残響さんの「恋×シンアイ彼女」の感想

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**ネタバレ注意**

ゲームをクリアした人むけのレビューです。

これ以降の文章にはゲームの内容に関する重要な情報が書かれています。まだゲームをクリアしていない人がみるとゲームの面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。

創作でもって、回路を作って世界と接続しなければ、生きていけない人たちが居るんです。姫野星奏と國見洸太郎を無条件に肯定することは出来ないけれども、そういう人が居るんです。でも、そのためには「楽しまなければ」ならない。熱を、ああもっと熱を!
1、一生を芸術のために捧げるということ

ある、民間に流布した神話があります。「人間は生まれたからには、”何か”のために己が全身全霊を捧げるべきだ」という考えです(ひいては、「それのために死ぬべきだ」とすら)。
たとえば、絵画、映画、たとえば、家族、子供。たとえば、仕事、栄達、社会的名誉。
たとえば……音楽、小説。

姫野星奏と國見洸太郎は表現者、芸術家として、この作品では描かれています。星奏と洸太郎は、それぞれがそれぞれの形で「一生を捧げよう」としています。

まず、この「人間は生まれたからには、”何か”のために己が全身全霊を捧げるべきだ」という考えはどこまで正しいのでしょうか。
全身全霊を捧げるためには、そもそも「何か」を見つけなくてはならないのです。人によっては、それが一生見つからない場合もあります。見つからなかった人間は、ダメ人間のクソッタレでしょうか。生きてる価値ありませんか?
……そのように、日々を「クソッ……俺には何もない……」と呪詛しながら、人生と世界を呪いながら生きている、「怠惰に殺されてるひと」ってのは、結構います。
人生はつまるところ、死ぬまでの時間をチップにしたギャンブルです。見つかるかどうかは、個人次第です。残酷ですね。
でも……ぼくは思うのですが、人間、自分の人生の意味を見いだしたくなる存在(イキモノ)だとしたら、「探す努力はしようよ」といいたくなります。探す努力もせずに、人生楽しくない、というのは不遜を通り越して冒涜です。
もちろん、なかなか見つけきれず、嗚咽を吐きながら苦しんでいるひともいます。ぼくがそうです。
「今やってるこれでいいのか? なかなか上達しない。なかなか自分の思い通りに作れない。恥ずかしいだろう、自分の作ったものが……」とかって、吹っ切れない自分というのがいます。

それでも、「自分の人生における”何か”」を探そうとしているひとは、ぼくは勝手に自分の同類だと思っています。同類? ちょっと言葉が大仰しいですが、もっと言葉を簡単にすると、少なくともそのひとをバカにしたりはしない、っていうことです。探そうと努力しているひと、苦しんでいる人を、バカにしたり、冷笑したりするカスがいたら、ぼくはぶん殴ってやりたい。

「何か」のために捧げなくても生きていける。そうですね。たしかに、「日々を生きる」ということは、それだけで一大事件の伝説です。冗談や皮肉をいってるわけではありません。ほんとに、人生を生きることは、伝説なのです。
「何か」を求めなくても、ただ自分に与えられた責務を人一倍こなしていく生き方。それもまたスゲエことだと思うのです。「毎日をそれでやりすごしていく」っていうのは、ホント大変なことです。そういうふうにして生きてるだけで、ぼくは伝説だと思います。ぼく自身がそうでないからね……。

でも、そうじゃない人もいます。それは善悪ではありません。好悪ですらありません。ある妄想にとりつかれた人、といってもいいかもしれません。栄光ある才能、というよりは……。それが「”何か”のために全身全霊で行わなくちゃ生きていけないひと」です。

ともあれ。
とにかく、「人間は生まれたからには、”何か”のために己が全身全霊を捧げるべきだ」は、100%の普遍的な説得力はありませんし、客観的に正しいともいえません。ただ、そのような生き方しかできないひとがいるのです。

家族を持ち、日々をこなし。つつがなく生きている。ただ、何も「作らない」。そういう生き方では、自分が「生きてる」という実感すらマジに持てないひと。そういう人がいるのです。
それは、かっこよくなんかありません。むしろ、ある呪縛というか、ひどく欠陥をもったひとです。ふつうのひとは「ただ生きていける」だけで満足できるのですが、この人たちは「作る」ことなしには、人生の毎分毎秒において一切のリアリティを感じることができないのです。つまり、人生がどこまでもむなしくなる。この空しさが、場合によっては自己破壊の方向に結びついてしまう。これが、欠陥と呼ばずになんと呼べるでしょうか。

さて、ここまでくると、「人間は生まれたからには、”何か”のために己が全身全霊を捧げるべきだ」という考えは、かなり危険なものを含んでいます。
この恋カケ長文感想では、姫野星奏と國見洸太郎という二人のことを語ります。それを語ることは、創作者のはしくれとして生きようとしている、ぼく(筆者)のことも語ります。

この長文感想を一言でいえば、「なぜこの二人は、創作表現を”たのしむ”ことが出来なかったのだろうか」
ということになります。そんだけです。ほんとに。


2、人間は芸術から「熱」をもらう

まだ恋カケ本編の話には入りません。そういう意味でいえばまだ序論です。でも書きたいから書くのだ俺は。

芸術なんてこの世からなくなってもいい、と考えるひとは、このエロゲー批評空間には居やしないと思いますが(エロゲやってるんだしねぇ)、さて、では「あなたなりの、芸術がこの世にある理由」というふうに質問されたら、どう思いますか?

