残響さんの「幼馴染の心が読めたらどうするか?」の感想

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**ネタバレ注意**

ゲームをクリアした人むけのレビューです。

これ以降の文章にはゲームの内容に関する重要な情報が書かれています。まだゲームをクリアしていない人がみるとゲームの面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。

意外や意外!心が読めたぜやったぜイージーモードなラブ!と思ったら、案外ルナティックなラブだったでござる。やがて問答は哲学に発展し、光の絶対セックスが失われていくにつれ、ふたりは「真実の愛」から「自分たちの本当の愛」にたどり着くのであった。……って、単にいちゃラブを正当化するためかよっ! あー、夏だなぁー!
序 「見える」とは/ざっとしたあらすじ

――(学生)基本的な質問なんですけど、「知覚する」と「見る」っていうのはまったく同じ意味なんですか?
(土屋)あっ! ごめんなさい。それは違います。「知覚する」というのは、触覚とか嗅覚とか触覚とか、いわゆる五感がありますね。その五感によってこの世界の状態について何かを知ることが「知覚する」ということです。英語でいうとperceiveです。そのうちの視覚的な知覚を指して「見る」と呼んでいるということです。この時間(講義)では、「見る」という場合を知覚の代表例として取り上げたんですけども(略)
――土屋賢二「ツチヤ教授の哲学講義」

文芸性豊かな恋愛/性的物語をつむぐ、夜のひつじ最新作。
本作は、とあることから「幼馴染(だけ)の心が読めるようになってしまった」主人公と、その「読まれてしまう」幼馴染、杞沙との、清い純愛を描いたものです。
主人公のひと夏かぎりの特殊能力は、恋人の思考が、文字情報として、脳裏に「見る」ことが出来るものです。上記引用における「見る」というものですね。
いわば、知覚におけるイージーモードにして、恋愛におけるイージーモード。この論理展開がわからぬ奴は、いったいどのタイミングでメルティなキッスを奪うのでしょうね、その恋愛模様において!(余計なお世話だ)

しかし……知覚が「増えた」ということですが、それが単に「やったぜヘヘーイ!」にはいかないところが、夜のひつじの純愛です。
そして……知覚は、主人公だけの特権ではなかったのです。

1)イージーモードの恋

「心が読める」ということは「チート」だということは、重々主人公は承知しているのです。それは卑怯。それは無粋。それは……場合によっては、「彼女」――杞沙への、精神的侵犯。
それは最前提ですが、それを用いてまで追求したいもの――それが「愛の真実さ」です。
自分の愛はどこまで真実なのか。相手と真実の愛をどこまでも追究したいということが、どれほどかなうものなのか。

言い換えれば、「純粋な愛」に対する信頼を、高めに高めて、手に入れた後も手に入れて、最高の幸せを杞沙とはぐくみたいわけです。主人公も、杞沙も。主人公視点から語ってしまいましたが、実はあるギミックがありまして、そのギミックを経由した見方だと、「再開型幼馴染な彼女」こと杞沙も、やはりこの「愛の真実さ」を求めてやまないわけです。

さてこうかくと、この二人は「愛」なるものを疑っているのか、と思われそうですが、全然そうではないのです。
公式HPで書いてあるように、一見この二人の恋は「イージーモード!」です。

イージーモードとは? ここえろすけさんにくるようなゲーマーの皆様には、もはや解説不要ですが、私見だと、実はこの「イージー」のイメージには、二通りあると思います。

1)STGやアクションなどの「ゲーム攻略上の難易度がチョロい」
2)RPGにおける「つよくてニューゲーム」

どちらも「難易度がチョロい」という点では同じですが、(2)の場合、「RPG一週目における努力」がもととなって、二週目以降の楽さがある、というのは、これまた説明不要ですね。

ときに、(1)ですが、「イージーモードでプレイする」意味とは何でしょうか。
舐めプレイ(舐めプ)? ストレス解消?
これを、この「恋愛」に適用してみると、さあ恐ろしいことになってしまいます。それは相手をオナペット一直線にするという行為です。互いに愛を育むことなく、一方的に己の欲望を吐き出す行為。

そのような欲望行為を、主人公と杞沙はしているのか? 違いますね。この作品から受け取れるのは、どこまでも純愛。
ただ、彼/彼女が、イージーモード(チート手段)を用いるのは、あくまで恋愛という「ゲーム」を、最大効率で通過して、「たのしみ」「しあわせ」を得る、というモクロミなのです。

