Sek8483さんの「きみはね 彼女と彼女の恋する1ヶ月」の感想

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**ネタバレ注意**

ゲームをクリアした人むけのレビューです。

これ以降の文章にはゲームの内容に関する重要な情報が書かれています。まだゲームをクリアしていない人がみるとゲームの面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。

文・倫こそ至高なり。ひれ伏せその他のカップリングどもっ。……みたいな闘争心とかのもろもろは、天使が羽ばたくとオフショアにさらわれて、彼女らへのまなざしだけそこに残っていく。安らかな距離の物語でした。

 やさしい音楽がずっと流れてく、寄宿舎のせまい日々のなか。住人はなつかしいひとびとだけ。テスト勉強で夜なべしたり、せいいっぱい部屋を飾りつけてパーティーひらいたり、髪を結い合ったり。そんな三人のおなじみのやり取りをそばで眺めているうちに、すっかり人心地ついてしまい、四人部屋だからひとつ空いてるベッドに上がってうたた寝して。誰かの声で目が覚めたら、またひねもす眺めやるだけ。毎日はかんたんにハッピーで。そんな小さなお話です。

 その一方では、ちょっとした仕掛けや衒学趣味をオモチャみたいに散りばめてもいます。名作映画のタイトルや物理学の用語が出てくるけども、それらの喩えはなんとも蛇足っぽくて、この物語のどーでもいい額縁となるようにシナリオ構成がされてるふうに見えました。生き生きと色づいていく彼女たちの物語が今こうして流れてるのだから、美しい廃墟のような喩えも、あるいは永遠なる天使も、指をくわえ見守ることしかできないわけですね。

 しかしながら罪深いわたしは、文のえっちくてあどけない瞳が笑うから、そのふわふわボディに飛び込みたくなっちゃうんです。よしよしって、なでて欲しい。パシンパシンって、しつけて欲しい。おい倫おまそこ代われ、いやむしろわたしがっ、わたしが倫なんですっ(錯乱)。ダメならアーサーでもいいです。わたしがアーサーだ (文さんちの飼い犬)。……だって混ざりたいんだもん。だってわたし天使じゃないもん。

 百合ゲーはよくわからないので、かように視点の置きどころに迷いつつ、次のようなことを書きました。

1, 三人の空間をゆっくり織りなしていくシナリオが丁寧だけども、文の目つきはすっごくえっち。

2, 映画などの小ネタ、音楽や天使の在り方により、ただ彼女らのしあわせのみを色づける物語だった。

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 1-1, 間の遠いテキスト

 居心地よい空間を作り上げていってくれる『きみはね』ですが、テキストがとても静かに丁寧に動いており、勢いまかせになることありません。ゆっくりお話を動かしていても、ぐらつく様子や中だるみする様子がなく、倫が見せたバレエの基本動作みたいに足腰からしっかりした文章。女の子たちが騒ぐところを、そっけない地の文のリズムにより適度に落ち着かせたかと思えば、ぼそっとつぶやくような愛嬌を見せたりもしてよいです。

 特に、オーバーリアクションに頼ることない、抑制を利かせたコメディは好感でした。繰り返しパターンが多めだったけれど、飽きないように間をとっておくし、ときどき定石を外してしまうから楽しいです。例えば、倫のメガネ探しとかは "冷蔵庫→電子レンジ" と天丼したところで "→文のベッドの中" へと持ち込んでしまい、ふたりの恋の秘密をヒヤリとさせる。そこで陽菜に「何でだよ!」といつもどおりの鋭いツッコミ (=全然気づかないボケ) をさせて、後ろめたい秘密を素通りさせたのは巧いです。あらかじめコメディでもって心配事をさらりと笑っておくから、フィナーレでの陽菜の祝福にはシナリオから言わされてるぎこちなさがありません。こうした虚をつく展開は、冴えてるなぁと感心してしまいます。

 フリとオチがゆるやかに間延びしているのも特徴的です。作品を締めるオチとなるのが「とりあえず部屋においでよ。ケーキあるよ。わたしも今日が誕生日なんだ」というセリフなのだけど、その前フリとなっているのが陽菜の誕生日パーティーを相談しはじめるとき (ch.2)。
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 【倫】「日も近いことだしクリスマスと同時開催でよくない?」
【陽菜】「よくない! あたしはキリストか!」
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あるいは祥子がクリスマスの予定を決めないでおいたりもする。さりげないというか、特にプレイヤーの意識に上る必要すらない伏線がいくつもあって、作品のゆるみきった空気をよく醸し出しているように思います。

 その地味で仕込みの長い巧妙さは、キャラづくりによく活きています。例えば、初日にみんなで寮に帰ってきて倫が封筒を受け取るシーン (ch.1)。倫が家庭にわだかまりを持っているらしいという、最初の (そして以降はほとんど語られない) シグナルなのですけど、ここでは文だけがふっと真顔になって何かを察している。
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 祥子はポケットから取り出した封筒を倫に手渡す。倫はほとんど見ないでそれをポケットに突っ込む。
 【文】「プリントでしょうか?」
 【倫】「たぶん、ね」
 【文】「…………」
【祥子】「そうだふーみん、トマト煮余ったらさ――」
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話をさりげなく流してくれたっぽい(?)祥子なのですけど、ここでは上手いことセクハラ働きもしており、こねくり回された陽菜はとても封筒どころじゃなくなっていました。
 そうして陽菜と文それぞれの、倫の家庭事情 (弱み) への把握は正反対になったわけですが、このあたりの差異がカップリング関係へもつながっていきます。ワンコとしてお腹をあけっぴろげに見せていく陽菜と、密やかにすべての主導権を握っていく文という、それぞれ向きの違った倫へのアプローチをすでにここから編みはじめている。丁寧です。

 倫はそのように弱みを見せたがらないキャラで、普段はおどけて陽菜たちをからかうばかりだから、バレエの手の内でふたりをビックリさせたりします。「倫はもっと自分のこと、話してくれたらいいのに」となる。あるいは陽菜がトイカメラについて語るときの熱の込めようにも、やはり残るふたりはビックリしていました。
 それと対照的なのが、文についての情報の出し方 (ch.3)。
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 【文】「それじゃ、実家に行ってきます。晩ご飯までには帰ると思います」
【陽菜】「毎週、ご苦労様だね」
 【文】「まぁ、近いですから。それでお母さんが安心するなら」
 文は少し苦笑気味に答える。
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「毎週」「先々週だってその前だって」こなれた会話によって、三人の間ではもう当たり前となっている事実を、プレイヤーは後から確認するかたち。なので、文が普段から何でもオープンにしてしまっている子だという印象がつきます。父親のように "重大なこと" をひとりで悩む倫とも、子供のように "今日あったこと" を報告してくる陽菜ともまた違った、"自分だけの時間" をもたない母親めいた立ち回りをする文です。日記帳の中身すらもシナリオ上あっさりバラされてしまうのです。
 こうしたキャラ印象が作られていた彼女であるからこそ、文・倫カップリングでの逆転がいっそう驚愕ものになるのですよね。日常の細かなイベントでは何もやましく隠すところなかった家庭的少女の、本人すら知らない一面が生まれる瞬間がすごい。カップリングという型があるジャンルゆえにか、そこへ向けてキャラを作る手つきがとても繊細なのは好感でした。

 一方でひっかかりを覚えた点をあげると、(地の文の仕掛けについての表現なのか) やや不自然にイベントを小刻みカットする傾向がありました。さほど目くじら立てるほどでもないのですが、ただ一箇所、人をダメにするおっぱいのところは不満です (ch.2)。ひざまくらをしてもらって、じゃれあって陽菜が文のおっぱいを触っていたのに、「いつの間にか見つめ合っている二人」ちょっと冗談じゃない雰囲気に入り込んでしまっている。このとき、一度仕切り直しみたいなカットエフェクトを入れたのはやや水を差すもので、"空気が変わったいつの間にか" をシームレスに描き通して欲しかったです。

 加えて、これは三人称視点を徹底させたゆえでもあるのだけど、地の文の舌足らずさをもどかしく感じてしまうときがありました。例えば、天使の羽根を追っかけて十二月の川へと飛び込んだ陽菜が、風邪ひいて寝込むシーン (ch.3)。気恥ずかしそうに「えへへ……」笑っている陽菜と、おろおろ気をもむ文のところ。
 あのときに汎用グラの陽菜の顔をしらっと映して、第三者視点の "光景" として見せてしまったのはちょっと味気なく思いました。「えへへ……」と弱った声からわたしに喚起されていた "イメージ" での陽菜は、もっと熱ダレして人に見せられたものじゃない、もっとずっときれいな顔してたのです。文ちゃんの羽根は取り返してきたぞ、という、誇らしげな39℃の真っ赤さですね。悪ガキかよ。すごい。こんときの陽菜は、子供で、熱に浮かされていて、屋根から屋根へと八艘飛びしていき「……羽根があるのか、あいつは」ポカンと呟かれるような聖なるもんなんだから、その姿は絵に描かないでおいたほうが良かったと思うのですよね。
 でも天使は色を知らないから、あの真っ赤さをプレイヤーにありありと伝えるようなイメージ描写はやりづらくて、テキストの手が縛られております。
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胸を大きく上下させて熱い息をつく陽菜。
それを見つめている文。ぎゅっと噛みしめた唇はきっと色を失っている。
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このあたりの丁重な距離感こそ本作の特色ではあるものの、他方で、もったいなさを感じないでもありませんでした。


 1-2, 文さんのことなど

 やや舌足らずであり "モノクロの感情" をもった地の文を特色にした本作ですが、そこをカバーしつつ個性を発揮するのが、作家か何かみたいなどてらジャージ姿の倫でした。彼女はしばしば、地の文に代わり生き生きとした表現をひねり出して、文や陽菜の「素敵な感じ」へと名前を付けていってくれます。例えば、文についての「若妻感」発言もそうですし、あるいは陽菜の髪について (ch.1)。
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【陽菜】「夏休みの匂いがするって倫に言われたことある」
 【文】「それはちょっと素敵な感じがしますね」
【陽菜】「汗臭いってことじゃなくって?」
 【文】「それはないと思いますけど。お日様の匂いってことじゃないかなぁ」
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「夏休みの匂い」。汗臭いはもちろん、お日様の匂いでもまだ少し言葉足らずなようで、カメラにのめり込む直情さへの憧憬などをもそこに含み、倫のする表現はしっくりきています。彼女はとてもよく陽菜たちを観察している。そして逆に、倫にもらったなにげない言葉を陽菜が心に留めてたり、文がその意味を案じてみたりするうち、この場にいない倫の言葉づかいへの信頼までも感じられて。三人の互い違いのつながり合いに羨ましくなります。
 しかもその倫はといえば、すらりと動く長い手足のバレエであったり、指通りもすべらかな黒髪でもって魅了してしまうのですから、もういっそ卑怯です。女の子の長い御髪はやっぱり夢をふくんでいますよね。手を尽くして綺麗にしたい欲望をさそわれるし、それをさせてもらえる関係そのものに憧れますし。髪洗ってあげたりとか、梳いてあげたりとか、便器に謎のキラキラ吐いてるとき下へと垂れてしまわぬようにささげ持ってあげたりとか、そんな夢をまとっており素敵です。

 さて、わたしがグラフィックでいちばん魅せられたのが文の「若妻感」でした。あの目ですよ。キャラ絵の輪郭はふんわりしているというのに、目がえっちぃ。目端がきゅっと細まった切れ長のタレ目が、すごく色っぽくて、角度によってはもう狡猾そうですらあります。「可愛い子と遊ぶんは楽しおすなぁ」と後輩女子を次々ぱっくんちょする京都弁の生徒会副会長 (腹黒) とか、そんな役柄もやれそうな感じの目。
 ところがです。この子は、目の表情が実にはきはき動くのですよね。驚いたり上目遣いになったりすると形がまるっこくなって、まばたきする間に、顔全体の印象を幼きものに変えます。なので、天使がいるかもと素で口にしてしまう、彼女のあどけなさをいついつまでも見守ってあげたくなります。立ち上がるときに「よっこらせっと」声がもれちゃう素朴さをただ愛でてたい、なんて見とれていたらば、またも彼女の瞳はシュッと細められ、ちょっと冷ややかに美人めいてしまって――
 もうわたしは、いずれの顔を文として覚えればよいのでしょうかと、外見の二面性にたぶらかされ身もだえしてしまいます。彼女の髪の色味はふんわり薄いゆえ、まぶたの黒がいっそう際立ってかたちを変えていくのです。おとなしい性格とは裏腹な、ころころと動きまわる目の印象、そのギャップにいちいち誘惑されてしまって。だから、ついに内面のほうからも二面性を見せてくれたときは、生殺しにされてきたところにやっと決着がついたような安堵感すらありました。こういう子だったのかと、ようやくひと安心、ん?
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そして倫は倒れ込むように文へと顔を寄せ――
【文】「あの……」
【倫】「え?」
【文】「出来たら、鍵を……」
教室のドアをそっと指差す文。
【倫】「あ、そうだね!」
倫はあたふたとドアへと駆け出す。
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いやいや文さんこわいかわいい無自覚こわいこわいかわいいぃ。恋人の手づから自分を閉じ込めさせることで、逃げ場を失くさせるためのお願い(命令)。てふてふ駆け出す倫の足もとに、文さんの蜘蛛の巣があやなされていくのが見えるかのようです。とうとう陽菜に痴態がバレてしまったときにも、逃げ出そうとする倫の首根っこをがっちり掴みながら「あの、今日のコレはわたしのいたずら心で、今後の主導権はどうなるかはまだ……」とか、しおらしいのはお口だけじゃないですか文さん。やだ。可愛いすぎる。

 グラフィックの変化に思いきり心ゆさぶられてしまったぶん、文役・花澤さくらのいつでも可愛くて元気なCVからは、安心感をもらいました。くすぐるような高音が心地よいのですけど、それとともに、ぜったいに可愛さがへこたれることないのですよね。いつも変わることなく、そこに居るだけで、セリフひとつひとつが周りをぐいぐい元気づけてくれている印象を抱いてしまう。そんな声のトーンが好いです。
 「さしすせそ」の摩擦音を強めに出してアクセントも乗っけるので、かなり押しの強い口調にはなってくるのだけど、それをいつでも一生懸命な印象や、真面目で折れない印象といったかたちに落とし込んで、声づくりしてしまうのが魅力的です。優しくてぜったい怒らないけど、いざ怒らせたときが恐ろしい、というか一週間は口きいてくれなそうな文CVで「ピーマンとニンジンも食べないとダメ」とか言われたら、さしもの倫も逃げきれないわけでして。ほんわかしたりエロかったりとグラフィックが変転していた文に、"母親役" としてのやんわりした芯の強さを入れてくれました。テンションをよく保ったお芝居をして、根気よく優しさふりまく女の子を形作ってくださる声優さんと感じます。
 CVのなかで音がひとり高めで目立つからか、短いセリフひとつで耳をもってかれたところも多かったです。急な大声にびっくりしたときの「わわっ?」とか、「プ、プミポっ」と笑いのツボに入ってしまったときとか、「苦……」コーヒーにきゅっとすぼまる声とか。あるいは倫の髪にふれたときにする、息を呑むお芝居とか。倫と陽菜がボケとツッコミになり会話をよく回してくれていたけど、そうした形式へと自由におりこまれてく文の声には、思わず知らず耳をくすぐられました。
 ときに、続編発表おめでとうございます。これを機に、『文さんちの犬になってお散歩に連れていってもらったあと寝るまでかいがいしくブラッシングされちゃうボイス』とかが発売されたりはしませんでしょうか。ノミ取りとか、おなかを素足でうりうりとかされたいです。



