マルセルさんの「Strawberry Nauts」の感想

HOOK史上最大にエロい作品ではあるが、これがHOOK作品であるかどうかは大いに疑問の余地がある作品だ。オマケシナリオを含めれば各ヒロインのエロは八回もあり、絵のエロさとテキストの質については体験版の通りに上々。しかし「PIT」がかなりの問題であり、これ自体はエロゲにおけるモブキャラ勢の嫉妬台詞を2ch形式で表現しているだけなのだが、この「オチスレ」的なテキストが本編の日常描写を完璧に吸収してしまっている。hook伝統のどーでもいい日常描写は、全てPITのモブによって表現され、hook伝統のキャラ同士の密接な繋がりもPITによって炎上のネタになるだけである。残るは50クリックほどのエロコメ風味のブツ切りイチャラブシーンの残骸が量産されているだけで、エロゲーのイチャラブでハァハァするより、匿名モブイチャ馴れ合い空間でワラワラ朝まで炎上フィーバーをしたい人には自信を持ってお奨めする逸品である。
☆基本データ

・総CG枚数(差分SD無し)96枚 総回想数42枠

・キャラ別CG(エロCG)&回想数

橙子  17枚(9)  8回 
穂海  17枚 (9)   8回
愛姫 18枚(8) 8回
耶央 17枚(8) 8回
みかも 18枚(8) 8回
その他 9枚 2回

(備考:エチ回想は物語上では四回ですが、俺の部屋のエチシーンもここに含めています。
また、その他において先生と先輩コンビの「サブキャラヒロイン攻略シナリオ」が登録されますし、特典パッチを当てる「上級生C」が攻略出来ますが、
まぁ上級生Cは興味なかったんで中古で買って特典パッチ持っていないし、先輩と先生には興味ないんでやってないんででよくわかりませんと。
以下の各種データーにおいても、それらのキャラシナリオやエロについては、同様の扱いをするんで悪しからず)


☆クリック数

簡単な説明:クリック数つーのは、既読スキップオン+テキスト速度ノーウェイト環境下で計った、ゲーム開始時から作品を終えるまで各シナリオ毎のクリックの合計回数のこと。

(1)初回プレイ時の「共通」+「個別」のシナリオの総容量が分かる
(2)2周目以降の、共通シナリオを除いた個別シナリオの総容量が分かる。

(ゆえに、一周目のヒロインルートはクリ数が多く、二周目以降はたぶん半減するが、一周目の「個別ルート」が他よりも長いというわけではないので注意)

(3)エロテキストのクリ数と。それを含んだ全シナリオのクリ数を比較すれば、両者の割合もある程度はわかる。
(4)テキスト速度の環境さえ同じなら、プレイ時間と違ってユーザーによる計測誤差は少ない。

といった四点が指標として役に立つとバッチャが言っていたような気がしないでもない。

(5)んで、今回から実験的に新しく追加されたhookの新システムが(←冗談です)BCとACというクリック数の計測。
BCは主人公とヒロインが恋人になる前までのクリック数で、ACは恋人になったあとのクリック数ね。
「その恋人になった「まえ/あと」ってどう定義するの?というのはなかなかにむずかしい話であるが、大抵のエロゲには告白CGなるものがありますからそこを基準にします
そういうCGがなかったり、なんかズルズルだらしない感じでずっこんばっこんなシナリオの場合は、まぁ僕がテキトーに判断しますが、その場合は「?AC6992」みたいに?をつけまつ)

1周目 みかも 「14435」(共通ルート込み)BC11358 AC3077
2周目 耶央  「7017」  BC3773 AC3244
3周目 愛姫  「7710」  BC3544 AC4166
4周目 橙子  「6693」  BC3211 AC3472
5周目 穂海  「9388」  BC3033 AC3355

(因みにシュシュと比べてイチャラ期間が長いかどうか?といったメールを何件か貰ったので、一応ここでシュシュのクリ数も参考比較としてあげておきます)

1周目 胡桃 「14066」 BC5033 AC4387
2周目 愛  「10822」 BC7336 AC3466
3周目 ひな 「8226」  BC4002 AC4224
4周目 朱音 「9605」  BC2872 AC6733
5周目 杏奈 「9201」  BC4196 AC5005


・各キャラのHシーンのクリック数

橙子   1:424 2:274 3:304 4:465 5:174 6:126 7:88 8:62
穂海   1:383 2:223 3:382 4:401 5:124 6:119 7:68 8:74
愛姫   1:224 2:503 3:502 4:511 5:58 6:73 7:53 8:66
耶央   1:501 2:419 3:302 4:366 5:179 6:132 7:88 8:72
みかも  1:366 2:274 3:285 4:326 5:122 6:104 7:49 8:102

(備考:各キャラとも5~8のエチクリ数は「俺の部屋」の各シーンです)

☆作品の大まかな評価。

簡単な説明:これはもうそのまんまですな。一応Z~SSSまでの評価基準が存在するらしいのですが、大抵はC~Aの間に収まっているようです。
「C」がだいたい「やってもやらなくても別にいいんじゃね」。「B」が「やればけっこう面白いんじゃね」。Aが「やってないヤツは人生つまないんじゃね」。
といったかんじになっております。あと「全体評価」っていうのは、その項目における「作品全体」から感じる何となく駄目だとかイイとかそういう評価です。

・シナリオ評価

橙子  B
穂海  B-
愛姫  C
耶央  C
みかも C+
全体評価 D
   
・エロ評価

橙子  B+
穂海  B
愛姫   C+
耶央  B
みかも B
全体評価 B

・イチャラブ評価

橙子  B-
穂海  B
愛姫  C
耶央  C
みかも C+
全体評価 C+

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☆シナリオと少々エロについて

はじめに、体験版をやればある程度はわかることであろうが、「俺の部屋」を含めて体験版だけではよくわからない部分もあると思うので、
復習の意味を込めて今作の「システム」……いや最近のはやりに則って「エアシステム」について説明しておこう。
まず「PIT」というのは、本テキストの進行と共に同時進行していく、BBSふうのテキストである。これは見ても見なくても「ゲーム本編」の進行には一切関係なく、
何らかの分岐もなく、CGコンプや回想コンプにもこれまた関係ない。次に「ヨルコミ」というのは、まぁ一種のヒロイン選択イベントである。
この「ヨルコミ」以外にも、真昼の学校におけるヒロイン選択があるが、単に「共通ルートにおいてヒロインが主人公に会いに行く」というシチュを成立させる言い訳みたいなものだろう。
「俺の部屋」というのは、本編シナリオ中には一切登場せず、そのヒロイン攻略後に公開される一種のショートシナリオ集みたいなものである。日常のイチャイチャシーンが二つと、エロしーんが四つばかり追加される。

このように説明すると、僕がナンで一言コメントであそこまで「PIT」をフルボッコにしたか?よくわからない人が出てくるだろう。
PITってそんなに悪いの? PITが面倒くさいなら無視すればいいじゃん? 本編の進行に全く関係ないんだから本編の評価にも関係がないだろ?えとせえとせ
以上のような疑問は全て妥当であるが、逆に言えば以上のような疑問が全て妥当にならないところが、このPITの問題点だといえる。その点をちょい詳しく説明しよう。
まず最初に僕の「プレイ方法」を予めネタバレしておくと、最初のルートをやったときは取りあえずPITを更新の度に全部読んだ。それでかなり詰まらないというか苦痛だったため、
次のルートは(些か面倒な手法を使って)本編のルートを全部読んだ後、そのあとにPITのテキストを全部読んだ(因みに、以下に語るように、そのような方法は通常では不可能である)。
しかしそのようにやってもPITの存在意義が見いだせなかったために、以降はPITを全部無視して本編テキストを読んだが、それでようやく「本編テキストのつまらなさ」と「PIT」が、
あるレベルでは密接に結びついていることがよくわかったというわけだ。素朴な感想を言えば、PITがある限り、それを無視しようが無視しまいが、どちらにせよこの作品のマイナス点は存在するというわけだ。

細かいところから見ていくと、まずPITを「全部読もう」とするならば、それは殆どの場合本編テキストとの「同時並行」的な読解を求められると言うところがある。
PITのBBSテキストは「過去ログ」を取れない。そして、そのBBSのスレはその本編のシーンの終了と同時に消滅するので、全部のPITをチェックするためには、
本編のテキスト進行と共に同時進行するPITを常にチェックしなければならないわけだ。まず、これは表層的な意味で単に「凡ミス」といっていい糞システムでは無かろうか?
しかし、基本的にそれが改善されて、あとで「過去スレ」が見えるようになったとしても、少なくともPITを面白く思っていない僕のような人間からすれば、根本的な問題解決にはなるまい。

もちろん、これは僕自身が「PIT」に代表されるような2ch的なノリや、ニコニコ動画の弾幕コメがあまり好きではないというか、わざわざエロゲで金払ってまでみるものではないと考えている点も大きいだろう。
しかも、僕は別に2ch痛でもニコ動マニアでも何でもないが、このライター氏が全部自作自演しているPITスレッドが何とも気持ちが悪い。2chでもニコ動でもどっちでもいいが、
全てのレスに対して即座にthxとか半カナ言葉が定期的に返ってくると、しぃがぁるって最高だよねとつい条件反射で書き込んでしまいたくなる。2chやニコ動がそれなりに見られる場合は、
ある程度は殺伐としていて、ある程度はレスが残忍に無視される点にあると思うのだが、こうも全部のレスに各ナナシの「期待通りの」レスポンスがポンポン帰ってくると、お前ら馴れ合ってるじゃんねぇ!と怒りたくなるわけである。
ああいう場所には「アンチor信者」だとか「工作」だとか「自治厨」とかいった言葉に代表されるような、強いて言うなら個人主義と共同体主義が有耶無耶に入り混じっているところがあって、
自分の意見(個人主義)を「スレ的には面白い」だとかそういうふうに共同体主義でくるんだり、またその逆のようなことがいつも行われていて、しかしトーデンのことながら各ナナシはそれでも「個人」にすぎないのだから、
自分の意見が認められないと相手を「空気を読んでいない」とか共同体的主義に個人が殴り合うような、馴れ合いと殴り合いが表裏一体なところが笑えるんだけど、このPITは馴れ合い臭が強すぎて2ch的に言えば「キモイ」のである。
余談であるが、なんでそういう馴れ合いがキモイのかと言えば、それは2chやニコ動という場所が(ブログやらツイッター以降はさらにそうだと思うが)ネットで個人個人同士がコミュを取る場所ではないと表面上はいいつつも、
しかしながら結局は「板住民」とか「スレ住民」とか「にちゃんねらー」といった共同体意識を前提と言い訳にして馴れ合う場所だからだろう。前者と後者がにらみ合いながら独自の融合をしているのがたぶん「良スレ」なのだろうが、
前者の空気がスレで強すぎたり(今は亡き伝統であるが)「コテハン」が目立つようになると、そもそもブログやらツイッターをやれと突っ込まれるような感じか。それが逆に後者が強すぎると北朝鮮的なマンセーアンチ一色スレになるわけだ。

あとは、まぁ、そもそもぶっちゃけった話になってしまうが、個人と個人のネット上のやりとりをフィクションで書くのはそうおかしくないとは思うけど、一応は建前上は無数の人間が参加しているBBSと言う場所を、
最初から最後まで一人のライターが書くと言うこと自体に、何か違和感を覚えるのは僕だけであろうか。なんというか「所詮お前らのコミュニケーションなんてテンプレのやりとりで簡単に書けるんだよw」というような、
ライター氏の侮蔑と共感が入り交じったワラワラ感情が伝わってくるような感じというか。たぶん、このPITを面白いと思うかどうかの真のポイントは、そういう同族嫌悪的な同族親交を受け入れられるかどうかだろう。
僕としては、同族嫌悪も同族親交も勝手にやればいいと思うんだけど、「どうせ俺たちは駄目人間どうしw」みたいな「駄目人間」とかアイロニカルに自己卑下しながら「どうし」と言ってしまうアタリのホモっぽさが好きじゃないもので。
別に僕は自分がいい人間だとは思わないし、まぁ駄目人間なんだろうなとは思うんだけど、だからといって「俺も駄目だからお前もダメじゃん仲良くしようぜ」みたいな下から目線コミュはあんまりしたくはないのである。
それは人の「千差万別の駄目さ」というもっとも面白い部分をスルーしちゃうことであり、倫理的にはどうだか知らないけれど、単純にそれじゃ人生面白くないよなぁとは思うのである。