とてもスマートな解決法です。
そしてスマートと揶揄しましたが、その根底にあるのが「まじりっけなしの純愛」なので、イヤラシサというものはありません。
実際、わたしはこのゲームをプレイするにおいて、プロットの「ざっと」な推論をたてました。すなわち「最初はチート能力を使うけど、だんだんそれが気まずくなっていって、最後は能力なしの愛にたどりついてはぴはぴエンド」
、みたいな感じで。
……さらにいうなら、porori氏が、そのようなわたしの安直な思い込みから、どれくらい裏切ってくれるか、っちゅうのも、多いにたのしみにしながら。てゆーかこっちのほうが明らかに楽しみ。なんてったって、文芸性あふれる「夜のひつじ」! この程度の安直なプロットを組むはずがない!


……
……
…………見事に、やられましたよ。

はじめ、このゲームをプレイするまえは、このゲームはある種の「シチュ実験」だと思っていたんです。だって題名からしてそうですからね。「読めたらどうするか?」。
もちろん、「さあどうなる?!」が主眼であります。しかし……ことはそう単純ではなく、最終的に「幸せを得るとはどういうことか?」という定義論にまで、深みに入っていくつながり方をしてしまったのです、この作品は!

先走りました。ゆっくり展開していきましょう。
あ、いまさらいうのもなんですが、大体の設定は公式HPみてね。

先の話に戻りますが、さて、皆さん、RPGで「つよくてニューゲーム」をしたとき、そのゲームを何回も何回もしますか?
だいたい、一回くらいで終わってしまうのではないでしょうか。
だって、ヌルいから。

そして、STGやアクションで、「達成感」を求めるとすると……? これも上記と同じで、ヌルくなって、終わってしまいます。
もちろん、それはゲーム本体の悪ではなく、プレイヤー側が「ヌルプレイ」をしたがゆえの、ある種の罰です。罰といったらいいすぎですが、まあ当然の対価であり退化ですわなぁ。

「それでいい」ならいいんです。でも、「もっとヒリヒリした熱を楽しみたい!」とするなら、ハードモードいくでしょう?ゲーマーなら。
これが、イージーモードが持つ、そもそも的問題です。舐めプもガチャプレイも、蹂躙するのもご自由ですが、どこかむなしい。

もっとも、わたしのように東方projectのSTGをいつもイージーでたのしんでいるひともいます。それは、元来ゲームが下手っぴだという理由がひとつ。もうひとつは「そもそも、わたしは東方の世界やBGMやキャラを愛しているのだ」というのが二つ。
わたしにとっては、イージーで十分なのです。それは自分の能力の無さを自覚しているから。しかし、自分の世界没入力とキャラ愛は、誰にも負けないと自負しているから。余談ですが、10年前、紅魔郷が出たとき、妖々夢が出たとき、そして二枚のオリジナル音楽CDがでたとき、軽く、ン百回単位でBGM(手動録音お手製サントラ)聞き返して、世界で一番東方を愛していた学生だった自負はすげーあります。ツェペシュの幼き末裔は紅い月の元、ジャズアドリブのピアノの狂気旋律をたばね、極大のレッドマジックを放つ、鳴れよZUNペット、幽雅に咲かせ、墨染の桜っっっっっ!! そして……紅桜……!(意味がわかりまっせーん)

こほん。さて。
イージーモードの罠は、「自らを律する」ことがないと、ずるずるとはびこってきます。
二人(主人公と幼馴染)が、イージーモードを使おうとしようとして、どこかふんぎれないのも、ここにあります。
二人は賢いです。イージーモードがもたらす、「いつかはむなしくなる」を、最初から知っているからです。

……それでも、知りたい。
だって、初恋の相手ですからねえ!!
そして思春期まっさかりですからねえ!

あー、自分のことはなしますと、今でこそ夜な夜な模型ばっかり作ってる(さっきまで1/144エールストライクガンダム作ってた。新しいverのキットの。いやー可動部がもんのすげーわ、さすがバンダイ)、メカ大好き模型大好き/人間嫌いの自分ですが、中学生の時分は、まあ、恋らしきものが、あったことは否めません。
そこで、結構ほしかったのが、実はこの「心読み」能力なのです。
相手が自分のことをどう思っているか、というのももちろんですが、それ以上に「相手にどこまで踏み込んでいいのか」ということも。