恋カケ本編の序盤で、洸太郎は小説の存在意味として、「真善美を表しているから」と説いています。この主張がもし「小説の絶対的にして客観的な存在意味」だとするならば(とくにライタ・新島氏が)、ぼくはそれに対して、あくまで部分的にですが、「ちょい、アンタ! ちょい違うよ!」と声をあげます。

この回答は、「國見洸太郎の個人的意見」としての小説論(小説定義、小説存在理由)としてだったら、納得できます。ですが恋カケのテキスト(新島テキスト)はとても断片的で、論理を長文できちんと説明する類のものではありません。だからこの主張も、断片として書かれ、そして物語のなかで「流す」傾向にあります。
あたかもそれはアフォリズム(箴言)のように、「これこそが正解なのだよ……」と、静かなうちに断言するように。

ぼくはこの「小説=真善美」という考えは、「國見はんにとってはそれでええかもしれへんけど、別にそればっかりがすべてとも違うとちゃいまっか」と、如月先輩ライクにつっかかってしまいます。

作家が、真善美を追求するなら、かまいません。
ただ、それを絶対無二の定義としてくれるな、と思います。

それは、ぼくの小説……芸術の定義が、もっとぼやっとしたものだからです。
ぼくは、芸術とはつまるところ、「熱の伝導」である、と考えています。
「熱」とは何か。これはすっげえ単純な話で、作品に触れて「すっげえええええええええ!」と思う、そのことです。
この熱に触れたが以上、もう自分でも「なんかしなくちゃ」気が済まない。あるひとは、作品のように高潔に生きたい、と思い、あるひとは作品が表した美しさを自分の心に留め、ときに自分を癒したり鼓舞さしたり。そしてある人は、自分でも創作をやってみよう!と決意したり。
自分の人生を変えてしまうこと。正の方向へ。それが「熱」です。このえろすけに、得点操作だけを生き甲斐にして集ってるひとには、到底理解できないでしょう。なぜ我々が、俺らの「魂の作品」に感想文を書くか。つまりは、この「熱」が伝わって、なんかせずには居られないっ!と思ってやまないからです。

その定義からしたら、真善美、とは、確かに一面を表しているのですが、なんか違うように感じる。真善美を描いたところで、我々を……ぼくを「動かさない」作品っていうのもあります。不幸にして。
だから真善美を描いた、っていうことは、作品の「モチーフ」「主題」の話なのであって、「真善美(とか)の熱で、動かされること」が、芸術の意味だと、ぼくは考えます。つまり、いかに受け手を「動かす(move)」ことが出来たか。

この「熱によって動かされる」ってのは強烈です。とにかく、自分も正の方面(よりよき方向)へと生きたい!と思わされる。
だから、人間は芸術に触れ、芸術を愛し、ときに芸術を自分で作りだそう、とするのです。

さて、これは一般論。
では、「芸術家」の視点からは、どうでしょうか。

芸術家(クリエイター)は「熱」を作る人種です。ここで、芸術家は「作る」存在なのか、「作らされる」存在なのか、という疑問があります。
具体的に言うと、芸術家は自発的に……誰からの命令もなく、作品を「作る」のか。それとも、誰かからの要請でもって作品を「作らされる」のか。
恋カケにおいて、國見洸太郎は「作る」存在でした。少なくとも、自分が小説というものを「作る」ことを、ごく自然なる営為としていた人間です。自分がいろいろ人生を生きていて、その課程で小説を書く。
対し、姫野星奏という創作者は、どうでしょう。彼女は、「星の音」を聞くために、町に戻ってきました。彼女は……自発的に音楽を作って、それを楽しんでいたでしょうか。星奏という創作者は、実は「作らされる」立場にあった、とぼくは考えています。グロリアスデイズのメンバーに、あるいは事務所に。商業的環境、と言い換えてもいいでしょう。
ただ……それより以前に、姫野星奏とは、そもそももっと大きなもの、遠いもの(それこそ星のように)によって「作らされる」存在だった、といえるような気がするのです。
才能。それは、星の音を聞き、音楽を紡ぐ音楽家、といえば詩的ですが、その実際は、「星の音」なる純粋巨大概念が、この世に音楽というものを表出するための「パイプ」に過ぎなかったのではないか、と。

