9791さんの「ToHeart2 XRATED」の感想

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**ネタバレ注意**

ゲームをクリアした人むけのレビューです。

これ以降の文章にはゲームの内容に関する重要な情報が書かれています。まだゲームをクリアしていない人がみるとゲームの面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。

“与えられることが愉しみとなる”キャラゲーと“与えることが悦びとなる”エロゲーは違うということ。エロゲーでは最高クラスと思われるグラフィックでも、シナリオ不評が強いのは、萌えでOKなコンシューマーユーザーと、(良い意味でも悪い意味でも)甘いも酸いもかみ分けたエロゲーマーとの違いですし、もっと言えば、萌えとポルノは、突き詰めれば別物である・・・ということの証左、と言って良いのかもしれません。
 前作「ToHeart」が登場したのは1997年。現在のLeafでまともに前作に関わったのは、音楽製作チームとカワタヒサシ氏ぐらいしかいない訳で、「ToHeart2」と言っても、コンセプトとシステムのみが受け継がれた作品になっています。それがどこに一番出てくるかと言えば、主人公だった・・・というのは皮肉ではありますね。複数ライターの弊害がここで出てきたか・・・と、言えば、現在のLeafの体制ではどうにもならないことであるのですが。


 前作の生みの親の一人、高橋龍也氏はそのOHPである「BUNGLE BUNGLE」で前作主人公・藤田浩之について、こう述べています。


 「浩之をひとことで言い表すと『いいやつ』です。恋愛ゲームに多い、いわゆる『いいひと』ではなく『いいやつ』。微妙ですが自分たち的にはすごく大きなポイントでした。ToHeartって、幼なじみが毎朝起こしに来てくれて(起こしに来るのは最初の1回だけですよ)、緑の髪のロボットがいて……とかそんなイメージが強いですけど、じつはそういう部分よりも浩之が主人公であることのほうが特徴なんだと思います。」


 つまり、制作者からすると、ToHeartという作品は、ヒロインがいて主人公がいて・・・という“ヒロインありき”の物語ではなく、むしろ、藤田浩之という主人公がいてヒロインがいるという・・・“主人公主導”の物語として作られた経緯があったということになります。

 主人公一人称のビジュアルノベルにおける語り口は、すべて主人公一人に任されます。よって、主人公が見る視点、主人公が語る言葉、主人公が考える思索は、何もかも“地の文”として表現されてしまうビジュアルノベルでは、ADV以上に、プレイヤーの主人公への一体化が求められる。このため、Leafのビジュアルノベルを名乗った初期三作品、「雫」の長瀬祐介、「痕」の柏木耕一、「ToHeart」の藤田浩之、第四作「Routes」の那須宗一、各々のキャラクター造形は、性格が陽気か陰気かの差こそあれ、全員、能動的な行動性を持つように作られています。・・・それは、主人公が行動しないと、物語が進まないから・・・でもあり、Leafのビジュアルノベルの特徴は、まさに「主人公が物語を主導する」というスタンスを捨てなかったところにあるわけです。

 この点からすると、Type-Moonやminoriといった、Leaf後にビジュアルノベルを採用したメーカーでは、これが守られていないことが多いです。例えば、「Fate/stay night(Type-Moon)」では、主人公視点が基本ですが、interludeというカタチで、主人公以外の視点を随所で効果的に使っている。Type-Moonを中核にする物語性の高い作品になると、作品のストーリーは主人公主導ではなく、物語主導なんですよね。本来、ADVで不足するメッセージをより詰め込むために、またそれができるシステムであるビジュアルノベルは、最初のLeaf三作品では、キャラクター性への補完へと使われたのにもかかわらず、シナリオ重視の気風に拠った後発者は、むしろ、物語(≒シナリオ)の補完として、このシステムを重視しました。このため、ToHeart以後、多くのビジュアルノベルは、小説ライクな作者が語りたい“物語ありき”となってしまい、物語自体の印象性が高まる分、キャラクターは物語を構成する要素に成り下がってしまったのです。

 これは、最近では“物語ありき”である「Fate/stay night」と“キャラクターありき”である「Fate/hollow ataraxia」を比較したとき、より明確になります。即ち、物語という大きな枠組みが失われたとき、キャラクターたちへの魅力が下がってしまう訳です。その証拠に、「Fate/hollow ataraxia」では、SS部と“hollow”におけるプレイヤーの感情移入の齟齬が生じています。その不満は「Fate/hollow ataraxia」という作品のテキストが面白くないと言うよりは、彼らが描く作中の日常が「Fate/stay night」におけるキャラクター像から遊離してしまっているから面白くない。このことほど“キャラクターが物語に準じている”ことと、それによってキャラクターへの好悪が決まることを示している事実はありません。

