dovさんの「魔女こいにっき」の感想

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ゲームをクリアした人むけのレビューです。

これ以降の文章にはゲームの内容に関する重要な情報が書かれています。まだゲームをクリアしていない人がみるとゲームの面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。

恋だ恋だといいながら、結局恋が描けていない
 1.新島氏がやりたかったこと

 「もっと上から開発を見られるようにならないといけない。マネージメントとか、人の調整とか」「これからは裏方の勉強をしたい」てなことを言ってサガプラ( http://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/brand.php?brand=114 )を飛び出した新島氏だが、果たして、彼がやりたかったことは押井守氏( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%BC%E4%BA%95%E5%AE%88 )や七烏未奏氏( http://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/creater_allgame.php?creater=4153 )と同じようなことであった。

 ……と、いきなり言われても意味不明であろうから、まずは押井氏や七烏氏が試みてきた、そして新島氏が今作で目指したであろう作風について触れる。この点については、wikipediaでの押井氏の説明が端的で分かりやすいと思う。

> 押井の永遠のテーマとも言えるシナリオの方法論として、「虚構と現実・真実と嘘の曖昧さ」がある。これも上記と同じく押井が源流ではない(前例として古くは荘子、近年ではフィリップ・K・ディック等が挙げられる)。これに付加して、同じ状況を何度も繰り返すなど「永遠性」を意識した演出も多用される。
>
> 映画は単に映像の快感原則の連続によってのみ成立するのではなく、あえて流れに逆らう部分が必要という考え(「ダレ場理論」と呼ばれる)から、押井作品には多くの割合でストーリーの進行とは直接関係ないダレ場(ある意味、眠気を誘うシークエンス)が挿入される。

 この説明は、そのまま『魔女こいにっき』の説明としても成り立つだろう。ただ、こうした「虚構と現実・真実と嘘の曖昧さ」「永遠性」を意識した作品として、本作をあまり高く評価することはできない。その理由をかいつまんで言うなら、作品のコンセプトに矛盾があったから、「現実」を描くだけの作品的強度を持てなかったから、ということになるのだが、以下ではそれらを詳述していく。



 2.恋だ恋だといいながら、結局恋が描けていない

 本作は明らかに「恋」を中心テーマに据えている。……が、そのくせ恋がまるで描けていないのは、多くのプレイヤーが感じたことであろう。
 そもそも、新島氏は恋を描くのが得意ではない。いみじくも本作で連呼された「物語」という言葉だが、そんな風に強調されるまでもなく、彼が描く「恋」は元より非常に「物語」的というか、通り一遍である。
 もちろんこうしたテンプレが悪いわけではない。悪いわけではないが、新島氏の場合はテンプレが本当にテンプレでしかない。女の子や恋をまるで描けていないと思うのだ。
 ……と、このような批判の仕方は色々と引っかかりを覚えると思うので、私の考えとやる気が及ぶ限り補足を加えたい。
 まず、万人とは言わずとも多くの人を納得させられる「女の子や恋の描写」があるのかという点について、私はあると思っている(フェミニストの方ごめんなさい)。非常にハードルを下げた例を挙げるなら、「肩のいかつい」「飯を喰らうような」といった表現は、一般的に女の子や恋の描写としてあまり適当ではないだろう。もっと積極的に、多くの人がリアリティを覚え、夢中になれるような「女の子や恋の描写」もあると思っているが、こればかりは具体例をいくら挙げても「自分はそう思わなかった! どうしてくれる!」という反論が返ってくるばかりであろうから、とにかく私はそう思っている、という説明に留めておきたい。
※どうしても納得できない! という方はこちら→ http://blog-imgs-45.fc2.com/7/t/o/7toriaezu/oregasouomoukarasounandayos.jpg
 さて、次に思い浮かびそうなのは、私に他者が描く女の子や恋を批判できるのか、という疑問だろう。これはより一般化して「大して女性経験もないであろうエロゲユーザーに、女の子や恋のリアリティだのが分かるの? 口にする資格があるの?」という疑問を抱いている方もおられると思うので答えるが、分かるし、資格もある。
 唐突だが、あなたはherbicideという英単語をご存じだろうか?
 あなたがよっぽど英語を勉強したのでない限り、まず見たこともない単語であるはずだ。
 しかし、ある男がこの"herbicide"を読んで「ヘロビシデ」と発音したとする。するとあなたは、herbicideという単語を見たことすらないにも関わらず(知ってたらごめんなさい)、その男が英語音痴であると判断できるに違いない。
 私の言いたいことがお分かりいただけるだろうか? つまり、私達は知らないことについても、ある程度の判断を下せるということだ。もちろん私達は(エロゲユーザーに限らず地球人全てが)女の子や恋を知り尽くしているというわけではない。しかしそれでも、私達は「なんとなくこの語り手が語る女の子や恋は胡散臭いぞ」ということが分かるのである。
 もちろん、描く側とて全てを知り尽くしている必要はない。先ほどの英単語の喩えで言うなら、「herbicideはherbをcideする。つまり除草剤なんだよ!」と説明されたら、あなたはなんとなくそれっぽい気がするはずだ。創作者に求められるのは、こうした最低限の知識(herbや接尾辞-cideを知っていること)と、「それっぽさ」を生むセンスだと私は思う。
 この「それっぽさ」というのは「リアルそのもの」とは違う。リアルというものは、とどのつまり(少なくとも作品が持つ凝縮された時間に比べれば)退屈な繰り返しの集積に過ぎない。ヒロイン達を本当にリアルに描いたなら、エロゲはさぞかしダルいものになるだろう。「リアルっぽさ」をウリとしているエロゲですら、実際はリアルと結構違うものだ。だが、それでいいのである。英語の喩えを再三持ち出すなら、"starcide"=星砕きという非実在英単語を、星をぶっ壊すような超人達が跋扈する世界観で、彼ら超人達の異名として用いたとする。この場合、作者は最低限の知識(starと-cideを知っている)とセンスで大嘘を語ってるわけだが、少なくとも"herbicide"を「ヘロビシデ」と読むより、よっぽど「それっぽさ」=リアリティはあるはずだ。同様に、最低限の理解とセンスがあるなら、現実には存在しない女の子を描いたとしても、リアリティを生み出すことはできるのである。
 そうした考えの上で改めて私は断言するが、新島氏は女の子や恋を描くのが下手だ。
 例えば、私は新島氏のエロゲを殆ど全てプレイしているが、彼が描く「ヒロインが恋に落ちるパターン」は、以下の2パターンしか見た覚えがない。
1.男女が同じ時間を過ごしたから(≒理由なし)
2.ヒロインが世間の悪意と対峙してしょげている時に、主人公が王子様や騎士的なふるまいをしたから

 また、ヒロインのちょっとした仕草や受け答えから得られるリアリティが皆無だ。リアリティがないことの説明というのは、それが私の主観に拠っていることもあり、非常に難しい。だが敢えて試みてみると、『魔女こいにっき』のヒロイン達は、特にジャバウォックと付き合って以降、どの子も同じような振る舞いをしているようにしか感じられなかった。言い換えると、彼女達から生きた個性を感じなかったのである。
 ここでいう個性というものを、私は「与えられた経験や環境からは割り切れない、本人から滲み出てくる固有のモノ」と捉えている。例えば、『はつゆきさくら』のあずま夜は、別に風評被害に遭わなくても依存心の強さや子供っぽさは変わらなかったと思えるが(大好きです)、そういう感じだ。あるいは、ジョジョの花京院典明はスタンド使いじゃなくても友達が少なかったとしか思えないが(大好きです♥ミ)、そういう部分である。
 ひるがえって『魔女こいにっき』に戻ると、例えば、私は崑崙と時計坂零が違う人間だと認識することができなかった。崑崙とのイチャイチャは確かに甘かったが、ジャバウォックが崑崙に対したのと同じ態度で臨めば、零とも同じイチャイチャがやれたとしか思えなかったのである。あるいは、ジャバウォックや他のヒロインが崑崙を「チョロい」とからかえば、彼女も零と似通った反応を見せたとしか思えない。言い換えると、「ツンデレ」「クーデレ」といったテンプレを引き算していったとき、『魔女こいにっき』のヒロイン達に残るものはどれも同じように感じられたということだ。彼女達は誰もが、ジャバウォックのすることなら、作り物めいた可愛らしい抵抗は見せつつ、結局は何でも受け入れる便器に過ぎなかった。「これは物語だから」というエクスキューズの下、新島氏にそう振る舞わされたのである。『はつゆきさくら』ではそこまでとは感じられなかったのだが――。
 ここで鋭い読者は「あれ? dovは新島のスタティックな傾向を語っていたはずなのに、『はつゆきさくら』ではできていたことが『魔女こいにっき』ではできなくなったみたいな変化を言い出したぞ」と思われたかもしれない。それは図星で、実際私はそう考えている。その理由は1.「物語」というマジックワードを言い訳に使ったから 2.サガプラから出て行ったから だと考えているが、まずは1について説明する。



3.「物語」という言い訳
 これはくどくどしく説明しなくても、シンデレラストーリーⅡの締めの文を引用すれば十分だろう。

> けど私には、この先、彼女に起こることがなんとなく分かる。
> それは、これが物語だから。
> 現実なら、生まれかけたささやかな気持ちは、ささいなきっかけで無くなったり。
> どんなにも思っても、叶わなかったりすることもあるのだろう。
> でも物語なら……男の子と女の子が出会ったら、恋が始まらなければならない……。