 2-1, ただ在るだけの音楽

 グラフィックやCVではわかりやすく華のある色彩の『きみはね』ですが、音楽やシナリオがそれをシックな色調へと仕上げています。そうして物語をコンパクトにとりまとめ、中身の詰まった作品になっていました。

 特に本作BGMのありようにはまるで主張が感じられず、『きみはね』の空間によく溶け込んでおり好みです。「北風アルペジオ」とかは、ギターが日ごとの思いつきみたいにして弾かれ、焦ることない足どりでピアノに絡んでいくのが居心地よくて。だから気に入ったシーンを見つけるたびたびプレイを小休止しては、耳をそばだてるでもなく、ひたってしまいました。イージーリスニング。ただ、この好ましさは単に楽曲が良かったという話ではなく、むしろBGMにぴったりのシナリオが付いたことによる気がしています。

 一般にエロゲをやっているとき、ヒロインが感情を爆発させるその瞬間に、BGMがぐわっと盛り上がってくることはないのですよね。なにしろヒロインが感情を見せるタイミングを決定しているのは、プレイヤーのクリック速度なので、そこへぴったり合わせて楽曲が感情表現をつけるのはどだい無理なわけでして。アニメや映画のような、お話の尺から逆算した秒単位のタイミング合わせは叶いません。そこでループを前提にした、まんべんなく使い勝手よい (金太郎飴のような) 曲を制作することになるわけですが、すると今度は当然ながら、シナリオ (あるいはCV) が思いきり興奮した声をあげたりすると、音楽が整えていたトーンからは逸脱していったりして。これは多分もうどうにもならないことですね。

 けれども本作のように、そもそも起伏の少なさを善しとするシナリオであれば、ループ前提のBGMのなかへすんなり収まってしまえるところはあると思います。『きみはね』のシナリオは、例の仕掛けもふくめて "モノクロの感情" でもって全体を包み込んでいるようなところがあります。倫たちがちょっと黄色い悲鳴をあげたところで、地の文がやや無感動にとぼけたことをいって、やわらかなキリン色 (文のパジャマの色) くらいのトーンにまで物語を抑えておきます。おまけに、倫のメガネ探しだったり、どのカップリングの進展も三人目がお邪魔虫してしまったりと、同じネタをゆっくりループさせていくから、なお物語はスローダウンしていきます。『きみはね』のBGMはわずかに六曲だけですけど、せまい幅だけを物語がこんこんと反復してゆくから、それでもう必要十分なのでして。短編エロゲのBGMというのは、しあわせなのかもしれません。

 イージーリスニングとか、ヒーリング・ミュージックとか聞くと、わたしなどはうさんくさい印象をもってしまいます。そう名付けてしまうことで「私はイージーリスニングしてるぞ!」必死に安らごうとする意図があるようでチグハグです。一夜にしてひつじ三千匹をも数えちゃいそうな意気込みというかなんというか、ひつじが一匹、ひつじが二匹、ひつじがアスピリン、ひつじがアンフェタミン、ひつじがエチゾラム、ひつじが……。
 倫たちのお話には、そういった目的とか意図だとかのハードなことがそもそも含まれないので、これら六曲のBGMがちょうど鳴っているところまでの空間のなかで、あやふやに物語が閉じているのですよね。だからこの音楽は何を為すでもなく、しあわせなほど物語と互い違いに混ざり合っています。陽菜のカメラとか、文の赤い靴とか、倫の家族関係のような、物語でさしたる意味をもたない小道具としての音楽。彼女たちの部屋の家具のひとつみたいなもので、「音楽で私の感情を伝えよう!」とするような安直さがなく、ただそこに鳴っているだけなのが心地よかったです。


 2-2, 原典とかどうでもいい

 『きみはね』の三人の空間は、意味でがんじがらめにならず、難しいことはひとつも追求しないので居心地よかったです。それはけっして子供だましなテキストだけオウム返しにするたぐいの、物語の怠慢ではなくて。あえて衒学趣味を全力スルーしていくような、手間暇かけて調えられたルーズさでした。

 例えば、マグカップ片手の雑談に、こんなくだりがありました (ch.1)。
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   【倫】「悪魔のように黒く、地獄のように熱いってね」
【陽菜・文】「???」
   【倫】「いいコーヒーの条件。昔の人が言ってた」
【陽菜・文】「へ~~」
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本の虫である倫が、タレーランを引用したわけですが、その後につづくべき「天使のように純粋で、恋のように甘い」という文句は口にされないままなのですよね。陽菜と文があまりにも素直に感心してしまったので「これには続きがあってね」とかいうのもこそばゆいし、そもそも後の句など蛇足になるくらいにもう、彼女たち自身の在りようが純粋で、恋のように甘いです。それで気恥ずかしくなったのか、ふたりの顔を見ているうちに使い古しの格言がバカらしくなったのか、倫がここで言葉を止めておいたのにはよく共感できました。

 このような、知識量のデッドヒートへ向かうことない会話は、ありふれたようで、しかし、ありがたいものだと思います。
 例えば『ひだまりスケッチ』で沙英が文学的な言い回しをしたりしても「へ~~」って素直に感心されちゃって、それで終わるみたいなやつ。例えば『ゆゆ式』で唯がちょっとしかつめらしい説教をぶったりしても「へ~~」って素直に感心されちゃって、それで終わるみたいなやつ。
 「へ~~」っていうお口があまりにも開けっぴろげだから、それを眺めているうちに自分の言ったそれっぽく偉そうなセリフは宙ぶらりんになって、もうお前らには敵わんなぁって、こっちの口もとがゆるんでしまう空間。ここでは正しき言葉を正しき方向へ投げてみても、それはゆるんだ空気の上をすべって散乱して、やがて溶け込んでいってしまい。そんな会話の道づれに、物語そのものまでがどこまでもスローダウンして気散じになるのです。肩こりもほぐれていき、お話の向こうにある何かしらを探り出す必要もないまま、あとはただただ見やるだけでよくなれます。

 『きみはね』のお話の空間においては、外付けの知識を引用してみたりしても、ことごとくきまらないんです。例えば、ひょっとしたら三人のなかに天使が紛れ込んでるのではっ、と文が目を輝かせたこちらのシーン (ch.3)。
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 【倫】「わたし、天使の見分け方知ってるよ」
 【文】「ほんとですか!?」
【陽菜】「えーー」
目を輝かせて食いつく文とひどく眉唾な陽菜。
 【倫】「ナイフで指を切って、その血をシャーレに取り、電極で熱すれば……」
【陽菜】「????」
 【倫】「ごめん、なんでもないです……」
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元ネタは『遊星からの物体X』ですけど、すべってる! 見事なまでにすべってるよ倫さん! 純真無垢のまなざしでキラキラ見つめられるなか、なおもそのネタを言いやがった蛮勇だけはすごいね倫さん謝って、期待してた文ちゃんにもっと謝って! (……というかわたしこの手の自爆をわりとやるので倫にはなんか親近感がww)
 この直前にあった天使の羽根についての推理劇()では、「タバコ吸うなら出てってよ!」と部屋から追い出される祥子が、そのまぎわに「あ、最後にひとつだけいいですかね?」という、『刑事コロンボ』のモノマネ。しかし誰ひとりとしてこれを拾いやしない。ジェネレーションギャップに落ち込む祥子とかでオチをつけるわけでもなく、最後まで投げっぱなしジャーマンをきめ込みました。いずれのネタにしても、女の子たちの百合空間へと、よりにもよって爺むさいネタを投げ込んだものですよ。

 原典知識がかたなしになってしまう傾向は、カップリングを名づけるため引かれた映画タイトルにも及んでいます。
 例えば、倫・陽菜カップリングにそえられた『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』。カメラマンだった親とか、「本を読みすぎるのはよくない」とか、エロ本を朗読させられたりとか、ワンワン吠える子と出会うことでざんぎり頭の女の子が淑やかに変身してしまうとことか……細部のところに微妙な対応関係はあるのですけど、映画がもっていた切実な側面はきれいにスルーされた印象です。陽菜がワンワン吠える姿はあんなにも無邪気なので、あの映画の主人公を重ねて見てもどうにもチグハグなんです。
 あるいは陽菜・文カップリングの『プリンセス・ブライド・ストーリー』。風にさらわれた天使の羽根を陽菜が追って窓から飛び降りたのは、あの "狂気の断崖" からジャンプするかのごとき勇ましさでしたし、風邪で寝込んでいる姿であったり、結婚式のおどけた誓いの言葉だったり、そこへ花嫁を奪いに乱入したり。元の映画を想起させるシーンはあるものの、こちらもやはり、映画を引き合いにしてみても得るものは少ないのかなと思います。モチーフの深い意味合いとかはさほど厳密に考えてなさそうというか、根っから不真面目だったのではないでしょうか。

 ところが、この不真面目さこそ本作の美点なのかもしれません。教会のなかでごく普通に同性愛にふけってゆくルーズさ。もろもろの原典からは面白い絵面だけを拾っておき、身も心もほぐして、倫と陽菜と文の小さな日常にある彩りのみ描ききろうとしたことを、わたしは尊く思うのです。わたしが今したような「聞いて聞いてこんな元ネタがあるんだよ! (比較できんだぞすげーだろぅ)」みたいなやつは馬に蹴らせておいて、『きみはね』はただ人の恋路のみを、穏やかなタッチで描いていきます。そのしあわせの色を描きます。

 しあわせの色というのは赤色。クリスマスに向けた本作において、緑地のモノトーンが作品の基調色になっていたのですから、そこに描き加えるのはやっぱり赤ですよね (この作品カラーはまた、日本人男性の約5%、女性において約0.2%がもつ、赤緑色盲を連想させるものとも思えます)。
 赤色は、彼女たちの「Memories of Christmas」をひらくとき画面に付けられる彩りであり、陽菜のケーキにのっていた苺の色つやであり、文がいったんは失くした靴の色合いであり。そして「プリンセス・ブライド・ストーリー」のエンドロールのあとに陽菜と文が贈りあった、あのメルヘンチックな赤い靴の色です。

 赤い靴というと、それはいかにもしあわせの象徴であるとともに、その裏手に悲劇をしのばせたモチーフでもあります。「赤い靴 はいてた 女の子 異人さんに つれられて 行っちゃった」の童謡などもありますが、本作をかんがみるとアンデルセン童話の『赤い靴』をどうしても連想してしまいます。色のわからない老婦人にねだって手に入れた赤い靴をはいたまま、戒律上、無彩色の装いをしなければいけない教会に出席したことで、その傲慢さをいかめしい天使には裁かれて、ついに足ごと切り落とすはめになるお話。"ほんとは怖いアンデルセン童話"。
 この "ほんとは怖いアンデルセン童話" みたいな穿った真実というやつを、『きみはね』は赤い靴をはいたまま蹴っ飛ばしちゃうのですよ。三人の満面の笑みが、そんないかめしい教訓やら悲劇の予感やらは、この部屋の外へと追い出してくれています。くりくりまなこで赤い靴を見つめて得意顔な陽菜 (かわいいっ!) おそろいになった偶然を喜んでほんわか目を細める文 (かわいいっ!) 「わーい、わたしどてらだー」と枯れ木も山の賑わいな倫 (かわいー)。そんな姿をこうも鮮やかに見せてくれるのだから、その赤色はただもう純粋なしあわせでしかありえないです。それは小さな頃の文が、お城に上がるつもりになって父の洋菓子店へ向かって歩いたときの、あの大切な靴のままここにあって。この花たちを誰が裁くというのか。

 おとぎ話などから引かれてきた喩えとか、おざなりな物理学用語とか、あるいはモノクロ世界にいる天使も、『きみはね』のお話にとってはどうしようもなく蛇足で、だから指をくわえてそっと見とれるだけです。古い時代には、思わず口をつぐんでしまうようなものを天使と呼んでいたわけだけど、今ではもう、彼女たちのような、思わず笑ってしまうようなもののことをそう呼ぶわけで。
 そんなふうに物語の蛇足としての天使とか喩えとかを周りへ散りばめると、いっそう倫たちの生き生きとした色彩を映えさせています。脳天気に百合がよい百合がよいと言い立てるわけじゃなくて、言葉の裏でもってモノクロなものを部屋の外にささっと掃き出しておき、しあわせの色だけ詰め込んだコンパクトなお話を仕上げていく。そんなシナリオ構造を、この作品はもっているように見えました。


 以下、蛇足です。
 『プリンセス・ブライド』原作はちょっと珍しい二色刷りの文庫本 (ギミックの関係から黒インクと赤インクでもって書かれている) なので、天使の人とかは読むのに苦心してしまいそう。
 うつろあくたがシナリオ参加した過去作にも130cm『プリンセスブライド』がありまして、KOTOKO歌う電波ソング「Princess Bride!」も有名でしたね。しかしわたしは、どちらかといえば続編主題歌「Princess Brave!」のほうが、小説『プリンセス・ブライド』の全身全霊で子供だましをやりきるような、すっごい中世観 (ヨーロッパができる前の時代で、パリ以後の時代の物語) をよくなぞってると感じます。陽菜にもちょっと似合いそうな、勇ましきちびが楽天的に突っ走っていく冒険譚ふうのアッパーチューン。
 そんなふうな、めでたしめでたしへ突き進んでいくおとぎ話の力強さは、スローテンポで繰り返される日常だった本作にもまた息づいていたかもしれません。祥子の言うところ「観測結果に天使の意思など混入しない。天使は回り続けているルーレットに玉を投げ入れるだけ」なわけで。きみがどんな穿った真実とやらを持ち出そうが、彼女たちはここでしあわせに在るんだよという、腰のすわった語り口であったように思えます。

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 ErogameScapeの『きみはね 彼女と彼女の恋する1ヶ月』感想を参考にして書きました。特に影響を受けた感想を挙げさせていただきます。

gluttonykingさん{
https://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/memo.php?game=21349&uid=gluttonyking
}

highcampusさん{
https://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/memo.php?game=21349&uid=highcampus
}

merunoniaさん{
https://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/memo.php?game=21349&uid=merunonia
}