 さて、ToHeart2に戻りましょう。

 ビジュアルノベルの間違えやすい点として、ビジュアルノベルのテキストだけを取り出しても、おそらく“面白くない”ということをプレイヤーがあまり考えていない・・・ということがあります。良い小説は面白いビジュアルノベルになりえても、面白いビジュアルノベルが良い小説であるとは限らないのです。キャラクター性の強いビジュアルノベルは特にそうであり、逆に「Fate」のような物語性の高い作品であれば、テキストだけでもそれなりに面白いはずでしょう。この作品の視点も当然、主人公・河野貴明になりますが、彼の視点の語りだけ見ても、何も面白くない。彼の視点から見た“グラフィック”と“サウンド”に彩られたヒロインたちとの恋物語を、私たちは楽しみたい訳です。

 ところが、ビジュアルノベルは、主人公とヒロインへの行動に対して、こめられる情報量が多い分だけ、その場面場面への印象度が、プレイヤー側からすれば拡散してしまう宿命にある。このため、中途半端が最も良くないのです。物語を魅せたいのか、キャラクターを魅せたいのか、その点をハッキリさせないと、まるで印象に残らない物語となる可能性は、ADV以上に高いといわざるを得ない。それは純愛系の作品ならば、日常シーン“しか”無いのですから余計に・・・です。また、物語に性的な目的をも含めるならば、そこまで“惹かれる理由”もまた重要になるのです。なぜならば、セックスこそ“恋物語の到達点”として捉えるならば、“ヒロインが恋する理由”以上に、プレイヤーと一体化している“主人公‘が’惹かれるに足る理由”もまた、その感情移入・・・印象度の高さに影響してくるからです。

 端的に言います。

 ToHeart2 XRATEDは、恋物語を描くにおける最初の基本、プレイヤーに好かれる主人公像の造形に失敗しています。コンシューマー版でさほど出てこなかったこの問題は、プレイヤーの年齢層が大きく関わってきている、とは思います。


 言ってしまうと、15歳以上推奨と18禁では“恋愛の意味が違う”のです。


 主人公・河野貴明が、前四作の主人公たちとは違って、総受身体質でも、コンシューマーでは大きな問題ではありませんでした。受動的な恋愛像でも問題ではなかったのは、ToHeart2無印が、要するにキャラゲーとして捉えられたからですね。

 無印では、このみやタマ姉に“萌えられさえすれば”良かったのです。

 ここには、主人公の意思なんて必要ありません。主人公はヒロインの萌えを引き出す存在であり、ストーリーはヒロインを愛でるために存在します。それは“キャラクターありき”の物語であり“ヒロインありき”の主人公像と言っても良いです。結局、萌えと言うのは、性的な生臭さを隠す免罪符でもあり、そんな物語において、ヒロインが重要視され、主人公像に注意が払われないのは当然の帰結。性的な欲望があろうとも、それを表に出さないから“萌え”は一般的に使われているのですから、エロゲーでの“萌えゲー”とは似ているようで違います。それは、キャラクターそのものの可愛さを愛でるほうに力点が置かれた作品。ToHeart2とは、本来、そういう作品として作成されたもの。主人公が物語に介在しない作品、だから、キャラゲーなんです。

 XRATEDは18禁化することによって、プレイヤーの年齢層が広がりました。コンシューマーを元とし18禁化するという今までとは逆の試みは、ここで問題を引き起こします。

 エロゲープレイヤーにとってみれば、前述の経緯から、ビジュアルノベルは“キャラゲーはではない”んですよね。キャラクターに「萌えて終わり」じゃない。それより“先”があるのです。

 “物語ありき”または“キャラクターありき”の差違こそあれ、ビジュアルノベルは、テキストを物語性の高さと主人公への描写に割り振ることができるシステムとして確立したジャンルです。セックスという“身体的接触”を描写するビジュアルノベルは、主人公との一体化を求める度合いがコンシューマー以上に高い。それは主人公が、コンシューマーのような“視点”として機能するだけではなく、文字通り“分身”として認識されるためですが、これをさせたくなれば、「Fate」のように主人公を一登場人物として客観的に描くしかない。ですが、ToHeart2 XRATEDは、あくまで主人公・貴明の一人称視点で“何もかも”が描かれます。