 つまり、新島氏は恋を描くことから逃げたのである。逃げた上で「これは『物語』ですから! リアリティがないのは『物語』として意識して描いた以上当然ですから!」と言い訳したのである。そうやって自らの物語をスポイルした結果、サガプラ時代の過去作では拙くぎこちないながらも、一応の恋が描けていたのに対し、本作ではまるで現実味のない恋物語が展開される結果となった。
 「夢オチは最悪」という使い古されたフレーズを持ち出すまでもなく、「この話は現実ではありません! 夢なんです! 物語なんです! 嘘っぱちなんです!」と散々言い訳された上で語られる物語を面白いと思えるはずがない。じじつ、あなたは聖や美衣シナリオをプレイした時、目の前でまさに恋物語が展開されているというのに、どこかで「で、この『物語』は作品上どういう位置づけにあるんだ?」という点に意識が向いてはいなかっただろうか。少なくとも私はそうだった。私はキャラクターに思い入れて作品を読むタイプで、新島氏は設定段階では、かなり魅力的なキャラを創れるライターだと思っている。だが、せっかくの可愛いキャラクター達も、その行動も想いも「物語」として否定され、台無しにされたのはとても残念であった。
 ヒロインが台無しにされていると感じた場面は数限りなくあったが、一つだけピックアップするなら、ありすがジャバウォックと終わりを迎える葛藤が全く描かれなかった点だ。子供も作れない、相手は年も取らない、常に「本当は自分は一人ぼっちなのではないか」という思いに苛まれる、そしてジャバウォックの気が変わったら(その可能性は非常に高い)本当に一人ぼっちの時間だけが残る。そうやって、現に心を壊した女性が存在する――こうした問題は、普通の人にとって軽々しく受け入れられるものではないはずだ。だが、ありすは何ら葛藤することなく、ジャバウォックと終わりを迎えようとしてしまう。彼女が人間なら、ジャバウォックをなじっても良かったはずである。彼に確たるものを求めて良かったはずである(それをやった"アリス"は作中で否定されるわけだが)。ジャバウォックを捨てても良かったはずである。あるいは、「現実」から目を背けるようにジャバウォックに依存しはじめるのも、それはそれで良いだろう。結論は何でも良いが、そうした葛藤が生まれてこそ、私達はありすに人間味を感じられたはずである。しかし、人形のような笑顔を浮かべて「物語」を受け入れるありすの姿からは「ああ、こいつも相手がジャバウォックなら何でも受け入れる便器だったのだな」という諦観だけが心に残り、便器が何十年ジャバウォックと「恋」(と呼ぶことさえ私には憚られる)をしたところで、特に何の感慨も湧かなかった。
 ここまではヒロイン達に意識を向けてきたが、実のところ「物語」とされることで最も割を喰ったのは、主人公ジャバウォックだと私は思っている。新島氏が女の子や恋を描くことが苦手なことは既に書いたが、彼は主人公の感傷や思い入れを描くことは結構上手いのだ。たとえ『はつゆきさくら』で玉樹桜が聖人過ぎ、彼女に思い入れられないと感じたとしても、主人公の河野初雪に対しては結構共感できる点を発見できた方が多かったのではないだろうか? あるいは、あまり人間味を感じられなかった『ナツユメナギサ』の渚でも、羊に対する叫びには共感できたのではないだろうか?
 ところが、本作のジャバウォックは「物語」という言い訳によって完全に支離滅裂なキャラとなっており、彼に思い入れることは極めて困難である。――というか、共感以前に言動に一貫性を見いだすことすら難しい。ありすと「物語」を終えるまでの僅かな時間ですら我慢できず、零を押し倒す彼の心情と人間性を説明するのは至難だ。
 ここまではキャラクターの問題に目を向けてきたが、今度は作品設定に目を向けてみよう。佐納歌音のシナリオで、彼女達はその国の領主を「親方様」と呼んでいる。繰り返しそう記述されているし、6/13のパッチでも直っていないので、新島氏は本気で「親方様」だと思っているのだろう。
 正直言って、これはプロとしてやってはいけないミスに当たる。「お館様」(あるいは御屋形様)という表現は、別にお堅い歴史書でなくても、その辺の娯楽小説や漫画、果ては戦国BASARAのようなゲームにさえ登場する、ごく基本的な用語だ。つまり、新島氏は戦国BASARAレベルの知識すら無いことを露呈したのである。その教養レベルは物書きとしてどうよってのもあるし、時代小説っぽい話を描くならちょっとくらい時代小説に触れておくという、物書きとして基本中の基本すらなおざりにしてるんだなあ、と、なんだか姉歯事件をテレビで眺めているような気持ちになったのが正直なところだ。
 ゆえに、私はこの作品における不思議の国のアリスやアラビアンナイトの要素についても、全く考察しようという気になれない。大して調べもせずに新島氏がそうした要素を盛り込んだことが、状況証拠から明らかだからだ。
 酷なことを言うようだが、新島氏から社会常識の一部がすっぽ抜けていることは、別に今更気づいた話ではない。彼が描く女の子のぎこちなさからも、彼が描く「大人」の薄っぺらさからも、なんとなくそれは察していた。
 が、それでも一生懸命社会を語り、女の子を描いてきたからこそ彼の作品には輝きがあったのだと、私は思う。エロゲをやる以上、社会や女の子のリアルなんてある程度目を瞑ってプレイする用意がこちらにあるし、現実の社会やリアル女がクソだと思うなら存分にその怨念をぶちまけてくれればいい。が、新島氏はおそらく自分の社会性の欠如を自覚してるからやったんだろうが、「これは物語です!」と言い訳を繰り返して、自分なりのリアルを描こうとする努力を放棄してしまった。なるほど、「これは物語です!」と言えば何とでも言い訳できる。女の子のぎこちなさも、設定の拙さも「これは物語として描いたからそうなるんです。ぼくはちゃんと分かっててやってるんですよ!」と誤魔化すことができる。作品に向けられるあらゆる批判を「はいそうです。そういう物語を描きました。ぼくは全部承知しています。これは一種の諧謔なんですよ!」と躱すことができる。ありすの物語の不自然さだって「実はアリスっていう黒幕によって作られた物語だったんです!」とエクスキューズできたし、「アリスはぼくとぼくの作品自体のカリカチュアなんですよ。ぼくや作品に対する不満は当然です。そのプレイヤーの怒りこそがやがて竜になるんです」とか言ってしまえば、落胆したファンを「やっぱり新島氏すげー」と騙せさえするかもしれない。
 しかしいくら言い訳を重ねたところで、私にはこの作品が竜には見えなかったし、新島氏のダサさが覆い隠せたとも思えなかった。むしろ、この作品は「どどど童貞ちゃうわ!」という新島氏の壮大な言い訳にしか見えず、こうして「いやお前童貞だろw」とツッコんでいる次第である(『童貞』というのはあくまで比喩です。実際に新島氏が童貞かどうかは知りません。念のため)。



4. 本作と「虚構と現実・真実と嘘の曖昧さ」について

 以上で、冒頭に挙げた本作の2つの欠点のうち、本作が「『現実』を描くだけの作品的強度を持てなかった」点について、納得頂けないにしても理解はして頂けたと思う。本章では、もう一つの「作品のコンセプトに矛盾があった」点について触れたい。
 といっても、これも結局同じことを角度を変えて批判しているに過ぎない。ようは、プレイヤーが作品にリアリティを感じてのめり込むことができなければ、「虚構と現実・真実と嘘の曖昧さ」なんてものを感じることはできないよね、ということだ。のめり込めない作品は、最初から最後まで「虚構・嘘」なのである。どこにも「現実・真実」など入ってくる余地がなく、畢竟、両者の曖昧さを感じる瞬間なんてあるはずがない。
 この点、過去の作品では頑張って新島氏なりの「リアル」を描いたことで、その「リアル」を蹴っ飛ばした瞬間の薄ら寒さというものは感じることができたのだが、本作については終始ありすの話がリアリティを欠き、「物語」でしかなかったせいで、それを「過去の実話でした」「でも実はアリスが作った物語でした」と往復で蹴っ飛ばしてみても、プレイヤーとしては「ふーん」としか思えない。最初から嘘としか思えなかったものが、どうなろうと知ったこっちゃないのだ。
 これで話を終えてもいいのだが、そもそも新島氏が描こうとした「虚構と現実・真実と嘘の曖昧さ」は最初から無理筋だったんじゃないかなぁ、と思う部分もある。これは私としても確信を伴っては書けない部分なので、読み流して下さると幸いだ。
 どうせ新島氏は「虚構と現実・真実と嘘の曖昧さ」についてまともに考えちゃいないし、描き方自体も矛盾を数多く内包していて煙に巻く気満々なので、私としてもあまり煙幕の中に踏み入りたくないのだが、どうも彼が言う「物語」というのは、ゲームとか、舞台劇とか、映画とか、いわゆるエンターテインメントに限られていたんじゃないかなぁと思う。
 ジャバウォックは加藤恋に言う。

> 「どうしてもそれを願う気持ち……そのためなら、他の何もかもを犠牲にしても良いという気持ち」
> 「それほどの覚悟を感じないな」
> 「何かの逃げ道として、とりあえず……途方もない逃げ道を用意してみましたってのが、映画を撮るってことじゃないのかな」

