残響さんの「LAMUNATION! -ラムネーション!-」の感想

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**ネタバレ注意**

ゲームをクリアした人むけのレビューです。

これ以降の文章にはゲームの内容に関する重要な情報が書かれています。まだゲームをクリアしていない人がみるとゲームの面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。

筆者はアメリカ文化をそれなりに愛好していて、このタイトルも発売前、期待していました。この長文感想では、「どうしてこのゲームは面白くないのか?」を、真っ向からストロングスタイルで語ります。
更新履歴
(ver.1.0 2017/02/04)
(2018/07/06 ver.2.0 追記更新)


(ver.1.0)

そこにCOOLでさわやかな都市があった。セントアリア。
きらめく夏があった。一応日本、しかしてかなりアメリカナイズ。
ラムネがあった。郷愁を誘うかい? そこに過ぎ去りし日の愛はあるのかい?

バブルのふいんきがあったーーこれを素直に「Feel so nice」な感じで受け止めたエロゲーマーはそんなにいなかった……。
最新のテックがあった。その知識は本物だった(ウィキペディアのコピペライクであっても知識は知識だ)
最新のバズワードがあった(googleデータベースのコピペライクであってもバズはバズだ)

問題は……
そのセントアリアは、「Feel so nice」と設定されたはずのキャラたちは、どこにも、何にも、誰にも、接続されていなかった……。


もくじ(ver1.0)
●はじめに ~ラムネーション!に対する個人的評価
●メーカ「whitepowder」のセグメント囲い込み販促について
●消費文化の接続性(1)セントアリア都市世界とはライターの箱庭療法であった
●消費文化の接続性(2)アメリカ消費文化の伝道師
●消費文化の接続性(3)ノンストップなコメディはどこに接続するか?


※この長文感想は、「ノラと皇女と野良猫ハート」の長文感想と、一部内容が通底しています。
いわば一卵性双生児たるレビューです。ですが、各レビューはレビューで完結した書き方をするようにします。単に、相互参照してくれたら筆者うれしくて泣いちゃう、泣いてもいいんだよ、もう泣いてもいいんだよぉおおおお!っていう具合です。よろしくお願いします。


●はじめに ~ラムネーション!に対する個人的評価

アメリカ消費文化とはなんでしょう。まあ要するにアメリカの大衆文化、ポップカルチャーなわけで、ハイソサエティなアッパーグラウンドの優雅な文化とは違います。
一般大衆……民衆が生み出した、熱のこもったストリートから生まれた文化。そんで、それが商業主義と時にうまくいって、時にお互いをヘイトしあって、でも結局なんだかんだでやっていく、みたいな文化。
ポップで、猥雑で、ワイルドで、クールで。いいとこを挙げれば。悪いところは……そりゃあドラッグとかどうしようもないけれど、それでもバランス感覚を信じてやってきた(と思われる)アメリカ消費文化。
このライターさんは、そういうアメリカ文化のなうを、愛してやまないのでしょう。その気持ちはヴィンヴィン伝わってきます。
きてますが。……でも、なんか上滑りしてるんだよなぁ……。

さて、蛇足ではありますが、まず筆者のアメリカ知識レベルを一応つまびらかにします。というのも、このラムネーションたる作品、多分にアメリカ現代消費文化を引用しまくってるからです。読み飛ばし推奨。

筆者は、基本的にモダン・ジャズ(50s~70s)を熱烈に愛好してます。常に。チャーリー・パーカーを天才の定義、ジョン・コルトレーンを秀才が頂点に上り詰めた定義、マイルズ・デイヴィスのミュート・トランペットと革新的フォームは常にジャズを革命し、アート・ファーマーの優しさ、エルヴィン・ジョーンズのドラム乱舞、バド・パウエルの狂気は……ええい、語るのが山とあるわっ!
ロック・ミュージックに関しては、まずジミ・ヘンドリックスやジャニス・ジョプリンなどの古き荒々しき60sロックンロールは「天才」の概念を塗り替えさせられました。70sのCBGBで熱くクールな火花を散らしたパティ・スミスやラモーンズ、テレヴィジョン/トム・ヴァーレインなどのニューヨーク・パンクを「詩人とロック」の形としてアート的に愛好したり、90sのアメリカン・グランジ/オルタナティヴロックミュージックもそれに劣らず愛好しています。ダイナソーJr.とかピクシーズとか。
アメリカ近代~プレ現代文学(ソロー「森の生活」とかカポーティとかサリンジャーとか。かなり新しくてレイモンド・カーヴァーあたり)、アメリカ現代パルプ小説(わが愛しのラヴクラフトよ)とかを学生時代多少かじり、同じく学生時代に「レザボア・ドッグズ」「パルプ・フィクション」などの映画や、ハリウッドドンパチ映画も多少見ています。ドンパチ映画に関しては、昔からわたしは銃器マニアなので、そういう意味で「ウェーイ!」な見方というよりは「結局最近のガバはライセンス切れたからアメリカ以外のメーカのがどんどん出てるんだよなー、トーラスとかが出てない現代ハリウッドドンパチとかってあるんかいな、ああどんどん鉄のリボルバーが少なくなっていくううううう」というフェティッシュなどーしょーもない見方ではあります。
なげー。これでも短く語ったんですけどねー、どうせこれ以上語っても知識のひけらかしでケムにまく、っていう風にだけ受け取られるのがオチではあるので略。

で。以上の文化吸収・愛好的な意味で、例えばこのセントアリアなるアメリカナイズ都市空間にザンキョさんがいたとしたら、
「おっさんwwwwwwwww」
の立場になると思うなっ!うん!……結構自分なりに、アメリカは勉強し、愛好したんだけどな。それでも、時代の波はキツい。
ちくせう。

だって、このセントアリアにおいて鳴らされているのは、スクレリックスやアヴィーチー直系のダブステップ、EDM! E! D! M!(エレクトロダンスミュージック)
そしてディスコ! ミラーボールと怪しいクネクネダンス!
そう、いわばアメリカの「ウェーイ!」的側面を主に引用しまくっているのですから!
(映画とかに関しては上で書いたように、最新のアメリカハリウッドパルプ映画をロクに知らないのでなんともいえません)

