OYOYOさんの「月に寄りそう乙女の作法」の感想

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**ネタバレ注意**

ゲームをクリアした人むけのレビューです。

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久しぶりにネタバレ全開。FDでるのかなー。「新展開」が待ち遠しいです。
既に評判もある程度確定されつつあるこの作品について「紹介」的なことをわざわざ書く必要もないだろうし、具体的なことを書かないとどうにも漠然とした内容になってしまうと思ったので、今回はネタバレありで。まあ、余り前置きが長くなっても仕方ないのでさっさと話を始めよう。

▼ルートの私的評価
全体として見ると、会話は軽妙、重たいシーンも混ざっていて程よい緊張感を保ってプレイできる。また、キャラクターが活き活きと動いているのが良い。ストーリー進行のためにキャラが配置されているのではなくて、キャラが動いた結果、振り返ると物語ができているという感じ。CVも軒並み好印象で、じゅうぶん楽しめる内容だったとは思う。

完成度、という意味では一番はルナ様。が、好き嫌いで言えば、ユーシェ(ユルシュール)が上。三番が湊で最後に瑞穂だろうか。ルナ・ユーシェの二つが頭ひとつ抜けているという評価をほうぼうで聞いていたが、私も全くその通りだと思った。この二つのルートはある意味でペアになっていて、才能を持つ者とそれに憧れ、追いかける者たちの物語を通して、遊星がプロローグで問いかけた「生きる意味」や「居場所」、「才能」といったことについて答えを出していく流れができあがっている。恋愛に終始するだけではなく、キャラクターたちの人間的な悩みがきちんと描かれていて、そのぶん深みがある。

いっぽう、湊と瑞穂のルートは、明らかにテンションが違う。テキストや表現の違いもさることながら、内容のギャップに少し戸惑った。たとえば、衣装のよしあしの基準――それは物語の最初から、遊星にとって「生きる意味」と重ねて考えられてきた重要な基準である――の問題は放棄され、ヒロインたちにつきまとう外在的な問題(湊であれば実家の家計、瑞穂は男性恐怖症と家の後継問題)を解決していく中で、これまでとは異なる価値観を見出していくような展開になっている。ルナ・ユーシェのルートを経ると拍子抜けというか、はぐらかされた感は強いだろう。否定的な意見が多く見られるのも頷ける。

私の感想をいえば、湊ルートは全ヒロイン中で唯一、フィリア・クリスマスコレクションが回避され、服飾がらみの話から外れていくのは面白いかな、と思った。デザイナーの世界を一旦相対化して、物語の閉塞を打破しようという試みとしては理解できるし、それなりに成功しているとは思う。ただ、やはりルナ・ユーシェのような深みはなく、型どおりのイベントの中へ物語を押し込めたような窮屈さがあって物足りなかった。原因はおそらく、全てのできごとが殆どなし崩しで進んでしまい、成り行き任せにしか見えなかったためだろう。

私が最も評価を低くしている瑞穂ルートは、いかにも中途半端。遊星の抱えていた問題と瑞穂の抱える問題とを、お互いの理解と協力によって乗りこえるというプロットはルナ・ユーシェのそれと大差ないものの、深刻さのレベルが何段階か違う。瑞穂の悩みは(本人には悪いが)非常に表層的で、「男嫌い」は当人にとっては大問題かもしれないが、作中の会話を見ている限り「ピーマンが食べられない」と同レベルにしか見えず、どうも乗りにくい。理由にしても、直接被害を受けたというよりは、男に身勝手な告白をされたとか、胸がでかいと言われたという話なわけで、正直「ワガママなお嬢様だな……」という感想が先立ってしまう。なにより、自分が受けてきた「身体的な」(胸が大きいとか)視線を嫌いながら、男性を厳しく排撃するというのは同じレベルのことをやり返していると言えなくもないわけで、ユーザーを巻き込んで共感させるには、少々説得力に欠けるのではないかな、と。