整理します。姫野星奏は「音楽の権化」として、洸太郎を裏切った、というふうに非難されます。
ここで、星奏が音楽を「作らされる」存在だとして、
(1)商業環境によって音楽を作らされた天才
(2)「星の音」のパイプとして作らされた天才
この二つを区別して考えないといけないとぼくは思います。

これと「熱」がどう関係あるか、というと、畢竟ぼくらは、(1)商業環境には感動しなくても、(2)「星の音」の純粋で荘厳なる響きには感動してしまうのです。これは美に魅せられる人間として当たり前です。
さて、では、姫野星奏とは本当にただのパイプなのでしょうか。
恋カケ本文中において、「星の音」とは、ひどく抽象的で、彼女なりの「インスピレーション」を表した言葉として語られます。
星奏は、彼女の音楽というものが、「自分から生まれてくる」というよりも、「自分の外から降ってくる」というふうなインスピレーション型の創作者である、というふうに、自己認識していた、とぼくは仮説をたてています。そうでなくては「星の音を聞く」という、他律本願的な言い回しはしないだろう、と。

それと逆なのが、洸太郎です。彼は、「自分の思い」というものを、小説という形にすることが自然で、それが自分と世界を結ぶ術だと認識しています。

どちらが優れていて、どちらがまっとうで、正しいか、という話ではありません。
ぼくが問題にしたいのは、どちらが幸せで、たのしいか、ということです。

「星の音」のパイプとして音楽を作る星奏。でもその音楽は、ひどく人を動かします。それがグロリアスデイズの爆発的流行です。
さて、星奏の意志とは、どこにあるのでしょうか。ただのパイプとして生きたからこそ、洸太郎を見るも無惨に裏切ることが出来たのでしょうか。
ここのところは、すごく微妙なところです。
彼女が人に与えることが出来た「熱」とは、畢竟「星の音」という、彼女が「外にある」と認識できたインスピレーションに過ぎないものなのでしょうか。あるいは心理学的にいうなら、彼女の制御できない無意識でしかないのでしょうか。

ぼくはそうは思いません。星奏は彼女なりに、自分の才能(星の音)を取り扱おうとしていた、と思うのです。ただし、その制御において、「人との関わり」における致命的なミステイクを……あるいはミステイクをすることを常道としてしまったことに、彼女の根本的な「人として」の間違いがあります。
ですがまず、彼女を弁護するなり断罪するなりする前に、彼女と洸太郎の原風景について話をしましょう。


3ー1 ひとが人生を生きるーー幼年期と約束と、ひとを大切にするということ

過去はどうしたって美化せずにはいられません。ある種の人間は、過去に縛られて生きます。
人生というものは、人それぞれの生き方をします。もちろん共通点はあるでしょうが(たとえば、小学生の夏休みの思い出って、みんな結構似たセンチメンタル思い出感情があるように)、それでも、一部の「神童」は、「ある程度までみんなと同じ生き方」を初手からすることなく、初手から「みんなと違う生き方」をしてしまいます。

そう、「さよならアルファコロン」。幼き日の洸太郎の創作です。
なぜ彼がこの「人を動かす熱のある」物語を作るだけの原初的カオスを、幼年期から抱えていたかはわかりません。単純に、それが彼のイマジネーションの早熟であり、天才であっただけなのかもしれません。
……というか、「さよならアルファコロン」を洸太郎が書いたことは、彼が彼なりの「星の音」を聞いてしまって、それを単純に書き表してしまっただけ、というのが、もっとも妥当なところではないでしょうか。
自己表現とか、自己実現とか、承認欲求とかいうのとはまったく関係のなく、とにかく書いてしまった。


さて、「さよならアルファコロン」を書いて、いろいろ屈託を抱えることになった幼き日の洸太郎は、幼き日の星奏に出会います。
まあこの日々の、美しいこと。とにかくセンチメンタルで、こういう形の幼馴染に弱いのね俺w
桜、海まで冒険、二人だけの秘密基地……ああこれだけで泣いてしまうのは、ぼくがオッサンになった証拠なのだろうか。

新島氏はこういう「情景」「雰囲気」を作るのが、本当に上手いなぁ、と素直に思います。もちろん、それを支えたのが、メーカの経済力(背景、デザイン、演出……)にもよるでしょうが、まずもって新島氏の心象風景にこのようなセンチメンタルな幼年期、というものがあってこそです(ときに、秒速5センチメートルなる映画に似ている、という指摘が、いくつかのレビューであったのですが、ぼくこの映画を見ていないので、そこのところの判断はつけられません)。

さて、ぼくは「幼き日の、果たせなかった約束」ってものに弱くて。年齢を重ねると、そのようなピュアで、永遠性を信じようとする純粋なこころというものに弱くなってね……。
正確にはこの恋カケにおいては、「手紙が読まれなかった」ということになるのですが。だから約束はしていないのですが、しかし「思いが通じているのはほぼ確実なのに、届かなかった」というのは……ああセンチメンタル。
ですが星奏は戻ってきます。洸太郎の町に。これにもいくつかの考察が出来るのですが、しかしぼくはひとつの「約束を守る」というふうに見ます。だって……俺は「再会型幼馴染」が大好きなんじゃーーーっ!!(ただのそんだけかいっ!)