 この問いに対して、確かに物語は弱者のもので虚しいものだけれど語り続ければ竜となってうんたらかんたら――みたいな答えらしきものが作中で語られ、これが新島氏の本心に近いような気がした。彼は「エロゲ作ってる俺なんて何の価値もないんじゃないかなぁ」とか「これって結局現実逃避だよなぁ」みたいなことを考えながらエロゲを作っているのかもしれない。そして、例えばエロゲや長編RPGをクリアした後で現実に返る寂寥感、あるいは舞台劇が終わった後で無機質な書き割りや衣装だけが残っている寂寞、そして、もしかして人生自体ゲームや舞台劇みたいなものなのかなあ死んだ果てに何があるのかなんて分からないし……という感慨、そういうものを表現しようとして『ナツユメナギサ』や本作を作ったのかもしれない。
 じじつ、崑崙は言う。
>「魔女こいにっきとはなんなのか」
>「それは、あなたや私達がいる、世界そのものへの問いかけだわ」
>「世界は何なのか」
>「世界の真理とはなんなのか」
>「それを知ったら、きっと、誰も存在することなんてできない」
>「知れば終わり……そういうものなんだわ」

 ……が、ハッキリ言って「物語」と「現実」の対立軸をそこに置いても、あまり怖い話にはならないのだ。
 「物語」をゲームだの舞台劇だのに限って認識している時点で、その人は実のところ、「物語」と「現実」とにちゃんと線を引いている。荘子やフィリップ・K・ディックが描く恐ろしさというのは「現実と呼べるものなどどこにもない」ということであって、「世界が実は5秒前に創られたのかもしれない」とか「夢仮説」とかそういうキーワードが出てくる話のことだ。私にとってこれはあまり興味を惹かれるテーマではないので、興味のある方は( http://iwatam-server.sakura.ne.jp/kokoro/kyokou.html )( http://netokaru.com/?p=3690 )( http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/179_15255.html )( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E4%BB%AE%E8%AA%AC )( http://yoshino.tripod.com/fiction.html )でも読んで腹を立てるなり同意するなりして頂ければ幸い。
 つまるところ、「虚構と現実・真実と嘘の曖昧さ」というテーマの作品を読み慣れ、また自身が悩んできたような人からは、『魔女こいにっき』はずいぶん低いところで悩んでるなぁと思われるだろうということで、この章の結びとする。



5.新島氏はSAGA PLANETSを出て行くべきではなかった
※ここから先は『ナツユメナギサ』『はつゆきさくら』の核心に関わるネタバレを含みます

 冒頭で「もっと上から開発を見られるようにならないといけない。マネージメントとか、人の調整とか」「これからは裏方の勉強をしたい」という新島氏の発言を取り上げたが、これは有り体に言えば「上からの介入なしで作品を作りたい」という意味であろう。サガプラ時代の新島氏の作品から『魔女こいにっき』を引き算すると、サガプラ時代の作品、特に『キサラギGOLD★STAR』や『はつゆきさくら』のどういう部分にサガプラひいてはビジュアルアーツ上層部からの介入があったのか、何となく見えてくる。
 本作が『キサラギGOLD★STAR』や『はつゆきさくら』よりは『ナツユメナギサ』に近いのは、『ナツユメナギサ』の頃は上からの介入が比較的少なく、ある程度好きにやれたからだろう。が、『ナツユメナギサ』の成功を受け、おそらく新島氏は相当上からの介入を受けたに違いない。その最大のものは「青春」という要素のねじ込みで、これはビジュアルアーツが得意とするものでもあり、『キサラギGOLD★STAR』や『はつゆきさくら』には色濃く表れ、『Coming×Humming!!』『ナツユメナギサ』『魔女こいにっき』では殆ど触れられなかったことから、おそらく間違いないと思われる。
 そう考えると、『キサラギGOLD★STAR』や『はつゆきさくら』で「オトナVS子供」の対立要素が持ち出されたにも関わらず、殆ど子供全肯定で終わるといういい加減な決着がされた点も腑に落ちる。新島氏は別にそんな対立を描きたくなかったが、上がやれやれ言うのでてきとーにやっつけたといったところだろう。『キサラギGOLD★STAR』に至っては、新島氏が(単純なテキスト比率で言えば、おそらくナツユメ以上である)過半数のシナリオを担当したにも関わらず、自分の作品であることを認めたがらないが、それは彼の大好きな「世界の否定」をやらせて貰えなかったからだと憶測ができる。
 新島氏の本音としては、青春や「オトナと子供の対立」なんてどうでも良かったし、物語の世界は何としてでも蹴っ飛ばして「虚構と現実・真実と嘘の曖昧さ」を描きたかった。歩や初雪・アリスが求めた「永遠」は否定したかったし、自分のシナリオの嘘っぽさは『ナツユメナギサ』で使われたマジックワード「夢」や『魔女こいにっき』で使われたマジックワード「物語」で誤魔化したかったのだろう。だが私の見るところ、新島氏が好きにやった結果彼の作品が良いモノになれたとは、とても思えない。
 彼が女の子や恋を描くのを苦手としていることは既に書いたが、それを補うために彼はサガプラ時代色々と工夫していた。口当たりがよく耳障りの良いフレーズの反復、ヒロインに対するセクハラとそのリアクション、楽しい音楽や冒険のドキドキといった華やかなものを用意し、恋物語とは別のテーマを据えて読者の目先を逸らし、恋物語の拙さをカバーしていたのである。そうした要素は『魔女こいにっき』で皆無となったわけではないが、本作では「これは物語です」という言い訳に頼り切った結果、面白さが損なわれてしまった感は否めない。
 彼の欠落を埋めてくれるライターの不在も痛かった。『Coming×Humming!!』『ナツユメナギサ』『キサラギGOLD★STAR』のシナリオを担当した姫ノ木あく氏は、少なくとも当時は男女のあま~いイチャラブで右に出る者がいないライターだった(と私は思う)し、若瀬諒氏も考え抜かれたプロットの上で幻想的な舞台と少女を描くことに長け、新島氏の欠落をよく埋めていたと思う。本作で新島氏と共に書いたライターからは、少なくとも今のところ、新島氏の欠落を埋めるほどのモノは感じられず、サガプラあるいはビジュアルアーツの上層部は新島氏の長所と欠点をよく心得ていたんだなぁという感慨を抱く。
 「青春」要素も新島氏の本意ではなかったのだろうが、『魔女こいにっき』の出来映えを見る限り、それでもあった方が良かった。ココまで新島氏を酷評してきたので彼の長所を書くが、彼は限られた作画枚数でキャッチーな演出ができ、限られたテキスト量の中、キャッチーでまとまりのある話を描けるという、コスト感覚に優れた面がある。ただ、物語が現実から遊離しすぎ、プレイヤーの共感を呼べないのが欠点で、そこを埋める誰か、あるいは何かはどうしても必要だろう。姫ノ木氏や若瀬氏達がそうした役割を担ったとは既に書いたが、「青春」要素もその一つと呼んで差し支えないはずだ。『魔女こいにっき』はアリスによって全てが否定されるだけの不毛なオチとなったが、新島氏による物語の否定を許さなかった『キサラギGOLD★STAR』は言うに及ばず、否定を容認した『ナツユメナギサ』も青春要素のおかげで少なくとも「歩の成長物語」という物語の果実を墨守できたし、『はつゆきさくら』も、少なくとも「初雪の成長物語」「夜の成長物語」「(途中までは)シロクマの成長物語」として読むことが可能だった。また、童話のような「少女時代」を送っていたありすが、見知った人達の見知らぬ物語の描かれた本を見つけて――という『魔女こいにっき』の序盤はキャッチーで、演出もサガプラ時代と比べて全く衰えていなかったにも関わらず、物語への吸引力が『はつゆきさくら』に遠く及ばなかった(と私が感じた)理由は、学生生活のリアリティの差に求められると思う。学生生活の描写もビジュアルアーツのお家芸であり、これも新島氏の欠落を埋めていたと考えれば腑に落ちる。
 まあ、飛び出してしまったものは仕方が無い。しかし、新島氏には絶対に、彼が描く物語の空疎さを埋め、現実味を与えるような存在が必要である。本作はそれが無かったが故に、ジャバウォックがアリスに
>「聖は聖だ」
>「美衣は美衣だ」
>「そしてありすはありすだ」
>「お前のこしゃくな、魔法が影響していたとしても、彼女達は彼女自身で、私を語った」
 と啖呵を切ったところで空々しく響いたし、アリスとジャバウォックを閉じ込めた永遠の時計塔=『魔女こいにっき』という作品が竜になると嘯いたところで私には紐の切れた凧のようにしか見えなかったが、新島氏が自身の欠落を埋めるようなパートナーを見つけることができれば、またサガプラ時代のような良作・傑作が作れるかもしれない。

