マルセルさんの「同級生オリジナル版」の感想

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**ネタバレ注意**

ゲームをクリアした人むけのレビューです。

これ以降の文章にはゲームの内容に関する重要な情報が書かれています。まだゲームをクリアしていない人がみるとゲームの面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。

エロゲーの元祖といわれている作品だが、改めてプレイすると、なんともアナーキーな作品である。大日本エロゲ帝国憲法修正九条により、女性キャラクターは全て18歳以下であるはずだが、この作品は同級生といいつつ20歳以上の還暦を迎えたおばはんが攻略キャラの大多数を占め、下は16歳から上は25歳までのババァが幅広く出現する。ゲームシステムも極めて異常だ。一部キャラを除いて、複数キャラを同時攻略しないと狙ったヒロインを攻略できない異常フラグ。主人公は複数のキャラとHをし、ババァから性病を移され痛むチンポを宥めつつ、二股で悩んでいる親友キャラをバツの悪い気分で眺めながら、時にはそいつの彼女を寝取ったり寝取られたりして、夏休みの最後の日までに、本当に好きな女の子と自分の将来を決めなくてはならない。18年前のエロゲの未成熟な試行錯誤と、全てはこれからだという熱気が伝わってくる歴史的な作品である。
(1)「18年前の同級生のなれの果て」

>>登場する複数のヒロインがそれぞれ個別に持つシナリオをなぞりながら恋愛関係を深めていく恋愛ゲームのシステムと、
>>竹井正樹による華麗なキャラクターデザイン及び原画は、それまでのセックス描写中心であったアダルトゲームの在り方を変えた画期的なものであり、
>>パソコン(PC)向けアダルトゲーム史上初の10万本を超える大ヒット作となった(WIKIより)

といった感じの知識は皆さんも持っていると思うし、そこまで詳しく知らなくても「同級生」という作品の名前くらいは知っているよという人もいるだろう。
これは別に非難しているわけじゃないが、ここ2~3年の新しいエロゲオタの皆さんは空恐ろしいほど歴史感覚がない印象があるので
(東鳩2はしっているけど雫はしらないとか)「同級生なんてしらねーよ」って人もいる可能性があるが、まぁ大多数のエロゲオタは名前ぐらいは知っているだろう。
だけど、それ以上の知識があるかどうかは、非常に疑わしいところだ。先にも言ったように、僕は別にそうした「知識の欠如」を非難しているワケじゃない。
ただ単に「美味しいケーキの作り方」を知っているか知らないかというレベルで、「エロゲオタの常識」ではなく、ある知識の有無を確かめているにすぎない。
この「同級生」という作品の微妙な知名度は、例えば鍵や葉の諸作品の知名度と比べると、その微妙さがよくわかるのではないかとおもう。

「東鳩」やら「カノン」やら「AIR」やらといった作品を「やったことがある人」と、
「同級生」を「やったことがある人」で今も現役のエロゲオタって人は、
前者の方が少しは多いと思うけど、それほど大きき差はないだろう。どちらも今では少数派に属する人たちだと言える。
そして「やったことがないけど、名前だけは知っている」という人が大半を占めるだろう。

しかし、これらの「名前だけは知っている」という、何となくなイメージにおいて「同級生」という作品は、本当に「名前だけ」の存在なのだとおもう。
これが「葉鍵」の作品ならかなり違ってくる。彼らが当時の葉鍵を一つもやっていないとしても、葉鍵の作品は今現在も「イメージの流通」があるからだ。
「イメージの流通」というのを簡単に言い換えると「今でも葉鍵作品の名前をあちらこちらで見るような雰囲気」」とでも言えようか。。
「ああ、これは葉鍵系の泣きゲー」だとか「鍵っぽいシナリオだなぁ」といった言葉は、例えその言葉の使い方が間違っていたとしても、
未だにエロゲオタ業界でよく使われる言葉である。その意味を皆さんが正しく了解するかどうかは別としても「なんとなくわかった」ような気がするだろう。

ぼくがいった「イメージの流通」というのはそういう意味だ。間違っているか正しいかは関係はない。兎に角それが「広がって」いればいいわけで、
「葉鍵」に纏わる言葉がその共同体の中で「どんな意味があるかは関係なく」広く使われ流通している状態のことを言う。
もっと広く言えば、未だに葉鍵作品について熱く語っている人がいたり、京アニの鍵アニメがニコニコなんかで流れていたり、DVDで売られていたり、
「葉鍵作品をやらずにしてエロゲオタを名乗るな」というバカがいたり、リトバスエクスタシーをやって他の鍵作品に興味を持ったり……
といったような、あなたがエロゲオタをやっていて「葉鍵」に関する情報に、日常的なレベルで間接的に関わっているような状態のことをも意味する。
そうした意味で、例えあなたが葉鍵の作品をやっていなくても、あなたがそうした葉鍵のイメージを意識することなく吸収しているという意味では、
未だに「葉鍵」というのはかなり大きな存在である。個人的な感想を言わせていただければ、そういう「古典的作品」の存在つーのはイヤラシくて嫌いなんだけれども。

しかし「同級生」という作品はどうだろう? なるほど、これも皆さんは「名前」だけは知っている……
だが「同級生」と聞いて他に連想するモノは……まぁ「最近のエルフってなんかヤバイらしいっすね」とか「まだエルフってあるんですか?」ぐらいが関の山だろう。
「同級生みたいなシナリオ」とか「同級生みたいなゲームシステム」といわれても、皆さんピンとこないはずだ。同級生について熱く語っている人はあまりみないし、
同級生の同人誌みたいなものも殆ど出ていないし、ニコニコで同級生の素材が使われることもない。たぶん、大多数のエロゲオタとって「同級生」という単語は、
小学校で習ったものの、一生使わないある種の単語に近いだろう。「リアス式海岸」とか「カルデラ湖」とか「リットン調査団」とかと同じレベルである。

>>「それまでのセックス描写中心であったアダルトゲームの在り方を変えた画期的なものであり

とWIKIでこれほどまでに大きく書かれている作品なのに、どうして同級生は前述したような「死んだ古典」になってしまったのか?
これにはいろいろな理由があり、いろいろな歴史の重層的な要因を受けてそうなっちまったという、まぁ抽象的な答えを言わざるを得ないのだが、
一つ、大きな理由を挙げるとするなら、この「同級生」という作品が、たとえちゃんとプレイした人でも、今からみると
「どんな作品なのか上手く説明できない」というところが大きいとおもう。

ここでいう「上手く説明できる」というのは、「その作品の内容を的確に判断してそれを伝達する」とはちょっとちがう。
ぶっちゃけていうとその説明が「作品内容に反していた」としても別にいいのだ。
「上手く説明する」というのは、これまたぶっちゃけると「わかったような気分にさせる」と言い換えてもよい。
もちろん「的確に作品の内容を記述し、他人に上手く説明する」のがベストだけれども、んなことができるのは専門の批評家だって中々難しいのだ。
だから、あくまで素人の僕らは「わかったような気分にさせる」ことに集中するのだけれど、この同級生という作品は、
その「なんとなくこんな感じの作品です」というレベルを説明するでも、えらい困難がつきまとうのである。

まず、ぼくらが最初にぶつかる困難は「同級生は○○ゲー」みたいな言い方が出来ないことだ。
「同級生は萌えゲーです」とか「同級生はシナリオ重視ゲーです」とか「同級生は感動ゲーです」とか「同級生は抜きゲーです」とか
「同級生はゲーム性重視です]とか「同級生は○○たんゲーです」とか「同級生のツンデレやら妹やらババァは最高です」とかそんな感じのヤツ。
つまり、ある作品を「○○ゲー」というカテゴリーにいれて、そうしたカテゴリー内の価値判断をもってして、作品を語ったり紹介することができないのだ。
例えば、ある作品を萌えゲーというカテゴリーに入れれば、僕らは萌えゲーのカテゴリーの価値判断をもってして、○○たんのこういうシーンが可愛いとか、
幼馴染みとの恋愛が良く書けているとか、イチャラブがあっていいとか、その作品の中からそうした部分だけを抽出して、その作品を語ることが出来る。
シナリオゲーというカテゴリーだったら、やれ家族愛がどうだとか、キャラクターが記号的じゃないとか、期待を裏切る展開だとか死生観云々とかそんな感じで、
所謂「ゲーム性のある作品」なら、やれ自分の頭を使ってクリアするのが快感だとか、エロゲなのにエロ「ゲー」じゃない作品はたくさんだとかいっとけば大抵通じる。
だけど、この作品の場合、まず、どういうカテゴリーにいれて、そこからどういう判断を下すべきか?といういつもの批評テクニックが通用しない。

「ンだよ。テメェらは一々「萌えゲだから」とか「シナリオゲだから」「ゲーム性重視だから」とか言い訳しねーと批評できないのか。オタクはもう死んだな……」

と、カムチャッカ半島にお住まいになっている岡田○司夫さん(157歳)から矢文が届いたような気がするので、狙撃銃でかれのタマキンを狙い返しておこう。
そもそも、この同級生という作品は、発売当時から結構そういう話題はあったのだ。別にいまのオタクだけがそうなんじゃなくって、昔からオタクはそうだったの。
今は何故か消されてしまったが、2009年の一月ぐらいにまでには載っていた、WIKIの記述からその辺を引用しておこう

>>このゲームシステムのデザイナーは蛭田昌人。プレイヤーに極めて大きな自由度を与え、あたかも実在の町の中を自由に行動して、本当にナンパを行ったり、
>>あるいはおバカなことを行ったりしているかのような気分を味わうことができた。こうしたゲームシステムは、
>>ファミコンディスクシステムの『消えたプリンセス』(イマジニア)など、過去に類例が見られるものの、本作以前には殆ど知られていなかった。
>>その為、本作をアドベンチャーゲームと定義するかシミュレーションゲームと定義するかは、しばしば論争の種となった。
>>だが、『同級生2』がドラマ性の非常に強いゲームとして出現したことで、この論争には終止符が打たれ、アドベンチャーゲームに分類されることとなった。
>>これをあえて命名するならば、フィールド移動型アドベンチャーゲームとでも言うべきではないだろうか。


こういう論争はぼくもナマで聞いたことがある。確かぼくが小五か小四のころ、年が随分離れたお兄ちゃんとお兄ちゃんのオタ友達が
「同級生はアドベンチャーであるかシミュレーションであるか」といった下らないネタで、危うく殴り合いの喧嘩に発展しかねない状態だった。
いまで言えば、ちょい昔の話になっちゃうけど「ツンデレ論争」みたいなもの近いかな。このキャラはツンデレだとか、ツンデレの定義とはなにかみたいな。
こうした議論の力学はそんなに難しいものじゃない。まぁ立場によって色々あるんだけど、例えば、ぼくが「朝霧麻衣」たんを義妹キャラの典型だというよね。
うん。ぼくの意見に賛同してくる朝霧麻衣スキーの皆さんはそれでいいかもしれない。そんで義妹キャラなんてどーでもいい人はどーでもいいままだろう。
でも「朝倉音夢」スキーの皆さんはどうだろう? なんかちょっとムカつくハズである。をいをい、音夢たんの方が手紙を破るのが早いしグロ料理も最強だろと。
つまり、ある作品やキャラをあるカテゴリーに入れたり、あるカテゴリーの代表みたいのにしちゃうと、他の作品が好きな人が
「そんなくだらない作品と俺の好きな作品を同じにするな」とか「そんなキャラをツンデレの代表にするな」とか怒ってしまうのである。これが基本的なパターン。

とはいえ、この同級生論争については、ぼくがナマでみたりきいたり、パソ通のログを読んだ限りでは、じつはけっこー錯綜していたっぽい。
まずは「こんなものをアドベンチャーゲームと呼んでくれるな」とか「こんなものをシミュレーションと呼んでくれるな」みたいなやつがいる。。
要は「あの名作ADVの○○に比べたら……」とか「洋ゲーをやっているオレ様からみたら……」みたいな発言だ。こうしたものの半分はうんこと言っていいものだけど、
正しい部分はないワケじゃない。具体的に過去のADV作品に比べたら同級生はちょっと違っていて、同級生の少し前に出た「卒業」とかのSLGとも違っているんだから。
こうした人たちが「ネガティブ比較同級生否定派」だとするなら、そりゃまぁ正反対に「ポジティブ比較同級生肯定派」みたいなひとたちもいた。
こりゃそのまんまっすな。同級生はちゃんとしたADVとかSLGであって、そうした文脈でも評価出来る作品であると。「フェイトは文学です!」みたいなもんだ。
まるで妖怪人間ベムが如く「はやく文学になりた~い」と不毛な戦いを続け「エロゲのさだめを吹き飛ばせ!」とばかり必死に自らの本性を否定する腹筋運動マシーン。

そして、さらに厄介なことに「ネガティブ比較同級生肯定派」つーのもいた。同級生という作品は既存のADVでもSLGといったカテゴリーで評価できる作品じゃない。
これまでは「ネガティブ比較同級生否定派」と一緒だ。しかし彼らはもっとヤヴァイ方向に突き進んでいく。
こうした素晴らしい作品を既存のゲームシステムの尺度で測るというのは間違っていないだろうか? 
否! ゲームという言い方そのものが、同級生のキャラクター達の人格をバカにしているのではないかっ!
僕らはなんか暇つぶし感覚でゲームをやるように同級生という作品をやるんじゃない。僕らはモニターの中の彼女たちに会うために同級生をプレイするのだ……
こうした作品に相応しい言葉は何か? ゲームという言葉をあくまで慣用的な意味で甘んじて受け入れるとするなら……そう、僕らが選ぶ言葉はただ一つである。
同級生は、人類が初めて生み出した、いまのところたった一つしかない唯一無二の、アダムとイブの性交にも等しい神々しいまでに清純な

「                   恋                      愛                     」ゲームなのだ……と。


さて、この論争の勝利者は誰かといった問題は、基本的にはどーでもいいことである。だいたい、このWIKIを書いた人も、狙ってやっているのか、
そうじゃないのかはよくわからないが、随分悪趣味なことを書いているとぼくは思う。だって、この記事によると結局この論争は

>>だが、『同級生2』がドラマ性の非常に強いゲームとして出現したことで、この論争には終止符が打たれ、アドベンチャーゲームに分類されることとなった。

というトホホなオチがついているんだから。これは末尾に(笑)とつけるべき文章だろう。だって同級生のジャンルは何かという問題は、
基本的に同級生2の内容とは関係がないはずだ。つよきす2が糞ゲだからという理由で、つよきす1も糞ゲであるといっているのとおんなじだにょ。
まぁ、論争なんつーのはそういう論理云々とは関係ない「面倒くさいからこれでいいだろ」とか「そーいうことにしておけ」みたいな、
惰性で決着がつくことがわかる貴重なサンプルともいえよう。んで、ここで重要なのは、そんな「結論」ではなく、どっちかというと論争の「式」の方だ。

