エストさんの「素晴らしき日々 ~不連続存在~ フルボイスHD版」の感想

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ゲームをクリアした人むけのレビューです。

これ以降の文章にはゲームの内容に関する重要な情報が書かれています。まだゲームをクリアしていない人がみるとゲームの面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。

この作品を初めてプレイした8年前の私の感想は正直なところ、「何が言いたいのか良く分からんけど、とにかく凄い事だけは分かる」というなんとも言えないものだった。後継作「サクラノ詩」を通じて作品全体テーマへの理解を深めて再読した今回でもやはり全てを理解するのは難しいが、それでも見えてくるものは当時と大分違ったように思う。相変わらず電波と哲学の境目が分かりづらく読みにくさの残る本作ではあるが、出来るだけ簡潔に本作テーマについて書き残せればと思う。

8年の時間というのは長いもので様々な考察が本作には行われており、テーマ考察とか「いまさら感」漂うとは思うが、やっぱり「この作品読みづらいよね…」というのが再読したところの正直な感想だった。電波要素が強くて作品の軸がとにかく見えづらいし、世界一神経質で細かい哲学者、ヴィトゲンシュタインの思想が軸になっている時点で分かりづらい。自分なりの整理という意味でも、少しでも本作を読みやすく感じる人が増えればという思い(単なる布教熱)からも簡単にテーマ関連についてまとめられればと思う。

方針としては出来るだけ物語の進行に合わせてテーマを見ていきたい。というのもこの作品はかなり抽象的で分かりづらい内容を作品テーマとして描いているので、テーマだけ抜き出すとただの哲学書みたいに意味不明なものになってしまう。各章を「キー」となる言葉を通じてあらすじと絡めながら見ていきたい。正直自分の力でこの作品をどこまで語れるかは自信がないが、自分の中の「すばひび」を少しでも分かりやすく整理出来ればと思う。

 ▼=大見出し
 ▽=小見出し


①Down the Rabbit-holeⅠ
キーワード「世界少女」「世界の限界」

▽「世界少女」
いきなり電波全開で読者に面食らわせてくるプロローグであるが、あらすじとしては割と単純で、プロローグは「由岐が、世界そのものたる少女=世界少女を探す物語」とまとめてしまって問題ないだろう。物語的な意味合いで言えば、「プロローグは由岐(間宮)が創り出した精神世界だと気づく=世界少女が自分だと気づく」までの物語だが、テーマ的には「世界とは何か?」という内容が描かれている章である。

では、世界とは何なのであろうか?

「あらゆるものを知らない。にも関わらず、目の前に見える建物、その裏側が見えなくても、裏側を知っている。壁の向こう側が想像できる。それどころか、あらゆる経験不可なものの意味を知る。…中略。我々は生涯見ることもない風景も含めて…それが世界であることを知っている。視界が世界ではない。聴覚が世界ではない。触覚でも、味覚でも、嗅覚でもない。ならば世界は…?答えはそう難しくない。世界とは言葉になるすべて…意味になるすべて…事実、そして非事実…。」(4章、皆守)

4章の皆守の説明が一番わかりやすいので引用する。世界とは、「言葉」であるらしい。「世界」は「言葉」だと言われてもイメージしづらいかもしれないが、要は私たちの頭の中に「世界」があるのだ。私たちは頭の中で「言葉」を使って思考する。「言葉」にして思考できる=有意味に言葉にできる範囲が世界なのである。例えば、「椅子がある」、「机がある」のように実際に経験しうる言葉がたくさんまとまって結びついて出来ているのが「世界」なのである。

▽「世界の限界」
合わせて「すばひび」内で頻発するパワーワード「世界の限界」についてもここで見ておく。

「世界の限界って何処なんだろう…。世界のさ……世界の果てのもっともっと果て…。
そんな場所があったとして…。もし仮に俺がその場所に立つ事が出来たとして…やっぱり俺は普段通りにその果ての風景を見る事が出来るのかな?なんてさ…。これが当たり前って考えるって……なんか変だと思うだろ?だって其処は世界の果てなんだ、世界の限界なんだぜ。もしそれを俺は見る事が出来るなら…世界の限界って…俺の限界と同義にならないか?だって、そこから見える世界は……俺が見ている……俺の世界じゃないか。世界の限界は…。俺の限界という事になるんだよ。」(序章、皆守)