このあたりの齟齬が、自分とラムネーション/セントアリア都市世界、と相性が微妙に悪い、とはいえました。
だってそんなにイケイケなバブリーなメンズじゃないし、わたし。
でも、それでもしかし……このような「アメリカ消費文化を積極的に引用!」という「なう!」(死語)なスタイリングは、個人的に、このタイトルの発表当時から気になってはいました。
発表当時から「初心者向け」という呼称を、公式がヴァンヴァンしていても。

そう。
期待……していたんです。

エロゲ界隈がかなりいろんな世界観表現をできるとはいっても、「こっち」の方面……つまりアメリカ消費文化のなうを積極的に引用した、陽性でスタイリッシュでクールな舞台設定。それに、かなり鋭角度高めのキャッチーなキャラデザの美少女をもってきて、「Happy go lucky!」な感じでGOGOGO!というコンセプト。そのように、まず第一報では受け取りました。
シナリオに深さがなかったとしても、この着眼点はよかった。
それほど、アメリカ消費文化は、エロゲにおいて遠かった。たとえわたしがこの消費文化のなかでおっさんであったとしても、かつて自分が熱心に研究し、接収してきた文化形態が、こうしてガンガン引用されていってるのを見て、やはりテンションが上がらないはずがない。

だから、HPの初期で、「なんかヤクでもキマってるんじゃないか」的なキャラ紹介文……紹介してないよな……。あまりにも「ネタ」ばっかりを書きまくり、軽い漫才めいたもので流してはいた。普通もっと紹介するものだけど。その妙な情報量の少なさも、「これからもっと拡充されていくのだろうな」的に補完はしてました。

……これが、全然補完されていかない、ってあたりから、どうもちょっと「……?」という、ささいな疑念を抱くようになっていったのです。あたかもレコード盤のささいなノイズが気になっていくかのように……。


ちょっとしてから、このメーカのライターが、どうもよくない所業をしてる、っていうことをTwitterで耳に挟むようになり。
でも、以上述べたように、この作品の基本コンセプト(ネタ傾向)に好感を抱いていたから、わたしはあまりそっち方面では言及は控えてきました。
事実、わたしはこのレビューにおいても、そっち方面での詮索はしません。したってしょうがないし……好きじゃない。
それは、まあ、端的に期待の表れだったのかと。ライターと作品は別だぜ!という。

それが、一気に崩れ去ったのは、体験版をプレイして。
「……これはないわ……」
この時の失望感といったら、エロゲ界隈……いや、もう界隈はしばらくいい、個人的に、結構なものがありました。
だって、
「物語が成り立っていない」
「ネタの乱舞だけ」
「ネタがハイスピードで繰り出されるから、グルーヴも何もあったもんじゃない」
というのが、基本的なところです。

なんで、なんでこういう体験版になってしまうのか?
体験版は、言わずもがな、ある程度は「本編もこういうものですよ」の示唆であり、証拠であります。だから、これはもうこの作品の「決定事項」なのだな、と受け取るほかありません。
やっぱり……その失望はありますよ。「なんでこんなことになっちゃったの?」という。
そして、このレビューでは、その「なんでこんなことになっちゃったの?」を様々な方面から語っていきます。
よって、自分のラムネーションに対するスタンスは、
「ヘタに過去、アメリカ消費文化を愛好していただけに、他のプレイヤーよりもダメージが大きい形でお通夜的にプレイし、そしてプレイし終わってもまだお通夜は続く」
っていうものです。そうさ、だから点数は49点。


●メーカ「whitepowder」のセグメント囲い込み販促について

では、本題に入る前に、一つ補助線を引くとしましょう。
なぜこのような作品が商業メーカの作品として「通って」しまったのか。以下に述べるのは、全部「仮説であり推測である」と前提した上で……

結構びっくりなのが、この作品を「まあ、わりにマジにウェーイ的に楽しんでいる」エロゲーマーがいる、ってことなんですね。
……えろげーまー? どうもその人たちを眺めていると(といっても、基本的にメーカTwitterからRTでうちのTLに流れてくるって具合なんですが)、「あまりラムネーション以外の作品をやってないっぽい」という風に見受けられます。そういう人たちを「エロゲーマー」と称していいものかどうか……。
まあいいや、そこは置く。
ここで言いたいのは、この「ウェイ」的雰囲気をメーカがガンガン演出し、リアルにおいて表現していった、ということです。

作品中で、「ラムネーション!」と叫んで(乾杯!のなう表現ですね)清涼飲料水を掲げて「ウェーイ!」なツイートを作品世界においてバズワード的に行う、という描写があります。というかシナリオのキモです。
このウェイ感というか、現実でも「ラムネーション!」と叫ぶようなノリ。いわば「同期」させた、というか。確かTwitterを使った広報でも、「現実でもラムネーション!と叫ぼうキャンペーン」みたいなことをやってたように記憶してます。ていうか一個一個の企画の数が多かったように記憶してるので、「プランナー」としての技量&行動力は、このメーカはあるのでしょう。

何が言いたいかというと、このゲーム、案外「求めている層」には届いていたのではないか、ということ。オタクの中でもライト層……ウェイ層にそれなりに訴求して、現実で同期版「ラムネーション!」をさせるくらいには。
これを、別の角度から眺めたら、「セグメント囲い込みが成功した!」と評することが出来ます。

それはそれで、一つのテン年代的達成か、と思います。誰もができることではない。狙って、きちんと資本を投下し、回収する、という。
ただ、問題はこれが「エロゲ初心者」向け、とアナウンスしていること。これは額面通り受け取るよりも、

(1)この作品でハマるようなウェイ系ヤングオタクを囲い込みして、信者化さす
(2)よって、いわゆる普通のオタク(旧来のエロゲを愛するオタク)がこの作品を「確実に愛する」ようには設定していない
(3)何故なら「ラムネーション!」とウェイするようなオタクを作り出し、囲い込むことが目的なのだから

