残響さんの「恋と、ギターと、青い空。」の感想

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ゲームをクリアした人むけのレビューです。

これ以降の文章にはゲームの内容に関する重要な情報が書かれています。まだゲームをクリアしていない人がみるとゲームの面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。

サワヤカなレズビアン文学にして、ロードムービー的手法が生きている秀作!日本的「ライト百合」には到達できない、キラメキを放つ二人の旅は揺らぎもないアメリカンな詩情っ!でももちっとレズせっくすいれてもいいんじゃねっすか
百合とレズの違いはなにか? ごく単純に俺定義を言うなら、百合は
「まず肉体性のないところから精神性の恋慕をはぐくみ、結晶としてえっちがある(場合もある)」
で、レズは、
「まず肉体性があってもおかしくない(ていうか濃密に肉体性を意識して)とこから、やがて精神性へいく」
ようは肉体性が先かあとか、ということですが。

さて、この作品。「純愛レズビアン・ロードノベル」というキャッチコピー/ジャンルで銘打ってあります。
で、この「純愛」「レズビアン」「ロードノベル」という三点から今回のレビューは切ってみませう。

まずもって、冒頭でカマした俺百合/レズ定義から話すれば、この物語は「セックスから始まる恋」であります。
アマンダが酒に酔って、ジュリィを可愛いネコちゃん扱い(隠語)してノシてしまったわけです。性的な意味で。
そもそもアマンダは非常におカタいキャリアウーマンでしたが、その実レズビアン(同性愛者)。
ですがサンピンAVのように「満たされない欲を、仕事にブチこんで……」というものではなく、いたって「誠実」なのですね。
それはアマンダに、ちょっとの甘えも許されないというキリキリ感をあたえて。

で、ナッシュビルからはじまる、そんな珍道中。恋とセックスと音楽と旅。
it's アメリカーン、開放感!
という色彩にはなっていますが。が、その実、内省が非常に目立つ。

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● レズと百合、あるいはアメリカン・ブルースの肉体としての思考

このお話は、非常に「レズ」としての問題提起にあふれ、この社会のなかで、いかに自分の立ち居地や、ホームを得ていくか、という切実な思いが通奏低音になっています。
とはいっても、基本的にジュリィがあけっぴろげのポジ娘なので、悲壮感はありません。
ただ悲壮感はないといっても、内省がないということは、断じてない。むしろあけっぴろげだからこその悲しみというものもあって、これはひどくアメリカ的な悲しみともいえるでしょう。
ちょっと話しが抽象的になってますね。失礼。

百合の場合、「セックスからはじまる恋」はないわけではないけど、まあ邪道かなぁ、、という感じが個人的にはします。
まず体かいっ!という、なんか百合的な「淡い精神性」を邪険にするようで。
しかし、本質はそこにはないのかもしれません。というか、次の本質の前には……。
要するに、百合とレズの違いは、「肉体性」をより考えるか否か、です。
百合の場合、形而上的な「概念のとしての、思弁性としての恋愛」にいくところがあります。
だからこそ、百合の場合、「属性」とか「カプ論」にやたらとこだわる。「まなざし」のあり方ひとつにしたってこだわる。

対し、レズの場合、肉体性をはじめから考える恋なだけあって、「概念性」は薄い。
思弁も、肉体と肉体のふれあいからはじまるようなものとしての思弁。

で、この物語の舞台はアメリカ。
お察しのいい人は、アメリカン文化に詳しかったら気づくかもしれません。
この物語がレズを志向している(百合をあんま志向しない)のは、肉体性をまずもってやるのは、
アメリカ的肉体性恋愛感覚……いやもっといえば「聖と俗を混ぜ合わせた概念体系」とでもいうべき、ブルース文化、ゴスペル精神によるものだ、と。

ブルース、という音楽があります。そこから派生したり融合したり進化するジャンルとして、R&Bやゴスペルやファンクがあります。ヒップホップだってそうだ。
このなかで、ファンク……まあ簡単にいえば「黒人演歌」っていうものなんですが、非常にクッサいクッサい音楽があるわけです。そのやりかたは、コール&レスポンスで、低音ブリブリ、ファンキー歌唱やホーンセクションが祝祭的に!