 これは何度も書いたことですが、幾つもの恋愛系ADVが主人公を無個性化し、ほとんど性格らしい性格を与えない・・・メーカーによっては台詞すらなく、その選択すらプレイヤーにさせるものもありますが、そこまで徹底して個性を打ち消すのは、主人公とプレイヤーを一体化させるため。主人公に下手な性格を与えると、それとプレイヤーが合わなかった場合、物語そのものへプレイヤーがのめり込めない・・・という結果を避けるためなのです。ところが、ビジュアルノベルは、その発生の経緯から、これへの対抗という意図があり、主人公には独自のキャラクター性が要求されている。(と、言うか、性格が決まっていないと一人称の語り口なんてできない。)したがって、ToHeart2が“ToHeart”の名を継いだ以上、元々“キャラクターありき”で“ヒロインありき”の作品だったToHeart2は、XRATEDになることで“ヒロインと対等の主人公像(=主人公主導の展開)”が要求されることになります。

 “恋愛の意味が違う”・・・とは、萌えは“キャラクターから(影響を)受ける”だけでOKでも、セックスとは“能動的な行動を伴う”から。能動的な展開が必要な作品に、総受身の主人公像を置けば、当然浮く。エロゲーで受動的なキャラクターが嫌われるのは、別に理由が無いことじゃない。自分と重ね合わせる主人公が受動的だと、恋愛も受動的になる。そんな“流される”展開なんて“現実だけで十分だと”みんな思っているからです。(勿論、それが良いって言う人は別。)

 ToHeart2 XRATEDは、複数ライターによって制作された作品です。シナリオが駄目だという評価は、結構見られるのですが、「鎖(2005)」の枕流氏、「天使のいない12月(2003)」の三宅章介氏、「うたわれるもの(2002)」の菅宗光氏、「Tears to Tiara(2005)」のまるいたけし氏・・・各々、個性的な主人公像を作れる人であるだけに、Leafとしてはあえて、この河野貴明という主人公像を作ってきたということは否定できません。複数ライターで複数のヒロインを描くにあたって、当たり障りの無い主人公を作ってしまったのでしょうが、それはLeafが、ToHeart2では主人公は単なる添えだと言っているようでもあります。そして、この点が、前作の主人公・藤田浩之との大きな違い。わざわざ、完璧な友人、雅史というキャラクターを作り、彼より“一目置かせる”ことで浩之の凄さをアピールした前作に対して、雄二は良いキャラクターでありましたが、雅史以上の意味を考えられませんでした。主人公への作りこみ、“主人公をどう好感もたれるように仕立て上げるか”。そこに注力したか否かが、ToHeart二作が作り上げたムーブメントの大きさの“差”、主人公への好悪に、そのまま反映されたと言えるでしょう。

 結局、前作ToHeartも、今作ToHeart2も、ストーリー自体はさほど重要視するべきでは無く、“キャラクターありき”の作品であることは間違いありません。その点、Type-Moon等とは同じビジュアルノベルでも対極に位置していると言えるでしょう。エロゲーでは最高クラスと思われるグラフィックでも、シナリオ不評が強いのは、萌えでOKなコンシューマーユーザーと、(良い意味でも悪い意味でも)甘いも酸いもかみ分けたエロゲーマーとの違いですし、もっと言えば、萌えとポルノは、突き詰めれば別物である・・・ということの証左、と言って良いのかもしれません。




 Hシーンに至ってもタマ姉は「タカ坊」と呼ぶ。まだ、対等じゃないわけです。・・・当たり前ですよね、対等たるべきことを主人公やっていませんから。タマ姉はタマ姉で、依存ではなく自分が主導して関係を続けていこうとすれば、Hの瞬間まで主人公は「タカ坊」のままで良かったのではありましょう。それは、自分が恋愛におけるキャスティングボードを持ちたいと言う意思。


 “与えられることが愉しみとなる”キャラゲーと“与えることが悦びとなる”エロゲーは違うということ。


 ・・・与えられて、次に与える側に回っていくタマ姉のHシーンは・・・何となく、それを象徴している気がしますね。

9791さんの「ToHeart2 XRATED」の感想へのレス

まずはお疲れ様でした。
と言って良いのでしょうか?
エロゲスペースの一読者としては巨星堕つといった感じで隠遁する事を寂しく思います。

9791さんの核心を突いた深く、論述に焦点を絞った分かり易い考察に目からダイオキシンが流れ落ちます。
自分の焦点がブレまくり、かつ、希薄で雑多な姿勢には平仄の合わない事もしばしばで恥じ入るばかりです。


