Sek8483さんの「相思相愛ロリータ」の感想

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**ネタバレ注意**

ゲームをクリアした人むけのレビューです。

これ以降の文章にはゲームの内容に関する重要な情報が書かれています。まだゲームをクリアしていない人がみるとゲームの面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。

自分のおもらしを、幼女にきれいに飲み干してもらう。「とってもお喉が渇いてたの。ありがとう」って微笑まれてしまい、キミはこんなものに感謝しちゃいけないんだよと抱きしめたくなる。そんな汚辱的なお話。妖女まこちゃんの、フラットな声づくりが印象的です。

 強い母性をもった幼女というのがセールスポイントの作品。そこのギャップでもって、男が女にまいっちゃう古典的な弱点をついてくる、手堅いつくりとなっています。テキストには不穏な情感もちらつくけれど絵とボイスがよく落ち着かせ、物語が平坦にならされると、そこにロリっ娘ユートピアが立ち上がってくる。ほんのすこおし動かして惹きつける顔つき、やわらかな言葉選び、波立つことない声のお芝居。それらが待っていてくれると思うと、家路も静かに喜ばしくなります。

 ただ個人的には、語り口があまりに謎めいていた印象です。寝物語にしては含みがちらつきすぎたような。ストーリー上ではとても嬉しい "はじめて" をひとつひとつ愛でるのに、その水面下では "Einmal ist keinmal (一度では数のうちに入らない)" しかつめらしく首をふるような、倒錯のある物語。散りばめられた文学モチーフがお話に馴染みきらないのは仕様でしょうけど、意味の豊かすぎる余韻にはモヤモヤが残りました。

 サリンジャー『エズミに捧ぐ』だのと解釈でさわがしい感想になっておりますが、次のようなことを書きました。

1, テキストが不穏な含みをちらつかせるところに、ボイスや絵が安心感を与えていた。

2, 感情を疑い、それを正面から表す事をためらうふたりが、"ごっこ遊び" をする物語である。

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 1-1, 汚辱のこと

 いきなりワタクシゴトで恐縮なのですが、このところ仕事のほうが、地獄の釜のふたを開けたような状況でした (くぱぁ)。それだけならまだしも、はんざつな人間関係がじわじわと根を伸ばしはじめまして。夜ごとに栄養摂取ミッションなど課せられて「お前はただニッコリ笑って肉棒くわえるんだよ」とか威圧されますと、わたしの表情筋も肝臓もガバガバなのです。いっそのこと "品名:フォアグラ" とかの扱いで会社から出荷されれば楽になれるのにと、心がドナドナしてきます。お腹とかも妊娠ニヶ月半あたりを順調に迎えましてぽっこり。
{
取引先「ふふふふ、落ちたな」
わたし「くすん……落ちちゃった」
 経理「あ、それ落ちませんよ」
わたし「え?」
 経理「え?」
}
胎教によくなさそうな日々です。
 それで最近は、ストレスがはじけて女性用の生理ナプキンを買い求めるくせがついちゃいました。「多い日も安心」ってやつ。これがよいものなんですよ! スリムガードとかでも、装着時の守られてる感が断然違うんですよね。いやまぁ、おおっぴらにするような話でもないのですが、労働者階級としてふんばってきたのが実を結び、わたしもこのたび "ぢぬし" の仲間入りをはたしまして。そこへ業務上のやけっぱち進行と、営業外業務による不摂生がつもりつもって、はじけてお赤飯な事態にまでいたったわけです。ドバドバです。ドバドバですとも。自分のお股から血がしたたる体験はまさに超常現象といったところでして、たまさかにTSエロゲとかやりたくなっちゃいます。肛門科にかかったさい、看護師のおねえさんに「あら、おしりキレイですねー」と褒めてもらえたのが最近の良かった出来事です。てへへ。

