OYOYOさんの「君と彼女と彼女の恋。」の感想

ネタバレ感想を見たくない場合、文字を背景色に設定することが可能です。 → 設定変更

**ネタバレ注意**

ゲームをクリアした人むけのレビューです。

これ以降の文章にはゲームの内容に関する重要な情報が書かれています。まだゲームをクリアしていない人がみるとゲームの面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。

非常に明確なテーマを掲げた作品。好き嫌いとは別に、そのテーマに対する応答に失敗したと判断したので点数はこんな感じ。ただ、エロゲーのヒロインとの恋愛について「考え」たいという思弁的な人には示唆に富んでいて、賛成するにしても反対するにしてもやって損はない。逆にベタに物語を楽しみたい人には、肌に合いづらいのではないだろうか。ネタバレは、避けられたら避けたほうがいいが、食らっても軽度なら却ってじっくり考えながらプレイできるかもしれない。重バレくらったら(悔しくて)泣きゲー化待ったなし。
『君と彼女と彼女の恋。』は、非常に強いテーマ性を持ち、しかもそれを前面に押し出している。テーマを追いかけるかたちで読むのが自然だと思うので、主題論的に考えを進めることにしたい。

▼テーマ
本作のテーマはなにか。言い方はさまざまにあるだろうが、私は「ゲームのヒロインとの本当の恋愛を問いなおす」というのが妥当な切り取りかたに思う。では、「本当」とはどのような意味か。これは、明瞭に作中で示されている。

「本当」とは、ゲーム内のヒロインを現実の私たち(ユーザー)と同じようにかけがえのない存在として引き受けること。そしてそれゆえ、私たちには見えていないところで、彼女たちの生は続き、喜びや悲しみが存在しているのだと認めることだ。プログラムされた木偶人形ではなく、自ら判断して動く「人間」だと。

簡単に言えば、ゲームのヒロインに自律的な存在性を――あるいは、固有性といったほうが分かりやすいかもしれないが――を認める、ということである。

▼テーマの表現方法
さて、上のようなテーマを表現するために、本作は3つの大胆な手法を導入した。

まず1つ目。たとえば、パッケージだ。箱をあけると鏡があらわれ、ユーザー自身の顔が映し出される。よく考えると、タイトルも示唆的だ。ふつう、美少女ゲームで「君」という呼称はヒロインに対して使われることが多い(そしてユーザーのことは「僕」と表現されがちだ)が、本作は明らかに、ユーザーを「君」と呼んでいる。ここでユーザーは、否応なく「ゲームをする自分」を意識せざるをえない。つまり『ととの。』という作品に対して、登場人物としてではなく、それを見下ろすプレイ主体として、関わらせるような仕掛けがほどこされているのだ。パッケージやタイトルといった、作品の外側で「ユーザー」の主体性を意識させるような手法である。

次に、ゲームの内容そのものにも工夫が見られる。メインヒロインのアオイが、「この世界はゲームだ」と発言したり、作中に『ととの。』を思わせるゲームが出てきたり、美雪がゲーム内から直接ユーザーに(主人公にではなく)語りかけたり……というのがそれである。このように、ゲーム内のキャラクターが自分自身がゲームの中にいることを自覚しているかのように振る舞うことで、作品がメタ的な構造を持つような手法も採用されている。

最後に、ゲームシステムにも触れねばなるまい。突然セーブを不可にしたり、強制でゲームをリセットしたり、セーブデータを消してしまったり、ヒロインの性格をランダムに生成したり。このようにシステムによってユーザーに制約を加えるのだ。

☆たとえば、こんな感じ。
《外側》……パッケージ、タイトル 等
《内容》……メタ発言、ユーザーへの語りかけ、視覚効果 等
《システム》……ランダムな性格付け、セーブリセット、ヒロインの強制選択 等

本作は、この3つの手法を絡ませながら(明確に三者を区別することは難しいだろう)、ユーザーにメッセージを発し続ける。ゲームに関係する要素を、ここまで複雑かつ綺麗に使いこなした作品というのはほとんど類を見ないレベルで、心から凄いと思う。