ですが、ただの享楽的な音楽か、というとそれは違う。
ここでファンクをとりあげたのは、ファンクの偉人、ジョージ・クリントン率いる「Pファンク」という変態黒人ミュージシャン集団を形容することばがあって。

「Pファンクは、踊りさせながら考えさせる」

肉体性の音楽が、考えさせる?
これには、もっと深いところがあります。

今作「恋と、ギターと、青い空。」中盤で、バーのマスターが、ジュリィの歌に足りないもの、と訓戒をたれます。
それは、ルーツである、と。自分のうたが自分のうたたらしめる……自分を見つめて、その深部たりえるルーツ。
プラスして、音楽に必要な三つのもの、といいます。
・祝祭
・労働歌
・祈り
これが、ルーツと並んで音楽に大切な三つのもの、と。

ここで一気に話しは南北戦争以前の、アフリカ大陸から黒人が奴隷としてつれてこられた歴史にうつります。ざっと黒人音楽のはじまりを概説すれば、日々の過酷な労働のなかで、黒人たちが連帯し、自分たちの人間性を確保し、日々の疲れを癒し、「苦難に耐える黒人であること」が、やがては土着的な救いに至るのだ、という概念。「そういう生き方を俺たちbro.(兄弟)は長い間続けてきたんだよ」という共通概念にして、祖先から続く黒人的宇宙概念。……と知ったよーな口をたたくぼくが非常に恥ずかしいわけですが、さっきの「音楽に必要な三つのもの」は、こういう黒人音楽的、南部アメリカン的概念から生まれているもの、といえます。同時に、「肉体が思弁、観念、概念になる。踊りながら考えさせる」とは、ただ騒ぐだけじゃなく、音楽そのものに歴史性があり、また音楽を取り囲む文化にも歴史性がある……苦難に満ちた歴史性が。

ぐだぐだ書きましたね。
ようは、それが「ブルース」なのです。
それは殴られ続けてきたものたちが、それでも人間性を失わないようにする、という文化です。
阻害されてきたものたちが、それでも俺は人間なんだ、と叫ぶ文化です。

アメリカには、この文化がある。まあだから、アファーマティヴ・ファンクションのように、「制度でもって弱者を救済する」という方面にもいくのですが、それの成功はさておき、ともかくも「世界(やつら)対、俺(たち)」の文化が、日本のマイルドヤンキーの比較じゃなくある。

さて、そのような「肉体性から、考える」という文化性、概念性は、レズと非常に相性がよく、百合(とくに日本的「湿った」「小さい世界の」百合)とは、相性が悪い、といえます。
ていうか、そもそも「女どうしの同性愛」で「今のアメーリカーン、ヤンキーっ!」っていう方面で筆を走らせるとなったら、こういう方向になるのは仕方ないよね、と。

まあ売れるかどうかはさておき、個人的には……アメリカ文化を昔ちょいかじった(主にジャズから)立場としては、この描き方は、シンパシーを感じるものでした。同時に、ぼくは日がな日本的な「湿った」「小さい世界」の百合を愛好していますが、こういう物語も実にアリだ!と断言します。なぜなら、根底に「肉体から考える」ブルース魂があり、そのなかで生きるタフな女性たちの精神があり……常に考えることをやめない、求道者としての真摯な姿があるからです。百合もいいけど、こういうサワヤカなレズもいい。

とはいいつつも、この物語……おお、やっとゲームのレビューに戻ったぞ。この物語は、最初と最後にしか、セックスの実際は描かれないのですね。
コレは、この物語の欠点かもしれません。
レズせくーす描写が不満、ということはありません。しっかり丁寧に描いてあります。だからこそ、旅の過程での、ただれたせっくすを、もっと入れてほしかったなぁ、と。
それよりも魅せるドラマがある!との意見には、確かにそうなんでしょうが。無理にいれるよりははるかに品がよい、といえるのでしょうが。しかし「実際にセックスがある」という描写を通してこそ、そういった量としての「かさ」を通してこそ、描かれるもんもあるでしょっ!