 さて。
 しょうもなくて汚辱的な話をしてしまいましたが、ここから場面は一転。ようやくわたしは引っ込みまして、『相思相愛ロリータ』についての話です。
 主人公はしがないサラリーマン。人並みていどに労苦を背負い込んでいて、ここから先にはたいした希望も絶望もなさそうだけど、自分がどうやって心を擦り減らしてきたのか誰かに打ち明けたくてしょうがない男です。そんな彼のもとに聖母みたいなロリがおとずれると、人生相談から下のほうの処理までかいがいしくお役立ちしてくれるというドラマティック。映画でされるキスみたいにして、はすかいに合わさってるふたりの、平らかなユートピアでのお話です。
 キーワードとなるのは "ごっこ遊び"。


 1-2, ようじょつよい

 まこは、あたかもドラマのように賢くて優しくて、愛らしい子です。ぱたんぱたん、と革靴の底を鳴らしていたかと思えば、まだ彼女にはぶかぶかの、おとなみたいな語彙が飛び出してくるので驚かされます。会話の運びが、そふぃすてぃけーとされてます。
 そんな聡い少女が、ひよこのようにピッタリ跡追いしてきて、親鳥みたいに絶えまなく愛情を与えてくれるというスゴイ合わせ技。もうわたしなどは年甲斐もなく、口にしたところでしようもない弱音を吐露しちゃいます。すると柔らかな手のひらが伸びてきてなでなで、寝付くまであやしてくれて。そうして小さな身体で受け止めながら「話してくれてありがとう。そういうものだよね」解決策を打ち出すことなく、共感で湿らすこともなく、ただひたむきに存在を認めてくれる。聖母でございました。

 でも一点の曇りもない善意のみで造られたロリっ娘かといえば、そういうわけでもなくて。ちょっとした拍子には横顔から愛情への飢えがかいま見えたりするから、わたしはそれに納得できるのです。気を抜くとすぐに子供っぽくなってしまうから、わたしはそれをまた喜ぶのです。

 ところが、そうして歳相応の姿に安堵できたのもつかの間、次の瞬間にはどきりとする一言がきて、またも手玉に取られてしまう。「まことえっちなことがしたいの?」愛らしい唇がおそろしいセリフをささやきました。奇襲じみたロリからのお誘いに、わたしの中では天使と悪魔がせめぎあいます。
 天使がわたしに語りかける「心を平静に! 純朴な少女ゆえ、映画のごときセリフまわしで戯れているのだ。求められるのは父親としての役割である。そもJSに手を出すとか人として一発アウトであり、その右手は静めたまえ!」。
 だがそこで悪魔もわたしに語りかける「いやむしろ右手よ唸れっ、唸ってトイレで一発抜いてきて賢者タイムのあいだに退くんだよバカっ。この子のためにもさ、実際、せめてJCになるまで我慢しとこうや? な? 大人だからわかるよな? ……ああっもうっジーザス! これ条例ですむ話じゃねーんだぞ!? 刑法マターに突っ込んでんだからな? ……いや、ちっげーよ、幼女のおマタに突っ込めだなんて誰も言ってねーよ、このエロゲ脳!」。
 こうして悪魔の言葉へと必死に抗うわたし (のちんこ)。そんな葛藤を見透かすように、彼女はころころ笑うのです。
>>
「……ふふふ♪」
 だけど――僕がおろおろしていると、彼女は笑った。

「もっと困って」
「……っ」
「お仕事の間もね、まこの言ったこと、考えてね」
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うわようじょつよい。天使も悪魔も吹き飛びます。このちっちゃな妖女がときおりふりまく女の香りは、かなり鮮烈なのです。