確認すると、「世界」とは「言葉」である。そして、「言葉」を使うのは当然だが「私」である。あたりまえだが、普段使う「言語」は自分の知っているものしか使えない。他人の言葉はどうあっても話せないだろう。ということは、「世界の限界=私の言葉の限界=私の限界」である。「世界の限界」と聞くと意味不明だがぶっちゃけこれだけの事である。「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」(論理哲学論考)とは簡単に言えばこういう意味である。テーマ的には、「世界少女の正体に由岐が気付く」とは、「世界」が「私」のものであると由岐が気付くことを指しているのだ。

ただし、ここでの「世界」とはあくまで有意味に言葉にできるものだけである。序章のざくろが屋上で語ったような「次の一歩は奈落であるかもしれない」みたいな問いは、経験不可のためナンセンス(無意味)=世界の限界の外側となるので注意。(こんな事を気にして「だから何なの?」という気にもなるが、後々有意味とナンセンスの分け目が重要になるのでここで書いておく)


②Down the Rabbit-holeⅡ
 It's my own Invention
キーワード「終ノ空」「死」※「音無彩名」「世界の意義」

▽「終ノ空」
テーマ的には1章と2章は連続してまとめられるので一緒に見ていく。1章と2章のあらすじは一言でまとめると、「間宮卓司が終ノ空に至り、人々を助けようとする物語」である。ではこの「終ノ空」とは結局のところ何なのであろうか?

「終の空、それに名などない、それはありふれた風景、ここに不思議なんてない、誰も形にしたことがなくても誰でも理解でき、誰でも知っている空、終の空の先を見に行くんでしょう?」(1章、彩名)

ぶっちゃけ「終ノ空」という言葉は卓司の妄想とざくろの狂気が偶然重なり合って出てきた(正確にはループする中で由岐が経験した幽霊部屋が元になった)だけであり、彩名の言う通りそんなものは存在しない。「終ノ空」はありふれたただの空なのである。しかし、卓司は「終ノ空」という言葉に別の意味をつけており、テーマ的にはこちらが重要となる。

「そうだ!世界の果て…空の果てがやってくる!世界が灼熱に包まれるその前日…世界の果てがやってくる…世界の限界がやってくる…」(1章、卓司)

「終ノ空」とはすなわち「世界の限界」である。言葉で意味をもって表現できる限界、境界線が「終ノ空」なのである。1章と2章のあらすじは言い直すと、「卓司が世界の限界に到達し、人々を救済しようとする物語」となる。では、「世界の限界」の外側に至ろうとする行為が、なぜ人々を救済する行為につながるのであろうか?

▽「死」
「すべては嘘であったのだ!世界がずっと前からあることも、これからあり続けることも、すべては嘘だ!我々が前に踏み出そうとするその先は、奈落なのだ!」
「現代社会は死を捨象したところに存在し、死をタブー視する社会である!」「死とはすべてのものに寄り添うもの、死とはリアルそのものである!」(2章、卓司の演説)

卓司は2012年7月20日に世界が滅亡すると信じ、滅びゆく世界で死にゆく人々を救済しようとしていた。つまり、卓司の言う「救済」とは「死からの救済」なのである。卓司は「世界の限界」を超えることによって、死への不安から人々を解放しようとしていたのだ。

ここで「死」と「世界」の関係について整理する必要がある。

「死は誰にも経験できない、死を体感することは出来ない。死を引き寄せて…それに寄り添って、人はなんとなく、死を想像できるもの…体感し経験できるもののように感じる。でもそれは…あくまでも…想像。死は誰にも許されてはいない、死は誰も手に入れることはできない 。人は…誰一人として、経験としての死を迎えることは出来ない。」(2章、彩名)