加えて、ラスボス役の衣遠が極端にショボく見えるのも苦しい。才能至上主義者のはずが、遊星を潰す為に他の才能を摘むことは厭わない、といった態度を取ってみたり、そのために行った手回しが子供だましだったりと、小悪党のようになってしまっている。これは私の持論として、達成されたものの価値は、乗りこえたカベ(困難)の大きさによって測られる、というのがある。倒した敵が尊敬に値する、あるいは激しい憎しみに値する存在であればあるほど、得られた勝利の味も格別なものになると思うのだが、その点からすると瑞穂ルートは、衣遠のパワーが激減したことで、カタルシスを感じるポイントを失ってしまった。

ウィークポイントの話になったので、全体通して微妙に思ったことに少しだけ触れると、上述したルートごとのばらつきに加え、主人公である遊星や敵役である衣遠のキャラが安定していないのが気になった。

まず遊星について言えば、この人はどうもいい加減というか、服飾に全く真剣に見えないというか事実真剣ではない。そもそもフィリア学院に通おうとしたのも、ジャンへの個人的なファン心理からだし、その後デザインの世界に残るのもヒロイン達との関係ゆえ。だから湊ルートでは湊と一緒にさっさとフィリアから去ってしまうし、本当に「全てを賭けて」取り組んでいるルナやユーシェと比べると、遊んでいるように見える。これがどうも万能の主人公らしからぬというか、設定とかみ合っていない印象がするのだ。

とはいえこのあたりは、作品自体ある程度狙っているのかな、という気もする。遊星が口にする、過剰なまでの「服飾」へのこだわりは、彼が「自分の望みがわかっていない」ということのアピールなのだ、と。そう考えれば辻褄はあう。本当に遊星が縛られているのは服飾の世界ではなく、彼の母が遺した「誰かの役に立つ」ということばだ。彼の才能は「何か」のためではなく「誰か」のためにこそ発揮される。その事実の表現として、滑稽なくらい浮き上がった「デザインの世界に残りたい」という類のセリフがあるのだとしたら、(もう少しやりようはあったのではないかと思うけれど)意図は理解できるかもしれない。

もうひとつ、こちらは何度考えても特に理由や意図は見えないのだが、衣遠というキャラクターは、芸術(才能)を全てにおいて優先する筋の通った才能至上主義者かと思いきや、盗作してみたり才能を潰そうとしたり、肉親の情を大事にするそぶりを急に見せたりと、言動がブレ続けている。特に酷かった瑞穂ルートについては既に述べた通り。それでも一定の存在感を保っているから大したものだとは思うけれど、ブレていることが問題というよりはブレ方が問題で、ユーシェルートのイオンならルナルートで「盗作」はしないだろうし、ルナやユーシェルートのイオンなら、瑞穂ルートであたら彼女の才能を潰すような真似はしないだろうという、各ルートごとの言動の説得力が失われてしまうことが残念。もうちょっとこう、何とかならなかったのかというガッカリ感は否めない。

内容とは離れたところで言えば、ユーシェの家族の話のような、幾つかの伏線をうっちゃったまま終わってしまったこと、クワルツ賞には二度応募できないという話なのに、瑞穂シナリオでルナが受賞していたことなど、「あれ?」と思うところはあった。また、Hシーンや盛り上がる告白シーンでの誤字(親愛を心愛など)も少し残念。

他にも色々あるかもしれないが、私の目についた範囲での主要な問題点はこのくらいで、要は作品全体としてのクオリティ・コントロールが不十分、ということにしてまとめておきたい。

……あ、あとたぶん原画の関係で、瑞穂と湊のふたりはHシーンで朝日(遊星)の姿が描かれません。ちょびっと物足りなかったです。

▼プロローグ ―遊星の願い
考察、と言うほど大した内容かはさておき、内容についての考察からはじめよう。この作品ではストーリー序盤に大きな問題が二つ出てくるように思う。