ほら、小学校の先生もたとえ問題の答えが間違っていたとしても、途中まで式を書いていれば半分くらいの点数はくれたじゃん。過程の思考だって重要なのだ。
そして、あからさまに答えなんてどーでもいい、今回のような「論争」の場合、僕らはそこの「式」から当時の作品の受容を解き明かすことが肝要なのであーる。
先のぼくの分類によると、まぁ否定派とか肯定派とかその辺の「立場」はどうでもいいからスルーするとして、たんじゅんにわけると
この作品を「既存の」ADVやSLGのカテゴリーにいれる人たちと、この作品をそうした既存のカテゴリーから区別しようとする人たちがいたと分けられる。
つまり、否定するであれ肯定するであれ、それ以前に「この作品はどういうゲームシステムを持っているか」と言う部分、もっと簡単にいえば
「このゲームはなにをするどんな作品なのか」というかなり根本的なところで、わりと重大な認識の差異が生まれていたわけだ。
たぶん、この点が同級生という作品の謎をとくキーポイントだろう。
ある人にとってこれは単なるSLGに見えるし、ある人にとってはこれは普通のADVに見えるし、あるひとにとってこれは全く新しい恋愛ゲームだった。同級生ってヤツは。

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(2)「キマイラ」

「うーむ、それじゃ、このゲームの正体がわからないじゃないか。困ったぞ。大学のレポートで「同級生とは何か?」という
比較文学論のレポートを出さなきゃいけないのに……これじゃあ休みのあいだ、ヨスガの穹たんとチュッチュできないぉぉぉぉ!」


とお嘆きのあなた。問題ない。そんな困ったときの必殺技を、大学で文系のレポートの請け負いバイトをやっていたぼくが伝授して差し上げよう。
こういった虚構作品のばあい、ズバリ「作者の意図」を結論に持っていけば超OKである。作者がこういう意図を持ってこの作品を作ったというのを、
どっかから引っ張り出して「作者さまがこのように言っておられるのだからこの作品はこうなのである。文句あっか」とでも書けばそれで終了だ。
なぁに、レポートとか批評なんてそんなちょろいモンで充分だ。もちろん、こうした書き方には多少のテクニックもあって、
表だって「作者さまがこのように言っておられるのだから」なんて書いちゃうとポストモダン的な説教を喰らう可能性があるので拙い。
途中まではそこらへんの学術論文から拾ってきた文章を適当にコピペして、議論の大事なところで「作者の言葉」を引用し
「作者のこの言葉は作品の深い本質を突いていると思われる」とか、尤もらしい客観的な口調で書いてやれば適当に誤魔化せるのである。
ということで、蛭田氏の意図を聞いてみまひょ。


>>元々アダルトゲームには『TOKYOナンパストリート』(エニックス:1985年4月)を祖とする「ナンパ」というジャンルが存在しており、
>>町で見かけた女の子を口説いてホテルに連れ込むと、ご褒美画像であるエッチシーンが見られる…というゲームの流れが確立していた。
>>1989年発売のエルフの初期作品『ぴんきぃぽんきぃ』は、その流れを受けたナンパアドベンチャーゲームであるが、蛭田昌人は『同級生原画集』
>>(辰巳出版)の対談記事の中で、「『同級生』の大元は『ぴんきぃぽんきぃ』」、「最初は40日の期間内に50人の女の子を次々とナンパしまくるストーリー
>>性の低いゲームだった」と語っている。つまり、『同級生』も元々は「ナンパゲーム」(その証にインストールされて作成されるフォルダー名がNANPAとなる)
>>として開発されていたのだが、蛭田が竹井の絵を見るうちにヒロインをただナンパしてセックスさせるだけでは勿体無いと思い、ヒロインの数を減らして一人一人
>>にストーリー性のあるシナリオを付加させた結果、「恋愛ゲーム」になってしまったのである。これは蛭田自身も意図していなかったことらしく、
>>ゲーム雑誌のインタビューの中で「購入者から『同級生はナンパゲームじゃなくて恋愛ゲームなんだ』と言われて初めて気が付いた」と語っていた。
(WIKIより)


因みに『TOKYOナンパストリート』のエニックスとはあの「ドラクエ」のエニックスと同じ会社。さらに因みに、このゲームを作った関野氏という人物が
代表を務めるアートラクトのホームページで、関野氏はこの『TOKYOナンパストリート』という作品について、
『元祖エロゲー」と呼ばれることにかなり抵抗があり「恋愛シミュレーションゲームの元祖」と呼んでほしい』という旨を書いているらしい(笑)
これは蛭田氏の場合と正反対の事例だよね。つまりこっちは「作者の意図」が「読者の解釈」と違っていて、作者が意図を押しつけているタイプ。
んでもって、蛭田氏の場合は「読者の解釈」によって作者が初めて自分の意図に気づいてしまったという変なパターン。

いや、もっと正確に言うと、蛭田氏が自分がどんなゲームを作っているのかよくわからなかったというべきだろう。最初は確かに「ナンパゲーム」を作っていた。
だけど、竹井氏の絵があんまりに綺麗だったのか、それとも竹井氏の絵の中に「性的なもの以外の何か」を見いだしてしまったのか、よくわからないけど、
そんでまぁ、ヒロインの数を減らして一人一人のシナリオを強化させたら、「恋愛ゲーム」になってしまったというわけだ。

ただ、この蛭田氏の言葉を、そのままストレートに受け取っていいかといえば、これもなかなか微妙な話だとおもう。
まず、ぼくはこの『同級生原画集』をお兄ちゃんの部屋で何回か読んだことがあって、いま手元に資料がないから確定的なことはいえないんだけど、
蛭田氏はこの本の中でもっと結構微妙なことを言っていたような気がする。少なくとも、この抜粋だけで蛭田氏の意図を完全に語るのは難しいのではないか。
もう一つ、これは実際にゲームをやればわかることだけど、蛭田氏がやったことは、単純にヒロインの数を減らしてストーリー性をつけたことだけじゃない。
ここら辺の細かい制作の話は素人にはわかりませーんって話にはなる。だけど、素人の推測から考えてみても、ただヒロインの数を減らして、
ヒロインに関するテキストを増やしただけでは、同級生のあの複雑怪奇な「同時攻略フラグ構造」は生まれないハズである。
結果的に「下級生」のような作品が生まれたのなら話は通じる。ヒロイン同士の繋がりが薄く、他のヒロインの攻略が他のヒロインに影響を与えない
「単体攻略フラグ構造」なら、ナンパゲーからヒロイン数を減らしてテキストを増やせば結果的にそうなるだろう。しかし同級生はそれとは正反対の作品である。
さらに、蛭田氏は別の場所で、興味深い発言を行なっている。


>>「『同級生』での自分はええかっこしいだった」(「河原崎家の一族」のWIKIより)


「矛盾」というほどのものではないが、上の同級生の発言とは微妙に食い違う発言だ。同級生を作っていた自分が「ええかっこしい」の自覚があったなら、
自分が恋愛ゲーム「みたいなもの」を作っているという自覚はあったはずである。と、すると「ユーザーに言われるまでは気がつかなった」という
『同級生原画集』の発言はちょっとおかしなことになるだろう。妥当な解釈はできなくもない。自分には「ええかっこしい」の自覚はあったけど、
それがユーザーから「恋愛ゲーム」と言われるようなものだとは気づかなかったのかもしれない。
ユーザーから見てそのええっかこしいものは「恋愛」ということができる要素だった。
蛭田氏の「ええかっこしい」ものとは、「ユーザーに言われるまで恋愛と気がつかなかったモノ」であるが、製作過程で自分なりに
「ええかっこしいなぁ」と思っていたものであった。結局、蛭田氏はそれを「恋愛」となんだかんだ言って認めているようなんだけど、
この蛭田氏の微妙な発言の食い違いは、「恋愛」と「ナンパ」のあいだで揺れ動いていた、同級生という作品を象徴しているようで中々に興味深い。

ただ、ぼくはなにもここで、蛭田氏が嘘を言っているとかいい加減なことを言っていると言いたいわけではない。人はいくら誠実に語ったとしても、
結果的になにかを隠してしまうというか、なにか「上手く語れない部分」というものが出てくるのではないか?というようなことをいいたいのだ。
そういう意味で、コレには作家論的な意味で言うところの「蛭田昌人」という作家性の問題も関わってくるだろう。
僕みたいな萌え奴隷オタが蛭田氏というエロゲ創生期の作家様を批評しようなんぞ、まことにオソレ多いことであるが、
少なくとも蛭田氏がコアなエルフファンの多くからいわれているような「世の中の厳しさを知っている大人向けライター」だけではないのは確かである。

彼らの多くは先の「ええかっこしい発言」を真にとり、蛭田氏が「本当に作りたかったのは」河原崎家シリーズや遺作シリーズといった
「アダルトな抜きゲー」であって、同級生や下級生といった作品は余技とはいわないけど、蛭田氏の本業ではないというような論を進める。
これは下級生以降の蛭田氏の軌跡を説明しているように見えるし、また蛭田氏本人も少なからずはそのような「アダルトな作家」を自認していた可能性も高い。
歴史的に見れば、下級生が発売された約1年後に「東鳩」が出て、時代は急速に紙芝居恋愛ADVへと変化していき、それに従いエロゲの中の「恋愛」という要素も、
徐々にその内容を変えつつあった。それに対応できなかったのか、それとも対応する気がなかったのかは明らかではないけど、
下級生や同級生をヒットさせた蛭田氏にしてみれば、あんな紙芝居ADVのヌルイ恋愛劇なんかに付き合ってられるか! という気が起こっても不思議ではあるまい。
そのような、大多数に対するアンチという意味の「反動的姿勢」が、下級生以降の陵辱ゲー一直線の作品群を産み出し、またそのような姿勢をユーザーが正当化するため、
「鍵ゲーなんかやっているヤツはガキ」という意味合いを暗に含ませつつ、「蛭田氏の作品は大人向け」という言説を作りだしていったような経緯もある。。
これは、何の皮肉もぬきにいって、実に大人らしい対応である。何故なら大人は自分が大人であることにさっぱり疑問を持たずに子供を寛容にシカトできるからだ。

だが、蛭田氏は不幸なことに、いや幸いなことにというべきか、大人になりきるまで鈍感になれなかったライターの一人だと僕は思う。
これは詳しくは個々の作品において語るべき事柄であるが、例えば鬼作や河原崎家の一族2といった作品のエンディングを見ればいい。
蛭田氏はあそこまで鬼畜なシナリオや厳密なゲームシステムを張り巡らせておいて、どうしてあんな「中途半端」なエンディングを作ってしまったのだろうか?
また「下級生」におけるティナの存在のようなある種のメタフィクション的演出も、彼の分裂的な気質をよく表現してしまっている。
彼はシナリオやシステムの「最後の一歩」において、どうしてもその完成を信じることができず、乾いた自嘲とともに自分から自分を切り裂いてしまうことが多い。
なるほど、その種のアイロニカルな自己認識を「大人の態度」だとなんかテキトーにソレっぽく肯定することもできるだろう。
然し、鬼作のエンディング曲にわざわざ「人間椅子」をチョイスしたり、「河原崎家の一族2」において、あそこまで行くと誰も勃起しないような
極悪非道なエッチシーンを露悪的に書きまくっている人間を、達観した大人と認めることはなかなか難しい。


よって、話を元に戻すと「作者の意図」という観点から見たとしても、この作品の正体は何とも掴みがたいのである。
まず、蛭田氏の発言を100%信じるなら、
この作品のゲームシステム自体が「ナンパゲー」という過去のシステムの残滓を背負っていて、それを途中からいろいろと修正したという
なんだかサイボークみたいな中途半端な生き物なのである。もしもこの作品が「エロゲーの元祖」みたいなものだとしたら、そもそもエロゲーというものは
こうした中途半端なゲームシステムから生まれたキマイラのようなバケモノだとえるだろう(んなものどのジャンルでも似たようなモノかもしれないけど)。
システムだけではなく、作者の純粋な意図も中々に混乱しているといえる。少なくとも作家が自信を持って「わたしは恋愛ゲーを作りました!」
といえる作品じゃない。むしろ、同級生という作品のイメージは、「読者の解釈や意見」から「恋愛ゲーム」というネーミングが生まれたとさえいえる。
そして、結局作者もこれには(一応表面上は)同意して、「同級生2」という続編はこの「恋愛ゲーム」路線を踏襲してしまったわけだ。

昔のゲームメーカーはユーザーの意見には釣られなかった!とか言う人がわりとたくさんいて、
まぁ比較論的にはそういう傾向はあったかもしれないけど、ユーザーの意見が何らかの影響を及ぼした事例っていうのは、
それこそエロゲーの元祖とまでいわれる「同級生」の時代からあった話だったんだよね。この同級生という作品においては、作者の元から不鮮明な意図と、
読者の鮮明な解釈が不気味に結びついて、あくまで後代の立場からみてみると、なんとも据わりの悪い空間を作り上げているとは言えるだろう。
おそらく「同級生」が「葉鍵」の作品に比べて、「エロゲ史」的な意味でも言及があまり見られないのは、こうした作品の受容環境に理由の一端があるかもしれない。
「葉鍵」の受容も細かく調べれば色々な混乱があるんだけど、同級生のそれに比べたら「葉鍵はエロゲに紙芝居ADVを定着させた」と、
簡単に纏めることができるわかりやすい大きな影響関係がある。でも、同級生がエロゲにもたらしたものは、当時からみても、そして今から見ても、
確かに今のエロゲの大きな影響をあたえとは言えるけど、その影響が具体的にどういうものかは、これこれこうとはいいにくいものなのだ。


「うーむ、それじゃあ、レポートはどうしようか。作者の意図はこの作品にはあんまし適応できないってことはよくわかった。
それなら「作者の意図という旧体制は終わった。これからは読者の解釈が作品を決める時代だ!」とかポストモダンっぽいことをいって
「売れたモン勝ち文学論マンセー」のネタに同級生という作品を使うってのはどうだ? この作品のヒットがきっかけで「恋愛ゲーム」という
市場が生まれたのは事実だし、読者の「同級生は恋愛ゲームだ!」という大きな声が「同級生2」という作品に繋がったんだしね。