ただ、上の3つの手法は、そのままではテーマに直結しない。3つの表現はどのように、「本当」さ、すなわちヒロインの固有性と関係するのか。そのことについて詳しく触れるために、まず『ととの。』が何を仮想的としているかを確認しよう。つまり、『ととの。』が想定する「偽物」とは具体的にどんなものか、である。

本作が前提としている「偽物」は、美少女ゲーム(主に恋愛ADV)の「お約束」だ。その性質は、以下の4点に要約される。

① 「主人公」が「ユーザー」の代理人としてヒロインと恋愛をする。
② 「主人公」は1つの作品の中で複数のヒロインと、独立した恋愛をすることができる。
③ ②のとき、ヒロインは(見えないけれど)「主人公」と結ばれない別の人生を歩んでいる。
④ 「ユーザー」は、ゲームが終わると別のゲーム攻略に、気兼ねなく乗り出す。

細かな例外はひとまず措くことにすれば、『ととの。』の想定する「偽物」の恋愛ADVは、およそこのような内容だと言って良いはずだ。それでは既存のギャルゲーの、何が問題だと『ととの。』は言うのか。

主人公・心一のことばを借りるなら、ギャルゲー的な行為は「美雪に対する裏切り」であり、「アオイに対する冒涜」だ。本編の最後、究極の選択を前に、心一は言う。

 君が、本当に彼女たちを想うなら――
 君が、正しい結末を迎えるなら――
 選択肢を選べるのは、一度きりだ。

偽物で誤ったありかたというのは、「一度きり」であるはずのヒロインたちの生を、そうではなくしてしまうこと、彼女たちに「一度きり」さを――すなわち一回性を――認めていないことだ、というのである。ヒロインたちに一回性を認めるというのは、一度きりの生を生きる存在として彼女たちを認めることであり、本稿の最初、「テーマ」のところで書いた、ヒロインの固有性を認めるという話と繋がるということは明白だろう。

ユーザーの存在を外側から過剰に演出する手法も、物語の持つ内容的なメタ性も、そしてそれらを鮮やかに浮かび上がらせるシステムも。『ととの。』の表現は、一般的なギャルゲーへのアンチとして、一回性を描いてみせることにあった。

そう考えると、心一の思わせぶりなセリフも、かなりの程度腑に落ちる。冒頭以降何度も繰り返される、「「あの時ああしておけば」なんて後悔は無意味で。」という選択肢の拒絶や、「俺の人生にセーブポイントはない。もう、やり直しはきかないのだ。」というセーブ&ロードの否定は、システム的な伏線であると同時に、この作品が常に、一回的な生を描いている(正確には、描こうとしている)という宣言にもなっているのだ。

▼狙いの成否
本作の方針は、端的に言うとこうだ。すなわち、【ゲームのヒロインとの「本当」の恋を実現するために、現実(ユーザーの世界)とフィクション(ゲームの世界)とを、直接繋ごう】とした。

たとえばHシーンのあと、美雪が「君と、本当に、セックスしました」と言うのは現実とフィクションがフラットに繋がるということだし、アオイルートのことを、「どうじに、カミサマの、シンイチルート」と逆照射してみせるのは、現実とフィクションの世界が双方向的な(あるいは裏表の)関係で平等である、という意思表示と読める。また、美雪の性格が、「3の30乗」通りからランダムで作られている、というようなくだりは、単に思想としてキャラクターの一回性を主張するだけではなく、ユーザーにとっての美雪という存在が、物理的に一回性を持っているというアピールである。

だが、こうした手法は果たして、作品の意図通りの成果を挙げているのだろうか? 挙げてないのではないか、というのが私の立場だ。『ととの。』という作品は、3Dメガネをかけて「飛び出た」コーヒーカップを見せておいて、「さあ、どうぞ飲んでください」と言っているような奇妙さを感じるのである。

美雪の性格が、「3の30乗」通りからランダムで作られていたとして、その性格パターンは、所詮有限なものでしかない。2つのパターンから1つが選ばれるのと、2兆以上のパターンから1つが選ばれるのとでは、確かに量的な差はあるが、質的な差は存在しないではないか。私たち人間が、「唯一無二」であるのに対して、『ととの。』で固有性を主張している美雪は、手間と時間さえあれば(あるいは偶然があれば)再現可能な存在でしかない。