残響さん{
https://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/memo.php?game=21349&uid=%E6%AE%8B%E9%9F%BF
}


Sek8483さんの「きみはね 彼女と彼女の恋する1ヶ月」の感想へのレス

こんにちわ。よい年越しを過ごされておられますでしょうか。

久々にえろすけトップページを見てみたら、なーんか見覚えのある長文感想の見出しがあるなー、と思ったら、なんとぼくの長文感想、Sekさんが投票してくだすってるじゃねーの!
びびりました。そしてSekさんが、ということ、誇らしく思います。
自分の感想やtwitterを読んでいただいてる、というのは過去のレスで把握していましたが、年末にきて、この熱心な投票コメに、残響涙ちょちょぎれちゃう。
改めまして、ありがとうございます。

ーー「きみはね」感想に投票いただいたことは、残響にとって特別な意味を持ちます。

投票コメ確認後、Sekさんの新作レビューはなにかな……この記述は……おお……とうとう……とうとう……と感じ入りました。
自分の「きみはね」レビューがSekさんにとっての「百合の誘い(いざない)」になっていた、と知り、こちらも誇らしいです。


……改めていうのもなんですが、自分って、百合警察ですよねw
自分は、世の百合警察のかたがたよりは穏健派だと思っていましたが、先日とあるかたに「残響に百合のことを話すとロクなことにならん」といわれまして。
いや、自分にとって百合とは「空気のように自然なもの」なのですが、それゆえに……清流に混じる淀み・軋みはすぐさま肌感覚で感じ取ってしまうので、その度に百合センサが反応!コンパイルエラー吐き出し!ビガービガー!百合警察起動ーっ!ジェイデッカーッ!となってしまうのです。
でも……それは「百合への誘い」ではありませんよね。むしろノンケヘテロ一般人エロゲマに「百合って面倒だな、嫌いだな」を誘発させてしまうもの。オタとして真に恥じるべきはそちら。
百合は、怖いものではない。楽しく優しく、時に冷ややかなシリアスもあるけれども、美しいもの……として、どうにかして百合者として、少しでも「百合への誘い」を書けないものか、と思っているのです。

それもあって、最近ブログとtwitterを停止して、本格的に百合と模型のHPを始動することになりました。サマリーページ参照していただければと思うのですが。
なるたけ、百合定義論、百合警察学校をするのではなく、百合のたのしさ・美しさ、そして残響自身が百合を愛しているサマを伝えられたらなぁ、と思って。

そういうこともあって、わたしの「きみはね」感想が、Sekさんにとっての「百合への誘い」になったということ、これが本当に誇らしいわけです。
ああ、自分の書いたものが、作品とレビューとが、Sekさんに伝わって、楽しんでいただけた。本当にうれしい!

別に、自分が百合伝道師たろう、とかって思ってはいません。
ですが、わたしの百合……いや、趣味における基本精神として、


「はっはっはっ、教えてあげたまえ!君にはその義務がある! 
君も誰かに教わったんだろ? ガンプラ
誰かに楽しさを教わったものは、それを誰かに伝えるべきだ!
そうして僕たちは繋がってゆく。いつまでも……どこまでも!」
(今ノ夜きよし・千葉智宏『ガンダムビルドファイターズA(アメイジング)』)


という言葉があって。
ぼく自身10年以上前、ぼくのエロゲ師匠に『アトラク=ナクア』を教えてもらって、
そこから『マリア様がみてる』や『まんがタイムきらら(創刊時)』に繋がるルートを教えてもらったのです。
そのルートは、ゼロ年代の百合趣味において王道にして、広がりのあるものでした。
ソフト百合も、シリアス百合(ハード百合)もともに楽しむ。

あまり義務感で趣味をするものではないですが……わたしも、出来たら、そうあれたら、と。


……全然「きみはね」の話出来てないっ!w 残響のいつものですね。はい。
では、今回は、Sekさんの長文感想のアブストラクト感想と、投票コメに頂いたご質問をつらつらと……


●Sekさんの筆致

毎回思うのですが、Sekさんの読み込みの精度といったら。
自分は、キャラのひとつひとつの行動をあんまり覚えておらず、むしろキャラの行動……「動き(モーメント)」をひとつのおおまかな「シチュ」として把握し、観測し、萌える、というものでして。
対しSekさんは、ひとつひとつを分解して読み込むように思えます。ずっと前のレスで、当たり前のように微積分をたとえとして出されたのは、今更ながらそういうことかも、とかって思ったり。
数学ネタでそう考えると、九九が出来ない残響ですが(本当)、自分のこのモーメント読みこみは、ベクトル的なものと捉えてもいいかもしれません。
(余談ですが、もっとも、この「微分か、ベクトルか」という区分け自体、数学的ジャンル越境性からいったらオカシなもので。例えば加速度などを取り扱う場合の連続モデルにおいては、ベクトルを微分しなきゃどーするのって具合ですし(残響のモーメント観測における、細部の分析的読み込み)。あるいはそもそも微積分解析の対象が流体だったりする場合(流体力学)、解析の次手からのベクトル的アプローチが不可欠なように(Sekさんの萌え解析における、連続性シチュ力学の読み込み))
このくだりは、後で「ダイナミック(スイング)とスタティック」に関わってきますが……


●BGMのはなし

Sekさんのおっしゃる「きみはね」BGM論は、エリック・サティの精神だよなぁ、と。

低価格短編エロゲにおけるBGMの固定傾向ですが、これが最も顕著なのは、「その花びらにくちづけを」シリーズですね。
なーにーしーろ、初期から近作に至るまで、「BGM使い回し」!
それもすげえ名曲、というわけでもなく、音量も小さいし音質も悪いし……。

ところが、そのしょっぱさが、毎回毎回聞かされていると、なんか妙なグルーヴ……というか、まるで風にカーテンがそよぐかのようなやわらかな質感を感じさせるのが、「その花」の奇妙な魔力です。

また、「屋上の百合霊さん」における、毎回のちょい楽しめな日常シーンにおける「きーんこーんかーんこーん」「パヤッパッパー、パパヤ、う~きのうよっりー♪(という風に聞こえる)」の限りないエンドレスなノー天気なBGM!
これを聞くだけで、「ああユリトピアにおれは戻ってきたんだ……!」と目頭が熱くなります。聞くだけで、あの色彩の薄い塗りの質感までもがふわっと!

それにしても、B級エロゲっていいですね……!(唐突に
明らかに金のかかっていない背景! 塗り! エフェクトのカクカク! そしてBGM使いまわし!
こーのしょっぱさが実にいい!本気でいい!
だから自分はサマリーページで「そんじょそこらのB級イチャラブエロゲーマーです。」と銘打っているのです。

もっとも、「きみはね」の場合は、より上品に、繊細なものですが。一環して室内楽。
ダイナミクスは必要なく、ただ家具のように少女たちの生活に溶け込む……まさにサティです。

そしてイージーリスニング、ですが、自分、よくこう呼ばれる類の音楽が好きでしてw
もっと正確に言えば「ニューエイジ」音楽。姫神とか喜太郎とか東儀秀樹とか。
「そんな!バカな!ジャズやロックを愛する残響がそんな!」と思われるかもしれませんが、このニューエイジ音楽には二つだけ、良い点があるのです。
「美メロ」と「風景喚起」。

……まあもっとも、Sekさんの仰るイージーリスニングは、ポール・モーリアとかのほう(遠い地平線が消え(略)宇宙の営みを告げていますジェットストリームジェットストリームジェットストリーム……)なのかもしれませんが。 
どちらにせよ、リズム、確かに単調ですよね。音楽的革新性、ないですよね。それはよーくわかります。
それでもわたしがニューエイジを好むのは、美メロによる風景喚起。
その精神は、サティを経由して「きみはね」にも適応されるのではないか、と思うのですよ。


●「観測」についてーースイング(1)

なぜ自分が「百合観測」の徒で、一人称・憑依没入型のプレイをしないか、Sekさんは「謎」と仰います。自分にとって、百合観測とはあくまで「空気のように自然」であり、一人称・憑依没入プレイをすると、なんか落ち着かない。サイズの違う硬い服を着てるようで……

と返答しようとしたのですが、それってとくに何も語ってないですね。もう少し考えてみましょう。

例えばそれは、間違いなく「視点」なのでしょう。建築物を見るとき、
「まず生活者としてドアから入る」のを選ぶか、「神の視点からまず全体像を把握する」のを好む、か。
ではそれはイコールでミクロとマクロか? いえ、百合者はしばしば「シチュ」という物語微分をしますから、それはミクロの思想でもあります。矛盾してますね。

では、次に「ダイナミック(スイング)」と「スタティック(静的)」の観点を導入してみましょう。
Sekさんがもうひとつの、残響に対する謎、として挙げられた、残響的文体の「スイング」ですが、考えてみればこれも百合観測……三人称的俯瞰視点、とはミスマッチです。
なのに、何故我々百合者の文章は、得てして過剰(ダイナミック・スウィンギン)になるのか。それは世間において「キマシ!系(キマシタワー!)」としてステロタイプになっているほどです。だいたいヘテロエロゲにおいて、「百合キャラ」ってこういう造形なされますよね。とくに否定はしませんが、このステロタイプから「いついつ出やる」という気分に時たまなります。

残響は己において、実は自分のどこが「スイング」なのか、よくわかってなかったりします。
何度かSekさんは自分のスウィンギーさを当てていらっしゃって、それはジャズ者の自分にとって、とても誇らしい標語であるのですが、しかし、自覚はあんまない……自分にとっての百合がどこまでも「空気のように自然」であるのと同じように。

デューク・エリントンという、ジャズの巨人の名曲のひとつに、「スイングしなけりゃ意味ないね(原題「It Don't Mean A Thing (If It Ain't Got That Swing))」というのがあります。様々な名演があって、個人的には「歌もの」よりは、スタン・ゲッツがディジー・ガレスピーと猛烈にソロアドリブ・バトルをした演奏と、同じくスタン・ゲッツがボブ・ブルックマイヤーと組んだ「at the Shrine」コンサート・ライヴ盤でのラスト・トラックでの猛烈にワルでワイルドな演奏が個人的に好みでお薦めで……ってどうでもいいなw

でもこの歌詞がこんなものでして。超単純な英語ですが。ざっと残響が訳してみます。結構意訳です。


――なぁ、真に良いメロディって、何だ?
ほんとうに良い音楽って、何なんだ?
おまえさんがオイシいアレを持ってなくちゃなぁ……

それじゃメロディじゃないんだよ
それじゃ「音楽」じゃないんだよ
そこには、歌曲を完全にする、アレがあるっていうのによぅ

スイングしなけりゃ、意味がないんだぜ
そう、君のすること全部を歌にしちまうくらいの!
そんぐらいのスイングじゃなきゃ!

音楽が、甘かろうが、熱かろうが、
そこに何の違いもない!
お前さんを最高にハイにさせるリズム、
そいつが「音楽の本質」なんだ、さあ、受け取りな!

そこに意味はないのさ
充分にスイングしなけりゃねっ!


ーー前回の「駄作」のレスで、「こうも見方が違うSekと残響が仲良くレスしてるのは不思議」と仰っていましたが、まずもって、我々の見方というか、創作物における見方、そして最終到達点のようなものは、かなり異なっていると思います。それは確かです。
しかしそれと同時に、何かしらの符号するものを共有しているからこそ、こうして何回もレスが成り立っているわけでして。
Sekさんがamaginoboruさんとのレスしあいで、
「自分なんかが言葉にすることで作品にある美しさが損なわれるのじゃないかと不安」
「たぶん言葉でどうこうなるものではなく、それらの美しさへまでは及ぶことないのかな」
と仰っていましたが、おそらく回路を異なる形ではありますが、似た結論(めいたもの)に辿り着いているような気がする。あるいは、それもまた思考の旅の踊り場に過ぎなく、またそこから分岐する形ではあるのでしょうが。
残響とて、観測をする以上、作品への侵犯ということは常に気を使います。スイングの余り、作品やキャラを壊すことは、望んでいない。そういう意味では、自分は「意訳」派ではなく、「逐語訳」派であります。


●スイング(2)

残響の場合、創作をやってるということからも、「本当に良いもの」を自分が引っ張り出してくる際には、自分が「動く」ことを躊躇っててはいけない、と強く思っています。
それもあって、文体をスイングさせる……ということは、自分にとっては当たり前のことですが(まだまだ足りないと思ってる)、ひとから見れば「何その文体実験はっ」と思われるところなんでしょう。
また、観測においても、「百合のしきたり」=「カップリング順列組み合わせ」を云々するのも、ヘテロエロゲではなかなかされない「組み合わせの妙」をダイナミックに前後!前後!させることにより、キャラ性の逸脱・回転を含めて、「本当に良いものを見出そう」としています。

Sekさんはどうなのでしょうか。
ぼくから見たら、Sekさんの論理性こそダイナミックだと思うのです。同時に、Sekさんの「美しさ・芸術の構築性への侵犯への恐怖」めいたものは、何かしら別の隘路を通って、表面上スタティックだけれども、ご自身の立ち居地というものをいつも鋭く模索しておられるように見受けられる。

ところで。
観測趣味、というものは、パターナリズムに陥ります。
ついつい、カプ論争が「こういうのもあってもいいんじゃない?」「いやこれでなくてはならない!」の戦争となりますが、
しかし後者のひとも、どこかで「新風」を持ち込んでもらいたい、と思ってもいるのです。

これに対し、一人称・憑依没入型は、常に「自分(プレイヤー)」が作中世界の中で「生きる」ため、そのパターナリズム的退屈さ、とはかなり距離をおきます。
それもあっての、「きみはね」ラストのあのメタ発言なのでしょうが。

パターナリズムに対するものとして、自分はしばしば「リバ(リバーシブル)」を導入することを肯定しますが、
しかしこれも、行き過ぎれば「オリジナル要素のつおい二次創作妄想」となり、原典への侵犯、となります。
残響は、案外この方向にまではいかない。創作をやってるだというのに。

ぷらす。
「スイングしなけりゃ意味ないね」は、もちろん「リアルの只中にでダンスせよ!」の哲学であります。
これはもちろん、観測におけるスタティックな精神性とは、全く異なるわけです。

以上を踏まえて暫定的に考えると、「観測」でありながら「スイング」である、という自分の立ち位置は、なるほど確かに「謎」と見受けられてもむべなるかな、と改めて思いました。
うん……謎が増えたぞっ!ww