よーし、そんな感じのネタで纏めればいいや。どーせ、こんな古くさい作品やるきなかったしぃ。レポートなんてコピペで充分♪
はぁ?、今日日ババァンヒロインとかはやんねーよタコ。だいたいヨスガのババァやひろさんの一色ヒカルボイスとか嵌り役すぎじゃねーかっ!
おかしいだろ? なんで一色ヒカルは最近オバハン役ばっかなんだ? 年齢? んなわけねーよっ、だいたい同級生のこおろぎさとみだって実年齢は(以下略)」

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(3)「推理?ナンパ?それとも恋愛? 難易度不明のゲームシステム」

さて、学校のレポートの話はもうおしまいにしよう。この作品がエロゲ史的にはどういう意味合いを持つかとか、
恋愛ゲーの元祖だとかいった「ふーん。それで?」的なネタはここまでにしよう。そういう話で結局わかったことは、
「要はユーザーとか業界の都合で、同級生という作品はいろいろ解釈されてきたんだな」くらいのことで、
あなたがふつーにプレイする際には金輪際必要ない知識である。プレイしたあと、自分なりの感想と他の人の感想を比べる上では有益だし、
こういうネタを知っておくといろいろなエロゲの「繋がり」が見えてきて面白いとは言えるけど、まぁそれはプレイ後の話ではある。

とはいっても、ここでやっぱり問題が出てくる。このソフトを改めてやろうぜって人は、最初に作品需要のところでちょっと語ったように、
「ぱっと見面白そうだから」とか「絵がよさげだから」とか「他の人が面白いって言っていたから」みたいな素朴な理由じゃなくって、おそらく
「なんか有名な作品だから」とか「名作といわれているから」とか「同級生ぐらいやらないとエロゲオタじゃないと言われたから」みたいな、
そういう、ちょっと変な言い方だけど「教養」的な意味でやる人が多いんじゃないか。だって、今さら普通のエロゲをやる感覚で
「同級生」を選び人は少ないと思うのだ。ぶっちゃけ、絵も上手いとか下手くそとかそういう以前に「エロゲの絵」じゃないもんね。いまから見ると。
そういう人に対して「教養的なプレイはよくありませーん!」というのもある意味では正しいし、僕もわざわざ教養を無理に深める理由はないとおもう。

だけど、こういった「教養への興味」が邪道かといえばそんなことないわけで、きっかけは基本的になんだっていいとも思うのである。
問題があるとすれば、この「教養」というお題目が必要以上に邪魔をすることだ。自分が詰まらなく思ったり、楽しめなかったりしたのを
「自分の教養が足りないんだ」とか必要以上に自己反省しちゃうのはマズイ。いや、そういう自己反省もタマには大事だったりするよ。
だけど、ぶっちゃけ「昔の作品」をいまの人が楽しめないのは当たり前のことである。基本的にフィクションのルールみたいなモノが違うんだから。
だから、必要なのは、過剰に自己批判することでも、「昔の作品なんかクソ」とか開き直ることでもなくて、わからないことは当たり前としながらも、
そのフィクションの中をできるだけ「楽しんでみよう」とする態度じゃないか。「よくわからないけど、こういうところはいまの作品と違ってなんか面白いな」とか
「あれ? 昔の作品といっても、なんか今の作品と基本的なところは変わらないじゃん。おもすれー」とか楽しむことが出来ればOK牧場である。
それがたぶん、古い作品を今の時代のあなたが有効に利用できる一つの方法ではないだろーか。


と、偉そうなことを言っておいて何なんだけど、僕がこの作品を始めてやったときは、僕はこの作品がぶっちゃけなんだかよくわからなった。
確か僕が小四の時の話である。僕は一度もエロゲというモノをやったことが無くて……ってこの話はちょっと違うはなしになっちゃうか。
でも、案外通じるところも多いじゃないだろうか。僕がこのゲームをやって「壁」にぶち当たったのは、
まず、ユーザーが「なにをしたらいいかよくわからない」ということだ。取り敢ず、女の子が仲良くなるのがこのゲームの目的らしい。

基本的にはMAPを移動していろいろな場所に行き、女の子とあってイベントを進めていくのだろうということぐらいは、まぁなんとなくわかる。
いまのエロゲと違って、そのMAPの場所には「どこにどのヒロインがいるか?」は表示されない。そして、このゲームには時間という概念があるから、
例えば、AM1:15には「喫茶店」に「美穂」がいる。AM1:30には同じ場所に「舞」がいて、同じ時間の花屋には「美穂」がいる、といったように、
特定のヒロインを一人だけ探すのはすごく難しい。別に厳密に調べたワケじゃないが、ヒロインの数は10人以上で、場所はたぶん20個以上、
そして時間は15分分割の丸々24時間(このゲームの主人公に睡眠は必要ない)が20日分もあるので、これらの要素の組み合わせを考えたら膨大なモノになる。
たぶん、はじめてこの同級生シリーズをやるプレイヤーは、どこにヒロインがいるかわからず、単純に途方にくれるのではないか。

もちろん、ヒロインの出現ポイントはアトランダムではない。ある程度(これが重要だが)は、ヒロインが何処にいるかはわかるようになっている。
たとえば、桜木舞というメインヒロインの場合、彼女は水泳部に入っているという情報がすぐ伝わるので、それはそのまま学校のプールにいけばいい。
他のヒロインも、そういう「確定ポイント」みたいなところがある。そこを重点的にチェックし、彼女と会い続けていればクリアできる……なんて甘いことはない。
「確定ポイント」に向かうのは当然だとしても、ヒロインは確定ポイント以外の場所にもいる。そうした場所で、攻略に必要なイベントが起こったりするので、
単純に確定ポイントだけまわっていると大半のヒロインはクリアできない。ね、なんだか難しそうな感じがするでしょ?

そして、この「確定ポイント」以外のヒロイン出現場所は、なんらかのヒントや合理的な推理によってはみつからない。
まぁヒントをくれる隠しキャラはいるが、それはオマケみたいなもので、基本的にはユーザーが「偶然」見つける類のモノである。
だから、この作品の難易度は、ヒントや問題を解く鍵があって、
その応用がわからないといったような、推理ゲーに見られるような「合理的な難易度」といえるものではない。
そういう部分も多少はあるけど、この作品の難易度の高さの大半はそれに起因するモノではない。

この「難易度」という普段使っている言葉は中々に厄介だ。確かに、以上のように説明するとこのゲームは難しく思えるし、
たぶん、今のユーザーの皆さんが普通にやったら途中で投げ出してしまうだろう。これは基本的には事実である。
そういう人はまず「下級生」でエルフのゲームになれて……というアドバイスも必要だし、最初は攻略サイトをみても仕方がないと思うが、
ここで僕が確認したいのは、ここで「難易度」という言葉に含まれている諸前提だ。つまり、こうした議論における難易度とは、


「このゲームは一人のヒロインを追っかけるゲームで、複数の場所と長い時間の中から一人のヒロインを見つけるのが難しい」


というような、いわば「ウォーリーをさがせ!」的難易度が前提とされているわけだ。もっと論理的に言うなら、
このゲームの目的は「一人のヒロインと恋愛すること」であって、「ヒロインのいる場所や時間が多くて探しにくい」という障害があり、
その達成が困難だから「難易度が高い」という結論が導き出されるわけだ。別にこんなことをわざわざ書かなくても、
今のユーザーの皆さんは「そんなの当たり前でしょ」と思うに違いない。エロゲーとは、恋愛ゲーとは、一人のヒロインを選ぶのが普通なんだから。

ところが、この作品では「必ずしもそうではない」というのが、まず第一のキモなのだ。冗談ではなく真面目に言い換えれば、
この「キモ」はある意味で「キモチ悪い」ということも意味するのだが、まぁそこらへんは後述しよう。

「なんだって?このゲームの目的は一人のヒロインを選ぶことじゃないの?だって最後には好きな女の子に告白するんだろ?どういうことだよ?」

以上の疑問は全て正当である。なまじ「昔のゲームなんだからいろいろ事情があるんだよ」みたいなしたり顔をするよりも、
こうした疑問をちゃんと感じる方が「同級生」という作品の本質に一歩一歩近づいているとさえいえる。古典はケチをつけながら読んだ方が理解が早い。
そう、確かに、同級生という作品のゲームクリアの条件は「一人の女性に告白してOKをもらうこと」である。これは間違いない。
だったら、今のユーザーは、他の女の子には脇目もふらず、浮気せず、徹底的に一人の女の子をストーカーすべし、と考えるのがまぁ常識だろう。
しかし、同級生という作品は、そのようなプレイスタイルでは基本的に一人のヒロインさえもクリアできない。
このゲームは「一穴主義」ではなく「浮気上等」のプレイスタイルでいかないと、お目当てのヒロインをクリアできないのである。

「そんな不条理な! 今のエロゲでも八方美人な選択肢をしているとバットエンド逝きはあるけど、その反対はないぞ!」

とかあなたが思っても無理はない。一般的に見ても常識的な恋愛をすればするほどクリアは遠のき、
逆に、Niceboatな行動をすればするほどクリアの確率は高まっていくのである。今のユーザーは多分ここに最大の違和感を覚えるだろう。
まぁちょっと冷静に言うと、攻略フラグの観点から見てみると、別に複数のヒロインを積極的に狙う必要はないとはいえる。
平たく言えば「特定のヒロインを狙う」のではなくて、他のヒロインを無視せずに、いろいろな場所を歩きまわっているうちに、
あるヒロインの攻略フラグが自然と立っている、というのが客観的な見方だろう。「一人のヒロインを狙っているだけダメ」というわけだ。
とはいえ、こうしたプレイが、基本的には「他のヒロインを狙っている」ように感じられるのもまた事実である。それにあるキャラの攻略のためには
あからさまにあるヒロインとあるヒロインの二股を掛けたり、好きでもないキャラとセックスする必要も生じてくるのもまた事実だ。
最終的には「狙うキャラによっていろいろ違う」わけだが、根本的なところで、今のエロゲとかなりズレた部分があるのは否めない。

こうしたゲームシステムについて「難易度」を云々するのは、以上のような理由で難しい。このゲームの難しさは
「難易度が高めなので初心者には難しいと思います」という類のモノではない。先にも言ったように、一般的な今のユーザーにとって、
この作品を難しいと感じるのは事実だが、それは彼らが慣れている「今のエロゲ」と、この作品が、根本的なところでシステムが違っているからである。
まさか一人のヒロインをクリアするために、わざわざ浮気プレイを求められるとは夢にも思うまい。これは「難易度」以前の価値観の問題だと言える。
だから、この作品を楽しんでやろうとするなら、そういう「一人追っかけプレイ」とか「フラグを確定するために街を徘徊する」といったような、
既存のゲームの価値観をいったん捨てた方がいいだろう。まぁ、このゲームを新たにやってみようとする人には、それほど難しいことではないかもしれない。
だって、新しくこのゲームをやる人で「○○たんを攻略してぇぇぇぇ!」とヒロイン攻略を急ぐ人はそんなにいないと思うから。


「ヒロイン一人をおっかけないプレイ」をやるとして、では、どのようなプレイをすればいいのか?
「あなたの思うままにやればいい」というのがベタな答えなんだろうけど、それじゃ不親切すぎるので適当に答えておくなら、
とにかくMAPの中をいろいろ探索してみればいいと思う。このゲームの場合、特定のヒロイン以外なら、
適当にMAPを探索するだけでヒロインと遭遇することで、中盤までなら知らぬ間に攻略フラグが確定していることが多い。
「何をしなくちゃいけないのか?」みたいなシナリオの基本的な目的は、
街のなかをフラフラしていると起こる自然発生的なイベントをこなしていれば、だいたいわかってくるものである。
攻略サイトを見なくても、いや、見ない方がこのゲーム特有のゲームシステムが自然と体感できるはずだ。

強いて言えば、この作品のゲームシステムは、先に言ったような「ウォーリーをさがせ!」的難易度による攻略性を引き起こすモノではなく、
自分自身がウォーリー君となって、架空の街のなかをいろいろと探検する面白さを体験させる為に作られたモノかもしれない。
これはある意味で「さんまの名探偵」みたいなMAP探索推理ADVと似たようなところがある。、
だけど、この同級生のMAP探索の面白さは、推理ADVみたいな「正解を探す」ミステリー的なゲーム性というよりも、
架空の街の中で、様々な場所の中で、刻々と移り変わる時間の中で、ゲームのキャラクター達が主人公と同じ時間のなかで存在しており、
それぞれの物語が交差したり交差しなかったりするような、偶発的で日常的なファンタジーを感じさせるところだと僕は思うのだ。

そういう意味で言えば、この作品のそうした「複数攻略フラグ」はあるキャラクター単体の「シナリオ(物語)」を語るというよりも、
あくまで、主人公とキャラクターたちの「体験」を描くために作られたモノだと言えるだろうか。
同級生シリーズはよく「ドラマチックなシナリオ」とか「リアルな恋愛ストーリー」とかいろいろ言われるのだが、
その「ドラマチック」や「リアル」の感覚は通常のエロゲの「物語」では語りえないような、このゲーム独自のゲーム性によるものだと言えるだろう。
この作品がリアルだと感じるのは、そもそもゲームの大半が、主人公一人で街のなかを探索するという散文的な時間に費やされるからであり、
この作品がドラマチックだと感じるのは、そんな索漠たるゲーム時間の中で、突然ヒロインと遭遇しイベントが進んでいくのが面白いからだろう。
この同級生のゲームシステムは、難易度によるゲーム性の攻略要素でユーザーを引き込むモノではなくて、
むしろ難易度や攻略要素といった概念を半ば放棄して、架空の街のなかをブラブラ散歩させて、そこでの体験を楽しませるという効果を持っているわけだ

この同級生が「恋愛ゲーム」と歴史上始めて呼ばれるようになったのは、以上に分析したゲームシステムが、
「難易度による攻略達成目的」によってゲームを構築するものではなく「架空の街の中で架空のキャラクター達と一夏の体験をする」ことに、
たぶん歴史上始めて特化したゲームシステムだったからかもしれない。
今から見るとこの「複数攻略ヒロインフラグ」というのはエロゲの常識から完全に外れているように思われるが、
エロゲ、「二次元萌えゲーム」の創作原理はこの同級生から始まり、そして今もそれは続いていると言っていいだろう。

今では当たり前すぎてよく理解していない人が多いが、
エロゲにおけるゲームシステムの第一原則は「二次元世界を描くためにゲーム性を用いる」ということだ。同級生という作品は、
「架空のキャラクターたちと架空の街を再現するために、MAP探索ADVを用いる」という考え方によって、
「ゲーム性を機能させるためにキャラクターや世界を描く」というゲームの常識を打ち破り、
「キャラクターや世界を描くために、ゲーム性を機能させる」というエロゲの第一原則を始めて作りだした。。
たとえ、今とはゲームシステムやフラグの考え方が異なっていたとしても、現代のエロゲにも続いている礎を築き上げた作品なのである。

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(4)「田口ロミオもこれには失禁!? 純愛と浮気を同時並列処理するメニーコア対応画期的ニューシステム!それが「NANPexe」だ!」

「NANPexe」というのは、同級生というアプリケーションにおける実行ファイル(exe)の名前であり、
同級生シリーズファンにとっては、作品を語るときには欠かせない一つの愛称のようなものである。
同級生という作品についていろいろと議論が巻き起こったとしても、最後に「同級生はNANPexeなんだよっ」と言ってしまえば、
みんな何故か納得してしまうタイプの「マジックワード」だったとでもいえようか。
これは別にオタクだけには止まらないが、所謂その道に通じた「通の連中」という人たちは、僕のようにグダグダと長文を書くよりも、
この「NANPexe」みたいなマジックワードを使って、言葉少なめに、短めに「わかる人だけはわかる」の議論を展開することが多い。

さて、ではこの「NANPexe」という長らく愛された表現は、同級生という作品のどのような部分を表現しているものなのだろうか?
まず、単純に思い浮かぶのは前述した「ナンパゲー」というものだろう。この作品はナンパゲーなのだから「NANPexe」という単純な考え方だ。
一部の使用者はこのような単純な意味合いで「NANPexe」を使っている可能性もある。ただ、この言葉にはもっと違う意味合いもある。
正確に言うならば「ナンパゲー」という言葉をどのように解釈するかが問題なのだ。この言葉にはどのような多義性が込められているか?