また、そのようなシステムの量的な違いを「一回性」と認めるのであれば、戦闘回数やLvアップの内容がランダムのSLGやRPGの冒険は、つねに一回的であって、現実と同じだということになる。それは、両者の間に存在する歴然とした質の違いから目を背けているにすぎない。

「君と、本当に、セックスしました」という美雪の切ない叫びも、ユーザーがそこでオナニーをしていなかったり、あるいはそもそもユーザーが女性であったら成り立たない。単純に事実として、アオイや美雪は私たちを認識して態度を変えることはなく、その意味で現実とフィクションはフラットに繋がってはいない。

また、どれほどフィクションの世界からシステムを操って現実に影響を及ぼしているかのような体裁を整えてみたところで、両者の関係は平等ではない。作中でも触れられているように、セーブデータを退避させて移しなおせば、最後の選択肢は「やりなおす」ことが可能だし、美雪がシステムを完璧に支配しても、現実の紙に書かれてパッケージに封入されたキーコードに影響を与えることはできなかった。フィクションは、どうあがいても現実の支配下にある。

『ととの。』は、ゲームのヒロインが現実の私たちと同じような一回性を持つという主張を行うために、技術と思想を集めて、現実に一回性を立ち上げようとした。だが、結果的に立ち上がったものは、一回性ではなく、むしろよりハッキリと、ゲーム内のヒロインたちがプログラムに過ぎないという事実なのではないだろうか。

彼女たちは結局、現実の「セーブデータ上書き」に対抗できない。どれほどパターンを増やしてみたところで、複製可能な存在でしかない。それらしい、みせかけの一回性を持たせることはできても、「本物」ではない。「本当」さは、『ととの。』が批判していた既存の恋愛ADVに比べて程度がマシというだけで、本質的にはなにも変わっていないのだ。

▼作り手の存在 ~サヨナラカミサマ~
エロゲーの(ギャルゲーの)ヒロインとの「本当」の恋愛というテーマ、そしてそこにフィクションの存在の固有性(一回性)を読むというところまでならば、私はかなり本作に同意したい立場だ。実際、「ループもの」に代表されるようなメタ構造をとる作品の多くは、読み手(ユーザー)と作品との関係について、真剣に考えさせる。メタであるということは、フィクションの世界の中だけではなく、それを外側から眺める視点を絡ませることだからだ。

だが『ととの。』は、メタの視点を導入しただけではあきたらず、いったんメタ的に捉えたフィクションの世界を、現実と再結合しようとしたように、私には思える。つまり、①普通のフィクションならフィクション世界だけで完結する。②普通のメタフィクションなら、フィクション世界と現実の視点を分けて考える。③しかし『ととの。』は、一度切り離したフィクション世界を、今度は現実の側に無理やり収納しようとした。

しかし、その試みは失敗した。ヒロインに一回性を持たせることはできず、『ととの。』が示し得たのは、ゲームはゲームでしかないという(美雪やアオイにとっては)残酷な事実だけだ。

では、本作が提案したような「本当の恋愛」は不可能なのか? 私は、そうではない(可能である)と思う。ただし、『ととの。』とは全く逆の方向で。

いきなり他のゲームの話になって恐縮だが、昔『ラブラブル』が発売されたとき、私の友人の何人かが、「花穂以外攻略できない不具合があった」と言っていた。なにごとかと思ったら、実際にそういう不具合があったのではなく、単に花穂が可愛すぎて、他のヒロインを攻略するのが彼女に対して申し訳なくて、花穂の物語しか見る気にならないし、それで良いのだ、ということらしい(ちなみに、ゲーム自体も『花穂ラブル』と呼んでいた)。

『ととの。』が提示する「本当の恋愛」は、たとえばそのような境地を指すのではないのか。もちろん、『花穂ラブル』をクリアーした彼らは、また次のエロゲーに手を出すのだから、厳密には不十分なのだが、目指す方向性としてはそのような向きもあったはずだ。すなわち、ひたすらフィクションの純度をあげて、現実とは別の、しかし現実に拮抗する力を持った世界を作り上げるという方向が。

