マルセルさんの「RanceVI -ゼス崩壊-」の感想

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**ネタバレ注意**

ゲームをクリアした人むけのレビューです。

これ以降の文章にはゲームの内容に関する重要な情報が書かれています。まだゲームをクリアしていない人がみるとゲームの面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。

個人的にはランスの最高傑作。ゲームシステムは正直凡作。RPG仕様に行動回数という縛りをつけて、全キャラを幅広く使用しないとクリアできないという独自観点は面白いのだが、これは全キャラクターのレベル上げも意味するわけで、通常作品の倍近い地味な経験地稼ぎが求められる。戦闘もタコ殴りが基本であり、この労苦と単調の最悪の組み合わせがゲームを終始味気ないものにしている。しかし、この作品はそんな欠点を乗り越えてもやる価値がある。ランスシリーズはその戦略SLGというゲームシステムから、複数の勢力を俯瞰的に描写していく多視点構造を取るが、この作品ではそれらの視点が一つの物語(状況)に収斂されていくのではなく、まるで国家の混乱状態を象徴するように、それぞれバラバラのまま放置され物語はカオスを増大させていく。我らがランスは混乱した国家を尻目に女を喰らうばかり。これはランスシリーズしか書きえなかった崩壊の物語だ。
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☆基本データ

……はこんかいは特になし。RPGがメインの作品なのでクリック数を図っても仕方がないし、CG枚数も評価に影響があると思わないんで。
ちゃんとした体験版がないから、システム関係の記述は必要かなと思ったけど、特に不都合があるシステムだとは思わないので、そこらへんもスルー♪
あとは「エッチ」評価もなしね。えっ、藻前らはランスシリーズで抜こうとでも思っているんですか? 鍵のゲームの方がよっぽど抜けると思うよマジで。

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☆ゲームシステム B-

個人的にはそれほど評価できない。もちろん、アリス作品ということだけはあって、ファミ通でいえば「7点」くらいの完成度はキープされている。
ゲームバランスもコンシューマの良作程度には調整されているし、悪くはないRPGだとは一応評価できるだろう。エロゲレベルで言えば言わずもがな、である。
だが、根本的なところで、僕はこのゲームシステムが評価できない。それは一言コメントに書いた「行動回数という独自要素」である。大雑把に説明すると、
これはダンジョン内における「戦闘回数」だと思って欲しい。あるキャラの行動回数が「6」ならば、そのキャラは6回しか戦闘に参加できない。
当然のことながら、それだけの戦闘回数ではダンジョンをクリアできない。そこで、僕らは、パーティーのキャラクターを入れ替えることでこれに対処する。
一軍のメンバー(行動回数6回)と二軍のメンバー(行動回数6回)をその場その場で使い分けることによって、12回の戦闘が可能になるわけだ。
行動回数はその戦闘に参加したパーティーのキャラしか減らないから、少人数パーティー編成すれば、それだけ行動回数を温存することもできる。

さて、このように説明すると、なんだか楽しそうなゲームシステムに聞こえてくる。実際、このアイデアはなかなか面白いとは思う。
だが、僕から見ると、これは「アイデア倒れ」に見えなくもない。これのメリットは全員のキャラクターを有効に使えるところだが、
その反面、全員のキャラクターのレベルを均等に上げなくてはならないという、地獄の経験値UPをユーザーに与えることにもなる。
通常のRPGのなかでは、せいぜい四人程度だったレベル上げが、この作品では12人程度になるのだから、そこで食われる時間は推して知るべしだ。
RPGというジャンルはそもそも、そういう「時間を無駄に潰す」ジャンルだと規定することはできるかもしれないが、僕にとってはうんざり。
「沢山のキャラクターを戦闘に参加させることで、サブキャラの存在感を強めることができる」という言い方も可能かもしれないが、
実にランスらしくない言い方だなと僕は思う。少なくとも、僕はどうでもいい男キャラのレベル上げに時間を潰すホモ趣味はないと断っておこう。
「レベル上げ」をキャラクターに対する感情移入に使うのならば、それは「全員レベルを上げなきゃクリアできない」というような強制的なシステムではなく
「○○たんをレベルを上げて好感度を上げれば、ウヒヒなイベントが見られますぜ?」といったような、能動意欲を刺激する快楽的なシステムの方が効果的だと思う。
糞も味噌も全員レベルが必要なこのシステムでは、僕らはキャラを全員均等な捨て駒の一つとしか見えなくなってしまう。僕にとっては魅力的なシステムではなかった。