なんだか、今回レスが、質問を質問で返し、何回もパラフレーズしているような愚を犯してるような気もしてますが……
少し混乱してきたw それと、えーかげん6000字も書いてるので、ここできります。
ちょっと、お話の論点を明確にしたい、という気持ちがありまして。Sekさんの「謎」をより少しは、スコープを狭められたらよいのですが……。
もしよろしかったら、レスという形でちょっとお助けください。

年の瀬です。
今年一年のエロゲライフはどうだったでしょうか。
お体にはお気をつけて。

(お父上と模型のこと、そしてSekさんの模型はじめ、驚きました。そして、本当にこちらも嬉しく思っております! その理屈は上と同じでございます)
2016年12月29日17時45分30秒
 こんちは。レスが年をまたいでしまいごめんなさい。どうぞ本年もご交誼のほどよろしくお願いします。

 この正月は帰省先で、フジミ模型の空母・飛龍を組んでおりました。
 ところがわたし、ここぞとばかりに不器用さを発揮しまして。しょっちゅうタラップを落として失くしたり、うっかりアンテナをへし折ったりと、軍法会議ものな失態が続きまして (……山口提督に怒られるぅ)。
 おまけにミリタリ知識はなくて模型づくりも二度目ですから、艦船の完成像というものが上手くイメージできず、それでいっそう、ひとつひとつ局所の作業手順がてんやわんやになっちゃいまして。「いやこのパーツを先にくっ付けたら、なんかすごいアクロバティックな隙間から接着剤を流し込むはめになったし!?」わざわざ事を難しくする、初心者まるだしな右往左往です。今しがた手を動かしてるところの細部イメージが、全体像とどうにも接続できずに、いろいろ迷走やらかしていましたww


 さて、『きみはね』の話となるのですが、これまた慣れない百合ゲーでしたので、全体像がつかめないままプレイした初心者でございました。カップリングなるものや、まなざすという距離感については、投票コメントで書いたようにちょっと謎めいています。いったい何が謎なのかすら判っていないので、自分にはきれいに論点をまとめられそうにありません。けれども頂いたレスを読んでみると、なるほど、ダイナミック/スタティックという観点にはしっくりくるものがありました。

 門外漢の雑感なのですけれども、百合ものでは、とりわけに無時間性 (スタティック) を尊ぶような向きがあるみたいです。「あぁ、お姉さま」「怖れないで。私たちの間には永遠があるのよ。そう永遠が」みたいなやつ。下品なわたしの表現でいうと、ちんこぶら下がってないエロゲゆえに、射精によるピリオドやその直後の虚脱という流れがいつまでも来ない感覚があるのですよね。達することがなく、終わりがない。
 そうしたスタティックな「百合のしきたり」のなかだというのに、(ダイナミックな) スイングをなそうとするからちょっと不思議なものです。倫たちにカップリングの前後を入れ替えながらよく動き回ってもらって、物語を生み出していってもらうところの不思議。この自己矛盾めいたものを、例の "天使" という仕掛けによって美しくまとめ上げてみせたのが『きみはね』だったのかもと思います。

 このあたりの、固定されるカップリングとそこでのスイングについては、残響さんの『きみはね』感想がよく見て取っておられましたよね。倫のバレエだったり、陽菜の「あたし王子様になる」だったり、文の誘い受け (もしくはリバ) だったり。
 そこで残響さんのおっしゃるところが、「でも倫は、自分の天使性を、まるで自覚していません。」「(陽菜は) 自分の王子様性を自覚することのあまりないままなんです」。そのとおり、その素晴らしいスイングには、自覚や意図がともなわれてないのですよね。あるいは文も、公式のキャラ紹介が言うとおりに、はじめから「やさしい小悪魔(無自覚)」でありました。あのエロシーンの「覚醒淫靡表情」はすごいのですけれど、倫が「若妻感」と表現したように (わたしも感想に書いたように) 日頃の立ち絵からもその淫靡さは漏れだしています。その小悪魔のサガは、彼女が自覚なしに最初から秘めていたものでした。
 残響さんやわたしがいう "スイング" において、この自覚のなさは大事な要素なのでしょうね。spontaneity (おのずと湧き起こるような自然さ) をもつということ。スイングとはあたまから変化を意図するものではけっしてなく、カップリングの攻め受けをはじめとした枠組みにハマりきらなかった、とてもその人らしい動揺であるということ。

 そんなふうに思ったのは、残響さんがスタン・ゲッツを引き合いに出されたゆえかもしれません。「It Don't Mean A Thing(If It Ain't Got That Swing)」なのですけど、『Diz and Getz』の録音セッションとかわたしも好きです。聴いてみると、猛スピードでせりあっていて、なんだか火花がチリチリしています。
 このセッションについては、村上春樹も『意味がなければスイングはない』において、スタン・ゲッツを語るとき引き合いにしていましたよね。ドラッグでぼろぼろになった生活の暗い側面があったにも関わらず、彼は、とにかくサックスは吹けた。ひとたび楽器を手にすれば、自由に、おのずと湧き起こるような自然さで動きだし、ひとつ箇所には定着しない即興演奏が広がっていく。スタン・ゲッツはいつだって「彼のように」吹けた。そんなふうに記していたように思います。
>>
僕としては、西も東もわからないまま、一本のテナーサックスだけを頼りに、姿の見えぬ悪魔と闇の中で切りむすび、虹の根本を追い求め続けた若き日のスタン・ゲッツの姿を、あとしばらく見つめていたいような気がする。
(…引用中略…)
彼の当時の音楽には、予期しないときに、とんでもないところから、よその音楽がすっと吹き込んでくるような、枠組みを超えた自由さがあった。彼は軽々と世界の敷居を超えることができた。自己矛盾をさえ、彼は普遍的な美に転換することができた。しかしもちろん、彼はその代償を払わなくてはならなかった。
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 『きみはね』では、ワンワン吠えてみたり、天使の羽根を追っかけて二階から飛び降りたり、まさかのスパンキングだったりと、物語をとんでもなく揺らすイロモノもその中にありました。それぞれのキャラを彩るカラーというのが鮮明でした。
 けれどもそのイロモノを平静に見つめつづける天使が、読み手との間にひそやかに介在していたことで、そのダイナミックな変化を "物語の意図" としては感じさせませんでした。天使は永遠に (スタティックに) 存在していたから、そもそも何かの結末を目論んでのふるまいというものを理解できない。とぼけた傍観をするその地の文は、人間の内心にまではちょっぴり筆が届ききっていない口下手さ (謙虚さ) をもってました。
 なので陽菜たちの自覚とかもまた判然とはなりません。自覚なしにおのずとワンワン言っちゃった風情が出来上がり、彼女たちがリラックスして「彼女たちのように」動くさまを映し出してくれたように感じます。物語をひっくり返すがためにはならず、序盤から織り込んできたキャラ自身が枠組みを軽々とまたいでいってしまう、見事なスイングのあるお話でした。いわゆるリバの局面において "攻め×受け" といった型や敷居を超えることを助ける、そんな文体をこの作品はもっていたのかもしれません。
 いや実のところ、百合のしきたりをまるで知らないので、とぼけたこと口走ってたらすみませんww


 さてさて、「BGMのはなし」についてはお察しのとおり、サティを意識しての言葉選びです。わたしはエロゲのBGMの使用法に好感を覚えることがあまりなく、いつでも流れっ放しループのまま無音の時間帯がないのが苦手です。またキャラボイスというのはおおむね主張が強いので、そこでBGMまでも存在感が強ければ、音同士がぶつかってしまい、しっちゃかめっちゃかになったりもする。常々そんなふうに思うわたしにとって好ましい、鳴っていることを忘れてしまうような『きみはね』の音楽だったように思います。

 話は少し変わって、ひとりよがりな話し方になってしまうのですが、「歌もの」でボーカルの主張が弱い (言葉として明晰じゃない) 音楽には、そのスタティックさを好ましく感じるときどきがあります。
 例えば、「O.F.T」や「illusion is mine」をはじめとした凛として時雨。最初に聴いた頃にはボーカルパートがなんだか頼りなくて、妙に平坦な抑揚をもって単調に繰り返す歌詞であることに戸惑ったものでした。ところが耳が慣れてくると、それを立派な意味のある言葉ではなくて、どちらかといえばスクリームなどに近い音の響きとして認識して、心地よく聞き流すようになりました。歌ものはどうしてもボーカルが主役になりがちなのですけど、そうはならずに、他の楽器と同列にまでボーカルパートが楽曲のなかに埋もれて、溶け込んでいることで全体が平らかに調っていると感じます。
 My Bloody Valentine「Only Shallow」には似たような心地よさを覚えますし、一方では、Toe「Goodbye」のようなボーカルの弱さというのもまた魅力的です ( https://www.youtube.com/watch?v=xqR12BvJYlk )。
 意味内容をはっきり歌い上げる曲というのは、フレーズごと単語ごとに細分化もできるから、ひとつパワーワードにひっかかればその部分の意図に拘泥してしまい、曲の全体像がつかめなくなってくる。ところがボーカルがあやふやに弱いときには、数列の問題を解くときのようにして、あるイメージ(n) から次のイメージ(n+1) への階差のみをたぐっていくことになり、そうして声の響きのもつ自然な流れ (単語でなくメロディ) をよじ登っていった先に、その全体像がぱっと姿を現してくる。静かな眺望だけがひらけている。そんなすべらかさを聴き取りやすい気がしております。

 『きみはね』の話に戻ると、先述していたリバやスイングの一瞬を際立たせるような、地の文のやや無感動な書き方や、単調なシナリオ進行がありました。同じネタを繰り返すコメディとか、引用テキストを掘り下げることなく流していってしまう自由さとか。それら言葉の弱さというものがBGMの性質とよく交じり合わさっていた、その調和を、わたしは心地よく感じたのかもしれません。ひとつひとつの局所にはたいした意味が取れなくて、流れとしてのみ見ることになるから、あるときになってスタティックな全体像がぱっと姿を現してくる。気づいてみると、部屋で彼女たちが髪を結い合ったりする風景だけが脳裏に浮かぶことになって、何かおしゃべりしているのだけど "言葉の内容" とかは耳には聴こえてこなくて、けれど触れてみるとただ楽しそうな声の響きだけが骨伝導でわかって嬉しくなるような。
 とどのつまり、『きみはね』は日常を上手いこと閉じ込めて、それへとプレイヤーを触れさせてくれたよね、という話をパラフレーズしているだけなのですけどww

 『きみはね』は倫や陽菜や文のやり取りをダイナミックに色づけていくお話だったわけですが、その周りのモノクロの部分で、天使の仕掛けやBGMがうまく抑制を効かせていたことがいっそう印象的でした。わたしの場合、ラストであの天使が物語のなかに飛び込んだとき「あ、彼女はアッチ行った。わたしコッチに取り残されたんだ」とすんなり納得しちゃいました (それでね文さんちのワンコになりたくてね)。一見客として百合エロゲをやってみたので、スタティックな側面がもの珍しく、そちらにばかり見とれがちだった気がします。なので、ダイナミック/スタティックの両面でもって遊んでいる残響さんのプレイが、いっそう謎めいて見えたのかもしれません。


 あらためまして、よき百合へと誘ってもらい、ありがとうございます。まだまだ百合エロゲへの距離感はつかみきれずなのですが、上品な甘さをよく詰め込んだ本作は、とにかく楽しんでプレイしました。ちなみに購入した直後に、完全版・続編パッケージなるものが発表されてしまったので「わお」となりました。

 (なおツイのほう現状把握しましたー。)
 ではでは。
2017年01月05日19時49分26秒
こんにちわ。レスありがとうございました。今年もよろしくお願いします。

>模型話
フジミ飛龍!なぜ模型二作目にしてそんな難関をお選びなすった!ええい、スケモ先達には大変恐縮ですが、失礼ながらSekさんのお父上はなにをされておられたのかっ!あたかもそれはエロゲ初心者にのっけから難解な作品をぶっ込むようなもので……せめて同じフジミだったら艦NEXTシリーズか「ちび丸」シリーズ、もしくは1/700ウォーターライン(WL)シリーズを与えるなどして……とは思いましたが、しかし作りたいものを作るのが一番ですよね。エロゲと同じく。なにしろ模型は作ってナンボ。実際に経験値を積むことがナンボ。そういう意味ではSekさんは歩み出したのですね……この模型道を……!
と考えると、まさに本当の意味での胸が熱くなります。ちなみに超マニアック情報として、フジミの企業者の理念は「親子の対話が生まれるフジミのプラモ」なので、今回のSek父子のあり方は、まさにフジミの目指すあり方そのものだといえるのです。本当に。
改めまして、Sekさんが模型というホビー(趣味)に関心を持っていただき、お父上と並んで残響は嬉しいです。これは自分を振り返って思うのですが、つい我々のようなブッキシュというか、理屈とか言葉でいろんなものを言語化・理屈化さしてしまう人間は、こういった「手を汚して何かをリアルにつくる」ということをなおざりにしがちではあります。まあ、誰かに強制されて「つくる」というのもまた拷問ですが。でも、Sekさんがまさに「モノを加工する喜び」を改めて思っていただけたこと……そのきっかけとなったのが当方、だというのは本当にうれしい。
というか、Sekさん、やはりモノ作りのセンスがあるというか、実際二作目にして、フジミの飛龍……つまり「空母」を作られた、という。
空母は……仰るように、「やべえ先にこっちをやったら、もう艦載挺二度と取り付けられねえ……ていうかなんでこんなに取り付けにくいんだ、艦載挺取り付けパーツ!」といったりね。「甲板支え部分の鉄骨がー!ああっ、また角度ズレた!ああっ全体のフォルムがゆがんだっ!」といったりね。大丈夫Sekさん!これから空母制作の恒例行事、たのしいたのしい艦載機量産が待ってますよ!!
いやまあ、艦船模型あるあるはここまでにしてw でも二作目にしてそれだけのことが出来るというのは、もう「不器用」のレベルじゃないですよ。というか右往左往こそがまさに最良の教師ですし。アンテナ?多聞丸が見つける前に、伸ばしランナーとプラ棒でどうとでもなるねん!