さて、僕自身の嗜好は兎も角として、このようなPITが「好きではない」なら、しかし、この作品のPITはゲームの進行に関係ない場合なら「無視すればいい」ということになるだろう。
一応、1周目と2周目はそのヒロインのPITを我慢してみたのは、まぁ一応は嫌いだと思っているものでも、僕の予想があっているかはわからないので確認する必要があったということだけで、
3周目以降は全部無視したのだから、PITはマイナスにならないのではないか? という議論は一応成り立つように見える。しかし、この議論が成り立たないのがPITの問題なのである。

これはPITと本編テキストとの「同時進行」的な関係を見ればなんとなくわかってくるだろう。最初に書いた通り、PITは本編のテキストが進む度に、正確に言えばワンクリックかスリークリックの度に、
そのBBSが更新されていくわけであり、そして、そのBBSの更新内容は本編テキストと微妙に関係している。その尤も典型的なパターンというのは、これは現実的に恐怖を感じる人もいるかもしれないが、
基本的には学園内の主人公「たち」の行動を、その場にいたモブキャラが「また主人公がモテモテなことをしていましたぜw」とか実況的にBBSに書き込み、他のモブキャラ連中がクリスマス中止を訴えるというパターンである。
それで、このゲームにおいてPITが「物語の進行とは関係ない」と言うときに意味されているのは、「主人公たちの行動がBBSに影響を与える」ということはあっても、
基本的には「BBSの影響が主人公たちに行動を与えることは少ない」からである。2~3回ぐらいPITを見なきゃ意味不明なところはあるが、別にそれだって単なるギャグイベントのオチ程度のものではある。
このように、表層的に見るならばPITは本編のテキストに直接影響を与えていないから「嫌いな人は無視すればOK」ということになるわけだが、この「無視すればOK]というロジックはその大半がそうであるように、
その「無視してもいいものが、どうしてそこに存在する必要があるのか?」という疑問を隠蔽させる機能を持つ。そして、PITは確かに無視できない深層的な効果を本編テキストに与えているのである。

まず、一つにはPITの「主人公オチスレ的な日常的なカキコ」が本編のテキストの日常描写を大幅に代替していると言うこと。hookユーザーしかわからない言い方をすれば、hookにおけるまったり日常テキストやら、
そーじーろの存在が全てモブキャラになり、その連中の行動や言動は全てPITの「オチスレ」に吸収されている、ということである。これは体験版ではあまり実感がわかないことかもしれないが、
本編の個別ルートに入れば本当に手に取るようにわかる。もちろん、大抵のエロゲにおいては個別ルートではそのヒロインの登場が増え、他のヒロインの登場が減るのは常識ではあるが、
これはもう「妹スマイル」並というか、たぶん10本の指で数えられる程度の回数しか他のヒロインが出てこなくなる。それでイチャラブ描写が増えるんならめっけもの、とか言う人はhook作品について何も理解していない人間であるが、
まぁ基本的に増えるのはPITのモブのレスぐらいだと思ったほうが良い。いや、本テキストにもPIT設定の御陰で普通の萌えゲの二割増しぐらいにモブが多い。これも後述するが、
ヒロインと主人公の一対一描写が増えたからと言って、それが即イチャラブに繋がるというのは、まったく持ってナンセンスであって、そして、この作品はそのナンセンスの墓場に片足ぐらいアシを突っ込んでしまっている。

ああ、書き忘れていたけど、このPITには「メール機能」というのがあって、これは攻略中のヒロインから主に共通ルートで4~5回ぐらいメールが送られてくるというものだ。
これもPITのBBSと同じで「見ても見なくても良い」テキストの一種であり、共通ルートでも個別ルートの物語に直接関係していない。これはこのシステムの特徴とその製作思想を良よくあらわしている。
最初に答えを言ってしまえば、たぶんこのライター氏、或いはライター氏に指令をだしたPとかDとかは「日常テキスト」というものを、それ単体で個別に存在し、作品の全体には何ら関与しない部分だと戯けたことを考えているのだろう。
あまり特定の作品やメーカーを贔屓にするのはイヤだし「ラブラブル」だって何らかの弱点を持ってはいるけど、少なくともこの点に関してだけは、Hookはラブラブルのメールテキストを見習うべきである。
ラブラブルのメールは(選択肢の遊びは多少あるが)基本的に作品の物語の中にきちんと組み込まれており、それはイチャラブ的に言えば、主人公とヒロインがふたり離れているときにだけできる、
直接口には言えない恥ずかしい思いを文字にして伝え合うという、日本人の奥深さをイチャラブ的に表現する素晴らしいシーンを描写できるところにあって、そして、それを「シナリオ」構成的な観点から言えば、
そのようなイチャラブシーンを描くという意味と、しかし主人公とヒロインがほんの少しでも離ればなれになるとことによって、ユーザーのクールダウンとヒロインと主人公の距離感を再確認させるという効果を持つ。
全てが完璧に計算されていると言ったら大袈裟になるけど、少なくともラブラブルの構成を考えた人が、そういう全体的な構造を多少なりとも意識し、かなり成功していたのは事実である。だが、この作品のメールは単発的な効果しかなく、
いや「それ自体」は「ほんの少しクスリとする」程度でオマケ的に受け取ればいいものであるが、そのような単発的な効果しか狙わない作品作りが、オマケだけではなくて本テキストのほうにも広がっているのが問題なのだ。

もちろん、これは「卵が先か、鶏が先か?」の議論になる可能性もあり、PITの所為でこうなったとか、いや元もとこのテキストはこういうモノだったとか、いろいろな意見があるだろう。
それはそれで良いとしても、どちらの立場に立つ人であっても、またPITを肯定するであっても否定するであっても、今回のテキストが「いつものhook」という基準から見てもつまらないというのは6割近くが認めそうなところである。
「テキストは詰まらなかったけど、PITは面白かった」とこの作品を評価している人は、逆に言えば、このPITというのは本テキストに何らかの面白さを与えるものではなく、オマケそれ自体を高く評価しているだけである
こういう「読んでも良いし、読まなくても良いオマケ的なテキスト」の存在自体を僕は否定しないけど、今回のは悪い意味で「手が掛かりすぎて」はいないだろうか。確かにこのPITがなかったらこの作品の評価は下がると思うが、
それは単に「本編のテキストが詰まらなかった」というところにのみ原因があるのである。そして、そもそもPITに向ける作業力の半分近くであれ、
本編テキストに回していたらもうちょっとはマトモなモノが出来ていただろう。そういう意味で、このPITは何か「ダメなところをオマケで誤魔化す」ようなセコさを感じるのである。
今までのhook作品の変な「エアシステム」は単に無視するかバカじゃねwといえばいいものだったけれども、今回のものは「冗談ですよw」とかいいながら、その冗談行為をカゲでは本気でやっていて、
その冗談行為が作品の駄目なところをひた隠しにしているようなイヤらしさがあるのだ(そういうところが実に匿名掲示板的である!と言ったら怒られそうなのでそんなことはありえないとバッチャが言っていた!)
もともとエロゲの「複数ルート攻略」とか「トゥルーエンド」みたいなものには、そういうイヤらしさが付きまとうものではあって、それがある意味ではエロゲの本質の一部分であるとも言えるのであるが、
このPITは本編の面白さに殆どプラスになっておらず、本編の駄目さを誤魔化している点において、かなりの批判に値すると僕は判断する。

さらに、僕は別に進歩主義者でもなんでもないので、単にこのPITのアイデアだけを評価するという他の人の意見が本当にさっぱりわからない。その論理を一言で言ってしまえば、
それはサミュエル・ジョンソンの以下の命題を肯定するか否によって決まるだろう。つまり「古いもの(既存のもの)をあたらしいものに変えるのは、それが前よりも良いものだとわかっているときに限られる」ということ。
単に新しいから、他のものと違うからという理由だけで、それを単純素朴に「良い」とするのは、僕にはもっとも悪質な保守主義や伝統主義者や権威主義者以上に、思考停止した因襲的態度だと僕は考える。
まさか「サプライズ」そのものがイイだとか思っている人はいないだろうし、「スパイス」は調味料として主食に振りかけるべきものであり、まさか「スパイス」が主食になるとは思っている人は少ないだろうが、
まぁあまりこういう「年長風」なことは言いたくないけど、エウだとかアリスだとかそういうゲーム性重視メーカーとホンの例外の作品を除けば、そういう「システムのアイデアだけが褒められた」作品で、
そのアイデアが順調に発展していったようなことはついぞ見たことがない。「可能性が感じられる」とか「新しいエロゲの時代がっ!」みたいなことを一ヶ月程度ばかり盛り上がって具体的検討をされずに糸冬というのがその99%の末路である。
その経緯は極めて単純だ。ニュースは常に古くなり、その時点で新しかったものは一ヶ月後には古いのだから、単に新しいという理由だけ評価されるものは一ヶ月後程度には別のあたらしいものに取って代わるだけのことであり、
そうしてあたらしいものが次々と入れ替わって、それらがなにも「良いもの」を産み出さないのであれば、それはそのまま「古いもの(既存のもの)」が居座るという単純な話だ。悪質な保守主義者の真の味方はバカな進歩主義者なのだ。
むろん、そういうラフなところがエロゲの良いところであるといった議論は一般論としてはありえるが、同じ一般論をいうならば、そういうラフで軽薄で時代に流れやすくナニゴトも長続きしないところがエロゲの駄目なところなのも言うまでもなく、
ことにそういった「新システム」だとか「新しいエロゲのかたちが云々」というところはまさにその駄目なところが出まくっていると言える。新しさを次々と追い求めるばかりで、新しい何かを定着しようということには殆どならないのだ。

まぁ、別にPITを続けるかどうかは、本編のテキストをどーにかすれば基本的には問題ないので、まぁ勝手にやってくれれば良いと思うのであるが、
「我々はつねに新しいエロゲーを目指します」と旧作の弱点をそのまま放置し、旧作の美点を何ら鑑みるところなく、「新しさ」を言い訳に思いつきをそのままテキトーな駄作にして濫造するような某メーカーにだけはなって欲しくないものだ。
因みにPITの進化だとかいろいろ言われているけど、僕はその点でも非常に懐疑的であることを付けくわえておこう。この点については長くなるし、このゲームとは直接関係ないことが多いので欄外の(※1)で詳細に語っておく。


PITな余談はこれぐらいにしてと、本編テキストのダメさ加減を語り始めるとするならば、まず第一に素朴な言い方ではあるが、
共通ルートにおいても個別ルートにおいても、hookテキストでは毎回感じられた作品内の日常の存在感が非常に希薄だということである。
これはいろいろな点から指摘できるが、まずはわかりやすいところからいくと、主人公と全メインヒロインの関係が最初からハーレム状態なのはまだ良いとしても、そのハーレム状態の描写が寮でヒロイン達に飯を食わせる程度のものしか無く、
単に主人公のまわりをカルガモの子供のように付きまとっているような印象しか受けないの。誰がこのテキストを書いたのかは知らないが、端的に言ってこのライターさんは複数ヒロインのやりとりを書くのが非常に下手くそである。
たいていは主人公に何らかのイベントを発生させそのまわりにヒロインをおいて、コメンテイターの如く○○さんはこう答えました方式に台詞を振り分ける方法に頼るか、ちより先生にバカやらして御茶を濁す程度であり、
個別ではそれが皆無になるが、共通においてもヒロイン同士の横の繋がりがちっとも印象に残らないのだ。彼らの一日を想像すれば、朝と夕は主人公と一緒に寮でメシ喰って学校に行って、学校では主人公の隣の席でイチャついているんだろうけど、
それ以外の時間にヒロイン「たち」がお互いに何をやっているのか想像するのは非常に難しい。馬鹿げた妄想だが、彼女たちは本当は仲悪くて主人公の目の前だけでブリっこぶっているんじゃないかと想像できるくらいである。

こういうのを下品な例で表現するならば、主人公のペニペニがヒロイン勢の前にご開帳になった場合の、各ヒロインの反応を想像すればよかろう。普通の、というかまぁわりと良い感じの萌えゲは、
例えばあるヒロインAは積極的にペロペロして、もう一人のBはそのAに対抗するという言い訳で激しくペロペロして、CはCでAとBのペロペロにはわわしながら栗きんとんでもモジモジするし、
Dは小悪魔的になーにここも硬くなっているの?とイイながら主人公の乳首を舐めたりするものだろう。いや、一応断っておくとこの作品にはハーレムエロシーンはないわけだが、
もしもそういうシーンがあったとしたら、この作品のヒロイン達はどうするのだろうか。たぶん、それは全員が全員同じタイミングで「いただきマース」と、同じ調子で主人公のソーセージにかぶりつく(いてぇ!)に違いないのだ。
まぁなにが言いたいかというと、そういうヒロイン全員集合(しかないと言って良いのだが)シーンにおいても、毎回毎回その絡み合いはほぼ同じパターンで、そのアンサブルの中からヒロインの個性を際立たせることに失敗している。