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☆シナリオ A-

>「RanceVI-ゼス崩壊-」は、エロゲーRPGなので、「エロを見る為のRPG」なのです。全シリーズ通してそうなのですが。

>凄腕の戦士ですが、女の子大好き、エッチ大好き。自分の欲望に正直で、正義とか秩序とかそういうものとは疎遠。
>ついたあだ名が”鬼畜戦士”。そういう意味で、エロゲーのRPG主人公として、もっとも最適な男です。
>そんな男の冒険を綴った物語、それが「ランスシリーズ」です――OHPの商品説明より。



このコメントは何気ない素朴な内容紹介のように見えながら、実はなかなか意味深なコメントだと思う。
いや、書いた当人にその意志があるかどうかは不明であるが、アリス作品と「その他エロゲー」の違いを考えながら、
このコメントをみていると、やっぱりアリスは自覚的に、ランスシリーズでは他社とは「完璧に」異なる作品を作っているんじゃないか?と思われてくる。

「エロを見る為のRPGなのです」というこの一文をよく読んで欲しい。文法的にとか日本語的とかではなく、ちょっと変じゃないだろうか?
「エロを見るため」という言葉に違和感がある。「エロをみせる」とか「エロを楽しむ」ではなく「エロを見る」。これはなんか座りがよすぎる。
この文章には何か妙に「禁欲的な」イメージがある。「本を見る」とか「映画を見る」とか「宇宙人を見る」といった言葉と同レベルの「エロを見る」だ。
この文章には「エロ」という言葉が喚起する「エロティック」なピンク色の妄想が殆ど脱色されている。言わばただの観察対象としての「エロ」。
これは、僕らがランスシリーズの「エロを見る」ときに必ず感じる感覚だ。僕らはランスのエロを見ているだけ。上野動物でサルの交尾を見るように、
ランスのエロを見ている。手元にバナナがあったら思わずモニターの中に投げ込みそうな気分だ。
ランスシリーズのエロシーンくらい興奮しないものはないというのは、もはやエロゲオタの中の常識だろう。だが、それは、

「がはははははっ。いいぞいいぞ。うっ、でる。どびゅー」

といったような、あのランス様専用のエロテキストに起因するわけでもない。たとえ音声が入って、もう少し描写が濃くなったところで、
ランスシリーズの「抜きづらさ」は大して変わらないだろう。僕らは以前と同じように「エロを見る」だけでそこに「エロティック」なものを感じないだろう。
これには、先の引用した下のメーカーコメントにヒントがある。「女の子大好き、エッチ大好き。自分の欲望に正直で、正義とか秩序とかそういうものとは疎遠」
「如何にもエロゲーですなぁ」という感じのコメントだ。。確かに、僕らも女の子は大好きで、えっちも大好きだし、自分の欲望には概ね正直だ。
「正義とか秩序とかそういうものとは疎遠」なのもこのエロ助を見れば(以下略)だとはいえよう。しかし、だからといって、僕らはランスに感情移入はしないだろう。
いや、できないのだ。何故なら、ランスシリーズの物語とは、ランスの行動に感情移入するものではなくて、そんなバカな「男の冒険を綴った物語」だからである。
つまり、ランスシリーズとは「ランスという男の経験」を一人称的手法でユーザーに納得させる物語ではなくて、あくまで「ランスという男の冒険」
を客観的なカメラワークで撮っているにすぎない。僕らは「ランスをみる」のではなくて「ランスによって引きこされた事件」を見ているにすぎないのだ。