 おかくんが小学校の頃に手をつないでた相手については「男の子? 女の子?」きっちり問い詰めちゃいます。お姫さま扱いに喜んで「ふふ……映画みたい」俗なほど女の子な反応を見せます。冗談めかして奥さんのごとくふるまいはじめたりもして (……もし同じことを28歳OLにされたらと想像するといろいろ怖い)。
 駆け引きしたり、嫉妬したり、優越感にひたったり、庇護したがったり、視線を欲しがったりと、まこは女の性をちらつかせます。ところがそんな風に香り立たせるのはやはり一瞬だけで、またすぐに幼女のあどけない仕草にもどってて。そうして残り香となった彼女のコケトリーが、いつでもわたしを捕らえなおすのです。女はみんな女優です。


 1-3, 平坦な声

 そのように、まこにはきわどいセリフも多いのですけど、これをやわらかく仕上げてくれたのがCV紫乃小文。穏やかに平坦なお芝居がされることで、扇情的になりかねなかったキャラ設定やシナリオには、ごく安定したトーンがつけられました。

 まこの平坦さには妖しき魅力が秘められてるように感じます。おかくんの表現を借りると「この年頃の子らしい、興味があるのかないのかわからない平板な返事」といった様子。また彼女は、哀しさや不条理を飲み込んでしまうと、年に似合わない泰然としたふるまいもしています。「あいのためならなんでもするの」印象的なセリフを一様にくり返すあたりは、字ずらだけ見てると、ちょっとそら恐ろしくすらある。
 ところがです。これがいったん声優さんへと渡されてみたらば、その平板な調子は、安心な音となって返ってきました。聴いたまま眠りたくなるような息づかい。
 まこがさびしいセリフを言うときは、なんでもないことみたいな口調で言うから、強くプレイヤーの感情を引っぱることがありません。あるいは嬉しがるときも、どこかひとり噛みしめるふうで、いっしょに喜んで!といった要求がまとわりついてくることがありません。さびしさに巻き込まないのは優しいことですし、嬉しさにしたって足の早いナマモノだからお裾分けされてもしばしば扱いに困ってしまうもの。まこCVはそこへと一線をひいており、聞く人を感動させようとたくらまない演技、眠気をさそおうとする演技になっている。それはお芝居の本来からすれば目的が倒錯してしまってもいるけど、まこがもっている自立心 (あるいは根本的な人間不信) を、ほどよく謙虚な声づかいへまるめ上げたところには妙があります。

 彼女のその話しぶりは、おかくんにとって親しみ深いものでした。
>>
 僕は、昔から素直に感情を表すことができない人間だった。
 なぜなら感情は人を操る。
 怒っている人を見れば一歩引く。泣いている人を見れば心配する。感謝を見せれば好感を抱く。

 自分の感情が、ともすれば目の前にいる人の感情を支配してしまうことを恐れていた。
<<
このような、感情を露わにすることへのためらいが、本作ではポイントのひとつになってるよう考えます。ふたりして感情へ懐疑的になり、あくまでも "りゆう" を欲しがったりします。先生から「私の娘みたいなもの」と暖かい言葉をもらうことへの複雑な感情をまこが押し隠していたり。おかくんは職場で感情をコントロールすることをついに割り切れるようになったり。海兵隊が僚友の遺体を回収するのは結束のためであり合理的、といった小ネタもまじえたり。社会のなかで感情を観せて利用することについてよく意識された作品です。
 まこも子供なりに (あるいは子供だからこそ) 事実を愛する、もしくは統計を尊重するタイプの人でして、そのセリフにはしつこい問いかけや不満の訴えではなく、乾いた断言が多いです。「ひとりで生きていかなくちゃいけないの」。まことおかくんは真正面から感情をぶつけ合うことをしないから、やや冷めたものの見方にすらなりかねないところ。事実を確認していくふたりの対話は誠実だけど、それを突き詰めれば、どうあってもふたりの理屈の微妙なズレという結末がおとずれてしまいそうです。
 そこへと、音声がさらりとつけておいた温もりは彼らをよく助けていました。まこの声はいつも平坦で、乾いたシーツみたいにして気持ちよく張られているから、その耳触りだけを楽しんでいるうちに「ああ、もっと真剣に考えねば……ねばな…ら……zzz」その上へと考えを投げ出して、休ませてもらえます。一面のまどろみの上で、まぜまぜしちゃえる。まことおかくんの、それぞれの理屈は "どうあってもズレてしまう" のではなくて、"はすかいに組み合わさっている"。そこの微妙なニュアンスをCVはよく表現すると、ふたりの対話のかすがいとなってくれていたように感じます。