(このあたりの軍艦の資料については、タミヤから出ている森恒英「軍艦雑記帳」(上下巻)が参考になります。というか御父上が持っていらっしゃるはず。
また、艦船模型の基本制作メソッドについては、仲田裕之「艦船模型の作り方 ものぐさプラモデル作成指南」がわかりやすいかと。というか御父上が(略))

全くエロゲと関係ない話をしてますがw、しかし本文につなげると、この「全体完成像のイメージ→細部のこだわり」というのは、以下の話にかなりつながってくる、と伏線を張って……

改めまして、前回のレスは失礼しました。なにしろ自分でも謎が謎を呼んでて、書いてて自分で混乱してしまい、ついにはSekさんに助けを求めるアリサマ。大変申し訳ない。
それだけSekさんの知性を信頼している、という証でもありますが、しかしレスをするからには、自分でも問うばかりでなく、ひとつステートメントを発しなくては、と思います。そして、Sekさんが実に丁寧にレスしてくだすったおかげで、自分がこれから述べる意見も明確になりました。ひとつのステートメントを発することが出来ます。これも、またSekさんにはお礼を述べさしてください。

では本題に入ります。今回はおおむね
・百合の局所的永遠性

・ノベルゲーの調和
について語らせてください。

●百合の局所的永遠性(1)「男性的終わりの感覚」

Sekさんが「百合は無時間性を尊ぶのでは?」と指摘されたのには、「……本質、言い当てられちゃったな……」と、しみじみ感服しました。
わたしは今回、それをよりラディカルに「永遠性」と言い換えますが(おゆるしを)、それは「しきたり」というよりは、百合がある意味、無自覚に(!)理想とする精神性、だと自分では考えています。
……っていうか、ここでちょい脱線しますが、このことっておれが自分の百合趣味HPで最後に描こうと思ってたことやねんw そのことを一足飛びにSekさんが銀の鍵を開けちまったもんだから……まぎれもない知性としてのSek8483氏におののきながら、しかし「鍵開けるのはええよww」というとこもないわけでもない。

きわめて神学的な話になるのですが……いえ、まずは具体例から語りましょう。アトラク=ナクアのネタバレをするのもアレなのですが、しかしあの初音姉様とかなこのラストはまさに「永遠性」の白き地平。「生まれ変わってもあなたとともに」を地でいきまくったものです。
そしてカタハネの、姫エファを継ぐものとしてのアンベルですが、これはそもそも姫エファの強烈な「殉死による永遠性(あまり「心中」とは呼びたくない)」を内包するものとしての、「これから歩んでいくふたり」であります。そう、「memories are here」が歌っているように「これは終わりじゃない」し「ハッピーエンドはここにある」のです。続いていくのです!
……っと、具体的とかいっときながら観念的ですがw、やはりおれは100点の百合作品を前にすると熱くなるな……! さて、このような傑作百合シナリオに「永遠性」への示唆がある、というのは理解いただけたかと思います。Sekさんあなたは正しい。

同時に、この永遠性を描くにおいて……これは残響の仮説ですが、永遠をただ永遠として描くのであったら、それは「永遠主題」という「えいえんの世界」を描くKey的手法になる……というのは、論理の帰結です。
ただ、百合の場合、一足飛びにそこまで行っているケースはそんなに多くない。
ここで、模型話に出てきた「全体と細部」を持ち込みます。すなわち、「スタティックな永遠性を指向する全体完成像的精神性j(揺るぎない完成像の精神)」と「ダイナミックな揺り動かしを常に必要とする、細部としてのシチュ」と言い換えることの出来るものです。
これは牽強付会ではありません。なぜなら、百合の場合、シチュにおけるダイナミック・スウィギンを求める、というのは前回書きましたが、それはドタバタコメディ、ギャグゲーの刹那を描くものではなく、あくまで「永遠性の美的精神性」を描くためのもの。
なぜ我々がシチュとして、物語を分割(微分)するかというと、「精神性が高まったキャラの刹那に、永遠をみるから」というふうにいえます。ああ神学的だ。
「まなざし」ひとつにしても。「おねえさま……」の思慕の瞳がみるものは、おねえさまであると同時に、永遠性への接続なのです。ふたりはここでひとつとなる。
よく言われることに、「こっち(鑑賞者)側をまなざしているのは百合じゃねえ。百合は二人同士でまなざしあってるのが百合なんだ!」という主張。わたしもその徒です。これは、上の路線を拡大すれば、すぐに納得はできます。永遠性を求めているのだから、鑑賞者の欲望なんて、どこ吹く風です。

そう考えれば、Sekさんが仰る「男性的終わりの感覚」というものは、はじめから百合は指向していない。ただそこには「シチュによる、一応の時間の区切り」があるだけ。
さて、そこから村上春樹「意味がなければスイングはない」の話になりますが、これSekさんも読まれてましたか。だとするなら、自分がスタン・ゲッツを引いたのはここからだ、というのはバレテーラ!ってとこでしたねw さすがや……。あ、「ディズ・アンド・ゲッツ」気に入って下すってよかった。あのソロバトルはロック者にも訴求すると思うのです。

では話が早い。同じ村上春樹の本で『走ることについて語るときに、僕の語ること』はもうお読みになられましたかね?
ここで後半以後に書かれている、「サロマ湖100kmマラソンの話」ですが、村上春樹はこの「ちょっと異常な(100km!)ジョギング体験」において、ある哲学的ともいえる「精神ゾーン」に入った、と述懐しています。

ーー「終わりというのは、ただとりあえずの区切りがつくだけのことで、実際にはたいした意味はないんだという気がした。生きることと同じだ。終わりがあるから存在に意味があるのではない。存在というものの意味を便宜的に際だたせるために、あるいはまたその有限性の遠回しな比喩として、どこかの地点にとりあえずの終わりが設定されているだけなんだ、という気がした。」

つまりSekさんがおっしゃる「男性的終わりの感覚」ですが、これはある種「ゴール」の感覚、と言い換えていいかもしれません。ピリオド、虚脱。それはまるで村上春樹が「マラソンレースのゴールのときは【達成感と、もうしばらくはいいや的感覚】がある」と述べているように。
その期間限定性は、限定されているからこそ濃密で、鮮烈でもある。対し、百合は、シチュという形で「とりあえず終わり」が設定されているけども、本質的には永遠性への接続。

この差異は何かな、と考えたら、やはりそれは「まなざし」にあるのかも、と思いました。つまり、前に述べた「百合っぷるはお互いをまなざすことで完結している」というやつです。そのまなざしあいには、終わりがない。永遠性です。時間を超越している。

●百合の局所的永遠性(2)「村上春樹のspontaneity」

百合論として抽象的な方面にいったので、きみはねに戻しますと、きみはねの場合、ある種「シチュの寄せ集め」的な感じはしませんでしたか? そのあたりSekさんは

>やや不自然にイベントを小刻みカットする傾向がありました

と称しますが、これはある種、この百合表現の欠点なのかもしれません。シチュの連続体、という観点は、百合者からしてみれば、「ああこれこそ!」といえるものなのですが、しかし「連綿とした物語」を指向するとなると……いや、Sekさんのプレイ傾向からすると、この「シチュの連続体」的物語にも、かなりの親近性を持っている、とわたしは推測しているのですが、それでも「一本筋の通った物語骨格」が今作の場合、普通のエロゲ(ヘテロエロゲ)に対して弱い、というところは納得です。

やおい、という言葉があります。山なしオチなし意味なし。これはこの「連綿とした物語」とは対極にあるものとしての揶揄、な言葉かと思います。やおいと百合とは、ほとんどブラザーのようなもので。ただ対象が男か女か、というだけの違いで、精神性的にはかなり近しい。その路線で考えてもいいのですが、まあ本題からはズレるので割愛。

さて、村上春樹のあたりに戻ります。
スポンティニアス、ということですが、村上春樹はよくこの言葉を用いますね。それはしばしば村上が語っているように、彼がもともとジャズ喫茶/BARの経営者だったから、という、肉体労働のひとであって、文壇という「理屈重視」な非肉体性の世界にいまだに慣れない、というあたりからも、「自分はスポンティニアスに肉体的なものを指向してしまう」というふうによく言います。
模型の話ですが、これもある種肉体性ですよね。手先性、というか。この手先、は、「ちょろまかす」という意味合いでなく、「手を動かしてモノを作るリアルさ」という意味合いでありますが。どちらにせよ、それは「現場主義」。スタン・ゲッツが理論でなく、ライヴの実際でバリバリ吹きまくる、というのと同じ。
そこには作為はなく、あくまで自発性のみがある……というのがスポンティニアス、の意味と思っていますが、同じくSekさんもそのように定義されておられていますね。

我々百合者は、キャラを論じる際に、そのキャラがどのような「立ち位置か」というのを云々します。攻と受の話です。
これはある方から指摘されたのですが、百合者は「攻か受かで、そのキャラは異なってくる」という認識を普通にしているのですが、非百合者からはそれは「?」であるようで。
ただ百合者も、この攻/受が、そのキャラのspontaneityとは異なるところで、むりくり妄想する、ということまでは好んでない、かと思うのです。いやまあ、結構無理に妄想しているひともいるのですが、それは広範の支持はやはり得られていません。
あくまで、そのキャラが自然に、攻性や受性を出すということ。それはすなわち、そのキャラやカプの「物語」にかかっている、ということです。Sekさんの言葉で言うなら、

>とてもその人らしい動揺であるということ。

です。

わたしのきみはね感想で、

>結局のところ、カプとは、カプの裏にある「物語」をいかに楽しむか、が醍醐味であり、カプそのもののコンセプトを達成しないところに、百合物語の愉悦はない。

とまで断言したのは、百合とは思考実験なのではなくて、スポンティニアスな「萌えの現場」感覚あってのものだ、ということを重点的に言いたかったから、です。
それが「しきたり」風に見えてしまって、非百合者に「百合ってめんどくせえ……こわそう」と思わせてしまうのは、これは百合者の罪かな、と。だからこそ、わたしは「百合へのいざない」を書きたかった。

かなりこの項が長くなってしまいましたが、最後に、

●百合の局所的永遠性(3)「細部のダイナミック・スウィング」

シチュを動かす、ということは、シチュという枠組みそのものを「永遠化」さしてはいかん、ということです。シチュの枠組み自体はテンプレかもしれませんが、そこには生きた時間性……スイング、がなければいけない。なぜなら、シチュによって少女たちは「ドキドキ」するわけです。

(このあたり、常に驚天動地のドキドキがあるか、というと、それは過度に一般化は出来なくて、最近の百合では、わたしの言葉で言えば「ぐだぐだ百合」とでも呼ぶべきダウナー性を積極的に持ち込んだ百合シチュがあります。ですがそれも、表面上はグダグダでも、奥底の熱い百合精神あってのことであり、静かに、大きくグルーヴ・スウィングしている、と言うこともできます)

永遠性はスウィングする必要はないですが、しかしシチュはスウィングする必要がある。それを端的に述べたのが「キマシタワー!」という言葉なのでしょう。おれこの言葉好きじゃないけど、しかしその「言い当て」は確かなものでしょう。



●ノベルゲーの調和(1)ポストロック・サウンドスケープが語る「風景と言葉」

Sekさんは……やはりポストロックの徒でありましたか……!
そういえば、vostokさんのブログで、最初にわたしにコンタクトしてくれたとき、わたしが以前に書いたポストロック記事を言及してくださいましたよね。
さて、凛として時雨ですが、たしかにわたしのフェイバリット・バンドです。
Sekさんがおっしゃる「平坦な抑揚をもって単調に繰り返す歌詞」……わたしも、実は2009年時点で、それと同じことを思っていました。
もっともわかりやすい例としては、「Sadistic Summer」ですね。延々と345が「さらわれたいなつーさでぃすてぃっくさまー」と歌うループ。それがじわじわと体温を得て、それでもやっぱり冷たい感触で。初期の凛として時雨は、その傾向があります。

ですが、ちょっとそこからわたしは、考えを改めることになったのです。その萌芽は、2009年の年末に、わたしのTwitterで、

>凛として時雨の歌詞は、音に乗せるための刺激的な言語イメージ/言語遊戯に終始すると思っていた。
>ところが昨日「Telecastic fake show」の歌詞が、実に今の自分の境遇にぴったりだ、としみじみと感じ入った。
>だから時雨の歌詞を今一度よく読んでみようと思う。そこには「伝えたい意志」があるように感じられたのだ。そして、今までそれを感じられなかった自分の不覚を恥じよう。

と言っていました。

いわゆるポストロックの歌詞は、音楽に「乗せて流す」という傾向があります。村上春樹が「村上ソングズ」でR.E.Mの歌詞を「歌詞の内容がファジー/意味を正確には把握しがたい/適当に言葉を重ねて流れていればそれでいいんじゃないか的な」というふうに述べているように。自分も、時雨の歌詞はそういうものだと思っていました。だから、「Still a sigure virgin?」までの時雨/TKの歌詞については、Sekさんと同意見です。

ところが……それ以降(つまり、「abnormalize」以降の、アニメタイアップ楽曲以降)の時雨の歌詞は、より「何を言っているかが明確になってきている」というか……もちろんそれは「タイアップありきの、世界観ありきの楽曲だから」ということではありますが、今までよりは意味内容の物語の流れがわかるようになってきた。少なくとも「テレキャスターの真実はレスポールの残像だ」なんていう暗号じゃないw(アレほんとどういう意味なんでしょうね)

それを痛切に感じるように……つまりTKの「詩人」としての意識を感じるようになったのは、あるいはソロ作(TK from 凛として時雨)の楽曲なのでしょう。とくに弾き語り……Sekさんはもう聞かれているでしょうが、例えば「tokio」における「馬鹿みたいだな この場所は」とか、「罪の宝石」における「頭の中には触りたくもない罪の宝石 いつのことだろう からっぽにしたいのはいつのことだろう」という、詩人の痛切な感情。
……とまあ、Sekさんに異議を唱えた今回ですが、それもSekさんのおっしゃることがよくわかるからこそ、そして自分がTKを好きだからこそ、このような書き方になりました。

あ、またきみはねからズレてるw しかしもうちょっとポスロクについて話をすれば、いやはや、マイブラやtoeがここで出てくるとは思いませんでした。アンタも好きねぇw
マイブラ、ビリンダ・ブッチャーのあの声でもって、浮遊感溢れる歌い方を、ケヴィン・シールズの轟音に乗せてやられると、もう唯一無二ですよね。また、toeの場合、voはむしろ「楽器の一部」ですね。
ところで、こういった「歌詞を音楽に乗せて【流す】」というのは、「楽器の一部」としての効果もありますが、同時に「サウンドスケープを構成するため」というふうにもとれます。時雨も、マイブラも、toeも、モグワイも、MONOも、シガー・ロスも、ソニック・ユースも、ワールズ・エンド・ガールフレンドも、みんな「サウンドスケープの構築」を何より追及するバンドです。
「音が語る言葉、風景」というか。あるいは、歌詞はそんな「風景の言語化」というか、手がかりというか。心地よさと、思索性と。
それは、確かにきみはねの百合空間と通底しているものかもしれません。

全体像がぱっと開け、静かな眺望がひらけてくる。というSekさんの言葉は、百合の永遠性と通じている。確かに通じている。そのスタティックさが。
そうか……ポストロックは百合だったか……!(残響は狂っていた

さて、心地よさ、について、短いですが、とても申し上げたいことを。



●ノベルゲーの調和(2)わたしはそれを愛しているのだ

そう、そのサウンドスケープ的調和。これはエロゲという、音と言葉と絵という、三位一体の表現形式が作り出す「空間」であります。まさにerogamescapeです。
なんというか「エロゲをやっているなぁ」的感覚。これこそが、まさにエロゲ体験であり、ノベルゲーム体験。
それは、没入型と観測型の違いはあれど、この「感覚」こそがエロゲの本質ではないか?と思っています。
わたしはそれを愛している。

このことについては、あまり語りすぎてもアレなのかもしれません。結局「ノベルゲー/エロゲって、こういう感じだよね。それっていいよね」をパラフレーズするだけかもしれません。
もちろん、語ることに意義はありますが、それも「プレイすればわかるよ」の領域ですから。
でも……わたしは、それを愛している。
より頭のいい人が、批評的に分析してくれたら、それはそれでありがたいのですが。わたしはそういう分析を尊敬します。
しかし自分にとって何より大事なのは「この感覚に浸ってたいな」ってことです。
ああ、エロゲ/ノベルゲーって、いいものだな、っていう。



●おわりに
最後となりましたが、こちらこそ、百合というものに関心を抱いていただき、ここまで考察してくだすって、うれしく、誇らしく思います。
さて、完全版・続編パッケージですが、ひとつ懸念していることがございまして。
「天使」の現実化ですが、さて……既存カプを食い散らかすことにはなりはしないなっ!?と、他のきみはねプレイヤーと話して、気づいたのです。
それをされたらぼくはものっそいヘイトしますよw わたしはきみはねに87点つけましたが、こんなことされたら50点にしちまいますよ!
もちろん、このスタッフがそんな鬼畜をするとは思いませんが、さて、「天使」はどのような新たな恋模様を作ってくれるのか。
考えられるのは、
(1)三人の恋のアシスト
(2)寮母さんとのラブ
(3)三人がカプを形成しなかった、という前提にたって、三人と天使がそれぞれカプになる続編大ボリューム

……(3)はないかな。だって本編と完全矛盾になりますから。
でも、「天使」が現実に堕天して、さてどのような幸せを「当事者」としてつかむか、というのは……読めません。
なんにせよ、これは見届けなくてはならない……っ!