僕は先ほどの(2)で同級生における「恋愛ゲーム」の発祥について語ったときに、「ナンパゲー」について多少触れておいた。
正直に告白するなら、僕は同級生前のナンパゲーについてはせいぜい五本ぐらいしかやっていないし、またやったときも小学生時代なので、
それほどこのジャンルについて深い知識はない。だが、同級生という作品が今までの「ナンパゲー」とは違うということぐらいはわかるし、
古参のオタの人の意見を拝聴しても、そのような差異は十分に認められるものである。同級生という作品は、「同級生以前のナンパゲー」ではないわけだ。
すると、同級生についてある程度詳しいユーザーが語る「ナンパゲー」とは、どういう意味においてナンパゲーという言葉を用いているのだろうか?
少なくとも「同級生以前のナンパゲー」という意味を語っていることはないと思われる。それを克服したことがこの作品の重要なところなんだから。

まずここで使われる「ナンパゲー」という言葉は(2)で見た所謂「ヤリ捨て」タイプの
「ナンパゲー」とは意味が違っている。前者が「ただ女の子を探して口説いてHをして終わり」という、一般的に見てもややネガティブな
「ナンパ師」(これも古い言葉だが)を意味するとしたら、同級生で使われる「ナンパゲー」はそれよりもまぁ多少はまともとはいえる
「たくさんの女の子とあって仲良くなりたい」くらいの意味が込められているだろう。これはあとで詳しく分析するが、基本的には
「たくろう」という主人公のテキストがそうした態度を踏襲しているのは事実だ。

次に、以上のような議論は全て先の「ナンパゲー」を肯定的に捉えているということである。
まるで彼らユーザーが主人公たくろう君そのものであるように、ナンパ行為には積極的にイエスといい、二股を掛けることに対しても罪悪感はないと、
別にダレも聞いていないのにわざわざそのような点を強調する傾向がある。つまり「過剰に肯定的」とでも言える部分が多い。
そして、これとはやや矛盾する傾向であるが「ナンパゲー」というものの「ゲー」の部分を強調しているところを見逃せない。
「同級生はナンパゲーなのだから、こうしたナンパ的な設定は仕方がない」といったような、まず第一に「ゲーム」という
システム要素がこの作品においてなにか不動のようなものであると設定し、然るにシステムの帰結である物語のナンパ行為を「仕方がない」というように
消極的に受容するといった感が見られる。作品の表面的な要素の特徴である「ナンパな主人公のたくろう」というテキスト部分について、
積極的にやや過剰に肯定したり感情移入し、しかし、作品を深層から規定する「ゲームシステム部分」については、なにか、触れてはいけないモノに
触れたかのように「そう言うモノなのだから仕方がない」というふうに目をそらす傾向があるといえる。

コレはこの時代の「ゲーム性のあるエロゲ-」やときメモ等の「ギャルゲー」に顕著な特徴であるが、彼らは「ゲーム性があるということ」については
矢鱈に強調するくせに、そのゲーム性が物語や作品内容にどのように絡んでいるかとなると、どちらかというと口を閉ざす傾向にある。
同級生がゲームとして楽しいとか、攻略性があって何度も楽しめるとか、そういった「ゲーム性」の部分と、
桜木舞の魅力や、美穂たんは本当に悪い女なのかといったキャラクター性やその物語についての記述が分裂しているように見えるのである。

ただ、なにも僕はこうした人たちをネタに、スポ日的スッパ抜き精神分析暴露批評を書こうとしているのではない。
だいたい僕が今例として出している議論は10年以上前のもので、基本的には「何を今更」というものだし、
べつだんエロゲオタを精神分析したところで社会の窓から怒張したチンポを引っ張り出すのがオチであって、
そうして、精神分析が結局はチンポ分析である以上、エロゲオタだろうが鉄オタだろうが文学オタだろうが結果は似たようなモノであろう。
僕が興味があるのは、同級生という作品の「表層的な受け入れやすさ」と「深層的な受け入れにくさ」の二点の問題である。
実際に、この作品をやってみると、確かにやや古くさい部分も感じられるが、たくろうの一人称テキストや自己ツッコミは今でも面白い。
たくろうの行動や言動を否定するか肯定するかは別としても「こいつは次に何をやるんだろう?」的なワクワクでついつい時間が流れることが多い。
ようするに、別段過剰に肯定しなくても、この作品はたくろうのナンパを「それとなく楽しませる」ような部分を持っているとは言えるのだ。
と、同時に、この作品のゲームシステムに違和感を覚えるのまた事実である。この二面性は、ファンでもなくても突き当たる問題だ。

そうして、こうした二面性をファンや信者の皆さんが解決しようとすると、先にいったような徴候が見られるようになる。
そのような議論の中には、中途半端な語り切れないモヤモヤのようなものがみられる。おそらく、そのようなグチャグチャなものを、
たった一つのワンフレーズで解決するように思われるのが「NANP exe」という、一見無機質な実行ファイル名なのだろう。

ロラン・バルトという批評家は近代的なヒューマニズムの言説を「システムは人間の敵である」という言葉によって定式化したが、
オタクにとってこれはやや事情が違っていて「システムこそが人間の味方であるw」といったような、ある種のテクノクラート主義を前面に出す傾向がある。
とはいえ、これは通常のテクノクラートとはちょい違っていて、基本的にはただ単にある体系にすぎないシステムを「人間」と同等に見なすという、
その大袈裟な振る舞いにおいてこれは「反人間」的な一種のツンデレにすぎない。人間を否定する以上に人間っぽい言動が他にあり得るだろうか?
この「NANP exe」も、そのような「システム主義的な」雰囲気をそれとなく漂わせつつ、ゲームでの物語を「ナンパ」と自嘲しながらも、
そのような否定の身振りのなかには否定できない何か大切なものが隠されている。過剰な自己否定はたいていの場合、本当に大切なものを隠すある種の戦略にすぎない。
(むろん「素直になるのが一番いい」みたいな阿呆なことを言うつもりはない。自己欺瞞や韜晦やツンデレは人間の重要な欲望の一つなのだから)

「この作品はナンパゲーなんだよ」と同級生ユーザーが一言で語ろうとする場合、この「ナンパ」と「ゲーム」の組み合わせである「ナンパゲー」という言葉には、
東大のスーパーコンピューターをフル稼働させても恐らく解けないであろう、ある種の圧縮されたデーターがクソの如く詰まっているといえる
この言葉には何らかの矛盾がある。だけど、その矛盾を可能にするというか、無理矢理可能にしなきゃいけないような条件が、この作品には存在している。
ぼくらは、この「ナンパゲー」という言葉を、もうこれが発売されてから18年もたっているのだから、そろそろ解読しなくちゃいけないだろう。


解読の手かがりになるのは、この作品の主人公とユーザー、そして、ゲームシステムのそれぞれの屈折した関係である。
こうした「エロゲの感情移入」の問題については、色々な議論が為されてきたが、根本的な問題はそう難しい問題ではないように思われる。
些か強引な議論になるが、普通のエロゲを「小説や映画のように見る」ことは原理的には可能だ。。
条件としては選択肢が一本もない、一本道の適当なノベルゲーが好ましい。ライターは那須きのこでも木之下みけでもオバマ大統領でも誰でもいい、
絵師も西又氏でもゆでたまご氏でもルネ・マグリットでも構わない。要は「プレイヤーの選択」という意志が作品に一切関わらず、ただ受動的に作品を
読解する存在にプレイヤーがなれば――つまり「プレイヤー」が単なる「読者」とか「鑑賞者」になれば――メディアとの関係が小説や映画と同じになるからである。
エロゲが第一に「小説や映画」と違うのは、こうしたメディアとユーザーの関係性における「プレイヤー」と「読者」との違いだ。
そして、この同級生という作品は、単純にいって「プレイヤー」の要素が他の作品と比べて大きく、そしてその関係性も大きく異なっている。

例えば、画面内のオブジェクトをクリックするタッチ方式だとか、いろいろな細かい違いはあるのだが、ここでは根本的なところだけを指摘しよう。
まず、先に言った「プレイヤー」の役割の大きさという問題。最近の普通のエロゲは、選択肢といったら、大抵は「攻略キャラ選択」ぐらいの意味しかない、
「キャラルート分岐」の選択肢がメインである。大袈裟に言えば、共通ルートで特定のキャラを選ぶ選択をしたあとは、
あるキャラの物語をずっとユーザーが眺め続ける「読者」状態に置かれると言っても間違いではない。
むろん、この「たった一つの選択肢」というのも、「オレ様が○○たんを選んだのだ!」という主観的感情移入には欠かせない存在だし、
これらが「嫁選びADV」でしかないとしても、それだけでこれらの作品は小説とは違ったメディア性を持つとは言える。

だが、この作品はもう根本的にそういったゲームとは違う。ここでは基本的にプレイヤーが「選択する」という以上に、
何から何まで「行動」しなければならない。「会話の選択肢」だけじゃなく、その会話をするキャラを見つけるために、プレイヤーはMAPの中を動き回るのだ。
一般的に言えば「大変自由度が高い作品である」という言い方になるだろう。とはいえ、この「自由度」という言葉は
「自由度が高い作品って素晴らしいっすね」という紋切り感想だけでは済まされない問題をも含んでいる。
「全てが自由になってしまえば、大切なことは何もなくなる」という格言を思い出そう。そして、この同級生という作品がクソゲーではない以上、
この作品の「自由度」にはある一定のシステムが構築されていることでもあり、それが「ナンパゲー」という言葉の謎を解く鍵にもなっているはずである。

すっごく単純な想像をしよう。もしもプレイヤーの自由度の公使によって複数のヒロインとHが可能で、同時にまた正反対の純愛物語「も」可能な、
大変自由度が高い作品があったとしよう。この同級生という作品はまさにソレなのだが、この場合、物語と主人公の自我の連続性はどうなるのか?
普通の今のエロゲがこうした作品を作るなら、単純に考えて「ハーレムルート」とか「○○ルート」みたいなモノが一つの作品の中に存在するものを作るだろう。
こうすれば、ハーレムルートの物語には(上手く書けるかどうかは別として)それ相応の物語的理由と主人公の自我の連続性があり、
○○ルートの物語には、それ相応の物語的理由と自我の連続性がある。この二つを「別の可能性の物語」と綺麗に何とかルートとして割り切れば、
あなたは非正規雇用労働者を殴り倒したあとに、家に帰ってクラナドの家族愛の物語を楽しむように、それぞれを「違う」物語として楽しむことが出来るだろう。

しかし、この「同級生」という作品は、そういう「個別ルート」とか「○○ルート」みたいな概念が、基本的に存在しないゲームシステムだ。
やりようによっては、ゲーム内の一日の中で○○とデートをして、××とセックスをし、△△と愛を語らうみたいなことも可能である。
普通のエロゲの「○○ルート」の概念で言うと、○○とデートしたあと、××ルートのセックスシーンを回想シーンでみて、さらに△△ルートの告白シーンを
ロードするようなものだといえばわかりやすいだろうか。このように考えると、同級生という作品の物語と主人公の自我の連続性はめちゃくちゃなのだ。
しかし、実際にこの作品をプレイしてみると、そのような無茶はあまり感じないのも事実である。それはなぜか?

