそらく、この作品は、デカダンスの快楽と崩壊のマゾヒズムを執拗に描き出すために、
大正時代末期の最後の夕暮れのような空間を利用したに過ぎないのだろう。無論、これは別に責められることではない。リアルでも、そこらへんの燃えゲ以下の
「男たちの戦い」を書くために「戦国時代の将軍達」を使う記号的な「歴史的小説」はわんさか書かれている。そんなクズ小説に比べたら、
この作品はそれなりに「上等」の部類に入るフィクションだといってもいい。ウワっ面の時代考証なり、妙に説明的な時代掛かった描写は極力抑えて、
あくまで自分の欲望に忠実に「末期の大正時代」を記号化出来ているからだ。

その特徴とは、別に難しい漢字やら珍しい言い回しが目立つ「テキスト」にあるわけではない。まぁ、これはエロ小説というか官能小説にありがちな、
えろえろとろとろな感じを出すために、厚化粧なクリームをむやみに塗りつけるような漢字化粧である。
僕はこの手のべとべとぬるぬるな漢字化粧は結構好きなので、それなりに楽しませてもらったが、
別に文学だとかいや文学じゃないとかムキになるものでもなかろう。官能小説ではよくあるテクニックだし、なによりも文法が現代的に明晰な、
それこそエロゲフォーマット的と言っても良いイキの短い文章だから、読解に必要以上のテマがかかるのものではない。
小学生みたいに難しい漢字が書いてあるからといって敬遠せずに、普通に読めば普通に意味がわかるものだ。

なによりも特徴的なのは、体験版じゃよく理解できないかもしれないが、物語全体から腐臭のように漂ってくる停滞感と頽廃感である。
この物語は徹底して「先に進まない」。もっと言えば、この作品の主人公は徹底して「自分から」は先に進もうとせず、
大抵は状況に流されるママであり、先に進もうとした場合の多くは失敗が待ち受けているという、かなり高スペックな屁タレスキルの持ち主なのだ。
とはいえ、まぁ攻略ルートによるが、主人公のアレな行動に僕らユーザがブチ切れ的な感覚は、他の屁タレ主人公ゲーに比べると少ない。
一つは単純な技術的な問題で、主人公のまわりをカメラで捉えるような三人称的一人称の語りのせいで、主人公の感情移入が抑制されること。
もう一つは主人公が置かれている物語の状況で、ハナから萌えロリ娘を金で買って、毎日ダメだダメだと言いながらチューチューしている主人公に対して、
ぼくらはまぁ何ら男前な行動は期待しないのだし、それに内心僕らもまきいずみボイスなロリ萌えヒロインに萌えているので、主人公を批判しにくい。


ぶっちゃけていえば、この物語はユーザーに

「ダメな主人公のダメ行動に対する反感」」と「まきいずみロリ萌えヒロインのアソコにつっこみてぇ欲望」

という二つの感情の間を永遠に右往左往させるために作られた物語といっても過言ではない。主人公を取り巻く状況は、
ツタの生えまくった荒れた洋館のように、どこから手をつけて良いかわからないほど乱雑としている。そして、状況はますます悪化するばかりだ。
だが、別にこれは「鬱ゲー」的な状況ではない。鬱ゲーというのは「幸せの絶頂状態」から「不幸のどん底に陥れるような」
+100から-100からの「ショッキングな転落」をユーザーに体験させるようなジェットコースター的な快感があるが、
この作品はゲーム開始直後から-20ぐらいから始まっている。主人公はその-から眼を背けようと、必死にロリ少女の天国に逃げるわけだが、
そこで一時期+100の幸福を得たとしても、外に待ち受けているのは相も変わらず-20の世界であって、さらにロリ少女に逃避行する主人公の行動が、
現実の-20世界を徐々に悪化させてしまう。だから、主人公はその悪化から眼を背けようとますますロリ少女に逃避行しようとし……
この悪循環ループが何とも言えない停滞感と、ハロ黒ロリ少女にキン球ぶくろを搾取されているようなマゾ快感を同時に生みだしていくというわけだ。