あ、それと、Twitterの件については、これは自分の不徳のいたすところです。
把握してくだすってありがとうございます。自分が衝動的にやらかしてしまったことで……
まあ、ぼちぼち、マイペースで、いきたいと思います。軸足は、過度なSNS的のめりこみではなく、こうした長文というのが、自分の主戦場だと思いますから。

今回も、長々失礼しました。何かしら、拾ってやっていただけたら幸いです。
それでは。
2017年01月18日05時38分18秒

>フジミ飛龍!
 実のところ、わりと父の薦めにしたがったチョイスでありました。しかしわたしがいざ組みはじめてから「これ思ったより難しいねえ。いやこのシリーズいくつか買ってはいたけど、中身とかあまり満足に見てなかったから知らなかったよHAHAHA」ぬかしおったのが積むだけモデラーの彼です。積むだけエロゲーマーと化しているわたしと、習性が完全に一致してます。最悪です。
 いやまぁ、模型屋において「たもんまるのくうぼがいい」と言い張ったのはわたしなのですけどもww やや自分の手には余ったものの、それだけに手探りする余地もふんだんに楽しめたので結果オーライでございました。説明書を読んでもいまひとつわからない箇所にあたって、資料をひっくり返したりするときなど、まさに "モデル" と触れ合う感覚があったような。ある種のエロゲ感想をつくるときとも同じ脳みそがムキムキしていた気がします。


 さて本題なのですが、門外漢のわたしが百合の本質をこの上とやかく言ったところで、まぐれ当たりはもう見込めなさそうです。
 なので今回、百合へのいざないを受けて、あたまでっかちな初心者なりに感じとった事をしゃべらせてくださいませ。わたしは「カップリング」といった用語にこだわり過ぎて、百合を思考実験として見ていたきらいがあったかも、といった所感になります。

 まずもって、残響さんのレスを読んでいて、妙に納得してしまった箇所がありました。
>>
百合者は「攻か受かで、そのキャラは異なってくる」という認識を普通にしているのですが、非百合者からはそれは「?」であるようで。
<<
ああ、なるほ…ど? わたしが投コメに書いた「カップリングごと別の世界観をもつようなまなざしは……」うんぬんの違和感の源は、まさにコレかもしれません。たしかに、非百合者のわたしからすると「?」であります。混乱して脳みそが左右に割れちゃいそうです。
 もちろんキャラの同一性というのは、百合者だけの問題ではありません。エロゲの複数ルート制も似た問題をはらみますし、エロゲヒロインがアニメやソシャゲへと出稼ぎに行けば、そこではしきたりや法整備が異なるゆえ軋轢も起こり、彼女のアイデンティティが疑わしくなっちゃったりします。ただそれでも、これらについての主/副はわりあい判りやすく、ゆえに同一性もまとまりやすく思えます。
 これに対して、百合においては、同人の土壌で育ってきていたり、カップリング掛け算という形式ができあがっていたりと、「攻か受かで、そのキャラは異なってくる」という認識がとても説得力をもっていますね。「文×倫」と「倫×文」の場合でキャラが異なるというのは、(わたしには意味が飲み込みにくいものの) 話としては明瞭であります。
 しかしながら残響さんご自身も、スポンティニアスであるか否かという留保をつけているように、たやすく割り切れる話でもないのだろうとは想像します。あるいは、(百合疑獄の案件なのか腐海での話かで仔細は変わるのでしょうけど) メジャー/マイナー、カプ違いやリバ許容における悲劇というのは伝え聞くところです。残響さんも『きみはね』続編が「既存カプを食い散らかす」ことをいくぶん懸念されていたりと、そのあたりはナイーブな問題をはらむようでして。攻か受かのカップリングごと、キャラが (完全相互独立に) 異なっているというわけでもないようです。
 あるところではキャラの同一性をあっけらかんと手放しておきながら、別のところではキャラの同一性に執着しているようでして、わたしが頭をひねり考えてみるなら、ここには矛盾があるように見えます。

 されど、そういったところで嘘をつき、糊塗して、矛盾を許容してしまえるのこそ、物語のありがたいルーズさですよね。あるいはそうした論理のもつれには、しばしばジャンルのお約束がべっとりからみついており、自己矛盾とはわかっていても愛着を抱いてしまうような。文のもつ天使みたいな小悪魔さへとわたしが惹かれてしまうように、あるいは、わたしを含め多くのエロゲユーザーが "没入型" と "観測型" をあっけらかんと切り替えつつプレイしているよう思われるように、物語というものは、そのなかに多くの矛盾めいたものを飲み込んでくれます。
 ここにおいては「攻か受かで、そのキャラは異なってくる」という認識をごく自然に飲み込んでしまえる残響さんと、それに違和感をぬぐいきれないわたしがいました。その違いこそは、これまで百合からしたたる水をどれだけ飲んで育ってきたかの違いなのでしょうか。わたしからすれば矛盾してごちゃごちゃ入り組んでるよう考えてしまうところにも、残響さんはスポンティニアスな手先の感覚だけでさっと線をひける。なんら自覚もないまま「"これ" は良い百合だ」と口をついて出てくる。それこそきっと、百合者たる経験のなせるところなのでしょう。

 そして、その自然と湧き起こるような感覚・経験の差というのは、言葉の説明ではいかんとも埋めがたく、伝えがたいものですよね。
>>
百合とは思考実験なのではなくて、スポンティニアスな「萌えの現場」感覚あってのものだ、ということを重点的に言いたかったから、です。
<<
 このあたり省みると、わたしはちょっと勘違いというか、頭でっかちに考えすぎていたのかもしれません。肩に力のはいった初心者として、音に聞こえし「カップリング」掛け算なるものや、残響さんのステートメントにある「まなざし」なるものを、(規範的な) 型として受け取りすぎていた。よく知らないジャンル世界へと立ち入るゆえに、聞きかじりの用語だけを頼りにして読んでしまい、四角張ったしきたりとして意識しすぎていたような気がします。
 (……や、実のところ、小難しいふうな話を続けているうちに、だんだん脳みそまわらなくなってきまして。より低きへと流れる水のように「あれ? なんかもっとふつーにプレイしていいっぽい?」という気分になってきただけなのですけどww)

 以前より、よそ者として百合界隈を目にしてみると、そこではときになごやかに、ときに刺々しく「倫×陽菜がよい」「いや文×倫こそ至高なり」そんなふうな話がされていました。百合者の方々はそうした「カップリング」掛け算をごく当たり前に使いこなしていらっしゃいまして。一方でわたしは、カップリング文化というものの精神はわからないし、なにやら神秘主義的な言葉にも見えるわけでして。
 そうした百合の国の言葉をたびたび傍目から眺めているうち、わたしはついつい、「カップリング」なるものが実在しているかのように錯覚していたっぽいのです。それはちょうど「シナリオゲー」なるものや「イチャラブゲー」なるものがあたかも実在しているかのように考えるタイプの、ものの見方です。まず理想の「カップリング」という全体像がいくつかあって、しかる後にキャラたちがそこへとハマったり、あるいはあえてハマらないことで逆張りの個性を出していく、みたいな見方。"はじめに神は言った、カップリング在れと"

 ところがこうして残響さんと話してみて、「精神性が高まったキャラの刹那に、永遠をみるから」というお言葉に頭をひねったりしているうちに、見方はくるっと転回しまして。
 どうもわたしが百合の国に入るにあたり頭を使って予習してきたのとは違い、カップリングなるものは予めには決まってはおらず、ひとつひとつ肉付けられる物語のうちから、女の子やシチュから、スポンティニアスに生まれてくるものなのかもと感じるようになりました。カップリングなる "決まった仕組み" というのは実在しておらず、ただそのお話での日常の言葉づかいのみがあり、シチュによって女の子たちがドキドキするとおのずと、そうなるのが自明なものとしてのカップリングが生まれていく。そんなふうに捉えるほうがすんなり『きみはね』もわかるように思えました。
 そしてなればこそ、残響さんのように百合物語を読み続けてきた人は、カップリングが自然かそうでないかを、あまりに当たり前な体感にもとづいて判るわけで。「攻か受かで、そのキャラは異なってくる」あたりでの矛盾めいたものを、自覚するまでもなく手先の感覚でさばけるのは、それが物語から自然と生まれていればこそですよね。

 ちょろっと百合エロゲをやって、残響さんおひとりとだけ話したのみですから、こうした捉え方もなんとなくの思いつきで口にしてみただけです。ただわたしの場合、カップリングの「キャラA×キャラB」という表記形式を非百合者として目にしているうち、いつの間にやら、それを物語を規範する言葉みたいに捉えていたきらいがありまして。『きみはね』プレイして、残響さんからお話を聞くうちに、カップリングはもっとずっと自然発生的なのだというふうに認識があらたまった、ような気がしております。
 「カップリング」なるものをちょっと知ってみたいくらいの百合ゲープレイだったわけで、それはいうなれば、外国人の物見遊山みたいなものでした。せっかく来日したのだから「ニンジャ」や「ガンダム」の本物を見てみたいくらいの気分だったのです。しかしそこでニンジャもガンダムも実在してないという事実に戸惑ったのち、いや私こそニンジャだった、俺がガンダムだと、ついには理解に至ったわけです。カップリングとはあくまで自分自身でもって手ずから妄想していくものなのですね。
 えらく初歩的なことがらを、もってまわった説明にしてしまいましたが、そうした当たり前のスタート地点からして、わたしには百合への勘違い (もしくは残響さんとの認識差) があったようです。このようなことは、いちいち聞かされても困惑なさるやもですけど、今回のわたしの所感となっております。



 さてさて。時雨についてなども少し。
 わたしは『Still a sigure virgin?』までを好んで聴いているので、どうもその偏食ぶりが色濃く出てしまいましたね。音楽についてはただもう残響さんから教わるのみですが、わたしのモヤッとした感覚を裏打ちしていただいたり、そこにとどまらない時雨/TKの魅力だったり、面白くレスを読ませてもらいました。残響さんも以前に同じような感覚を抱いていたとなると、ひょっとしたら、先々にはその感慨をわたしも後追いしたりするのやもしれません。
 『きみはね』感想において赤い靴のしあわせに注目したわたしなのですが、時雨については、そのシューゲイザー的な遺伝子が琴線にふれたりします。ノイジーな轟音ギターが流れ込んでくると副交感神経あたりから多幸感があふれでて、グダグダになって沈み込んでしまいます。あるいは以前に残響さんが紹介していた Dinosaur Jr.「Alone」あたりも非常に好みで (教えていただきありがとうございます)。轟音ギターが泣いて喚いて辺り一面をなぎ倒していった、そのフラットな静寂感が心地よくてもう浸りきってしまいますね。

 ところで、そんなふうにシューゲイザーなどを好むわたしの場合、エロゲにおけるサウンドスケープ的調和のひとつの例として、夏ゲーの空間にある、永遠にふりそそぐ陽射しの目眩を思い起こしたりします。
 あれです、蝉時雨です。金切り声の爆音をジージーと流し続けているだけで静寂を表現してしまうから、天然もののシューゲイザーみたく感じてしまうのですよね、奴らの狂騒。セミの声のSEというのは、あれのみで "ただひと夏の永遠" をひりつくほど感じさせられる、なんともずるっこいギミックとして物語で働いていると思います。雪がしんしんと音を消す様とは正反対の、音が間断もなく極大化していくうちにかえって意識できなくなってしまうところの浮遊感。あれを風物詩として聞き流すことができる日本人の耳というのは、なかなかどうしてナチュラルにおかしい気がします。
 前回に話したように、エロゲの冗長な音の空間がなんとなく慣れないわたしなのですけど、夏ゲーの雰囲気には没入していたくなる経験がわりかし多いです。そのひとつの理由が、セミの狂騒がもっているシューゲイザー的にドリーミィな平穏さ、それが性に合っているゆえなのかなと想像しております。もう少しいうなら、ただひと夏の恋を地で行くセミたちが、あまりにも当然にひしめき合って轟々たる日本の夏というのは、もとよりどこか仮想現実めいていまして。そのありようが、エロゲの音の過剰さやら、作品としての耐久性やらにはマッチしているように感じます。ジージー鳴り続けていく音の浮遊感のさなかでは、 ひと夏の恋とかいった足もとのしあわせだけを、じぃと見つめやすいのかもしれません。
 ついでに、それまで鳴ってたセミの声がふいに立ち消えることでホラー感まで出せるから、なかなか便利ですよねセミSE。などと昨夏に夏ゲーをやりながら思ってた記憶があったゆえ、音楽話にかこつけて語ってしまいました (残響さんのおっしゃるエロゲの本質たる「感覚」とはやや異なる気もしますが)。

