OYOYOさんの「幼馴染と十年、夏」の感想

私だけかね……? まだ幼馴染に出会えると思っているのは……。あきらめたらそこで試合終了ですよ?
人生には残念ながら、「どうやっても取り返しがつかないこと」がある。

幼馴染はそういうもののひとつだ。姉や妹は、私くらいの歳になってもいきなりできるかもしれない。だが幼馴染だけは無理。一度幼馴染を手に入れ損ねたら最後、時間遡行でもしなければ、決して手が届かない。ガチャのSRよりも、バナキャンの色紙よりも遥か。気が遠くなる程の偶然の上に成り立ったひとつの奇跡。それが幼馴染なのだ。

幼馴染を持てなかった私たちはどうすれば良いのだろう。世界がループすることを祈るのか。或いはまた、人生負け組だと嘆き悲しみ、葉月や唯や、あかりに出会えた主人公たちに怨嗟の念をさしむけるしかないのだろうか。

そんな私たちに、にっこり微笑みながら「あきらめな」とばかり無慈悲なトドメの一撃を加えてくれるのが、この『幼馴染と十年、夏』という作品である。


久慈葉人(よーくん)と遠戸枝梨(えりちゃん)の甘く切ない恋愛を描いた物語。小学生時代、中学生時代、受験をはさんで高校時代と三部構成になってはいるものの、トータルで見ると分岐無し。一本道の短編で、数時間ほどでゲーム自体は終了できる。しかし、この絶妙の余韻はまさに10年……は言いすぎにしても、10日くらいは暖かさが胸に残る。そのくらいすっきりした読後感。

といっても、何か劇的な終わりかたをするわけではなくて、むしろその逆。この物語は最後まで、特別なことはほとんど起こらない。ひたすらに、ふたりの日常の様子が描かれる。本当にそれだけだ。ややもすると地味で退屈になりかねない作品を、しかし私は、まったく退屈だとは思わなかった。


要因を幾つか挙げれば、まずテキストの雰囲気。語り手の人称が錯綜していたり、幼い子どものセリフにやたらと漢字が多用されていたりと、スタンダードな「かきもの」の技法からすると洗練されているとは正直言い難い。だが、テンポよく軽やかで活き活きとした会話、柔らかな空気を漂わせることばづかい、簡潔でいて十分に状況を思い浮かべられる描写などなど、文章にはオーラというか、そこに読み手を巻き込む力がある。

次に、BGM。オルゴールのような優しい音色が、この作品のもつ独特の空気感と絶妙にマッチしている。とりわけ序盤は、ふたりが心理的に成熟していないこともあってか風景の描写が多く、文字やグラフィックだけではどうしても出てきてしまう視覚伝達の限界を、音でうまく補っていた。

グラフィック面も、特に図抜けて巧いとか、流行を押さえている感じはしないが、淡い色遣いと優しい表情が実にこのゲームとあっている。誰もが認める高級品ではないけれど、オーダーメイドの良さというか、作品にぴったりあわせた構成で組まれていて隙がない。

ただ最も大きな要因は、しっとりとした心理描写。とくに第二章は圧巻で、思春期独特の無根拠な不安や焦燥感、肥大していく自意識といったものを、うまとりだせている。物語に起伏はなくても感情の起伏が写しとられているから、見ている側は飽きない。その意味で本作は、ストーリーよりもキャラクターの心理を描いた作品であると言える。

よくある「デートイベント」のように、好きだから(つきあいだしたから)デートに行くというのでは、好きという感情は、デートへ行くための手段になってしまう。そうではなく、デートに行くという行為を通して、ふたりのにとっての愛情のありかたを表現する。愛情は、直接文章として表現されたことばよりもむしろ、その背後に広がる膨大な余白の中に存在するのだ。この作品の得難いよさは、そんなふうにふたりの感情を、ちいさなできごとの積み重ねのなかで丁寧に描き取っているところにある。

とはいえ全編完璧かというとそうでもなく、システムや文章表現に細かいあらは散見される。本筋に関係のない部分をいちいち論うのは無粋なので控えるとして、一点どうしても気になった語りの問題だけを挙げておく。物語は現在(平成十六年)から過去(平成十一年と十四年)を振り返る形式で進行する。このとき語り手(地の文)は基本的に「葉人は……」のように第三者視点に立ったナレーターなのだが、ときどき葉人の語りらしきものが混ざってくる。もちろんそれ自体別に珍しいことではないし、先にも述べたとおりテキスト自体は雰囲気があるのですんなり流せてしまうのだけれど、細かく内容に踏み込んで読もうとすると法則性が無くて読み分けるのに苦労した。このことは単に表記上の混乱以上に重要な意味を持っていると思う。