 最後に、この作品のヒロインを何度か便器呼ばわりしたことを申し訳なく思うが、あまり心が痛まなかったというのが正直なところだと告白する。シロクマの場合、途中まで彼女をちゃんと生きたキャラクターとして感じられたが故に、後半シナリオの都合で初雪の便器にされたことに怒りも覚えたが、本作のヒロイン達は最初から新島氏に破壊され尽くされ、既に殺されていたが故に、死体の為に怒る気にはなれなかった。
 また、新島氏恒例のプレイヤーに対するFUCK YOU! も(ヒロイン達の便器化、永遠の否定に加えて、例えばいちかシナリオでやった『妹萌えへの批判』、本作におけるアリスの存在等)、『ナツユメナギサ』や『はつゆきさくら』ではそれが結構サマになっていたので腹も立ったが、本作の場合、肝心の作品本体があまりにボロボロで、腹を立てるにも至らなかったことは書いておきたい。

dovさんの「魔女こいにっき」の感想へのレス

押井守と似たようなテーマの作品を作った、という話はなるほどなぁと思いました。
実際の所、新島版ビューティフルドリーマーを作りたかったのかもしれませんね。

私はプロローグをプレイした時点では、萌えゲーに対するアンチテーゼ的な作品だと思ってました。
要は、「チョロインとの恋愛が成り立つのはひとえに主人公が鈍感だからなのであって、ちょっと主人公が積極的になったらこんなに簡単にセックスできるんだぜ。お前ら処女性があーだーこーだ言ってるけど、萌えエロゲーに出てくるヒロインなんてみんな尻軽女なのさ。」みたいな。
2014年06月24日01時47分36秒
 こんばんは。
 xiboさんは計ったような素晴らしいタイミングで事を為すことがありますが、今回のコメはまた格別ですね。
 何気ないコメントだったのかもしれませんが、あまりにタイミングと内容が的確で現在ワタクシ発狂中です。
 数日以内に意味不明な長文でコメ返しすると思いますので、読み流すなり無視するなりしてくださいましー。
2014年06月25日23時14分20秒
ご返信ありがとうございます。
はつゆきさくらの感想でdovさんを知った身としては、この様なコメントを頂きまして、大変恐縮しております。
それでは、返信コメント楽しみにさせて頂きます。
2014年06月26日03時18分56秒
 間が空いてしまって申し訳ない。まずはxiboさんの書き込みに「発狂」した理由から書きます。
 xiboさんは私の『はつゆきさくら』の感想もお読みになったということで、お気づきになったかもしれません。今回の『魔女こいにっき』の感想は、『はつゆきさくら』の感想に比べると抽象的で、1つ1つのシーンを丁寧に拾い上げていくといったことはやっていません。その第一の理由はもちろん、具体的に感想を書くのはもの凄い労力がいるからで、『魔女こいにっき』は少なくとも『はつゆきさくら』ほどにはそうしたいと思えなかったからですが、もうひとつ、私なりの捻くれた理由があります。
 『魔女こいにっき』をプレイしている最中、ふと、私は新島氏のやりたかったこと、これからやっていこうとしていることが見えたようなような気がしたんですよね。そうした考えを胸に新島氏の過去作を振り返ってみると、また新たな発見があった。でも、それを書いて、万が一にも読んだ方に「新島氏スゲー」などと思って欲しくなかったw
 批評はもちろん、批判ですら、対象作の価値を高める効果があるわけです。アニメだと庵野氏だの宮崎駿氏だのオタキングだのが互いを「批判」してその実互いをゲージュツカだと認めさせる印象付けをしているわけですが、私は別に新島氏をゲージュツカだと思っていませんしそう思う人が現れることはあまり嬉しいことではありません。
 もちろん、自分の意見は誰かと共有したいと思うのが人情。でも、その相手は、作品の構成や意図を知って「スゲー」と思ってしまうような方ではなく、かといって構成や意図に全く興味のない方でもなく、構成や意図を認めつつも「でも作品の評価は別だからね」と言ってくれそうな方であって欲しかった。
 そしたら、まさにそういう方(だと私は思っている)なxiboさんが絡んで下さったので、私は小躍りしたというわけです。つまりはxiboさんをダシに自己語りしよーって魂胆なので、xiboさんに対する返事というよりはレビューの続きみたいな体裁になっています。途中で本筋にあまり関係ない政治の話を始めるなど、本気でおふざけに走った態度で読んで頂くのは申し訳ないくらいですので、読み飛ばされても、読まなくても、気に入ったところは拾い上げて下さっても、お好きになさってくださいまし。
 初めに申し上げておくと、私が『魔女こいにっき』で見いだしたことというのは、xiboさんが仰った「萌えゲーに対するアンチテーゼ」とほぼ同じです。これも私が小躍りした理由だったりします。
 だって、私はこれからえらく主観的で大雑把に考えを書こうとしているのですが、xiboさんなら理解して下さりそうなんですもの。

 まずは過去作から振り返ります。ここから先、しばらく『Coming×Humming!!』『ナツユメナギサ』『キサラギGOLD★STAR』『はつゆきさくら』のネタバレを含む話となりますので、お嫌でしたら【わっふるわっふる】でブラウザ検索して下さいまし。
 さて、上の感想でも書いたとおり、現在私は新島作品に「恋愛劇のぎこちなさ」「永遠」という補助線を引いて評価しています。ここでいう「永遠」とは「今目の前にある現実とは相反する、しかし人を惹き付けてやまないもの」てな感じにご理解くださいませ。その補助線を『Coming×Humming!!』に引いてみると、あれれ、「永遠」の方はあんまり機能していない気がする。ですが「恋愛劇のぎこちなさ」については既にこの作品でも現れています。
 彼が担当したシナリオは美海とひなただったと記憶していますが(他にも担当したキャラがいたかもしれません)、美海の方は要素を詰め込みすぎた挙げ句、終盤で全部をてきとーにやっつけた、という点が特徴的でした。新島氏は話を畳むときに、プロットの収束に躍起になるあまりキャラの動きがぎこちなくなるという悪癖がありますが、美海シナリオもまさにそうした悪癖の犠牲と言えましょう。
 より悲惨だったのがひなたシナリオです。ひなたの正体は精霊(のようなもの)で、最後に彼女は消えてしまうのですが、ここで新島氏はとんでもないオチを用意します。
 なんと、ひなたと同じ名前、同じ容姿の全く別人が美海の親戚にいることを明かして、彼女がこの街にやってくる、というカタチで「ハッピーエンド」にしたのですよね。
 何を言ってるかわからねーと思いますが、私自身も分かりませんw 最後に現れる「ひなた」は、当然精霊だったひなたとは全くの別人で、記憶も経験も全く別物です。そんな「ひなた」が現れたところで、本物のひなたを失った美海とプレイヤーの心が晴れるわけがないことはあまりに自明だと私には思えるのですが、そのオチには明るい音楽と感動的な演出が用意されており、どうやら新島氏は本気でこれを「ハッピーエンド」のつもりで作ったみたいなんですよね(私には、このエンドから皮肉や諧謔といった意図は読み取れませんでした)。
 99%以上の人にとって、愛着というのは対象を「かけがえのないもの」だと感じることを含むように思えます。まー創作上の人物なら、愛するモノをこの手で殺害して「これで彼は私の中で"永遠"となったー! 彼の"物語"を私の手で完結させたぞー!」とか言い出すのかもしれませんが、現実の人間にそういうやつはまず存在しないでしょう(シリアルキラーの言動などを聞くに、皆無、とは言い切れないのですが)。が、新島氏はそこに躊躇いがありません。ヒロインを殺して「ほら、新しいヒロインだよー。嬉しいでしょー(にっこり」てなことを臆面もなくやるんですよね。素でそれに何も感じないのか(だって彼女は創作上の人物でしょ、という感覚なのか)、自分が生み出したキャラを自分の手で殺すことに一種の快感を見いだしているのか、プレイヤーに対する悪意の押しつけでやっているのか、ヒロインを殺してみせることで「物語から醒める感覚」を提供しているつもりなのか、未だに判別がつきません。
 ――いや、理性は「最後の選択肢が一番正解に近いんじゃね」と言ってるんですが、認めたくないというのが正直なところだったりします。テーマ(正直大したテーマではないと思いますし、そもそもこのテーマを表現するために、こんな手法を採る必然性がありません)をプレイヤーに押し付けるためだけに、わざわざプレイヤーが大好きなキャラを殺してみせて、「ほら、替わりのヒロインだよ(にっこり」という醜悪をやるのか、やれてしまうのかという本能の叫びが必死にその声をかき消そうともがいています。ひなたシナリオは正直あまりデキが良いとはいえず、私はひなたに大した愛着も抱けなかったためにスルーできたわけですが、『ナツユメナギサ』では無視できない問題として私に降りかかってきます。
 というわけで、みんな大好き『ナツユメナギサ』。多分、これまでに発表された新島氏の作品の中で、最も楽しみやすい作品だと思います。
 ただ、楽しむ為には以下のような資質が必要だった(この部分、私が以前『ナツユメナギサ』に書いた感想とはかなり意見が異なっています。というのは、当時の感想では、ある方の『ナツユメナギサ』の楽しみ方を一般化して語ったのですが、その方の楽しみ方がクレバーすぎて、あまり一般的ではないことに気づいたからです)。

 1.主人公と自己をある程度同一視できるプレイヤーであること
 2.フィクションのキャラクターをフィクションだと思えること

 残念ながら私には1の資質はあったのですが、2の資質がなかったようです。とゆーか、私は確信犯的に「いわゆるフィクションといわゆる現実とに確たる境目はない」とゆー信仰(笑)を抱いてる人ですので、2は宗教的理由で受け付けられません。イスラム教徒に豚肉を喰わせるようなもんです。
 ここで軽く私なりの信仰を告白すると(おっと、ここから先は全くエロゲに関係ない宗教政治経済ネタになってしまうので【レッツ背徳】でブラウザ検索して飛ばすことを強く推奨いたします)、例えば日本国憲法前文にある文言「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する」「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる」って明らかにフィクションじゃないですか。現実では、未だに世界の1/3の人々は恐怖と欠乏に生きているし、国家なんてものは結構自分勝手です。自分勝手だから今日も戦争・紛争が続いてるんでしょ。
 ただ、じゃあこれを「理想主義www」「現実見ろよwww」みたいに笑い飛ばしていいのかというと、私はそうは思いません。「誰だって恐怖や欠乏から免れて生きていくべきじゃぁないか!」というフィクションを信じる心には、祈りのようなものには、「現実」を変えてゆく力があると思っています。例えば、お花畑の代表格として巷ではとかく評判の悪い共産党も、そのお花畑な夢を追って今日も少しのイイコトをしてるんですよね( http://anond.hatelabo.jp/20121015233513 )。私が思うに、(日本共産党ではなく、ソ連や中国における)共産党は「目的のためならあらゆる行為は正当化される」という陰謀主義的な部分がダメだったのであって(そのせいで、より陰湿な手段を用いるモノが上に立てる仕組みになってしまった)、一旦陰謀のるつぼとなってしまったクレムリンや中南海が今でも陰謀渦巻く魔界となってしまったのは大きな失敗でした(ただまあ、あんだけ凄絶な権力闘争を勝ち抜いた指導者が、その割には国威や面子ばかりでなく、ちゃんと民のことを考えてないこともないように見える辺りに、人間の可能性を感じたりもします)。しかし(他の多くの主義・宗教同様に)出発点は否定できるものではないでしょう。「自らは何も生み出さず、搾取するばかりの地主・資本家ではなく、額に汗し、知恵を絞って日夜努力している労働者たちにこそ、相応しい名誉と待遇を与えるべきじゃないか」。ええ全くですとも。クソッ、大して働きもしないでヌクヌク美味い飯喰ってる連中め羨ましいぞ俺にもご相伴に与らせろ! おっと本音が漏れてしまった。まあ、今のところビンボーな私は共産党の少なくとも「労働者を守れ」という部分には共感できるわけで、もちろん金持ちになった暁には搾取的資本主義者となり(※わたくしは資本主義の信奉者ですが、あまりにも搾取的な資本主義には反対です。今のところ)「もっと保険料と消費税と物価を上げて法人税と残業代を下げてくれ。安倍さんブラーヴォー!」と諸手を挙げる用意がわたくしにはございますが、そんな日が一刻も早く来ることを願っている次第でございます。
 誰かさんは上手いことを言いました。