 1-4, 目線の移り変わり

 もうひとつ、テキストが怪しい香りをふりまいても、すばやく塗りかえてくれるのがキャラ絵。まこの大人びた描写やセリフにぞくりときて目をこらしても、見えるのはやはり未熟にやらかいままのほっぺた。「彼女の長いまつ毛が~」と文面でいわれても、その垂れ目にはやはり親しみのほうがまさります。物語がどんなにまこのなかの空洞を掘り込んだとしても、わたしに見えてるのはやっぱりぷにぷにほっぺたの幼女。だから、どうあってもその安心感は傷のない、元の状態に戻っていく。絵のもつ強引なほどの力が活かされるかたちです。

 グラフィックは、まこの目線の高さについてもよい働きをしていたよう考えます。
 幕開けから、いくども繰り返されることになる満員電車。その一枚絵では彼女との身長差をはっきりと描く構図がとられており、人波からまこを守るときの視点となってます。見上げてくる純真な顔つきが可愛い。
 しかし電車を降りて、川辺をたどって家へと帰るときになると、その角度は変わる。ごく普通のエロゲの立ち絵と向き合うわけなのだけど、あらためて考えるとこれがスゴイのです。まこの頭はもっと下のほうにあって、本当ならこんなふうに正面からその目を覗き込めはしないはずなのに、いつの間にか彼女とは視線の高さがそろってしまってます。おかくんが思わずあの頃へとかえり、川面に水切りのこととか語り出してしまうのもよくわかる。『相思相愛ロリータ』をプレイするわたしが腰をかがめたりせずとも、手品みたいに、ちいさな彼女とは目線がぴったり合っており。だから、じゃれあって素朴な思いを吐露してもゆるされる関係になれます。
 あるいはまこから大事な話が打ち明けられるときの一枚絵、ベッドに座って彼女を後ろから抱えるときには、また上から見守る目線になっています。けれど、ベッドから立ち上がって支度をはじめた途端に、彼女とはまた目線が同じになって、賢くて甘やかしな "奥さん" がもどってくる。彼女を頭ごなしに扱ったりする心配もなく、対等っぽくお話できてしまうユートピア。
 そうして角度ごとに表情がうつろってゆく彼女の存在は、おかくんのような表情がすっかり筋張った社会人にとっては尊くすらもあり。目が離せなくなってしまいます。エロゲの形式としてはごく当たり前のものなのだけど、そうして視線の高さを自然と切り替えていくところが、まこがあどけなく笑ったり、さみしいことを淡々と言ったり、ごっこ遊びの役に入ったりと、表情を切り替えていくシナリオにからみ合って、いっそう幻惑させてくれていました。

 満員電車の一枚絵については、もうひとつ言いたいことが。開始シーンでの表情差分の使い方がすごく巧いです。のっけから、カサカサに割れた唇で「疲れた」と語り出すテキストには真顔にさせられてうつむいてしまう。と、いつの間にやら少女が平板な瞳でこちらを見上げてきており、ほんのすこおしだけ微笑んで。その流れにはいっぺんで引き込まれてしまいます。最初の引きを開始からせいぜい三分かそこらに用意しておき、こうもシンプルに魅力的に仕上げていることは、やはり賞賛ものなのです。
 エロゲヒロインは (その生まれからして当然なのだけども) アイドルみたいにはっきりとした笑顔をする機会がなにかと多いです。それはどうしてもユーザーみんなへ向けた笑顔だから、私個人としてはいくぶんかの忸怩たる思いがございまして。きー。
 満員電車のなかで、目配せするみたいにして変えられたあの表情はなにかとても親密でした。彼女がすこおし動かしたあの表情は、ただひとりにだけ伝えるサインであることがよく描かれていて、特別な関係が結ばれた気にさせられてしまう。そのひそやかな含意がわたしには受け取れたのだから、この子へはおせっかいをしても良いのだと思える、とても素敵な出会いの描写でした。



