Gore Screaming Showさんの「ゴア・スクリーミング・ショウ」の感想

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**ネタバレ注意**

ゲームをクリアした人むけのレビューです。

これ以降の文章にはゲームの内容に関する重要な情報が書かれています。まだゲームをクリアしていない人がみるとゲームの面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。

ゴアを、そしてエロゲーを愛した全ての人へ。
【感想】
このゲームを最初にプレイしたのはかれこれ5、6年ほど前だったと思う。
そのときはなんだかよく分からないグロゲーという認識だった。
ただ、どうしても「三つ網みネコ」の話が頭の隅でひっかかっていた。
それから色々調べて、色々考え、今思う。

このゲームに勝る”シナリオゲー”は無い。

思えばそれを認識してから満足のいく段階まで考察を書き上げるのに3年かかった。
この場で、この考察を書き上げるのに協力してくださった全ての方に感謝したい。

【考察】
以下、ネタバレを多く含むので未プレイの方は絶対にスルーで。
(同じ内容を色つきで以下のリンクに掲載しています。見やすい方が良い方は是非そちらをご覧になってください。)
http://gorescreamingshow.jimdo.com/%E3%82%B4%E3%82%A2-%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%B0-%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%A6-%E8%80%83%E5%AF%9F/

まずメインヒロインを見てみると公式では信号機と言われるように全員色が下の名前に関係しています。ここから色=性(色を好むなどの意味での色)と連想できるかが一つの鍵。
次に作中、井戸がでてきますがイドとかけてあるのが一番大事なポイントです。
イドとは心理学用語でリビドー(性欲)を中心とした無意識的欲求がある場所のことです。
イドを語る上で出てくる用語

エス(イドと同じ。)

自我(哲学的には知覚・思考・意志・行為などの自己同一的な主体として、他者や外界から区別して意識される自分。要するに自分そのもの)

超自我(イドからくる衝動や自我の働きを抑制し、道徳的なものに向けさせる。親に怒られるなどして形成される)


以上が各登場人物で描かれています。

一柳 あかね
(作中、「お母さんと間違えて~」というような親を連想させるような記述が多数あります。ここから超自我であると考えられます。超自我として描かれているため、自我やイド役のヒロインから嫌われます。作中ではイド役のヒロインに上からの立場で接します。人格形成の過程で抑圧が強すぎる(超自我が強すぎる)と反動で反社会的(イドが強すぎる)人間になりがちです。(殺人鬼・エドマンド・エミール・ケンパーやエド・ゲインなどが良い例)なので結果イドに呑まれます。なので彼女のシナリオは性欲(イド)を自分から受け入れて初めてハッピーエンドとなるというもの。)


双木 葵
(作中、「昔の家は今は深園さんが住んで~」という台詞から前はエスがある場所に居た、つまり自我であることがうかがえます。鏡のなかに入って自分と向き合うことで出てこられる事からも。作中では自分と向き合う鏡の中に閉じ込められます。しかし、それは自分の中に閉じこもるという現実からの逃げに他なりません。なので、「合わせ鏡」になり「自分と向き合った」とき彼女は鏡の中から出てこられ、現実と向きあえる。つまり自分と向き合ったとき、現実と対峙出来るというシナリオ。また、主人公視点では自我の形成としてラカンの鏡像段階の理論が描かれている模様。さらに、未確認ですが内容や服装から、『鏡の国のアリス』をモチーフにしている可能性大。)


深園 希衣佳
(作中、性欲が溢れてることからも明確ですが上記の葵の台詞からもエスと位置付けされます。イドと要は同じなのでさんざんイド役のヒロインに絡まれます。社会的な人格形成は社会的なものとイドの折り合いをつけることで完成されます。なので彼女のシナリオの最後は、両方を受け入れて生きていく覚悟をするというもの。)


ユカ
(井戸の石にとりつかれた少女。井戸=イド、石=意思とかけてあるのはいわずもがな。イドそのものの存在で自我や超自我を嫌うためずっと子供のまま。両親を殺してますが、両親=良心とかけています。名字は音無。読みを直して大人死か。ずっと子供なままである事と対応していることから恐らくこれが正解。「死」から連想する数字は四なので、他のヒロインの苗字についている数字にならえば紫に4の数字が当てはまる。さらに、音無という苗字は大人しいと直す可能性もあり。仮にこれが正しければ大人しいの「い」はどこに行ったのか。「い」=井だとしたならば、井戸の中に閉じ込められる=井がふさがれる=大人しいの「い」が欠落し、大人しい元の紫ではなくなるという事なのか。また、ユカ=イドの化身となった紫。紫=イドの化身になる前のもとの紫というのは自明ですが、ゆかりの「り」が欠落するのは恐らく「り」=理(り)=理(ことわり)で、この世の理から外れた存在になったことを示しているのだと思われる。)