まず、遊星はなぜ死ぬことを厭がったのかということ。

遊星は「望まぬ生」の中で、母親だけを拠り所に生きてきた。その彼女を失ったことで、遊星は生きる意味を失い、死んでも良いと思うようになっていた。では、それを思い直したのはなぜか。そこが引っかかりのポイントだった。生への執着だとか、死を前にして欲が生まれたといわれればその通りだろう。けれど、執着にしろ欲にしろ、そういう言い方におとしこむと、型どおりの感情を素材として扱っているだけになってしまう。そういう抽象的な話ではなく、この時の遊星にとって生へのこだわりをもたらしたものは何か。それはそもそも書かれているのか、それとも人間が生きたいと思うことは理由など説明不要の前提として出発するという宣言なのか。物語の出発となる「生まれ変わり」の意味を問うためにも、このことは考えておかなくてはならないと思った。

ジャンのことばを聞いて「意思」を持ちたかったからだ、というのでは半分の答えでしかないように思う。なぜなら、そう言われてカチンと来た時点で、(遊星自身が認めているように)遊星は既に意思を持っていたからだ。「恋はおろか、夢も希望も、自分の意思を持つこと一切が、私の人生には許されていませんでした」という遊星の独白は、過剰に彼の思い入れが籠められていると取るべきで、逆にそれだけ遊星に独立した意思があったことを裏付けている。彼にはきちんと望みがあり、死んでしまってはそれは手に入らない。だから彼は、ジャンの「弾丸」を飛びすさって避けてしまった。

ということは、問われるべきはその「意思」によって遊星が実現したかったものは何か――ジャンのことばを借りて言えば、彼がここで死を避けて実現したいと考えた夢や希望は何か――ということになるだろう。

もうひとつは、「才能」の持つ意味について。

本作で常に話題となるテーマの一つに、「才能」がある。しかし、この「才能」は、私にはやや特殊なものに思われる。というのも、才能が万人に認められて当然のものとして扱われているからだ。「天才は死後に始めて認められる」などと言われることもあるように、才能なるものは、他の誰かにはわかりにくい――少なくとも同じような才能を持った者にしかわからないもの、というイメージがつきまとう。とりわけ芸術のように主観が重視される分野では、尖った才能ほど理解されるのに時間がかかるという通念がある。

ところが本作では、才能のある人間の作品は必ず認められる。否、万人に対して通用する圧倒的な魅力を提出できる力を「才能」と呼んでいるフシがある。たとえば、朝日班がクリスマスコレクションに出す衣装を決める時は、「民主的に多数決」だった。ルナのデザインは凡人揃いのクラスメートにも圧倒的にすぐれたものとして映るし、ファッションショーの審査員たちは恣意的に判断を歪めることはあっても、純粋な評価を決して誤らない。この物語において良さ(素晴らしさ)というのは、普遍的で、絶対的なものであるだけでなく、誰にでも理解可能なものである。そうした「良さ」を過不足なく確実に伝える能力が「才能」として把握されている。つまりこの作品での「才能」というのは、もの凄く単純化すれば、「他人に認められる力」だと言い得るのではないだろうか。

そのように考えてやると、遊星が死ぬのを嫌ったことと、「才能」に憧れ続けたこととが一本の線で繋がってくる。

遊星はジャンや衣遠のように、独力で何かを実現し、達成することを求めていたのではない。自らの居場所を、もっといえば「他者」との(おそらくは肯定的な)関係を、望んでいたのだ。「人の役に立て」という母の教えが最後まで響いていたように、遊星のこだわりは誰かとの繋がりにこそある。「ルート評価」のところで、「彼の才能は「何か」のためではなく「誰か」のためにこそ発揮される」と書いたのは、そういう意味である。才能を認められずに冷遇されていた彼が、「朝日」となってヒロインたちの中で認められていく。「朝日」に焦点を絞れば、彼女(彼?)が「才能」を開花させて居場所を作って行く、という一本のラインを引くことができる。

そして、そのような遊星の願いの達成が鮮やかに描かれていたのが、ルナとユーシェのルートだったと思う。というわけで、後はこの二つのルートの感想を書いて、この作品の感想をまとめることにしたい。