という感じで認識していたほうが、まだ現実と符合するのではないか、と思います。
繰り返しますが、これは好悪(好き嫌い)の問題であり、善悪の問題ではないでしょう。達成は達成であり、それすらできない商業メーカのことを考えると、批判はできまい。
ただし、「つまんないな」とボヤくくらいは許してもらうにしても、この「ラムネーションでエロゲを知ったウェイ系オタク」たちが、それからエロゲの豊饒な文化にアクセスして、ハマりきるムーヴメントが起こるか、というと、それは望み薄と断ずるほかありません。なにしろ……洗脳、とまではいわんまでも、ウェイ系オタクたちにとっては、パーティ的に騒げるネタがあれば十分なのだから、それ以上エロゲというフィールドをdig(探索)していくか、っていうと、多分ないんじゃないか、って思うのです。
あるいは、あったとしても、それまでみんなが普通に楽しんでいた萌えゲーとかに、ウェイのノリを持ち込む、ってパターンですが、まあこれはもうちっと時間を経って観測してみないとわからないかな。

どちらにせよ、「それ以上のエロゲ文化への【接続】」がなされない、という時点で、どうもこのゲームにわたしは、愛を抱くことができない。
そう、ことは、愛の問題なのです。そして、目次で書いたように、本論のテーマは「接続」であります。
このゲームが自分にとって「好きになれない」というのは、本作がこういうウェイ系の「接続」に全振りした結果、最も作品として大切な「世界観が物語へ接続すること」や「キャラが世界観を通じて物語に接続すること」が完膚なきまでになされず、、ひいては「このゲームがおれに接続できなくて、上滑りしてった」とすら言えるからです。
接続が、どこにもされていかないゲーム……それは、どういうことからくるのでしょうか。


●消費文化の接続性(1)セントアリア都市世界とはライターの箱庭療法であった

a)セントアリアを空から俯瞰しよう

まず空から見える風景は、高層ビルが青くて、それが空の雲と青を乱反射してどこまでもクリーン。ところどころに見える緑化計画の健全なる成果がこの街の発展を了解させる……そうここはセントアリア。日本のなかでももっともCOOLで管理が行き届いている先進区域……。
次にるなちー/ころにゃー宅に視線を移そう。ジャグジーがある屋外は、ギラギラの太陽というよりは、クールな南国リゾートの雰囲気が似合う洗練。そしてちょっと下に飛び降りれば、そこは大きなガレージのあるアメリカン現代ハウス。もちろん、室内に所帯臭さなんてありはしない。巨大なTVが当たり前のように調和する。むしろ照明が暗かったり、やけに白かったりするのが現代らしい。
そして橋を越え(ここをスーパーカーですっ飛ばしていってもなんの問題もないらしい)、学園へ。この学園もまた先進的で、いじめも何もなさそうなきわめてクールな空間だ。土着?学ラン?関係ないね! あるのはアメリカンなテックとシステムの健全なる力を信じた、学園風土!もちろん実学志向で、知性あるものがさらに知性を再生産!
そんな学生にしてクールな勤務者が働くのは、例えばRMC直営の商店街(モール)。管理はどこまでも行き届いていることまさにディズニーランドのゴミ捨て係のごとく。そんな係のひとも、こちらを見れば「ヘイ!楽しんでいってね!夢の国!」とサムズアップ。なんときらめいた町なんだろうセントアリアは。
そんな街のはずれにあるチェリークラウンダイナーはアイリス、レイナ姉妹のイカした店。廃棄率なんて全然考えなくて住む夢の店。ここでもクールな風が運ばれてきて、流れるEDMやディスコソングがノリノリで、コーラやラムネ片手にラムネーション!
そんで、そのラムネを生産しているらむねちゃんの実家は、なんともみすぼらしい家であるけど、室内はクール!ラムネ一色!でもみすぼらしい店構え……しかしこれはライターの遊び心、こうした「地べたでも、やさしく郷愁」を感じさせることで、この街のミクロをきちんと描いてみせる……
さあ、今日も楽しい仲間たちとハレルゥウウウウヤァ!!

……というのが、一応のところの、わたしから見たこの「セントアリア」という町の風景です。
正直、字面だけ眺めていたら、こういう箱庭、嫌いじゃないんですよ、わたし。もともとアメリカ文化には親和性があって。まあ、西海岸ですよね。このアッパーで爽快感溢れる感じは。開放的というか。ロスとかサンフランシスコとかのアッパークラスのとこ。
日本的なのがらむねちゃんの家くらいしかないのですが、それも以上で述べたようにライターの遊び心、として見るべきでしょう。
問題は、わたしが再三この作品の問題が「接続してない」ということにあるように、このいずれのもなかなかクールな設置アイテム群/ハコモノが、どれも物語に対して接続されていない、ってことです。
それは二つの方面からいえて。ひとつは、「この街に居る人が、メインキャラのほかいない」という。全部音声だけ。モブキャラの背景でのビジュアル描写が全くなく、どこも「無人」なのです。それが、ころにゃールートで言える「この作品は全部ループで、そもそも人工的な空間なのだー」式の設定につながっている、という抗弁がライターのほうから放たれてきそうですが、それは抗弁にすぎず。
やっぱり、人がいなけりゃ、それは白々しい空間ですよ。メインキャラを動かすばっかりで、他のモブキャラとの「物語」に接続していかない。

もう一つは、この街のそのキラキラさが、大筋の「物語」や、ひいては「キャラクター個々のキャラ性」にも、そんなに接続してない、っぽいのです。
え?舞台になってるやん? と指摘する方には、半分正しく、確かに「舞台にはなっている」と答えます。しかし、キャラがこの街を「COOLだぜ」としているわりには。いろんな理屈つけて、もっと世界をよくしよー、とかって語ってるわりには、この街に対して「なーんもしていない」っていう感じが強いのですよ。もちろん、「この街で……生きる……!」みたいな覚悟背負って泣きゲーやれ、って話ではありません。ひとつめの理由でも語りましたが、モブキャラなどと一緒になって町の中でわいわいするだけでも、「街を活かしてコメディをする」っていうふうになると思います。そう、「街を活かしてない」。真の意味で。
それは「書き割り」に過ぎないのです。最新のテックやバズワードで街を彩っていてもお、骨格のところで「この街が日本にある説得力、この街がちょっと未来な世界にある説得力」が見えてこないし、「この街で生き生きと過ごす楽しさ」も伝わってこない。


b)ライターのオナニーエゴと、「エロゲキャプチャ芸」文化

これで、一番気持ちよくなってるのは、ライターさんでしょう。わたしはこのセントアリアでのキャラの掛け合いをみていて、「ライターさんの箱庭療法」とまで思ってしまいました。
そう考えれば、このラムネーションという物語が「物語してない」というのにも納得がいきます。要は箱庭療法なのです。それも軽度の。
そういう箱庭療法できもっちよくなるためには、深い物語はいりません。もっとも、よりディープな箱庭療法ともなると、それは深い物語性を生むものですが、このライターさんの場合、「ああ俺の理想の世界きもっちええわぁ」と温泉気分なのではないかと。
そこに美少女!ギャグ!そして萌え絵によるセックス!都合のよいストーリー!最高だっ!というのが本音ではないか。

