残響さんの「好き好き大好き超管理してあげる」の感想

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**ネタバレ注意**

ゲームをクリアした人むけのレビューです。

これ以降の文章にはゲームの内容に関する重要な情報が書かれています。まだゲームをクリアしていない人がみるとゲームの面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。

「茉依は兄さんのヘタレに絶望した」からはじまる、数奇な二人の女の子との関係……おお、これが管理された射精人間だというのかっ。一見して、今までのような文芸性が見えにくい作品ではあるが、要所要所に仕掛けられた小ネタが、味わい深いテイストをかもし出す。射精して、考えて、そして射精しよう! 射精ができなくなったレビュアー(5年)からの約束だぞっ。
■前置き


――唇と唇 瞳と瞳と 手と手
神様は何も禁止なんかしてない 愛してる 愛してる 愛してる
川本真琴「1/2」


さて、ここえろすけさんで、わたくしめ(残響)が長文レビューを書くようになって、主に取り上げてるのが、サークル「夜のひつじ」さんの諸作でして。
サマリー見てもらえるとわかると思うんですが、わたし、他にも一応、出戻り初心者ながらも、エロゲはやっているのですが、こと「すげー語りたい!」となると、夜のひつじ作品とかになるわけです。
その理由を、わたしは散々「文芸性」と言葉にしてきたわけなんですが……じゃあ他のエロゲには文芸性ないのかYO!といわれると、いやいや違うよジョニー、他のエロゲにも他のエロゲらしい文芸性があるよジョニー、と丁寧に答えるつもりではあります。


……ただ、ことこのサークル……porori氏の筆は、やはりわたしの知ってる言葉でいうと、「文芸」と評するほかなく。崇高さを、丹念に追い求める精神性、ならびに筆致。それでありながら、ネタを猥雑な方面に求めるのを恐れない。
一見ネタのように見えながらも、その実取り扱う題材に対して、真摯そのものの態度で、硬派に「なにか」を追い求めていく姿。まさに文芸、まさに文芸! わたしはそのスピリットにリスペクトします。ていうかどーして商業はporori氏に企画を任せないんじゃー! と憤っておりましたが、この九月に、porori氏、エロラノベで小説家デビューという喜ばしいニュースが先日! おめでとうございます!
(※幌井学司「お嬢さま三姉妹にぺろぺろされ続けるのをやめたい人生だった」)


わたし自身、このサークルの諸作を……これまで四作プレイしてきました。
えと、列挙すると、


「妹「お姉ちゃんクソビッチなんで私にしませんか」」

「幼馴染と十年、夏」

「幼馴染の心が読めたらどうするか?」
  ↓
「好き好き大好き超管理してあげる」←NEW!


分類すると、「題材をエロにもとめる」たぐいのと、「題材を精神性に求める」たぐいのを、わりと順繰りにやってますね。
誰得な音楽……へヴィメタルのジャンルでたとえるなら、メロスピ(メロディック・スピードメタル)と、メロデス(メロディック・デスメタル)を交互に聞くかのようなエロゲプレイの仕方! ドラゴンフォースやソナタ・アークティカ聞いたあと、チルドレン・オブ・ボドムでヤオヤオ!してるような感じ……といって、誰がわかるねんこんなたとえ! あ、近年の国産メロデスのヒットは、やはりThousand EyesとGYZEですね。かっこよすぎ。ほんと誰得やねん!





――――超絶脱線余談開始――


(ちなみに、この「誰得なたとえ」で、先日、「幼馴染の心が読めたらどうするか?」でdov氏に投票いただきましたが(ありがとうございます!)、「東方の音楽で6面ボス曲出すなんてニワカ!」とネタに鋭敏な反応をしてくださいまして、これまたありがとうございます! 
えーと、ネタにマジレスするのも無粋ですが、dovさんを歴戦の古強者(ふるつわもの)として敬意を表して、わたしのスタンスを書いとくとすれば、あのレビュー小ネタ、書き方ちょっと配慮が足りなかったですね。正確には「2002年から2003年にかけて、リアルタイムで紅魔郷や妖々夢をやって人生が変わった」ということをあらわしたくて、ああいう引用したわけです。ただ、それを抜きにしても、わたしは「上海紅茶館」や「亡き王女のためのセプテット」を迷うことなく選びます。それがわたしの感動そのものだからです。メジャー/マイナーとか、わたしにとっては、あんま考えなかったので……
もし東方ガチっぷりを証明してみせろ!ということで、マイナー曲をあげる必要があるとしたら、「衛星トリフネ」や「アガルタの風」「呑んべえのレムリア」「Witch of Love potion」などのことになるのでしょうが、わたしやdovさんのような東方プロパーならともかく、艦これやカゲプロ全盛のいまの一般ピーポーにこれらを挙げたところで「?」でしょうし……
……ていうか、個人的感慨ですが、星蓮船以降、「東方の曲全曲心あたりがあるぜ!」ってひと、少なくなってません? そんな塵界不変のペシミズムな亡失のエモーションだったり)