まずこのゲームの序盤は、この「どこまで踏み込んでいったらいいのか」を、チート能力使って、探っていきます。
しかしいじましいこのふたりは、チート能力があっても、「げへへこうしたらお前は喜ぶんだろ!?」という下品な方向には行きません。相手を思いやって、「ここなら大丈夫か……いや、もっと安全側でもって……」と、真摯に「おつきあい」をするのです。

聞けよ! ぶつかれよ! 青春だろが!
という人もいるかもしれませんが、登場人物(キャラ)たちからは、
「できねえからこそ、手段を選ばねえんだよ!」
という無言のアンチ発言が聞こえてきそうじゃないですか、これもまた青春だ!
……しかし、矛盾してますね。手段を選ばないんだったら、そもそも「声を正直にかける」とかの正攻法を選んでもよさそうなものを。
……だが、これが「夜のひつじ」のリアリティよ! 「できねえからこそ、突飛な手段でやっちまう」このリアリティ! なぜかっていうと、恋する男女はテンパっているからです! それ以上に説明いるか!?

さて、でもこの二人は賢いので、イージーモードのむなしさを知っています。
もうちっと、先の比喩でイージーモードとはなんぞや、のことを考えますね。

まず、STGやアクションにおいては、イージーは「修練の場」であるということ。
そうであるがゆえに、そこにいつまでもいてはいけない。そこで蹂躙するのも大人気ない。
実際、この物語のふたりも、あくまで、「最初きりのズル」ともくろんで、チート(読心)を使っています。「この状況」が普通だとは思えないからです。また、普通であってもいけない。

そして、RPGにおけるイージー……つよくてニューゲーム、は、そもそも「一週目の苦難」があってこそのもの。
だとするならば、二人は、この「最初のズル」から、抜け出して、きちんと「一週目」をすることが重要だ、と本能的に、あるいはモラル的に悟っているわけです。

それは、理論としては正しかった。
RPGにおけるイージープレイは、だんだんむなしくなってきますが、それでも「一週目の思い出」は、消えうせることはないです。むしろ一週目の苦難の果ての強さでイージーってるわけですから、思い入れというものがあります。大体、チートが「ガチプレイ」で嫌われるのは、この「感情移入」を剥奪してしまうからです。

翻って、この二人の恋愛においてはどうか。
「一週目」が、ないんです。
いや……あるにはあるんですが、それはお互いにとって禁忌となっている「おたがいの性器見せ合いっこ&射精、in s学生」が、よりにもよって「一週目」なんです。ひと、それをトラウマという。しかしporori氏、このシチュ好きですね……

つまり、このふたりは、「最初からイージー!」というわりには、「初期状態に結構毒くらってますぜ旦那。早くケアルやエスナかけたほうが……(わたしFF派なんです)」といった感じなんです。

そう、最初から、実はバッドステータスくらっているので、「つよくてニューゲーム!」で無双しようにも、実は案外できず、慎重に、慎重に、というのが、この二人なのです。

……ところめが、porori氏は爆弾をしかけるわけです。ふたつの。
ひとつは、「実は幼馴染の彼女も読心を使えた」
ふたつめは、「相互読心状態(イージーモード)のセックスの快楽が全然忘れられない」

2)論理的感受と感覚的感受

主人公が、心を読む際に「言葉」が浮かんでくる。
幼馴染の彼女が心を読む際に、「感情/感覚」が浮かんでくる。

男は、言葉でもって、感情を把握し、「踏み込んでもいいか悪いか」の領域を策定する。
女は、感情でもって、相手が抱いているものの「総体」をぼんやりと把握してしまい、欲望の形そのものを把握してしまう。

よく、男は論理的頭脳で、女は感覚的頭脳、といわれます。その真偽はさておき、まずパブリックイメージとしてのこれを、porori氏は採用したのでしょう。そしてそれは大成功でした。だいたい、男と女は、そのような生き物だからです。ロジカルvsエモーション。……恋愛においては、ね。

この物語最大のギミックは、杞沙もまた、読心を、主人公とは違った形で使えた、ということです。

しかしそれは、主人公のように「杞沙を求める!」というものとは、ちょい違った用法を見せるようになります。
それは、目の前にいる主人公(たーくん)をよりよく知ってしまって、よりデレる、という幼馴染スキーとして待望の、でもありますがw
だってさ、幼馴染って、まず主人公への愛情としてあるのが「昔からそうだったから」くらいじゃん!(暴論)
でも、杞沙の「感情で相手を読む」のだったら、感情そのもので相手と相対するわけだから、そこでさらに惚れてしまったら、どうしようもないっすよw もっともっと好きになって、って具合ですよ。これは他の幼馴染にはないアドバンテージだ!