と考えれば、世評における「このライター、商業作品でオナニーすんのもたいがいにしろよ」という非難は、もっともだと言えます。やはり人の箱庭療法を見ていて、あまり面白いものではないです。とくに商業は。

しかし、ここでひとつ逆転の発想がありました。個々の箱庭療法のシーンの面白さ(らしきもの)、それだけを「画像キャプチャ」的に抜き取って、その瞬間のキレ芸的な面白さに全振りしたゲームを作れば、ウェイ層には受けるのではないか?というものです。
本作のTwitter連動システムは、その路線でわたしは考えています。
Twitterでエロゲクラスタにいると、始終「キャプ貼り付けネタ」に出くわします。ある人は挨拶をキャプで。ある人はツッコミをキャプで。そんな感じで、エロゲーマーの少なからぬ人たちがこの「キャプ芸」をやっているのです。
そう、このラムネーションの個々のシーンは、「キャプ芸」のための画像提供もととして、結構使える。
本作は、その「キャプ文化対応」一点のみに集中してゲーム作りをやった、と仮定したら……そしてその達成度合いだけで、だけで言うならば、「85点」はつけてもいいんじゃないか、ってすら思うのです。

ですが、このキャプ芸は、当然ながら「Twitter界隈のオタクたちの、皮肉を込めた芸」でもあります。そういうTwitter界隈のオタクたちは、それなりに趣味嗜好をこじらせている人たちで、「気持ちよくなるため、たのしむため」にキャプを使うこともあれば、「相手を言外に非難するため」に使う強烈な皮肉としての意味合いもあります。
その強烈な皮肉、disの対象が、このラムネーションや、メーカ、ライタさんだったとは。
そういう状況に気づいてないわけでもなかったでしょうが。ライタさん、メーカは。
ただ、この「ウェイ層」も当然キャプ芸文化をするわけで。そっちに全振りしてしまったら、当然ながら「それ以外のオタク」を無視する格好となります。そのあたりが、どこまで自覚的で自覚的でないか……。

いや、自覚的であったにせよないにせよ、どっちにしても「ウェイ層をそれ以上エロゲの芳醇な文化に誘導するような作品作りをしなかった」時点で、一発ネタとしての作品作りだった、と言われてもしょうがないのですが……。


●消費文化の接続性(2)アメリカ消費文化の伝道師

まず、各メインキャラに対するひとことコメントからいきます。

a)らむにゃー

イケメンヒロインでツッコミ、だと思っていました。まあその路線を多少はネタでやってくれましたが(女性客大人気!)、結局話が進んでいくにつて、他のキャラとの「根本的差別化」がそんなに働いてないから、イケメン度合いが弱い。
ここは痛い!だってメインヒロインでしょう。これじゃ「ヒドイン」とは言わないが「……え?あーあー、メインヒロインでしたね」くらいの存在感なじゃいすか。
あのー、わたし、まずはらむにゃーのビジュアルに惚れたのですよ、このゲーム。清涼感ある白と青の境目の髪、赤い瞳、意志の強そうで。それでいてユーモアを解するイケメン女子、っていったら、魅力的じゃないすか! それが、そのあたりの要素が弱いってどういう!

b)ころにゃー

ヤンデレ方向のサイコパスかと思ったら、サイキック方面のサイコパスですかー。
ラスボス・ころにゃーですが、正直、ループとか世界とか「貴方」とかいうメタトリック、全然なんともおもわねえ。ピンともこねえ。
それでも、小柄少女がスポーツカー(クロノスティンガー)を駆る、というのは燃えるシチュなのですが。そういう小ネタの追及(ディテールの追及)は、本作、要素だけ見ればかっこよろしいですよ。でもさあ、やっぱりそれが上滑りというのは、こういう設定そのものも、キャラと物語に「接続」してない、ライターのオナニー的箱庭設置趣味、なんですなぁ。

c)アイリス/レイラ姉妹

レイラから語ろうか。常識人ポジ、ときいて、この世界でようやく「本当にまともなキャラ」がいる、と聞いて、安心していたおれが馬鹿だったよ!このひともクールギャグ担当かいっ!
天然ボケというわけでもなく。最低限ひとりは、「頭のネジが回ったキャラ」というのがコメディに必要だ、とつくづく思いました。音楽でいうとこのベース。そこが狂ってたら全然どうしようもないのですよ。
このあたりのキャラ崩壊が、逆に悪いように出ています。というのも、らむにゃーのとこで語った「根本的差別化」が、どんどんメルトダウンしていくからです。

アイリスですが、今になって思えば、このキャラが一番個性的だったのかなぁ、と。でもそれは「~デスー!」口調と、CV民安ともえの独特の声色がそう感じさせただけかな……。一応「お子様&毒舌」ってポジではありましたが、それってころにゃーと芸風カブってるし……。

そう、この「芸風かぶりまくり」っていうのも、また「根本的差別化」が図られていない部分ですが、そこのところは他のレビュアーの方々がツッコンでいるとこなので割愛。

c-2)本作の百合について一言

一応、百合者としては、ね。
まあ正直「最初から期待してねえよ」とだけ。
ただ、期待はしてなくても、予想は裏切らなかった。というのも、本作は「引き立て百合」になるだろう、という予測を立てていたから。
発売前のわたしのTwitterから引用しますが、

(2016年1/1 @modernclothes24)
>まあ百合っつっても、主人公(男)をいれた3Pというんでしょ?結局幼馴染百合も姉妹百合も引き立て役なんでしょうっ!!ぼくは3Pが嫌いなんじゃない、引き立て百合があかんのや!