これは当然のことながら「初期好感度が100%だから」という理由で免除されるものではない。いくら評判の悪いサイトウケンジ氏の作品であって、コレに比べたら最悪でも主人公マンセーの中からヒロインの特徴が
毎回違う形で多少は浮かんでいると言える。でも、この作品は呆れるほど「主人公の料理っておいしーよね」を毎回同じ面子で同じ調子で繰り返しているだけなのである。萌えゲ好きの僕でもここまで酷いのは久しぶりに見た。
また、これは個別ルートでも基本的に同じなのであるが「全員の好感度が最初から100%」なのはハーレム萌えゲの基本としてイイとしても、全員の「関係度」というか「間柄」が最初から最後まで同じなのもなかなか酷い。
これはマクロのシナリオ展開からミクロのテキストに至るまでそうなのだ。どのシナリオでもどのヒロインも主人公は「メシを作ってる」人であり「頼れる優しい男の人」で恋人になると「なでなで」存在でしかないのである。
シナリオによる関係度の変化とでもいうべきものも皆無で、全員のヒロインが体験版の段階から個別ルートの告白前まで「ヒロインはずっと主人公の告白を待っていて、主人公はそれに気づかない」を維持するだけである。
なるほど、大抵の萌えゲはそういうものだというツッコミはわかるが、僕が言っていることは「初対面のヒロインが主人公に始めて名前を呼んでドキドキ」みたいな、そういうミクロな関係性の変化「すら」もないと言うことで、
これはもう普通の日常ゲーとループ系の違いだと言っても大袈裟ではないだろう。日常系とは基本となる日常をベースにして、そこから「そのベース日常とミクロ毎日の違い」をあれこれ描写する作品であるが、今作はループ系でしかない。
正直、僕は最後の最後に「実は全ヒロインは主人公の死に別れた実妹だったのだ!」というオチを期待していたくらい、どのシナリオでもどのシーンでも主人公とヒロインの関係性は殆ど変わらない。
「単に容姿と口調と声が違う同じ性格のヒロインが数体並んでいるだけ」と言ったら確かに大袈裟過ぎるし、ヒロインの個性はちゃんとあるんだけど、それは主人公と付き合うことによってによってより強く輝くのではなく、
まぁなんか調教エロゲのように全員主人公の食事と優しさとセックスの奴隷になってしまうような恋愛展開しかないのである。これじゃあ始めからハーレムエンドを目指した方が良かったんじゃないのかと最後まで疑問が捨てきれなかった。

コレに比べたらアンサバの日常テキストは完璧である。愚かな連中はアンサバにおける小奈美の主人公のパンツ洗いメイド化を非難するが、これは逆に言えば、そのヒロインの個別ルート以外でも、
そのヒロインが主人公のまわりに確実に存在していると言うことを描写できていると言うことだ。いったいこの作品の攻略ルート以外で愛姫が主人公のパンツを洗っているところを想像できるだろうか?
登場人物のパンツの始末が想像できない萌えゲは駄作であり、幼馴染みや主人公がパンツを洗っているところが想像できる萌えゲは良作であり、実妹のパンツの匂いがモニタの中から漂ってくる萌えゲはそれだけで傑作である。
比較的ヒロインの横の繋がりが薄いさくらビッドマップ(もしかしたら今作は、これを参考にしたのかもしれないが)も、瑠子、小春 鼎といったヒロインシナリオでは最小限のキャラの横の繋がりが、
そのシナリオの日常と物語を強く支えていたのである。学校や家庭や神社といった場所の日常性がテキストによって担保されていたからこそ、農家を引き継ぐ話やキツイ義妹が甘える話や桜に纏わるエトセトラのシナリオが際だったのだ。
今回のテキストを「いつものhookと同じ」とか言っている人はhookゲーを大してやっていないか、もしもhookゲーを殆どやっていてそういうのであれば、彼らはシナリオだとか文章だとか音楽だとか小説において、
「テーマ」やら「スルリ」やら「感動」やらミクロな「文章の上手さ」とやらといったものにしか反応できない、立派な社会人であるのだからエロゲなんぞに手を出すべきではない。

もちろん、ヒロインの横の繋がりがないことが、それはそれ自体が別に良いとか悪いと言う話にはならないし、ヒロイン同士の横の繋がりが無くても、主人公とヒロインの縦の繋がりがあればそれはそれでいいとは……
論理的には言えるが実際的には難しいといえるだろう。それはまるでマルセル氏はキモメンかもしれないが、心はイケメン並に優しいのかしれないとあり得ない仮定を言っているに等しい。
ああ、ここで仮定しているのは、あくまで「日常描写がメインになる萌えゲー」という話であり、そりゃ虚淵ゲー(でも彼の日常描写は僕は結構好きなんだけど)でヒロインの横の繋がりが一番大事ということはないだろう。
例えば「ヒロインと主人公が始めて長い時間二人きりになってドキドキ」という偉大なる伝統的なシチュを想像して欲しい。こういったイベントを日常ゲーで描くのは上手い下手を問わなければ誰でも書けるだろうが、
このシチュがそうしたドキドキ感やら躊躇いの感情をユーザーに伝えられるかどうかは、その「テキストの上手い下手」だけの問題ではなくて、「そのシチュ以外のテキスト」との関係性によって正否が決まると言って良い。
わかりやすく言うならば、いつも登下校の描写なんてあまりしていないのに「今日は○○と二人きりになってしまった」と言われても、まぁそれが単に事実を伝えるだけならそれでいいけれども、
「普段の登下校の描写やその感覚」がユーザーに無い時点で「○○と二人きりになってドッキリ」といきなり言われても、ユーザーはそれを単なる情報の一部として受け取るだけでドキドキの情動には繋がらないのである。
エロゲの日常描写がつまらないと言っている人は、基本的に「そのシーンだけの効果」しか見ていないことが多い。それが充分に有機的に組織化されているばあい(まぁ単に散漫な描写というのは結構あるが)、
その日常はヒロインや主人公の生活感という全体的なコンテクストを生成し、そのような一般的コンテクストがあって始めて「生活上の突然なドキドキ」というような例外的コンテクストを成功に導くことが出来るのだ。
だから「毎日がドキドキの連続」とった萌えゲや萌えラノベや萌えアニメが成功している場合、それはその「ドキドキのイベント」が上手いのではなく(多くの場合、そのイベントの数々ははありきたりに過ぎない)、
それを毎回ドキドキを陰で支えている通奏低音であるところ日常描写が成功しているのである。我々は矢吹神が描くおっぱいをガン見するだけではなく、ToLOVEるにおけるみかんの類い希な存在感に驚愕せねばならない!

ハッキリ言わせてもらうと、この点でもこの作品はかなり下手くそである。ユーザーに情報を与えることには成功していても、情動を与えることには殆ど成功してない。日常描写やテキストがその時点における情報の提示にしかなっていない。
まぁ情報という点でもわりと怪しいところはある。たとえば耶央シナリオの告白前直前あたりぐらいのところで、学園の敷地に迷い込んだイヌに、二人でナイショに餌を与えているところをパパラッチに盗撮されて、
イヌの存在を誤魔化すために「実は二人は付き合っているのでした!」と嘘をつくシーンがあるのだが、しかしこれは僕が要約的に纏めているだけなのだ。どういうことなのかというと、
実際のテキスト上では「二人が付き合っていると噂が流されている」ということと「でも、その誤解を解こうとするとイヌの問題が出てくるし……」という二つの問題に主人公たちが悩んでいる描写がしばらく続いたあと、
いつのまにか「二人が付き合っているとまわりに嘘をついている」ということになっているのが、テキスト上における語りである。もちろん、一々そういう細かい凡ミスを突っ込む趣味は僕にはないが、
ここの部分が問題なのは「告白」に繋がる重要な前段階のシーンであり、そして情報の混乱もさることながら、この前段階のシーンが告白の衝動に繋がるような情動を高めるのにちっとも役に立っていないというところである。
いつのまにか「付き合っている振りをしているということになっている」という稚拙な伏線もゲンナリではあるが、
それ以上にガックリくるのは、その「付き合っている振り」の描写の薄さである。400クリック程度と言っても普通の人にはわからないと思うが、まぁエロしーん1回分ぶんぐらいの長さのテキストで、
しかもその内容足るや今までの日常しーんと大して変わらない内容であり、「これで耶央との恋人ごっこも終わりか……残念だな」という主人公の呟きはユーザーの「へー、それは悲しいですねぇ」なぼやきしか起こさないだろう。
余談であるが、僕はこういうシーン構成を「アホドックなシナリオ展開」と勝手に呼んでいる。むろんこれは「アドホック」という言葉をもじったものであり、その意味はアドホックな仮説のようにその場その場のシーンを描くためだけに、
前もって用意されているシナリオの感性の流れを断ち切って「とってつけたような描写や展開」をするということであるが、ライター氏はそこまで意識していないでテキトーに描いているだけだと思われるので、これはアホドックでしかないのである。


中でもそのへんの稚拙がハッキリ見えるのは、愛姫シナリオだろうか。まず第一に前半のプロットを書いておくと、告白前までは普通に恋人未満友達以上って感じでイチャイチャするんだが、
その最後のあたりに「私は主人公に昔振られたんだ……」と言いだして、ケジメをつけるとか言いだすのだが、それは突発的な事故イベントである「愛姫が学生に暴行を加えた」で有耶無耶になる。
んで、主人公と愛姫がいろいろ言い合ったあげく、愛姫は責任を感じて島を出ようとするが、そこで「愛姫が昔主人公に送った手紙を見つけた主人公」が現れる。昔振られたというのは、
愛姫が主人公に手紙を送ったんだけど、それが届かなかったのを愛姫は知らなかったってオチなのね。それでまぁちょいバトル展開で青春の汗を流したあと、二人は見事に結ばれるって話ではあります。

さて、別に僕はこの「プロット自体」は2~3点を除いておかしくはない(なんで愛姫のバスに主人公が追いついたかは謎だけど)し、別にこういうシリアスが悪いだとかテンプレだとか批判するつもり毛頭ない。
しかしこのシナリオは最初から最後まで違和感が拭えなかったのである。強いて言えば「細かいところが全て間違っている」というか、あくまで比喩だが、一文一文に必ず誤字脱字を見つけたような違和感が残った。
まず第一に、ちょっと変だなと思ったのは、まぁ共通の頃からそうだったんだけど、二人は幼馴染みのわりには、その昔の間柄を思わせるようなイベントや会話が弱すぎるところ。主人公ハーレムの一員に埋没しているだけなんだから。
なるほど、個別に入れば流石に剣道を一緒に習っていた間柄だった、と言ったようなことが語られ、剣道の練習とかを一緒にやるようなことも多くなるのだが、ここも何か肝腎なところが弱いような気がする。
それを端的に言えば「お前ふたりとも昔と何処が違うの?」ということで、まず昔の回想のふたりの話し方とその内容と、今の二人の話し方と会話の調子が一緒で、いやそこらへんのガキが矢鱈に論理的な口調で、
「愛姫には家を背負う責任があるからお前は剣を振るうべきではない」と、マジでそんな口調で喋っていたのがリアリズム的におかしい!ということを言いたいのじゃないのである。それはそれで昔からそうだったと納得しても良い。
問題なのは、そういう「殆ど変わっていない二人」にも関わらず、矢鱈にテキストにはお前は成長しただとか、主人公はさらにカッコよくなったとかそういう話がたくさん出てくるということだ。むろん、これは矛盾ではない。
先の言葉で言えば「情報」的には合っているのだろう。常識的に考えればさぞ主人公も格好良く、愛姫も可愛くなったのだろうが、その「変化」が情動としてユーザーに伝わらないのが問題なのである。幼馴染み度が非常に弱すぎる。