「死」とは経験できないもの、つまり「世界の外側の出来事」である。言い換えれば、言葉ではしっかりと(有意味に)説明できないものなのである。卓司が行おうとした事とはつまり、「世界の外側にある死へと到達し、死を語りつくすことによって、人々から死への不安を取り除く事」であったのだ。「死とはリアルそのものである!」と嘯き、「死」を既知のモノにしようとする行為、それが「空へ還る」ことなのである。ヴィトゲンシュタイン的に言えば、語りえぬものもの(世界の外側の出来事)を語ろうとする愚かな哲学者の行為を実際に行ったのが、間宮卓司なのである。

▽※「音無彩名」
2章のあらすじをテーマ的に整理したところで、閑話的にはなるが「音無彩名」という存在に一度注目しておきたい。結局彼女が何なのかは不明なのだが、恐らく「音無彩名は~である」というような説明がつかない存在として彼女は描かれている。彼女の自己紹介を作中から拾い出すと、彼女は「境界線に立つもの」であるらしい。この「境界線」とは「世界の限界」のことだが、世界の限界にいるという時点で言語化は不可能である(彩名は作中でクトゥルフ神話のニャルラト・ホテプ=名状しがたき者に重ねられているが、これも言語化不可能な存在であることを示していると思える)。このような言語化できない存在をヴィトゲンシュタインは「神秘」(あるいは「神」)と呼んでおり、語りえぬが示されうるとしている。要するに、良く分かんないけどただそこにある存在として、そして後に出てくる偏在転生のギミックのための存在として彼女は登場していると思われる。

▽「世界の意義」
閑話休題、物語に戻る。「死」を語り、空に飛びだした卓司は次のように語っている。

「世界の限界がここであるならば…世界の果てがここであるならば…世界は器でしかない…。誰かが言う、人生は空虚だ。当たり前だ、世界は器でしかないのだから、そこに何か満ちてるわけではない。記述可能なすべて、言葉にできるすべて…それは世界でしかない。世界を満たすものは、世界の外にあるもの。」(2章、卓司)

合わせて1章冒頭に表示されるヴィトゲンシュタイン著『論理哲学論考』の命題も確認しておく。

-私(あるいはこれを読むあなた)は世界に属さない。それは世界の限界である。

-世界の意義は世界の外になければならない。
 世界の中ではすべてはあるようにあり、すべては起こるように起こる。世界の中には価値が存在しない。

序章~2章までは主に「世界」に関する事柄がテーマとされてきた。「世界」とは「言葉」であり、「世界の限界」は「私の限界」である。「世界」とは言葉で表現が可能な「机」や「椅子」…etcの集まりとなる訳だが、そうすると「世界」はただの物体の集まりでしかなく、卓司の言うように空虚なものとなってしまうだろう。要するに「世界の中には価値(例えば生きる意味だとか前向きなもの)が存在しない。」のである。前向きに生きていくには空虚な世界を彩る「何か」が必要となってくる訳だが、「それって何だろうね?」という前振りが2章ラストでは行われている。3章以降ではこれまでの「世界」というテーマを軸に、より精神的なテーマが展開されていくことになる。


③Loolking-glass Insects
キーワード「勇気、或いは意志」

▽「勇気、或いは意志」
3章のあらすじはざっくりまとめると「イジメとレイプに晒され生きる意欲をなくしたざくろが、謎の宗教に狂い投身自殺するまでの物語」である。この章では2章ラストで前振りされた「世界の空虚さを埋めるのは何か?」という問いに対して、それは強い「意志」だという解答が、ざくろの失敗例を通じて示されている。

「もう決めたのかしら?世界とあなたの関わり方」(3章、彩名)

強い意志をもって幸せを求め続けたざくろはハッピーエンドに、負けて宗教に流されてしまったざくろは正史エンドに、世界との関わり方次第で結果がこんなにも違ってしまうという対比が鮮やかになされている章である。