ゴア
(殺戮欲求か破壊欲求。とにかくイドの中にある無意識的欲求の一つとして描かれています。)





さいたま闇子

(イメージカラーが黒というところから何にも染まらない、つまり人格形成を終えた大人の女性として描かれています。悪く言えば汚れた女。夢川姫子という女の子らしい名前を嫌っていること、超自我役のあかねと顔なじみというところからも同じ事が言えます。さいたまという名前ですが、”ごあぼん”によると特に意味はないとの事。)




仁野 恭司
(じんの きょうじ。これの読みをなおして人の驕児。よく悪人に対して言われる「あいつも人の子だ」といえば分かりやすいか。恭司が驕児(きょうじ)=だだっことかけてあります。そのため子供で無限の可能性があるためヒロインから慕われます。ヒロインに慕われる理由をつけたすなら矜持=プライド(男らしさ)ともかけてあるから。DQNなのに違和感を覚えた人も多数いるとおもいますがそれは以上の理由のため。作中の各ヒロインとの転校する先々で逢う、交換日記をやり取りしていた、深い関係になる一歩手前までいくといった出来事から、エスとは切っても切れぬ縁、自我とはむかし少し関わりあり、超自我は上辺を味わっただけという人格形成がかなり複雑な段階である事がわかります。さらに信号機のヒロインの苗字の数字に着目してそれぞれ1,2,3とすると数学的に面白いことが。1+2+3=6, 1×2×3=6,つまり三つの数の和と積が同じ数になるわけです。6は数学的な言葉でいうと完全数といいます。ここで主人公の恭司の誕生日は6/6。つまり、三人のヒロインと密接に関わっていて、尚且つその関係なしには成立しない人物として恭司を6という完全数で定義している。)




貞島 富巳哉
( 主人公のイド、自我、超自我が美少女3人で表されているの対し、一ノ瀬まりな・二階堂真美・三ツ橋舞あかねという醜い3人で表されており内面の醜い男として描かれている。人格形成がイド側によっている。また超自我の形成は一般的に知能レベルにも関与してくるので作中では主人公から馬鹿にされます。)




八瀬 由規
(やつせ よしき。よしきの読みをなおして良識。そのため自分勝手なイド=ユカを殺そうとします。)





八瀬 早由海
(未確認ですが日本の神話が元か。作中で希衣佳を見た由規が「その娘は早由海に似ている」と言っていることから希衣佳と同じポジションとだけわかります。)





九重 真白
(上記から分かる通りこの物語はイド、自我、超自我や良心のせめぎあいによる人格形成や世渡りを描いてるわけですが、真白=まっしろでそれらが無い存在として描かれているのが真白だと考えられます。実際にはそんな人間はまともに存在できないので精神崩壊をおこしている様が描かれています。また、ユカ="逃げ切る可能性が高い少女"と対比された"逃げ切れなかった女")


ここからが難しい、でもライターの凄いところ。三つ編みネコとお婆さんは三重に人物を描いているとおもわれます。
お婆さんは病気であることから正ヒロインで固定。わざわざ正ヒロインと書いたのはユカと紫を区別するため。
ユカ=イドの化身となった紫。紫=イドの化身になる前のもとの紫。


三つ編みネコとお婆さん
(ⅰ)ネコ=ゴア、お婆さん=ユカ
一番プレイヤーが考えたであろうパターン。「三つ編み尻尾は武器~」というよな記述があります。これはヒロイン達の名字が数字なのに着目できればイド(エス)、自我、超自我の三つがうまくまとまって上手く世渡りするというような意味をもつと考えられます。
お婆さんは恐らく生を全うした人間(人格者)の象徴。またお婆さんを主人とするネコとユカの玩具であるゴアの関係が対比されています。


(ⅱ)ネコ=ユカ、お婆さん=紫
ほとんどの人はまず考えつかない。三つ編みは紫が初めて作中ユカとしてあらわれたとき(祭り)のときの髪型。
お婆さんのいるところがネコの戻る場所であるという台詞「ここがいつでも帰る場所」が重要な伏線。