さて、上のプロットを延々と説明したのは、そうした物語設定が要請するキャラの心理も、日常描写のなかでちっとも生かされていないことを指摘するためである。別にそこまで過度にテンプレ気味に描写することはないが、
主人公のことを恨んでいていも恨んでいなくても、何らかの日常描写で「手紙」について触れようとする愛姫もちっとも描かれていないし、「ケジメ」をつけようと主人公から離れようとする愛姫も最後までは描かれずに、
ぶっちゃけ最初から愛姫はデレデレしっぱなしである。デレデレするのは良いけど、そういう過去の事情を日常シーンで匂わせておかないと、「真実の解明」が情報提示以上の意味を持たなくなってしまうだろう。
また「そんなのイチャラブに関係がないからイラネ」という人は、正直言ってイチャラブを舐めているとしか言いようがない。始めから愛姫がデレデレ一直線で、毎回同じ調子でデレテキストを量産されるよりも、
始めはある程度は様子を見ながら主人公にデレようとしたり、或いはときどき寂しそうな顔を見せる愛姫たんが、問題の解決共に一気にデレモードが加速する方が破壊力は大きいだろう。
そういう「アクセル」と「ブレーキ」のアップダウンも全然駄目である。それは、そのあとのイチャラブ展開でも如実に表れており、このライター氏は「バカカップルというのは変なヒロインを描けばいい」と思っているんではないだろうか。
そのシーン単体が悪いというつもりはないが、隣の部屋で聞こえるぐらいの大声を上げながら、奇声を上げて転がりまわっている愛姫というのは、正直たんなるキチガイにしか見えなかった。
コレの何処が悪いのかというと、そういうシーンを描くまでの盛り上がりと、あとのフォローがこのライターさんにはナッシングなのである。突然、愛姫の部屋から奇声が聞こえて、橙子と一緒に部屋に行ってみると、
愛姫がキチガイダンスを踊っており「オレの嫁がこんなキチガイ並みに可愛いわけがない!」みたいなことを主人公が言ってお終いである。僕は最初見たときは何かホラーシナリオの伏線じゃないかと思ったぐらいだぜ!
あまり別のライターの名前は挙げたくないが、こういう不手際を見るとJ・さいろー氏はやはり偉大だとは思う。彼もヒロインのデレデレ奇行はわりと書く方であるが、そこまでにちゃんと手順を踏んでいる。

ここらへんの違いがよくわかるのは「発情シーン」とか「エロしーん」の繋がりにおいてだ。こういうことを言うとJ・さいろー氏のやり方がいちばん正しいとは思わないと全くの正論を言う人がいるかもしれない。
しかし世の中には正論が通じない「例外的」な事態というのがあって、まさか日常シーンにおいて主人公のチンチンを触りまくっているヒロインを「何回も」しかも「ちんちん」を触っているシーン「だけ」を書きまくって、
処女喪失シーンに主人公が~♪」とか鼻歌を歌い出すみたいなテキストをみると、やはりJ・さいろー氏を見習えとつい言いたくなってしまうのだ。この二つの何が悪いのかというと、、
「ギャグエロしーん」と普通の「エロしーん」の分別が非常に適当というか、なにか下品な中学生の冗談をずっと聞かされているような調子でギャグエロを描いた上に、そのギャグっぽい雰囲気のままエロしーんに突入させるのが萎えなのだ。
愛姫がちんちんを触りまくる癖があるのは別に良い。それをギャグたまにで書くのも別に良い。しかし一応は真面目な「エロしーん」を前提とするなら、主人公はここでほんの少しはムラムラしたりドキドキするのが普通であろうが、
このライター氏はそのまま普通に愛姫と主人公の巫山戯た台詞を書いてそのままシーンを終わらせてしまうのだ。こういうシーンが腐るほどあり過ぎて、いざエロしーんに入っても、なんかギャグの雰囲気が抜けきれずちっともドキドキしない。
しかもそのエロシーンでも、先に挙げた鼻歌のようなくだらない冗談を何度も入れてくる。さらに、そういうギャグを入れたいがために「主人公の匂いを嗅いでいたらパンツがビショビショになった」とか、
なにか特殊陵辱ゲー(催眠とか触手とかみさくらとか)じゃないと出てこないような超常現象まで語ってしまうのだ。むろん、エロゲのエロしーんは基本的に現実のセックスから大いに逸脱はしているが、しかしそれにも基本的には限度がある。
「主人公がパンツを少し触っただけでビショビショになった」という「本来あり得ることを誇張して描く」のはいいとしても、「何も触っても刺激もしていないのにチンチンが射精した」みたいな描写はおるごうる氏でも描かないだろう。

このライター氏は「エロとその期待への高まり」の感情を書くのも下手だ、しかも、シナリオは一応最初のエチにフェラだけ済ませて、でも愛姫の身体を大切にしている主人公が本番になかなか踏め出せずにいる~、
みたいな展開で、誰が書いても初エッチ後のドキドキとか本番への期待とその逡巡みたいな感情をかけそうなものである。しかし、このライター氏はそういう状況を自ら用意しておきながら、相も変わらずチンチンを触りまくるシーンだけを描いて、
愛姫もやれ淫乱だとかそういうエロギャグネタで笑わそうとするだけで、告白後のお互いの微妙な距離の取り合いとか、お互いの感情とエッチな部分を知り合うことで生まれる新しい日常の関係性といったようなものを「描こうとはしている」が、
それを全てギャグエロと、短い発情シーンのすん止めといった連続性に欠けたブツ切りテキストで「情報」として提示するだけなので、ユーザーは寒い薄ら笑いで二人のイチャラブシーンを外から眺めることしかできない。
バカカップルとは何か?という議論は難しいところがあるが、少なくともそれは単に「バカなカップルをこいつらバカですぜw」と描くようなやり方ではないことは確かである。
イチャラブとは何か?という議論は難しいところがあるが、、少なくともそれは単に「イチャイチャしているところだけを描く」断片テキストを意味することではないのは確かである。
だけど、このシナリオをある意味で賞賛に値するかもしれない。それはおそらくライター氏本人がそういったシーンを書こうとすればするほど、僕らの大半はおそらくそれから遠ざかってしまう奇跡的なでにけり効果を見事に表現していよう。


ここまで読んで「あーそういう駄目なイチャラブシナリオってあるよね」と同意してくださった方には、お次の欠点もすぐさま予想できるだろう。そう、恣意的すぎる視点変更と主人公とヒロインのあまりにも突然な口調変化である。
僕は「ラブライド・イブ」や「クロハ」のキモ主人公ですら容認するどころか肯定する人間であるが、それは彼らが始めからキモ主人公として一貫しているからである。だが、この作品の清太郎くんは、正直料理がうまい以外の何の一貫性もなく、
最初はわりと大人しめで無口な印象の主人公であったが、愛姫ルートに入るとなんか江戸っ子ふうのべんらんめぇ口調になり、それが告白後にはマルセル氏以下のキモオタ風味発言を繰り返すのはどうだろうか?
もちろん、これは「恋人になって性格が変わった」のではなく、ときどきべらんめぇ口調に戻ったり、または無口主人公になったり、エロ周辺はキモオタになるだけであり、単に個々のシーンに合わせて恣意的に口調を変えているだけなのだ。
これは別に主人公が魅力的であるとかないとかそういう問題ではない。そうじゃなくって、ぶっちゃけ主人公が無口屁タレベッドヤクザであったとしても、それがある程度は一貫しているのならば、
僕らは無口屁タレ主人公に少しは感情移入して、そこからヒロインサイドが積極的に攻めてくるのもM気分で楽しんだり、内気なカップル同士の微笑ましいやりとりを楽しんだりすることが出来るだろう。その上で性格の変化もかけるわけだ。
しかし、こうも主人公の口調や性格がクルクル変わって、しかもその理由がメタ的にわかりや過ぎる場合(つまり、シリアスだとかギャグだとかエロしーんに応じて性格や口調を変えること)いっぺんに感情移入の機会は失われるだろう。
僕はよく「エロゲにはリアリズムは要らない」と言うことを口にする。しかしだからといってライター氏の恣意によって「全てが思い通りになる」というのは単なる勘違いである。いや、全てがライター氏の恣意によって決まるのは単なる事実だろう。
しかし以下の事実も忘れてはなるまい。ライター氏の「恣意」がユーザーにもあまりにも見えすぎて、その恣意が今までの物語内容から見て明らかにかけ離れたものだとわかると、ユーザーはライター氏の思い通りには動いてくれないということも。

そこらへんの最右翼の実例が耶央シナリオだ。僕はキャラ自体は声優さんも立ち絵もCGも含めて結構好きなキャラクターだとは告白しておくが、それであるが故にこのようなシナリオの体たらくには非常に残念だ。
トドメの一撃というのではないけど、この作品のそうしたダメな部分を象徴するところとして、耶央シナリオのラストについて少々ディスっておかなければならない。ただ、シナリオの内容については、ここではあまり語らない。
別にネタバレ云々ではなくて、僕のいちばん嫌いなタイプの「ダメな主人公がダメな妄想を勝手に思い込んで相手を傷つけた上に、俺はお前のためを思ってつらいことをやっているんだとか男泣きする」トーデンなお話ではあるが、
正直なところ、このライターさんはある種のパロディとしてこのクズシナリオを書いたと推測するのが妥当だろう。このシナリオのいちばん笑えるところは、兎に角なにもかにもが速すぎて滅茶苦茶になっているところだ。
アニメで言えば6話分の話を1話に纏めて最終回に持ち込んでいるようなモノであり、まず耶央と結ばれてゲーム内の日付でいえばだいたい四日程度、ユーザーの体感時間で言えばエチを三回ぐらいやって30分程度のところで、
「二人はずっと一緒にいようね」と神様に誓い合うのである。しかし……おおっ、ライター氏は旧約聖書のシニシズムを信じるリアリストなのかどうか、そこでいきなり「耶央を天才的な画伯が才能を認めて留学を……」みたいな話が出てきて、
不信者たる主人公はダイモンの偶像崇拝に負けたのか「耶央の将来のことを考えると……俺はっ」とやたらに「っ」を連発するようになる(エロゲの主人公が「……」と「っ」を連発するようになったら駄目シリアス展開の始まりだと言って良い)。

しかしここで再度耶央が登場し魅惑のロリボディとほのかボイスの説得によって、主人公は再び「二人はずっと一緒にいようね」と神様に誓い合う。先の誓約からその廃棄からまた再度の誓約まで時間にして10分も経っていない。
そのあとの展開については多言を要しないだろう。一言でいうなら前述のループを何回か繰り返すばかりだか、テキストの方は遥かに喜劇度を増していく。
僕がいちばん笑ったのは「まだ一回も耶央と面会していない画伯のマネージャー」が、主人公の方から口説き起こそうとして、まだ一回も耶央とあっていないのにも関わらず
「あなたみたいな子供に耶央の何がわかるというのよっ!子供じみた感情論は捨てなさいっ」とか言い放つところだろうか。まぁ確かにこれはある種の真実を伝えており、
子供じみた感情論はこの世の中では軽々と否定されるが、大人じみた感情論は理屈が合わなくてもトーデンやらオリンパスの犯罪者は逮捕されずに済むという無謬の真理なのである。そして、主人公がその大人の感情論を「っ」とか言って真に受けて、
そうだ恋人の俺よりもエライ大人のほうが耶央のことを一番よくわかっているんだメルトダウンはおきていないんだっ「だから!俺は耶央の将来のことを考えて、敢えて汚い役を引き受けるんだっ!」と実に男らしい無能っぷりを発揮し、
嗚呼、俺は恋人の為を思って自分を偽ってまで行動できるなんて凄いカッコイイ大人なんだろうと自己満足に浸りながら、耶央に対してちょっとこの僕でも口に出せないような暴言を吐きまくるわけだが、
しかしてこれまた2分程度のやりとりで「良いんだよ。キミが私のことを思って嘘をついているのはわかるんだから。そんな大人っぽくってカッコよくて優しいアナタがステキ!今すぐアナル調教してぇ~」とか耶央に言わせると、
待ってましたといわんばかりに「そうだよねー。俺って大人でカッコいいだけじゃなくって優しいんだよねー。流石俺の女、よくわかってるじゃん!俺の小便も飲めよぅ~」といったように主人公は号泣し、
「そうだ!俺は新の愛に目覚めたんだ」とクルリと改心して何回目かは忘れたが、再び神様に永遠の愛を誓うエンドは現代日本人の根本的な非倫理さを告発する社会諷刺劇となっており、
保守派の僕は断固たる口調でこれを非難せなばならないのであった。ったく、冗談は休み休み言えということである。このような偽善たるご都合主義的ヒューマニズムが我が国を腐らせていると言えよう言えよう。