――――閑話休題(なげー!)――――



さて。
夜のひつじの特性として、
「濃密なエロ」

「形にならないなにかを求める文芸性」
の二つの螺旋相克があります。どっちかだけではないです。もちろん、作品作品に応じて、どちらかの比率が多くなっていくのですが。
そして、今作は「濃密なエロ」を、トリッキーな手法と、しっかりとしたキャラ立てによって描いています。かといって、もちろんながら、夜のひつじ独特の、文芸/芸術小ネタや、思弁性・哲学性も盛り込みながら。

……しかし、一見して、この作品、思弁、哲学があるとはいえ、表面的には見えにくいものとなっています。
それは、この作品が「妹「クソビッチ~」」のあとに出てきた作品だから、といえるでしょう。

「幼馴染と十年、夏」のように、ある淡い精神性のシチュから、物語を発展さしていく類の作品ではありません。実際、この作品をさらっと流してしまえば、残るのは「あー、気持ちよく管理射精できたぜ!」って感じの「機能性」が残るだけでしょう。そのきらいはあります。

もちろん、それはあまりに乱暴なエロゲ批評の方法です。ですが、今作、どうも「とらえどころがないな……」と思ったのも事実です。

「妹「クソビッチ~」」では、作品に備え付けられた純文学小ネタを楽しみながら、卓越したいちゃラブ描写を楽しみながら、ふと垣間見せる、「あれ? このやりとりは、深遠なんじゃね?」というところで、わたしは魅せられました。いかにも「短編エロゲ」という感じで。

今作も、プレイするまでは、正直そのパターンになるのかなー、げへへいいじゃねえかいいじゃねえか、と思っていました。ですが、キャラはばっちり立っているのですが、深みというものが、一見して、見えにくい。登場人物が文学小ネタを繰り出すのはいいのですが、それが「より深い、精神性の深遠」に接続しているように、見えにくい。あるのは、淡々とした射精管理の日常。ていうか、やけにスムーズに進みすぎな恋愛(もどき?)の日常。

ですが。
ふと、奈々那(ツインヒロインのうち、元気のいいほう)が、ある歌を引用するのです。

――「神様は何も禁止なんかしてない」

そう、川本真琴の、「1/2」
アニメ版るろうに剣心の京都編のOPで有名ですね。90sポップスのなかでも、よく知られた歌です。
軽快なメロディに、早口でさまざまの言葉を入れていくこの歌。

porori氏は、いつもの引用センスで、この歌をさりげなく入れ込んだのでしょう。
ですがわたしにとっては、この歌の歌詞をある程度知ってるだけに、その歌がこの作品の「何か」を規定しているのではないか、何かを暗示しているのではないか、と、変な憶測をたてて、もいっかい、作品を読み込んでみたわけです。

……すると、この作品のパブリックイメージ(ってもんがあるのか? 夏コミ即座な発表タイミングで)である「抜きゲーばんざい!」なものとは、ちょっと違った視界が開けてきたのです。

というわけで、以下のこのレビューは、残響の「脱構築的読み方」といったところでしょうか。
万人におすすめできる読み方とは思っていません。
それでも、このような読み方をして、ずいぶん心に残った自分もいるので、書き記しておくことにします。



■茉依と言う子


以下、引用はすべて「1/2」の歌詞からです。


――黙ってるとちぎれそうだから こんな気持ち
半径3メートル以内の世界でもっと もっとひっついてたいのさ
(「1/2」)