実は、さっきの言い方には多少語弊がある。正確に言うならば「めちゃくちゃになる可能性もある」。やろうとすれば、
ユーザーは純愛「も」貫き通すことが可能だからだ。つまり、純愛も出来ればナンパも出来る。滅茶苦茶な物語や自我ができるかもしれないし、
わりとまっとうな物語や主人公像が浮かび上がってくるかもしれない。しかし、それもある意味では「滅茶苦茶」であるまいか。
「別の物語の可能性」という「切り離し」をせずに、一つの物語空間の中で、ナンパと純愛のそれぞれの行為が可能な物語と主人公という存在を、
想像してみると、なんだか頭が痛くなってきそうだ。ソイツは一時間ごとに性格と記憶がクルクル変わるロボットのような人間で
○○たんを相手にしているときは○○たんと普通に恋愛をしているように振る舞い、一時間後の△△のナンパの時には別人の如く豹変する。
かといって、性格が完璧に入れ替わるエキセントリックな人間ではい。なにせ彼は純愛「と」ナンパをする人間ではなく、
純愛「も」ナンパ「も」或いは両方と「も」する「可能性がある」可変的な人間で、そうした特徴を日常的に全て備えていなければならない。

勘違いしてしないでほしいのは、ここで求められているのは「鬼畜ゲー」とか「陵辱ゲー」の主人公ではない。
つまり、ヒロインを「騙す」とか「甘い言葉で誘って調教する」といったような、何らかの悪意をもって「ナンパw」や「純愛w」をする人間ではないのだ。
ここで求められているのは、こうした悪意を持たず、それぞれのシーンで「その時だけは」本気で、純愛やナンパができる役者のような主人公であり、
物語空間に求められるのは、こうした主人公の純愛やナンパといった、複数のシーンの重なり合いの正当化する、或いはそうでなくても
「無理はない」とユーザーになんとなく思わせるような設定である。つまり、上記のような「自由度の高さ」を包摂する主人公と物語が求められるわけだ。
そして、同級生という作品が前述のように無茶苦茶に感じられないとすると、この作品にはそうしたシステムが組み込まれているということである。


ここで「同級生時代のゲームは主人公をプレイヤーの分身としてみるから、物語に一貫性がなくてもいい」というよく言われる議論もあるだろう。
確かに今のADVと同級生時代の作品を比べるなら、その「主人公」としての機能が微妙に違うのが理解できる。
無論、作品によって細かい部分は違うわけだが、今のエロゲの主人公は、虚構作品のなかのひとりの人間としての「人格」がそれなりに認められており、
屁タレ主人公だとかDQN主人公だとかユーザーには色々と文句を言われるわけだが、取り敢ずはまぁ彼が独立した感情を持って行動することは認められている。

一方、同級生時代の「主人公」は、基本的にその行動の殆ど全て、会話の場合はその会話の選択肢もユーザーによって決める場面が多い。
ユーザーによって決められたそれらの行動全ては、ユーザーが自分自身によって作り上げたものなのだから、そこには自分自身ならではの一貫性が存在するというわけだ。
これは今の紙芝居ADVに慣れたユーザーにはちょっと理解できないところかもしれないけど、まぁ自分自身の人生や一日の行動を振り返ればわかりやすいと思う。
その場その場では自分なりに一貫していたと思える行動や発言が、他の人や、後々から自分で振り返ってみたらら案外メチャクチャである、ということはよくある。
自分が能動的に選択して行動したり発言しているときは、どうも自分の行動に何らかの一貫性があるような気がしちゃうものだ。
こうした「主体的な行動による一貫性」を、同級生時代のエロゲーやギャルゲーのシステムはユーザーに与えるので、例えその行動が一般的には一貫性に欠けていても、
少なくともプレイヤーがゲームをプレイしている間はそれに気づかないということはある。

だが、そのような「プレイヤーにおけるゲーム空間の自由度が、プレイヤーに行動的一貫性が与える」というのは、それだけでは些か疑わしいところもある。
いくら選択肢を自由に選択できるといわれても、その選択肢というのは既に制作者が作った選択肢の中からしか選べないものであり、
その自由度は「ある選択肢を自由に選択できる自由度」という「制限」の中からうまれた「自由度」でしかないわけだ。
ずいぶん昔に「タイピングADV」VS「選択肢ADV」という論争があった。
タイピングADVというのは、まぁ簡単に言えばある種の選択に対して、自分で文章や単語を打ち込み「答える」タイプのADVのこと。
始めから「何個かの答え」がある選択肢を選ぶADVよりも、自分で答えを打ち込むADVの方が自由度が高くてよさげじゃんみたいなノリの論争だったと思う。
なるほど、確かにそんな気がしないでもないし、そういうADVも面白いかもしれないが、だがまぁ論理的にはその程度の「気がする」ですむ問題ではある。
なぜなら、始めから記述されている選択肢から答えを選ぼうと、読者が答えをタイピングによって記述しようと、
その正解やアクションに対する反応は制作者によって「決められているから」である。

確かに、タイプADVは無限の選択肢を読者に与えるかもしれない。基本的には何を書いてもOKなのだから。。
別の問題に例えるなら、あなたはテスト用紙に選択肢の問題があったからといって、原理的にそこの選択肢に従う必要は全くない。
シャーペンを前の席の人間にぶっさし、おもむろにチャックを開けてテスト用紙に放尿したっていいのである。あなたはどんなことでもできるハズ。
だが、このような行動は基本的に「ナンセンス」である。あなたがナンセンスな行動をする自由は無限に存在するが、だからどうした?といわれてオシマイだろう。
タイプADVならそのタイプADVの中の物語や状況、テストならテスト用紙が記述している問題において、
「適切」であったり「正解」と思われるような行動や記述は、それらの制作者においてあらかじめ決められているし、
それらのゲームやテストを進んで受ける人間は、そうした「物語」や「テスト」という「制限」を受けることに意味を見いだしている。

考えてみても頂きたい。どんな答えを出しても必ず正解するテストなんて全くテストの意味を持たないだろうし、
どんな選択肢を選んでも、物語も、テキストすらも全く変化のない選択肢なんて選択肢の意味を持たないはずだ。そのような自由度には全く意味がない。
選択肢における自由度というのは、正確に言うならば「ある選択肢の中から選択を選ぶ」という「どれにしようかな天の神さまの言うとおり」遊びの面白さなのである。
その遊びの面白さは「自由にものを選ぶことができる」というところにあるのではなく、限られた制限の中で「一つしか」ものを選ぶことができず、
それによってその一つが大切に思え、まさに自主的に自分が自由に行動したと錯覚できるような、制限されているが故に感じることができる自由度だ。
つまり、ある自由度を持った作品の自由度を分析するためには、ただ単に「この作品は選択肢が多くて面白いです♪」というだけでは原理的にはダメで、
その選択肢が物語や状況の中で、どのような制限を作ったうえで選択肢が出され、その選択肢による結果が、どのような固定化した物語や認識へと、
ユーザーを導いていくのか見る必要があるだろう。まぁ、大雑把に言えば、ユーザーが全てを選択できるというのは錯覚にすぎないのだから、
その作品がどのような選択肢をユーザーに与えて、ユーザーに「どのようなものを選んだ」気分にさせようとしているのかを考える必要があるわけだ。

これを解くには、前述した「浮気も純愛もできる」という自由度に対する、作品上のある制限の要求から同級生という作品を見ていくのがいい。
「この作品は自由度が高い素晴らしい作品です」と言っただけでは、なんでそれがある一定の有機的なシステムを持った構築物になっているのかわからないけど、
その有機的な自由度を可能にしている「自由度に対する制限」に注目すれば、その自由度と呼ばれるものが一見「何を自由にしていて」、
そして深い所では「何を不自由にしている」のか朧気ながら見えてくるはずだ。


まず「ナンパな主人公」という「たくろう」の設定。もっと正確に言うと「今まで何人かの女の子と遊んだりHしたことはある」けど、
未だに「特定の異性と深いつきあいをしたことがない」という設定。これが浮気と純愛の同時並立を可能にする。いや、厳密に言うと
「浮気」はこのゲームでは存在しないと言える。主人公は一人のヒロインだけを追っかけていても、クリア前までには絶対に
「おれと付き合ってください」とは明言しないのだから、あくまで主人公の側からいえば、誰にも告白したことにはならず、
誰か特定の異性と付き合っている意識も殆どない。だから、複数の女の子にちょっっかいを出したとしても、セックスをしたとしても、
それは「弄んでいる」のではなく純粋に「遊んでいる」だけであり、あくまで本人とっては浮気意識はゼロであるといえる。
そうした「ナンパ」の正当性と同時に、この設定は主人公の「純愛」も正当化させる。ゲーム開始地点、主人公は誰とも付き合っていないから、
(一人攻略可能なヒロインであれば)ただ一人だけヒロインだけを追っかけて、そのヒロインと初めての恋愛をしましたという状況だって可能である。

端的に言えば、主人公がゲーム中に「誰かを恋人にする」ということを考えずに単数や複数のヒロインといろいろな接触をして、
主人公がゲームの最後に「誰かと付き合う」ことを考えて一人のヒロインをそこで始めて選択すれば、ヒロインサイドは納得するかどうか知らないが、
あくまで主人公側とユーザー側から見れば、ゲーム中のあらゆるナンパや純愛は丸く収まることになる。たくろうからしてみれば、
「ゲーム中」のナンパ行為は全て「お試し期間」なのだから、そこでどんな無茶をやったとしても、クーリングオフが成立するというわけだ。
これは今でも一部恋愛SLGには採用されているシステムである。最後の告白をゲームの締めにして、そこに至るまでヒロインに具体的に
「好きだ」と言わないのならば、他のヒロインの好感度を全員MAXにしたって、表面的には倫理的問題は発生しないわけだ。
このナンセンスを意図的かどうかは知らないが、徹底的に破壊してしまったのは同エルフの「下級生」だが、これについては別の機会に述べる必要があるだろう。

纏めよう。複数のヒロインの攻略と、単数のヒロインの攻略を、一つの物語空間の中で同時並列するさいに、主人公の自我の連続性や物語の正当性を
付与するのがこうした「ナンパゲー」というゲームシステムなのだ。同級生ユーザーが「この作品はナンパゲーなんだ」という言うとき、
この言葉に含まれる「システム的な要素」は、以上のような議論によって説明することが出来るだろう。つまり、ここでいうナンパゲーとは、
手当たり次第に女の子とエッチしまくる「旧ナンパゲー」要素でも、ただ単に女の子と仲良くなって遊ぶという意味での恋愛ゲー要素でもない、
それは、「ナンパゲー」というゲームシステムによって、一人の女の子とだけ仲良くなったり、複数の女の子とエッチしたりすることが、
同時に認められ許されるような、言葉の本来の定義で言うところの「軟派な」プレイをユーザーができるという意味で、同級生は「ナンパゲー」なのである。

故に「NANPexe」という言葉はまさに嵌りすぎという他ないだろう。この作品はゲームシステムからその物語に至るまで総てナンパな――
いや正しい日本語を使えば「軽薄な」ゲームシステムと物語に充ち満ちているのだから。
これが同級生以前の「ナンパゲー」なら基本的にそれは、「大多数の女性キャラを食べるだけ」なのだから、ある意味硬派な「割り切った」作品と言える。
葉鍵以降の純愛ゲームならば、基本的に一つの物語のなかで一人のヒロインを攻略するので、メタ的な視点はどうあれ、一応それは硬派な純愛ゲーといえるだろう。
だけれども、この「NANPexe」はそのどちらにも属さない。純愛もできるし浮気もできるというそのゲームシステムにおいてきわめて「軟派」であり、
たった一人のヒロインと純粋な純愛を貫くのは難しく、また複数のヒロインと浮気は出来ても最終的には純愛エンドしかない物語設定の点でも「軟派」なのだ。
このようなあらゆる意味で中途半端な作品を「NANPexe」と名付けるのは、如何にも90年代初期のオタに相応しい屈折っぷりだと言えよう。

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(5)「ナンパな主人公と知りながらも恋をするヒロインと、ナンパにあまり悩まない主人公と、ふたりのあいだで複雑な感情を抱え込むぼくら」

とはいえ、である。この作品は、先に分析したようには「完璧な」ナンパゲーとは言えない部分がある。
強いて言えば、ユーザーや主人公にとって「完璧に都合が良い」ゲームとはちょっと言えないのだ。
確かに、前述の分析で語ったように、ナンパシステムによって、純愛と浮気の同時並列が可能になるのは事実だ。これは間違いない。
しかし、このような純愛と浮気の同時並列の状況、あるいは物語が、ユーザーや主人公にとって端的に「キモチがいい」ものかどうかは別問題である。
もちろん、そんなのはユーザーの主観の問題であるとは言える。だが、この作品は物語や人間関係のレベルでも、
作者の意図した「ナンパゲー」の「キモチ悪さ」とでもいえるモノが、ところどころに見受けられるのも事実である。

先にも僕は、システムの分析のところで「あくまで主人公にとっては」とか「ヒロインサイドは納得するかどうかは知らないが」といった言葉を使った。
このような言葉から「このゲームの主人公=プレイヤーはエゴイストだ」とか「ヒロインの立場は無視されて可哀想だ」といったような
非難を思い浮かべた人もいるかもしれない。これは理屈としては正しい部分もあるが、実際に作品をやってみるとそう言い切れない部分もある。
これには二つ理由があり、一つは「ヒロインだってなかなかエゴイストなところがある」がらだ。。
少なくとも一方的な「被害者」みたいに言い切れないところがあるヒロインがそれなりに登場する。
もう一つは、そもそも、ゲーム全体の初期設定からして「彼女たちが文句を言えない状況に置かれている」という所が大きい。

まず、軽いところからいうと、ヒロイン達の大多数は主人公のたくろうが、ナンパな人間だということを基本的に知っているのだ。
全てのヒロインとの会話で繰り返されるパターンは、主人公が何かヒロインのことを褒めたり、或いは好意を伝えたりすると
「そんなこと、他の女の子にもいうんでしょう?」とか「そういうことをたくろう君は他の女の子にも言っているんだね」とツレなく返されるやりとりである。
もちろん、そうヒロインは返しつつも「お世辞でも嬉しいわ」とか内心ちょっと喜んでいるのであり、これがヒロインとの仲が進むと、
「他の女の子には同じことを言わないでね」とか「今の言葉、わたしのためだけに取っておいて」とかデレたりするのだけれど、
最後の最後に主人公がヒロインに告白するまで、彼女たちは心の底から主人公を信じていないフシがある。そりゃまぁ当たり前だ。

なんせ主人公はナンパ人間で、彼女たちが主人公を信じられないのも当然だし、そして、ゲームシステムもナンパを前提としているのだから、
ユーザーから見ても、彼女たちが告白まで本気になられると可哀想だというところもある。だって、別に好きでもないヒロインを、
他のヒロインの攻略のために、途中でほったらかすこともあるんだから、本気になられてはいろいろと後味が悪いじゃないか。
そういう意味では、この作品、異常に神経質に作られている部分が結構ある。あるヒロインの全ての攻略フラグをクリアし、
あとは最後の告白で主人公が選べば終わりという段階になってはじめてヒロインは「……お願いだから嫌いにならないで……」
というような台詞を口にする。この状況でこのような言葉が出てくる意味は非常に興味深い。攻略フラグを全部クリアした、
精神的にも肉体的にもある程度は主人公と結ばれている状況になっても、ヒロインは「好きになってください」ではなく「嫌いにならないで」としかいえないのだ。

僕の一番のお気に入りは、桜木舞の最後のエッチシーンだろうか。正確にはそのあとの話だ。えっちのあと二人は主人公の家で爆睡し、
主人公が目覚めると隣にいた舞がいない(これは蛭田氏の作品ではおきまりのパターンだ。朝チュンはエンディング以外殆ど許されない)
そしてテーブルの上には、置き手紙があって、そこには儀礼的な文章がしばらく続いたあと、最後の文末に「あなたの恋人。桜木舞」と書いてある。
以後、主人公が告白の相手に舞を選ぶまで、舞は主人公の前に一切その姿を現わさない……こうした演出の意味をクドクド説明する必要はないだろう。
参考までに、この桜木舞の描写に対する、ネットで見掛けたレビューを引用しておこう――


「桜木舞という最低最悪なヒロインの性根が根本的に腐りきっていることを証明する決定的な描写の一つではあるまいか。
たった一回セックスしただけで恋人宣言だとはふてぇあまだ。しかも主人公には何の反論も許さずに手紙だけおいて逃げるとは、
これではまるで悪質エロサイトの違法料金請求とかわらない。こんなヒロインが同級生という素晴らしい作品に存在することは許されない。
ちゃんとセックスしたあとも主人公と会って、次のHの時の服を楽しそうに考えている鈴木 美穂ちゃんこそが、作品を代表するヒロインに相応しい」


確かに、ある意味で美穂たんはこの作品を代表するヒロインといえる。主に「腹黒」部門の筆頭を飾る存在ではあるが……
ただ、当世風のスマッシュのこぎりシスターズ的なノリノリじぇのさいど描写は期待しないで頂きたい。
この腹グロさは「健全」ヒロインの裏返し「病み」のキツサでも、「独占」の裏返しの「寝取られ」のキツサでもない。
確かにそういう反動的な描写は無くはないが、どちからというと元から「あー、そういうところもこの娘にはアリそうだなぁ」と素で思っちゃうような、
良くも悪くも人間的なダメさがさり気なく描写されているケースが多い。最初に取り上げるのは、先にもあげた鈴木 美穂たんである。
ある世代よりも上の人にとっては、彼女のシナリオはもう一人のヒロイン「田中 美沙」と一セットで、三角関係シナリオと認識している人が多い。
一応、知らない人のために状況を説明しておくと、美穂たんは主人公にベタ惚れとまではいわなくても、そこそこ好意を持っている。
もう一方の美沙は美穂たんの親友で、美穂たんが主人公に好意を持っていることを知っているが、 美沙はなんで美穂がこんなナンパ野郎を
好きになったのかよくわからず、ゲーム開始時では主人公のことを胡散臭く思っている。と簡単に纏めるこういう状況だ。如何にも三角関係っぽいでしょ?