 2-1, 『エズミ』ごっこ

 話は本作から少し離れるのですが、この満員電車での出会いのシーンからは、サリンジャー『エズミに捧ぐ』における出会いをなんとなく連想しました。主人公がふらりと立ち寄った教会で、合唱隊のなかにいたエズミに注意をひかれたときのこと。
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しかし、このお嬢さんは、自分ののどにもいささか興味が失せてきたらしい。あるいは、ただ、そのときその場に飽いたというに過ぎなかったのかもしれぬ。とにかく、一節歌い終った切れ目にあくびをするのが二度ほど私の目にとまった。淑女らしいあくびであった。口は結んだままである。しかし、見ていて、見逃すはずはない。小鼻の感じでそれと分るのだ。

(『エズミ』より)
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この「わたしだけが理解している」感が、満員電車のなかで結ばれた親密さとはどうも似ている気がしまして、ぼんやりイメージが重なるような。
 その後にまこから不可解なほど積極的で丁寧なアプローチがはじまると、少しずつ『エズミ』とは確かにイメージがつながっていきます。人に親切にする機会をわざわざ探していたり、お姉ちゃんぶった物言いになったり、歌で (アイドルとして) お金を儲けるのだと素朴に言ってみたり、父親への憧れと喪失感をのぞかせたり。前編が終わるあたりで彼女が教会ゆかりの子供であることが示唆されたときには、腑に落ちるものがありました。

 まことの出会いとエズミとの出会いが似ているというのは、わたしの妄想のたぐいかもしれませんが、本作が『エズミ』をモチーフとして作中にばらまいていることは事実です。「はすかいに合わせる」「角のところで会いましょう」といった決め文句はもちろんのこと、まこのする大人びたふるまいや、地の文の言い回しまでもが、ときおり『エズミ』をなぞっていきます。

 さきだって『相思相愛ロリータ』の本筋を確認しておくと、いびつな社会人・小学生カップルが、親子ごっこと恋愛をないまぜに進めていくストーリーになっていました。母=まこ、息子=おかくん。……いやいやいやいや、なんでそーなった。この手のシチュエーションならば、父親役になった男がこのまま判断能力のない子供の未来を傷つけてよいものかと煩悶するのこそが常識でしょうJS。なにあっさり手を出したあげく授乳されてるんですか、おかくん。
 そんなちょっぴりトリプルアクセルきめた親子ごっこが軸となるのだけど、その他にも、夫婦ごっこ、お姫さまごっこ、そしてぬいぐるみを弟に見立てたものと、"ごっこ遊び" がとにかく盛りだくさんです。おうちデートばかりのふたりなので、家の中でいろいろと変化をつけながら遊んでいた結果ですけれど、これはまた感情を吐露することが苦手なふたりなりの、精いっぱいのコミュニケーションでもある。冗談めかしたおおげさなセリフのなかに、願望をしのばせて伝えるすべです。
 そして、親子ごっこが作品のまんなかの大黒柱とすれば、(必ずしもプレイヤーには明示されないまま) 外の景色を取り込んでおく窓となっているのが『エズミ』ごっこといえます。