茉依という子は、すごく変な子です。
いや、これは単に、名言集が作れそうなぐらい芳醇な、天然素直クールボケ発言の数々からなんですが。


「兄さん、また今度。コンドルは飛んでいく」
「無駄に壮大だな……」


いやー……どーでもいいわー、このセンス!w
こういうふうに、明らかに余計な言葉というか、小ネタを次々に繰り出すのです。さっきの俺のように……って、俺のさっきのは、明らかに茉依のミニマル的なジョークセンスとは光年の開きがあって、滑ってるな……言い過ぎなんだよ俺のは……(涙)


「うん、元気元気。ヴイヴイ」
(ヴイヴイってなんだろうな。どういうことだろうな。お兄ちゃん、この子のこと、ほんとよくわかんねえな)


という会話(?)のように、兄は、茉依のことを基本的に「謎」としてみています。じゃあ、態度が冷淡になるかというと、その逆。
「よくわからないのがデフォ」
という個性を持っている妹、として認識しているのです。
そこには愛がある。
家族としての、親愛の情が。さらには、茉依は兄の年の離れた妹であって、「年の近い妹」にありがちなツンケン感、もしくはエロゲ妹的べったり感、というのも、またちょっと違う。お互いがお互いを、一個の個人として尊重している、というか。このあたりの「つかず離れず」な距離感が、非常に心地よい。


さらには、茉依の声優さんの演技というのが、またいいです!
なんといっても、棒読みみたいなこの演技!(ほめてます)
もちろん、意図的です。porori氏は声優さんに、わざと棒読み的な演技をさせます。「棒読み口調」こそが茉依の個性!
というのも、茉依は背伸びをしているようで、していない。していないようで、どっかしている。……という微妙なラインにたっている上に(それは「妹「クソビッチ~」」での演技と、近いようでかなり遠いです)、自分の発言や感情を、どっか、
「これはこれ、それはそれ」
みたいな見切りをつけているフシがあるからです。
それは、もうひとりの「太陽」のヒロインであるところの、奈々那と好対照。「月」と表現していいかもしれません。ダークサイドとまではいわんけどさ。


「見切り」とは、あきらめ、に少々つながりますが、茉依を表現する際において「悟い」という言葉が、はじめはよく出てきます。同世代の子と比べて明らかに頭がいい茉依。それは、他の男子が胸をやたらと見たりすることで養われたものでもある、性感覚のちょっとした「いきすぎ」でもあり、ふがいない兄がいつまでたっても「自分」というものを、恋愛対象としてみない、ということにもつながってきます。


あ、この作品は、近親相姦とか、教え子との恋っちゅうものを、半ばよしとし、半ばアレとしてます。
でもどっかで「いーじゃん♪」みたいなとこがあります。
これは、茉依が奈々那を規制し、奈々那が茉依を開放し……というプロットにもあるのですが、まあこれは先走りすぎなので……



――いつも一緒に遠回りしてた 帰り道
橙がこぼれるような空に 何だかHAPPY&SAD



――あたしたちってどうして生まれたの 半分だよね
一人で考えてもみるけど やっぱへたっぴなのさ
(「1/2」)



さて、今茉依のことを、「月」のヒロインだと評しました。
これは、家族としての、長いようで短いようで、でもなんだかんだいって家族として年月を重ねた関係だからこその、「月」性です。
ようは、奈々那のように、ぱっぱらぱーに、男女として「YO!いっちゃいなYO!」と「自分が」いくことは出来ないのです。人にいかせることはできても!(それがゆえの「妹による射精管理」です)
家族として、長くお互いを、真摯に思いやってきた。そして、絶妙の関係性(ボケとツッコミ)でいられる。
茉依の紹介文に「へたれ兄さんのお世話が生きがい」と書いてあります。でもこれは、「奉仕」というのとはちょい違う。いうなれば「サブ的立場でいられることの喜び」みたいなもんでしょうか。永遠のナンバー2。地味な趣味だなー、と思うわけなんですが、どこかで茉依という子は、「自分が自分の人生の主人公になれない」と思っているフシが垣間見れます。
それがさっきの「見切り」なんですが。