>原画よし。音楽よし。キャラもノリもよさげ。べつにこの時点ではいいんですよ。作品内容だけなら。

>だからなるべく、メーカーのあれこれには気にしないよーにしてますが、それでもメーカーのウェイ系のノリと、勘違い百合が悪魔合体したら、ぼくはラムネを血で染めることになる

>引き立て百合の何が悪いかって、実は「挽き割り納豆」の論理とにたようなとこがあって。ようは主人公を三角形の上部において「どちらも食える」として、女の子ふたりを相互にすきすきさせる、というのがまず図式。これ自体は全然悪くない。対立項として「女の子ライバルどうし」が好まない人にとっては

>ただしこれを百合的観点から見たら、まず女の子どうし、という関係性の「誰も触れない二人だけの国」度が、コンセプトを完遂できなくなる。納豆でたとえたら、挽き割りすることにより、万人向けに訴求されるようになったリーズナブルだけど、でも「納豆としての味はかわったよね」という。

>引き立て挽き割り百合納豆の何が悪いか、というと……問題は「これ(コンセプトかわったよね?)」がどれだけ無意識的に「……別にいいじゃん?」と、わりかし多くのヘテロゲーライタが思ってるとこで。ようはそれだけ百合美学に対して鈍感すぎなのだけど。違うねん!と声をあげても、→

>結局は「みんななかよし、が達成されてるからいーじゃん♪」の大多数ユーザのまえに敗北することになる。だからこの問題に関しては、最近は半ばあきらめている残響さんであります。ヘテロエロゲをヘイトするわけではないけど、ラムネーションのように「……出ても引き立て百合なんでしょ?」みたいに

>そうですねー、この引き立て感覚をハーレムクラスタに説明するとすれば、「主人公が素敵だから、主人公の子供(男の子)も素敵!だから私たちは子供の筆おろししちゃいましょ♪」理論をナチュラルにハーレム女子たちが思ってる、というふうに説明したらいいですかね?

ーーこんな感じです。なお、この全部が悪い形で予想的中したことだけ述べておきます。
うれしくない。


d)るなちーという主人公

本作のキャラにおいて、らむねちゃんと同じくらい……いや、それ以上にがっくりしたのが、この主人公・るなちー君でした。これほど魅力がないとは思わなかった!
ヒロインズがオカシいのはいいんですよ。「それ以上に主人公君がおかしかったら」!HPでの前情報は、「この作品一番のバカ」っていうものだったでしょうっ!?
期待してましたよ、「おお、竹井10日を超える主人公が出てくるか!?」みたいに!それをもってぼくは本作のライタさんを「ポスト竹井10日」になるかもしれない、と思ってましたよっ!

……ダメだった!
まず人間味がない。それもギャグがダメな意味で人間味がない。このキャラ特有のギャグっていうのが全裸と脱糞という時点で!もっとキレたワードで全裸と脱糞をしなさい!(あ、そっちはいいんだ……)
ワードにキレがない余裕しゃくしゃく、というのもアカンが、その余裕っぷりを「天然」のひとことで片づけさせて、ヒロインズに「そこが可愛いんだからっ」とさせるのはいかがか。それはれっきとした「魅力の欠如」ですよ。
その癖有能、というのも……どうにも説得力がない。世界最強であろうとも、完全にこれもライタの「箱庭療法的俺TUEEEEEE」にすぎないじゃないっすか。それじゃやっぱりオナニーだよ。

本作は、別の意味で「いなくてもいい主人公」でした。そりゃ「装置」としては要るかもですが、その「装置」を活かした物語に全然なっていないのだからどうしようもない。その上、狂言回しとしての魅力や度量もない。
「みんなを受け止めてるじゃん?」という批判に対しては、「それはただザルなだけやねん」とだけ返します。


e)キャラが全然アメリカ消費文化を伝導してくれない

さて、ここから総論に移ります。
本レビューのキーワードはさっきから何回もいってるように「接続」です。
この●(2)-e)から、次項●消費文化の接続性(3)ノンストップなコメディはどこに接続するか?の結論までここから一気にいきますが、論点を二つに分けましょう。この(2)-e)で語るのは、この作品のキャラを通して、「アメリカ文化につながっていっているのか?このゲームは?」という切実な問題です。なんせ、それが達成されてなかったら、このゲーム、そもそもアメリカ文化を引用する意味ねーじゃねーの!としか言えんからです。

キャラたちはさまざまなネタを繰り出します。アメリカ消費文化の。
さて、わたしはそれらを聞いていて……どれひとつとして、「もっとアメリカのことを知りたいなぁ!」と熱くなることが……できなかったのです。ひとつとして。
トリヴィアルなネタ知識は得たけど、それがゲームをプレイした自分のなかで血肉になってない感がすげえ。きっと忘れる。

キャラに関して言えば、徹頭徹尾狂言回しであったな、と。狂言回しであることが悪くはなく、ぼくだってそういうキャラが好きです。でもそのキャラが「全員」っていうのはどうよ。さすがにそれは空虚なスパイスてんこ盛り過ぎてキツかった……。
そして。このキャラたちが、これらの消費文化を文字通り「消費」するだけで、「愛好」していないんだろうな、と思わされるのが辛かった。

もともと、このゲームが「キャプ芸対応型ゲーム」だとしたら、そこに愛とかいうのはお門違いだというのはわかっています。それでも、これまでこのアメリカ文化を愛してきた者としては、「熱の伝導」がなかったのが辛い。
それでは「お勉強」より悪い……いや、それはライタ氏の次回作が、さらにアメリカンなものだったとしたら、の話です。もしこれで一気に次はアメリカンを捨て去るような真似になったら、もう何を信じていいのかわからない。
何より、熱のないキャプは、やはりキャプだったとしても、「爆発エネルギー」はないですよ。キャプだったとしても。
さすがにキャプ一枚で「エロゲへのいざない」ができるとは考えてません。でもさ。

まあ、でも、次の問題に比べれば、アメリカ文化を伝導してくれたか、とかいうのは、まだささいなものです。
本当に問題なのは……………………


●消費文化の接続性(3)ノンストップなコメディはどこに接続するか?