▼ルナルート・1
この作品で抜群の存在感を放つヒロインは、何と言ってもお美しいルナ様。

彼女は、どこまでも厳しく冷酷で、しかしその一方、どこまでも優しい。厳しさと優しさ、冷たさと暖かさという相反する性質がルナに宿った理由は、生い立ちを通して説明されるけれど、その矛盾はルナの性格に深刻な歪みを与えてしまった。どこまでも優しくすれば裏切られ、どこまでも厳しくすれば相手は離れていってしまう。ルナの抱える矛盾はこうして彼女を苛み、やがてルナは、孤高の人となった。

そういうルナを丸ごと包み込むことができるのが「朝日」だけだったのは、偶然ではないだろう。厳しさと優しさの両方を完全に受けとめられるような、全く違う性質の持ち主は、彼(彼女)をおいて他にない。もちろん性別を偽っているということは単なる外在的な要素でしかなくて、実際には「朝日」が厳しさの奥にある優しさを見出したことが大きい。ルナの矛盾に耐えたり、受け流すことができる人はいても、まるごと自分のものとして引きうけることができる本当の意味の理解者はかつてなく、そして、彼女が求めていたのは、そういうひとであった。「君がいないと私は駄目なんだ、全てにおいてそうだ」。遊星にそう告げるルナのことばは、決して大げさなものではない。ルナがルナとして、本当にありのままでいられる相手は、たった一人しかいないのだ。

作品のタイトルは、『月に寄りそう乙女の作法』。ルナは暗闇を照らす「月」であり、同時に「乙女」でもある。彼女がどちらか一方に止まってしまわないようにするためには、状況に応じて「月」にも「乙女」にもなれる存在が必要なのだ。それは、常に主の影となる「お付き」の者には務まらない。ルナの纏った「鎧」をはぎ取ろうとするだけの友人にも。求められるのは両方の資質。ルナと同様の二律背反をその身に宿している者だけが、ほんとうの意味で彼女の側にいることができる。

ルナルートで「朝日」は、まさにルナに寄りそう存在になることで居場所を得る。「寄りそう」とは、支え合って立つのではなく、リバーシブルな主従関係というとかえってわかりにくいかもしれないが、自らを捧げて相手に尽くすと同時に、自分もまた尽くされる存在になるような、そういう丸ごとすべてを預けてしまう関係なのだと、そんな意味が籠められているのかもしれない。

▼ルナルート・2
ところでルナは、どこまでも人間離れしている。容姿も、能力も、そして性格も。そんな彼女が「朝日」と恋をして、歳相応のかわいらしい女の子の反応を見せるというのがまた魅力的だったりするのだけれど、やっぱり最後は「さすがルナ様」と思わされる。それはたとえば、ルート終盤、「朝日」の処遇をめぐって衣遠と対決する場面で、ルナが「朝日」に対して即座に下した決断(「朝日」が男でも構わないという話)の場面でもっとも強く感じられるだろう。

決断の内容は、この少し前、性別を打ち明けようとした朝日に対するルナの返答と繋がっている。少し回り道になるが、まずそちらのほうから確認して行く。

このシーンの前、「隠していたことがある」と真実を告げようとした朝日に、ルナは冗談交じりにこう言ったのだった。「「君が男になるなんて問題だったら、今日明日にでも受けいれるというのはちょっと難しいな。数日は立ち直れないかもしれない。こんなにかわいい私の朝日の体が、胸毛や脛毛で穢れたり、あまつさえ筋肉で逞しくなるなんて考えたくもない」と。ここで言う「今日明日にでも」や「胸毛や脛毛」云々というのは、もちろんただの比喩だ。実際に一週間経過すれば良いとか、レーザー脱毛して見た目を美しくすれば良いとか、そういう話ではない。彼女の本当に言いたいことは、その次のセリフに集約される。曰く、「ただ、そのレベルの問題でも、受けいれるようになりたいと思う。君を失いたくない。君がいてくれて良かった」。「君」と対比される「そのレベルの問題」の中味は、ひとの存在を規定する外殻だ。それは作中の具体的な描写でいえば、性別や容姿、あるいは「朝日」という名前だろう。ルナとても、それらを人並みには気にする。しかし、それでもなお「君」をこそ大切にできるようになりたい、と言っているのだ。