もっとも、その分、最後の「祈り」の性交……赦し、でもあり、やはり「肉体性から概念へ」のものでもある、性交は、たいしたもんだなぁ、と思いましたが。


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● ロードノベルと「家を求めての純愛」

ぼくが最高に好きな分野でしてね。「旅もの」。ロードムービー的。
まずこの作品は、「同じ音楽を続けない」という美学があります。だんだんと都会にいくにしたがって、ちょいロックっぽくなるとこなんか、細部にこだわってますねえ。
それだけ「移動」にこだわる。

もちろんこの「移動」は、最初はアマンダの「逃げ」「開放」からはじまるもんでしたが、やがて道連れ・ジュリィが「過去から逃げてる」ということが明らかになります。

移動……旅行とはなにか、ということで、昔、村上春樹が「なんだかんだで最後は帰ってくること」と述べています。ただし、「旅立つ前とは、いくぶんかものの見え方が違ってきて」と。
おそらくそういうことなのでしょう。……といってしまうと、ここでレビューが終わってしまうので、もちっとだけ話しは続くんじゃよ、的続け方をすれば、そもそもこの旅は……いずれはアマンダはもとの生活に戻る、というのは確定でしたが、それでもなにかは違ったかたちになって、それからの日々がまた違ったキラメキによって彩られていく、というモチーフになっていることは、物語読んでてわかります。典型的パターンです。

では、ジュリィはどうなるのでしょう。逃げ続け?
そこで、エミーの存在。彼女の出方は、あまりに出来すぎ、とも思いましたが、そうでもなかったらこの物語内でどうやってジュリィが過去とのケジメをつけるのか、というのは考えどこだったと思います。

ジュリィは、過去から逃げてきました。しかもその過去ってもんが、生まれきたそのものから、という。その時点ですでに暴力はあって、、その影からずっと逃げてきた。
逃げる以外に道はなかった子供であります。でも、逃げ、もまた、一つの行動であり、彼女はタフだった。

タフとは、なんでしょう。
タフとは、理屈でいえば、「世界(やつら)」と相対していることです。
だって、すべて愛されていれば、タフになる必要なんてない。

それだけ、傷を抱えて、生き続ける。自殺という選択肢はない。そして、堕ちるということは、彼女自身が許さない。
ジュリィは、自分が見据えた輝きのため、生き/行き続けます。それが、強いというあり方なのでしょうが、それでも傷が癒えたことにはならない。

傷を癒すためには?
たとえちょい依存気味であっても、それまでそんなものの味を知らなかった「子供たち」……アマンダも、ジュリィも、エミーも、みな子供なのです。
だから彼女らは、最後に「家」を作ることを考えるようになります。
それは夢みがちな願望。でも、家を作ることが、許されないほどの願望なのでしょうか。

それは、言い換えれば、レズビアンたるアマンダとジュリィが、「愛し合う」ということを素直にカミングアウトできなくて、もがいていたことともつながります。

このお話しは「成長」……というととても安っぽくなってしまうのですが。
というよりは、「ひとつ、痛みを飲み込んで大きくなっていく」のほうが体感として近いかもしれません。

移動は、逃げでしたが、自らこれからの人生を作っていく……「家」を作っていくことは、逃げでもなく、ましてや「あきらめ」でもありません。「結局我が家が一番だよ」の言葉の重みは、ここでは通俗な意味を持ちません。もっと崇高なものです。

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●口づけ、と、キリスト教

最後のえちシーンで、ジュリィは「暴力のあと」を見せます。ここまでよく隠してこれたな……といわんばかりの。

さて、アマンダはそれにキスをします。そこからせくーすの怒涛の流れで、ぼくが最初に賛美したとこですが。
ここ、深読みすれば、キリストが「赦し(ゆるし)」を与えるとこと、非常に隣接しているように感じるのはぼくだけかしら。

いや、そもそも「やつら」側の人間が、カトリックだった、っていう伏線は張ってあります。そこから、一気にそれを逆にとって、「肉体性でもって伝える赦し」=傷に接吻、をかます、という、概念性。

この概念性は、やはり百合というよりは、レズのものでしょう。まあ百合だレズだ、という区別をあーだこーだするのも無粋かもしれませんが。
でも、どうしたって、アマンダとジュリィの関係性は肉体性があってのもの。と同時に、それを昇華させて、深い精神性……それこそブルースにまで繋がる精神性を導き出すのは、ぼくからしてみたら、「レズビアン文学」として、この「恋と、ギターと、青い空。」というのはあるのではないか、と思ってしまうのですよ。

最後に。ED曲ですが、これ「スターになったばかりのジュリィが、ちょいオーバープロデュース気味にアレンジ加えられた歌」って解釈してみたらどうでしょう。
表層的な部分でのアレンジは、ちょいエレクトロニカっぽくて軽薄かもしれませんが、実は歌の心底のブルース魂ってもんを薄めるようなアレンジにはなってませんから。そう、彼女の歌は、高く青い空に響きわたるっ! 傷を、乗り越えて。

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