> フィクションなのに感情移入してる奴がいる
> こういう大人が世の中を住みやすくする

 そう、私が言いたいことはまさにそういうことなのです。
 おいおい憲法賛美に共産党擁護かよ。左巻きすぎんだろ大丈夫か? という声が聞こえてきそうですが(ちなみにワタクシ、今のところ共産党や公明党に投票したことはございません。大病を患ったり生活保護を受ける身になったりして、共産党の親切な方々もしくは池田○作先生もしくはそれらの信者である美女の麗しい肉体の世話になったら、貴重な一票を捧げる用意はございます。今のスタジオジブリ社長はガチンコの創価学会員だったりしますが、そうなる前から、ジブリの作品はとんと見たいと思わなくなってしまいました → http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%9F%E9%87%8E%E5%BA%B7%E4%BA%8C )、私から言わせれば日本の空気が大分右に寄りすぎただけで、自分自身はまことに中道なつもりでございます。80年代辺りに生きてたら、きっとあの頃未だに「北朝鮮と韓国どっちが韓半島の正統な国家か」論争をやってた東大の左巻きバカ教授どもを嘲笑っていたことでしょう。ちなみに人間性はともかく、経済政策的には麻生○郎や菅○人を相対的にマシだと思っている、とも付け加えておきます。
 せっかくなので、毒喰らわば皿でもう少し政治経済ネタを続けると、(少なくとも長期的に見て)現在の日本の経済が低迷している原因は明らかで、日本の生産力が飽和して需要が追いついていないからだということは経済学者の誰しもが口にしているわけです。で、今安倍がやってることは、国民から金を毟り取ってその金を国家が企業にバラまき、需要を生み出すという方法なわけですが、別にそんなことをしなくたって、国民がもっと金を使えば問題は解決するわけですね。まぁ言うは易くなんとやらで、やれ「少子高齢化ガー」「日本の地位低迷ガー」などと言われると不安になり将来の為に蓄財しとこう、となって結局日本人は自らのクビを締めているわけですが、これなんてまさに「将来への恐怖」という「フィクション」が日本経済という「現実」に影響を及ぼしている例でしょう。
 実際は、日本は漸増的に豊かになっていますしこれからもそうです。少子高齢化は「60歳になったらもう絶対働かないゾ」というフィクションを維持するから、老人が増えれば増えるほどタダ飯喰らいが多くなって破綻しそうな気がするだけで、年を取ってからも働ける分だけ働く、身体が若者ほど動かないなら頭を動かす、それが本当の幸せだ的なフィクションが大きくなればさしたる問題にはなりません(てか、たった7,80年も遡れば世界に公的年金など存在せず、そんな『フィクション』こそ『現実』だったわけです)。人間、人生で本当に動けなくなる期間なんて最後のせいぜい数年だけで、男性なら70前半、女性だと70後半くらいまで結構元気に動けるものですから。時々「老人が働くと若者の職が奪われるから更に若者が苦しくなる」みたいなフィクションを大まじめに語っちゃう人もいますが、少なくともマクロで言えば、老人が働いて金を手にした分だけ、若者は老人を支える年金や社会保険の負担が減り、つまり若者は同じ生活水準を維持しながら余暇時間が増えるだけです。
 が、そうした「日本の将来は暗い」「老人が働くと若者が苦しくなる」みたいなフィクションが未だに幅を利かせ、それが日本経済の枷となっている現状を見るにつけ、私にはフィクションと現実の区別なんて定かではないように思えてきます。