では、「君」が指すものとは何か。外面に対する内面――というだけでは、空虚な枠組みに過ぎない。踏み込んで内実を考えると、ルナが見ている「君」というのは「性格」と「能力」である。この少し前、彼女は「たとえ性格が気に入っていても、私は実力で評価する」と言っていた。つまり、この両方が彼女にとっては重要ということである。似たような発言はいたるところで見られるし、ED前でもそこは変わっていない。(※1)

もっと言えば、ルナの関心は「信じる」しかできないような部分にある。「手にした衣装越しにその愛情が伝わってきた。いつしか私は思うようになった。このひとは美しいひとだと」――。この告白でルナの確認している「美しい」が、「朝日」の外見でないことは明かだ。性別や容姿は直接目に見える。けれど、ルナが本当に求めているのは、目に見えないような「信頼」の対象だ。それが「朝日」に宿っている誠実さであり、愛情であり、才能なのだ。もちろんそれらは、「朝日」の言動や仕事ぶり(衣装)という目に見える形を通して確認されるものではあるけれど、形自体が重要なのではない。具体的な形の奥にある本質的なものを、ルナは見ようとしている。

(※1)……あえてどちらに比重があるかといわれれば、「性格」のほうだろう。ルナは朝日をまずその心根の部分で気に入っていたから。これは衣遠と対照になっていて、衣遠は徹底的に「才能」にこだわる。

▼ルナルート・3
ルナが「朝日」を遊星と認めるシーンは、とても美しい。けれど同時に、それを眺めるユーザーにとってはとても残酷でもある。

この時のルナが美しいのは、彼女がまっすぐに「朝日」の本質を捉えているからだ。そのことがらを上手く表現することは難しいのだが、あえて言えば、「純粋さ」のように言い換えることができるかもしれない。子どものような無邪気さという意味ではない。気高く、まっすぐで、混じりけが無く、それゆえ強い想い。そういうルナの「純粋さ」が凝縮されていて、だからこのシーンは、ちょうどルナが「朝日」に対して「美しいひと」と言ったのと同じような意味で、美しく映るのだと思う。

ルナは迷わない。照れたり嫉妬したりはしても、躊躇うことはない。「朝日」が女性だろうが自分の心に正直で、その純粋な想いが正しいことを知っている。「私は正しい!」衣遠の前でそう叫んだ彼女に、ひとは憧れる。けれどそのまっすぐな美しさは、まるで太陽の光のようなもので、直接見るには余りにまぶしすぎるのだ。ルナは純粋に「朝日」を見ている。「朝日」が男であるという事実に対して、「だからなんだ」のひとことで一蹴してしまう。

「彼は彼だ。私が信頼したその人のままでいてくれるなら、心だけでなく体を裸にして見せても構わない」――衣遠をはね除けたこのことばは、突き詰めれば、「朝日」が男でも、むきむきのマッチョでも、毛むくじゃらで髭モジャでも、関係なく愛することができる、という宣言でもある。いや、そんなことはない。EDでは「朝日」の姿と遊星の姿を明確に分けているじゃないかと言われるかも知れないが、それは受けいれるかどうかとは別次元の問題だ。たとえば、「朝日」が急に大やけどを負って包帯ぐるぐるまきになったとして、ルナが興味を失うかを考えてみると、それは無いだろうということは容易に想像できる。

誰かを好きだというとき、たとえば、「その人の全てが好きだ」という言い方ならわかる。そこには恐らく、性別や容姿や、名前といったものも含まれるだろう。総体としてのその人を愛する、というのはわかる。けれどルナの場合、「私が信頼したその人のままでいてくれるなら」構わないのだと言い切る。それは、人間性しか見ないのだと言っているのと同義である。ここにあらわれているルナや、ルナと「朝日」の関係の美しさは、平凡な私のようなユーザーにはついていけないレベルにまで抽象化されているのではないだろうか。