しかしながら……ここまで長文を読んでくれた人で、僕の意見に納得する人でも反対する人も、衆目の一致するところは「……おまえ、このライターと相性が悪すぎるんじゃないの?」とうことかもしれない。
まぁ、この点については正直に告白しておいたほうが良いだろう。「相性が悪い」のではなくてたぶん「相性が無い」のだ。相性が悪いというのは、基本的にテキストを読んでいて「嫌悪感を感じる」ということであり、
上の耶央シナリオには多少の嫌悪感を感じたが、それはある程度は「一致している」ところがあるからこそ「ムカつく」なと言う感情が多少は浮かぶわけである(それだけじゃないことも多いけれど)。
しかし、それ以外のシナリオについては、端的に言って「つまらなかった」だけだ。いや、もっと正確に言えば「面白いと感じるところが殆ど」なくて、いつも「ここの部分はなんでこうするんだろう?」と、
別に自分の冷静さを誇示するつもりは全くないんだけど、比喩的に言えば本当に詰まらないお笑いコントをずっと見て「このギャグもすべっているなー。あのフリが悪いんだよ」とか至って冷静に眺めていたのである。
もちろん、こういうのを一般的には「相性が悪い」とか「センスが合わない」というのだろう。僕はそういう議論はあまり好まないが(そういう主観性は確実に存在するとしても、それは議論の対象にはなりにくいので、最後に語るべきだ)
確かにここまで「合わない」と感じたエロゲーは……えーっと、なんだっけなぁ。確か戯画の萌えゲーだったと思うがタイトルは忘れた以来であり、まぁ「根本的に合っていない」可能性は非常に高いと言えよう。。
しかし、だからといって上の批判を「感性が合っていない」というので誤魔化すつもりはないし、感性で議論するならそれはそれで一つ言えることがある。この作品のつまらなさは常に「一定」のレベルを超えない点が不気味なのだ。

サイトウケンジ氏や尾之上咲太氏や北川晴氏といった、超評判のライター氏の作品や、或いは萌えゲシナリオの多くは「つまらなさ」は、それ自体が不出来が激しいと言える。つまり、面白いシーンやシナリオもあれば、
普通に詰まらないシナリオもあれば、本当に酷いとしか言いようがないシナリオもある。そして、その理由は様々で、単に技術が足りないこともあるし、崇高な主張を訴えすぎるときもあるし、
なにか超前衛的なことをやろうと失敗しているときですらあるのだが、少なくとも彼らが「何かをやろうとして失敗している」のはわかるのである。それはそれで、まぁ点数は引くが、決して悪い気分だけが残るものではない。

しかしこの作品のつまらなさは、常に「一定」である。そして、あるレベルから外には一歩も出ようとしないと言う意味では安定している。上の長文批判を一言で言えば「全体の効果を考えずにアホドックなテキストを書き連ねるだけ」となるが、
これは、例えば保住氏やJ・さいろー氏や海原氏のあまり良くないシナリオに見られるような「勢いは良いんだけど全体的には散漫な部分が多すぎるよね」というようなシナリオではないことは確かである。そこまでの愛嬌すらないのだ。
「あ-、こういうシーンのあとには、ここが続くなぁ」という「展開が読める」ことはどんな萌えゲでも基本であっても、この作品の場合はそれが、
その先が読めるシーンが実際にくると、それが予想以上に「つまらなく」て、しかもそれが予想以上に「短すぎるぜ!」といった、お約束がより低いレベルで実現されるときのガッカリ感になるのである。
例えば、初エッチの後のピーロートーク描写はお約束であるが、このシーンはエッチ後に連続で語られるのではなく、いったんアイキャッチで場面転換した後、
夜のベットシーンに変わって、そこでマジで10クリック未満の台詞を交わしあって、またアイキャッチでしゅーりょーである。
つまり「ここにはこういうシーンがテンプレで必要ってことはわかっているから、めんどくせーけどテキトーに書いとけば文句は言われないでしょw」みたいなお仕事臭がいつもしているのだ。
こういうのは尾之上咲太氏や北川晴氏のテキストにもたまにはみられるものであるが、彼らの美徳はそこらへんの手抜きな感じが、時には「ああ、この手抜き感がいいよねぇ」って感じのB級エロゲを作り上げるところであるが、
このライター氏はそういう独特な手抜き感すらもなく、単にテンプレの義務として課されたシーンを事務的に毎回同じ調子の萌えテキストを生産しているだけなのである。
仕事をさぼる人間はまだ仕事に愛着があるが、仕事をさぼることを全く考えることすらしない人間は、単にその仕事の奴隷になっているだけで仕事への真の愛着をもっていない、と言う名言は確かに真理かもしれない。

今回はなんだか悪口しか書いていないので、よって、毒を食らわば皿までの調子でドンドン悪口を垂れ流したいとは思っているのであるが、しかしここ1~2年の萌えゲの新人級ライター氏の作品にはその傾向が強いのも事実。
思いつくまま名前を挙げれば、まぁ僕がレビューを書いている作品で言えば「ラブライド・イヴ」であり「Marguerite Sphere」であり「俺の彼女はヒトでなし」がこの作品よりもマシであるがその傾向に当て嵌まる。
ラブライドはヘンテコフラグな作品なので、ライター氏の罪ではないのかもしれないけど、こういう作品の特徴はまず「日常シーンは概ね短めに切り上げてアイキャッチを連発してシーンを繋げ」て
これは最初こそはテンポ良く感じて面白そうだと思うんだが、いざ中盤ぐらいまでやってくると「最初から最後まで同じようなテキストを連発する」するだけでだんだん飽きが来て、
しかしそこそこエロしーんの数は多くてオカズに使えるといった点だろうか。この前のどっかのエロゲ関係のブログ(名前は失念した)で「カミカゼ」が今年の萌えゲを代表する作品だとか大袈裟に持ち挙げられていて、
いや僕も基本的にそれに異議はないんだけれども、ある意味でカミカゼの「裏歴史」とも言えるのが、僕が先ほど名前を挙げた萌えゲたちであろうか。カミカゼの良いところを全てひっくり返すと上のような萌えゲになるのだろう。
まず「テンポの良い短めのテキスト」はそれが失敗に終わると、「テンポは良いが何も面白くないテキスト」を連続アイキャッチと共に見させられ、「魅力的なキャラのエッチっぽいところをドキドキさせるシーンを散りばめる」ことは、、
それが失敗すると小学生のちんこまんこテキストにしかならず、「少年漫画的なご都合主義」というカミカゼですら否定的に捉えられる部分も、失敗作では○○先生の転職にご期待下さいな糞シリアスにしかならないのだ。

尤も、これは、良くも悪くも「イチャラブ」ブームが残したものだとは言えるだろう。別にブームは「良いもの」も「悪いもの」も作るのだから、悪いことだけを論って○○ブームは害毒をまき散らしたと言うつもりは毛頭ないが、
もしかしたら僕が批判したライター氏たちが、そのような微妙シナリオを作ってしまうのも、自分に合わない「イチャラブ的」な作品をメーカーに求められたから、と言う理由は充分に考えられる。
確かに普通のライターに「イチャラブエロゲ」を書くのは難易度は高い。エロしーんを4回程度いれたうえに、あまり物語を複雑に動かさずに、ただ主人公とヒロインのやりとりをメインをだいたい500kも書くだなんて、
たぶんエロゲぐらいにしか求められない「シナリオ製作能力」だろう。しかもその上「やれテンポ良く」だとか「眠いのはイヤだ」だとか「最後の最後は盛り上げろ」だとかいろいろ注文が来るわけで、
いや、もちろん僕自身がそのような注文を書いている人間であるし、そのような注文をするのは別に間違いだとか言うつもりはないけど、それを全部満たそうと思ったら、そりゃ失敗作になる可能性は高い。
なんだか今さらフォローするようなことを書くのも偽善っぽいが、しかしこれは本当に真実の僕の感情として、このライターさんは単に「イチャラブ」エロゲを書くのに向いてなかっただけなんじゃないかとも思う。
アトリエかぐやだとか、スクイズあたりの「和姦ギャグエロゲ」なら結構イイ感じの作品をかけるかもしれない。ああいうジャンルなら短いエロコメのテキストをブツ切りにするのも、プラスに働く可能性がありそうだし,
エウあたりでこういう感じ「見ても見なくても良い日常テキスト」を量産してくれたら、イイ仕事しているじゃんとか評価されるかもしれない。


それに……いや、当たり前のことであるが、僕は別に文句を言う為や、昨今のエロゲ事情を今年を振り返ってするために、この作品を買ったわけではないのである。
いや、つまんない作品ってつまんないから、あれこれ考えてしまうことが多いじゃないですか、僕の場合1周目のみかもルートは「まぁハズレかな」と思って、
次の耶央あたりから「コイツはひょっとしたら……」と思い始めて、テキストをよぉく注視して愛姫ルートに入ったら何でこの作品が詰まらないかを考えながらみると、それなりに楽しかった始末である。
もちろん、僕のそういう態度に対して「お前は詰まらないと思っているから詰まらないと感じるんだ」とトートーロ自慰を言うのは結構正しくて、確かにリルケのセザンヌ論じゃないが、
どんな作品でも「対象を見るだけではなく、愛をもってみる」必要があるんであるが、しかし同じ論理で愛を持って見た結果「詰まらないと思ってしまった作品を」またさらに愛して見るのも難しいだろう。
もしあなたが拙いラーメン屋に入ってとして、「いや、しかし俺はその時体調が悪かったのではないか?」と自問自答したとしても、しかし再びそのラーメン屋可能性はゼロに近いわけだし。

だが、残る「まかこ」たんの描くヒロインに関しては、何としても「楽しく」やりたいものだとは思ったのだ。もうこの作品の評価はその時点で殆どカタがついたようなもので、
あとはなるべくこの作品を楽しむこと、それだけに僕の欲求は集中されたと言っても良い。もちろん、これは「作品の解釈を変えて楽しむようにする」というアホな解釈無限大論者の戯言ではない。
いや、ある意味ではそれは当たっていると言えようか。つまり、僕がそれからやったのは、ラーメンという食べ物を「ラーメンとはメンを全部残してタマゴとスープを飲む食品である」と言うように無理に解釈し、
エロゲにおける「メン」や「野菜」や「チャーシュー」といった存在を意図的にアウトオブ眼中するようなことをやったのだ。ヒロインの立ち絵の変化とボイスだけ聴いて、テキスト表示は一切無視する、
萌えオタ最大奥義であるところの「主人公とかテキストとかシナリオなんて全く見ないで、俺の目の前にはヒロインとボイスしか存在しないもんね!」を数年ぶりに炸裂させたのだから。

説明しよう。この奥義の基本的なやり方は、エロゲにおける「テキスト」や「BGM」を無視して、視線を下部ウインドウのテキスト覧に置くのではなく、常にヒロインの立ち絵に標準を合わせて、
ヒロインの立ち絵とボイスだけに意識を集中させる方法だ。具体的な手段としては、例えば椅子に座ってモニタを眺めている場合は、椅子の高さを調整するなり、モニターの位置を下げるナリして、
モニターに対する視線ががだいだい上半分あたりに自然に向かうように調整する。ヒロインの立ち絵の表情は普通に見えるが、ちょい意識的に頭を動かないと下部ウインドは見えない程度が丁度良い。
オートモードがMAXなら主人公テキストを瞬時にすっ飛ばす速度が設定でき、ヒロインテキストはそのボイス再生が終わるまで先に進まないという仕様を持っているなら、わりと簡単にその奥義を覚えることが出来るだろう。

「それじゃあ主人公との会話がよくわからないじゃん」と言うかもしれないが、馬鹿者、それがこの奥義の真の目的なのだっ! この奥義を真にマスターした人間ならば、この奥義が発動している最中ならば、
もう既に主人公という存在をそのエロゲから抹消することが可能になる。確かに主人公とヒロインの会話は、主人公のテキストがないと普通はよくわからないだろう。ここがこの奥義の難しいところだ。
「絶対にテキストを見てはいけない」し、できるなら「BGM」も切るべきなのだから、まず基本は背景絵とヒロインの台詞から状況を推測し「抹消した」主人公に相当する仮想の自我を構築する必要がある。
ここで重要なのはヒロインとのやりとりを「話が完璧に繋がるように」やる必要はないということである。例えば「トーデンさん、いま何をやっているんですか?」という台詞のあと、
仮想の自我が「いやぁ、エロ助の駄長文を書いていまして」とか妄想で語ったとしても「そうですか。昼間からビールを飲んでいるなんて最高ですね」とヒロインのボイスがきたときには、
常に「ヒロインの台詞」を自分の妄想自我に合わせるべきである。というか、妄想会話の内容が滅茶苦茶であろうと、ヒロインの立ち絵とボイスに此方側が話を合わせられば、ほぼその奥義は成功したと言って良い。
ああ、この奥義を発動したとしても、もちろんテキストは部分は普通に「クリック」しているので、クリック数には変わらないのでそこらへんはご心配なく。