さて、今何度となく「約束」という言葉を使いましたが、星奏というひとは、どうしようもなく「約束の”ふつうの”守り方を知らん」ひとです。
なぜ彼女は手紙をちゃんと返さなかったのか。グロリアスデイズのメンバーに「すんな!」と言われたから? しかし洸太郎自身が、グランドルートでグロリアスデイズのメンバー自身にそれを否定しています。星奏は強いひとだから、と。

もひとつ。グランドルートにおいて、彼女は手紙を残しますが、明らかに「伝えるべきこと」は伝えてません。
これは、彼女の文章下手、だけに落ち着けていいものでしょうか?
ぼくはそうは思いません。
姫野星奏という女性は、約束を果たそうという意志はあるのですが、それを実際の行動にするときに、ナンセンスとも思える行動をとることがあります。

最初(幼年期)の手紙だったら、「下手でもいいから何か返答しろや」
グランドルートの手紙だったら「もっとしっかり書けや」
彼女は、手紙の返答を出さない、とか、手紙を最低限きちんと書かない、ということが、「手紙の送り先のひと」に対して、どのような感情を巻き起こすか、考えてないように思える。もしくは、知らないように思える。
エゴイスト? 確かにそうでしょう。
ただ、これはもっと根深い問題があると思います。それは「他人を”ふつうに”大切にする仕方を知らない」ということです。

星奏の「約束の守り方」というのは、「約束を守った」という一点だけを問題にすれば、「守った」ことになるのでしょうが、「守り方を間違えてる」ということでいえば、「ひとに結構ひどいことをしている」といえるのです。劇場版ガルパンのミカ風に言うなら「約束を守りゃいいってもんじゃない」です。

約束には守り方というものがあります。「なるべく早く守る」。「相手が喜んでくれる形で守る」。この点でいえば、星奏は落第です。それこそ、「自分は約束を守ろうとしているんだ」というふうにナルシスティックになっている、ともいえることができます。他人に甘えてコケにするのもたいがいにしやがれ、と、多くのエロゲユーザから言われるのもムリはありません。

では、なぜ彼女はそのように「約束の守り方を知らない」ひとになってしまったのか。
ひとえにそれは、実人生より(他人との関わりのなかで生きる人生より)、「星の音」との純粋な関わりを選んでしまったからです。
ようは、音楽のために、実人生を投げうった。簡単な話で、音楽にリソースを割けば、対人に割くリソースは少なくなり、「コミュニケーションの常識」を学ぶ機会を大幅に失う、ということになります。
ここが、まさに「芸術(星の音)のパイプ的生き方」であり、それは奴隷と言い換えても仕方がない。

3ー2 ひとが人生を生きるーー恋愛と芸術

恋愛とは、つまるところどこまで行っても「私とあなた」の問題です(ハーレムもの、という例外はありますが、恋カケはハーレムものでないので、この問題は今回は除外します)。
これは裏から見れば、「あなた」との関係で、私の世界に対する可能性というものを「閉じる」ことであります。私は全的にあなたを見て、あなたは全的に私を見る。その二人の「誰もさわれない、二人だけの国」(スピッツ「ロビンソン」)を作り上げること。それが恋愛です。恋愛の定義のすべて、とは言い切れないでしょうが、少なくとも「純愛」ものの定義としては、そう外れてはいないのではないでしょうか。

対し、芸術とは、「私個人」の問題でありながら、「私と世界」「私と、大勢の受け手」の問題でもあります。ひいては、その果ては「【星の音】なるものにいかにたどり着くか」ということです。

恋愛は、「私とあなた」が幸せになることが最重要であり、恋愛をする意味であります。
では、芸術を創作する意味とは? 先にぼくは「熱の伝導」と書きました。しかしここには、ひとつ大事なものがあります。それは、「熱、とはつまり【楽しさ】である」ということです。

芸術を作る行程において十分に「楽しんで」、芸術作品を発表し、その「楽しさ」が受け手に伝わること。これが「熱」の核にあるものです。基本です。

芸術を作るうえにおいて、苦しみに苦しみを重ねて、という考えがあります。苦悩すれば苦悩するだけ、すばらしい作品が生まれる、という。芸術とは苦悩である、という考え方。苦悩であれば芸術である、みたいな極論を言うひともいます。