 まこの言葉はところどころやけに含蓄をもち、幼いものがふいに口にした言葉なのに穿っているから感心してしまいます。ただそのときわたしは、必ずしもまこ個人の賢さに期待しているわけではなく、ロリっ娘の叡智に期待しているようなフシがあった。つまり、彼女から伸びる見えない導管をつうじて、"子供" というものにあふれる叡智にふれられまいかと探っていたりします。げへへ。
 しかし子供ってやつは、わたしがあさはかに願望するよりはずっと小狡く、汗くさいほど献身的なものでして。大人に愛されようとすると、その勝手なロリっ娘幻想にすらもしかるべきかたちで応じてしまうのです。
 まこは、とても頭の良い子です。何もわかってないくせに全部わかっているという顔はするのだけど、自分が全部をわかっていないことまでちゃんとわかっている子です。なので、大人をも感心させてしまう上品なコケトリーなどは、本から学んできていたのです (駅で待ち合わせをする彼女はいつも本を小脇に抱えていました)。

 そこで種本となっているのが『エズミ』。
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「ん……。こうしてするのを、"はすかい"っていうんでしょう?」
 お互いに斜めにするという意味の単語。

「映画とかドラマで見たの、思い出して……勉強したの」

「はすかいに合わせる」
「はすかいに合わせる」

 くちづけをかわす以外のどんなときにその単語を使うのか、僕には想像がつかなかった。
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このやりとりは『エズミ』の「映画じゃどうしてみんな、はすかいにキスするの?」というセリフに由来するもの。本作におけるごっこ遊びのユートピア、真正面から向き合わないようにして理想的に続いてゆく関係を、うまいこと言い表したフレーズです。
 「とっても、とーっても、さびしそうだなあ、って思ったの」。「また遊びに行っていい? って、わたしから聞くの」「だってね、おかくんは自分からまこのこと、誘えないでしょう?」。「どんなキ・ノ・ウでも、傷のない、元の状態に戻るからって」。これらの原作付きのセリフを暗誦するまこはまとう雰囲気が変わって、そのときだけ女優に化けるかのようにして印象を残していきます。それにあたっては地の文までもが芝居めかす場合がありまして、『エズミ』の文体そのものを真似ております。地味なところでは、まこの動作もよく似せられていて、やけに髪の乱れを気にしいしい手で整える様子であったり、そのときに脚を交差させて立つほほえましい仕草だったり。
 『エズミ』ごっこは様々なところに折り込まれており、そのとき物語の線がだぶることで、捉えがたい一瞬の不可思議をプレイヤーに残していきます。ひとつひとつ比べるときりないですけど、おしなべてそれらのシチュエーションには微妙なズレがともなっていて、ともすると原作のセリフを悪戯に使っている感すらありました。これはむしろ当然でして、なにしろ "ごっこ遊び" の一環として本作に折り込まれており、まさに悪戯がため借りてきたものだからです。あるいは、三度目のお部屋シーンではおごそかに「愛らしきくちもと、目は深い蒼」とか述べられるのですけど、こっちはサリンジャー『愛らしき口もと目は緑』のもじりというわけで。なにかと悪戯なテキストだったように思います。

 ただ、 "ごっこ遊び" とは、ふたりが変わり映えのない日常にそえた小さなユーモアであるとともに、精いっぱいのコミュニケーションでもありました。『エズミ』ごっこで積み重なってゆくこまごまとした相違点、どうあってもエズミになりきれない部分からは、まこの心境がのぞけてもくるような。
 例えば、父親の不在という両作品に共通したポイントをたぐれば、面白い読感が得られたりもします。
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「父に言われたんですけど、わたしには全然ユーモアのセンスがないんですって。ユーモアのセンスがないから人生に太刀打ちできないって、父は言うんです」
私は彼女の様子を見守りながら煙草に火をつけた。そして、本当の苦境に立ち至ったとき、ユーモアの感覚では役には立たないと思うと言った。
「父は役に立つって言うんです」
それは、異説を立てているのではなく、一つの信念の宣言であった。

