OYOYOさんの「ラブesエム」の感想

愛情が表現されて行為になるのなら、行為が愛情を形づくることもあるだろう。
セフレ、援交、セックスレス……。昔から恋愛につきまとう問題に、ココロとカラダの関係がある。身体を重ねても心が通い合っていないことなどザラだし、心から愛しているからといって身体の相性も良いとは限らない。相手のことが好きなのに、セックスをしても満足できない。そんな時はどうするか。恋人を想ってひとりオナニーに励むのか。それともさっさと風俗に出かけるのだろうか。

『ラブesエム』はそんな恋愛における心身問題に、SMという題材を通してアプローチした作品だ。

主人公・水城由人はSM好きという特殊な性癖ゆえに、愛する恋人とのセックスに満足できない。恋人であるあやか(CV:夏野紅花)も、どこか由人が不満気なのを感じとっている。

本作を支える魅力の1つは演出面。たとえば今述べたような雰囲気を、文章だけでなく音楽やCGもフル活用して表現している。開始直後、股間から精液を垂らしながら横たわる事後のあやかと彼女に背を向けて座る由人のCGはとりわけ秀逸。エロいはずなのにどこかよそよそしくて、2人のすれ違いがとても上手に切り取られていた。

SMでないと身体は満たされない。けれどSM趣味を表に出せば、あやかには嫌われるだろう……そんなジレンマに悩む由人はある日、姉である彩華(CV:夏野こおり)のSM趣味を知り、「プレイメイト」の関係(特殊プレイをするだけの関係)を結んだ。その際に由人は、「結婚していても、配偶者とは別にプレイメイトを持つ」人もいると姉に説明する。だから自分たちはあやかを裏切ってはいないのだ、と。体の良い言い訳にも聞こえるが、当初の由人は本気でそう信じていた。

ここでいう結婚はもちろん愛情の象徴であり、プレイメイトは肉欲(身体)の象徴だ。恋人とのセックスは心を満たすために行われるのであり、そこに身体的な欲望は持ち込まない。由人は、恋愛というのは精神的な愛情によって成り立つのであり肉欲はそれとは別だという形で、愛情と肉欲を切り離そうとしている。心と身体は別々で、自分の欲望をあやかに向けてはならない。由人はそう決断するのだった。

しかし、この関係はあっという間に破綻する。一度知ってしまったSMプレイには恋人を裏切らせるほどの甘い毒が潜んでおり、あやかとの関係もSM無しでは継続できなくなる。また、途中明かされる由人の両親の秘密が、追い打ちをかけるように心と身体を切り離した恋愛関係の困難を物語る。

そもそもこの破綻は最初からわかりきっていたことだ。なぜなら由人は、自分がSMに傾倒する理由を次のように言っていたのだから。「相手を支配したいからじゃないのだ。俺の感覚で言えば――許されたいからに他ならない」。

蝋燭をたらされても、殴り飛ばされても「SMは、それを許してくれる――その精神が、尊い」。一方通行ではない、相互の信頼関係が要る。つまり由人は、SMという肉体的な繋がりに、高い精神性を要求していた。SMのベースに精神性を置いた時点で恋愛との分離は不可能であって、その精神性を恋愛と同一視しないというのが無理筋だっただろう。

心と身体は、相互に補完しあって恋愛となる。それが、この物語の前提にして結論だ。

由人たちのSMは、「プレイ」から「愛情表現」へと、否応なしに変わっていく。そして本作の白眉は、SM行為の中で、心と身体が繋がっていくプロセスを描ききったところだろう。無理に切り替えていた両者の関係が次第に地続きになり、正常と異常が混ざり合っていく様子は独特の雰囲気が漂っていてなかなか見応えがある。「ご主人様」ということばに込められた意味や熱量が変わったなと感じる瞬間があって、そこがとても楽しかった。

Hシーンはどれもねっとりとしていて丁寧で、日常シーンではいささか短絡的だったり飛躍して見えるキャラクターの心理も、Hシーンを通せばそれなりに説得力を持つ。また、ボリュームも日常シーンに負けないくらいあってやりごたえも十分。きっちりと容量をとったうえに意味付けもなされていて、エロにはかなり力が入っている印象を受ける。

ただ正直SMとしては、「心が無ければSMは成り立たないし、SMが無ければ愛情も続かない」というのは、いささかロマンチックすぎるかなとは思う。本作で描かれているのは実態に即したSMではない。かくあるべしという理想だ。SMという、それまでは日常(恋愛)の裏に潜んでいた不穏なものが日常を浸食するのではなく、SM行為のほうが日常の側に回収されて位置づいていくのである。

作中には一応きちんとハードな責めや日常から逸脱していくシーンもあるのだが、それはBADエンド。「やってはいけないSM」として描かれている。

作品の一貫性という観点からすればこれは当然で、恋愛において心と身体が一致するのなら、SMプレイの中にも恋愛の感覚が求められるだろう。SMは恋愛の延長線上の行為であり、理想的な恋愛の様態の1つでなければならない。「ソフトSM」という本作のジャンルは、プレイだけではなくその精神も柔らかいことを意味している。

タイトルに含まれる「es」という語には、既にそういった方向性が暗示されていたのかもしれない。「es」は性衝動や破壊衝動のような人間の本能が潜む無意識の部分を示す精神分析学の用語だが、そのようなesをコントロールすることで自分=I(愛)になる、というように。

だが元来SMというのは、倒錯した性衝動だ。サドの語源となったサド侯爵は暴行容疑で何度も投獄され、マゾの語源である作家マゾッホは愛人と奴隷契約を交わしたと言われている。相手のことを無視して暴力を加えることは愛情なのか。精神的・肉体的な苦痛を悦びに感じるマゾヒストは、それすらも「ご褒美」と感じるものなのか。SMというのはそんな風に、パラフィリア(性的倒錯)と区別がつかないような頽廃を予感させる部分があるのも事実だろう。そういう倒錯の果てにかろうじて繋がっている《何か》を探しているのではないのか。

それを甘ったるい感情に置き換え、SMを「綺麗な行為」として扱おうとした本作には、SM独特の背徳感や淫靡さは薄い。もちろん全くノーケアということはなく、ヤンデレ気味のあやかのキャラで雰囲気は残している。既に述べたとおり、そうした要素の大半は狂気をはらんだBADエンドルートに押し込められ、理想的なSMの影として葬られる。結局残るのは、明るく楽しいSMプレイ。

珈琲貴族さんの絵やOPムービー、そして楽曲。本作を構成する要素は、どれも非常にスタイリッシュでカッコ良く、「ソフト」SMの路線で全体をちゃんと突き詰めてあると思う。ただし、「ソフト」であるあまりSM本来のありかたを擲ってしまったようにも見える。ここにあるのはドロドロとした情念が削ぎ落とされ、洗練されたファッションとしてのSMだ。それを骨抜きになったと捉えるか、多くの人が受け入れやすいようにチューニングしたと解釈するかは人それぞれだろうが、どちらかといえばBADルートのほうに興奮するタイプの私には、脱色しすぎて少し物足りなく感じられた。

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