だが実際の『ととの。』は、すべてのキャラクターやシステムをユーザーに向けて、つまり現実の世界に向けて機能させた。その結果、メッセージ性は強くなったが、そのメッセージを発する存在――作中でいうところの「カミサマ」――としての、作り手の存在が浮かび上がってしまった。極端なメタ構造によって、本来不在でも構わなかった作り手という存在を、作品の中に呼び込んでしまったのだ。

「カミサマ」の存在に言及されている以上、おそらく多くの人は、本作をプレイして、美雪の、あるいはアオイの叫びが、彼女自身から発せられたものだとは見なさないだろう。その背後にいる「カミサマ」を――作り手を否応なく意識する。その意味で、アオイや美雪は糸の見えている操り人形になってしまっている。

また、さきほどの『花穂ラブル』との関係で言えば、ユーザーもまた作り手によって自由意志を奪われている。最初からアオイを攻略したかった人は、無理やり「美雪を裏切った」ことにさせられるし、美雪一筋で行きたい人も、最終的なゴールにたどり着くには彼女を裏切らねばならない。しかもそれを、「君が裏切った」と責められるのだから、責任転嫁もいいところだ。

「カミサマ」は結果的に(意図したかどうかはともかく)、キャラクターを自らのメッセージのために動く人形として彼女たちから自律性を奪い、心一という存在をうやむやにし、ヒロインたちの想いを道具として扱い、ユーザーの自由な意思をも制限した。極端な話、そこまで言ってしまうことができるかもしれない。作り手のエゴが、作品を支配しているのだ、と。美雪は「(心一のような)選択肢次第で態度がかわる人形とセックスしても気持ちよくなんてない」というようなことを言うが、それが強烈なブーメランとなって、彼女自身に跳ね返ることに、果たして気づいていたのだろうか。

もっと身も蓋もないことを言えば、『ととの。』が本当の意味で成功したのならば、少なくとも美雪ルートに関しては、美雪を攻略した後、もうほかのエロゲーをやらなくても良いはずなのだ。あるいは、アオイと美雪の2択なら美雪を選ぶけれど、他に「想い人」がいるという場合、この作品自体を中断し、そしてもうエロゲーを買わない、というところまで行くはずである。しかし、いまのところ寡聞にしてそのような話は耳にしない。その事実が端的に、本作の物語としてのパワー不足を語っているとも言えるだろう。

▼その他問題
以上のような大きな齟齬を除いて、作品として気になったところもある。主だったものを3つほど挙げておこう。

まず、アオイの存在。彼女はヒロインの「イデア」だというが、ではアオイは他のヒロインに比べてどう特別なのだろうか? アオイと、その他のヒロインの個体とをわけるのは何かが分からない。ここは非常に重大なところで、もしアオイがゲームの他のヒロインと同じであるというのなら、美雪もアオイの一部である、ということになり、最後の「究極の2択」が無意味なものになりかねない。(もっとも私は、アオイルートをプレイしていないので確かなことは言えないのだが)

次に、表記というか呼称。基本的に画面の向こうに向かって呼びかけるときは「君」だと思ったのだが、美雪は心一とユーザー、どちらに対しても「貴方」という呼称を用いる(「そんなに貴方が選びたいの?」など)。また、心一がユーザーに呼びかけるとき、「皆さんは信じられるだろうか?」と複数形で呼びかけていたのも気になった。このあたりは厳密に使い分けるつもりがそもそも無かったのか、あるいは使い分けているのに私が気づいていないだけなのかわからないが、「心一かユーザーか」がキモになる作品としては、少々物足りない。

最後に、美雪は「誰に惚れていたのか」がよくわからない。心一とユーザーを分離する仕掛けとして、美雪と心一との間には幼なじみとしての思い出が共有されているが、ユーザーはその大多数を把握できていないし、メタルートに入ってからも(つまり「君」に向かって語りかけている最中に)美雪は、「私が、心一に対して持っているこの想いは、絶対に、そういう風に弄ばれて良いものではないのです」と、心一への想いを綴って残している。心一とユーザーはどこでどう分かれたのか(そもそも一緒だったのか)も判然としないし、そのために美雪がユーザー(「君」)のどこにどう惹かれたのかも、よくわからない。この辺りは、本作がテーマの提示としても、物語としても不徹底な部分ではないかと思うのだが……。処理する情報が多すぎてついていけず、私の解釈が甘いだけということは十分考えられるので、上手い説明が可能ならば是非うかがいたいところである。