ちなみにだが、宗教に狂い自殺したざくろは2章の卓司に重ねられている。「世界を救う」という自分の存在意義を強く思い込んだざくろだが、結局のところ「自己の存在意義」なんてものもまた世界の外側の出来事なのである。(目の前に見える形で存在意義なんてものはないだろう。)本来語りえぬはずのそれを語り尽くしたざくろは破滅に向かってしまう、という2章と同じ構図が出来上がっている。

この章では「意志」の大切さがメインテーマとなった訳だが、「いや、生きる意志を持てと言われても…」というのが正直なところだろう。社畜をしていたりイジメを受けていたりする人に「生きる意志」を持てというのは、もはや言葉の暴力に近い。そこで、「生きる意志を持つにはどうすれば良いの?」という問いがでてくるが、これは4章以降のメインテーマであり、作品全体のテーマである「人よ、幸福たれ!」に繋がっていく。


④Jabberwocky~JabberwockyⅡ
キーワード「Jabberwocky」「自己の存在意義」「死の捉え方」「神様」「言葉と美しさと祈り」「人よ、幸福たれ!」

▽「Jabberwocky」
ルイス・キャロル著『鏡の国のアリス』に登場する化物がジャバウォックである。訳の分からないことをペラペラ喋る怪物ジャバウォックとは、無意味な言葉を語り続ける救世主・間宮卓司のことを指している。4章以降の物語は「怪物・間宮卓司を打倒し、間宮皆守が己を取り戻すまでの物語」である。これまでの流れに乗せてテーマ的に4章以降をまとめるなら「破壊者として自己の存在意義を決めつけていた(語りえぬものを語っていた)皆守が、無意味な問いに沈黙し、「幸福」に生きるまでの物語」とまとめられるだろう。

▽「自己の存在意義」「死の捉え方」
さて、間宮卓司を打倒するために皆守は精神世界での修行という手段を物語的には採った訳だが、テーマ的にも皆守は間宮卓司を乗り越えていく。「自己の存在意義」「死の捉え方」という2点について、間宮卓司からの脱却を図るのである。

まず「自己の存在意義」についてだが、これは散々と「すばひび」で繰り返されてきた構図なので詳しくは省く。間宮が「救世主」に自己の存在意義を見出し、ざくろが「世界を救う」ことに自己の存在意義を見出したように、皆守は「破壊者」たる自分に存在意義を見出していた。だが、「世界の外側の出来事」である「存在意義」について語りつくしてはいけないのである。皆守は自己の中の「人格ルール」の崩壊をきっかけとし、羽咲ちゃんとの近親相姦エッチにより自らに与えた「破壊者」というルールから脱却していく。「自己の意義」などという無意味なことを問うてはいけない、必要なのは、ただ前へ向けて歩むド根性、強い「意志」だけなのである。

続いて「死の捉え方」である。間宮卓司は「死」を語りつくし既知のモノへとすることで「死の不安」から逃れようとした。しかし、それではダメなのである。

彩名「皆守君って、死ぬのが怖い?」
皆守「されたくない、なりたくない、したくない、って、死以外だと必ず経験できることに限られる。そういう事は経験可能だから、されたくない、なりたくない、したくないと言える。」
「だが死は経験しようがない」
「死はそこかしろに転がっている。近所の墓地ににでも行けば死んだ人間だらけだ…でも経験した人間は皆無だ。」
「死はまず経験不可能な事…それがまず大前提。」
「死を来世への道ではなく、単なる消滅ととらえながら、毎日のように人が死ぬ」
「それでも毎日人は死ぬ…淡々と人は死んでいく。」
「大半の人間が、死ぬ間際に死を恐れて暴れることも泣き叫ぶこともなく、死ぬ。」
「つまり…死は嘆く対象じゃないことは、誰でも知っている、当たり前のことだ…。」
                            (4章、屋上にて彩名と皆守)

「死」を語りつくし、恐怖の対象から外す行為とは、死を引き寄せてしまう事に他ならない。繰り返しになるが、「死」を語ってはいけないのである。「死」という経験不可能な事柄を、自分の世界の事柄として捉えない。ただそこにある、語りえないが、「他人の死」によって示されうる遠い世界の現象としてとらえる。「死」から距離を離した皆守は、間宮卓司から完全に脱却し、「幸福」へと向かっていくのである。