(『エズミ』より)
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「そんなものはなくてもいいんだって、何もなくても何もできなくても、ここにいていいよって、言ってくれる人もいるけど……」
「まこはそれはうそだと思う」
 静かなのに、その言葉だけは強かった。
 それは感想や意見ではなくて、信念の表明だった。
 繰り返し繰り返し自分に問いかけるうちに、やがてその問いそのものを内面化したことのあらわれだった。

「だから……役に立ちたい。……ヘンかなあ?」
 だけど次の瞬間にはどこか気の抜けた、ぼんやりとした感想に戻っている。
 信念はある。
 けれど、その信念の正しさまでは信じていない。
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エズミは死別した父を信念の頼りとしてるのだけど、まこは生きている父を頼りにすることができない状況にあって。だからか、すぐ後には自分の言葉をあやふやにしてしまっている。オリジナルから引き継いだ言葉というのはそれゆえひるがえせない強さをもちますが、自分の言葉ではそうもいきません。ここではその差から、まこの脆さがあからさまになってしまっているような。まこが『エズミ』をもし読んでいたらば、いっそエズミが父を亡くしていることを羨んで憧れたりしたのかもしれません。

 同サークルの『好き好き大好き超管理してあげる』でも同様だったけど、海外文学とキリスト教を本編の後景にすえているあたり特徴的でございます。もう少しいうならば、それらを借景とした設計図をひいておくと、三畳敷の茶室でも建てるかのようにせまいストーリーを作っている感というか。外には意味深長で美しいお庭が広がっているから、春先になると「エズミがー、汚辱がー」ブンガクをブンブン振り回す人とかも出たりする (わたしです)。しかし本編はといえば、そこからわずかな景だけを取り入れる窓をもった小空間。そのなかで、ひっそりした所作でプレイヤーをもてなすことにのみ専念している、そんな印象を受けます。
 その上で、ヒロインの不明瞭な人物背景 (本作でならまこの境遇) はその借景 (海外文学とキリスト教) のほうへ溶け込ませてしまい、手の届きえない部分として美しくミステリアスに仕上げているふう。物語で主人公は、何だかあっさりと手に入ってしまったヒロインと肌を重ねているうち、手の触れられないところにある彼女の真実をよけい感じ入ったりします。そのときプレイヤーのわたしはというと、夜のひつじ作品のちいさく気安い手触りとともに、ちょっと遠いところの文学やら宗教やらから渡されたフレーズを「なんかようわからんけどカッコエエ」とか感じられる (まこがする不可思議な受け答えに心をつかまれる)。そのふた通りの遠近の構図が巧いことまぜまぜされることで、ヒロインの超現実的な奥ゆき、そのあいまいな手ざわりがプレイヤーの肌にまでも伝ってくる。そんな仕組みが、このふたつの作品では共通していたように考えます。


 2-2, ごっこ遊びの終わり

>>
 僕らは欠落でつながりあった。
 欠けたところをはすかいに合わせて、がっちりと。
 お互いがあらかじめ失くしていたものを相手のなかに探していた。

 だけど――彼女は優しいから、探していたものを僕からはとらなかった。初めから最後まで、ごっこ遊びを続けてくれていた。
<<
 彼女の優しさのまま気楽なごっこ遊びをして、母に甘えたり、文学的少女に甘えたりができるエロゲでした。親子ごっことか『エズミ』ごっこ。そうしてごっこ遊びが続けられていたのは、まこやおかくんが感情の発露をおそれて、もっといえば根本的にそれへ不信感を抱いていたゆえ。わたしはそんな読み方をしました。