▼総括
ここまであれこれ述べてきたが、『ととの。』はつまらない作品かといえば、決してそうではない。

少なくとも問題意識が強い力を持っていたことは事実だし、それは多くの人の胸を打ったことだろう。「主人公と結ばれなかったヒロインはどうなるか」問題は、それこそ『同級生2』の友美あたりから(あれは少し今回のと違うかもしれないが、淵源として)話題になっていたことだし、「嫁」の乗り換え批判というのも古くからあちこちで取り沙汰されていて、どちらも多くの人の感心を集める問題だ。

そのような問題群を、ひとつの形としてまとめて提示したということは意味のあることだし、だからこそ真面目なエロゲーユーザーはこの作品を通して、自分のありようについて真摯に考えることができたのだろう。ただ、『ととの。』は問いの共感度の高さと、結論のそれらしさゆえに、良く言えば人それぞれに自由な、悪く言えば都合のいい解釈を押し付けるのに向いていた、というのが問題なのかもしれない。

『ととの。』そのものの議論ではなく、「『ととの。』の議論」に関する議論はここでの目的ではないのでひとまず措く。ただ、既に述べたように多くの人にとって深刻な問題を、見事に切り取って形にしたことは、やはり大きいことだ。

私にとってネックなのは、これまで述べてきた通り、作品が提示した理想とは真逆の、むしろ作品が否定しようとした結果を生み出しているところ。「本当の恋愛」を掲げておきながら、壮大なハリボテを作り上げてしまった(ように見える)ところにある。

ただ、このことについては2通りの見方から評価できるかもしれない。

1つ目は、『ととの。』が敢えてハリボテを作ってみせた可能性。すなわち、この作品は「こうなってはいけないよ」という形で、逆説的に「本当の恋愛」を提示しているということ。「カミサマ」の影が無く、登場人物たちは自分たちの世界で自律し、ユーザーと主人公は切り離されない。そちらを徹底することこそがヒロインにとっての幸せな一回性なのだが、それは表現が非常に困難(なぜなら、製作者の意図を完全に離れてしまうから、狙ってできるものではない)なので、真逆のことをやってのけた……。これは相当ひねくれつつも大したものだと思うが、それならもう少し終わりが皮肉になりそうなので、作品の狙いには沿っていない気がする。

2つ目は、フィクションの世界を本当に現実化させるための、チャレンジだったという可能性。『ソードアート・オンライン』ではないが、将来的にフィクションと現実の間を完全につなぐことこそが、理想的なありかただ、という考えはありうると思う。今回は理想の完璧な実現には至らなかったが、技術を結集して擬似的な体験を実現したのだ、と。

そうだとすれば、今後もっと徹底した方法が必要にはなるだろう。システム的に「一回性」や「固有性」を突き詰めるなら、たとえばフルオーダーメイドで、網膜認証が必要なシステムのもとでプレイする、世界に一本しかないゲームを作る……とか。今回のやり方では、最悪同じ人間が製品を2つ買えば全てのルートを踏破できるのも(それを止めるのはユーザーの心理的なストッパーしかない)、現実に一回性を実現させるなら物足りない。

いずれにしても、『ととの。』は見事に問いを立てたが、答えにまでは至らなかった作品だというのが私の判断である。それゆえ私は最初に、作品のテーマを「本当の恋愛とは何か」ではなく、「問いなおす」ことだと申し上げた。そう捉えることがおそらく、本作の持つ可能性を最大限に拾うことになるだろうと考えたからなのだが、テーマ先行型の作品として着地に失敗しているというのは、やはりちょっとどうなのかなという思いが残ってしまった。

長文感想へのレスを書くには
 ・ユーザーIDを有している
 ・COOKIEが有効である
 ・COOKIEを有効にした状態でログインしたことがある
 ・5つ以上一言コメントを書いている
 ・長文感想を書いたユーザーが長文感想へのレスを許可している
の5つの条件を満たしている必要があります。

コメントデータ

このコメントはだいたい2344回くらい参照されています。