▽「神様」
-世界は私の意志から独立である

仮に我々の望むすべての事が生起したとしても
このことはやはり、いわば運命の恩恵に過ぎないであろう。

何故ならば意志と世界の間には
この事を保証する論理的な連関は存在しないからである
                       (5章冒頭、論理哲学論考)

さて、「意志」の話に戻る。論考の命題が示すように世界には悲劇が転がっている。間宮の母親が、間宮卓司が、高島ざくろがそうであったように、世の中意志通りに物事は運ばないのである。では、「生きる意志」と言われてもどうすればいいの?という事であるが、その問いに答えるために、まず「神様」というキーワードに注目する。

皆守「んじゃ、神様ってさ、いたとしても無能で無力などうしようもないヤツだ、地上にどれだけ悲しい目にあってるヤツがいても無視する様な最低野郎だ」
由岐「神は我々と共に歩む…だから、死後、自分が歩いた道を見ると…必ず寄り添う足跡がもう一つ見つかる。人生は寄り添う力で支えられてる…。」
「一番辛い時、悲しい時に、神は立ち止まって動けない人の足そのものになってくれるんだってさ…」
「人は先に進む…その歩みを止めることはない、
たった一つの思いを心に刻み込まれて」
「幸福に生きよ!」            (6章、沢井村での由岐と皆守)

卓司の言動から誤解しやすいので最初に書いておくが、本作の「神様」はキリスト教的な全知全能の唯一神ではない。むしろ無能な、ただそこにあるだけの「神秘」としての存在である。そして、常に私たちに寄り添い、「幸福に生きよ!」とささやき続ける存在なのである。
そんな私たちを励まし続ける存在がいるならありがたい事だが、当然「神様」は目に見えない、私の世界の限界にはいない。神様の声とやらを私たちはどのような形で聞くのだろうか?「幸福に生きよ!」とは結局どういう事なのだろうか?

▽「言葉と美しさと祈り」

「でも、だからこそ人は、言葉を手に入れた…空を美しいと感じた…
良き世界になれと祈るようになった…
言葉と美しさと祈り…
三つの力と共に…素晴らしい日々を手にした。
人よ、幸福たれ!」              (6章、由岐)

「幸福に生きよ!」の正体へと考えを進めるには、言葉・美しさ・祈りの3つを見ていく必要がある。「素晴らしき日々」という作品単体ではこの3つは多少説明不足感があるので、気になった人は是非「サクラノ詩」までやって欲しい。物語とは少し離れ気味にならざるを得ないが、この3つについて順に見ていく。

★「美しさ」
「美しさ」とは、そのまま世界を美しいと感じる事である。沢井村の空を皆守と由岐が「美しい」と感じた瞬間のように、世界に「美」を感じる瞬間が多少なりとも誰にでもあるはずである。そして、神様の声の正体とは、この「美しい」という感情なのである。

ここで「世界の限界」の話を思い出して欲しい。「世界の限界」とは「私の限界」なのである。つまり「世界」=「私」なのだ。世界の美しさを感じることは、「私」の人生そのものを良いものとして肯定する行為なのである。

「ぼくたちの頭ん中ってどのくらい?
ぼくたちの頭はこの空よりも広い…
ほら、2つを並べてごらん…ぼくたちの頭は空をやすやすと容れてしまう…
そして…あなたまでをも…
ぼくたちの頭は海よりも深い…
ほら、2つの青と青を重ねてごらん…
ぼくたちの頭は海を吸い取ってしまう…
スポンジが、バケツの水をすくうように…
ぼくたちの頭はちょうど神様と同じ重さ
ほら、2つを正確に測ってごらん…
ちがうとすれば、それは…
言葉と音の違いほど…」      (エミリ・ディキンスン)