一番の問題は、この作品に出てくるネタ、ネタ、キャラ、箱庭世界、そしてネタ、物語、物語の骨格、メタ物語、そしてネタ……そういったものすべてが「何にも接続していない」という、メタファー上のディストピア空間だからです。
結論としてこの問題を持ってきたは、やはりこれが一番の問題であるからです。

では「骨格たる骨太な物語(ストーリー性)」がただあればいいのか?という問題では、ない。というのも、ラムネーションが選んだ物語形式というのは、旧来の物語と違うから。その点だけで言えば、その「新しい形式そのもの」には罪はないのです。好き嫌いはあっても。
ラムネーションに「いわゆる普通のストーリー性」を与えたところで、それは単に「ガイキチ要素の含んだ普通の萌えゲー」です……あれ?面白そう?
え、ええと……まあいいや。
それでも、ラムネーションは果敢に「新しい物語の形」を選んだゲームだ、と言えるのです。その商業的様相が「キャプ芸・ウェイ層への対応」だとしたら、作品本質の面では、
「ネタに次ぐネタでノンストップコメディ!」
に終始する、というものです。

ここにおいて、ノンストップコメディとは、「目的」でありながら、「手段」であります。自分の表現したいものを表現するための。
ライタ氏は、ネタというものを表現したかった。箱庭の空間のなかで。それに適した物語ヴィークル(乗り物)は、こういうノンストップコメディだった。

この発想そのものについて……新しいヴァージョンの物語性、について。ネタに次ぐネタを繰り出して、いわゆる起承転結方式の「ストーリー性」さえコケにする形でネタ、ネタ、ネタ! そのネタの攻勢から「これまでの硬直化していた萌えゲーシナリオ性構成とは違った、新しいものを生み出そう」という気概。発想。それ自体は、ぼくは賛同したい……皮肉全く抜きで、素直に純粋に「クレバーな発想だ!」と思います。

ちょうど今、HARUKAZE「ノラと皇女と野良猫ハート」をやっているのですが、「ノラとと」も、わたしから見たら、同じ設計思想だと思っています。「ネタに次ぐネタでノンストップコメディ!」という。
ただ、なぜノラととは面白く、ラムネーションは面白くないか。それは、結局のところ、「メタファー」の有無……より詳しく言えば、「ネタが、メタファーとして機能して、その先のモノに接続してるか否かの有無」、によるものだ、と、わたしは主張したいです。


メタファーと、その先のモノへの接続、とは何か。
まず語義から説明すると、「隠喩」のことです。バラの赤さを「血が滴るように咲くバラ」みたいに。
なぜメタファーを使うか?とりわけテキスト表現において。それは、次の引用を見てください。


ーー「世界の万物はメタファーだ。誰もが実際に父親を殺し、母親と交わるわけではない。そうだね?つまり僕らはメタファーという装置を通してアイロニーを受け入れる。そして自らを深め広げる」
村上春樹「海辺のカフカ」


そう、村上春樹が繰り返し言うように(なんと新刊「騎士団長殺し」の2巻サブタイトルからして「遷ろうメタファー編」と銘打っているのですから)、「世界はメタファー」なのです。少なくとも、ひとりの作家(ライタ)による作品世界を構成しているのは、メタファーです。
このラムネーションにおけるメタファーの不在は、ネタがネタであるだけで「終わっている」ということ。「接続していない」という事。世界に。作品世界そのものに。あるいはキャラに。キャラを通して、世界に。
るなちーが脱糞したところで、それはネタですが。全裸になったところで、それはネタですが。それでも、らむねちゃんのラムネも、結局はどこにもたどり着かない、接続しない、失敗したメタファー(ネタ)なのです。
例えば、らむねちゃんのラムネは何を象徴しているか?それは、幼い日の郷愁であったり、今を生きるさわやかさであったり。あるいは、ラムネ瓶に透けた空を、そのままラムネ瓶に閉じ込めた魔法が描くのは、やはりライタ氏の……けっぽし氏の「美学」だったはずです。その美学すらにも、接続できていない!!
我々がメタフォリカルに何かを表現するのは、ただ単に直喩では表現できないイメージ的なものや、淡いものを、なんとかその先のアイロニー……美しさだったり、皮肉性だったり、それでもやっぱり未来を見ていく「もっと先を!」の音速精神だったり! Sonic Youth! Teenage Riot!

ノラととは、そこが違かった。ノラととは、「このキャラのネタは、このキャラの背後の歴史性にちゃんと接続している」「このネタは、この世界観に合っている」と素直に思わせるものでした。すごくすうーーっと。
そういうひとつひとつのネタの過剰連発を通して、「物語性が薄いところでの、より広い意味での物語性」を、語らないうちに語っている。それが、ノラととライター・はと氏の力量でした。
なぜはと氏はそれが出来たか?はと氏にとっても、ある程度までは箱庭でしょう、ノラととワールドは。
しかし、その背後には、自身が生み出したキャラ、世界に対する、愛がある。優しいまなざしがある。弱者に対する、寄り添いの気持ちがある。オナニーではない。前を……前を、向いている。誰かを傷つけるネタではなく、誰かを知らず知らずのうちにほっとさせ、救っているネタを放つことによって。

そういった「前を!」の文芸精神、エンターテイメント精神抜きにして、ライタ氏はただ箱庭の俺TUEEEEに終始したこと。世界……ひいては己が創造した世界にすら、そしてライタ氏自身にすら、接続していかなかったこと。
これが、「ラムネーション!」が面白くない理由だ、とわたしは考えます。
結論は以上です。



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この長文感想を書くにあたって、参考にさせて頂いたエロゲー批評空間内の「ラムネーション!」感想を列記させていただきます。筆者の方々に厚く感謝の意を表させてください。()内は残響のコメントです。

Atoraさんの長文感想
(「もともと期待していた」というスタンスに共感を覚えます)

きゃるんさんの長文感想
(ラストの一文にディストピアを見ます)

Predawnvagabondさんの長文感想
(冷静にファクトベースで善き点を評価しているところを参考にさせていただきました)

うさぎねこさんの長文感想
(ころにゃーシナリオのどうしようもなさの熱さに首肯します)

trumpさんの長文感想
(ゲームのアカン事態を冷静に腑分けなさった点を参考にさせていただきました)

hetyaaさんの長文感想
(ライターさんの過去作に対する言及、参考になります)

isoisoさんの長文感想
(シナリオ、ネタの把握にとても役立たせていただきました)

vostokさんの「らぶおぶ恋愛皇帝of LOVE!」の長文感想
(タイトルが違いますが、はとシナリオに対する言及、そして「物語とコノテーション」の表現に影響を受けました)


(以上、2017/02/04 ver.1.0)
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追記ver2.0 2018/07/06