さて、そんな萌えオタ最終奥義を発動させながらやったせいか、橙子シナリオと穂海シナリオはそこそこ楽しめたのではあった。まず、僕が上で批判したキャラの突然の性格変化とか口調変化は基本的なく、
「他ヒロインが全く登場しない」という難点も穂海シナリオでは割と改善されている。ライターが別人なのか、それとも上の三つはライターが手抜きしたのかはわからないけど、まぁこの二つはその点で普通の萌えゲれべるだ。
穂海シナリオはサブキャラの「たんぽぽ」を絡ませて、擬似的な夫婦描写をときどき入れたり、ちより先生とたんぽぽのガキ同士のバトルを日常描写でちょくちょく入れているおかげで、
他のシナリオに比べたら日常とイチャラブの描写に随分と立体感で生まれていて悪くはない。最後の超展開オチについても、たんぽぽと穂海のセット描写がそこまでにきちんと書かれているために、
他のシナリオに比べたらそれなりに説得力があっていい。hookの金髪ロング天使嫁キャラシナリオとしてはクレアほどにはいかないまでも、まぁ合格点だろう。全部がこのレベルなら、ここまで叩く必要はなかったんだけどなー。

橙子シナリオは、基本的に上で上げた批判が結構当て嵌まるシナリオではあるんだが、短めのシーンを繋げていくやり方も、他ヒロインが全く出てこない日常描写もそこまでマイナスにはなっていなかった。
橙子のラジオシーンを物語の中心にしたのがよかったのだろう。主人公と橙子が二人でラジオのための二人で下準備するような描写が、物語と日常シーンのあいだに心地よい連続感をもたらしていて、
シーンが結構ブツ切り気味ではあってもそんなに違和感は感じないのだ。橙子のおばかなキャラクターもラジオのイキイキしたトークと自然に繋がっていたし、告白後のナイショの付き合いにしても、
愛姫のようにギャグエロテキストを延々と読まされるよりは、愛い嫉妬シーンと我慢できずにときどき変なことを言ったりやったりする橙子を見ていたほうが、よほどに楽しくまたエッチに関しても盛り上がりがあっていい。
ただ、これは基本的には声優さんの勝利だろう。アグミオンはこの手の短いシーンを積み重ねるようなゲームだと、わざわざそのシーンの度にテンションを微妙に変えたりして、毎回ほんの少しずつ違った演技をする。
これがわりと「まったりゲー」のような作品だとたまに神経質に感じられたりするんだけど、この手の短いシーンがアイキャッチでブツ切りにされる作品だと、そういう演技傾向がテキストの退屈さを多少は軽減してくれる。
今回は基本的にそういうちょいアホ元気キャラだし、またラジオのトークでそのアホキャラから一応はパーソナリティボイスに変えながらも、ときどきその元気系ボイスの「素」が出るあたりが異常に可愛いく、
演技を聞いているだけで楽しいシナリオだった。ラストに関しても、例によって例の如く「やりすぎ」でモブキャラウゼーどころか普通に殺したくなったんですけど、
しかし一応は笑って済ませるお話を、橙子のような笑えば全てが解決するようなキャラクターでやったのはよかったと思う。


今回はエロしーんに関しては短めに少しだけ語っておく。というのも、正直に告白すると「みかも」と「愛姫」と「耶央」の三人は、上で批判したような部分が気になりすぎて、
キャラに萌えるとか感情移入をするどころではなかったので、エロシーンを見ても殆ど興奮せずスルー気味だったのである。別にCGは悪くないし、テキストも(愛姫以外)そんなに悪くはないと思うので、
声優さんが気に入ったなら結構エロイ部類には評価出来ると思うんだが、僕は自分で興奮しないものに関してはエロ評価をしない(一応データ評価はしたけどね)ので、この三人については他のレビュアーの諸氏をあたって下さい。
とはいっても「俺の部屋」と「本編のエロしーん」の関係は全部のメインヒロインに当て嵌まることではある。「俺の部屋」のエロしーんというのは、基本的にエロCGは本編の使い回しであるが、
一つだけ違うところがある。これはその中の「ループH(本番)」というエロしーんのことなのだが、何故かこのシーンだけ「主人公の台詞」が完全に排除された、ヒロインのボイスだけでなり立っているエロテキストなのである。
いや、一応はヒロインが主人公の名前を呼ぶので、一応は主人公とエッチしていることになっているんだけど、何か3Dエロゲのような「物語の主人公がせずモニタの前のあなた」とセックスしているようなエロテキストになっていて、これは今回かなり役に立った。
というのは、シナリオが気になるというのは、極論を言えばその「テキストのミクロな連なり」が何か「合わない」ということになるのだが、ヒロインテキストだけでCGとそのヒロインのボイスオンリーならば、
少なくともその間だけは「そのヒロインのシナリオの微妙さ」は忘れることが出来て、ヒロインとエロだけに集中できるからだ。少なくともこっちのほうがPITよりも100倍ぐらいは革命的なシステムであろう。
(まぁ、一応したで真面目なことを書いた手前、真面目に語っておくならば、コレも単なるオマケの一種でしかないことはいうまでもない。けど、こういう特殊な形式のエロテキストとエロしーんは確かに紙芝居ゲーでは珍しい)

本編のエロシーンは、前述したように僕は橙子と穂海しか評価出来ないんであるが、穂海がまぁまぁで橙子が結構イイ感じと言った評価である。穂海はほんの少しだけこのライター氏の悪い癖が出ていて、
いや、ヘンテコなキャラ変化はないのであるけど、物語のなかでわりと主人公と一緒に寝たり、誰もいない屋上で二人で寝ているような微笑ましいシーンがあって、それはそれで良いんだけど、
そういうまったりな雰囲気とエロシーンを上手く繋げられないのである。最初のエチとか、或いは三回目のエチのように、何か突発的なイベントを起こしてエロシーンを入れるようなことが結構多い。
問題なのはそういうエロシーンの導入と、穂海のエロしーん自体のテキストが、これまた微妙に合ってはいない点だ。穂海の性格からして全体的にはわりと大人しいエロしーんで、
あまり下品にならないところはキャラと合ってはいるんだけど、こういうエロシーンだったらもっとまったりとしたシーンから繋げてやったほうが雰囲気が出るんだけどなぁ。
我慢して押し倒してしまう、みたいな感じでエッチをしているわりには、そのエッチの内容が大人しすぎるのがいまいち盛り上がらなかった原因かもしれない。まぁ「俺の部屋」のほうは結構よかったけど。
橙子はその点に関しては結構上手くいっていたとは思う。アホっぽい元気っこで、そのくせ割と甘えん坊で、だけど他の人たちにカップルだと疑われるのは不味い、といった本編のシチュが、
アグミオンお得意のヒロインの悶々ボイスを上手く引き出して、エロシーンではキスシーンからフェラシーンに至るまで我慢していた欲情がもの凄くエロイ溜息となってユーザーの耳をフルボッキさせるわけだ。
しかしこういうある程度は好きになったヒロインのボイスで、先に説明した「主人公テキスト抜きのエロボイスオンリー」エロしーんを体験すると、本当に自分だけがヒロインを独占したような気分になってなんか凄いです。
洒落抜きでPITなんてどーでもいいから、この「俺の部屋」のエロボイスオンリーのエロしーんだけは、別に一回だけオマケでやるくらいでいいから、次回作にも残してくれないかなぁと希望。




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(※1)

さて、TPPが以下にして我が国に不利益しか与えないつーか、その前に日銀とデフレと円高どうかにしる!……って、すんません。PITが別に新しくもないし、こんなの進化が云々みたいなことには殆どならないよって話の続き。
何故そうなのかといえば、まずはPITの新しさを云々を主張するムキの人に対して簡単に説明すると、
これは今までのエロゲの詳細な「用語説明システム」をたんに「モブキャラの呟き」に変えた程度である、とは言っておこう。用語説明システムとは、最近だと某「すばらしいっ」メーカーの作品だとか、
SLGだとかゲーム性の強い作品に存在するものだ。基本的には「作中テキスとは別のところにおかれて」おり「作中テキストの物語を理解するうえでは特に必要のない細かい情報」が載っており、
いわば「その作品の世界観の設定なりその世界のディテールなりを詳細に描写した」ものであって、言わば「その作品をよりよく奥深く理解するための」テキストだったり、単なる駄文集だったりするものである。
ここまで説明すれば、なんでコレがこれ以上に進化不可能なのかわかると思うけど、その理由を詳細に語ると、まず結論から言えばこれは第一に「本編を補佐するオマケ以上にはなりえず」、
第二にそのオマケとしての機能も「基本的にはSLGやRPGといったゲーム性の強い作品や、紙芝居の場合は何らかのシリーズのもの」においてのみメリットして働く可能性が高いと言うことである。

第一の「本編を補佐するオマケ以上にはなりえない」というのは、そのまんまの話なのでこれをこれ以上に語るのはむずかしい話であるが、まぁ端的に言って
「読まなくても読んでも良いけど、読んだらちょっとはおもしろいかもよ」というのは「本編を超消極的に補佐する」ものでしかなく、だからオマケということになるのである。
もちろん、ここで「そういうオマケの断片的な情報の積み重なりが一つの世界観を作り上げるのだ」という議論が予想されるわけだが、それは前述の第二の命題で既に答えられている。
「そういうオマケの断片的な情報」を本編の物語と上手く融合し合うような形で「一つの世界観を作り上げる」のに適した形式は、SLGだとかシリーズモノの紙芝居に今のところ限られているわけだ。
まぁ別にSLGでもRPGでもSTGでも基本的にはゲームの強い作品ならなんでもいいのだが、これと「用語説明」がマッチするのは、まずその手の作品の多くが、そのゲーム性故に、
直線的なテキスト描写よりも選択分岐的なテキスト描写を要請するところが多いからである。直線的なテキスト描写というのは要は小説とか紙芝居ゲーのように「テキストがずっと続いていく」というもので、
選択分岐的なテキスト描写というのは、例えばRPGなら直接メイン物語には関係ない町の人に話しかけたり、SLGなら「内政」システムにおける行動選択とその描写とか、「調教」システムのそれらといったように、
ユーザーが各種描写や行動や情報の取得を「選択的に」行うことである。SLGやRPGにおいてはその種の選択分岐的なテキスト描写が大半以上を占めるので「用語説明システム」もその中に綺麗に収まるわけだ。

第二における、紙芝居ゲーでも「シリーズモノ」(これはいろいろな解釈があるが、ここでは同一世界観なり世界設定をわりと共有する作品のことを指す)ならそれが有効に機能するのは、上のSLG云々と少々に似たところがあるといえる。
選択分岐的なテキスト描写によって作品世界を作り上げる「ゲーム性の強い作品」は、それぞれの異なるレベルのシステムの行動選択と描写テキスト(SLGならバトルシーンと内政と調教と会話と用語説明とかいろいろ)の、
積み重なりによって一つの世界を作り上げていると言うべきだろう。シリーズモノの場合は、それがその作品の物語レベルと、そのシリーズが属する「久弥はどこにいった逃亡サーガー」みたいな大きな物語といった、
「二つのレベルのテキスト描写の積み重なり」に変わるというわけである。シリーズモノの作品で毎回議論になるのは、それが「その作品だけやっても楽しい」か「今までのシリーズをやってなきゃつまらんか」というものであるが、
これにはこう答えるのが正確だといえるだろう。つまり「その作品単体として楽しむならばその作品だけでもOKである」が「何とかサーガーを構成する一部として読むには今までのを読まなきゃ駄目」ということである。
そして、そうした作品ではその「用語説明」が「何とかサーガー」の方に属するテキスト描写の一つとなる。そのやり方は色々あるだろうが、基本的には「何とかサーガー」をやっていない人のための多少の補足であったり、
あるいは「用語説明」のレベルで、その作品自体の物語には全く関係ないが、その作品が属する何とかサーガーの登場人物はその時ナニをしていたみたいな「何とかサーガーファンがにやりとするような」ことを書いたりするわけだ。
一言で言えば、この種の作品はその何とかサーガーファンであれ、或いはそれを全く知らない人であれ、多かれ少なかれ「一つの作品のなかに同居する二つの異なったレベルのテキスト」を意識してそれを理解したいと思うので、
「用語説明」や「読んでも読まなくても良いオマケテキスト」が「何とかサーガー」のレベルのテキストに対して有効に働く可能性が高いということになる。