だけど、このお話は、蛭田氏のシナリオというのは大抵そう言う傾向はあるが、ストレートに三角関係はもっていかない。
美沙との仲がある程度進むと、美沙は自分と主人公の関係、そして美穂と自分の関係を悩み始める。これはわりと典型的な話だろう。
恋と友情の板挟みに悩む少女ってやつだ。しかし、美穂の場合はそうではない。美穂は美沙が主人公のことを気になりだしているのを知っているが、
まぁ簡単に言えば「だからどうした」であり「早く主人公に告白しないと美沙ちゃんにとられちゃう」であり端的に言って美沙は「敵」なのである。
しかし「敵」とはいっても、嫉妬の炎がメラメラだとか、「美沙ちゃんはわたしのたくろう君の仲を応援してくれるっていったのにっ!」とはならない。
平たく言えば、美穂は美沙のことなんてこの時点では「わりとどうでもいい存在」になっているのである。美沙は「憎むべき敵」ではなく、
主人公を巡るゲーム上のなかでの「戦略上の敵」にすぎない。美沙は主人公と美穂との関係という、極めて複雑な三角関係的な問題で悩むのに対し、
もう一方の美穂はどこかあっけらかんとして猛烈に主人公にアタックをかける。だから、この三角関係はドロドロの愛憎渦巻く展開というよりは、
美沙と美穂の三角関係に対する反応の違いから、二人の性格の特徴が浮かび上がってくるような部分が大きいのだ。
こうした展開から、美穂たんの美沙に対するシカトっぷりとか、結構なりふり構わない美穂たんのアレな行動がたくさん浮かび上がってくる。
「早くエッチしないと美沙ちゃんに取られちゃう」という台詞も実に素晴らしいが、主人公の知り合いの「健治」というムカイカ男とをわざとデートして、
主人公の嫉妬心を煽ろうとするところなども、彼女のチャーミングな一途さを余すところ無く伝えていると言えよう。

もっとドロドロな展開もないわけではない。このゲームをやっていて誰でも「いやだわぁ」とつい呟いちゃうのは
「仁科 くるみ」と「正樹 夏子」と、そして、主人公の友人である一哉との「四角関係」のシナリオだろう。
またよく知らない人のために事情を説明すると、仁科くるみと幽々白書の桑原みたいな髪型をした一哉はゲーム開始時から付き合っている。
まだエッチはしていないらしいが、二人ともちゃんとお互いを好き合っている恋人同士だ。基本的に主人公のつけいる隙はない。
しかしそこに隙ができる。隙を作るのは主人公ではなく、友人の一哉だ。どうやら彼はくるみがエッチをさせてくれないことに
えらくご立腹しているらしい。俺たちは18歳だしこれはエロゲだし独占厨もいなかった18年前のゲームだぜ? エッチしても良いじゃんよぅ~って話だ。
そこに「正樹 夏子」が登場する。登場するというか、昔から一哉と主人公の知り合いだったが、夏子は仕事を辞めて暇を持てあましていたので、
一哉のデートの誘いに乗ってしまう。ここで勢いづいた一哉は、えっちさせてくれないくるみから、えっちさせてくれそうな夏子へと乗り換えようと決意する。
しかし、夏子攻略が失敗した時の保険で、一応は「くるみ」にも保険は掛けておきたい。だから、二股を知った主人公に、
くるみへの口出しは止めてくれとお願いをするが……と以上が基本的な粗筋であり、以下の物語の展開はユーザーの選択の手に握られてるわけだ。


ここで興味深いのは、事態が以上のように進展するまで、基本的に主人公は傍観するという点。
確かに、他人の恋愛話に口を出すのはマナー違反という考えはあるだろう。しかし、わりと一般的な考えかたでも、
一哉が夏子に手を出したところで、なんらかの非難を一哉に浴びせるといった「選択肢」が出そうなのが、今のエロゲだろう。
或いは、少なくとも、主人公の内面のモノローグで、直接口に出して言わないまでも、少しぐらいは一哉を非難しておかしくないハズである。
ここで、主人公がそうした非難を一切しないのは、主人公が大人だからとか、一哉を大切に思っているからといった理由では説明できない。
そう、ここでの主人公は、或いは「ナンパゲー」というゲームシステムが組み込まれたこの世界では、「二股をかける」という行為が、
自分であれ友人キャラであれ、或いは「ヒロイン」でさえも、自分をよくよく鑑みれば、倫理的には批判できないように仕組まれているのだ。
もちろん、こうした二股が「認められている」わけではない。そんなことでは全然無い。夏子だって一哉の二股には批判的である。

でも「誰もが似たような後ろめたい部分」を持っているという意味で、直接的にお前はクズ野郎だとは言いにくい空気がこの世界には漂っている。
この事件を振り返って、それぞれの登場人物の悪い点を考えてみよう。まず一番悪いのは「一哉」君で決定だろう。
なにもえっちをさせてくれないから、他の女の子に乗り換えるのが悪いワケじゃない。これは賛否両論がある問題である。
「えっちさせてくれない女が悪い」か「我慢できない男が悪い」かというのは、人間が存続する限り永遠に続く問題であろう。
とはいえ「二股をかける」というのは、これは問題無用で「悪い」といえるだろう。どれくらい悪いか、ナンパ主人公がそれを批判出来るかは兎も角、
「おれはえっちをさせてくれないお前が嫌いだから、夏子さんと付き合う」と、一哉君はちゃんと言わなきゃいけなかったのである。
ただ、一哉君だけが悪いかと言えば、これは中々微妙な問題だ。ヒロイン達も「悪い」とまではいわないが、結構微妙な問題が存在する。
夏子さんの「わたしはただ一哉くんと遊んだだけなのに、勝手に舞い上がって困っちゃう」というのは、恐らく素の本音だけに、
結構カチンきちゃう人もいるのではないだろうか。これはエロゲ的に言えば、OHPの一面あるサブキャラをFDの販促に押し出しといて、
ソフトを買ってみたらエチ無しで、しかも主人公以外と結ばれているといったようなものである。女性ライターは平気でこういうシナリオを書くらしいが、、
男性ライターである蛭田氏はわざと、しかも巧妙にこのような女性キャラを登場させたわけだ。どっちがタチが悪いかは、議論が分かれる問題ではある。

「くるみ」に関しては、一見悪いところはないように思える。まぁ「エチをさせなかったのが悪い」という人はいてもおかしくはないが、
少なくとも、一哉の「二股」問題では、彼女は単なる被害者の一人といえるだろう。しかし、彼女も、致し方がないとはいえ、
後ろめたい部分もなくはない。彼女は主人公に対して、見方によってかなり親密な態度で「相談に乗って貰っている」のである。
これは見方によっては「夏子とデートをした一哉」と同じ浮気をしているともいえる。いや、正確にいうと、これは一哉よりは罪が軽い。
だけど一哉が「お前だって主人公とデートをしたんだろ?」と言われたら反論に詰まる行動だ。それに、実際、このときのくるみは、
主人公に対して結構気を許してしまっているのだから、貞操倫理で一哉を強く責められる立場には、くるみは立っていないことになる。

もちろん、この「四角関係」のシナリオは、まぁ基本的にはよくあるタイプである。最近のエロゲにはあまり見掛けないが、
ちょっと昔のラブコメやら昼メロやらには出てきてもおかしくないシナリオだ。だから、このお話自体はどうこうというものではない。
ここで僕が重要だと思うのは、このような状況に「ナンパゲー」の主人公が巻き込まれる時の態度、そしてこうした状況下での選択肢の面白さである。

まず、主人公が基本的に一哉の立場を非難できる人間ではないことは前に書いた。だから、主人公は選択肢が出るまで事態を傍観する。
そして、選択肢がでる。くるみが問う。「一哉くんはまだわたしのことが好きなのかな?」。難しい質問だ。端的に真実を言うなら「ノー」であるが、
「イエス」といって彼女を傷つけるのも苦しい。くるみが問う。「一哉くんは誰か他の人のことを好きになっているの?」。これも難しい質問だ。
端的に真実を言うなら「イエス」であるが、これを言うことは自分が一哉の二股をバラしているのと同じである。ナンパ野郎のオレにそれがいえるか?
くるみが問う。「一哉くんに振られたらわたしはどうすればいいのかな?」。これには「自分を好きになればいい」と「他の人をすきになればいい」
というような選択肢が出る。これも難しい問題だ。一哉が二股をしているのだから、自分がくるみを奪うことには問題は無い。しかし自分はナンパ野郎だ。
一哉がしていることを自分もしていて、もしも自分が同じことを一哉みたいな人間にやられたらどうなる? これらの選択肢は見た目以上に重い。

しかし、主人公はこんな重苦しいモノローグは語らない。ユーザーが選んだ選択肢の台詞と、くるみとの会話を軽く語るだけだ。ここの会話は非常に素晴らしい。
モーツアルトののクラリネット協奏曲 イ長調K.622のように、表面上は明るく軽快な会話が続くなか、重く沈んだ陰鬱な旋律が低音で流れていく。
もちろん、この旋律の正体は、ナンパゲーをプレイしているユーザーが感じるある種のバツの悪さだろう。自分が似たようなことをやっているのに、
くるみを攻略するためには、一哉を非難せざるを得ないのだから。けど、これはあくまでユーザーがみるメタ的な「幻影」にすぎない。
主人公はそんなことを気にする人間ではないのだから、これはユーザーが側が過剰に自分のメタ意識をテキストに投影させているだけとも言えるだろう。
ただし、主人公が「まったく」気にしていないかと言えば難しい問題である。主人公のくるみとの台詞のやりとりには、
罪悪感とまではいわなくても、一哉を弾劾する言葉はあんまり出てこないのだ。
実は彼のことを後ろめたく思っているのでは……しかし、テキストはそうした徴候をすぐに振り切ってまた明るいバカ話に戻ってしまう。
さっきの解釈はオレの勘違いだったのか……いや、もしかしたらこれはわざと明るくバカなことを言っているだけなのか……?

こうしたユーザーのメタ的な感情をそれとはなく刺激し、あるいは全くそのような解釈を無効化してみせるような、多義性のテクニックを利用したという意味で、
蛭田氏は鍵の諸作品やロミオ氏のメタ作品を先取りした近代的な作家であり、彼らの作品には見られない独自の境地に達しているといえるだろう。

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(おしまい)「終わらないループと素敵なゾンビ――同級生は永遠に続く」

「たくろう」ふう……とうとう卒業してしまったな
「たくろう」ははは、俺と美穂はあれからずっとベッタリだよ……まわりのヤツらがやっかむほどにな。
「たくろう」さっきまで美穂と一緒で、みんなの前でキスまでしちまった……ちょっとやりすぎたかな?
「たくろう」美穂はいったん部屋に帰ってから、俺の部屋に来るっていったてな……ひっひひっ
「たくろう」御飯をつくってから、愛し合うか……それとも御飯を作るまえに愛し合うか、それが問題だぜ
「たくろう」彼女、最近すごいんだよな……あんな事から、あんな事までしてくれちゃって……ははは
「たくろう」おっと、そんな事ばかり考えてると……ズボンがふくらんで歩けなくなるぜ
「たくろう」さてと、美穂が来る前に家に帰らないと……ああ、俺はなんて幸せな青春を送っているんだろう

「たくろう」……。

「たくろう」でも……他の女の子とこうなってもよかったかな?
「たくろう」まあいいや、とにかく俺には美穂という彼女がいるんだ……幸せだぜぃっ!!