1)箱庭について
2)ラムネーションって、テンポ悪いですよ


あれから随分考えました。ラムネーションという作品について。考えるタネになったという点では、この作品に意義がないというわけではないのです。ただ、今なお「おもしろい」とは思ってはいません。

はじめは、こういう作品が生まれたのを、それこそ評論・時評的に「なぜこの作品はつまらなくなってしまったのか」という方向から、語ったのがこの、以上のver.1.0の長文感想です。ただ、それをし終えてから1年経ちましたが、随分と喉に小骨がささったような「?」の感触を得ることとなりました。
何か、このエロゲについて語り切れていない。

はじめからそれを端的に「この作品はつまらない」と言い切ってしまえば楽だったのにな、と思います。
それが出来なかったのは、上記にあるように、

・アメリカ消費文化の引用作品、というコンセプトに好感をもっていた
・箱庭作品、というフォームに好感を持っていた
・ポスト・ハイテンション作家(竹井10日の後継的な)としての、けっぽし氏に対する期待(外れ)

という、もろもろがあったからです。

「そんなのどうだっていいではないか?」
そうですね。
「なぜこうも面白くなくなってしまったのか?」という状況論、発生論に、意味があるのか? 多分ないでしょう。どのように恵まれた状況であっても、つまらなくなるものはなって、拙い状況でも、面白くなるものはなります。
そうですね、もう、いいでしょう。もっと、個人の思いを直接的にいきましょう。

今、このver.1.0の長文感想を読み返してみると、この時の感想は、随分「攻めきれていないな」と思います。手ぬるい、というよりは、手心があった、というか。
……それは、そうですよ。自分だって、上記a~cの物語に対して、結構な期待と親近性があったんですから。


1)箱庭について

ある種の作家は、箱庭って形式をどうしたって必要とします。それは、端的に言えば「逃避」です。
大河のようなドライヴでもって物語を進めていく作家性……では確実にない。艱難辛苦を自らに与えない、微温的な物語を自らに与える。ミニマムで自慰的な物語の紡ぎ。

 しかしそういう箱庭物語が、自分は好きです。読むのも、自分で書くのも好きです。あらゆる物語が「主人公をハードな体験に落としいれて、骨太な物語を紡ぐべきだ!」であるべきだ、とするマッチョ物語論者こそ、真に自分の敵です。ラムネーションのようなコメディにおいてもこのマッチョな「そうあるべきだ!」の論者……骨太な感動物語を最終的に持ち込んでいないからこの作品はダメなんだ!というひとがいたら、やはりそのひとはわたしとは相いれません。というかそのひとの「コメディ」の定義を知りたいものですが……。

自分でこういう箱庭物語を紡ぐことをやってわかりますが、まー箱庭、これは癒される。なんてったって、自分の好きなものばっかりを集めた箱庭ですからね。
ラムネーションにしたって同じことです。この作品中にあるのは、どれもけっぽし氏の好きなものです。

よくこのセントアリアの舞台を見ればわかるのですが、けっぽし氏はゼロ年代以降のアメリカ文化「のみ消費している」わけではありません。たとえば、ディスコパーティのBGMを聞きましょう。どーもこれはdaft punkがファレル・ウィリアムズをフィーチャーした「Get Lucky」の耳コピなんじゃないかっていう懸念があるのですが、その「Get Lucky」にしたってそもそもフランスのハウス・ユニットたるdaft punkがいにしえの70sアメリカン・ディスコミュージックに対するオマージュ溢れる音源作りをしていて、その線でグラミー賞取ったってシロモノで、けっぽし氏がそれを知らないわけはないんですよね。いわば二重三重の、アメリカ消費文化に対する敬慕であって、アメリカ文化に対する歴史性っていうのにリスペクトがある、という風に、自分は感じました。

けっぽし氏のそういうアメリカ文化に対する愛は疑いようがなく。そこは、素直に自分、すごいな、と思いますし、そういうアメリカンドラマ的な作風がもっと増えてったら、「商業っぽいエロゲ」×「同人っぽいエロゲ」に別れがちなエロゲ/ノベルゲーの作風に、もっと幅が出るんじゃないか、って思ったりもしました。今も思ってます。

先日、タカラトミーがyoutubeに期間限定で公式無料公開した、米マーベル版・初代トランスフォーマーこと、「戦え!超ロボット生命体トランスフォーマー」をひっさしぶりに見ました。タカトミ自体が「神回かカオス回しかない」「見る抗うつ剤」とかいう「お前!言い方!」とツッコミたくなる紹介をしていましたが、アメリカンなこの大雑把なノリって確実にあって。もちろんこの初代トランスフォーマーだと、日本語翻訳にちょっとした(ちょっとしたどころじゃねえ)ブーストがかかっていて、そういうのが二重三重に重なって独特のグルーヴを生んで、今見ても単なる回顧じゃない……いや、むしろいまだからこそ余計に独特のゆるいグルーヴがたまらない魅力を放つものになっています。今のアニメだったら数回は要する情報量を一話にまとめるジェットコースター的展開、無駄な軽口とアクション、名コンビの定番コント、余計なことばっかりするコメディリリーフ、収集つかなくなったらコンボイ司令官がとにかく纏めてしまう……。

けっぽし氏がトランスフォーマー好きかどうかはわかりませんが。
それでもこういうアメリカゆるふわセンスは自分も多少はわかるつもりではあります。あるいはフルハウス的な。そういうセンスを積極的に導入しようっていうのは、たしかに目の付け所もよく。
また、けっぽし氏がそれを咀嚼するにあたって、対象物に対するクリスプなユーモアだってあります。単に飲み込んでるだけではない。一応、消費者として咀嚼はしている。
 要はアメリカオタクじゃねえかアナタ、って話なんですが、それはいたってよろしい。こういう作品が嚆矢となって、第二のアメリカオタクによるエロゲが出たっていいし、ヨーロッパオタク、アジアンオタク、ロシアンオタクによるエロゲが出たって一向によろしい。こういっちゃなんですが、フィンランドに親和性があるのはQ-Xですし、ヨーロピアンな方向性を独特のやわらかなフィルターを通して描かせたら旧Rococoの連中(笛氏とJ-MENT氏のことですよ)はカタハネで証明済みですからまたやっとくれ!entyにこちら投資してるんじゃ!というブチマケはともかくw あとそれから、ライアーも新作で幕末スチパンことティルヒアやったことですし、またアジアンテイストってどうなんでしょうか。それも例えばディープアジア・アンダーグラウンドダーク方面電子書籍「シックスサマナ」系の。