 このようなエロゲに広がっているサウンドスケープについても、人の好みはそれぞれ千差万別ですし、またむりやり言葉にして語ってみれば意味がブレていきがちです。こんなふうに感傷に頼りすぎない批評的な分析もまたあるのでしょうが、それは難しいものですよね。
 けれどわたしなどの場合、残響さんのように音楽に造詣が深くないがゆえ、面の皮も厚いまま、こうしたノイジーな語りをより気軽にやってしまってる気もします。知らないとはおそろしきことでww 妄言多謝です。

 それでは。
2017年01月20日23時46分13秒
 こんにちわ。前回このきみはね感想のところで長文レスしてから、1年と2ヶ月経って、ゲェーッそがいに時間がめがっさ経ってるのかっ!と愕然とします。ご無沙汰しております。お元気でしょうか。
 ときに、Sekさんの新作感想文章は、主にサマリー欄の「新着コメント」欄と、えろすけトップページの「音楽感想」のところを定期的に見てチェックしているのです。で、今回の主な話題はその「音楽感想」なのですが。後で思いっきりこのえろすけのシステム面については言及しますが、予め咆哮しますと、「なぜ音楽感想に、コメント機能がないのですかッッッ!」

 ソシャゲを開始されたとのことでしたが、「あいりすミスティリア」だったのですか。楽しまれておられるようで何よりです。腹パンとか焼きそばパンとか、サディスティックなSekさんやで……。

 サディスティックといえば凜として時雨なのですが(エロゲーマーの大勢には伝わらない話題展開)、前回のレスではご丁寧にありがとうございました。非常に参考になりました。
 前回の「TKの詩人性」のところで、書き忘れたのが楽曲「like there is tomorrow」だったりして。この曲こそSekさんの感性にビリビリくるのではなかろうか、このエモーションと喪失と新たなる芽吹きの感覚こそ、と。失礼しました。思いっきり忘れていたのです、ベストトラックなのに!
 さて、そろそろ時雨本隊新作の「#5」の発売ですが、「still~」以前のSekさんには、このタイトルナンバリングからしてちょっと胸じゃわめかせるものと推察しますが、いかがでしょうか。リードトラックが「chocolate passion」とかいうエロゲめいたタイトルですが(酷い)いかがでしょう。

 シューゲイザーのこともですが、「夏ゲーの蝉時雨のサウンドスケープ」と聞いて、非常に納得しました。包み込まれる時雨(いや前述のTK345ピエールなバンド的意味じゃなくて、大和言葉そのものの意味で)的感覚、ザァァアアアァ、っていう。
 Sekさんの「音と世界観と感情」への偏愛を感じとったような気がした、といいますか。そしてようやくここで本題になるのですが、

●Sekさんのエロゲ音楽感想

 いや、非常に活発に、ご健筆なさっておりますね。エロゲ作品本隊よりも、音楽の方が、去年一年、Sekさんはバリバリ書きまくっておられました。
 それに対して、いつコメントしようか、とウズウズしていたのですが。ということで、ここでまとめてコメントさせてください。
 しかし、先にも述べましたが、「どうしてえろすけ音楽感想には、コメ機能がないのですかッッッ!」という次第です。よりにもよって、OP/EDのソングがない「きみはね」の感想で、OP/ED曲談義を持ち込もう、ってハラはいかがしたものかザンキョさん、と自分でも思います。すみません。ただ、現状そういうシステムなもので、ここ以外に上手く話を展開させられる場所がないので……ご容赦ください。

 Sekさんの音楽感想を、いつも楽しみに読んでいます。なんという音楽への造詣か、と恐れおののきながら。
 浅薄僭越ながら自分も、多少は「楽曲の分解的読み込み」には自信があったクチではありました。楽曲を楽器編成とか機材とか、コードとかに分解して読み込む、という。
 しかしSekさんはそれを当たり前のようにこなしてらっしゃって、しかも歌詞や、とくに歌手の特性と有機的に絡め、「曲のエロゲ的popさ」「主題歌としてのpopさ」に目を通してらっしゃる。あくまで軸足を「エロゲ主題歌」というところに置いて。

 もともと、残響はエロゲ主題歌……アニソンというものが、苦手な人間でした。正直、同人音楽にハマるようになって、それが溶解したようなもので。
 なんでかなーと思うのですが、まあ単純に「アニソン/エロゲソングらしさ」というのが「なんかなぁ」とチューリングテストをしていたのでしょう。コンプかけまくったvoとか、歌詞のpop定型性とか。「それの微細な変化をこそ味わうのだよ!」というエロゲソング嗜み道からしたら、自分のはそもそも「お門違い」ってやつです。正直、自分にとっては、エロゲソング、アニソンのメロディラインと歌唱を聴けるようになる、っていうのは、デスヴォイスを聞けるようになるのと同じくらい難易度が高かった。
 Sekさんはそのあたりで、齟齬みたいなものは覚えなかったのでしょうか。ちょっと気になるところです。
 本題からズレていってますね。
 さて、Sekさんの各楽曲解説、レビューを逐一全部コメントしたいところですが、それをガチでやってしまっては、このコメント20000字コースになってしまうので、とくにコメしたいところだけを端的にいきたいと思います。失礼します。

>Yes,You can make it!

この楽曲がポン、と出されて、「あっ、ひょっとして自分の音楽感想をお読み頂いたのかな?」とうぬぼれています。どうだったのでしょうか? それくらいタイミング的に合っていたもので。

あまり、音楽感想をエロゲ感想と同じくらいの文量・文章構造形式でやるひとって、えろすけでも居ませんよね。それこそSekさんくらいです。この量は。それも、これだけ継続して量を書かれるのも。

自分がエロゲ音楽感想をちょっとこのエロスケでやりはじめたのは、Sekさんの影響が相当強いです。「これだけ本格的になすっている! ヤ・ラ・レ・ターッ!!」って具合で。
 自分はかつて、自分のブログ「残響の足りない部屋」で、音楽レビューめいたものをやっていて。だから音楽レビューって「古巣」なんですよね。懐かしさがある。
 そこから、今、自分自身で同人音楽を作曲して、毎年春・秋のM3で同人CDを発表するようになって……実際、現在、2018年春M3でアルバム発表すべく、制作中なんですが。
 まあ、平たくいえば「作る側」になっちまったから、「批評する側」になかなか、なりにくくなってしまったナーという気持ちがあって。気負う必要なんてまるでないわけなんですが、なんとなく。
 それでも、まだちょっと心の中に「音楽語りたいなぁ」って気持ちがあって。で、そんな中、Sekさんが本格的に音楽評論をしてらっしゃるもので、自分のなかで封じ込めてた熱が、ちょろっと漏れ出てしまったのですね。そんなわけで、「空気力学と少年少女の詩」とかをレビューしてみたりしたわけなんですが。 まだ6曲しかレビューできてないですが、ひょっとしたら、Sekさんには自分のこのえろすけでの音楽レビューが伝わっているのではないかなー? と勝手に想像していたりします。うぬぼれですね。まあ、そんな具合なんです。

 また本題からズレています。
 しかしこの曲(Yes,you~)、良い曲ですよね。「新堂真弓の歌唱の語尾」については見解を違えますが、ヴァイオリンとvoを「スピッカート(飛ばし弓)」と表現したのには目を剥きました。和風なバンドで、なんかvoを「声弦」と表現したのをどっかで見たような気がするのですが(もしかして椎名林檎=東京事変だったかなぁ)、そういう言葉遊びだけではない、声弦のコケティッシュさをSekさんは解析していらしてました。
 
 それにしても、Cドラ系列、現在追えていないのは、残響自分でも恥ずかしいところ。

>夏色ストレート

 岸田教団をここまでガチにSekさんが愛好して聞いてらっしゃったとは! びっくりしました。まず間違いなく、ほとんどのアルバムを所持していないとここまで書けません。自分が同じタチだからこそ、わかります。
 やっぱりはやぴ~恐竜ギターに言及しちゃいますよねw フライングVなどのギブソンギターにファズをかけてワウペダルを踏んで、ブルースの遺伝子を変態的に宇宙的に表現するという。その際にピグトロニクスのマザーシップなどのギターシンセといったド変態エフェクターを使っているのがまさに宇宙で、彼が最もリスペクトしてるのが、宇宙ブラックギターアフロことジミ・ヘンドリックスなのですから、さもありなん。
 ところで、ここでギター機材用語を遠慮無く解説なしで書いてますが、Sekさん、アナタ、楽器やバンドやっておられましたね? 以前「中高生がよくやりがちな、イコライザーをドンシャリにした~」ってのをサラっと書いてらっしゃいましたが、こういう記述っていうのは、確実に「経験者」でしかないですよ、バレてますよ!w
 なぁにが「残響さんには音楽には教えてもらうばかりで……」とかって仰っているのですか!(笑) だからもう何の遠慮もしませんよ!

 岸田のことに話を戻せば、いきなり超マニアックなこの曲発表当時の話をすれば、このゲームのOHPでディレクターが岸田教団のことを「いい意味で”異端”なバンド~」っていう風に表現をしていたのを今も覚えてるんですが、「何かもにょる書き方するナー」と当時から思っていました。ただ、Sekさんが仰る「やんちゃなコード、ストレートな歌唱、ふざけたギター」というのは、やっぱり「異端」なんだろな、と今になって思います。
 自分は以前、このバンドについて、「もっとインプロ部分をプログレった楽曲作ればいいのに。ジャムセッションみたいな。スリーコードパンクだけの枠じゃないだろう!」みたいに論じたことがあったのですが。しかし今になってみると、それもそれで「ないものねだり」に近いのかなぁ、と思ったり。少なくとも岸田総帥はこれだけの魅力あるメロ、歌詞で一つの強度高い楽曲を3分パンクの中に、強靱なリフワークでもって「作り上げる」ことが出来るのですから。

 重要なのは……あっいけない、ここで「ひとつでも……」と繋いで「GATE」を歌い出しそうになった!w ええと、重要なのは、曲の世界観と、岸田総帥言うとこの「哲学」なんですよね。OP論、主題歌論にもなってしまいますが、曲を聴いて何を想起出来るか。「ただ凜として」を聞いて黒い海を想起したり、っていう具合に。それをSekさんは「実例」でもって、最後のパラグラフで書いてらっしゃいますね。これなんですよ……。岸田を聞いて、脳内に意志ある情景を浮かべられる、っていうこと。
 
>apoptosis
>0の軌跡

マッツ/ラブジュ曲ということでここでまとめて。しかし、意外にもSekさんがレイルに及び腰であったと知りました。とはいうものの、この及び腰というのは、それだけレイル=希ちゃん的美学に、非常に近いところにSekさんがいらっしゃるだけに、その「相違点」に非常に違和感を覚えてらっしゃる、っていう風に見えます、勝手ながら(すいません)
 だから、レイル信者たるわたしが、これ以上Sekさんにレイルを「どうぞーっ!」って薦めることは出来ないなぁ、と。これだけ本質に近いところにいらっしゃる方に対して。
 「好きでなくちゃならない」っていうので、非常に微妙なところにSekさんは立ってらっしゃるのだと思います。これはねぇ……自分も、ジャズを真っ向からテーマにしたエロゲがあったら、非常にビビりますよ。単に角度の問題なだけなのかもしれません。自分の場合、もともと希ちゃん的バックグラウンドの文学とかは、大学でかなりやってり、個人でもやってたので、レイルのあのネタの嵐っていうのはたいていわかる。で、あとは「やるかやらないか」で、自分の場合、入射角がたまたま合っただけなんでしょう。というのも、「信天翁航海録」が自分のレイル処女を散らしたものなのですが、最初にあの屑、偉大なる屑こと「朔屋さん」から入ったもので、やっぱり屑人間に対する共鳴は世界を救うのですよ!(脳内に電波を検出しました)

 ああ、音楽の話をしていない。そうだ、前に希ちゃんに「信天翁」の音楽の参考元で、いわゆるゼロ年代後期にワールド音楽評論界隈で話題になった「バルカン・ビート」(東欧ブラス/弦な音楽。ファンファーレ・チォカーリアとか、タラフ・ドゥ・ハイドゥークスとか)を参照した、と直にお聞きしたのですが、それをも飲み込み自分の楽曲に仕立て上げるマッツ/松本の音楽センスよ。
 そんな彼が、クラシックの素養を全開にするラブジュについては、Sekさんがいちばん最初に「0の軌跡」をしっかり論じられたところで、精緻に批評されています。この精緻さこそがラブジュであり、このドラマティックを計算して、表現しきる構築性がラブジュであります。そして、世界観と哲学。岸田と同じこと言ってますね自分。

 非常に綿密なスコアです。転調なんか。ここまで作り込まれた名曲を……あー、ぼるしちは……時間さえあれば!時間さえあればROCOCOは出来たねん!演出が! 演出にかける時間と予算だけの問題だったねん! 笛とJは才能ありまくりやねん!(これ以上の話は、クオリアのところでさせてください……)

>Hey Darling!