(iii)ネコ=恭司、お婆さん=紫

恭司達が郷土調査をする時、恭司の班の名前が「三つ編みねこさン」なのが伏線。三つ編みは(i)と同じで信号機と言われるヒロイン達。また、(i)のネコ=ゴアと紫のハッピーエンドの一つの記述「ゴアは恭司だった」からネコ=恭司とも読めます。また、「三つ編み尻尾は大事な尻尾。主人が編んだ立派な尻尾。アタシが愛されていた証拠!」という記述から、3人のルートをクリアして紫のルートが開放されるのが暗示されています。さらにネコが虐められていたことは恭司が貞島たちに殴られていたことを示しており、「そうサ!ユカの言うとおりサ!三つ編み猫は、変な尻尾ヲ自慢してるかラひどい目に遭うのサ!それが世の中の理ってヤツサ!」という記述は3人と仲良くしているためユカ(紫ではない事に注意)から妬まれる事を示しています。なぜならユカは超自我を嫌うイドの化身だから。


ユカエンド
一面が紫(むらさき)の花畑に髪が短くなった紫(ゆかり)が立っています。紫(むらさき)と紫(ゆかり)がかかっているのと、「いつでも私の帰る場所~」からユカが紫へ戻れたと暗示されています。
また髪が少し編んである事からイド、エス、超自我がまとまって大人になったといったことも示されているように思われます。また、恭司の終わり際の台詞「まだ子供だよ」=いつかは大人になる→ユカの別れ際の台詞「追いかけてね!きっとよ!」が照応していると考えられハッピーエンドだと言えます。(ちなみになぜ「追いかけて」なのかというと紫(女性)の方が恭司(男性)より精神的に早熟だから。)まあそこまで考えなくても笑顔なんでだいたい感じでつかめますがね。理解しないと若干寂しい感じがするので。そして紫の花畑に誰も立っていないバッドエンドはその逆。グッドエンドが分からないとバッドだという事も気づけないが、気づくと空恐ろしい。



キャラクターのイメージカラーについて

陰陽五行説が連想されます。なぜなら赤=火=あかね、青=木=葵、黄=土=希依佳、黒=水=姫子、白=金=真白、これから5という数字が出てくるため。紫は古代日本・中国の最高冠位の色ですが、元々は古代中国において、淡い紫を放つ星座を紫微垣といい、天帝のおわす場所として考えていたようです。つまり、紫ルートのhappy endこそが至高だと暗示している。



作中の世界について
空の目玉
(監視する視線。つまり超自我を形成する役割があります。小さい子供は周りを気にしないのにたいし大人は世間体を気にするというようなのを考えると分かりやすい)



呉人町

恭司達の住む町。「呉人」は日本人の古い呼称(詳しくはhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E4%BA%BAの「呉人としての倭人」を参照)。また、町が人の心の中を表しているのは空の目玉などから明らか。つまり、呉人町=日本人の大元となるものがある場所というのが正しい解釈か。これについて詳しくは後述。


人喰鬼と光の御柱伝説の要約
(昔地震が起きて洞窟が発見され、その洞窟に入った者は行方不明となる。神隠しと言われ聖なる場所は忌むべき場所になり、村人達は洞窟を塞いだ。だがある日光の柱が立っていた。その場所にいた者は狂い、人を喰らった。“人喰い鬼”と祀るようになる。やがてその場所は修験者が封印した。)

人喰鬼と光の御柱伝説の解説
(これは村=社会、村人=一般人で、洞窟に入った者=イドにまみれた犯罪者なんかを考えるとわかりやすい。人喰い鬼=ゴアで修験者が封印したのに使ったのが由規の持っている石と考えられる。つまり良識によって刑務所に隔離される犯罪者の図)
あと井戸の蓋があいた(光の柱がたった)というのはユカに限れば初潮を迎えたという比喩(井戸の蓋が開く→イドの蓋が開く→第二次性徴を迎える)。

ユカの世界(「この世の50.78%は怒りでできています。残りの44.2%は憎しみでできていて、さらにその残り4.493%は糞尿です。そしてさらに、0.246%が反吐、0.182%が空腹でできています。」この台詞に全て込められてると思われる。そしてこれこそがゴア・スクリーミング・ショウの表のテーマ)