 【レッツ背徳】
 ――話が大幅に脱線しました。『ナツユメナギサ』の話に戻ります。
 上述した2つの資質を備えている人は、おそらくそう少なくはなかったと思います。「エロゲをプレイしているとさ、ヒロインが俺のモノになったような気がするんだ」「dovとかいう頭のイカレた人がなんか言ってるけど、現実は現実、フィクションはフィクションでしょ」そう思える人の方がむしろ多数派でしょう。そういう方にとっては、ゲームの主人公である渚の消失というのはプレイヤーがゲームから離れるのと軌を同じくしており、それほど抵抗が大きくなかったと推察いたします。物語の終わりに、砂上の楼閣だった『ナツユメナギサ』とゆーフィクションの世界は洗い流され、今はただ寄せては返す波だけとなった渚から、離れて歩は自分の生を歩んでゆくわけですけれども、「『ナツユメナギサ』という夢≒物語≒フィクション≒永遠を通じて、渚≒プレイヤーは歩という少女と虚構である永遠の夏に出会えた。今二人の道は分かたれたけれども、彼女には幸せになって欲しい」という感慨に、大半のプレイヤーはおそらく素直に浸ることができたはずです。「永遠」に触れる、あるいは「永遠」から離れる物語として、『ナツユメナギサ』はよく出来ていたと思います。
 ――と言いつつ、私は同作品が苦手だったわけですが、その理由は概ね新島氏のもう一つの特徴である「恋愛劇のぎこちなさ」が邪魔したせいです。
 この点について詳しくは既に『ナツユメナギサ』の感想( http://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/memo.php?game=11923&uid=dov )で書きましたが、端的に言えば、「歩に渚は無理矢理付き合わされた気がした」「羊がこの後幸せになれるとは思えない」ということになります。どちらも、突き詰めれば恋愛劇のぎこちなさです。
 歩はもちろん絵が可愛く、声優さんの好演も良かったとは思いますが、肝心のテキストから生きた少女としてのリアルを感じられず、機械人形と恋愛しているようなぎこちなさを感じてしまいました。新島氏が本当に自分なりの実感や情感を込めて描いたのではなく、ただ「理想の恋愛劇ってこんなもんだろ」とテンプレをなぞっただけのようにしか思えなかったということですね。
 羊はアイドルや歌といった要素の使い方自体はぎこちないながらも、渚の羊に対する想いには心から共感することができましたし(上の感想でも書きましたが、新島氏は主人公→ヒロインへの情感を描く点では、決して下手ではありません)、奔放に見える羊が渚を盲愛するに至ったウェットな部分には(この部分は、発酵少女大好き☆姫ノ木氏が関わっているような気もしますが)、現実味とまでは行かないまでも、ノれるだけの物語的強度を感じることができました。が、それだけの「物語」が、「物語」にすらなれなかった歩ストーリーによって破壊され、残った「現実」が、とても今後幸せになれるとは思えない残骸だったという点には、先に述べた『Coming×Humming!!』のひなた殺害事件に劣らぬ憤慨を感じてしまいます。いや、むしろ怒りはこちらの方が大きいのです。ひなたファンの方には申し訳ないのですが、それほど感情移入できなかった少女が殺されたことよりも、大好きになれた少女の顔が焼け爛れた方がショックはずっと大きい。そして、いくらフィクションだと言っても今後幸せになるのが非常に難しいと思える状況は存在するわけですが(例えば、『盲目』『中卒』『非人間(主人公との間に子供は作れる)』辺りだと現実的には厳しくても、フィクションなら幸せになれると感じる方は多いと思います。が、『実妹』『寿命が残り少ない』『非人間(主人公との間に子供は作れない)』辺りだと、受け付けないという方も出てくるでしょう。『梅毒で鼻がもげた』『薬物中毒で常に曖昧』『 http://dic.pixiv.net/a/%E7%9B%B8%E7%94%B0%E8%AA%A0 』辺りだと殆どの方にとって受け入れづらいはずです)、羊もその一人だと私は感じました。この点、「フィクションはフィクションでしょ」と割り切れる人ならあるいは「まぁなんだか知らないけど羊は今後幸せになれるんじゃね? てか物語の人物の今後なんて知らんしw」みたいに思えたのかもしれませんが、現実と虚構の区別を付けない私は「羊たんの将来どうなるんだーっ」と思わざるを得なかったわけです(こんなヤツがエロゲーをプレイしてて大丈夫か?)。
 『ナツユメナギサ』以降、新島氏の作品は「永遠」というテーマが「恋愛劇のぎこちなさ」によって、少なくとも一部の方にとってはしょっぱいものとなる状況が続きます。
 その例としてお次に挙げる『キサラギGOLD★STAR』。多くの方とは逆に、『ナツユメナギサ』がダメだった私はこちらは受け入れられました(多分私と同じような方もゼロではないでしょう)。『ナツユメナギサ』が「永遠」と「現実」とが一点で交叉し、やがて離れてゆく瞬間の物語だとするなら、『キサラギGOLD★STAR』は「永遠」を目指して「現実」が螺旋を描く、あるいは「永遠」と「現実」がメビウスの輪を描いたような物語と言えます。もしくは、『ナツユメナギサ』があくまで美しい「物語」である「現実」を描こうとしたのに対して、『キサラギGOLD★STAR』はどこまでも卑近な「現実」である「物語」を描こうとした、とも言えるかもしれません(こういう捉え方自体、現実とフィクションを敢えて峻別しようとしない私独自の感性です)。
 上の感想でも繰り返し述べた通り、『キサラギGOLD★STAR』は「夢」「物語」「永遠」などと表現されるモノを否定せず、現実の一部(もしくは現実がそういったものの一部)として、全てを肯定してしまいます。なので、死んだキャラが動いているような「ぎこちなさ」はあまり感じないのですが、今度は生きたキャラの生々しさである「不格好さ」が立ち現れたような格好となっています。新島氏は相変わらず女性から男性に向けた恋愛らしい恋愛を描くことができませんでしたが、本作の場合、いちかは「性愛と物語的な恋愛を無理に二分しようとする思春期の少女らしい潔癖症+家族的な愛着」、沙弥は「幼馴染としての愛着+近い相手でも話すことのできない秘密」という感情と論点の一種のすり替えによって、嘘っぽさは大分緩和できています。いっぱしのエロゲーユーザーなら身に染みて感じている(?)通り、家族や気心の知れた親友に対するキモチと、恋人に対するキモチとの境目は微妙なものです(もちろん、自分なりの境目というものはそれぞれのプレイヤーが持っているでしょうが、一般化は殆ど不可能にさえ思えます)。いちかの場合は「ふたにぃは家族だもん!」「ふたにぃに男を感じちゃって不潔、気持ち悪い」という情感を、それぞれかなりリアルに描いて恋愛に代え(シロクマの描写でも思うのですが、新島氏って実は思春期の少女を描かせたらかなり上手いと思います。問題は新島氏が、自らが描く思春期の少女の、その生々しさを嫌悪してそうなことですが)、沙弥の場合は「ふーみんと今日も仲良しこよし♪」「でもでもっ、(夢を奪って)ふーみんを傷つけちゃったし、(自分が去ることによって)また傷つけちゃう。こんな自分ずるいよね、いやだよ。なんとなく言い出せない」という情感を下敷きに「俺はまだ懲りてないぞそんなんじゃ分かんない(中略)愛してるぅ愛してるぅ愛してるぅ!」と叫びきる二見に、やましいところも受け入れてくれる、幼馴染の絆は永久に不滅(二重表現)だと感じて痺れちゃいました☆ミ。
 ――と、私自身は感じましたが、実際は痺れなかった方が多かったようです。先に書いたとおり、例えば「月」だとか「家族」だとか、「永遠」を感じさせるモチーフを扱いながらも「でも、現代の人類は月に辿り着けますよね」「結婚すりゃ家族ではあるじゃん」みたいな、現実的なところに着地させてしまうのは、やはり人を惹き付ける力に欠けてしまうのでしょう。
 上の政治話で散々述べたとおり(ここから再び政治ネタに入ります。【いつかの幼い誓いを、果たすことができずにいる】でブラウザ検索して飛ばして下さい)、私はどちらかというと実際的な話が好きなタイプで、自民党でも共産党でも公明党でも、自分にとって一番お得な政党に投票すりゃいいじゃーん(まあ金持ちと強いモノに巻かれたい派は自民党、社会的弱者とそれを守りたいと願う高潔戦士は共産党、みたいな分かれ方にはなるよねー。ところで、大企業のエリートビジネスマンでもない、かといって共産党のお世話になるほど弱くもない普通のサラリーマンの利益を代弁してくれる党がどこにもないんだが誰か作ってくれ!)という結論が好きなんですが、昔流行りだった「ユダヤ資本が米帝でCIAとハリウッドによる洗脳そしてエシュロンがあああああ(真顔」とか最近流行りの「在日とフジテレビが民主党で外国人参政権による乗っ取りそして北朝鮮工作員がああああ(真顔」みたいな単純な二分論は、バカにも理解できるだけに人を惹き付けるようです。もちろんエシュロンも北朝鮮工作員もまず間違いなく実在するわけですが、それら「だけ」で全てが説明できるほど世界や日本が狭いはずもなくて、現実の日本はアメリカによって真っ青に染まってるわけでも中国によって真っ赤に染まってるわけでもなく、むしろどっちの色にも染まってない圧倒的多数の中間的な人達こそが行く末を左右するというのが歴史の教える教訓でしょう(ちゃんと高校時代勉強してた方なら、概ねその国の政策はその国の中間層が支持したものになってきたことを知っているはずです)。まあ、ただこーゆーいかにも「ぼくバランス感覚があるんです」という物わかりの良いフリをした考え方にも問題はあって、表舞台に出ないで支持する立場としては強力でも、直接的な政治闘争になるとキチガイ極論派にまず勝てないんですよね。小池一夫氏のご高説( https://twitter.com/koikekazuo/status/36374226235564032 )を引くまでもなく、二次表現規制派というのは本音では「俺にとって都合の悪い創作物は全て抹消したい。ていうか世界には俺にとって都合の良いことしか考えて欲しくない」と思ってるわけで(個々人としてはそう考えていなくても、規制団体というモノは全体として極論に傾いてしまいます)、「ま、さすがにこんないたいけな少女に肉棒をぶちこむシーンを描くのはちょっと俺もどうかと思うけど」みたいにちょっとでも良識的な考え方を見せてしまったが最後、途端に規制派は「ここまで規制していいんだね。じゃあ次はこれも規制すべきだよね(ニッコリ」とかさにかかってきます。二次表現だとちょっとイメージが湧きづらいかと思いますが、例えば安倍が「成長戦略」だとする残業代ゼロ法案を、「年収1000万円の金持ちだけが適用を受けるんだし、俺たちには関係ないね」などとはさすがにあなたも思わないでしょう。日本経済団体連合会・榊原定征会長は「少なくとも全労働者の10%ぐらいは適用を受けられるように、対象、職種を広げた形の労働時間制度にしてほしい」と語っている( http://www.j-cast.com/tv/2014/07/03209474.html )そうですが、仮に「全労働者の10%くらいまでは認めても良いかな(俺は関係ないし)」などと良識派を気取ってそれを認めたとして、その後この榊原定征氏は間違いなく「10%ではまだ足りない」と言い出すに決まっているわけです(はやく反対勢力育ってよ! マジでシャレになんないから!)。こういう政治的に利害が対立する戦場では一ミリたりとも譲歩を認めてはならず、たとえキチガイめいて聞こえたとしても「俺はあらゆる残業代の上限設定を認めない!」「俺はあらゆる表現規制を一切認めない!」と叫び続ける(それが嫌なら、代わりにそういってくれる人を陰日向に支援し続ける)しかありません。
 と、そういう「現実」(え、『フィクション』だろって? ハハハどっちだろーねー)が見えない普通の人にとっては、入学式で頑なに国歌を歌わないキチガイ教師も、それだけの理由で教師をクビにするキチガイ教育委員会も理解不能でしょうが、かたや「ここで歌ってしまえばやがてあらゆる場で天皇を賛美する歌が強制されることになる」かたや「ここで歌わない教師を認めればやがて天皇制を瓦解させられる」くらいの覚悟を胸に今日も戦ってるわけで、戦場を知らない我々平民に聖戦士達のキモチなど分かろうはずもないわけです。
 ――が、天皇制が緩やかに衰退しようが、年に数回くらい天皇賛美の歌を歌わされようが、どっちでもいーどーでもいー私も、二次表現規制に対しては武器を持って立ち上がる覚悟がありますぞ!(キチガイ顔

【いつかの幼い誓いを、果たすことができずにいる】
 とまあ、そんな感じで(どんな感じだ?)、極論やそこから生まれる二項対立というものは人を惹き付ける力があるのに、『キサラギGOLD★STAR』は両者を月の光よろしく柔らかく包摂してしまった。いちかシナリオでは「恋人」と「家族」という二項対立を両方とも不格好に肯定してみせ、他の3シナリオでは「夢」と「秋桜荘での日常」を両方とも肯定してみせた(どころか、両者の対立自体、あまり先鋭的に描かれなかったので、プレイしてても気づかなかった方すら多いかもしれない)。そのうえ、最終シナリオで沙弥の夢は「二見――」、二見の夢は「おかーさんと仲良くなれますように」だったことが明らかにされて、当初は夢との対立軸として設定されたように見えた「秋桜荘での日常」はそれ自体が夢だったというひっくり返され方をされ、トドメに月へ行っても沙弥の世界は描かれず

> 「そう。全てはおとぎ話さ」
> 「確かなことなんて何もない。目の前に立ちはだかる、ど
>  んな難題だって、気持ち1つで消え去るおとぎ話さ」
> 「何でも気に入ったものを選び、現実のものにすればい
>  い」

 などと「現実も実は夢だったのさーワッハッハ」的なワケの分からんことを言われてしまう。
 この、物語が持つ意味不明な生命力の強さの前には、さすがに新島氏お得意の「物語の否定」も力を失うようで、例えば沙弥シナリオ終盤に月光として立ち現れたいちかが
> 【二見】
>「お前は……いちかなのか?」
> 深い瞳で見つめ返した少女は、小さく笑って頷いた。
> 【いちか】
>「そうだよ」
> 【いちか】
>「私は、あなたの可愛い妹だよ」