へいだーりん、きゃっちみー!(Kawaii!)
こういう可愛さはどんどん紹介してくださいSekさん。

>模型

さて、最後に模型の話なんですが。
まず、前回の最初で「フジミ飛龍!ええいお父上は……」って失礼な言葉を並べたのは、大変失礼しました。すいません。勢い余ってしまった。

 その後いかがでしょうか。Sekさんがモデルライフを楽しまれておられておいでなら、わたしとしては非常にうれしいのですが。そして、お父上のスケールモデルライフもいかがでしょうか。お二人それぞれに興味があります。

 自分は、フレームアームズ・ガールとかの「美少女プラモ」にハマってしまったり、模型展示会に出展側で参加したり、とぼちぼちやっております。

 Sekさんは「ヤスリで整形してると心が落ち着く」と仰ってくれましたが、ホント、これが模型の最大のたのしみなんだ、って今になっては思います。
 今まで自分にとっては、作り上げたモノこそが価値があって、制作過程というのは「過程、工程」であり、手段に過ぎなかったのです。そして、なんか、承認欲求とか考えてしまって、ね。

 でも、ヤスリをかけている、今まさに工作しているこのときの、心の静かな心地。これこそが、本当にたのしく、いろいろ学びや発見があって、心洗われる。
 趣味とはそういうものであって、エロゲもまたしかり。何か、ついつい余計なものを付け加えたりしてしまいがちな残響でありますが、本質は、見失わないようにしないと、と思います。Sekさんにそれを説教出来る立場になんて到底ないのですが。

 先日、自分のえろすけ近況報告欄にも書いたのですが、音楽感想で「芋虫」(「鬼作」ED)、体験版感想で、はちみつそふと「HarmonEy」のことを書きました。一歩一歩、心静かに、趣味を楽しんでいきたいと思います。創作もまたしかり。模型、工作も。

 何かを他人に伝えられる、とか、伝えよう!とかって思い込むこともまた傲慢なもので。自分はそこんところを、例えば百合において間違ってた部分もありました。ええ、そうです。自然に、自然に。


 というわけで、また長文になってしまいました(陳謝)。何かしら拾っていただければ幸いです。
2018年02月11日12時56分37秒
 どうも、すっかりお久しぶりでした。音楽感想を細々とでも書いていると、文字にしたい欲がだいぶ発散されてしまい、エロゲ本編の感想が手につかなくて悩ましいです。Sekです。日頃からツイとかやってる方々は、感想を書きあげるモチベーションがよく維持できるものだと感心します。ましてエロゲライターの人とかはすごいお仕事だと思います。なにを食べたらあんな延々とイチャラブテキストを書けるようになるのでしょうか。

(以下、『きみはね』の話はまったくしておりません。大変ご迷惑をおかけして申し訳ございません。)

 前回の話のつづきからいくと、時雨本隊の「#5」にはちょっとニヤリとしちゃいますよね。このバンドも、そうしたナンバリングを再び進めはじめるほどまでに年輪を重ねたわけで、なんだか感慨深いような。
 アニメ界隈での時雨/TKは「腹から声出せ」とか親しまれつつ話題になってましたけど、あの時期にはpeople in the boxやamazarashiといった辺りのバンドが、立て続けにアニメタイアップを組まれていました。最近のアニメとかは全然わかってないのですけど、どれくらい定着したのかな、邦ロック方面にはファンを引き込めたのかな、とちょっと気になります。
 エロゲもポップミュージックも、コンテンツ商売として、似たような時期に似たような斜陽のおもむきを醸してきた印象もございます (少なくともパッケージ販売においては)。もちろん、いっしょくたにそれらの商売を語ってしまうのは間違いですけど、わたしにとってはどちらも単なる趣味だから、となり合わせに捉えてしまうこともあって。たとえばART-SCHOOL「LOST IN THE AIR」なんて聴いていると、唐突に果てるようなブレイクやらリズム感、へたれたボーカルなどに、すっかり錆びついたわたしのエロゲーマー魂がいまだ共鳴してはサビ鳴りしてしまったりする。エロゲと音楽は、そのいずれもがなよなよしくてエモい趣味ではあるわけで、やっぱり普通に相性がよいのかなぁとか思います。なので、その中間地点にあるエロゲソングに向けても、ポップさがどうのと口幅ったく言ってしまったりするのですね。

 かねてから残響さんと音楽性の違い()を感じるところはあり、アニソン/メジャーJPopなどへの親しみかたについては、出発点がまるで違うみたいですよね。わたしの場合、クラスのみんなと話題をそろえるためのMステとかもきちんと観れていたクチでして。ポップミュージックのする音づくりへの抵抗感があったとしても、それはむしろ実家めいた煩わしさだったりします。
 たとえば中学生の頃だったか、はじめて自分で買ったCDとかを考えてみても、たしかGARNET CROW『first kaleidscope』でして、後にはアニメ『名探偵コナン』の主題歌とかも担当しているビーイング系列のアーティストです。「君の家に着くまでずっと走ってゆく」とか今でもなお好きですし、(関西出身でもない) わたしが「拾う」と書くときに「ひらう」と好んで字を開くことがあるのは、「Holding you, and swinging」という曲に書いてあった「やけに今 躰が音をひらうよ」といった歌詞の影響をもろに受けていたりします。
 音楽全般にしても、エロゲソングにかぎっても、ほぼほぼメジャーな上辺のところしか知らないわけでして。偉そうな口ぶりをまじえつつエロゲソング感想を書いているから誤解をさそっている気もしますが、たいそうな知識とかはありません。残響さんのいうギター機材用語とかも、実のところチンプンカンプンなのですよ (これがバレてしまうとハッタリ効かなくなって困るのですけどww)。
 楽器にさわる機会があったのは、幼稚園から小学生までくらいの期間で、ヴァイオリンを習ってました。練習とかいろいろ辛くなって逃げちゃったのですけど、いま思い返せば贅沢をさせてもらっていましたね。こうしていい歳になってエロゲソングへ感想を書いてみると、ヴァイオリンを嫌悪したり敬慕したりの記述が自然と出てきまして、なんだかんだ言いつつ自分にとっていちばん愛着あるのが、この音なのかなと思っております。こちらについてもベタな曲が好きでして、パールマンの弾いたパガニーニの「24のカプリーズ」に感動しては、いまだ聴くたびこらえきれず爆笑していたりします。

 そんなふうにヴァイオリンへのこだわりが出た感想のひとつが「Yes,You can make it!」へのそれだったのですけど、お察しのとおりで、残響さんの感想をきっかけにして書いています。新堂真弓の癖のある「Yes !」が耳にひっかかって記憶に残っていたわけですけど、わりとマイナー曲のたぐいなのではと思います。それが残響さんの口からいきなり出てきたものだから妙に嬉しくなり、寄せて書いたわけでして。「細井聡司その人です。」といかにも知ったふうに仕上げてはいますが、「たぶんぜったいこのコンポーザー聴いたことあるんだけどなー」と曖昧な手ごたえから調べつつ書いていったのが内情でして、わたしの知識の手持ち分などそんなものなのです。グーグル先生ばんざいです。
 そもそも、わたしが口切りとした「0の軌跡」感想にしても、残響さんがCrimdollのKANATAさん (次のM3でもご一緒みたいですね) と駄弁っていたラジオ (なんか妹さんが出ていらした回) をたまたま聴き、そこで話題に上がっていたこの曲をひっぱりだして聴き直したのがきっかけでした。観月あんみボーカルは「Memories are here」での言い回しがどうにも堅いニュアンスに感じてしまい、ちょっと苦手意識が先行してたのですけども。何年かたってみれば自分の聴き方もだいぶ変わっているもので、あらためて「0の軌跡」を聴いてみると綺麗に軸の通った声がすっと入ってきました。彼女の歌は、またいつか聴ける機会があれば嬉しいのですけども。

 残響さんの「空気力学少女と少年の詩」感想は、掛け値なしに素晴らしかったです。わたしにとっては、残響さんが書かれたものの中でもいちばんすんなり入ってきましたし、「音の壁」のお話など基礎的なところもふくめて教わりました。ライターさんがピクシーズからよく引用するということも、「Alec Eiffel」なる楽曲すらも知らなかったので、自身の感想でエッフェルについて触れたときから残ったままだった違和感がようやくあそこで解消されたわけで。ありがとうございます。はたしてイクテュスのくだりは、vostokさんのところで話していたのを拾っていただいたのでしょうか。最後のほうまで来てもなお「だからもっと深く読まなきゃならない、ここまで文を重ねたからには。」とか拘りつづけるのは卓司みたいで、自然とあのお話に重なっていくようなところも好きです。
 そしてあの感想を読んでみたところから、及ばずながらと「恋をしようよ Let it snow」のことを書きはじめたのですけれども。松本文紀の楽曲というのは、どうにも矛盾めいていてよくわからなくて、なかなか次の感想文には取りかかれる気がしません。
 ところで『すば日々』の楽曲については、本編はもちろんのこと、例のトリビュートアルバム『07-20-2012-1999』に愛着があったりします。X2N_「Smile of the End」とか、viewtorino「終わりの七月」とか好きなのですけど、アルバム全体にわたりローファイにねじれて鋭い音が徹底されており素敵です。ギターがはっちゃけ過ぎな曲も多めになっており、松本文紀を聴いてたと思ったらナンバガ聴いてたぜ、俺にも何が起こったか……というたぐいの人にも楽しみどころが多いような気がします。松本文紀の楽曲はこんなふうにも愛されてるものだから、感想書こうにも及び腰となってしまって。それだけに、残響さんが書き上げたものにはいっそう感服しています。
 (為念です。)
 http://jabberwocksounds.tumblr.com/post/27559140714/07-20-2012-1999

 さてさて、岸田教団についてはお察しのとおり…じゃございません。わたしの場合、誰かのファンとして逐一に追いかけることをあまりやらないタチでして、岸田教団のアルバムとかもかなり歯抜けのままになっています。かつて「ただ凛として」とかの頃にはわりと聴いておりましたが、そこからはだいぶブランクが空きまして。つい先頃になって、merunoniaさんが「Alchemy」や「ケモノノダンス」を楽しそうに聴いてらしたのを見かけたのを機に、またいくらか聴くようになった次第なのです。とりわけ「Alchemy」のギターとかはもう最高にアホでして、最近知ったなかでも指折りに爆笑していました。あれほんと好きです。
 余談だけど、以前にここエロスケで、merunoniaさんへレスしたことがあったのですけど、彼の『BackStage』感想を読んでいて、どんな人なのかとツイを見に行ったら「ばっらぁぃくっ ふぇぇぇぇぇぇぇぇいだうぇい!!」。ちょうど当時デモムービーが公開された「Tomorrow Never Comes」を熱唱していらしゃって、え、やだ、この人わたしと同じことしてる……と親近感をおぼえたからだったりします (ひょっとしたらこれは記憶の捏造で、そんな恥ずかしい人間はわたしのみだったかもしれず、その場合は大変申し訳ございません)。

 とまぁ、いろんな方の聴いているものを横目でひらいながら場当たりに書いているわけです。日曜になって陽が落ちてから、とりあえず書いて投げておかねばー、とか言いつつやっております。ただでさえ周回遅れで好きなものの感想だけ書いてるのに、理屈をこねるうちに当該曲からも離れてしまい、別の楽曲のこととかまるで関係がない話へと逸れたままになったりする、あまり行儀がよくないエロゲソング感想です。レスもつかないことだし、読んでる人も少ないだろうからと放言しているきらいがあるので、そこはもうちょっと戒めねばとか思いはじめてます。
 あるいは、入力してる評点がわりと厳しくなっちゃっているのも、ちょっと気にしております。たかが点数の話ではあるのですが、気にする方は気にするものでしょうし。ただ、どうにもエロスケの仕様に則って使うのにも気が引けていまして。たとえば、「櫻ノ詩」がデータ数225でもって99.4というスコアを表示してるのを見たりすると複雑な気持ちになります。すごくいい曲だから評価されるのは喜ばしいのですが、なにもこうやって善意のシステムでもって "この音楽はいいよね" と保証されなくとも、賛否両論の末にでも "この音楽はいいよね" と言われるべき曲だったろうにとぽいずん。


 さて。
 毒をお漏らしかけたので、さりげなく話をあさっての方向へ変えとこうと思います。
>>
ソシャゲを開始されたとのことでしたが、「あいりすミスティリア」だったのですか。楽しまれておられるようで何よりです。腹パンとか焼きそばパンとか、サディスティックなSekさんやで……。
<<
クルちゃんは、焼きそばパンをねじ込まれても「あれ、いま私ってオイシイ?」とか思っちゃう癒し系アイドルだから大丈夫です。たぶん。

 ちなみに、あの感想文では最初タイトルを明記していなかったのですが、秋口からはじめたソシャゲというのは『ぼくらの放課後戦争!』のことでした。ペンギンかわいいよペンギン。どうかいつまでもそこに居て、わたしがクリックするたびに秋刀魚とか栗ごはんとか松茸を、たーんとお食べなさい。きたる冬に向け、おなかにしあわせな油断肉を育てていくのですペンギン。そして体重計にのって、陸上部所属の妹さんとの基礎代謝の差に戦慄するのですペンギン。といったことを昨秋あたりはやっておりました。かわいいよペンギンかわいい (※幼馴染ヒロイン・相川小春のこと)。
 残響さんに全然わからない話ですみません。
 『あいミス』も『ぼく戦』もなのですけど、「素材は最高だったのに…」という怨嗟の声がそこかしこから湧き上がり、ひと昔前の萌えゲーをほうふつとさせる状況となってました。なんやかんやとあって現在、『あいミス』は休業に入ってしまうし、『ぼく戦』においては「運営チーム変更記念ガチャ」とかいう恐ろしい字面をしたシロモノが絶賛実施中でございまして。ソシャゲ事情とかにまったく疎いわたしなどは、え、やだそれまでも記念しちゃうの? ソシャゲまじ怖いってなっております。

 (エロゲーマーとしてはもうシーラカンスの干物みたいなプレイ近況のわたしですけど) エロゲーマー的な感覚からいえば、『あいミス』の主人公の間合いの取り方とかは独特で面白かったです。没入型か観測型か、一人称なのか三人称かみたいな話として、主人公の造形とかゲームでの選択肢の入れ方が、主人公の視点をプレイヤーの視点まで引き上げてしまうように調整されてまして。ヒロイン同士のキャッキャウフフを眺めていく方向に特化されていて、主人公の存在をゲーム内世界からディスプレイの前にまでキックしておくようデザインされてました。AUGUSTさんなりの、パッケージエロゲとはまた違った回答であるのかなとも思います。

 これからエロゲメーカーやそこで活躍していたクリエーターさんと、ソシャゲの関わりがどうなっていくのかというあたりには、他人事ではいれないので興味あったのですけれど。不憫萌えとかをするわたしとしては、むしろ、『天穹ノ彼方の錬星郷 (ソラカナ)』というソシャゲの背景設定なんておもしろかったです。女の子たちの人間エッセンスをごりごり削りながら防衛戦争に向かわせるという (『結城友奈は勇者である』とかと同じたぐいの) ヒロインたちの純粋さや使命感とかが愉悦な世界観でございまして。より強いレベルに育てるにつれ人格が崩れて、普通の可愛さがこぼれ落ちていってしまう女の子グラに、妙にきゅんきゅんさせられました。
 ただ、それとともに『ソラカナ』にはいまひとつ欲求が満たされない感じもありまして。せっかく共時性をもつソシャゲなのだからシステム的にも不可逆的な寿命を組み込んでしまって、古きPS時代の名作『俺の屍を越えてゆけ』のようにしてキャラクターに愛着をつけておいたらば、よりエグいものが仕上がるのにとか思ったり。ソシャゲというのは、わたしなどには馴染み深かった "資産 (宝物)としてのゲーム" から "フィービジネスとしてのゲーム" へと変わっていたみたいでして。時間経過とともにインフレが起こると、ゲーム内の手もと資産は目減りしていくのですけれど、ならばいっそ、そこに上手く適合するヒロインの儚い愛らしさを見せてもらえたらば、また感動が掘り起こされるのやもとか思います。
 そしてこのあたりがちょうど、現行のパッケージで完結したエロゲにおいて、ヒロインがずっとずっと静的に性的に可愛いところとは、衝突をまぬがれなさそうで、どうなっていくのかなぁと興味しんしんでございます (野次馬根性)。


 そんなこんなで、ほぼほぼ狭義のエロゲーマーでなくなっている近況なのですが、エロゲソング感想はしばらくこうして細々と書いていくつもりなので読んでいただければ幸いです。残響さんの音楽感想や、創作活動にも期待しておりますので、何卒。
 ではでは。
2018年02月12日22時20分04秒

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