高橋龍也氏が初期三部作は昔の古き良きアドベンチャーゲームの手法を使っただけと話していました。
ストーリー部分を小説等と比べるとなんて事はないとも明言していましたし、テーマは「癒し」だとも語られていました。

9791さんの言われる能動的な主人公という面は高橋氏が、当時から蔓延していた女の子に惚れられるという仕様を否定する所の「Give&Take」という、浩之(ら初期三部作主人公)がこれだけやったんだからヒロインも答えてくれるだろうという考えから来ているように思います。

現代は当時の女の子に惚れられるという傾向と外観は同じ様に見えるものの無気力世代へのアンチテーゼというか、結局は能動的にならないとダメだよというメッセージが込められているようないないようなと言った感じでしょうか?

話が逸れましたが、高橋氏が初期にテーマとしていた「癒し」はここ数年でより商業的な「萌え」や「泣き」といった捉え易い物へへとスライドさせられてしまった様な感があります。

また、高橋氏は自戒の念(?)を込めてか(自意識過剰なのか)、『ToHeart』の様なキャラゲーは一発目しか許されないと語っていました。
キャラ以外に中身が無い訳ですから、あくまでも変化球。
これが王道となってはいけないという事なのでしょう、それゆえ2はありえないと言っていたのですが・・・
キャラゲーという鉱脈を見せ付けられた業界(他社、葉も含む)としては、泥沼の中東戦・・・もとい、キャラ萌え時代へと突入せざるを得なかったのかも知れません。
エロゲ製作期間は基本半年と聞きます、半年で骨太なシナリオを天才でも無い限り量産できようはずも無く、キャラ萌え要素を配合するだけで新キャラを作り、コンベアー方式でそれをラインに乗せるという手法が確立されてしまう事は自明だったのでしょう。
2005年12月27日19時15分05秒
プレイヤーにとって見れば、Type-MoonだろうがALICEだろうがLeafだろうが関係は無い。自分に合わないモノは嫌うし、自分に合うものは好みます。そして、エロゲーマーは基本的に、その年齢から考えてToHeartが描く学園生活が“幻想に過ぎない”と知っている世代。私も含めて、彼らからすれば、ある意味、Leafの原点回帰である本作は、一言で言えば「萌え」だけで語れます。そして、それが一番良い見方でもあり、同時に正しい見方です。

ただ、それは思考停止でもある。ToHeart2は、「鎖」や「天使のいない12月」と同じメンバーが、こんなキャラゲー作っているところに意味があるのですが、ユーザーにとって見れば、そんなことは関係が無いわけです。あくまでToHeart2単体での評価。エロゲーは、コンシューマーより、“夢と理想”が、ヒロインだけでなく“主人公”にも“シチュエーション”にも求められている。夢のあるヒロイン像はともかく、理想的な日常なんてありうるはずも無いのですが、それでも求めてしまうのがエロゲーマーの哀しさであるかもしれませんね。・・・だから、主人公と日常描写にはうるさくなる。その点だけを見れば、確かにToHeart2は、単調な捻りの無い作品。主人公がヘタレで萌えられないのであれば、それは、本末転倒であることは間違いではないのです。

「キャラ萌え要素を配合するだけで新キャラを作り、コンベアー方式でそれをラインに乗せるという手法」という生産方式も、もうキャラクター消費時代が身についた今では一つのやり方、ALICEやLeaf、戯画といったコンスタントに作品を出すメーカーほどそうであり、それに抗するために物語性を重視するType-MoonやKeyは、長いスパンで作品を作る。

王道。

ToHeartは、制作の時点では異端でしたが、今では王道たる作品。ToHeart2も、王道の銘を継いだからこそ、評価は厳しいのでしょう。だから、今回のレビューでは、二つの点を挙げて前作と比較しました。一点目は、主人公が能動的であるか、受動的であるか。二点目は、15歳以上推奨と18禁では“恋愛の意味が違う”という点です。つまり、主人公という“キャラクター”と、Hシーンへの導入場面という“シチュエーション”作りが、プレイヤーの感情と上手く噛み合っていないから、キャラゲーとしてはOKでも、エロゲーとしては不満が出ているのではないか?・・・と指摘してみたのです。


・・・でもね、そういった捻りの無い日常でも、今の私たちの生活から考えれば「癒し」にはなりませんか?