私達の頭は広大な空を、深遠な海をすっぽりと頭の中に入れてしまう。海も空も私たちの「言葉」になるからだ。そしてその風景を、人は言葉にして音をつけ、詩を唄うのである。「旋律」とは「言葉」から「美」を感じ取るための一つの手法なのだ。風景を言葉にそらんじてその「美しさ」を感じた時、その時、頭の中には確かに「神様」がいるのである。「神様」というと正直イメージが湧きづらいだろうが、ここではヴィトゲンシュタイン的に「神秘」と読み替えてみると良いかもしれない。「美しい」と感じた瞬間、神秘的な、言葉に出来ない情感が沸き起こるだろう。その感覚こそが「神秘」であり、「頑張りなさいよ」とささやく神の声の正体なのだ。

★「言葉」
「言葉」とは「世界」である。しかしここでは一歩考えを進め、「言葉として捉えた世界がどのように映るのか」、いわゆる「永遠の相」まで考えを進めなければならない。

「芸術作品は永遠の相のもとに見られた対象である。そしよい生とは永遠の相のもとに見られた世界である。ここに芸術と倫理の関係がある。
日常の考察の仕方は諸対象をいわばそれらの中心から見るが、永遠の相のもとでの考察はそれらを外側から見る。
それゆえこの考察は世界全体を背景として持っている。
あるいはそれは、時間・空間の中で対象を見るのではなく、時間・空間とともに見る、ということだろうか。
各々の対象は論理的世界全体を、いわば論理空間全体を、生み出す。
永遠の相のもとで見られた対象とは、論理空間とともに見られた対象にほかならない。(こんな考えがしきりに浮かんでくるのだ)」   (草稿、ヴィトゲンシュタイン)

「サクラノ詩」の方から補足的に引用する。何を言っているのかサッパリだとは思うが、大事なのは「永遠の相のもとで見られた対象とは、論理空間とともに見られた対象にほかならない。」そして、「よい生とは永遠の相のもとに見られた世界である。」の2か所だけである。
「世界」は「言葉」であり、無数の言葉の論理的なつながりによって「世界」は構築される。この論理的な繋がりを、ヴィトゲンシュタインは「論理空間」と呼んでいる。このように、世界を言葉の論理的な繋がりで張られる「論理空間」と見たとき、世界はどのように映るのだろうか?

「誰も形にしたことがなくとも…誰でも理解出来…誰でも知っている…
世界に一度もなかった風景だとしても…それは驚くような景色ではない…
ありふれた世界」                   (1章、彩名)

世界を構成する言葉を私たちは知っている。当たり前だが知らない言葉は使えないのだ。つまり、世界の出来事は私たちが知っている言葉だけで作られている。ならば、世界の出来事を私たちは全て知っている筈だ。どんな悲劇が起きようが、凄惨な事件が起きようが、全ては言葉の繋がりで説明可能な「必然の出来事」であり、それは「ありふれた世界」でしかないのである。すべてを「必然の出来事」と捉える事、これが「永遠の相のもとに見られた世界」であり、「良き生」なのである。

ちょっと宗教染みた話になってしまうのだが、このように世界をとらえた時、人は「絶望」を忘れるのだそうだ。当たり前のことが当たり前に起きただけであり、そこに「驚くべきこと」はないからである。このような境地に至ってこそ、人は動物と同じように「死」を忘れ、「幸福」に生きることが出来るのである。(6章由岐の会話)

★「祈り」
「祈り」とは「少しでも良い明日を願う気持ち」、すなわち「生きる意志」である。ようやく「生きる意志」の話に戻ってくることが出来た。「生きる意志ってどうやって持つの?」という問いには「美しさ」と「言葉」という、今まで見てきた2つの要素が解答になっているのである。世界を美しきものとして捉え神様の声を感じ、永遠の相として世界をとらえ絶望を捨てる。ここにきてようやく人は「生きる意志」を持つことが出来るのである。