これは「物語の内容」ではなくて、その物語を語る「形式」の部分に深く関わってくる問題である。
ランスシリーズだけではなく、これはアリス作品の大半にも共通する構造であるが、まぁ、とりあえずはランスシリーズだけに限定しよう。
この作品では、あくまで主人公たる一人称はランスであり、RPG部分では彼の視点によってゲームシステムは全て進んでいく。
だが、シナリオ部分についてはどうだろうか? きちんと計算したわけではないのだが、この作品において「ランス視点」のシナリオテキストは、
たぶん全体の5割にも満たないんじゃないかとおもう。量だけではなくて、そのシナリオの質においても「ランス視点」の貧しさは決定的だろう。
この作品のなかで「ランス視点」が、物語の重要なプロットを語る部分は異様に少ないはずだ。もちろん、ランスの行動は物語に対して決定的な影響を与える。
だけど、ランスはその「影響を与えた」ところにいないか、あるいは全くその事件に興味がないので、彼のモノローグはずっと「はやくエッチしてぇ」でしかない。
シナリオが複数の登場人物の視線を借りて切迫した状況を語っているときでも、依然としてランスさまは「がははははは」のままである。

この「井の中の蛙」ならぬ「井の中のランス」状態は、他のランスシリーズと比べても突出しているといっていい。
他のランスシリーズにおいては、いくら彼が「がははははは」の状態にあっても、彼の目の前には「明確な敵」キャラや勢力が存在する。
だから、ランスがいくらそういった連中の内輪事情に興味がなくても、彼はたとえその国のお姫様とエッチするのが目的であれ、
そういった他キャラクターの事情に介入せざるを得ない。ここらへんはもうちょっと精妙に分析する必要があるかもしれないが、
ランス作品のシナリオにおけるそれぞれの視点は、以下のように纏めることができる。

①ランスとその仲間たちの視点
②現状のランスと敵対しているグループの視点
③現状のランスとは敵対していない、中立的なキャラクター或いはグループの視点
④その物語全体を影から操っている思われる「悪の親玉」的視点

通常のランス作品では、①と②の抗争つまり「ランスグループVS○○国」といった戦争が表面的には何度か繰り返されて、
③とランスが結びついたり敵対したりしながら、④の正体がだんだんと姿を現しはじめる。いささか単純すぎる分析だが間違いではないだろう。
例えば「戦国ランス」は、この構造の徹底した単純化だといっていい。シナリオ上では確かに①から④の視点が全て登場するが、その関係性は驚くほど単純である。
物語は①と②の単純な対立がメインであり、そこに③や④といった他グループの視点は殆ど絡んでこない。④の悪の親玉は悪の親玉でしかなく、
②の敵対するグループが消滅したら、あとは単純に④との決闘が描かれる。つまり、やっている「勧善懲悪物語」の対立の構図は最初から最後まで変わらないのだ。

だが、この「ランスⅥ」は基本的に違う。まずは物語から見ていこう。この物語は状況からして安易な勧善懲悪を許さないものとなっている。
ランスはアルバイトでぜス王国を訪れるが、その国の身分制度をよく知らずにいて、魔法が使えない人間だからという捕らえられ、シィルと引き離される。
この国は魔法が使える人間は「一級市民」で、魔法が使えない人間は「二級市民」という階級制度があったのだ。牢獄でランスは階級制度に反発する、
レジスタンスの連中と合い「俺さまをバカにした連中は許さん!」という理由で彼らと意気投合(?)し、レジスタンス運動に身を投じていくが……
これがOHPの粗筋紹介の内容だ。これだけ見ると、物語の構図はそれほど「複雑」ではないように思える。
「アルカイダVSアホのブッシュ大統領」なノリの物語を期待してしまうユーザーがいてもおかしくない。