というのも、たとえばの話、もしこの物語が常に葉人の視点から描かれているのだとしたら、ここには枝梨の心情はほとんど描かれていないことになるからだ。ナレーターが「枝梨は寂しそうに微笑んだ」というのと、葉人が「枝梨は寂しそうに微笑んだ」というのとでは、当然意味が違う。前者は一応事実として読める。一方後者は、あくまで葉人の認識なり自意識の反映であって、実際の枝梨がどうだったかをここから読み取ることはできない。私はこの作品に葉人と枝梨、《ふたり》の心理が丁寧に描かれていると読んだわけだが、それは語り手がナレーターだから成り立つ読みであって、この物語が単純に葉人の回想録であるなら全く違った話になるだろう。

この作品では「葉人の見た枝梨」と「ナレーターの見た枝梨」とが割と無造作に一緒くたになっているというか、何か内容的な意味や形式的な使い分けがあるのかと思って探したもののどうも明確な線引きのようなものは見えなかった。意図せず表記が揺れているのだとすれば、この点は無用な混乱を招きかねない。こういう繊細な物語の場合(読み手に余計な負担がかかって気が取られるので)勿体ないかな、という感はある。きちんと腑分けして使われていて、私が読めていないだけだったらごめんなさい。


本題に戻ろう。それではこの作品は最終的に、葉人と枝梨の、どんな「心」を捉えているのだろう。

恋愛感情なのは勿論そうにちがいない。ただしタイトルが示すように、これはふつうの感情と少し違う、「幼馴染と十年」の恋だ。

幼馴染といえば、「親愛が恋に変わる」だとか、「いつからか恋におちていた」のように感情の変化や気づきが中心となることが多いけれど、本作のばあいそこに強いアクセントは無い。比重が置かれているのはむしろ、お互いが好きでいる期間の、その《長さ》。「十年」という時間の記載が(実際には十年は描かれていないにしても)、この作品における《長さ》の意味を物語っている。

葉人は、枝梨を手に入れたい、時を止めてしまいたいと希いながら、そんなことはできないことを理解している。できるのはせいぜい、ふたりで歩んでいくことだけ。そして愛し合うふたりには、本来それで十分なのだ。

作中、ふたりは繰り返し、「知らなかったことをふたりで知ろう」と誓い合う。知らなかったことを知る。言い換えれば、「初めて」を経験する。ずっとずっと、初めてを生きていこう。ふたりはそう言っている。想い合う相手とともに歩んでいくということは、そうやって新しい世界と出会い、変わり続けるということにちがいない。

人はつい、愛の完成に永遠を望んでしまいがちだ。けれど、そんなものなくたって良いよと、本作は私たちに語りかけてくる。愛というのは、新鮮な驚きに満ちた世界を一緒に過ごし、ふつうに重ねられていく歳月の変化の中にこそ散らばっているのだ、と。別れても、想いがあれば愛だなどとは葉人も枝梨も言わないはずだ。なぜならその時、ふたりの時間を重ねることはできないのだから。

葉人と枝梨は、きっと大学に入っても社会人になっても、子どもが生まれて親になってもおじいちゃんとおばあちゃんになっても、ずっと新しい世界を味わっているのだろう。もちろん先のことはわからないけれど、少なくともふたりの幸せは、そういう時の流れの中にある。

そしてそういった幸せに、人は進んでいる最中は気付かない。それは振り返ったときにようやく見出されるものだ。この作品が過去を回想する形で綴られるというのは、平成十六年、夏休みも半ばをすぎたある日の、そのひと時の愛情と幸福とを切り取っているのであって、これが全てでも完成型でも無い。きっと還暦を迎えた時のふたりの物語は、全然違ったものになっている。


《長さ》に裏打ちされた想いに最大の価値を置く場合、幼馴染こそ、それを最も強く共有できる存在の象徴となる。ふたりの人生を振り返ったときに、子どもの頃まで思い出をさかのぼることができる、そういう《長さ》を持った相手を幼馴染というのだというのだと、そんな風にこの作品は言っているのかも知れない。

だとすればこれは、前世からの因縁でも持ってこない限り、並のヒロインでは太刀打ちできないアドバンテージ。パンをくわえて曲がり角でぶつかってくる転校生や、突然家に送りつけられてくる高性能メイドロボには真似できない。その意味で本作は幼馴染讃歌であるわけだが、同時に、最後は幼馴染という形式を突き抜けて、想い続ける時間のいとおしさや貴さを、やさしい手つきで取り出すことに成功していると思われる。

問題は、もはやそんな幼馴染を持ち得ず指をくわえてみているしかない人にとっては、ちっともやさしくない話になりえるということくらいか……。

もちろん恋愛はただ長ければ良いという話ではなく、先にに述べたような心理描写、すなわち想いの《深さ》の描写を前提にしているのは言うまでもない。縦糸に《深さ》を、横糸に《長さ》をとって織られた恋模様の織物。それが『幼馴染と十年、夏』という物語の印象である。


普通の恋愛ADVにこんなヒロインがいたら他が喰われてしまうというか幼馴染以外全部沈没状態なわけで、実質ピンヒロインしか無理だろうし、そうなるとセールス的には厳しいだろうから商業ベースでやるのはなかなか難しそう。でも、一つの属性の掘り下げ方としては最高に正統派な内容。こういう作品がもっと世に出てくれれば、きっともっともっと、エロゲーは楽しくなるのではないかなぁ。

OYOYOさんの「幼馴染と十年、夏」の感想へのレス

ぶら下げてたエサにひかかりましたね!