兄はいつも優しい。なんてったって、兄の浪人時代、自分が放った「だったら先生にでもなれば?」の言葉を真に受けてしまう(かのように見える)くらい優しい。
そこに恋慕が加わる。――ここにおける近親相姦ということは、今は問題にしません。作品が問題にしていないんだから、プレイヤーがあまり気にするのも無粋な感じが、読んでてしたので、やはり問題にしません。そういう作品なんだから……


「いつも遠回りしてた」
というのは、兄もですが……まあ兄は結構のーてんきな性格なので……より切迫しているのは、茉依のほうだったのでしょう。
いつも兄の存在を(心の中で)近くにおきながら、でも実際に恋慕を形にするのは「射精管理」!ああ、「へたっぴ」なのです。茉依は兄のことを恋愛のへたっぴだと散々いっておきながら、やはり茉依こそ、へたっぴだという事実。


さらには。
「月」というたのにはもうひとつ理由があって、それは、月というものは、何かの光源がなければ輝けない存在だからです。
今になってよく考えてみれば、茉依の存在感というものは、自らが光源を放っている、というよりは、兄の情けなさを、妙に乱反射して得た輝きのようにも見えてきます。いや、どーてーの都合のいい妹、というつもりはないですが、兄がなさけなくなかったら、茉依の魅力というものも、かなり失せていたのではないか、と。


「半分」
それは、茉依がそもそも的に持ってる、「自分は十全ではない」という感じ、です。
だから、茉依は、太陽を求めていた。
それは、兄の優しさ/信頼だけでは、足りなかった。自分の恋愛のためには……だって、兄が対象なのだから! 優しさ/信頼を与えてくれる存在を、ひょっとしたら損ねてしまうようなまねでもって、自分の恋愛の成就がかなうとは思えない。


だから、奈々那という、「外部の太陽」が、どうしても必要だったのです。
だからこそ、あっちゅうまに、姉妹のような関係になった、ともいえます。




■奈々那という子


――かわりばんこでペダルをこいで おじぎのひまわり通り越して
ぐんぐん風をのみこんで そう飛べそうじゃん
初めて感じた君の体温 誰よりも強くなりたい
あったかいリズム 2コの心臓がくっついてく
(「1/2」)



さて、次は奈々那について語ります。
……っていうか、この歌詞、ほとんど奈々那なんじゃねえか的なシンクロ!
奈々那というのは……えーと、誰でしたっけ、ピンク髪はアホの子法則打ち立てたのは。ま●か神に殺されるぞ……とかって、またもやどうでもいいこと放つわけですが、しかしこの奈々那という娘、どこかアホであります。
いや、「イマドキのJKは最高だぜっ!」という方向で一発、ということでもいいわけなんですが。まあインテリ系ではないっちゅうことですな。それだったら茉依のほうが近い。
……しかし、アホとはいえ、それは「陽性」「太陽的ヒロイン」をあらわしているということ。……芯は何か、というと……なんちゅうか、達観してるようでまだ弱さを残してる(さっきそこは「月」的なモチーフで語りましたね)茉依に比べて、奈々那はムテキ感が強いのですよ。
葛藤とかそんなのはおいといて、自分の信じているものに向かってGOGOGO! な、強い感じ。この徹底的陽性は、主人公/兄にも、茉依/妹にもないわけです。
だって、策を練ったりしませんからね。するのは射精のカウントダウンくらいだ。


この強さはどっからくるのでしょうか?
ひょっとしたら、これがこの作品の「一見、深みが見当たらない」ところにつながってくるかもしれません。
往々にして、文芸というものは、弱さを描くことは得意でも、あっけらかんとした「強さ」を描くことは、不得手であるという歴史があります。とくに日本は。(だからこそ、その手の「強さ」を定期的に描くよしもとばななは、世界の文芸フィールドにおいても、特異な存在なのかもしれません)
porori氏がそれにとらわれている、というわけではないです。そもそもこれは、文芸の構造的欠陥というか……(かなり暴論いってるな。しかし「哀感」を描いた作品なら5つも10個もあげられますが、「底抜けの喜び」ってもんをメインで描いた文芸って、即座に5つあげられますか?)