だが、アリスはそこまでバカではない。レジスタンスとはいっても、いくら理念が正しくても、それは制度側から見れば「テロリスト」に変わらないという面もある。
レジスタンスのその破壊的な面を描写するために、この作品はランスが所属する「アイスフレーム」という穏健派のほかに「ペンタゴン」という過激派も登場させる。
彼らの目的意識は「アイスフレーム」と同じだが、目的の為には手段を選ばないという点で、彼らと対立している。「味方」の内部にも対立はあるわけだ。
「ぜス」という国家の内部もそれは変わらない。「ダメなオーケストラというものはない。ダメな指揮者がいるだけだ」といったのはマーラーであるが、
生憎国家にはこの言葉が当て嵌まらないようだ。ぜスの王様はちょっとイカれてはいるが、基本的には真面目で善良な人間で、現状制度の改革に前向きであり、
「お忍びで水戸黄門ごっこをやっている」という隠れ設定があるくらいの「正義の味方」だ。だが、部下が揃って無能揃いというか、
「人のやることを邪魔することにかけては有能」という典型的なお役所属性の連中なので、こここには「王様」と「臣下」の内部対立がある。
そして、この傍目からゴタゴタしている「ゼス王国」を付け狙っているのが「魔族連中」だ。彼らは今現在大陸の左端に、ゼス王国の
「マジンノライン」という魔法障壁によって押し込められている。一部の魔人の移動は可能だが、このままでは大編成の軍隊は動かせない。なんとかしてこの壁を壊したい。
彼らは「レジスタンス」と「ゼス国家」にそれぞれスパイを送り、闘争を煽ってゼスを混乱させ、その隙に「壁」を破壊しようと策略する。
最後に、我らが主人公「ランス」がいる。彼は確かに「アイスフレーム」に所属しているが、別にアイスフレームの理念を信じているからではない。
彼はただ単に「女の子とエッチがするのが楽そうだから」という理由で、そこにいるだけなのだ。革命だの正義だの魔族との戦いなんて一切興味がない。
リーダーのウルザたんの命令には時に反抗するし、女の子をエサに釣られれば平気で敵の組織とを組んじゃうし、挙句の果てには、
ウルザたんを襲って自分の性奴隷にしちゃおうかな~♪とトンでもない行動をやらかしてしまう。以上の「複雑な世界観」とは裏腹に彼の世界観は最後まで単純だ。

以上の「誰が敵で誰が味方かよくわからない」複雑な世界観のなかで「少なくとも感情移入ができる主人公ではない」ランスの行動を同時に見ていると、
僕らはこの物語をエロゲー的な感情移入の欠けた、何か一種の「映画」でも見ている気分になってくる。プレイヤーに客観的な視点を要請するというか、
この物語はプレイヤーにある特定の立場に立った主観的な視点による読解をさりげなく拒否している。これは別に「頭の良い読解」でもなんでもない。
実際にゲームをプレイすれば、僕らは誰か特定の立場に肩入れできないことにすぐ気がつくだろう。なるほど、確かに「アイスフレーム」の行動原理がこの
物語の中では一番妥当だとはいえる。だが、彼らの立場は妥当であるだけに、それだけ物語の中では影響力を持ち得ない。さらに、リーダーのウルザたん
の言葉や選択は概ね正しいが、彼女はトラウマのせいで重大な決断ができないときている。つまり、論理的や倫理的には正しくても、この物語の情勢の中では、
「アイスフレーム」はつねに「正しい行動」が取れず、プレイヤーを苛々させる。その点「ペンタゴン」の連中や論理的にも倫理的にも正しくない連中だが、
「決断力」だけはあるので、この物語の情勢の中ではある意味で「正しい行動」を取ることができる。だが、彼等の行動は狂信的なのでプレイヤーの支持を
えるものではない。ゼス王国の王様のガンジーの行動はどうだろう? 確かに彼の行動は基本的に正しく、もっともユーザーの共感を得やすい人間ではあるだろう。
だが、彼は何よりもゼスの王様だから、彼は自分の敵の「自分の部下」を直接裁くことはできないし、自分の味方である「アイスフレーム」を応援できない歯痒さがある。
では、ランスはどうだろうか? まず、彼に対してユーザーが感情移入ができないのは、ユーザーが関心を抱いている以上の「ゼス崩壊」のプロットに、
ちっとも感心を抱いていないというところだろう。ユーザーから見て「正義の立場を助けないとマズイ!」と思っているときに、彼は平気で敵の女のセックスをする。
このセックスという点でも、彼はユーザーの感情移入とは別の方向を向いている。彼は美人の女なら誰もいいわけで、プレイヤーが関心を抱いてる物語の登場人物ではなく、
そこらへんのどうでもいい「ヤラレキャラ」の女とエッチをしまくっている。こんな主人公に感情移入できるプレイヤーはそう多くはあるまい。
ゆえに、僕らは「あるキャラクター」(の立場や倫理)に感情移入して物語を楽しむことができず、半ば必然的に僕らは
「あらゆるキャラクター」の相対する様々なドラマを、遠くの立場から眺めることを余儀なくされる。海外のニュース番組で御当地の紛争ネタをみているようなもんだ。


