残響さんの「幼馴染と十年、夏」の感想

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**ネタバレ注意**

ゲームをクリアした人むけのレビューです。

これ以降の文章にはゲームの内容に関する重要な情報が書かれています。まだゲームをクリアしていない人がみるとゲームの面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。

それはささやかな勇気かもしれない。しかし傷を乗り越えることが、大人にどれほど出来るというのか(だいたい大人は老獪に避けるばかりだ)。ふたりは、ふたりの幸福を何年も望み続けた。誰かほかのひとじゃない、この人じゃなきゃだめなんだ、と。
わたしたちはあらゆる懺悔にわたしたちの心を動かすであろう。が、あらゆる懺悔の形式は
「わたしの【した】ことをしないように。わたしの【言う】ことをするように」
である。
--芥川龍之介「十本の針」


文芸性豊かな短編エロゲを制作する、夜のひつじ。その傑作として名高い、本作であります。
実際、これは幼馴染クラスタの中でも、再重要危険物として扱われています。定期的に話題に上るのです。もちろんいい意味で。

ときに、幼馴染クラスタは、幼馴染が「ただ、幼馴染である」ということに飽き飽きしています。
テンプレ甚だしいこの属性。「朝だよー」でご飯がおいしくて、いつも一緒で、ほぼ母親のようで……

十年まえ、元長柾木氏は、今はなき「カラフルピュアガール」誌で、ONEの伝説的幼馴染、長森瑞佳を、「避雷針的存在」と評しました。
細かな部分は忘れてしまったのですが、大意は「主人公(プレイヤー)に、様々なストレスフルな状況が降りかったとしても、それを大母的に受け止めてくれる存在」という意味、みたいな。

だいたい、幼馴染が、エロゲ界において永遠の安稗である理由は、これが一番急所をついているのではないでしょうか。
たとい主人公になにがあっても、「私は味方だよ」としてくれる、まさに母的……ユングの言葉を使えば、大母(グレートマザー)、といったところ。

もちろん、「だからこそ」幼馴染の愛がつらい、というのもあります。
SMEE「らぶでれーしょん!」で我らがぽんこつ幼馴染千歳氏が、主人公から愛されなかったら「尼になります」と言い放つとこに集約されるように、こと、幼馴染と「愛の重さ」は近いものです。

ていうか幼馴染クラスタは、よく「幼馴染ルートしかプレイしねえYO!」と言い放ちます。幼馴染がかわいそうだからです。
どこまで本気かいな、と思うのですが、まあこの発言するひとが一定数いるので、それなりに真実ではあるのでしょう。
愛が重いのは、こっちも、といったところで。

さて、そのような幼馴染クラスタの中でも、きわめて危険なブツとしてあげられていたのが、本作です。

幼馴染とはなにか?
テンプレ記号を描けば、それは幼馴染なのか?
もはや幼馴染の定義なんてものはブレにブレています。果ては「ネットで昔会ったから、ネット幼馴染」なんてものまででる始末です(マジよ)。

しかーししかし、である。
まず幼馴染との関係性は、「長い時間性」にあります。

時間性の共有。
そして「成長の共有」。

このあたりもう少し詳しく分析してみますか。

たとえば、踏み台幼馴染として有名な、「星空のメモリア」の「明日歩」ですが、彼女は、真ヒロインである「夢」のルートに入るために、踏み台として振られる、というのは、幼馴染クラスタにはネタとしてよく知られることです。
ここで明日歩がネタにされるのは、「幼馴染とはなんぞや」という定義論でもあります。

明日歩は、主人公と幼少時、クラスは一緒でした。
おお、クラスメイト! しかも、明日歩のほうからは、結構主人公を気にかけていたのです。

ところめが、主人公は明日歩のことを「ただのクラスメイト」としてしか認識していなくて、むしろクラスメイトでもなんでもなく、一年にも満たない期間、学校外で一緒にいた夢と、この上ない親友になっていたのです。