主人公や恋愛基準の不一致を除けば、この点なんでしょうね。この作品をエンターテイメントとして高く評価できるか否かは。ESの今の評価を見ていると、主人公か、シチュエーションか、ヒロインへの萌えか、この三点に評価が分かれている気がします。それは、エロゲーにおいて、主人公が大事なのか、ヒロインが基準なのか、それとも、ゲームテキストに比重を置くのか、各々のユーザーの嗜好を浮き彫りにしているような感じがありますね。


私ですか?・・・意外と主人公に比重が高いみたいですね。よって、こんな評価になっているわけですが(苦笑。
2005年12月28日03時26分49秒
稚拙な長文に返信ありがとうございます。

私見が入りすぎている論なのですが、Type-MoonやKeyの支持母体(?)は近年ライトノベル層なのでは?と思っています。
この辺りは『美少女ゲームの臨界点』に詳しいですし、9791さんも「Fate/stay night」での長文感想で書かれていたと思いますので割愛させていただきますが、
要は15歳以上推奨作品=名作という傾向が出来つつあるのでは無いか?
そして、それはギャルゲーとエロゲーの指向性と志向性が商業主義の中、混在化されつつあるのではないか?と思っています。

個人的にはサブカルの中でもエロゲーはまだ表現者としての泥臭さが残されている業界だと思っていて、
これはポルノ雑誌での社会論説には言論規制が掛かり辛かったりする部分に近いかと思いますが、
エロさえ入れておけば実験的、先鋭的、独善的な物でも投入可能という“ゆるさ”の成せる技だと考えます。
代表的な物としてはかなり趣味丸出しなのですが、ライアーソフトの『Forest』(尖りすぎ)や同社の『腐り姫』(これは文学水準としては乙一氏に劣る程度の物なのだが、ゲーム特有のリプレイ要素を上手く昇華させている点とテーマの禁忌性において優位性が高い)や『sense off ~a sacred story in the wind~』(作家性)『School Days 』(実験作)あたりが直ぐに思いつく。
これらは18禁の示すエロい成人指定という意味と大人でなければ、(現代の一般的)15歳程度では
味わえないというダブルミーニングにこそ価値があるのだと思う。(『School Days 』にはそういう価値は無いが・・・)

もう一つのサブカルである漫画では半ば商業主義に駆逐されつつあり、ほぼ初期作品もしくは処女作でしか作家性は発揮されない。
職業としての作家という物は成り立ち難い物なのでしょう・・・
それを証明するかのごとく、エロゲー業界では空前の同人ブームが到来しており、『月姫』の神聖化、『ひぐらし』への注目となっている様な気がします。
究極的商業主義であるエロゲーの中に非商業主義的息吹があると言うのも皮肉に感じる所ではありますが^^;


>捻りの無い日常でも、今の私たちの生活から考えれば「癒し」にはなりませんか?
>一言で言えば「萌え」だけで語れます。
といわれている様に、他の多くの方も「萌え」の一言で本作を語られている方が多いです。
話がいきなり飛んで何考えてるんだ?と理解し難いかもしれませんが、ギャルゲー史的に「シスタープリンセス」以前以後(もしくは「センチメンタルグラフティ」?)
で分けられるのでは?とか思っています。
“幻想に過ぎない”と酸いも甘いも噛み分けて理解していても尚、萌えられる、楽しめる、能力を有する人と瑣末な点に引っ掛かる人とで評価が大きく分かれる。
残念ながら自分は後者で、思考停止する時はアトリエかぐや作品や『悪夢95』の様なヌキゲー時なので萌えゲーには主人公の心理描写等にどうしても目が行きがちになってしまいますね。
2006年01月04日23時56分26秒
>ギャルゲーとエロゲーの指向性と志向性が商業主義の中、混在化されつつあるのではないか?

つまり、ライトノベル読者層≒コンシューマーゲーム購買層≒エロゲー購買層って、ことですか。象徴的なのは、装丁の上ではほとんどライトノベル(と、カテゴリされる書籍群)と変わりがない、ジュブナイルポルノとボーイズラブが一気に広まったことが挙げられるでしょうか。それは、三年ぐらい前のフランス書院美少女文庫の誕生が、拍車をかけたような気がします。(個人的には、これの前段階だったナポレオン文庫の方が、描写が扇情的かつ絵柄がエロマンガ的で好きだったのですが・・・。)同人ショップ等で平然とライトノベルと、この手のジュブナイルポルノが同列に並んでいますし、一応、全年齢対象であるファウストの裏表紙に、成人対象である「Fate」の広告が載っていたりしていますから、twilightさんの指摘には頷けるものがありますね。