だが、この「プレイヤー」と「登場人物」と「物語」の三者の、微妙な距離を取った感情移入から生まれる空間こそが、
「ゼス崩壊」という作品を非常に説得力のあるものにしている。断っておくと、何もこのような「俯瞰的」な書き方が偉いだとか「文学的」だとか、
エロゲー的な感情移入が間違っているとかダサいとか、そういう下品でお下劣で無教養な頭の悪い権威主義的コメントをいいたいわけではない。
物語に対する距離のとり方や、プレイヤーに対する感情移入の設定について「何が正しい」という論理は一切存在しない。ベートーヴェンの言葉を借りるなら、
「美の為に破ってはいけない法則なんか存在しない」わけで、ある目的に対してある手法が最適であるならば、どのような形式を取ったところで一切問題はない。
問題なのは「どの形式を使うべきか?」という「手段」の正しさにあるのではなく、「その物語やテーマに説得力を出すには、どの形式を使えば効果的なのか?」という
「目的」に合った「手段」を選ぶのかが重要なのだ。そして、この作品は驚愕すべき正確さで「ゼス崩壊」という「目的」に俯瞰的な感情移入という「手段」を選んだ。

ある一つの共同体の「崩壊」を描くにはどうしたらいいのか? 一つのやり方としては、主人公に感情移入のスポットを当てて、
彼をある共同体、例えば家族の一員のメンバーとして描き、共同体との日常生活を充分感じたさせたのち、然るべきタイミングでハンマーを振り下ろす、
といった手段が考えられる。ベタな純愛ゲーの「家族」のテーマは大抵このような手法を用いられることが多い。また、この家族を「国家」にメトニミー化する
ことだって可能だ。「うたわれるもの」がやったのもこれである。あの作品の場合、それぞれの異なる部族や国家のさまざなキャラクターが、
ハクオロの仲間になったり「ハーレムの一員」となることで、国家の全体像のイメージをハクオロの家族と結びつけることができた。
だが、この作品がやっていることは、全く逆の手法である。この作品は、全ての登場人物を「結びつけることで」その世界の繋がりを描こうとするのではなく、
全ての登場人物を「偶然によって引き離し、偶然によって結びつけること」で、混沌とした世界のイメージとその決定的な崩壊を書き尽くそうとする。。