主人公にとって、幼馴染と認識できる存在は夢であり、いくらクラスメイト、単純な時間を共有している存在である明日歩でも、幼馴染にはなれなかった。

時間を共有すればいいというわけではない、という証左がここにあります。
むしろ「成長を共有する」ということこそが、最大級のファクターなのです。
主人公と夢は、さまざまのことを語り合います。そして、少しずつ、ふたりで成長していきます。だからこそ、主人公と夢は幼馴染なのです。真の意味で。

時間は、量を重ねれば質になる、とはよくいいます。
ですが、「誰かと築く」時間は、基本的に、ベクトルを同一にしていないと、アカンことは、この星メモの例でよくわかると思います。


さて、本作「幼馴染と十年、夏」にようやくはいります。
この物語がすばらしいのは、先に述べた「時間性でもって、少年少女が大人になっていく」を、真っ正面から取り組み、描ききったことにあるからです。

幼馴染シナリオテンプレである
「昔一緒に遊んだね→今は腐れ縁→あれ?こいつかわいいんじゃね?→イチャラブ」
みたいな超陳腐な方程式から、ン光年も離れたこの作品を筆致をみよ!

まずこの作品は、お互いの傷を描くことから始まります。
前の「妹「お姉ちゃんクソビッチなんで私にしませんか」」レビューでimotaさんのレビューを引用しましたが、今一度本作のimotaさんのレビューで、刺さる表現がありました。

imotaさんは、最初、この二人の「傷」を丁寧にレビューで描きます。
御自身も「なんで自分のレビューはここまで長く「傷」を叙述するのか」みたいな韜晦をされてますが、しかし氏は「この傷があってこその、本作の物語である」と見事に本質を叙述してみせます。

……と、先に概念的な話になってしまいました。では、物語は三部構成になっているので、各パートに分けて語っていきましょう。



●平成11年

ヒロインである「えりちゃん」がいじめられて、それを助けようとする主人公・葉人(ようと)=よーちゃん、が、その正義感ゆえに、逆にクラスでハブられる、という、地味にリアルな光景から、この物語ははじまります。

これ、地味にリアルです。
この年代(s学生)は、こういうこと--さして考えのない悪意--をよくするのです。
ここでクラスメイトがしている行為、そして先生がしている行為は、ひどくイヤラシイものです。
マジョリティがマジョリティであるだけで、正義面をする、という。

えりちゃんは、悪いことをしていたのか?
だいたいこの場面においては、えりちゃんのような「ちょっとズレてる」人間は、いじめの格好の標的です。
なぜなら、多くの子供--凡人の家庭にそだち、凡人的思考をプリインストールされて、日本的「空気を読む」ことを幼いころからたたき込まれるクソガキどもは、こういう「ズレた弱者」を狙ってやまないのです。

えりちゃんは少しズレてますが、しかし話してみれば--そう、よーちゃんがその後の夏休みで遊ぶようになって、すごくよくわかるのですが……
……時にえげつなく、しかし清楚でおとなしく、でもユーモアがあって、かわいくて、自分のペース故に人とはずれる傾向はあっても、自分のペースだったら飲み込みが早い、という頭のよさ……
ああ、この造形のリアルさよ! 幼馴染表現で、ここまで「しっかりとした造形」がされているのを、君はみたことがあるか!
ただ「グレートマザー的存在」「おべんと作って来てくれる存在」じゃないんだぞ!

……ですが。
この作品のちょっとした疑問点、問題点として、「どうもオミットしている部分が多い」というのがあります。
えりちゃんのいじめで、上履きに落書きがされているのですが、そこに、「Bitch」を日本語にしたバージョンの言葉がかかれているのです。
これ、あとあとになるまで、伏線だとおもっていました。
もしかしたら、えりちゃんは実はエロ方面で暗いものを抱えているのか? もしくは……アレな表現ですが、えりちゃんの親はセクシャル方面で問題を抱えている……愛人だったり、風俗関係だったり、とか。
それくらい、この落書きの言葉は、ドギツイものでありました。
よりにもよって、こんなにセクシャルな言葉を選ぶ必要はあるのだろうか?と。
……でも、その後、えりちゃんにそういったことはない、と、物語では描かれます。
じゃあ、このダーティーワードはいったい? ここにあった悪意というものは? 解説が、オミットされているのです。