▽「人よ、幸福たれ!」
さて、ようやく3つの要素が揃った。「美」から神の声を感じ取り、永遠の相の下に絶望を捨て、「世界」という器を「生きる意志」で満たしてやる。ここに初めて「幸福」が姿を現すのである。すかぢ氏の、そしてヴィトゲンシュタインの語る「幸福」は分かりやすい「幸せ」とはかなり意味合いが異なる。むしろ世界に絶望してしまいそうな辛いときに、「それでも俺は幸福だ!」と言い張るための理論武装こそ「幸福」の正体なのである。「美」と「祈り」と「言葉」は現実と戦うための武器と言い換えても良いかもしれない。
テーマ的には、皆守はこの境地に至ることで間宮卓司に勝利することが出来たのである。


⑤素晴らしき日々END
キーワード「私の存在意義」「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」

▽「私の存在意義」「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」
作品のまとめにあたるこのエンドだが、ここまで物語を追ってくれば当然のことしか語られていない。作品全体のまとめと締めくくりとして、このENDでは「生きる意味」、つまり「私の存在意義」について対話が行われる。長いのでカットしながら引用する。

「俺の世界がはまるべき場所・・まるでジグソーパズルの一片の様にはまる場所…そんなもっと大きな世界なんて本当にあるんですかね?俺はね…思うんですよ…
俺たちに外側なんてない…俺の世界に外側なんてない…
この世界、あんたも、そしてこの河も、あの太陽も…そしてこの…真っ赤な空も
外側でも何でもなく…全部が世界でしかない…ってね
全部、俺の世界でしかないってね」 
「さぁね…そういうものかどうかは知らないさ…
俺は別に世界に俺一人だなんて感じちゃいない
間違いなく、目の前にあんたはいるし、もっと言えば、あんたらにとって存在してなかった水上由岐やら若槻鏡やら司やらだって存在していた
でもさ…それでも、俺の世界は、俺の世界の限界でしかない
俺は、俺の世界の限界しか知らない…知ることが出来ない…
だから…俺は俺でしかない…
俺は、この腕でも、この脚でも、この心臓でも、この肉体でも、脳でもない
当然、俺はこの道でも、この河でも、この空でもない
俺は…俺だ…そして…俺の世界が世界であり…それに外側なんてありはしない
だから、意味なんていらない…
俺の世界に付け加えなければならない言葉なんてない…
世界はジグソーパズルの一片なんかじゃないんだからな…
だって…俺達の世界はこんなに広い…永遠の広がりを見せている…時も空間も…すべてが…」
「時も…空間も?」
「ぼくたちの頭ん中ってどのくらい?
ぼくたちの頭はこの空よりも広い…
ほら、2つを並べてごらん…ぼくたちの頭は空をやすやすと容れてしまう…
そして…あなたまでをも…
ぼくたちの頭は海よりも深い…
ほら、2つの青と青を重ねてごらん…
ぼくたちの頭は海を吸い取ってしまう…
スポンジが、バケツの水をすくうように…
ぼくたちの頭はちょうど神様と同じ重さ
ほら、2つを正確に測ってごらん…
ちがうとすれば、それは…
言葉と音の違いほど…」

「生きる意味」とは何度も語られてきたように「世界の出来事」ではない、言葉で表せるような物事ではないのである。また、世界が私のものである以上、世の中といったより広い世界にぴったりハマる「生きる意味」など存在しないのである。
この作品が是とする姿勢は、ただただ、美しき幸福の日々を、「素晴らしき日々」を生きる、ただそれだけなのだ。

かくして、間宮皆守は「語りえぬことを語る」姿勢を捨て、ただ日常を謳歌するのである。

こうして皆守は「死」や「生きる意味」といった語りえぬ「生の問題」を語ることのナンセンスに気づいた。論理哲学論考の最終命題、「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」にたどり着いたのであった。


⑥終ノ空Ⅱ
キーワード「梯子を登りおえたら、その梯子は投げ捨てねばならない」

さて最後の大仕事、終ノ空Ⅱである。
まずは冒頭に表示される論理哲学論考の命題を見てみよう。

「物理学の法則に反する事態は空間的に抽出できるものの,幾何学の法則に反する事態は空間的に抽出できない」(論理哲学論考)