しかしそれは余談です。
本題は、杞沙は、「杞沙パート」に入ってから、哲学的な思弁を繰り返すようになります。
それは「純粋な、ほんものの愛」をめぐるものです。

二人は、セックスして、最大の甘美なる歓喜を得ます。だって、感覚が直結してるんですから。ち●こがま●こで、ま●こがち●こですよ!(ひでえ)

そこで、杞沙は思うわけです。「愛の愛の愛」に囲まれて、まるで祈るかのように、愛の持続を、と。こんなにきれいなものが、悪いわけがない、すばらしいんだから!

そう、何も悪くはないわけです。……チート能力があれば、ね。
でも、すぐにこのチート能力は消え去る方向に、物語は進みます。

3)純粋な愛

――気持ちは分かるんです。時計の針とか、時計の針の動いた距離とか、そんなものを「時間」と呼ぶのはおかしい。それは空間だろう。本来の時間っていうのは空間とはまったく異なるものなんだから、空間的な要素を全部取り除いてものが時間であるべきだ、と考えたくなる気持ちはよくわかるんですよ。たぶん彼(ベルクソン)は、「純粋持続」っていうことばでそういうものを指そうとしたんだと思うんですね。一切の空間的な要素とか、手で触れる、眼で見えるとか、そういうものをすべて排除したようなものを「純粋持続」と呼ぼうとしたんだろうと思うんですね。でも、ぼくにはそれがどんなものなのか、本当によくわからないです。
 今ではもう、わかるつもりはないんです。わかるつもりはないっていったらおかしいんだけど、その前の段階で納得できないんです。何の権利があって、純粋持続こそが時間だというのかということが、僕にはわからない。
――土屋賢二「ツチヤ教授の哲学講義」 第一章(序盤のベルクソン時間論(純粋持続)の批判)


杞沙がいう純粋な愛とはなにか? それは上記引用で示したような、「余計なものがない、形而上的な快楽にして愛」なのでしょう。ほとんど光のような。
幸か不幸か、彼/彼女は「それ」を感得してしまったのです

本作中、一番悲しかった言葉はこれですね。
「もうこんなのは二度とないから」

愛を高めあえば、またくるって! と外部からはいえます。
でも、これはチートにもとづいた快楽であり、愛なのです。しかも形而上的で、魔術的で、神秘的で、圧倒的。

お互いの身体や心という、お互いを形成しているもの。「個人という檻」と表現してもいいかもしれません。はじめてのセックスで、ふたりはこの檻から解き放たれて、光のような快楽を得ました。

しかし、再び「檻」は閉じようとします。
そう、能力が失われていく、とこの作品では表現しますが、実際は、再び「個人」、個対個の関係が復活していく、といった具合なのです。
互いがアマルガムに融和していた状態から、ソリッドな固(個)体へと。

それが、杞沙の恐怖でした。
あくまで杞沙は「圧倒的な愛」の喪失を恐れていましたが、実情は「融合している我々二人が、また固体へと戻ってしまう」ことへの恐怖を、アレゴリーとしていっていたようなものです。

杞沙の間違いは、この快楽を「純粋」と定義してしまったことでした。
杞沙は「これもまた愛の一形態」とするだけの余裕がなかったのです。なにせち●こがま●こで、ま●こがち●こですからね!(黙れよ

しかし、「笑う哲学者」土屋賢二氏がいうように、仮想概念としての「純粋」はアリでも、それを現実にまで適応するのはいかがか? という具合です。
もっといえば、我々が「愛」とよんでいるものは、異常な純粋空間にある仮想存在なのではなく、お互いが言葉をかけあったり、肌を触れ合ったりして、ようやく「感じ取れるかもしれない」、そして「感じ取れたらうれしいな!」とするのが、この現世での「愛」です。

本作の最後になって、ようやくふたりはそのことにたどり着きます。
チートを使ったことが悪なのではなく、勇気を振り絞ってチートしたのも悪ではなく……
お互いをもっと知るために、素直に触れ合うことを、もっともっと重ねていくこと、これが一番、素直で素朴で、実は何より大事だって、ことをようやくわかるのです。

……まあ言い換えれば、いちゃいちゃを正当化する理屈なだけなんだがな!(笑) わるいか!!w(ひどいオチ)

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dov