生みの苦しみ、というものはあります。それは確かです。
ですが、楽しんで作っても、苦しんで作っても、結局評価されるのは結果です。いかに熱が伝わったか、です。ていうかクオリティには、苦しみというものがダイレクトにつながっているか、というと、イコールではないのです。

そこにあるのは、「ああ、この作者は苦しんで書いたんだろうな」という、受け手による「物語消費」に過ぎないのです。

人間、どうしても伝えたいものがあるから、創作します。それはメッセージというよりは、もっと茫漠とした「○○って感じ」を伝えたくて、表現し、形作り、創作物にします。
ここにおいて、生みの苦しみはありますが、しかしかといって、「苦しんでいること事態が価値なんだ!苦しみを伝えるんだ!」というのは、違うんじゃないかと。伝えたいのは「○○って感じ」、そしてそれを通じて「○○って感じ」をさらに昇華させたものーーおそらくそれが洸太郎が言うところの真善美ってものなんでしょうがーーを表現するのが芸術なんじゃないでしょうか。
たとえば、「世界に対する恨み」があったとします。その恨みを書き連ねます。でも、どこかでその恨みが、何らかの物語・表現回路を通って「何か真善美につながるように」しないと、芸術って意味なくないですか? すくなくとも、その努力をすることが、創作活動ではないでしょうか。

作ることは、確かに苦しいです。消費するだけよりも、よっぽど苦しいです。でも苦しみは、作る課程で避け得ない「努力の証」です。努力はなんのためにするか、というと、自分の信じている好きなもの、自分の愛している好きなこと……自分自身の「楽しみ」を、よりわかりやすく、面白く他人に伝えようとする、ということです。

ここで、芸術が単なるオナニーと違うところがわかってきます。
芸術は、一面において「楽しければいいのさ」というエゴイズムを持ちます。ですが、表現する課程において、他者性というのが混じります。……というか、「ただ自分のためだけ」に創作する、というよりは、どこかの誰か、自分をわかってくれるかもしれない人……「あなた」に対して、何かを伝えるようにして創作するようになります。その他者、というのは「具体的でなければならない」っちゅうもんでもないです。仮想的な存在でいい。それでもひとは創作できる。

で、星奏と洸太郎にとって、「あなた」とは誰だったのでしょうか。
ここで単純に、お互いであればよかったのです。
ですが、彼らをとりまく環境は、「あなた」の定義をズラしていきます。

星奏は、小学生のころ、プロの音楽家になっちゃいました。
さて、ここで「プロのクリエイター」とは何か、考察してみます。というかぼくの定義なんですが……。
「プロのクリエイター」、これには2つのパターンがあります。
「自分から新しいものを作っていく」作り手(芸術家型)と、
「他人に言われて作らされる」作り手(職人型)とがいます。

クリエイター、って言葉がよく喧伝されるようになりましたが、ところで、クリエイターに「より、強く」求められるものは何でしょうか。
「なんかを作ること(クリエイト)だろ?」
うーん、45点。ぼくはこう言いたいです。「新しい価値を作る」です。

「作る」にも二通りあって、それはさっきの二分法と同じなのですが、「新しい価値を作れるひと」と「人が作った”既存の価値”を改良したりコピーしたりして作っていくひと」の二つがあります。
このうち、クリエイター、天才、と呼ばれるに相応しいひとは、「新しい価値を作れるひと」です。

なぜ星奏がプロになれたか。しかも小学生で……というと、作中ではその理由は「スゲエから」としか言われてませんが、これをもっと深く見れば、「星奏の作る曲は、それまでの他の誰が作った曲とも違っていたから」です。だって、小学生が作った曲ですよ? 単純な「完成度」だったら、世の作曲家のほうが上です。なのに、星奏はプロになれた。それは、彼女の作った曲が「新たな価値を創出できていた」からだ、とぼくは考えてしまうのです。

かくして星奏はプロになりました。しかし、新たな価値を創出出来る天才、といっても、結局求められるところは、世の作曲家と同じです。「次々、売れる曲を作れ」。職業作曲家。ここで、「あなた」は「世間の大衆」となります。そしてグロリアスデイズは大流行しました。

ですが、この課程において、「たのしさ」はどこに消えたのでしょうか? 星奏が伝えるべき「あなた」はどこへ消えたのでしょうか?