ゼスが崩壊するのは何故か? これは「魔物連中」の仕業ではない。もちろん、彼らの行動がそれを後押しするのは事実だが、
こいつらが手を出さなくても、或いはランスがこの国に来なくても、遅かれ早かれゼスは崩壊していただろう。なんでそんなことがいえるのか?
この国はあらゆるものが「繋がっていない」からである。「第一級市民」と「第二級市民」はそれぞれ自分たちの利益を守り、他の階級に向ける関心は憎悪しかなく、
彼らを治める制度側の人間にしても、自分たちの既得権益を守るのに必死か、自分の仕事に興味がないので、上部での情報交換は全く機能していないといっていい。
四天王と呼ばれる最高クラスの権力者のなかで、マトモに仕事をしているのが「山田千鶴子」だけという間抜けな状態が、この国が終わっていることを端的に示すだろう。
物語はこのゼスの「バラバラな状況」を反映するかのように、それぞれの登場人物の思惑や意志がバラバラに交錯していくのを描き出していく。
ある登場人物が起こした行動は、ストレートにその意図が結果に反映することは殆ど無い。必ず、別の第三者の介入が起こって、為された行動は、
本来の意図とは全く違った方向へと進んでいく。ランスが所属するアイスフレームは、民衆の良心を信じている。だけど、民衆は革命とか調和なんか一切興味が無い
愚民たちであり、むしろアイスフレームの願いとは逆方向に進んで反動の道を歩んだりする。ペンタゴンの起こしたテロは結果的に自分たちの首を苦しめ、
ゼス国家の治安政策は魔族の侵入を許す結果を引き起こしてしまう。元からバラバラだった「ゼス王国」が「ゼス崩壊」の物語の始まりとともに、
加速度を増しつながら破滅へのカウントダウンへと突き進んでいくわけだ。このどうにもならない運命の等加速度直線運動が引き起こす、
物語と世界とキャラクターの「落下感」はちょっと他のエロゲーでは味わえないと思う。

だが、これは「悲劇」ではない。いや、悲劇には感じられないといったほうがいい。これはどっちかというと「喜劇」に感じられるシナリオである。
何故なら、そこには「ランス」がいるのだから。彼が何もポジティブな行動をしたり、誰かを救くったりするから「明るい話」になるのではない。
むしろ逆だろう。別に進んで悪いことはしないが、まぁ、ウルザたんをレイプくらいはする。だけど、この彼の無責任で欲望丸出しの行動は、
登場人物たちが自らの理想によって血を流し続ける凄惨な状況の中で、一種の「清々しさ」を覚えることは確かだ。別にランスの行動が正しいわけではない。
だが、このような善と悪が一昼夜でひっくり返るカオス状態にあっては、ランスの自分の欲望に忠実な行動に、見も蓋もない説得力を感じるのも事実である。
「結局、みんな間違っているんだしー、俺は自分の好きなことをやった方がよくね?」というのは、カオス状態の中にいる人間がとる、
もっともベターな行動の一つではあるだろう。これが悲劇にみえないとしたら、この物語には、もう既に悲劇の前提となる「悲しさ」とか「正しさ」が
とっくのとうに消え去っているからであり、これが喜劇に見えるとしたら、そんなカオス状態の中でもまわりに関係なくセックスしようとするランスの逞しさに、
尊敬と侮蔑が入り混じった、なんだかワケが解からない笑いを僕らが抑えきれないからであろう。

僕らのこうした笑いが最高潮に達したとき、物語のマジンノラインはついに決壊し、魔物の軍勢がゼス王国を埋め尽くしていく。
このカタストロフィの美しさはアリス作品でも最高のものだ。。いや、別に僕は耽美趣味でそういっているのではない。
そうではなく「壊れるべきもの」が「壊れるべきタイミング」で鮮やかに壊れるところをみると、もうこれは本能的に美しいと思ってしまうのだ。
これの説明は凄く簡単である。今までの物語は、人間側の革命への期待とそれに対する反発が入り混じってカオスを作り出していく、、
言うならば「バラバラのゴタゴタ」がずーっと繰り返し続けられる物語だった。この物語のなかで、一度も全てが綺麗に動いたことは無かったし、
事件だっていつも中途半端に始まって中途半端に終わってしまう。もちろん、これは「崩壊」を避ける結果そうなるのだが、ユーザーはもうちょっと
ドンパチやりたい気分が溜まってくるのだ。登場人物の大半も腐っているし、民衆の愚民たちばかりだし、こんな国滅んでもいいんじゃねぇの?
というような疑問と欲求不満が絶頂まで高まったとき、僕らの無意識の欲望を反映するかのように「マジンノライン」は崩壊する。このカタルシスは実に得難い。