(エンディングより)

そして、その後二人がどうなったかというと――これは流石に製品版を買ってのお楽しみである。笑劇の、あいや衝撃のエンディングが君を待っているぞ!
さて、最後に論じたいのは「本当にこれでよかったのかな?」という問題だ。普通に考えるとそれは「その後の二人」を見ないとわからないだろう。
だが、あの笑劇のエンドを見た人には「見たら見たでますますわからなくなる」と思うだろうし、ここで考えたいのはそういう問題でもない。
僕が論じたいのは僕が上に引用したテキストの後半部分だ。唐突で、不吉な「……」のあと、主人公がぼそっと、
「でも……他の女の子とこうなってもよかったかな?」と語り、その不安を無理矢理吹き飛ばすように、ラスト、
「まあいいや、とにかく俺には美穂という彼女がいるんだ……幸せだぜぃっ!!」と主人公が語って終わるところだ。

冷静に分析すればまぁ、これはゴクゴク日常的な心理描写だといえるだろう。なんかエロいことを考えておちんちんを勃起したあとに、
急に素に戻っちゃうと「おれ、何をやっているんだろうな」という気分にならないだろうか? オナニーのあとの気分にも少し似た感じとでもいえる。
蛭田氏は時々そんなテキストを書くので、これもその一例だと言えば簡単に理解できそうだ。しかし、そんな蛭田氏であったとしても、
ハッピーエンドのこうした場面で、あたかもハッピーエンドの存在にナイフを突きつけるような、こんな文書をギャグでかくとは思えないのだ。
常識的に考えてみて、これはかなり異様なハッピーエンドだろう。僕がこのエンディングを始めて見たのは、確か小四の頃の冬休みだったが、
僕はしばらくこのエンディングの意味について悩まされてしまった。大袈裟なことを言えば、
ぼくがこんな捻くれた性格のダメオタクに育ってしまったのも、この同級生のエンディングが原因の一つになっているかもしれない(と責任転嫁してみるテスト)

このエンディングの困ったところは、これがある種の「解釈を誘うもの」であると同時に、この同級生という作品には何かぴったり嵌っているということだ。
最初にこれを見たときには「をいをい、ラストにこんなこと書いていいのかよw」とはおもう。
しかし同時に「確かに他の女の子でもよかったよな」という気分もなくはないのであり、だが「まぁ別に美穂でもいいや」に落ち着くのも事実である。
これは別に僕が美穂たんのことを嫌っていたからそう思うのではない。その当時には萌えという言葉もなかったし、まだチン毛も生えていなかった
小四のクソガキが「恋愛」という高等なものを理解出来ていたかどうかも怪しい。だけど、当時の僕は美穂たんのことが結構気に入っていたのは本当だ。
そして、今現在の僕がこの作品を再プレイしても、やっぱり「でも……他の女の子とこうなってもよかったかな?」とまずは思うのであり、
しかし結局は「まぁ美穂たんでべつにいいや」と納得してしまうのである。年齢が変わっても、基本的には感想は変わらない。
僕が当時、そして今もこの作品をやって「少し」悩むのは、このエンディングの違和感と納得感の微妙な混じり合いはどいうことだろう?という疑問だ。

一番妥当な解釈からいこう。「他の女の子とこうなってもよかったかな?」という自分の選択への疑問は、
まず第一に、このゲームが複数攻略を前提としたプレイを求められることから、そうしたプレイの途中で「攻略しなかったヒロイン」を見て、
そうしたヒロインたちに対する何らかの未練なり罪悪感なりが、こうした「他の可能性」に対する欲求を呼ぶと言えるだろう。
さらに、先にも言った「同時攻略フラグ」の所為で、一人のヒロインの描写と印象が結果的に薄くなる。
ヒロインの描写の量が少ないから、「おれは○○たんしか攻略しないぞ!」ぐらいには、ヒロインに惚れ込むことが出来ないのだ。
ただ、そうした不満はそれほど大きいモノではない。「他のヒロインを攻略したくなる」とはいえ別に「俺は美穂たんが好きじゃない」ではないのだ。
だから「まあいいや、とにかく俺には美穂という彼女がいるんだ……幸せだぜぃっ!!という主人公の台詞がくると「まぁそうだよな」とは納得しちゃうのである。

これをもうちょっと深く考えると、このエンディングは僕が今まで分析していた、
同級生という作品の「ナンパ」と「恋愛」の、ある意味で中途半端な結合状態を端的に表現しているともいえるかもしれない。
つまり、このソフトは一人のヒロインのエンディングだけで「満足できる」ソフトではない。
基本的には次から次へとヒロインを攻略するようにゲームシステムが出来ていて、「……他の女の子とこうなってもよかったかな?」と
自然に思わせるような要素が沢山ある。僕の下手くそな説明のせいで上手く語ることが出来なったけど、、
特定のヒロインを攻略するためにMAP移動をくりかえしていると、他のヒロインの物語や、あるいは親友キャラの物語の「断片」を微かに見ることが出来て、
そうした欠けたピースの断片達が、ユーザーを新しい再プレイへと駆り立てていくようなところがある。あえてこれをポジティブに言えば、
ナンパという目的で街を散策し、いろいろなモノを見て、いろいろな人間関係を学んでいく成長物語であるとも言えるだろう。

だが、僕が何度も指摘したように、ここにはやはり矛盾点がある。

このいろいろな可能性を歩きまわるという「ナンパ」と、一人のヒロインを選ぶ「恋愛」は、
システム的にも、物語的にも、キャラクターの描写的にも、作品の総合的な整合性にも、やはり少々「無理」があったといわざるを得ない。
そうした無理が最後の大事なところで「……他の女の子とこうなってもよかったかな?」と「まぁべつにいいや」という対立で表現されているのではないか?
この作品は画期的な要素がたくさんあって、今見ても非常に見るべきモノが多い、興味深い部分が溢れている作品だったけれども、
少なくとも「エンディングを迎えて感動できる作品」ではなかったわけだ。
この作品は常に「……別の可能性もあったかな」というような試行錯誤を思わせるような部分が存在しつつ、
結局は「まぁ、こんなものでいいか」というような中途半端なヌルさも同時に存在してしまっている。
最初からいいづけたことであるが、同級生という作品はやっぱり「これは○○ゲーです!」とは言えない、発展途上にある作品だったのだ。

しかし、この「発展途上」の作品には「未来」がないわけではない。発展途上とは「いろいろな可能性が存在している」という意味でもあり、
現実の歴史として同級生は様々なエロゲの発展の母体になったのは周知の事実である。そして、まだこの「同級生」という作品には、
18年たった今でも、改めてプレイすると「……別の可能性もあったかな」と思わせる「新しいエロゲの可能性」というルートが残されているのも事実なのだ。
この作品が今現在何らかの利用価値があるとするなら、ハッピーエンドにまで「……別の可能性もあったかな?」と書いてしまう、、
他のエロゲの可能性、未来のエロゲ可能性に対する飽くなき欲望こそ、今こそ評価されるべきではないだろうか?


……とまぁ、なんか評論家っぽい煽り系文章を書いてみたはいいものの、この作品は結局のところ、
「まあいいや、とにかく俺には美穂という彼女がいるんだ……幸せだぜぃっ」で終わる作品でもある。
エロゲは「でも……他の可能性もあったかな?」という絶えざる発展の希望と「まぁ別に美穂でいいや」という保守的な感情が
葛藤し合っているジャンルであって、片方だけ取り出して云々するのは、ジャンルのそうした両義性を捉え損ねてしまうだろう。

それに、保守的なダメオタである僕は、こうした「まぁ別に美穂でいいや」的感覚は嫌いじゃない。
小四のときも、ぼくの人生は「まぁ○○でいいや」みたいに過ぎ去っていくんだろうなぁ……と素朴に思ったものだが、
それから数十年たってもう「若者」とはいえない年齢になってくると、ますますこうした「まぁ別に○○でいいや」が切実な感情に思えてくる。
エロゲの未来だとか、エロゲの新しい可能性だとか、なんか偉そうなことをいってしまったが、そうした希望は嘘ではないし、
またそうした可能性がエロゲには必要なのも事実だろう。
だけど、僕としては、そういう未来だとか希望だとかいう輝かしい言葉よりも、以下の後日談のようなエンディングを愛している。。
この感動的なエンディングを引用して、この糞長ったらしいレビューを終わりにしたい。願わくば、全てのエロゲがこのような未来を歩まんことを。


「美沙」んぐぐぐぐぐ……
「たくろう」おおおっ!!
「美沙」んぐぐぐぐぐ……
「たくろう」おおおっ!!
「美沙」んぐぐぐぐぐ……
「たくろう」おおおっ!!
「美沙」んぐぐぐぐぐ……
「たくろう」も、もう駄目だぁ!!
「美沙」いいのよ……このままだして。
どぴゅぴゅぴゅっ!!
「美沙」このまま、もう一度してあげる……
「たくろう」美沙って、上手だよなあ……どこで覚えたの?
「美沙」馬鹿……たくろうが教えてくれたんじゃない
「たくろう」もっと、すごいことを教えてあげようか?
「美沙」もう……
「美沙」……
「美沙」……教えて

という生活を送り……

いつまでも幸せにくらしましたとさ。

めでたし、めでたし。
新品/中古アダルトPCゲーム販売 通販ショップの駿河屋

マルセルさんの「同級生オリジナル版」の感想へのレス

すごく読み応えのあるレビューなのですが・・
(3)の途中で挫折しました。また気が向いたら、改めて拝読させていただきます。
2010年08月11日17時30分00秒
 次 元 が 違 う
2010年08月11日18時45分58秒
>>kenken1231さん

最近は超ひも理論に凝っていまして、10次元的な価値観に基づいたレビューを書いております。
赤いセロハンをつけたメガネでこのレビューを読めば、現代のエロゲ業界の閉塞を打ち破るヒントが、浮かびあがってくるかもしれません。単なる色盲の可能性が高いですが。

>>rats&starさん

いや(3)まで読んで頂いただけでも光栄であります。自分で言うのもナンですが、お疲れさまでした。

(3)~(4)お話は、結構抽象的なお話になっていて、自分でもうまく書けていないなぁと思える部分が多いので、わかんねぇなーと思ったら、すっ飛ばして頂いても結構です。

(5)から作品の内容に即した議論になっていますので、(5)の内容を何となく理解した上で、(3)~(4)に目を通して頂ければ、このマルセルとか言う阿呆が何を言いたいのか、ほんの少しは理解できるかもしれません。まぁお暇があれば、また付き合って頂ければ幸いです。
2010年08月11日19時51分40秒
いいまとめと問題提起ですね~。古典主義じゃないロマン主義だというような。


ジャンルの開発者である第一世代は、良いところと駄目な所が大量にあるけどやたら魅力的。
第二世代は、その良いところを抽出して駄目な所を削って純化する。

居心地のいい世界に居続けたいっていう需要は萌えゲーが、
読んでて面白いものって需要は数多のゲームが純化した。
純化されるとどの作品も、外してはいけない所が段々似てきて、閉塞していった。



で、僕らの愛する物達が似る前を辿れば、出来のいい古典とかじゃなく、魅力的なキメラだったんだよ、と。
2010年08月11日21時49分33秒
>>satpさん

ども。マルセル長文マラソン完走おめでとうございます。純粋に濾過したトノイケ印の尿茶でもどぞ(*^ー)_旦~~

>>居心地のいい世界に居続けたいっていう需要は萌えゲーが、
>>読んでて面白いものって需要は数多のゲームが純化した。
>>純化されるとどの作品も、外してはいけない所が段々似てきて、閉塞していった。

んー、これは第一世代とか第二世代の問題でもないとおもいますね-。
んなことをいったら、蛭田氏の作品だって「同級生2」や「下級生」である意味純化を行っていて、
それで「MAP探索ADV」という形式が閉塞したともいえるんですから。

そこらへんのことは、もし機会があれば下級生のレビューで書いてみたいなぁと思っているんですけど、
蛭田氏の作品が今でも面白いなぁと思うのは、この人、狙っているのか天然なのか僕にはわかりかねますが、
ある部分で凄いクオリティで「純化」を行っているのに、どうにもどっかでメッキ部分が目立ってしまっていて、
そのパチもんっぽいピカピカがえもいわれぬ輝きを放っているというような、ちょっと説明しにくい魅力がある。

同級生で言えば、長々と説明した「NANPexe」だって、あれだけユーザーを(悪い方をすれば)騙し続ける巧妙なシステムを、
作品全体に張り巡らせておきながら、ところどころでそりゃねーだろwと突っ込んでしまうような所がすけて見える。
下級生はもっと変というか、、いやかなり自棄糞気味なところがあって、後半部分のヒロインのイベント消滅による浮気ゲー化という欠点を、
「だったら浮気ゲーとして楽しんじゃえ」みたいな攻略要素を入れることによって、開き直っている部分さえある。
だけど、もう一方では、ティナというエロゲの記憶喪失シナリオの原型キャラを投入したり、
あれだけ浮気をシステム的に推奨しておきながらも、シナリオ的には全く浮気を許していなかったりする。
ここらへんのバランスがじつに面白いんですよね。調和の欠点を不調和で誤魔化しながらも、それが却って別の調和を保っているというか。

こうしたものを「乱調の美」だとか「ノイズ」みたいに肯定するのは簡単でしょうけど、
そうした要素はあくまで「作品全体の純化傾向」とコントラスで見た場合でのみ体感されるのであって、
ただ単に「エロゲはもっと自由に作るべきだ」とか「アナーキーな作品が歴史を作る」みたいな、
凡庸なリベラル論調で括ってしまうと、その作品の本質的な魅力をとらえ損ねてしまうような気がするんですよね。
蛭田氏は別にキメラを作ろうとして同級生を作ったわけではないだろうだから、意図的にキメラを作るのが良いとも言えない。
同時に蛭田氏は「エロゲの古典である同級生」を作ろうと思ったわけでもなく、結果的に出来てしまったのがキメラたる同級生だったんですから、
キメラを敢えて作ったと評価するのも間違いだし、古典的名作がエロゲの歴史精神によって作られたというのも同様に間違いでしょう。なので、
2010年08月12日00時28分36秒
(続き……なんかここで一定以上の文章を投稿するとエラーがでるっぽいので。くぬぬ……レス覧まで我が長文を拒絶するのかっ!!!)