このシーンを見ながらふと思いだしたのは、『伊勢物語』で業平が九十九歳の老婆を抱いた話。あれもまた、恋という観念のひとつの極点の表現だ。あんな恋が、自分にできるかどうか。想像してみるのは簡単だ。もし仮に、私が「朝日」の立場で、ルナが毛むくじゃらのゴリラみたいな容姿になったら、果たして受けいれられるかどうか……。正直言えば、たぶん無理だろうと思う。あるいは、ルナと「朝日」がガチムチのお兄ちゃんのグラフィックで描かれていたら、この作品を楽しめたかどうか。色々考えてみたけれど、やっぱり無理。ゴメンナサイ、となってしまう。

作中、ある意味ルナの対極に置かれているのは瑞穂で、彼女は「朝日」を外見でしか判断しようとしない。その姿はルナと比べるといかにも狭量に見えるのだけれど、普通の感覚からすれば彼女のほうがよほどわかりやすい。そして、そのわかりやすい葛藤を乗りこえるところに、瑞穂シナリオの等身大のキャラクターとしての美質があるのだろうと思う。裏を返せば、ルナの乗りこえ方は余りにも常人離れしている。ルナは、愛情を突き詰めていった結果、既存の愛情を解体させてしまっている。

ルナと、彼女の想いは確かに美しい。けれど私たちは、この物語の示す高みに、おそらく到達することはない。なぜならこの物語は、余りにも純粋で観念的で、地上的なものから遠い。鑞でできた翼しかもたない私たちが近づこうとしても、墜落するのが関の山だ。遠く、まぶしくて、けれど残酷な存在として、ルナは非常に洗練された存在である(※2)。

(※2)……ルナと「朝日」の恋愛の美しさというのは、過剰さやはなはだしさのような程度問題から来るものではなくて、おそらく質の違いに由来している。だから、少し見る角度を変えてやると、異様なものとして映るのだろう。恋人か親子かという表面的な関係の違いはあるけれど、ルナ物語と、『EXTRAVAGANZA』のような物語は、突き詰めれば同じところへ辿り着くのかもしれない。

▼ユーシェルート
そんなルナと対になるというか、ルナが体現するのが天上の愛だとすれば、地上の愛が描かれるのがユーシェという少女のルートだ。

このルートでは、多くの点がルナと対照的に描かれる。たとえば、ルナは文字通りの「天才」だがユーシェは努力家であり、静かで思慮深いルナに対して騒がしくて猪突猛進なユーシェという風に、性格もほぼ正反対。また、性別を超越した恋愛が可能なルナとは異なり、ユーシェはあくまで「男性」としての遊星に恋をしている。中でも最も象徴的なのは、フィリア・クリスマスコレクションの審査の場面。ユーシェがこのコンテストに、いわば騙し討ちのようなかたちで勝利したということが、ルナとユーシェの違いを明確にものがたっている。

選考評で衣遠は、「得票数一位と二位の作品は僅差であり、その作品は並んでいた」と告げた。そもそも「独自の集計」を使って一般票をうやむやにする(意訳)と宣言していたので、この審査結果の持つ意味は、「ルナとユーシェの衣装は甲乙つけがたいデキだった」ということと、「衣遠がユーシェを認めた」という意味合いしか持たず、後者の方が作品の中で重要なことは、いまさら確認するまでもない。

では、衣遠はどういう風にユーシェを認めたのか。ここで彼は、三つの「理由」を語っている。まず、「仕掛けを見て素直に感心した」こと。次に、「国籍などに拘る愚物が嫌い」なこと。そして最後に、「実際によくできた衣装だった」こと、である。このうち、二番目のものは委員間の相対的な関係を反映した政治的意図、というだけなので無視して構わないだろう。また、最初の理由は遊星の力であってユーシェのものではない。となると、ユーシェとルナが直接ぶつかっているのは三番目の理由だけということになるが、これについては、衣遠がユーシェのデザイン自体を最高だとは思っていない、ということに注意しなければならない。

