OYOYOさんの「なないろリンカネーション」の感想

コンパクトにまとまった良作。若干コンパクト過ぎるのと、展開がワンパターン化するのが気になりましたが。笑いどころとグッとくるところのメリハリもしっかりしていて楽しめました。数年経っても覚えているであろう(思い出せる)シーンもたくさん。満足です。長文は、死という目に見えないものをどう扱うかという物語として読んだ感想。
大学生の主人公・加賀美真は、祖父から代々受け継がれてきた加賀美家の「お役目」として、さまよえる死者の魂をあの世に還す仕事を担うこととなる。鬼や座敷わらしといった人ならぬ「家族」たちの協力を得て少しずつ新しい日常に慣れつつあった矢先、大きな無念を抱えた霊と触れ合ったことである事件の存在を知った真は、お役目の途中で出会った少女・琴莉らとともに、調査に乗り出すのだった。

攻略可能なヒロインは、琴莉(学生)、由美(大学の同期)、梓(新米刑事)、伊予(座敷わらし)の4人。ただ、琴莉が中心的な役割を占めているため、他のヒロインの影が微妙に薄い。総括的な内容は他の方の感想であらかた言い尽くされた感もあるので、今回はシナリオに絞って感想を書いていこうと思う。

さて、『なないろリンカネーション』はそのタイトル(Reincarnation)通り、生と死を物語の中心に据えた作品である。

人は、死ぬとどうなるのか。

科学の光があまねく世界を照らす現代においても、死はなお、一種の闇としてとどまり続けている。中国の思想家・孔子は、弟子に「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん」と語り、目に見えない死後の世界について考えることを拒んだが、これほど達観できた人間はそう多くないだろう。「私」が死んでも、世界は続いている。死ぬということは、そうやって「私」が世界から取り残されることでもある。死後も「私」を残すことはできないのだろうか。あるいは、永遠に死から逃れ続けられはしないだろうか――そんなことを考えてしまうのが人の常だ。

古来人は、さまざまなかたちで死に対処しようとしてきた。死を儀式化する試みの証――たとえばエジプトのピラミッドや日本の古墳は、死に抗おうとする人間の、強く大きな願望のあらわれなのかもしれない。

真が担う「お役目」の意味は、そのように不透明なものとしての死と現実との折り合いをつけることにある。もちろん突き詰めてしまえばそれらは、すべて生者のための行為、つまりは遺された人びとが現実をどう生きるかという問題に帰着すると言えなくもない。けれど、実際に死者たちが登場し活躍するこの作品は、おそらくもうすこし別のことを語っている。

事実、作中のあるシーンで真は、生きている者のために死者を利用することを拒み、ただ死者の望みを叶えようとする。そして、それこそが「お役目」のただしいあり方だと、「相談役」の伊予も認めていた。死者の想いやことばは、単に生者の解釈の対象であることを超えて、自律性をもっている。むろん、最終的にはそれらを生者の側から見なければならないからこそ「お役目」は「辛い仕事」なのだが。

「死」とともに作品を貫くもう1つの要素は、「家族」である。一見すると両者に共通性は無いようにも思われるが、本作ではそこをうまく接続させ、まとめあげていた。架け橋の役割を果たすのが、「輪廻」(リンカネーション)の思想だ。

作中たびたび語られる「輪廻」の内容が示すのは、死は理不尽な生の中断ではあるけれど「無」ではないということだろう。そもそも輪廻というのは、そうした思想を持つ現実の宗教に照らして見れば、望ましくない(再び苦しみの伴うこの世界に生まれてきてしまう)ことである。だから、そこからの「解脱」が目指されるのだ。しかし、本作では「輪廻」は一種の救済として機能している。

本作でもたらされる救いに共通するのは、《繋がる》ということだ。いや、死の間際の願望が満たされることで救われているのではないか、と言われるかもしれない。だが、それは単に「無念」が晴らされる条件でしかない。霊の望みがかなったからといって、非業の死を遂げた現実がなかったことにはならないだろう。霊体での生活を「幸せだった」と振り返る少女が、人生をやりなおすことはやはりできない。

にもかかわらず、「お役目」によってあるべき場所へと還った霊たちが幸せだと思えるのは、彼らの未来がそこにあると確信できるからだ。同じ「お役目」を担っていた彼の祖父のもとには何度か送り還した霊たちが戻ってきたというエピソードや、各ヒロインのEDで暗示的に示される輪廻の結末は、死者たちの未来を物語っている。そうやって、未来へのよすがとして、輪廻の輪からはずれた死者たちを世界の繋がりの中に再び位置づけること。それが真の「お役目」の本質ではないだろうか。

このことは、作中に描かれる「家族」像と重なってくる。本作で主に登場する真の「家族」には、真と血の繋がった存在はいない(冒頭に母親、回想で祖父が出てくるが)。鬼は、ある意味真の分身のようなところがあるものの、精を贄に捧げて創られるのだから、やはり血縁とは呼びづらい。また、琴莉の家庭事情なども踏まえると、この作品では血縁よりも、同じ時間を共に歩んでいける存在を「家族」として扱っている。「家族」団欒として描かれる食卓のシーンをその象徴として。

生の世界としての家族が横の繋がりであるならば、死の世界としての輪廻は縦の繋がりだ。親から子、子から孫へと引き継がれる時間の中で、死者は輪廻し、誰かとの繋がりの中に戻っていく。死を、あるいは死者の無念を、横の繋がりだけではなく縦の繋がりの中で解決しようとする試みが、「お役目」なのだと言っても良い。

魂というものが本当にあって、それが死後再び別のかたちをとって戻ってくるものかどうか。真偽のほどは私にはわからない。ただ、人の生も死も、自分ひとりのものではなく周囲との繋がりの中にある、と言われれば納得できる気がする。〈いま・ここ〉の世界だけでは解決できないものがあり、伝わっていくもの・繋がっていくものの中でしか救えないものがある。本作の輪廻の思想が示すのは、そういう想いのあり方ではないだろうか。

「さようなら」ということばはもともと、「左様ならば」という接続の意味(「さらば」も同じ)であったそうだ。「では」も「またね」も、前と後ろを繋ぐ接続詞に由来する。日本語はそんな風に、あなたの幸運を祈るのでも、神の祝福を願うのでもなく、別離の中に繋がりを織り込んできた。『なないろリンカネーション』で描かれる別れのことばには、まさにそうした再会への祈りと未来への願いとが込められている。

本作には、いくつもの印象的なシーンや台詞がある。だがそれが心に残るのは、悲劇性ゆえにではない。避けがたい(そして残酷な)死や無念が描かれているのは確かだが、そのどうしようもなさに打ちひしがれ、立ち止まり、やがて諦めるのではなく、行き場のない想いを救おうとする。『ななリン』の魅力はそんな、優しく暖かい繋がりにあるのだと私は思う。

だからたぶん、本作には涙よりも笑顔のほうが相応しいのだ。本作に与えられた「ホームコメディー」という規定を、表面的な意味ではなく積極的に肯定したい。

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