 などとのたまったところで、プレイヤーは「自分で可愛いとか言ってんじゃねぇよぉぉ微妙妹のくせにぃぃ!(ま、可愛いところもあるんだけどサ……)」とは思えど「ああ……本物の二見を愛するいちかちゃんは消えてしまったんだ。ここにいるのは妹を目指した月光なんだ……ああ……」などとは露ほどにも思うまい。
 ていうか実際、素直に二見へのヨコシマな感情を断ち切ったとしかワタクシ思えませんでした。ハイ。
 翼についても同様だろう。あーいうキャラってのは、もっと極端に色付けして二見が手に入らないなら暴走して爆発(全ての懐かしいふーくんに報いる為に!)するくらいの方がプレイヤーの関心は買えるのだろうが、彼女はなんだか妙な生命力があって、ふーくんいないと死んじゃうのーって感じは全然しない。その辺に結構がっかりしたみたいなコメントもちょいちょい見かけるけれど、これまた作品の持つ生命力があまりにキャラクタリスティックな翼を拒否したようにも見え、私としては微笑ましく映る。
 そんなわけで、新島氏がナツユメに劣らず関わっていたと思われる本作を自分の作品として認めなかったとしても、それは「物語」の生命力に屈して遂に否定できなかった制作者の負け惜しみにさえ私には聞こえてくる(単にVA上層部から物語否定禁止されただけだろって? あーあー聞こえなーい)。時折物語というものは制作者の意図を超えて怪物じみることがあり(竜の咆哮がオレにも聞こえる・・・!)、エロスケの有名作だと『Kanon』『シンフォニック=レイン』『さくらむすび』の三作はプレイヤー達の手によって紛れもない怪物に変貌した作品だと私は思っているが、本作(や、個人的には『Clover Point』)も、その生命力によって小さくも力強く立ち現れた可愛い怪獣だと思っている。ナツユメがどこまで行っても「物語」とされて、それに「現実」味を感じたプレイヤーを置き去りにして遙か彼方に消えていったのに対し、キサラギはどこまで行っても「現実」とされて、それを「物語」だと思っていたプレイヤーは途方に暮れる、そんな感じであろうか。
 いずれにせよ、ナツユメの合理的な儚さよりも、キサラギのワケの分からん生々しさの方に私は惹かれました。大好きです♥ミ。
 キサラギの話題の最後にちょっと余談。この作品では

>【沙弥】
>「よしっ。その手すりを乗り越えて来い――」
>【二見】
>「…………」
>【二見】
>「沙弥、その台詞の元ネタ、知ってるの?」

 なんて、ちょっとだけスノビズムを感じる表現があったりしました(元ネタは『潮騒』ですね)。

 さて、VAでの新島氏最終作となる『はつゆきさくら』。実のところ「永遠」という言葉はナツユメやキサラギでは出ていなくて(少なくともキーワードとしては使われていなかった)、新島氏がこの言霊を得たのは本作からなのだが、VAのくびきから外れた『魔女こいにっき』でもキーワードとして使っていることからして、この言葉は新島氏にとって「これを自分が表現したかった!」と腑に落ちたモノだったに違いない。
 が、『はつゆきさくら』は「永遠」を描けた物語かというと、実のところあんまりそういう感じがしない。ナツユメでの「夢(どっちかというとグースカ寝て見る方)」キサラギでの「夢(どっちかというと起きてる間に見る方)」に続いてはっさくでは「懐かしかった人々」が「永遠」として立ち現れるわけだが、それを真面目に目指しているはずの初雪くんは不真面目に見えるような場面が多く、ヒロイン達はかなり『キサラギGOLD★STAR』のノリである。割と『ナツユメナギサ』を再現したような夜シナリオでは、夜が歩よりも遙かに力強く歩んで行きそうな終わり方をして、希シナリオに至っては設定を根本から否定する(いや、初雪が選びさえすればあーいうエンドもアリだと作中で言われてたけどさ)。一応「永遠」の象徴として選ぶとBADエンド扱いとなるランや綾も、実のところ選んだ初雪クンや選ばれた綾が妙に(つーか桜を選んだ時よりw)活き活きしてるせいで「まあこれはこれでアリじゃね」と思えてしまうし、シロクマは……うん、いわばキサラギ的キャラをシナリオの都合で強引に便器化したシロクマシナリオだけはやっぱり許せないけど(´・ω・`) 桜シナリオも「死んでもこっちはちゃんとお前を見てるんだからな、好き勝手できると思うなよ?(意訳)」と桜に脅され「永遠には(愛を)誓えません」などと勝手に結論を決められて初雪君はクソッタレな現実(注:エリート校を卒業して彼のことが大好きな美少女達に囲まれる生活)を生き始める。なんだか卒業の集合写真で中央に鎮座する初雪くんが哀れっぽくも(いや、美少女に囲まれてうらやまけしからん! とも)見えてくる。
 いや、これは冗談で言ってるのではなくて、あの作品は、多かれ少なかれ親が持つエゴイズムを体現したようなランに騙され、必死に彷徨い続ける子供なはつゆき君に「そんなに無理しなくていいんだよ」と甘ぁく美少女が囁きかけ、ほどばしるパッションやら精液やらをにっこり微笑んでゴックンしてくれる癒しの物語とも取れるわけで、そういう優しい部分は私大好きだったりします。
 ――と、言うわけで、意外なことを言うようですが、『はつゆきさくら』はどちらかとゆーと『ナツユメナギサ』よりも『キサラギGOLD★STAR』に近かったと思っています。ナツユメ的な感傷を抱く初雪君が頑張って永遠を目指すんだけども、やたら生命力に溢れた(死人含む)キサラギ的少女達に弄ばれて「クッソー、しゃーねーなー! 現実生きたるわ!」みたいな。この構図自体は可哀想なシロクマちゃんですら例外ではなくて、彼女も初雪に弄ばれた挙げ句、結構ケロリと立ち直ってるんです。しかし見てる側としてはやっぱり納得いかないわけですが……(以下略
 ここまでを振り返ってみて、ナツユメで感傷的に『永遠』を描いた新島氏は、VAから生命力を(多分本人としては意に反して)注入されて、キサラギではバランスを欠いて怪物になってしまったが、はっさくではかなり良い感じに折り合いをつけたとゆーふーに感じられます。そしてその生命力注入を断ち切った結果、『魔女こいにっき』ではキャラが完全に死んでしまったというのは必然的な結果のようにも思われます。
 そんな予断を抱きつつ、いよいよ『魔女こいにっき』の話に入りましょう!
 (この時点で既にレビュー本文より長いけど気にしてはいけない)

【わっふるわっふる】
 ネタバレ:江戸川コナン=工藤新一

 いきなり結論から書きますが、『魔女こいにっき』は「物語」というカタチに仮託した「永遠」VS「現実」というせめぎ合いがテーマだったと思っています。『キサラギGOLD★STAR』も冒頭でテーマを明示しているんですが、『魔女こいにっき』も「ひと目惚れより永遠を」というキャッチフレーズや冒頭で

> あるところに二人の夫婦がいた。
> 美しい男と美しい少女は自然な成り行きといくつかの偶然を交えながら恋に落ちます。
> 互いが互いを好きで。
> それだけで世界の何もかもは、華やぎ、優しくなり、まるでおとぎ話のような時間が二人に訪れる。
> この世にこれ以上はないというほどの美しい瞬間に、二人は永遠を誓う。
> おとぎ話ならここでめでたしめでたしで終わるだろう。
> けれど、人生はそうはいかない。
> いつか少女は歳をとり。おばさんとなり、皺ができ。
> 生活の疲れはかつての美しさを蝕み、貧乏は彼女の心を僻ませ。
> 夫とのすれ違いは彼女の愚痴を多くする。
> 一方の夫も、頭は薄くなり。腹が出て。
> いつでもどこか遠くを見ていた夢見がちな瞳はただ、日々の暮らしの往復を映すばかり。
> あれほどみずみずしくお互いに満ちていた思いはどこかに消え失せて。
> 二人はほとんど話すことすらなくなりました。
> いつか見た、あの美しいおとぎ話の面影すら、そこにはない。
> 物語はどこにいったのか?