しかし、そうなれば「別にシリーズモノじゃなくっても、一つの作品のなかに違うレベルのテキストが同居する紙芝居ゲーがあってもいいじゃないか!」ということを言うような人もいるだろう。
これには二つのレベルの問題がある。一つは上にも書いたように、また下にも続ける予定であるが、これは今までのエロゲとか今のエロゲの基本的枠組みを議論すれば、ある程度はカタがつく技術的問題である。
そして、もう一つには、第一のレベルで議論がついたとしても「でも、もっと違う可能性だってあるじゃないか」とか「お前は神様じゃないんだからなんでそこまでいいきれるんだよ!」といった議論のレベルである。
僕に言わせれば、第二の議論は第二の議論として確かに存在するものの、それを言っても仕方がないというか、別に「あらゆる可能性」やら「神様」の存在を認めたとしても「それだからどうした的ナンセンス」にしかならず、
むしろ、そういう「あらゆる可能性」やら「神様」といったもの「だけ」を矢鱈に吠え立てる人間こそが、その「あらゆる可能性」の具体的実現を潰し、自分を神様のように見立てて「可能性を否定するヤツを否定する」だけだと思うが、
まぁ第二の問題については下でもっと議論しよう。まずは第一の問題のレベルから片付けてみよう。

しかし、ここから先はわりと面倒で結構抽象的な問題になるので、まずは簡単な答えから言っておいて、以下にその方程式を記述するというスタイルを取ろう。後者を理解するためにはほんの少しだけ注意と思考を働かせて欲しい。
まず簡単な答えから言えば「紙芝居ゲーのゲーム性は、基本的に一つのも物語のレベルのテキストしか語れないので、違うレベルのテキストの同居は一つの本テキストに対する補佐的なオマケレベルの効果しか持たない」ということになる。
さて、ここで問題になるのが「紙芝居ゲーのゲーム性が、一つのレベルしか語れない」とは「具体的に言えばどういうことか?」ということであろう。それは紙芝居エロゲにおいて、A~Eのキャラのルートのテキストが
複数ぞんざいするということと、何が違うのだろうか? まず、その答えから明確にしておくと、A~Eのキャラルートの存在はその○○という作品における「ひとつのレベルの物語テキストの総合」である。
原理的に言えば、それは何個も分岐を増やしてもループをさせても仏蘭西少女してもそれが「一つのレベルの物語テキスト」であることには変わらず、その物語内容が変わるだけだと言える(普通の人はそうは思わないだろうが)。
これは、例えばこの作品ならPITのモブキャラたちの呟きを、まずPITを廃止して、そのモブキャラ達の台詞を全部生かすような「モブキャラハーレムルート」を作ったと仮定すればわかりやすい。
PITに収められたテキストはそこに全部生いかされいたとしても、その「モブキャラハーレムルート」と「PITのBBSの呟き」は基本的に別レベルだとは感じるはずだ。
そのような「モブキャラハーレムルート」はあくまでこの作品の「物語レベル」に属していると思われ、しかしPITのBBSはあくまでこの作品の「用語解説的なオマケ」に属していると思われるだろう。違いはそこである。

次に、関連するようなことを言えば、このPITは昔懐かしの、或いはやったことがないけどなんかスゲぇイイらしいゲーム性であるところの「ザッピング」だと思える人もいるかもしれない。
これも答えを言うのは簡単だか、説明はなかなか困難な問題である。まず答えから言えば「ザッピングはザッピングであるが、それは単にアナタがエロゲをやりながらツイッターを見るのと同じ効果しかない」ということだ。
これも結構勘違いしている人が多いが、まず「ザッピング」と「ザッピング的ゲーム性」というのは基本的に違う。まずWIKIを参照していただければ、この二つの微妙な違いがよくわかるだろう。引用すると、

>>ザッピング(Zapping)とは、テレビ視聴において、リモコンでチャンネルを頻繁に切り替えながら視聴する行為のことである。

元来の意味は、

背嚢(Zap)を背負って気ままに山や森をぶらぶら歩くこと。産業革命後のヨーロッパでは、工業化した都市生活は不自然と考えられ、休日は自然と一体化し、リフレッシュしようとした。
ここから転じて、チャンネルを替えながら、あちこちの番組を視聴する行為を指すようになった。 チャンネルを替えるとき、放送していないチャンネルでは「ザー」という音がする。
頻繁にチャンネルを替えると、「ザッ、ザッ」と音がするので、ここからザッピングという言葉ができたとも言われている。

ザッピングが発展した視聴行動にフリッピング(Flipping)がある。これは、ザッピングしながら2つのチャンネルの番組を並行視聴する行動である。

転じて、コンピュータゲームでは複数のキャラクターを切り替えながら行動するシステムのことを言う。


ということになるが、まぁ元の意味とか由来とかは別にどうでも良いとしても、ここで重要なのは本来の意味であるところの「テレビのチャンネルを頻繁に変える」という行為は、それは視聴者がTVに対して行う行為であって、
「テレビ番組」それ自体にはザッピングの機能はないと言うことである。いや、もちろん「ザッピングをされまいと意識して」いることは確かかもしれないが、テレビ番組は常に一応はまぁその番組を最後まで見るように要求している。
しかしエロゲにおける「ザッピング(システム)」というのは、そのエロゲ自体に基本的にそのようなゲーム性が存在していると言うことだ。まぁこの「ザッピング」という言葉は随分乱用されており、
中には単に直線的テキスト記述において「登場人物の視点が変わること」をザッピングとか言う人もいるが、これはTVにおいてカメラワークが切り替わったことをザッピングというのと同じような間違いである。
さて、ではそのような「ザッピング的ゲーム性」とは何か。それは「街」であり「YU-NO」であると言ったところで大半以上の人はそれをやろうともしないので、ここで説明しておくと、
まずエロゲがTVのようなザッピングが可能かどうかを考えてみよう。その答えは「それは可能であるけど……別にやりたいとは思わない」と言った感じの答えになるだろう。それは単に、
PC上に何本かのエロゲのアプリケーションを同時に立ち上げて、その何本かのエロゲをTVのチャンネルを変えるようにザッピングすればいいだけである。これと同じ論理で、同じエロゲの違うルートをザッピングすることも可能だ。
仮想PCやらを何本か立ち上げれば、同じアプリを同一モニタ上に表示させることは(やったことがないけど)たぶん可能だろう。そこで同じエロゲの違うルートをザッピングすればTVと同じザッピング行為にはなるわけである。

「ザッピング的ゲーム性」あるいは「ザッピングシステム」というのは、上のややナンセンス気味なTV的ザッピングとは「全く違う」と言って良い。例えば「街」という作品においては、
確かに複数の登場人物の視点の物語をユーザーが「いつも自由に」変えることが出来る。それはそのまま、A視点をやっている時に、B視点の物語に変えることができるわけだ。しかしここの部分だけではゲーム性はないだろう。
A~Zまでの視点があるとして、その視点を「何時でも自由に変えることが出来る」というだけでは、それを変えようが変えまいがA~Zまでの物語内容は変わらず、積極的に「視点を変更する」意味はあまりない。
故に(かどうかは製作者の意図は知らんが)「街」という作品はA~Zの各視点の選択肢が、別のA~Zの視点の物語に影響をあたえ、それを繰り返していくというようなゲーム性を導入する。

具体的に言うと、マルセル氏視点の物語があり、その視点をチョイスして物語が始まると、相も変わらず今日は仕事をどんな理由でサボろうかと考えあぐねたマルセル氏がサイトウケンジ氏に刺殺されてジ・エンドを迎える。
因みに以上の物語には選択肢もでず、そのマルセル視点の物語を何回やってもマルセル氏の運命は変わらない。マルセル氏の運命も変えるためには、別の視点であるトノイケダイスケ視点にザッピングしなければならないのだ。
相も変わらず今日はどんなネトゲのキャラを育てる仕事をしようかと頭を悩ませるトノイケダイスケであるが、しかし彼の脳裏にも1ミリぐらいの罪悪感はあって「ネトゲをやる」と「仕事をするフリをする」の選択肢がでて、
ここで「仕事をするフリをする」を選択すれば、マルセル氏はサイトウケンジ氏の魔の手から逃れることが出来る。もちろん、そのトノ視点の物語もそのまま行ったらそのままマヨイガエンドが確実であり、
トノをマヨイガから救い出すには「遠野そよぎ」視点の選択肢において「鼻毛のエロスについてブログで書かない」という選択肢をチョイスさせる必要があるわけだが……まぁこの物語の詳しい進展と内容については、
2058年19月-26秒にはむはむソフトから発売される「でにけり2」を楽しみに待って欲しいけれども、総括するならば、この街という作品は「各視点の選択肢によって別の視点の物語をバットエンドから救い出し進行させる」
というゲーム性によって、まず複数の視点を頻繁にチェンジさせることを強制的に要求し、そして、その複数の視点の選択肢の変更から生まれる「因果関係」をお話に組み、ユーザー自らがそれを前述のゲーム性によって実現追体験させることで、
「単なる複数の視点の物語」を個別に読んでいく以上に、ユーザー自らがその「複数の物語の複数の視点」が混じり合う「街」という世界いう作品の物語を能動的につくりだしていくというわけだ。これを構築的ザッピング性と定義しよう。

もちろん「街」がザッピングゲームの代表ではないし、他にも似たようなシステムを使った似たような作品は沢山ある。ただ、大まかに言えることは、エロゲーや別にノベルゲーでも美少女ゲームでもなんでも良いが、
そこで「ザッピングシステム」と呼ばれるものは、その大半がこのような「構築的ザッピング性」を持つということである。如かして、このPITのBBSはどうだろうか。わざわざ議論する必要もないと思うが、
このBBSが本編の物語に何の影響もない限り、それがいくら「自動更新されて」それが本編の物語と同時に進んでいると言うことが「なんかザッピングっぽいぞ」と言うような「同時進行感」をもたらそうと、
それはぜんぶ気分的なもので、先にも言ったように「オマケの用語解説」以上のものは持たない。まして、それが進化して、別窓に表示できるようになったり、そのBBSの内容がヒロイン同士のツイッターやらSNSに変わったところで、
それが「オマケの用語解説」以上になることは非常に可能性が低い。何度も言うように、それが能動的なザッピング性をもつ何らかのゲーム性を持たない限り、それは本編のオマケ以上にはなりえず、
最悪な結果としてはこのPITを肯定している人が述べるように「オマケの方が本編よりも楽しければ」単にオマケが本編になるだけのことである。ビックリマンチョコとそのカードの関係と同じように、

なるほど、こういうのは確かに革命的な気分だけをもたらすかもしれないが、まぁ保守主義者の立場から毒を吐かせてもらうならば、これだから頭の悪い左巻きの進歩連中は糞ったれなのである。
ロシアの皇帝が倒れてそれがスターリン閣下になったところで、いったい何が変わったのだというのだろう。ビックリマンチョコとそのカードの関係は、なるほど社会学的に見れば興味深い現象かもしれないが、
ビックリマンチョコとそのカードの作り手と消費者からしてみれば、たんに作り手と消費者の価値観が異なっているだけで、それはカードだけを販売するなりにすれば普通に解決する問題であり、別にどうでも良い問題だ。
もちろん、そういうエロゲにおける「本編」と「オマケ」の逆転という事態(別にこんなのは珍しくもないと思うが)をエロゲ社会学に云々するのも良いだろう。しかし、それはあくまで作品の「価値」には直接つながらない。
ケータイ小説の現代社会的な意味を論じるのはまことに興味深いものであったとしても、それは凶悪殺人事件に社会学的考察価値があったとしても、凶悪殺人事件そのものにはネガティブな価値しかないのと同じことだ。
ウィトゲンシュタインはその著書において、左手から右手にお金を移しただけで「俺は金融取引をした」と言っている男について語ったが、上のような「兎に角既存のものを壊すのはイイ」と言う人はその男と少し似ている。
こういう「ちょっと新しいのが出て、オマケが本編になるのってスゲー」というのは、逆向きの権威主義者でしかない。それはたんに「本編」が重要で「オマケ」がサブという認識があるから、その逆転が面白いだけで、
もしもそれが逆転した場合には、その面白さは単に消滅するだけである。こういうのは「権威」に依存するかたちの最悪の「前衛」といえて、権威を否定する形でしか開放感を得られない単なる暴走族の一種でしかないのだ。