>エロさえ入れておけば実験的、先鋭的、独善的な物でも投入可能という“ゆるさ”

ADVがコンシューマーでは下火になってしまい、いまや、エロゲーや同人の方から原作を供給する(「ToHeart」しかり、「ひぐらし」しかり。)のが、一般的な現在、18禁という制限を逆に利用して、表現の多様化を図ったのは、エロゲーの現状を見れば良いことではあったと思います。ちょうどコンシューマーの恋愛SLG/ADVが、停滞し始めた90年代後半に、LeafVNやKeyの泣きゲーで、この手のギャルゲーユーザーを取り込めたのは、特に大きい。シナリオ重視と一口に言いますが、“エロゲーにエロを求めない”という・・・ある意味、「萌え」至上みたいな購買層が、決して少なくないことを考えると、「Hシーン目的でエロゲーをやるのではなく、コンシューマー作品で物語性を楽しめる作品がないからエロゲーやっているプレイヤー」は、意外と多いのではないか、と思いますね。

上記、ジュブナイルポルノとボーイズラブを挙げましたが、その点で言えば、エロゲーは、本質としての男性の“性欲処理”の道具から、「萌え」をコンセプトにすることでユニセックス化してきたのかなぁ・・・と感じます。twilightさんが挙げた「シスタープリンセス(1999-2003,メディアワークス)」や「センチメンタルグラフティ(1997-1998,マーカス)」なんて、エロゲーとの差って、究極的には「エロがあるか無いか」ぐらいしか無い気がしますし、エロがあるからこそ、サイコ系やセカイ系は、心情描写や物語設定で、コンシューマー以上の領域に踏み込めましたしね。そして、こういう作品は、確かに男性向けではあるけど、女性だってプレイできる程度の描写しかしていないことが多い。いわゆる暴力が無い純愛って、翻ってみれば男性より女性側の心情描写の方が細やかなんですよね。それは男性から見た女性の理想像であるかもしれないけれど、“女性側から見ても”楽しめる可能性はありえるわけで。

ダブルミーニングを挙げるならば、そもそもポルノとしての性描写に、ユニセックス的な物語性を埋め込んだのが・・・正確にはそれをプレイヤーの方が求めている現状の方が、たぶん歪であり、エロゲーとライトノベルを同等に考えること自体が、実のところ間違っている。主旨が違うわけですからね。

私も人のことは言えないのですけど、この頃では、プレイヤーがエロゲーに理想像を求める過ぎるきらいがありますね。エロゲーをライトノベルの・・・“一般しか通用しない価値観で”捉えてしまうことによって、エロゲーの物語性は、性描写が前提であることを忘れてしまう。性描写があるからこそ“商業的に”実験的な作品でも商品として販売できている・・・と、その現実にプレイヤーの方が目を瞑りがちであることは、あまり良い流れではないと思っています。

「萌え」ってのが、男女普遍の感情になるのは構わないことですし、一部のエロゲーがそれを受けて、ユニセックス的な嗜好に配慮した表現にとどまるようになっても良いでしょう。ただ、価値観として、猥雑かつ卑猥な表現、もっと言えば、陵辱だとか暴力的な表現といった、エロゲーゆえに存在できている部分は分けて考えて欲しい、それを“見捨てない”で欲しいかな・・・と思いますね。

・・・瑣末な点に引っ掛かって良いんです。趣味嗜好ってのはそんなモンでしょうしね。単に、それとは違う嗜好も存在するってことを、認めてくれさえしてくれればいい。私は、表現の自由は、善意だけではなくて悪意まで描けてこそ、開放されていると言える・・・と思っていますから。
2006年01月06日06時16分08秒
何時もながら読ませる文章、楽しませて頂きました。
私はギャルゲー(非18禁)にまったく興味がないので、エロゲーとギャルゲーの在り方の違いについては目から鱗でした。
今までコンシューマに移植されるタイトルに酷く違和感を覚えていたのですが9791さんの文章を読んで、その理由も判った気がします。両者の間には求めるものに幾ばくかの齟齬があったのでしょう。ToHeart2移植を無邪気に喜んでいた自分の浅はかさを痛感しました。

この言葉が正しいのか判りませんが、今までお疲れ様でした。このサイトに流れ着き9791さんの文章を読めたことは自分にとって非常に幸せなことでした。
最後になりましたが9791さんのますますのご活躍を祈って。
2006年01月07日01時28分38秒

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