 と、テーマが明示されてますね。ここでいう「物語」や「恋」というのは単なる物語や恋ではなくて、新島氏共通のテーマである「永遠」的な、つまり、あり得ないんだけど、どうしようもなくボク達を惹き付けるようなモノ、という意味でしょう。
 ――お察しの通り、この時点でテーマの破綻はもう眼に見えていたわけです。私達がこのモノローグに共感するためには、まず、それを切実に感じられるだけの「物語」を提示しなければならない。その上でその「物語」を蹴っ飛ばしてみせれば、あるいは『魔女こいにっき』は竜になれたのかもしれません。が、そこに敢えて挑戦するどころか、新島氏が徹底して「これは物語ですから!」という言い訳、逃げに回って物語作りを放棄してしまったことは上で述べた通りです。
 もうすこし新島氏に優しい見方をすると、新島氏はここで「お前ら、大好きなエロゲーあるよな。でもそれはエロゲーで現実じゃないよな。悔しいよなどう思う」と言いたかったのでしょう。ガンダムXじゃないですが「エロゲーを考えるエロゲー(笑)」みたいな。
 ただ、その話にノるのはやはり難しい。( http://bit.ly/Vti6fP )の領域に至り「幸福に生きよ!」の聖域に入れたエロゲー聖戦士は少ないでしょうし、仮にプレイヤーがクラス:エロゲー聖戦士であったとしても、この問題意識を『魔女こいにっき』にまで持ち込んでくれるとは限らないわけです。「俺はよるよる大好きだああああ! でも現実じゃないいいいいい! どうしてくれるんだあああ」と魔女こいにっきのプレイ中わざわざ思ったプレイヤーは(よるよるに対して不誠実な気もして)いなかったと思うんですよね。
 いちおう、本作の問題意識は「リアル世界で立ち現れる物語のような美しい瞬間が永続しないどうしてだあああああ!」という風にも読めるんですが、まー新島氏自身リアル生活でそんなものを感じたことがあんまりなかったのか、そちらのテーマでは全く発展性が感じられませんでした。この点、例えばJ・さいろー氏はさすが2ショットチャットでJCとエロトークしてた( http://atslave.at.webry.info/201206/article_2.html )だけあって「素人の女の子が落ちる(オトコノコの性的な欲望を受け入れてくれる)」瞬間のリアリティは真に迫るものがあったりするのですけれど、新島氏の場合、そういうリアリティを描くことがそもそもできないので仕方ないですね。
 ようやくここでxiboさんが仰った「萌えゲーに対するアンチテーゼ」という話に繋がるわけですが、本作の場合「物語が好きで好きで好きで(ry」という萌えゲーに対するシンテーゼと「でもこれ現実じゃないよね(´・ω・`)」というアンチテーゼの対立がえんえんくり返されるわけです。強引すぎるというか下手くそですけれど、一応各ヒロインの物語も、そこがテーマとなっています。恋ちゃんはかなり直接的に「映画って現実逃避だよね」と語っていますし、キャバクラも宗教も政治的理念も、言ってしまえば「物語的な理想」であるかもしれません。
 ただ、私には新島氏が語る宗教(こっちはライター違うそうですが)にも政治的理念にも、真に迫る、物語が現実を浸食してゆく竜のようなものを感じることができませんでした。むしろ「親方」という表記に象徴された通り、「こいつ、読者を酔わせるためにライターとしてするべき努力をまるでやってないんだな」という呆れの方を感じたわけです。
 もしかしたらキャバクラの方はそれなりにリアリティがあるのかもしれません。新島氏は女の子にセクハラをして「やーだーw」と言わせるようなキャッキャウフフシーンが大好きで、ユーザーにも好評を博しているようなので、この辺はキャバクラでの実体験を煎じ詰めたものなのかもしれません。
 ――が、如何せん読み手の私の方がキャバクラ経験不足なせいで、よく分かりません。それに、新島氏の描写は女の子があまりに幼くも見え、キャバクラというより小中学生男子の妄想世界のようにも見えます(そもそもキャバクラでオヤジ達がやってることって、思春期的な繊細さと潔癖さから実現できなかった小中学生時代の妄想を、小汚く恥知らずにも金の力で実現しているだけのようにも思えますが)。
 で、一応各「物語」では「物語」と「現実」との折り合いをヒロイン達が付けていくわけです。なんとなく感動的ですね! しかし彼女達がどう折り合いを付けたかは、例によって具体的に語られることがありません(この辺は『ナツユメナギサ』の歩や『キサラギGOLD★STAR』の沙弥、『はつゆきさくら』の初雪と同じです)。
 そして、物語は核心であるありすの話に入っていくわけですけれども――ここでも遂に「恋」は、あるいは私達を惹き付けてやまない存在としての「物語」は描かれることがありませんでした。ありすは必死に「恋」を「永遠」にしようともがくわけですが、しかしそのもがきを描くわけでもなく(この点は上のレビューで書いた通りです)、新島氏はむしろ積極的に「さあここから感動のフィナーレだよ」と物語内に「視聴者」を登場させたり、その前にジャバウォックと零をエッチさせたり、わざわざプレイヤーを白けさせるような話作りをしています。これはxiboさんが仰るようなプレイヤーに対する挑発として読むこともできますし、一応作品のテーマの表現として「どんなに美しい物語を描いたところで、それはやっぱり物語なんだよね(諦め」「リアルのふとした瞬間に現れる物語(の象徴たるジャバウォック)は、とても気まぐれなんだよね(嘆息」と主張しているようにも読めます。
 この、「現実」という、うっとおしいものの存在を意識せざるを得ない「物語」という表現は『さくらむすび』や『素晴らしき日々』でもありました。しかし、それら名作(と、両作品は言い切ってしまっても良いでしょう)に比べてあまりに『魔女こいにっき』は「現実」が貧弱です(すば日々のライターなんて、作品を作るにあたってちゃんとイジメの実地調査までやったそうです)。その上、新島氏自身が美しく我々を惹き付ける「物語」を作ることを放棄してしまったが故に、へヴィー級王者決定戦の貫禄があった『さくらむすび』の「現実」VS「物語」や、プロレスの大物対決の感があった『素晴らしき日々』での「現実」VS「物語」(『素晴らしき日々』の場合両者とも強そうではあったのですが、『3章以前』『4章以降』で棲み分けしてしまい、互いに決定打は繰り出さず、『幸福に生きよ!』に至る筋書き通りの戦いだったような印象を受けました)に比べ、『魔女こいにっき』はアマチュア同士の情けないスパンキングに終わってしまったようです。
 物語の終わりに、ありすはやっぱり「あなたと一緒にはいられない」と、「物語」を「永遠」にすることを諦めてしまいそうになるのですが、そこでパラゴンは優しい声で言います。

>「ふと、ほのかな木漏れ日が妻の顔を照らし。そこに、一瞬、若い頃の姿を見て、夫は思う」
>「あらゆるものが繋がって、今があることを。何一つ、消えたわけではない。ただ、遠くに行っただけなのだと」
>「そして……」
>「男は口にする」
>「君といられて幸せだったと」
>「妻は……何言ってるの……と、口にしながら、少しうつむいて……」
>「そうして二人は家に帰る」
>「それが物語だ」

 そうやって優しく「物語」「永遠」を肯定してありすの物語は終わります。
 が、ご存じの通りこの作品には裏の物語たるアリスの物語があるわけです。そこで「好きで好きで好きで好きで悲しいくらい好き」とジャバウォック=物語を切望するアリスに対し(ちなみに作品のキャッチフレーズである『一目惚れより、永遠を……』はアリスが口にしています)、ジャバウォックは、

>「男と女が出会う」
>「女のほほを光が照らしていた加減が美しくて……男は恋をする」
>「それだけのことだ」
>「その光が別の女性を照らしたなら、男はその子に恋をするだろう」

と、ありすに対して「えいえんはあるよ」と言ったのとほぼ同じ論法でアリスに「えいえんはないよ」と否定します。
 で、ブチ切れたアリスは自分とジャバウォックを物語の中に閉じ込めて『魔女こいにっき』という作品が生まれました-、ジャバウォックはアリスが好きじゃないけど『魔女こいにっき』は愛するよ-、みたいな落ちになるわけですが、うーん、ここでもジャバウォックとアリスとの間の緊張感が足りない。まず、ジャバウォックが口にした「女のほほを光が照らしていた加減が美しくて――」はあまりに皮相的に恋を捉えすぎだと言えるでしょうし、アリスの方も「好きで好きで」とかヤンデレ連呼しても、唐突に出てきた彼女がジャバウォックをどれだけ愛してたのかというキモチはさっぱり伝わってこないわけです。この辺も、恋愛を所与のモノとしてしまって具体的な描写を欠くという新島氏の悪い癖が出たなあという感じで、オチとしてションボリだった感は否めませんでした。今作でもまたもや、「恋愛劇としてのぎこちなさ」が「永遠」の物語として読むのを阻害した感じですね。
 この通り、「永遠」あるいは「物語」VS「現実」という構成を理解した上で『魔女こいにっき』をプレイしなおせば、作品内でモヤモヤした部分はかなり見通しがよくなるだろうとは思います(実際に試してはいません)。新島氏は相変わらずキャッチーな表現が上手で、登場人物に「零」と「カノン」を出して、「零」に「ぎぎぎ」とか言わせた辺りは昔の鍵ファンとしてワタクシ笑ってしまいましたけれど、そういう小ネタも充実した作品ではあります。ただ今回の場合、なんか全体的に「言い訳」と「読者への挑発」が目立ったのが気になりますね。「永遠の魔法使い(童貞)」というタイトルであんな歌詞( http://www.t.minilyrics.com/lyrics/monet/%E6%B0%B8%E9%81%A0%E3%81%AE%E9%AD%94%E6%B3%95%E4%BD%BF%E3%81%84/ )を付けたのは怒り以前に「この人大丈夫かなぁ」という心配の方が先に立ってしまいます。新島氏同様、キャッチーな表現が上手いが構成はザッパな竜騎士07という方がかつていまして、彼はまさに「言い訳」と「読者への挑発」で身を滅ぼしましたけれども( http://subcultureblog.blog.fc2.com/blog-entry-2231.html )、今作からは末期の彼にちょっと似た臭いがしました。実のところ私のレビュー自体、竜騎士07の挑発をそのまま新島氏に向けてみたような体裁だったりするのですが、新島氏が言う「竜」が「竜騎士07」ではないことを祈りたい次第です。
 本音を言うと、『はつゆきさくら』は面白かったし、シロクマに関して怒ってても私はどこかでそれを楽しめてたんですよね。『魔女こいにっき』は、一応やることはやってるし少しは感心した部分もあるんですが、とにかくプレイしててなんか楽しくなかった。怒ろうにも怒るに値しないって感じでした、正直。
 そうした諸々を踏まえつつ、あるいはスルーしつつ、それでもxiboさんは「ふーん、どうでもいいね!」と思って下さると期待してます。むしろ『お前の話がどうでもいいね!』かもしれませんが、それでも少しは楽しんで頂けたら書いた甲斐がありました。
2014年07月06日17時17分49秒

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