オミットされている、といえば、えりちゃんの家庭環境もです。
作中、よーちゃんの母親が「いまえりちゃんのお家が大変だから……」といってて、ああ、やっぱりなんか問題を抱えているのか。離婚なのか。浮気なのか。セクシャル問題なのか……と、すぐに連想するのですが、これ、物語の最後になるまで、ぜんぜん解説されないのです。
えりちゃんの親が離婚したのか、ということさえも、描かれない。

どうも、この物語は、葉人と枝梨、の二人の関係以外を、ことごとくオミットする傾向にあります。

それはイチャラブ野郎たるわたしにとっては、最大のご褒美ですが、しかし……そのオミットのあまりのきっぱりさに、深みというものを、ある部分で切り捨てていないか、と思うのも事実。
少し書いても、えりちゃんのキャラ造形を増すこととなるだろうに……と思ったのです。

少しほかのところから書けば、「s学生のよーちゃんにそこまで理解できない」と弁護することも可能ですが、しかしこの物語は、その後がありますからね。大人になっていって、世の道理をふまえていく、よーちゃんとえりちゃん。だったらわからないはずもねーだろう、な。

このあたりの「家庭環境のオミット」「ダーティーワード関連のオミット」は、疑問ではあります。
さらに……よーちゃんとえりちゃんの馴れ初めは、「三軒となりの家」だから、ということのみで語られていますが、
「え? もっと、会ったときのこと語ってもいんじゃね?」
と思ったのも事実です。

なんといっても、このお話は、最初から、よーちゃんとえりちゃんの「微妙な関係」からはじまるのです。
昔(子供時代の、さらに昔)はよく遊んでいても、だんだん「男の子と女の子が遊ぶのはハズカシイ」的な文脈が設定されていって、そこからちょい疎遠になっていった……そこにえりちゃんのイジメがあって……というように、最初から、よーちゃんとえりちゃんは、「仲良しこよし」ではないのです。

心の奥底では、仲がいいんですけどね……
でも、この「馴れ初め」までもオミットする、という思い切りのよさは……一面では「おお、文芸性!」と評価できますが、一面では「ちょっと説明不足かな?」と思わせるところでもあります。

もちろん短編というものは、「いかにそぎ落とすか」ですから、今作はこれでいいのだ、の論法が成り立ちます。
が、ちょっと、情報面において、オミットが目立つ。
それを十分に想像させるだけでも、この作品は成功している、といえなくもないですが……


だいぶ話がずれたので、本筋に戻ります。

よーちゃんとえりちゃんは、ハブられた者同士、傷をなめる、というわけではないですが、ふたり、夏休みを一緒に過ごすことになります。

とはいっても現代っ子、よーちゃんの家にえりちゃんが入り浸り、ゲームゲームゲーム、ときどき宿題。
これは平成っ子としてリアルですねえ! 俺も美少女の幼馴染はいなかったが、だいたいこんな感じだったよ!

ここで、それまで疎遠だった(s学生にして!)ふたりが、急激に近づいていきます。これまでのアレコレを埋めるように。一気に親友に。

なんちゅうか、自然なのですよ。男も女もなく。ただ遊ぶ、という。

しかし、しかしです。
そんななかでも、性の目覚めはあるもので。

たとえば水風呂を二人で入ること(入らされること)となることとか。
二人で宿題しているときに、パンツが見えてしまうこととか。

それを「うひょう!ラッキースケベ!」と受け取れないピュアな心のよーちゃんがいじましい!
「よくないよ、よくないよ、うわあ!」
とするよーちゃんs学生、ああ!

まあともかく、性の淡い目覚めを覚えながら、二人は仲を取り戻していきます。

で、祭にいくのです。
夏休みといったら、祭は一大イベントです。

ふたりの世界は狭いです。大人のように「あー、ちょっと電車に乗って、都心のエロゲ屋行って、同人ショップ寄って……」みたいな行動はとれません。
ほとんど、チャリか、せめてバスくらい。
そのような狭い世界が、ふたりの世界なのです。

祭も、なんちゅうことない祭なんですが、それでも、二人にとっては非日常です。
自由奔放に遊ぶえりちゃんと、几帳面に計画をたてるよーちゃんの対比! おかしくらいいいじゃんか、と思うのですが、まあほほえましい。