さて、ここで話は星奏が洸太郎の町に戻ってきて、洸太郎を求めたことに戻ります。
一般的な解釈は、洸太郎の町と、洸太郎という存在から「インスピレーション(星の音)」をもいっかいゲットしよう、というので、「ケッ、洸太郎を使ってるんじゃねえか」というのが星奏ちゃんヘイトの主眼のひとつです。
それは部分的には当たっているでしょう。3/10~4/10くらい。

でも、星奏は、それ以前に、人間です。洸太郎をアイテムとして見ているのだったら、洸太郎という存在を強く意識し、恋することもありません。大事だからこそ、洸太郎から星奏も「熱」をもらっているのです。それは創作の熱ではなく、人と人の交わりとしての熱です。思い出の熱。

人間は、純粋に何かを求め捧げきろうとする「修羅」にはなりきれません。


では、整理してみましょう。
恋愛(私とあなた)、と、芸術(私vsいろんなもの)は、どちらが上か。どちらに重きをおくべきか。
実はこれを考える上において、意外な方向から視点を与えてくれるのが、新堂彩音ルートなのです。

新堂(なんか個人的に語呂がいいのでこの表記)ルートにおいては、「星の音」なる抽象至高概念も、芸術をめぐるエゴイズムもありません。あるのは、素直で生気あふれる、めんどくさい女子としての新堂彩音であります。
新堂ルートは、「俺(洸太郎)と新堂(あなた)」という関係性のみのストーリーとして成り立っています。イチャラブ評価が高いのもなるほど、です。新堂ルートでは、真っ正面からぶつかり合っています。洸太郎も、新堂も。それは、相手を思いやって、ときにすれ違いながらも、等身大の「洸太郎」「新堂」の物語が展開していきます。

新堂は、ふつうの女子です。星奏のような天才ではありません。でも、約束の守り方を知っています。「人間力」という言葉は好きではないですが、それでもこの点においては、新堂が数歩勝っています。

また、新堂はナチュラルにデザイン/服飾のセンスを持っています。それは星奏のような爆発的な天才ではないですが、そこに屈託はない。ただ自分に「結構向いてる。嫌いじゃないし、好き」という、すごく素直な向き合い方で。

新堂の創作/表現(デザイン)は……芸術における「誰のため」「見失う定めにある楽しさ」「受け手への意識」といった、芸術にまつわるどうしようもないエゴイスティックな悩みとは無縁です。ただ自分が素直に、自然にデザインして、それが誰かの役にたてばうれしいな、それだけです。
(その後のグロリアスデイズ服飾コンペのトントン拍子の栄達は、ちょっとご都合主義が過ぎるんじゃないかとは思いますが)

ーーこれでいいんです。これで。星奏の悩みというものが無駄とは言いませんが、創作って、こういうものでいいんです。新堂は、伝えるべき「あなた」をきちんと見定めていて、「私」の欠点を見据えてどうにかしていこう、という正の道を辿っています。
そんな人生、限定されている! と言うひとがいるかもしれません。天才性の神話とは無縁なつまらない!とか、平凡な人生だなww とかって言うひとも。

……じゃあ、人生の楽しみ、芸術の楽しみ、って何でしょうか。


4、人間・姫野星奏と國見洸太郎の肯定/否定

(1)姫野星奏を否定するか?
以上の文章で、姫野星奏を「芸術のパイプ」とか「人との約束の守り方を知らん」とかさんざっぱら言いました。
星奏は、一言で言うならば「自分の創作の源泉がどこから来ているか、よう自覚せんタイプの創作者」だといえます。上記でも書きましたが、「星の音」という表現がその理由です。創作していて「神が!神が降りてきた!よっしゃー!」とかって言うタイプです。

それと同時に、その天才性でもって早くから「職業芸術家」になってしまった人間です。それは、星奏の人生にとって「定め」といえるものでした。

他律型の人生、といえるかもしれません。天才性はどこからか降ってきて、自分の作曲家としての活動はグロリアスデイズやプロダクションに振り回されている。

では、これまで書いてこなかったことを言及しましょう。彼女の天才性が他律性だとして。
彼女の「熱」はどこからきているのか。もしくは彼女の音楽の「楽しさ」とはどこから来ているのか。

この恋カケという作品は、そもそも設計ミスがあります。それは、星奏の才能を「スゲエ才能だ!」と周りが言うばっかりで、「どうスゲエのか具体的に」描かれてはいないのです。
だって、星奏の曲を語る際に、「比喩」とか「イメージ描写」って使われました? ぼくの記憶では一回もありません。

星奏SUGEEEE、とかいうレベルではなく。「星奏の才能の性質(個性)」が描かれていない。それはすなわち、「創作物を通しての、星奏という人間」が描かれていない、ということです。
あるのは、先にも述べた、幼少期の桜、秘密基地、といったセンチメンタルな情景の美しさ。それが星奏の美しさとオーバーラップさせて「星奏」を表現しているのかもしれませんが、しかしぼくは「星奏が作曲した音楽の性質、個性」でもって星奏を語ってほしかった。