 しかし、ごっこ遊びは、やがて終わるものです。ふたりの出会いをとりもった『エズミ』ごっこもいくつかのフレーズを置き土産に、演じられなくなっていきました。ぬいぐるみの「弟」が増えたからおかくんもいつまでも甘えてはいられなくて、時計を買わなきゃと思って、「なんとなく――夫婦ごっことお姫さまごっこは、どこかへ遠のいていくような」予感がしてくる。まこに生理がきて、汚辱の時間がやってきて、幕は降りゆきます。
 そうしてクライマックスでは、夫婦ごっこや親子ごっこを "嘘からでた真" にするかのような発想の転換でもって、夫婦となり、母と父になってしまうといった飛躍をみせる。ホントの意味で (膣出しで) セックスできなくなったことを、ホントの意味で (子供をつくるため) セックスできるようになったのだと読み換えてくれました。

 ここで本作が見事ひねくれてみせたのが、ごっこ遊びをホントにしていくような流れです。前述のとおり、まこやおかくんには偽りの感情表現を嫌うようなところがありました。だからこそ、おかくんの最初の約束とかも「僕は……なるべくだけど、嘘は言わないようにする」となっていたわけです。
 しかしその一方ではごっこ遊びという偽りの感情表現を心から楽しんでは、それを人生の予行練習として演じていたかのようにも見えまして。まして『エズミ』ごっこについて、まこは種本があるという自覚をいっぺんたりとプレイヤーにはもらしませんから、それはまこによって演じられていたものか、あくまで作品外のギミックであったのか判別がつきません。
 また、彼らがシリアスに感情の真実性について考え込むようなところは、「思いが唯一たりえるのか」といった問いかけにも結びついていきます。何度も巡り来る季節というものをまこが嫌がったり、「はじめてのはじめて」をとりわけ尊重してみたりする。"はじめて" という概念こそ、本作ではもうひとつの柱であったかもしれません。
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「はじめてって、ふしぎ」
「ふしぎ?」
「だって、はじめてを失わないと、はじめてなことがわからないの」
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 なんだかもう複雑すぎて、お手上げです。このあたりの感情の真実性と "はじめて" についてのトピックは、本編でもそのタイトル名がふれられてたミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』を補助線においてみると面白いよう感じました。でも、いかんせんわたしでは理解しきれなかったので、それっぽく一節を引いておき、あとはふて寝することにいたしますっ。
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 人間というものは、ただ一度の人生を送るもので、それ以前のいくつもの人生と比べることもできなければ、それ以後の人生を訂正するわけにもいかないから、何を望んだらいいのかけっして知りえないのである。
 テレザと共にいるのと、ひとりぼっちでいるのと、どちらがよりよいのであろうか?
 比べるべきものがないのであるから、どちらの判断が良いのかを証明するいかなる可能性も存在しない。人間というものはあらゆることをいきなり、しかも準備なしに生きるのである。それはまるで俳優がなんらの稽古なしに出演するようなものである。しかしもし人生への最初の稽古がすでに人生そのものであるなら、人生は何の価値があるのであろうか?

(『存在の耐えられない軽さ』p,13)
<<

 蛇足をひとつ。
 本作では、まことおかくんが小さなふたりだけの世界を作り上げてしまったあたり、儚さや危うさもただようラストとなっていましたね。
 ときに、『エズミ』という小説はおそろしく歪ななりをしているくせに、実のところ結婚式の手向けになされるお話ではあったりします。それにあやかるなら、数年後、すっかり傷のない元の状態に戻ったふたりは何食わぬ顔であらためて結婚式を挙げていたりとかして。おかくんの働きぶりやまこの要領よさを見ていると、案外と、そんな図太くしあわせな未来なども似合うふたりなのかなと思いなします。

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 ErogameScapeの『相思相愛ロリータ』感想を参考にして書きました。特に影響を受けた感想を挙げさせていただきます。

Accord4312さん{
http://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/memo.php?game=21338&uid=Accord4312
}

imotaさん{
http://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/memo.php?game=21338&uid=imota
}

oku_bswaさん{
http://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/memo.php?game=21338&uid=oku_bswa
}

vostokさん{
http://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/memo.php?game=21338&uid=vostok
}

きゃるんさん{
http://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/memo.php?game=21338&uid=きゃるん
}


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