で、ここで、ふと、よーちゃんはえりちゃんに、髪飾りをプレゼントするのです。
なんちゅうことなしに、プレゼントするのですが、これ、えりちゃんが高校生になっても、ずっとしているのですね。
それほど--枝梨にとって、この夏の思い出、というのは、深くて、痛いものだった。

鮮烈な夏。
すべてが輝いて、な、子供のころ。目に映るものが、本当に意味あるものばかりに見えて、世界にはオブラートなんてなくて……
そこで、二人は、淡い恋をしていたのです。そうとは気付かないまま。

ずっとこのままだったらいいのに。
でも……
でも……
破局は訪れます。

あるとき、よーちゃんの股間のマグナム(笑)が、強打してしまうのです。
それを「大丈夫?」といぶかしむえりちゃん。
で、股間のニューナンブ(笑)を、ぽろりとえりちゃんに見せるわけです。今まで経験したことのない痛みなわけですから。
無知。
この無知を、後年、ふたりは後悔します。
ざっくばらんに言えば、疑似的なフェラをしてしまうのです。
これは単純に、レイプなんかじゃなく、ただただお互いがお互いを思いやって、のことだったのですが……よーちゃん、精液をえりちゃんにかけてしまいます。

これが、傷でした。
やってはいけないことをしてしまった、というのを、本能的にしてしまった。

そして、夏は、強制的にシャットダウン。
ふたたび、数年後の夏がくるまで、二人はまた疎遠になるのです。



●平成14年編

傷を引きずったままの主人公。
あのイジメ問題のあと、主人公は、クラスでの立場も、えりちゃんという存在も失って、やや無気力になっていました。
それでも生来のまじめさ、優等生さはそのままに。ただ、周りと接触をとるのを、避けるように。

これ、超身に覚えがあるのです。
この時期に強烈に「ひとの不可思議」を知ってしまったら、それはトラウマになります。
今にして思えば「もっとうまく立ち回れるだろう」と思えるのですが、当時は「それが世界のスベテ」と思い切ってしまうのですから、なかなか客観的にはなれません。

もしかしたら、よーちゃん……いや、葉人は、このまま、ネクラでヒキーな方向にいってしまうことだってありえたかもしれません。恥ずかしながら俺がそうだからだ。

なんちゅうかね……冒頭に芥川の文句を引用しましたが、我々(ネガ人)は、「したこと」を後悔するんです。で、「これからはこうはしまい」と「言う」んです。人に向かって説教かますのですが、反面、自分に向かってもね。
でも、ずーーーーーっと、「したこと」を後悔するんです。

葉人は、「えりちゃん」にしてしまったあのこと……射精のこと、を、引きずっています。
どれくらいかっつーと、エロ本を持たないくらいです。(正確には、もってもすぐに捨てる)
性というものが、恐れに転じてしまっている。しかし第二次性徴偉大なり。恐れに転じるあまり、よけいにアダム&イブのリンゴのように、甘美なものにもなっているのです。

このあたりの二律背反が、いやー、人事とはおもえねええええええ(笑)

それでも、葉人が「再び、暖かさを取り戻した」のは、やはり枝梨の存在だったのです。

ちょっとしたきっかけで、枝梨に勉強を教えることになったのです。夏休みじゅう。
これが、お互いの距離を縮めることになった。

傷を負った二人の縮め方は、すんなりとはいきません。
事実この勉強も、方便といえば方便。
でも……葉人にとっては、枝梨の「きちんと教えれば飲み込みが早い」という性質だけで、うれしくなってしまうのです。それは、子供のころと変わっていないから。本質が透けて見えるということは、安心だから。

でも、葉人は苦しみます。
再び芥川の言葉ですが、

「罰せられぬほど苦しい罰はない」

枝梨は、葉人を罰しようとはしません。葉人も、聞こうとはしません。
その……「間の牽制(のようなもの)」が、ちょっとだけヒリヒリします。

それでも、それでも、葉人は枝梨に、枝梨は葉人に、魅せられていきます。
そもそも、この二人は、性欲というものが、禁忌としてストップがかかってしまったカップルなのです。
この作品、ほかのレビュアーの方々が「涙がでるほど純粋、純愛」と書いていますが、自分もそれに最大限同意なのですが、それほどの純愛は、