オリジナルな箱庭が見たい。それこそ、日常系コメディと言われたって全然よろしい。自分がこのゲームでつまんなかった、というのは、その「ネタ通じねえよwwww」的な箱庭精神じゃないのです。
ではなにか。
上記トランスフォーマーで云った「グルーヴ」の問題です。


2)ラムネーションって、テンポ悪いですよ

 世間で言われてるこの作品の悪評についてですが、まずひとつ、「この作品はラムネーションだから叩いてよろしい」雰囲気には、やはりイマイチ賛同はできません。ここでこうして自分も叩いていますから、自分にしたって言える立場ではないのですが、それでも「ラムネーションだからネタにしてよろしい」雰囲気って、やはりイジメに近いものを感じてしまいます。悪しき「ネタ化」というか。みんなが叩いてるから自分も叩いてok、という醜悪さは、やっぱりあなたたちも小学生から進歩してないんだな、って思うときがあります。

それとは別に、もうひとつだけ、まっっっっったく世間の評価に「そうだ!」と思えないものが、あります。それは「ラムネーションは、テンポが良い作品だ」という評価です。
自分はこの作品は、ものすごくテンポが悪い作品だと思う。ただこれは、言葉の定義の差なだけかもしれませんが……。

「軽妙なテンポ」とは何か、というと、

(A)端的に笑えるネタを
(B)柔軟なグルーヴで連続してカマす

ということです。ラムネーションは(A)はクリアしていますが、(B)は落第です。

どういうことか。
(A)のネタのチョイスに関しては、これは趣味の問題なんです。けっぽし氏が「アメリカネタ」でいくと決めたんだから、そこはもう決定事項。しょうがない。あとはこのアメリカン・ウェイ的なネタが繰り出されるのが、このゲーム。
おおむねこのゲームはアメリカ関連と現実社会風刺とオタ関連の、しょうもないネタばっかりですが、ごくまれに「くすっ」とするものもあるのです。その大半は「しょうもないな」と思うものであっても、それでも笑いは笑いです。そういう点では、いわゆる感動系/シリアス系のゲームでたまに入るギャグがスベりまくってるゲームよりは、このゲームはちゃんとコメディをしています。
ネタのチョイスは、おおむねくだらなくても、それでも物量作戦というか、これだけ鉄砲繰り出してるんだから当たらなきゃ嘘だろ、という。
問題は、その笑いが、グルーヴにより「連続」しない、ってことで。

物語文章のグルーヴとは、とても難しい問題ですが、ひとことで言うならば「テキストの【音楽的リズム】」です。ラムネーションは、これがいろんな意味でとても単調だ。
いくつものネタが乱舞するのはわかる。でも、それはただまっすぐにぶつけられるばっかりで、強弱がない。前後の脈絡もない。単発のネタには、ひょっとしたら上のdaft punkのとこで書いたような歴史性もあるかもしんない。でも、それがずーーっと、一本調子で語られている。

「連続」しない、というのは、「一本調子である」という意味です。もっと簡単に言えば、ボケにボケを重ねて、おしるし程度のツッコミ(現状追認)を入れる、という。
きついなー、これ、きつい。ジャネットジャクソンじゃないけど、ここにはリズムネイションたる精神がないよ。
なんといっても、けっぽし氏のリズム感覚というのに、自分は一番失望してるのかもしれません。

……ポスト・ハイテンション作家(竹井10日の後継的な)としての、けっぽし氏に対する期待(外れ)、とでも言おうものが。

本作品はネタが大変多いです。しかし、そのネタを抽象化すれば……a,b,c,dとバラエティはありますが、それをd,a,c,bとシャッフルしても大して問題はなく。
さらに言えば、そのネタがブチかまされるグルーヴ感のなさ、が一番つらい。図式化すれば、

けっぽしリズム=たん、たん、たん、たん(BPM170)

くらいで延々と引用ネタをカマされても、こちらとしては、「はいそうですか……」としかいいようがないく。
このa,b,c,dにちょっとわかりやすく代入しても、

ラムネーションリズム=うんこ、ゲロ、洋画ネタ、ゲロ、武器ネタ、綺麗な風景、うんこ(以下エンドレスBPM170)


自分としては、ラムネーションをやってて一番つらかったのが、この「グルーヴのなさ」であるのが、本当辛い。あまりにもこのネタの並べ方が淡々としすぎている。クラブDJだったら即アウトなレベル。……方法論としては、そしてけっぽし氏のアイデンティティとしたら、クラブDJ的な在り方にあこがれを抱いてるんだと思うのですが、しかしこのグルーヴ感のなさは致命的だ!せめて、

(普通に良いリズム)=たん、たん、ヒュッチャチャチャ、ドンズムドンズム、たん、スッチャッチャ!、ズムズムドカカカ!

くらいのポリリズムは最低限必要なものだったと思います。

 そう考えれば……一番致命的なことを言うのですが、けっぽし氏というのは、「ネタを拾ってきて」、それで「ウェーイ」と笑っているだけで、実は「演奏(創作)」をしていないのではないか、と。要するに、DJで例えれば、レコードをdigはするけれど、playはしない、ということです。
 そして、個人的にさらに辛いのは……ラムネーションをプレイしていて、その引用ぶりに、新しい知見を得られることがなんもなかったということです。何か新しい映画を見てみよう、とか、新しい音楽を聴いてみよう、とか。そういうことが、まぁ、何も思わされなかった。
 ver1.0の感想で書きましたが、自分自身もロートルだから、多少のアップデートを「けっぽし批評眼」で得られるのではないか?という期待もありました。しかし、「コンテンツ解釈の哲学」にせよ、「ネタのDJプレイによるグルーヴのなさ」にせよ、どちらも「新しいアメリカ文化を、自分もインストールしたい!」と思わせるようなものに、なってないっていうのが……「アメリカ文化批評作品」として致命的に退屈で、つまらなく、何より意味がないと言えるのではないでしょうか。

 血が、流されていない。
 そう、何の血も、感じなかった。

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