テーマ
タイトルは最大の要約というのは言わずもがな。ゴア=殺戮欲求なのでそれ(ユカの世界)が主題、と見せかけていますがここも暗喩が用いられています。
間違いじゃないですが、これは誰でも気づくようにライターが書いていています。グロゲーと言ってる人間は浅学だと言われてるも同じ。そして残念ですが世間ではグロゲーとされています。
結果論ですが、エロゲー史上最大の皮肉。
本当のテーマは三つ編みネコとゴアが対比されているのでテーマも対比され、ゴア→三つ編みネコ→「人格形成」。

さらなる考察
恭司=矜持=プライドであるので恭司は男の象徴か。(プライドという言葉は男のプライドとは使うが女性にはあまり用いない)とするなら紫は女性の象徴。初恋が見た目に惑わされているのが女というものの典型例か。紫(女性)のハッピーエンドと呼べるもは2つあり、恭司がゴアとなるエンドとトゥルーエンドですがいずれも恭司がいるのが条件。
つまりは一途な恋が叶えば幸せですよと言いたいらしい(紫は他の男と関わった場合ハッピーエンドを迎えられない)。それに対して各ヒロインとハッピーエンドを恭司が迎えられるのは、深読みするならば「男は浮気する生き物」ということか。


真白ルート

近代以前において、「七歳までは神のうち」、つまり「あの世とこの世の境いに位置する存在」、「いつでも神様の元へ帰りうる魂」と考えられていたようです。障害者を間引くための期間でもあった。また、これに逆らう家の子は神隠しとして処理された。神社や寺への参拝が慣例となっているが、このような伝統に配慮してキリスト教の教会でもこの時期に七五三のお祝いを行うところがある。ただしキリシタン時代の宣教師たちは、間引きに対して殺人であるとして、強く非難していた。(wikipediaより)


真白ルートの解釈は恐らくこれを表したものだと考えられる。恭司=「いつでも神様の元へ帰りうる魂」、(キリシタン時代ではない)宣教師=修験者(外から来たもの=周りの世界からの教え)か。

ここから真白が発した「ezerefを、貴方にあげるわ――」 「stroircaonnieを失った私には――」におけるstroircaonnieの意味は真白の特性などを考慮すればReincarnations→Stroircaannnie→stroircaonnie(輪廻転生)が正解か。

また、「ezerefを、貴方にあげるわ――」 という文脈からezerefは名詞が妥当であること、stroircaonnieが単なるアナグラム(全ての文字を使って入れ替えを行い、別の意味にする)ではなく突飛な文字変換なども可能性に含まれること、stroircaonnieの意味から対比を考慮に入れezerefはrebirth(2度目、また新しく誕生すること)になると考えられる。「紫~rebirth~」という曲が作中にあることからも。

さらに、桃音、早由海、姫子という井戸に閉じ込めた人間たちの名前を見ると日本の神話、昔話に出てくる言葉で名前が付けられています(桃音は桃太郎、早由海は『古事記』に出てくる海幸彦(浦島太郎のモデルになった人物)、姫子はかぐや姫か)つまり、この加害者たちは日本の土着思想を代表している可能性あり。この土着思想(生まれたときから持っている気質)に鉄槌を下し破壊する(成長させる)のがゴアという存在。そしてユカの家が他の登場人物の家とは異なり洋館だったことからこれは恐らく正しいでしょう。また、陰陽五行説という中国からの考え、この作品のテーマなどを含めて察するに、土着思想=日本人(恭司)が生まれ持っている気質で、それと外国=外界(他人)との複雑な関わりを表しているものと思われる。



ほかにも作中の終盤で月を背景にゆかりが立っているCGが「ゆかりの月」という曲と関係しているのかや、『Comparative Studies in Nursery Rhymes』からの引用と思わしき文章が何を示しているのかなど細かい点はありますがおおまかなところは以上。


【最後に一言】
実はこの感想は書き直しての2度目の投稿。
そのとき私は、100点をつけざるをえなかった。
なぜなら分らないことだらけでこの作品およびライターに点数をつけられる立場ではなかった。
そして今回ようやく、この作品と対等な立場で100点をつけられた気がする。
この作品のライター・ 草壁祭さんに最後に対等な立場で一言だけ言わせて欲しい。

草壁祭さん、お前がナンバーワンだ


長文失礼
ここまで読んでいただき有難うございました。

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