「手を出したくてもどうしても出せない」

というところに集約されると思います。
お互いが、お互いを本当に思いやっている。……それも、自分が傷つきたくない、という本音を隠すことなく。けど……自分が、といいましたが、どこまでが他人を傷つけて、どこまでが自分のためのか、というのは、もはや判然としないのです。

ましてや、性欲特急に、なれない。性欲自体にリミッターがかかっているから。
でも、お互いの成長/性徴に、過敏に反応してしまう。


そして、もひとつ厄介なのが、「このひとは昔のままのひとなのだろうか?」という疑念です。

あのですね、わたし、幼馴染のカテゴリのなかでも、再会型幼馴染、というのが大変好きでして。
再会型、っていうのは、幼少期に幼馴染と別れた主人公が、青年期になって、もといた町に戻ってきて……っていうパターンです。
なんでかっちゅうと、わたし、中学の時分に、転校したのです。で、その転校したとこってのが、サイテーの場所でしてな(笑)
多くのひととの別れがありました。で、サイテーな中学で過ごすにつれ、「自分の居場所はここではない、自分の愛するひとたちはこのひとではない」との望郷の思いが、強く、強くなっていったのでした。
もう届かない、けれど、今会ってしまったら、もう変わっている。向こうには向こうの生活があるし……

てなわけで、再会型幼馴染は、わたしにとって、痛いメタファーでありながら、事実、二次元属性のなかで、非常にリアルで甘美なものでもあるのです。
この物語の場合の「再会」というのは……刺さった。個人的に。
もう会うことはあるまい、と思いながら、しかし会いたい、今一度、元通りになりたい、あの夏のように……!という、強い望郷に似た、思いが。

でも、昔のままではないのです。
枝梨は枝梨で、昔よりも快活になり、もういじめられてはいません。女子グループと打算なくつきあったりね。
それをみながら、「ああ、枝梨は変わったのか、よかった」の心と、「ああ、枝梨と交わることはないのだ、もう」の心が渾然一体となって。

さらには。
これが良質の青春物語である最大の所以は、「勇気」にあると思います。
この子に触れて(フィジカルというより、精神的に)いいのだろうか、という、距離間のつめかた。

……あー、非常にいやな思い出を思い返してきた。
今となっては、わたしは二次オタの人間嫌いですが、当時はいっちょまえに、恋愛じみた感情を抱いていたものです。
そのガール(特定の)に対して、どのように距離をつめていったらいいのか、というのは、非常に大きなテーマでした。

「ぶちかませばいいじゃないか! どうせ人生なんてそんなものだぞ!」
と今だったらいえるのですが、チキンだったのですねえ……
それが、後年、冒頭の芥川的な後悔へとつながっていくのです。

ましてや、葉人の場合だったら、「過去」があります。
あの楽しかった夏の思い出と、苦しかった精通の記憶が、渾然一体となって、枝梨に触れていいのか、という煩悶。
これは苦しい。
これ以上傷つけたくないし、傷つけられたくない。

でも……
でも、ふたりは、心を通い会わせるのですね。
この勇気。
ふたりは、過去の傷を正面から向かい合って、ふたりきりで、立ち直っていくのです。
舐めあうわけじゃない。非難するわけじゃない。

少し大人になったいまなら、
お互いをちゃんと見て、
お互いのことを考えて、
幸せに近づいていける。

泣くぞ俺は!
この「勇気」に泣くぞ!



ちょっと批判するところがあれば、「思いあまって」式に、枝梨は葉人に抱きつくことがあるのですが、これが、一般的なc学生の状況では、ちょっと唐突で派手かなぁ、と思えました。
いや、そのきらめきは、ラノベとかのコミカルなものだったらいいのですが、ここまでリアリズムできてたら……というか、前後の文脈で、やたら唐突に思えたのですね。
でもまあ、これくらいの派手さはないと、作劇的に地味かなぁ、とか思ったり。でもなぁ……(趣味かな)
あ、それと、えちの後の「えちを通過しての恋人描写」がオミットされていた、というのと、この章のエピローグで、葉人が作っていた文化祭を、枝梨が楽しむ、みたいな描写を入れてもいいいんじゃないか、みたいなことは、結構思いましたね。
どうもこの作品は、オミットするところを豪快にオミットするので……平成16年ラスト以降も、もちっと書いてもバチはあたるまい……と思うのですが。
(しかし、ダラダラ引き延ばすよりはよほど筋がいい……とはいいつつも、やっぱイチャラブアフター欲しいYO!)