その理由は、最後になるまで語られません。
まあ例外があるとしたら、彼女の通っている学園……ミッション系の学園なのですが、そこの教えの中で、ぜんぶとは言わないまでも、共感できるものがある、というエピソードがあります。


それは、

「心の貧しい人は、幸いなるかな」

という聖書の一説……つまり、

「自分の弱さに迷い、もがく人こそ、真の善人である」

という理屈です。
えーと、マタイ伝第5章「山上の垂訓」ですね。若きイエスの最初のロックンロール……っていったら殺されるかな。でも結構ブイブイ言ってますよイエス、ここで。少なくとも「ゲッセマネの観覧」での透明で悲痛な境地/心境はここにはないというか……そういう意味でのロケンローでもあるんですけど。
んで、この理屈なんですけど、むしろ親鸞の悪人正気説から読み解いていったほうがわかりやすいかもしれませんね。
親鸞の悪人正気説っていうのは、「悪人ですら救われる。じゃあ善人はもっと救われて当然」という教え、では「ない」です。
「善人っちゅうもんは、自分の善性を疑ってない。この「疑ってない」というものはすごい罪深い。だったら、悪人が自分の善性を疑いながら、精進している姿のほうが、よほど本当の「善」に、「救い」に、近い」
というのが、悪人正気説です。
それから、たしかこれは事実かどうかはわかんねっすけど、親鸞が、臨終の間際に、かけつけた息子に対して、
「仏のこころ、悟りは、わかったか?」
とたずねたそうです。で、息子は、いかようにも答えようはあったんですけど、結局悩んだすえ、
「わかりません」
と答えたそうです。そして、それに親鸞は、大いに納得し、
「それでいいんだ。信じながら疑い、疑いながら信じればいいんだ」
と答えたそうです。
ようは、自分を「正しく疑い、その上で精進していく」ことこそが大事、ということです。「貧しさ=弱さ=善」という、イエス、というか、奈々那が感銘を受けた教えは。


で、「それ」をいささかなりとも体現している者として、ホレた相手が、主人公だったわけです。
いや、主人公が、宗教的にクンフーを積んでる人間、という、聖人というわけじゃないです。
そればかりか、主人公は、自分の射精管理を妹にしてもらってるというなっさけねー人間です。でも、奈々那は、主人公に、とある事故から救ってもらったのですね。
そこでの理屈がふるっています。
「自分を助けることを、迷ったセンセは、本当に「善」に近い人間」
みたいなことを、上記の「教え」というか「悪人正気説」めいた理屈でもって、センセ/主人公に、諭すのです。いやー、どっちが生徒かわかんねーな。


まあ正直いってしまえば、「事故から救ってもらっただけでホレる、しかもその理屈つきで、っていうのは、つり橋効果すぎないか?」
と安易な展開っぽく感じてしまったのも事実です。
ですが、この突拍子も無い理屈の飛躍というか、安易な展開が急に哲学的な問答に接続した筆致、会話を見て、妙に感じいったわたしもいるのです。この「安っぽさと崇高さの同居」は、この作品の核にも近いかもしれません。パルプ・フィクションがふとしたときに見せる、とてつもない崇高さ、とでもいいましょうか。あるいはそれは、夜のひつじ作品の……いや、これは飛躍しすぎかな。



――唇と唇 瞳と瞳と 手と手
神様は何も禁止なんかしてない 愛してる 愛してる 愛してる
あたしまだ懲りてない 大人じゃわかんない
苦しくて せつなくて 見せたくて パンクしちゃう
(「1/2」)


それでも奈々那は恋する乙女です。すべてを見通してるような感じでもありますが、しかし等身大の人間でもあります。でも、無理をしていない。自分が自分であるままに、GOGOGO!という感じです。
その上で、恋する乙女として、「懲りない」行動を次々にするのです。
この陽性ぶりよ!


思うに、「太陽ヒロイン」たる彼女には、とことんまで「理由」がないのかもしれません。あるのは「おおまかな行動原理(行動方針、といってもいいかも)」と、その場の感性。
感性で生きているから、ひとの善悪にも敏感で、ひとの善性ってものも信じられる。
ていうか、茉依の抱いている思いや、アレな策略も、全部「善し」としてしまう。
だから、この作品を分析して、ヒロインの造詣を解剖して、って方法論(よーするに今までの俺の論術)は、この作品相手には、あまり有効には通用しないのかもしれません。


だって、奈々那はそこにいる。
太陽が今日も輝いているのと同じように。
それが、ひとに光をあたえ、光源となる、太陽の存在というものじゃないでしょうか。
……あー、だから、一見して、この作品からは「深み」が見出せないんだわ。