実際衣遠は、「デザインは気に入ったが、最初はそれでも票を入れないつもりでいた」と述べている。ユーシェが評価されたのはモデルや裁縫も含めた服飾の全体の結果であって、デザイン(ルナとの直接対決)で勝利したわけではない。打ち上げで話題になっていたように、湊や瑞穂がルナの足を引っ張ったという部分は少なからずあるだろう。勝負には勝ったけれど、彼女が勝ちたいと思っていたルナの才能には、やはり及んでいないのだ。

加えて、ユーシェ(と遊星)は幾つかの「詐術」を使っている。たとえば、花は本当はエーデルワイスではないし(衣遠が見間違えたというのもよくわからないが)、またこの時点で彼女は遊星と関係を結んでいるのだから、エーデルワイスの花言葉である「純潔」も裏切っている。「漠然と美しかった衣装が、意味を理解した美しさに変わった」こと。それが、ユーシェたちの勝利したりゆうの一つではあるけれど、ふたりはいわば「見せかけ」で本質を誤魔化したのだ。まっすぐに本質を見つめ、ただ真心を籠めて衣装を作り、それがジャンにすべて伝わることで解決を迎えたルナの物語とは、そこが決定的に違う。ユーシェはただ誤魔化しきったにすぎない。

けれど、だからこそ私は、ユーシェという少女を好ましく見つめることができる。彼女は最後まで、ルナの高みには届かなかった。普遍的な才能、誰もがひれ伏すような、絶対的な力。そんなものに、ただの人間が届くはずがない。それでも、彼女は前へ進むことを諦めなかった。「ひとが努力と呼ぶことを、しつづけようと思います。だってそれだけが、才能のない私が輝くことのできた、唯一の理由だからです」。そう言って、憧れた相手に向かって歩き続けるその姿を、私はやはり美しいと思う。

かつて「王・長嶋が太陽の下で咲くヒマワリなら、オレは月を仰いで咲く月見草」と言った野球選手がいたが、ルナが太陽であるならユーシェはその太陽の光に照らされて輝く月であり、ルナが高みで咲き誇る桜なら、地上低くで花開くエーデルワイス。けれど、だからこそ伝わる良さも、確かにあると思うのだ。故郷を喪ったルナと異なり、ユーシェがスイスという土地に縛られているのも必然だろう。どこにでもいるありふれた人間の、場所や伝統(時間)の中で暮らす自己の存在から、彼女は離れることができない。けれどそれゆえに、ルナとは違ったかたちで彼女は力強く輝いて見える。

天上の愛に対する地上の愛。ユーシェはルナに届かない。けれどそれ決して、ユーシェがルナに「敗れた」ことを意味するわけではない。ルナへの想いが畏れにも似た憧憬だとすれば、ユーシェに抱く思いは、共に歩んでいこうというありふれた、けれどあたたかい想いである。そしてそれゆえに、私はこのルートが最も好きだったりする。

▼だそく
女装主人公のことも、百合疑惑のこともほとんど触れなかったけれど、まあそちらは色んな人が触れておられるし、私は専門外なので少し外れたところからの感想を述べてみました。でも、ルナ様がバイブつかってお尻攻めるのはちょっと凄かったですね。いやー、オドロイタ。危うく変な方向に目覚めそうに……。

キャラクター的に一番オイシイというか好きなのは「お客様のあらゆるニーズに応える総合流通グループ・セブン&アイ」こと名波七愛嬢。実は一番の巨乳という。攻略できないとか……「ダボが!」(※3)って感じですよ。あとりそな嬢ね。ネトゲーで茶エッチとかしてくれませんかね。

声の力もあるのでしょうが、立ち絵とかイベントCGが、差分以上にいろんな表情を持って見えて、本当に最後まで息切れすることなく楽しめました。全体として不満も少なからずあるのですが、「良いところ」については飛び抜けていた作品だったと思います。

(※3)……兵庫近隣(とくに播磨地方)では比較的一般的な罵倒語。七愛さんはスルッとつかっておられたが、滋賀でも流通しているのかは不明。方言史的には岡山-兵庫あたりがメインらしい。昔、四国とか九州から来た友人に使うと「ダボってなに?」と真顔で訊かれたので念のため。

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