OYOYOさんや他の方のように丁寧に読み込むことは、性格的に私には出来ないですし、
言語表現についての指摘や批評は、私が苦手とするところ。
それだけに、直感的に閃いた事でしかなく、それの検証やら、なんやらはすっ飛ばしていたので・・・
語り手の人称が錯綜するのは、エピローグ部分で触れられていますが、
葉人が夢の中で過去を振り返っているから、回想と無意識が混ざり合っているのだろーなーくらいに思っていました。
それが読み物として効果的だったか、など、そういう踏み込んだ批評もされており、楽しく読ませて頂きました。

好きな作品について、いろいろな意見が伺えるのは、ほんとうに楽しいです。

ではでは、また、次の釣り針を研いでおきますね。
2013年01月18日22時41分25秒
引っかかっちゃった!

というわけでここでの皆さんのお薦めがなければプレイしていなかったと思われる良い作品でした。この場をお借りしてではございますが、興味深い感想を投稿されておられた皆さまに感謝を。


私自身はわりと感情を重視して読んでいるつもりなのですが、それは作品となったときには表現に宿るので、それを何とか捉えたいし、私自身もきちんと「形」にしたいなとは常々思っています。すべてを表現することはできなくても、逆にできた部分とできなかった部分がハッキリすることで見えてくるものがある、そんな感じで。

『幼馴染と十年、夏』という作品は、ある意味でそういう形(たとえば感情語)に嵌めづらい感情をうまくとりだそうとした作品だったと私は思うのですが、それはただナマの形で表現したというより、枠に収まらなかった余剰として表現されているように見えました。主にHシーンとか(笑)。

だからこそ、「嵌めようとした枠」をきちんと提示できていればもっと良かったのかな。そんな風に思って上のようなことを書きました。「この物語は、読み解く類のものではない」と仰っておられたえびさんにはどう受け取られたか少々不安ですが、作品を読み解くというより、楽しむための土台のお話だと思って頂ければ。


えびさんご指摘の通り、エピローグからこの物語が「回想」であることはその通りだと思います。実は私も、序盤第一部の枝梨の日記の話と、シーンの名前(「夏休み何日目」のような)から、「日記」なのだろうとか邪推してました。視点人物は葉人に固定されていますし。

ただ、逆にエピローグのところで、葉人が目覚めた後の地の文でも「葉人が少しでも眠そうなそぶりを……」と、一人称の「僕」ではない言い方をしていまして、ああ、語り手と葉人(視点人物)は別でいいのか、と思いました。書き手の方の意図はわかりませんが、作品としてはそちらのほうが通りやすいのかな、と。

異なるご意見があればまた、ご指摘頂けると嬉しいです。私も、いろいろな意見を読めるのが楽しいので。


あと、私の上記の路線でいくと、やっぱりタイトルが秀逸だなぁと思います。

「最後は幼馴染という形式を突き抜けて」と私は書いたんですが、枝梨をなんと呼ぶかというと、まあ「幼馴染」でしょう。付き合い長いし。でも、じゃあ「幼馴染」というのは枝梨のような相手を言うかというと、それは違うというか、枝梨は枝梨なわけじゃないですか。だから、「枝梨と十年」でも良かったと思うんですよね。

でも、そうしないであえて「幼馴染」という抽象的枠組みを先にあてはめることで、それとのズレとして具体的な枝梨ちゃんを写しとってる感じがする。たぶん作中一度も、「幼馴染」っていうことばは出てこなかったですよね……? 「幼馴染」ということばは、作品の外部の、つまり私たちに与えられたことばなのだと思います。(勘違いの可能性あり)

私たちが「幼馴染」ということばから連想するイメージを梃子にして、「夜のひつじにしか描けないたったひとりの幼馴染」(枝梨ちゃん)を描いているのかなぁ、と。それはもう、「幼馴染」という一般的な枠にはあてはめられないキャラになってると思います。その意味で『うちの妹のばあい』と似た空気を感じるというか(NTRに行けという話ではないですよ)。

ちょっと話がズレかけましたが、じっくり読んで味わい深い作品でしたし、こうしてコメントでお話しする機会にもなったことを嬉しく思います。ありがとうございました。
2013年01月19日21時16分02秒

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