■射精管理(ふたりの)


――背中に耳をぴっとつけて 抱きしめた
境界線みたいな身体がじゃまだね どっかいっちゃいそうなのさ
(「1/2」)



つまるところ、射精とは……誘惑からの連続射精(この作品のテーマ)とは、「境界の侵犯」なのでしょう。
「(精液を)出す/出さない」
「(おにんにんを)勃たせる/萎えさせる」
「(おまんまんに)挿れる/挿れない」
「(おまんまんに)出す/出さない」
いやー、男女の営みってたくさんありますなー。ただしこしこ・ぱこぱこやってるだけだっちゅうのに。j


そこには、さまざまの「膜」があります。境界、とも一緒ですが。もちろん処女膜の話をしたっていいわけなんですが。
まず、茉依に対して、出す/出さない(射精管理で)の葛藤があります。
そして奈々那に対して「セクースする/しない」の葛藤があります。
さらに茉依に対して、「もっとずるずる射精管理をしてもらう/もらわない」
ましてや奈々那に「コスプレイ(言うまでもなく性的)をしてもらう/もらわない」
の境界があります。

この作品の選択肢は、全部この「境界/膜をいかにするか」の問題であります。
ハッピーエンドも、バッドエンド(というか、誘惑エンド)も、全部これの帰結です。
っていうか……このふたつのエンド、これも一見して、あまり代わり映えがしないものともいえます。
結局奈々那も茉依も「嫁」になるわけですし……。

ただ、一ついえるのは、この二つのエンドの違いは、それまでに突破した「膜」「境界」を、三人がどう乗り越えてきたか、という「ささやかな決断」のもとに成り立っているものです……って、それって、ノベルゲームの大原則じゃんかっ! 何俺はここでそんなイマサラ論を語ってるんだっ(笑)

膜のまんまで、ずるずる射精管理されながら、愛をはぐくむこと。
膜をいささかなりとも突破して、お互い納得をつけて、愛をはぐくむこと。

この二つは、非常に微妙なラインで、エンドの描き方が違うのですね。
それも、今思えば、文芸性なのかもしれません。



境界線を侵犯しあうことが、もちろん性的な快楽なわけです。
そのレビュー(性の快楽さ)は、他のレビュアーさんがたが多いに語ってくださるものと信じております。
……だってさ……
……いまさらこのこというのもなんですが……わたし、プロフ欄にも書いてるとおり、射精できないんですよっ! 病気と投薬でなっ! もう数年にもなりますよっ! マジで。もう射精体験に懐かしさすら覚えてるわっ!

それなのに、この物語を楽しめたというのは、まあ「オトコの心理」「いいようにもてあそばれる状況」というものが、porori氏のお手の物だということを知ってるから。
そこから文芸性に発展さしてくれることを信じていたから。
……あとは、……やはり、この「境界性の侵犯」というのが、「性」の本質、だと、直感的に悟っていたんでしょうな。プレイする前から。
それが、懐かしかったのかもしれません。はじめてオナニュイ(フランス語っぽく)したときの肉体の震えが懐かしい的な、これこそ中2だ、的な。なまなましいですね。

あーっと、わたし、何の話してたんでしたっけ。
そうだ、境界/膜の話だ。

膜とは、ぬるぬるして、びよびよしたものです。
そして、心理の膜とやらも、また。
このゲームをプレイしていて、どこか、
「挿入してるのは、果たしてこの娘さんのヴァギナやおくちなのか、それとも、こころそのものに挿入しているのか」
的な、妙な感覚を得ました。

それは、誘惑ゲー玄人のひとからすれば
「おまえさん、誘惑ゲーにハマってるんだよ」
ということなのでしょう。事実そうなのでしょう。



……ただ。
その妙な感覚を踏まえても、なお、この物語が、健やかな感覚を得させてくれるもの、というのも、また事実なのです。
「1/2」の歌詞を踏まえて考えれば、次の歌詞の「感じ」が、作品に通低しているからだ、というのが、暫定的な残響の、この作品の読み解きだったり、します。


――恋してるチカラに魔法をかけて 太陽がずっと沈まないように



http://www.youtube.com/watch?v=B7Z6Kpi2ogw

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