ここが描かれていれば、星奏という人間が描かれていて、星奏は「なにを大切にしているか」が描かれるはずなのです。
しかしそれは描かれなかった。本編中で曲が流れたって? そういう問題じゃないのです。テキストで描写しなさいよ! 
星奏がなにを美しいと思い、なにを表現したかったか。洸太郎を見捨ててまで。なにに……星奏は命をかけたか。そうでないと、星奏の本当の姿は見えない。

それはつまり、星奏がなにを幸せと思って、音楽のなにに楽しさを覚えているか、の説明にならんのです。
星奏は、幼少期から「自然と音楽を選んだ」創作者です。
創作は、誰かに強制されるものではありません。ホイジンガはそれを「遊び」と表していますが、ようは、誰の命令でもなく、金銭でもなく、名誉でもなく、ストレス解消でもなく、ただ自然とやってしまう「たのしみ」。それが「遊び」と呼ばれるものであり、創作の原点です。

その課程において、生みの苦しみもあるでしょうが、前述したようにそれは「努力の証」「さらに上を目指そうとする意志」です。苦しみのために創作をするのではありません。
……そう、ひとが、ひとに渡せるものは、熱であり、たのしさでしかないのです。でも、その「たのしさ」が、ここまで人を突き動かしてきたのです。

意外にも、ぼくからしたら駄作でしかなかったゆいルート(だって洸太郎の小説家としてのコンセプト違うし、ギャグがあまりに世界観の空気読まずにスベりまくってるし……)のテーマ、「花壇」の物語が、この「たのしさ」を物語っているのです。
このルートは新島氏のルートではないですが、しかしゆいの花壇への思い、花壇を育てるたのしさ、そして花壇を通じて母へとつながる思い……それは純粋な「たのしさ」であるのです。屈託もなにもなく、まっすぐに花を育てるゆい。これが、「たのしさ」なのです。「熱」は、こういうところから伝わるのです。

星奏の「熱」「楽しさ」を知りたかった。
その路線で考えるなら、グランドルートの星奏(成人)は、ぼくからしたら「抜け殻」のように思えてならなかった。ネタバレのうえでこのゲームプレイしてるから、星奏はいなくなる、ってことはわかっていたのですが、それでもぼくから見たこのときの星奏は抜け殻だった。熱もたのしさもなかった。空気のようだった。

星奏は、間違いをしでかした人間です。
「星の音」に魅せられたばかりに、人間の取り扱いを間違えた人間です。
ですが、星奏はパイプだったのでしょうか。
いや、彼女は彼女で、一人の人間として、生きようとしていたのです。ただ彼女は「星の音」=音楽、を通してしか、語ることの出来ない人間なのです。音楽しか、回路がない。
「それでも手紙を書けや!」とも思います。「言葉を尽くせ!自分なりに!」とも。
ただ、彼女には「回路」がなかった。世界と、人間と、洸太郎と接続するための回路が。
彼女を否定するには、この「回路」の機能不全を語るのが一番でしょう。

では、この「回路」とはなんでしょうか。


(2)國見洸太郎の肯定

グランドルートで、洸太郎は「小説家であろうとすることをやめた」と独白することからはじまります。
端的にいえば「どうしても表現しなくてはならないものの無さ」「身を焦がすような表現欲の無さ」。
湧き出てこない。
星奏のような「星の音」も聞こえない。
もともと、洸太郎は、星奏のような他律型と違って、自律型……自分から湧き出るものを素直に書く型、の小説家です。それの一番わかりやすい形が「アルファコロン」です。第一作も、第二作も。

何か外の題材があって、書くわけではない。自分の心のなかから自然にわき上がってくるものがない限り、作れない。

では、そのわき上がってくるもの、というのが世間的に大した価値がない、と目されたら。誰も俺の作品に興味なんてなく、誰のこころも動かせない。
商業的に言ったら無価値。


さて、ここで自分(筆者・残響)の話をします。
ぼくはえろすけで2、3年ばかり長文感想(批評)を書いてきましたが、その傍らで、細々とオリジナル創作をやってました。小説とか、音楽とか。

その作品は、ほとんど誰にも見向きはされませんでした。洸太郎以下です。なにせ商業出版を、彼は成し遂げましたから。
ですが、より重要な問題は、自分が批評にかまけて、「作り続けていない」ということ。創作の内的世界に集中してないこと。
……そしてだんだん、「誰にも見向きされない」とか「作っていない」ことが熟成されていって……腐っていって……やがて、自分の想像力/創造力というものが、地に墜ちました。湧き出て、こない。

そんなわけで、グランドルートの洸太郎は、結構身につまされました。
この数年、創作は自分にとって「やんなくちゃいけないこと」であり、ノルマを課して強迫的にやってました(星奏とほぼ一緒ですね)。そうしなければ、自分が自分でなくなるような気がして。