簡単にいうと「四角い三角形」のような幾何学的にありえない現象は思考不能だが、「重力に逆らい静止するリンゴ」のように物理学的にありえない現象は思考可能だ、という意味である。この最終END「終ノ空Ⅱ」は、経験的には起こりえないが想像は出来てしまう「物理学的にありえない現象」を音無彩名が次々に投げかけてくる、という内容になっている。
簡単に見ていこう。

仮定1「水上由紀は間宮皆守の創り出した人格のひとつ」
仮定2「水上由紀は間宮皆守に宿ったオリジナルの由岐の魂である」
仮定3「すべては水上由紀の見ている夢である」
仮定4「すべては水上由紀の見ている幻覚である」
仮定5「いまだに序章の幻想世界の中である」
仮定6「すべては記憶の混乱の産物」

ここまでの仮定は比較的考えやすいと思う。これらの仮定は由岐が経験してしまっているので分かり難いが、序章のざくろが屋上で語った「次の一歩は奈落であるかもしれない」という問いと同じように、通常経験上あり得ない無意味な問いである。つまり世界の外側を語るナンセンスな仮定であり、私たちは「沈黙する」という態度をとれば良い。
問題は次の仮定である。

仮定7「すべての存在はひとつの魂によって創り出された。」

いわゆる偏在転生思想である。これが難しいところで、少なくとも作中においてはこの偏在転生が起きているのである。「あるいは…たった一つの、私という魂が見た無限の風景」と1章の彩名は話しているし、そもそも「終ノ空」というキーワードは時系列的に考えれば偏在転生が起きてないとざくろと卓司の口からは出てこず、説明がつかないのである。
また補足的な話だが、偏在転生のような「集合的無意識」理論は後期ヴィトゲンシュタインが「言語ゲーム」理論として割とまじめに考察した内容であり、出典と違うからおかしいとも言えない。

終ノ空Ⅱは次のように文章を続ける
「どこまでも続く空…その青さは…たぶん-だ。
空はどこに続いているのだろうか…たぶん、世界中の空とつながっているんだろう…
だとしたら…この空と…終ノ空…つながってはいない。
なぜなら、それは、あってはいけないものだから―」
 「けど、それは本当だったのだろうか?」

たぶん-だ。に入るのは「私」だろう。空の青さは私の言葉で語られるからだ。と、ここまでの理論を確認したのちに、存在しないはずの終ノ空について「それは本当だったのだろうか?」とちゃぶだいをひっくり返すのである。
すかぢさんの憎いところというか、上手いなぁと感じるところなのだが、この終ノ空Ⅱは徹底的に読者を懐疑の迷路に叩き落そうとするENDなのである。

「少なくとも作中では偏在転生は起こっている、なら実際は?」
「終ノ空って結局あるの?いったい何なの?」

と疑問が湧きだしてくるだろう。ここで、それらの疑問の答えを探し求めてプロローグから再び「すばひび」をやるのも一つの選択肢ではあるのだろうが、このENDはそういった態度を読者に求めてないように思える。

すなわち「梯子を登りおえたら、その梯子は投げ捨てねばならない」(論理哲学論考)

一度論考という梯子を理解し登り終えたものにとって、もはや「語りえぬもの」を明らかにしようとした論考という書物は不要なのだ、ぐらいの意味である。
私達は作中で散々「語りえぬこと」を語ろうとすることの愚かさを思い知ったはずだ。そして、このENDを終えて読者が感じる疑問は、彩名の言う通りまさに「語りえぬこと」なのである。偏在転生はあるのかもしれないし、実際物語では偏在転生の片鱗が示されてきた。しかしそれらを語ってはいけない、「沈黙」しなければならない。その疑問の解答を求める行為は、まさに間宮卓司が行ってきた行為と同じなのである。

かくして読者は偏在転生の「私」という視点をもった彩名から分離し、「素晴らしき日々」という物語を投げ捨てるのである。その先には、私達の生きる美しき日常が、「素晴らしき日々」が待っている筈なのだから。

 -Fin-



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