この物語のそういった基本原則は、どのルートに入ったところで変わりはしない。いや、もちろん膨大なエンディング数と膨大な分岐数に見合った、
伏線やミステリーはそれなりに用意されているし、毎回それなりに替わった展開は見せると言える。
でも「ダメな世界や自分から必死に逃げようとする主人公」と「ダメな世界にあくまで引き留めようとするロリ少女」という基本構図は、
全く変わらないと言ってもいい。全てのルートの物語は、この「対決」の主題を永遠に変奏させたものに過ぎないと言える。
前述したように、この作品の物語が「終わったように」感じられないのは、この対決の主題がどのエンドでも基本的に解決されないからだろう。
もちろん、ロリ少女との幸せになるエンドもあるし、ロリ少女を捨てて別のヒロインと幸せになるエンドも存在する。
しかし、それは理想的な解決と言うよりも、「仕方がないからそっちを選んだ」的なものであって、頽廃と幸福はどのルートでも幸せに結婚しない。
どのルートでも主人公はロリ娘から逃げたり嵌ったりの繰り返しだ。欲望と社会的規範のいたちごっこは永遠に繰り返されるばかり。

結局僕らは、どの攻略フラグを選んでも、表面的には違う物語が進んでいるように思えても、、
その裏には必ず毎回「頽廃」と「幸福」の葛藤を見いだしてしまい、結局は前回と同じような物語が繰り返されていると感じてしまうだろう。。
それが多分大半の人には「詰まらない」と思われるのだろうし、普通の作品だったら、僕もそのような批判をしていた可能性はある。

でも、不思議と僕は、この作品のそのような不毛な繰り返しが、退屈に感じられるどころか、とても快適に感じられた。
確かに凌辱シーンやNTRシーンはわりとあるし、ロリ少女以外のヒロインとイチャイチャするシーンは少ないのではあるが、
なんというかこのゲームをプレイしていた時の感覚は、僕が好きな最上の萌えゲーをプレイしているときと大して変わらないのである。
停滞する物語、何の意味もオチもなくただあるモチーフを反復するシナリオ、変わらない世界と何処まで続く変わらないテキスト。
むやみに華麗で豪華なエロCGが無意味に飾られたエロテキストによって語られ、極上テクニックのエロボイスが現実の世界をノイズをかき消していく。
この作品を、あくまで僕個人としては、萌えゲ以上に現実逃避に特化した作品として大いに楽しんだものだ。
この世界の感覚がズルズル崩壊していくような虚構空間は、ある意味で最上のワーグナー演奏に似ているところがあり、時間の感覚を忘れさせてくれる。


最後に、一つだけこの作品のエピソードを紹介して、この長ったらしいレビューを終わりにしたい
この主人公は特に生甲斐を持たない、基本的には詰まらない人間であるが、ひとつだけ素晴らしい趣味が彼にはある。
それは作品の重要なモチーフの一つではあるものの、ライター氏がしかけたその機能以上に、この作品を適切に語ってしまっている。
彼の趣味はジグソーパルズである……とはいっても、例の「欠けたピース」が何とかという、ロミオ流の解釈ゲームは全く期待しないで欲しい。
なるほど、この作品には色々なピーズが辺り一面に散らばっており、複数のエンディングや分岐ルートを攻略するところで、
断片的なピースが繋がっていくような快感を得ることは出来るだろう。そういった「楽しみ」がこの作品にあることは否定しない。

だが、もっと重要なのは、主人公が作っているジグソーパルズの内容である。それは主に海外の風景絵画を模したものらしい。
主人公が語るところによれば、それはバスティーユの風景であり、続いてノイシュヴァンシュタイン、そして主人公が今製作しているのはロンドン塔である。
これらのジグソーパズルは作中で完成するし、この作品の散らばったピースもおそらくは完成するに違いない。
ただ、ピースが全て当て嵌まることと、そのピースによって完成されるモノの評価は基本的に別である。
この作品を楽しむには、おそらくこの主人公と同じような陰鬱な趣味を持ち、そしてこの主人公と同じようなマゾヒズムを持つ必要があるだろう。
自分を閉じ込める牢獄を、自らの手で楽しみながらせっせせと築き上げるような変態野郎なら、この最高に不毛な作品を楽しめるかもしれない。

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