●平成16年

だらけた青春!
思いを通わせ、恋人どうしとなった葉人と枝梨は、非常にだらけたカップルとなっていました。

ですが、思いは……少しも「惰性」ではないのです。
ふつう、この展開で、ダラケ、だったら、惰性カップルで、惰性セックス、になると思うのですが、葉人と枝梨……運命の二人にとっては、そのような予定調和など、どこ吹く風です。

日がな一日、葉人の部屋に入り込んで、枝梨はダラダラしています。それまでの「ちょいフシギ」感は失われ、あるのは葉人に対する信頼間を前提にしたダラダラ感。
ていうか部屋着が……所帯くせえ……髪をパイナップル型にまとめるなよ……

ところが、この二人は、惰性セクシャル、惰性ラバーズではない!(犬上すくねの漫画で、惰性ラブについては結構言及されますよね)

いい例が、本番(えろす的意味)において、パイナップル型にまとめた髪を、「恥ずかしいから」と下ろすのですね、枝梨。
それに興奮する葉人さん。「下ろしたら入れてOK」というパブロフ的発想。
じみにえろい。
と同時に、葉人が枝梨に対して、惰性でつきあったり、魅力を感じなくなってる、みたいなことがぜんぜんない、という証左です。


ふたりは、「これ」になることを望んでました。
思えば、二人には、「あたりまえ」という、幼馴染にとって当然的なエレメントが、かなり欠けていたように思えます。
錬金術ではないですが(ハガレン!)、理解→分解→再構築、を繰り返している、ような感じでもあったのです、このふたりの関係性は。

で、この章でも、再構築、は行われます。
もしくは、ラストの「愛している」のひとことに向けての、思いの高まり、というか。

ともすれば、マンネリになってもおかしくない関係性。
ぜんぜんマンネリじゃなく、いつも枝梨のこことが愛しい葉人ですが、時折、「どこまで枝梨を自分は得まくってもいいのだろうか」と煩悶します。

いーじゃねえか、おまえら、お前ら以上のカップルなんざいねえんだから、どこまでもお互いをむさぼっても!
と我々は思うのですが、しかし、ここが「泣きたいほどの純愛」なのです。
そこまで、お互いをたいせつに思っている、ということ。


さて、ここまで書いてきて、
「なんとこのふたりは、過去に縛られているのだろうか!」
とお思いのかたが結構いらっしゃるのではなかろうかと思います。

縛られすぎです。
でも、自分から縛られにいってます。それを愛と呼ぶことも可能かもしれません。


けど。
美術館デートを経て(おなじみの「おめかしして、いつもと違う彼女にドキドキ!」)、ラブホにいってみて……
この、二人が自主的に縛ってきた思いというものは、そのまま、お互いの「約束」「誓い」にソフトランディングできる、ということでもある、とようやく気付くのです。

それは鎖立ったかもしれません。
でも、それでお互いを束縛することは、もうこの期に及んでは、しないのです。
するのは、ただ、誓い。
十年後も、また、「愛してる」といい続ける、幸せであり続ける、という誓い。
過去の後悔を捨てるのではなく、後悔さえも自分の人生として呑み込んで、ふたりの人生を進めていく。

「ずっと、一緒にいよう」

それは、c学のときに交わした約束でありながら、それを、k高においても交わす。交わし続ける。
イコール、それは
「ずっと、幸せでいよう」

再会型幼馴染がなぜこれほどわたしの胸を打つのかというと、
それは、「失われたものが、再び戻った」というのでもありますが、それと、
「誓いを、結び続ける」という、人生に対する、強烈な肯定感、にあるとも思う……のですよ。

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