さて、このように「新しいと言われているものも、そんなに新しくないし、今のところ何か飛躍的に良いものを産み出す可能性は低い」といった「可能性の蓋然における現実的証拠」を議論すると、
「でも無限の可能性があるんだから、もしかしたら何か新しくて良いものが産まれるかもしれないじゃないか!可能性を否定するな!」と必ず答える人がいる。ここから、上に書いた「第二のレベルの問題」にはいろう。
まずこのような議論は可能性の蓋然性における現実性」に関する議論を「可能性をそれ自体を否定している」ことにすり替えているのは言うまでもないだろう。強いて言えば、
「高いところからアイ・キャン・フライと魔法を唱えて笑顔で飛び降りれば背中から翼が生えて空が飛べるようになる」とを真剣に主張している人に対し「いや、そんなことを言っても俺たちには翼がないから死ぬだけだ」と真面目に返したら、
「お前は人間の無限の可能性を否定するのか」とか「人間のソラを飛びたいという欲望が飛行機を産みだした事実を忘れている」だとか「核燃料サイクルの可能性自体を否定するなよ」と返ってくるようなものであり、
あくまで一般常識をぜんていとするのであれば、この時点で既に議論は終わっていると言っても良いのだが、まぁこのような屁理屈を支えているものは何か?というところまで議論を進めてみよう。

このような上のレトリックを言う人の真に問題なのは、自分自身が深刻な矛盾を抱えた発言を行っていることに無自覚なのは別にイイとしても、しかしその帰結として沈黙か暴走族的咆哮の二つに向かうしかないということを忘れていることだ。
彼の矛盾とは何か。「もしも何らかの可能性を否定することがいけないこと」だとするならば、どうして僕が言っている「失敗する可能性」という可能性をアナタは否定することが出来るのだろうか。
「無限の可能性があって、それを否定するのは良くない」ということは、それが失敗する可能性であっても、それが成功する可能性であっても、それが何も起こさない可能性であっても、あらゆる可能性の発言を認めると言うことであろう。
なるほど、アナタはここで「いや、だからお前が失敗する可能性だけを議論しているのがいけないんだよ」と言うことが出来る。まぁ僕は単に「失敗する可能性が高い」ぐらいしか言っていないわけだが、
こういうのはどうとでも「実は本音は上から目線でそう決めつけている」だとか下からヤクザ目線で因縁つけられるもので、仮に僕が「絶対に失敗する」と言ったと仮定してもいいだろう。ことの真の問題はそこにはないからだ。

すると、彼の論理をそのまま展開するならば「なんであれ、あらゆる可能性は無限大なのだから、ある対象について絶対的な発言や判断を下す人間は絶対的に批判しなければならない」ということになるだろう。
つまり「僕のPITが絶対に進化が失敗する」という主張を批判すると同時に、別の「PITが絶対に成功する」という主張も批判しなければならないわけだが、これは絶対無理だろう。
どうせ「絶対」を上手いこと解釈してお手盛りを加えるだけだ。肯定論者は「相対的な視点で冷静に議論している」が否定論者は「絶対的で感情的な議論だからよくない」というケノーシス主義を持ち出すだけだろう。
むろん、このような「自己放棄主義」は最悪の「傲慢主義」でしかない。何故なら、相手が「冷静じゃない」だとか「絶対的」だとか「感情的」というだけで非難するのは、大抵は自分の「感情」を「絶対的」に語っているに過ぎないからである。
もしも、その発言者が充分に冷静で感情的ではなく相対的な視点を「健全」に持っているとしたならば、相手の感情や思想や態度を気にせずに、相手の言っている間違っていることだけを指摘すればイイだけである。
しかし、もし仮に、万が一にもそういった「公平な批判」が可能だと仮定してもいい。そして、その論理的帰結こそが「無限の可能性を否定するな」という、
いっけんリベラルでラディカルで革命的にみえる(と思っている人は結構多いのである)この主張に隠されている最低最悪の保守主義を明らかにするだろう。
この「絶対的な主張はあらゆる可能性を否定するから批判されるべきだ!」という命題は、恐るべきアイロニーを経て「ある可能性を絶対に実現すること」や「ある可能性を絶対に実現させないこと」
つまりは、何らかの現実的な行動に向けて動き出すことを抑制させることに繋がってしまうのだ。可能性を肯定する為の議論が、可能性を実現させる何らかの有効的な主張や行動を頓挫させてしまうのである。

断っておくと、「ある可能性を絶対に実現させないこと」というのは別にネガティブなことでは全然なくて、たとえば「原発事故や人類の大量殺戮」も、なるほど可能性としてはそれなりにあり得る出来事であるが、
それを「絶対に実現させないこと!」を目標とする人間がネガティブに批判されることは少ないだろう「俺は○○実現させる!」と「俺は××の否定という○○を実現させる!}は同じ意味であり、レトリックの好き嫌いしかない)。
そして、そのような「ある可能性を絶対に実現させたり阻止させたりする」ような発言自体を(むろん、その方法の是非に関する議論はあるが)否定するようになると、それは人間にとって重要な行動を著しく抑制するだろう。
「私はあなたを絶対には愛しておらず70%ぐらいは好きだ」とか「この作品はたぶん73点ぐらいにしかならない」とか「この世には絶対的な価値は何もないかもしれず、僕のこの発言も無意味だから死のう」だとか、
こういった台詞や行動を各自が自分の周辺で言うなら、それはまぁ勝手にやればいいのであり、僕もええ加減に生きているので別に否定はしないけれども、
しかし「私はあなたを愛している」だとか「俺の作る作品は100点を絶対に目指す」とか、「この世には絶対的な価値があるからこそ、私は生きている」と言ったような人に対して、
まぁ僕みたいな糞オタクがやっかみ半分にけっwとか言うぐらいなら別にイイとしても、彼らに対して、「あなたの絶対的な主張はあらゆる可能性を否定し抑圧するから批判されるべきだ!」と、
マジに言う人が世の中の大多数だとしたら、僕は確かにこの世から確実におさらばする可能性は非常に高いといえるだろう。アイロニーや僻み妬みや嫌味や悪意ですらも、何らかの絶対性を必要とするのだから。

また単なる実現可能性を道具主義的に考えても「無限の可能性の為に絶対的な主張を批判する」という主張は、その無限の可能性とやらを肯定的に見る(論理的には変な話だが)としても有害的なところが多すぎる。
現実的に見て何らかの可能性を実現したり、何らかの可能性を根絶したりする(貧困とか虐殺とか)人間というのは、なるほど彼は時として独善的になる可能性があるかもしれないが、
しかし彼は基本的に自分の目指す可能性を絶対的に信じているからこそ、彼らの行動が上手くいく可能性が高いわけである。なるほど、アイロニーを言うならば、確かにヒトラーや毛沢東が「成功」したのもそれが原因だ。
そこから「絶対的な可能性を主張する連中は独善に陥りやすい」ということはかなりの確実性を持って証明できるが、しかし残念なことにヒトラーや毛沢東の「成功」自体の原因をそれで取り除くことはできない。
「絶対的な可能性を主張する人間は批判したり排除する」というのはつまり、その可能性を実現させる人間を排除するということにほかならず、これは一種の単なる現状主義を意味しているといっても大げさではあるまい。
なるほど、それでヒトラーや毛沢東の復活を一時的的に阻止することが出来るかもしれないが、それはたんに後釜に円高デフレ増税番長野田総理やトーデンやオリンパスの犯罪者社長を置くだけであり、それが結局はヒトラーをよぶ。
さらに言えば、まともな現状主義者の名誉のために断っておけば、そのような絶対的な可能性を主張する人間を排除すると、現状を維持するという可能性すらも実現できないだろう。単に物事に流されてなぁなぁで終わるだけである。

もちろん「いや、無限の可能性を否定するな!っていうのはもっと違う意味があるんだよ」とか「無限の可能性を否定するなっていうのは、別の選択肢を示唆しているだけで」といったような反論もあるかもしれない。
これはあるレベルでは正しいだろう。単にそういうレトリックがふいに出てしまっただけなのかもしれないし、あまりにも強情で頑固で理屈馬鹿なマルセル氏に対して、ふとそういいたくなっただけなら、気持ちはわかる。
言うまでもないと思うけど、僕は「無限の可能性」に関するあらゆるレトリックを否定したり、価値がない、と言っているわけではない。たんに、ある可能性について議論をしているときに、
「無限の可能性」という言葉をなんの考えもなく使って、まぁそれ自体は感情の発露としては別にどうでもいいとしても、その無限の可能性という命題によって、ある可能性を否定したり肯定したりするのはナンセンスだと言いたいだけである。
ただ、別に僕はフロイト主義者ではないから、人の「無意識」だとか「内心」をやたらにほじろうとは思わないが、しかし、多少は注意しておいたほうがいいだろう。なんで、ある可能性についての現実的な蓋然性を巡る議論に対して、
「物事には無限の可能性があるんだかほかの可能性も否定するな!」とつい口に出していってしまう人が多いのか。どうして、その「可能性自体は無限である」と、それ自体は冷静に考えれば空虚でしかない言葉がすぐに出る癖に、
俺は「その可能性を欲望している」といったような、その可能性に対する執着や、その可能性の具体的な実現可能性や、或いはその可能性の今までの失敗の歴史を、今度はそれを改善するために語ろうとしないのか。
「無限の可能性がある」だとか「成功する可能性はゼロパーセントじゃない」とかいって、その可能性の現実的な蓋然性の議論を経ずに、一種のロマン主義的な掛け声を唱えるだけでお茶を濁そうとするのか。
さらに言えば、相手の期待する可能性については具体的根拠を挙げず「夢物語だ」と批判する癖に、自分の期待する可能性については「人類の進歩の為にもその無限の可能性を実現しなくては」と実現可能性をスルーするのは何故か。

むろん、これにもいろいろな理由があるだろう。単に時間がなくてテキトーな返事しかできないとか、なんとなくテキトーな反論をしたかったとか、うまい言葉が見つからなかったこととか。そういう可能性はあるにはあるが、
僕が見るところでは、そういう人の多くは「可能性の夢を見ること」だけが大事で、心のそこでは「新しいシステムができる」なんてこれっぽっちも考えておらず、もしもほんの少しそれを考えたら夢が破れるとわかっているので、
たんに「無限の可能性」だけを言い続けるだけなんじゃないのか。もちろん、ここで僕は「理想論はよくない」なんてことは言っていない。理想論は理想論で人間にとっては重要なことだとは思うし、
理想論を言い続けるような人は、自分の脳内現実を現実だとか言って押し付ける原発オヤジに比べれば遥かにましなのだが、「無限の可能性を否定するな!」といっているような人は、理想論を語ることはすきでも(これはいいのだが)、
理想論を実現するような何らかの行動や、その理想論に対する現実的な議論を非常に嫌がっていると思うのだ。だからこそ「永遠に絶対に実現されない理想論」として「無限の可能性」というやつを掲げているのではないだろうか。
その理想論がなんであれ、その理想が実現したり実現しなかったり、或いは実現中であったりその目処すらも立っていなかったり、いろいろな状態があるにしても、少なくとも何らかの理想論を持ってそれを実行する限りにおいては、
その自分の理想と現実の状態の違いを(それを正しく認識できるかは兎も角)見せつけられるだろう。別に僕はそれを知らない人間が「青い」とか「幼い」とか言うつもりは全くない。ただ、一つだけ事実を言えば、
「無限の可能性」ということそれ自体を理想にするならば、少なくともこの「理想と現実の違い」を直視せずに済むと言うことは知っておいたほうが良いと思われる。だからこそ「エロゲー」という場所において、
「無限の可能性」だけがいつも新しく叫ばれ続るのかもしれない。エロゲーという場所は単に現実逃避だけではなく、エロゲーの現実を改善する真の現実逃避からも、可能性の現実性からも逃避する最高のユートピアなのだろうか。

じゃあ「無限の可能性を否定するな」という言葉が「なんらかの可能性を肯定したり否定したり」するときには基本的にダメだとして、しかし似たような言葉というか、
まぁ「絶対にこれは覆らないと主張する人間」に対して、何か適当な言葉が必要なとき、何を言えばいいのだろうか。まず基本的には「絶対にこれは覆らない」といったような言説に対して、
現実的に理屈をもって批判する必要があるわけだが、それはそれで正論だとしても、すべての人間が急にそれをやることはできないし、時には相手に一発啖呵を決めなきゃいけないこともあるだろう。
それならば、僕は単にこういえばいいと思うのだ。自分に対しても、時には、相手に対しても、こういってやればいい。

「俺の無限の欲望をお前は絶対に諦めさせることはできない」と。
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