そんななかに、「たのしみ」なんてないですね。だから、人に与えられる「熱」なんてない。

もっと言えば、自分には世界と接続する「回路」が作れていなかったのです。創作してるとはいっても、回数が少なく、努力、熱量も少ない。世間からの反応ももない。
「回路」が作れない、というのは、世界から阻害されている、と感じてしまうことであります。これはマジです。自分は、誰とも、この世界とも、つながれてない。多くのひとにモテハヤされたいわけじゃない。ただ、自分が世界とつながりたい、という切なる願望。

「ただ生きてるだけで伝説だ」って、ぼくは上のほうで書きました。でも、「創作しないと生きていけない」人間がいる、とも書きました。
そんな後者の「生きていけない」人間が、創作することによって世界とつながる「回路」が断たれた場合。これは地獄です。ほんとに、生きてるリアリティがつかめない。

だから、これは拡大解釈かもしれませんが、洸太郎が星奏に去られて、「この世」とのリンクが断たれたように感じたのは、自分のことのように思えてしまったのです。

この「創作しなけりゃ生きてけない」「回路で接続せねば生のリアリティがない」ってのは、妄想でしょう。それは、理解してます。
でも、その妄想がないと、本当に生きてけないひとだって、いるのです。ほんとうです。

凛香ルートで、彼女が「自分はからっぽ」と告白したのも、この路線でぼくはとらえました。からっぽ。自分は、何か確固たるものがあるはずだ、と信じていた。でも、ほんとはなにもなかった。


どうしたらいいのか。


洸太郎は、最後のほうになって、第3作「おまえがアルファコロン」を書きます。
あの、星奏に去られて、小説という回路もなくし、ルポライターという「星奏への回路」も無為になった洸太郎。それでも、小説を書きます。

こういう人間……作ることでしか、生きられない人間は、作るしかないのです。
回路がひとつでもあるなら、それに賭けるしかない。世界から阻害、排除される(という妄想に苛まれる)のは、耐えられない。

そう考えれば、星奏も「回路」でもって、切実に現実と、世界と結びつこうとしていた人間なのです。方法論や仁義が間違っていても。星奏を全肯定は出来ませんが、その回路における「迷い」「探し求め」だけは、ぼくは否定したくない。

洸太郎は、書き続けた。
また私事を書けば、ぼくも最近、また創作をはじめました。
前みたいに、あたるを構わず、バリバリとは書けません。自分の持病もあって、体力的に出来る範囲でしかムリです。でも、書かずにはいられない。たとえいろんなものを犠牲にしてでも。

この覚悟ひとつ……そういう意味でいえば、ぼくはこのエロゲー批評空間での長文投稿(批評)を、しばらく停止すると決めました(これを書いてる日時は、2016/8/3です)。
回路を作らねばならない。ぼくは、なかなか批評と創作を両掛けでは出来ないようです。どちらかひとつを選ばなければならない。なら、創作という回路を選ぶ。

さて、姫野星奏、國見洸太郎。こういう人間が、仮に学校のクラスや、近所の隣人にいたとして。みなさんはどう思うでしょうか。
ひとつの概念に捕らわれ、ひとつの芸術形式に捕らわれ。時に概念のパイプとなって、あらゆるものを犠牲にするという生き方。
犠牲にされたほうはタマったものじゃないですよね。だから、彼/彼女は、エゴイストです。自分と、大切なひとと、大切な概念のことしか考えてない。

真善美とかよく言えたもんだと思います。ふつう、周りの人にとっての真善美とは、結局は当人の行動、後ろ姿でしか判断できないものです。あるいは、誰かとの関係性をまっとうにしていくことでしか、真善美を誰かと共有することはムリです。
でも、彼らにとっては、回路を通して世界と接続する誠実さでしか、真善美を表現できないのです。そうして熱を伝えようとすることしか……。なんて傲慢でしょう。愚かでしょう。

でも。ぼくは思うわけです。姫野星奏や、國見洸太郎が、創作を通して「たのしさ」を皆に見える形で……いや、彼/彼女自身が十分以上に、とっても「たのしく」創作活動をしていれば、きっと、その「たのしさ」は、皆に伝わるのです。
これはぼくの信仰に近いものです。もちろん、そこにはエゴが混ざります。でも……作者がこころから楽しむこと。自由でたのしいものが出来て、受け手が楽しんだり、周りのひとが作者の笑顔を見るとか。それが出来たとき、周りのひととか、受け手は「真善美を信じてもいいかな」とか、「世の中は捨てたもんじゃないかな」とか「あいつにも言いたいことはあるんだな」とかって思えるんじゃないでしょうか。繰り返しますが、これは信仰であり、あまねく客観的事実ではありません。夢を見ているようなものです。



だから。
だから、つくるのです。楽しむのです。

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