さて、「崩壊」のあとにくるものが何であるかは、誰だって予想がつくとはおもう。僕はこれを詳しく書こうとは思わない。
「崩壊」がこれだけ美しく書けていれば、「再生」にある程度感動を覚えるのは当たり前だからだ。もちろん、ここにも一切の手抜きはない。
僕はリアたん萌えなので、彼女が後半出てきただけでもハッピーなのだが、これを「人類VS魔族」の物語に完璧に仕立て上げないところも気が利いている。
人類側が団結するのは第一に、このままでは自分の国も魔人に襲われるからであり、第二に、あわよくばゼスの支配権を奪いたいと考えているからだ。
だが、僕のこころに深く印象に残ったのは、それより少し前のエピソードだ。ランスが魔物側に捕らえられ、魔人の前で屈辱的な目に合うシーンである。
ランスは彼のバカ精神を見事に発揮して、この場を乗り切ろうとする。彼のモノローグは依然としてランスのままで「ちっ、やべーな」くらいにしか思っていない。
だが、その時の彼は彼は何の比喩もなく「裸」の状態だ。彼の生殺与奪は魔人の気まぐれな手のひらに握られていて、他の人間たちは気まぐれに殺されていく。
ランスが生き残っているのはただの偶然でしかない。だが、ランスはランスで能天気なままで、そして周りの人間は次々と死んでいく。
やがてランスは仲間によって助けられる。このプロット的には余り重要ではないシーンが、ぼくの心に深く残っている。これを語ってこのレビューを終えたいとおもう。
僕はこのシーンで、この物語のなかで始めて、人間の「死」といものを痛切に感じてしまったのである。
別に、ランスが死ぬわけでもないし、誰か特定の萌えキャラが死ぬわけではない。ここで死ぬのは名も無い一般人たちであり、
常識的には「可哀想だね」とは思うものの、「ご愁傷さまです」の儀礼的な感情を越えるものではない。彼らが死ぬことには何ら衝撃は無い。
そんなことはいったら、この物語は既にいろんな人が死んでいるのだ。この物語の背後には有名無名問わず死体の山場が出来上がっているのであり、
今さら一般人が一人死んだくらいで僕らは何も感じないだろう。自分たちがその一般人と同じ存在だと誰かに踏みつけられない限りは。

ここでランスは、いわば「始めて」決定的な敗北を味わうことになる。今までランスは好き勝手に女の子を犯し、まぁ進んではやっていないと思うけど、
だが何の罪悪感も無く他の人間たちをスナック感覚で殺してきた。素っ裸のランスの前にいる魔人と、素っ裸のランスは、その点ほとんど同じ存在だ。
つまり、ここで始めてランスくんは、自分がやってきたことを、図らずも魔人によってやり返されることになる。自分が殺してきた名も無い一般人と同じ境遇に置かれ、
彼と同じ境遇の「同じ人間」が殺され続けることで、ランスはここで始めて「死の恐怖」を感じてしまうのだ。
これは、ちっぽけな「恐怖」でしかないが、何ものも恐れないあのランスが少しでも「ビビル」のをみて、ぼくらも何かを感じずにはいられない。
ここで僕らとランスは、今までゴミのように死んでいった有名無名の「人間」の「死」を抽象的なそれでなく、自分にも起こりうる身近なものだと感じる始める。
自分たちも、かれらと同様、虫けらのように扱われ、割れて尖ったビール瓶で殴り殺される可能性がある「ゴミ」なのだと認識して始めて、
僕らは全ての人間に共通する人間の身体的な弱さ、もっといえば人間の「ゴミ」性を深く知ることになるだろう。
このあとの、ランスシリーズにしてはやや前向きすぎる物語があまり違和感を感じないのも、この「ゴミ」性の認識がが何らかの影響を与えているのではないだろうか?
「わたしたちはすぐに死んでしまう弱い人間だから団結しなくてはならない」というラストの行進は、倫理的な意味でも哲学的な意味でもなくて、
人間の「ゴミ」性という唯物的な弱さにおいて、ただの綺麗事では済まされない説得力と問題提起を持っているように思える。
ランスシリーズに何らかのポジティブな一般的価値があるとすれば、この唯物論的な立場から発せられる偽善なき協調の物語こそ、何よりも高く評価されるべきだろう。
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