>>いいまとめと問題提起ですね~。古典主義じゃないロマン主義だというような

だと思われては、まぁ他人が僕の文章をどう読もうが知ったことではないんですけど、僕の意図としてはちょっと困るなぁと思うのも確かです。
個人的な希望としては「40%」ぐらいはまとめとして読んで貰ってもいいんですけど、あとの60%はなんか「座り心地がわりぃなぁ……」と
思って欲しいんですよねぇ。同級生がこれこれこういう理由を持って存在したと位置づけられる「死んだ古典」になるんじゃなくって、
「寄らば斬るぞ」とでもいいますか。なんかあの作品ってキモーイと煙たがれて、一部の好奇心丸出しのバカがひきつけられて
肥だめに落っこちるような「不気味な古典」になって欲しいなぁと思っていますので。

まぁ偉い人の言葉を引用して最後に御茶を濁しておくと、えーっと、誰だったか名前は忘れたんですが(汗)、
西洋美術史の偉い人が確かこんなことを言っていたと思うんですよね。

「マリエリスムなき古典主義は擬古典主義となり、古典主義無きマニエリスムは衒気趣味となる」

古典主義だのロマン主義だの、あるいはマイナーだのメジャーだの、安全志向だの危険志向だのといったお話は、
こういう言葉に落ち着くんじゃないですかね。もっとも、僕は擬古典主義の嘘っぽいセレブっぷりも結構好きだし、
衒気趣味めいたマーラーの交響曲も結構好きなんもんですから、うーむ、こまったこまったと便所でウンウン唸りながら、
こんな馬鹿長文批評がが生まれてしまったというわけでありまする。
2010年08月12日00時32分37秒
初めまして、マンセルさん。

『同級生』はやったことなかったのですが、文字数4万超えといいう途方もない文字数を見て爆笑し、レビューを楽しく拝見させていただきました。

レビューを見て、マンセルさんの『同級生』及び当時のエロゲの歴史に対する熱い思いに胸を熱くしました。


にしてもマンセルさん。4万を超える文章を書いてますが結局の所、

>「まあいいや、とにかく俺には美穂という彼女がいるんだ……幸せだぜぃっ」

がこのレビューで一番書きたかったことなのですねw
2010年08月12日00時44分20秒
ああ、見当違いな付いて行き方で失礼しました。
味を言い表しづらいから思い出話の存在になりがちだけど、いい味してるよ!
というのは凄く伝わったので、DMMにお布施してきます!
2010年08月12日03時03分56秒
はじめまして、マルセルさん。1571というものです。
やっと読み終わりましたよ~。いやぁ、一時間くらいかかりました(笑)
「ナンパゲー」の解釈、NANPexeのナンパ性、主観が入りまくりにもかかわらずこちらを頷かせるのに十分な文章はとても興味深かったです。
>>その遊びの面白さは「自由にものを選ぶことができる」というところにあるのではなく、限られた制限の中で「一つしか」ものを選ぶことができず、
それによってその一つが大切に思え、まさに自主的に自分が自由に行動したと錯覚できるような、制限されているが故に感じることができる自由度だ。
初め読んだときには??だったのですが、読み終わった後にもう一度見ると、なるほど、となんとなく解ってきます。もう少しコンパクトに纏められるのではと少し思うところもあったのですが、これでこそマルセルさん節とも思え、読んでいておもしろかったです。

気のきいたコメントもできませんでしたが、応援したいるので、これからも超長文コメント(笑)頑張って下さい。ではでは
2010年08月12日03時31分51秒
プレイ当時を思い出しながら読みふけってしまいました。

当時、恋愛ゲームという概念がなかったのはもちろんなんですが、
そもそもヒロインごとにEDが用意されていること自体が異例でした。
(まぁ、後に知った話では、同級生より先にKISSというゲームがあったらしいですが)

それまでのエロゲーといえば、最初からEDでの本命ヒロインが固定されていて、
そこにたどり着くまでの他の女性キャラクターはエロ要員でしかなかったんですよね。

ヒロインを選ぶという発想自体が、当時のエロゲーにはなかったものなので、
プレイヤーが同時に複数の女性を食い散らかしてゆくのは当たり前だったし、
食い終わった女性はフェードアウトしていく存在でしかなかったわけで。
大多数のキャラは攻略対象ではあっても、けして「ヒロイン」じゃなかったんですよね。

同級生が画期的だった部分は、まぁ、他にも色々とあったと思うんですが、
僕にとって本当に感動的(といっても今の純愛シナリオゲーの感動とは別の意味で)だったのは、
いつものように過去の存在として消えてゆくはずだったあの娘を、
最後の最後に返してくれて、未来まで見せてくれたっつう、その一点に尽きるのでした。



とか言いつつ素に戻ったら、あんなに好きだった美沙たんも亜子たんも過去の思い出なんですが。


>このいろいろな可能性を歩きまわるという「ナンパ」と、一人のヒロインを選ぶ「恋愛」は、
>システム的にも、物語的にも、キャラクターの描写的にも、作品の総合的な整合性にも、やはり少々「無理」があったといわざるを得ない。



もはやエロゲ&エロゲーマーの話かとも思ってしまうですよ。
たぶん僕の脳内エロゲ実行ファイルにはNANPexeとか銘打たれてるに決まってるわけで
そうじゃなきゃこのエロゲヒロイン純愛&浮気(ついでに鬼畜)同時並列処理は説明できません。

終わらないループと素敵なゾンビ――エロゲーは永遠に続く。
めでたし、めでたし。??????
2010年08月12日05時07分05秒
ちなみに読んで反芻してコメント書くまでに3時間かかりました!
面白かったです。後悔してません!
2010年08月12日05時11分54秒
>>satpさん
いえいえ、こちらこそ些か強気な反論をかいてしまって恐縮です。なかなかイイ所を突くなーという感じで、
てっきり同級生シリーズに詳しい方だとおもって、マニアックな議論をこちらもついふっかけてしまいまして(汗)。

えーっとですね。誤解の無いようにシンプルにまとめますと、そもそもエロゲが「純化していって閉塞化する」というのは、そちらのご指摘通りだと思うし、
そういった意味では全然「見当違い」ではないとおもいます。見当違いと言えば、satpさんの議論を勝手に三歩ぐらい進ませて理解したこちらの方でしょう。
僕はてっきり、satpさんが同級生シリーズを「純化閉塞化の反対方向行に行く作品だと主張した」と勝手に思いこんだのですね。
それでまぁ、僕はそれに反対する議論を長々と書いてしまったのですけど、satpさんは初めから同級生シリーズとは関係のない一般論を言っていたわけで、
こちらの勝手な妄想を押しつけてしまい、本当に申し訳ありませんでした。satpさんの同級生の感想、期待して待っております。


>>ギグさん

はじめまして。まぁ別に狙ったわけではないんですけど、四万字というイカれた数字に興味を引かれて、この同級生というイカれたソフトの存在が、
一人でも知れ渡ってくれたら、良かったことになるのかなぁと勝手に自己満足しています。もし、他に無駄長文が読みたいのでしたら、
「下級生3をレビューする」という以下のイカモノもご笑覧下さいませ。これはエロ助では絶対に見れないレビューですよ。
なんせ「下級生3」なんぞというソフトは僕の脳内以外には存在しませんから! 激レア間違いなし!

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ruehque/elf-dis-extra/extra095.htm

>>にしてもマンセルさん。4万を超える文章を書いてますが結局の所、

>>まあいいや、とにかく俺には美穂という彼女がいるんだ……幸せだぜぃっ」

>>がこのレビューで一番書きたかったことなのですねw

いや、これが最初は違ったんですよね。最初の意図としては(3)~(4)の小難しい話が中心だったんですけど、
これをどうにか普通の人にもわかるようにと色々と掘削作業を進めていたら

「そうだっ、あの腹黒美穂たんを実例に出せば一目瞭然じゃんか!」

と突如閃きまして、そっから先はもう大変ですよ、これがキーになって今では殆ど忘れていた美穂たんの記憶が鮮やかに甦るじゃあーりませんか。
いやぁ、やっぱりこれはもう運命というしかないでしょう。20世紀の初頭のオーストリアにライナー・マリア・リルケという女装っ子詩人がいたんですけど、
その人が確かどっかで「もう一度深く思い出すためには、それを忘れなければならない」というようなことを詩に書いていたんですけど、
つまり長い間寝かせておいたエロ本はそれだけ美味しいって話なんですね! いやぁいい勉強になりましたぜ。
2010年08月12日08時28分03秒
>>1571さん

はじめまして。この糞長文を書いたマルセルというものです。普段は萌えゲーの下らないレビューを書いている阿呆に過ぎないのですが、
同級生などという過去の古典作品に関わったばかりにこんな有様になっております。やっぱまだまだ「同級生」の名前だけは廃れていないんですねー
1571さんも古典作品にくれぐれもお気をつけくださいませ。僕はもう桜木舞信者さんに夜道を襲われないか心配で心配で僕はもう!

>>初め読んだときには??だったのですが、読み終わった後にもう一度見ると、なるほど、となんとなく解ってきます。
>>もう少しコンパクトに纏められるのではと少し思うところもあったのですが、これでこそマルセルさん節とも思え、読んでいておもしろかったです。

(3)~(4)は自分でも書いていて「これでいいのか?」と何度も思ったところですから、
そこらへんが些かなりとも理解してくださる人が何人か現れたと言うだけでも、正直ちょっと感激しています。さっきコンビニで200円寄付しちゃいました(てへり)。

これ、最初はもっとコンパクトだったんですよ。(3)~(4)のロジックをわりと煮詰めて書いてから「こうしたロジックの上に同級生はなりたっているのだ」
って感じで〆ようかと思ったんですけど、これだと単に机上の空論に過ぎないわけで、そのロジックがどう作品の物語に関係しているかわからないですよね。
それにロジックだけだったら「そういう解釈もありうるよね」と言う話が単に理論上は無限に続いてしまうわけで、そのロジックと同級生が何らかの関係性があるんだ!
と主張するためには、そのロジックを直接同級生という作品のいろんなところにぶつけてみて、
この二つがうまく当て嵌まるのか、それともロジック或いは作品のどちらが壊れるのか確かめなきゃいけない。

……で、その結果がどうなったかと言えば、それはこの状況がものの見事に語っているわけでして、どうやらロジックや作品が壊れることはなかったようですけど、
なんか別の変なものを産みだしてしまったみたいですね。ロジックと作品が悪性な化学反応を起こして、有毒ガスをまき散らしてはいないかとヒヤヒヤしておりまする。
2010年08月12日08時35分56秒
>>fusenekoさん 

おおっ、まさか現役ユーザーの方が読んでくださるとはっ! 小四の頃に「変な主人公とえっちい絵がたまにあるゲーム」だと思ってやった僕が書いたレビューでは、
さぞかし不愉快な表現が多かったと思われます。まぁ、これは僕が悪いんじゃなくって、小四の僕にエロゲをやらした兄貴の責任だと思われるので、
恨むならどうぞ僕の糞兄貴を恨んでくださいませ。だって、アイツ「勝手にやっても良いけど、さとみにだけは手を出すなよ!」とか大マジで言いやがったんですぜ?
そりゃ家族を愛する弟としては、兄貴に「お兄ちゃんって面倒くさい女の子が好きなんだね。その癖治したほうが良いよ」とアドバイスするしかないじゃないですか!
ええ、僕の同級生の記憶は始めてくらったアッパーカットの赤い血と共に刻まれております。これが思春期の頃だったらもっと面白いことになっていたんでしょうが。

>>同級生が画期的だった部分は、まぁ、他にも色々とあったと思うんですが、
>>僕にとって本当に感動的(といっても今の純愛シナリオゲーの感動とは別の意味で)だったのは、
>>いつものように過去の存在として消えてゆくはずだったあの娘を、
>>最後の最後に返してくれて、未来まで見せてくれたっつう、その一点に尽きるのでした。

うーむ、なんだか始めてTVを見た人の驚愕の思い出話みたいで、正直ニンともカンとも言い難いですね。
失礼な言い方かもしれませんけど、安易な共感を拒む絶対的な壁がありますよここには。
純愛ゲーのシナリオの感動というのは、基本的に物語的な感動ですけど、fusenekoさんの感動は、もうなんかそこに「ある」って感じの根源的な発見ですもんそれ。 
僕が初めてやった(前々から他のエロゲをやっていたことはあったかもしれませんけど)は同級生ですから、
そもそも「初めから各キャラのエンディングはあって当たり前」だとばかり思っていました。

ただ、ちょっと似たような話をすると、同級生をやった前後近くに僕はDQ5をやっていたんですよね。
で、例のフローラとビアンカの選択にぶち当たって、まぁ鬼畜小学生だった「あとでビアンカとなら浮気できそうだし」という理由で、
フローラを選んだのですけど、たぶんこのときが初めてでしょうね。ゲームの中のキャラクターの運命が自分の選択肢で変わってしまうということを実感し、
そうしたヴァーチャルな責任感からキャラクターへの感情移入が発生してしまうということをなんとなく知ったのは。
同級生とDQ5,どっちを先にやったのかは良く覚えていないんですが、あの頃から、この先こういうゲームは増えるんだろうなと漠然と感じたのを記憶しております。

>>終わらないループと素敵なゾンビ――エロゲーは永遠に続く。
>>めでたし、めでたし。??????

ただまぁ、人間ずっと同じことをくりかえしていると飽きたりするモンですから、そういうときにはたまには性病に掛かるのもいいんじゃねぇか?とか、
エロゲ業界はもう終わりだとか悲観論に浸ってみたりとか、これからは3Dゲーの時代だよ君たちとか言ってみたりするし、
「もうループ世界なんて懲り懲りだっ!」と言うループ系というジャンルをフラフープみたいにグルグル回して楽しんだりするわけで、
もしかしたらこういう物語には「エンディング」なんて無いかもしれませんよね。後期の蛭田さんはそれを一生懸命探した感がありますけど。
2010年08月12日08時37分54秒
ええい、エロ助のマルセルは化け物か!!

以前から思っていたのですが、マルセルさんの文章は金とれるレベルだと思います。
個人的には同級生はあまり好きな作品ではなく、教養としての作品とみなしているけど
いま若いユーザーに同級生を買うべきかどうか聞かれたら、「マルセルさんの長文読むだけでいいよ」で事足りると思いました。

ただこの長文で怖いのは、「同級生」がゲームとしてすごい面白いゲームに感じられてしまって買ったあと「なんじゃこりゃああああ」ってなるユーザーが出そうなのが心配ですw

>このナンセンスを意図的かどうかは知らないが、
>徹底的に破壊してしまったのは同エルフの「下級生」だが、これについては別の機会に述べる必要があるだろう

タマキのことですね。ワカリマスw
是非とも下級生のレビューもお待ちしてます。




2010年08月12日10時54分30秒
マルセルさん

初めまして、私も「同級生」をリアルで楽しんだ口です。

マルセルさんの感想を読みつつ、当時を思い出しつつ、DOS版でしたのでコンベンショナルメモリに
泣かされた思い出がよみがえって参りましたw

私も当時は斬新なゲームだったなあと思った記憶があります。

※「舞」と夏子が大好きでしたw

皆さんのレスを拝読して、本作に興味を持たれた方が何人かいらっしゃって手に取られる方が増えて
いるであろう現状を見て思わずレスしてしまいました。

そんな方々が楽しめたらいいなあ、と心から思います。

お目汚しなレス、すみません。

※本レビューとは全く関係ありませんが、同級生3が今でも残念に思っています。
2010年08月12日11時53分52秒
通りすがりですが、あまりにも凄いレビューだったので・・

内容もさることながら、読みやすを考慮した上できちんと同行内に文章を納める文章構成
どれだけのエネルギーが注がれているのか想像も出来ません、圧倒されました
2015年04月11日01時49分15秒
考えて見たらさ・・・・・・

2015年になったってのに、
ロクなゲームをしていない自分が居た。

そして過去のゲームをすると・・・・・
・・・・・・出したカネの分は安くなって済む。

たったそれだけのコトでした。
(つまり2015年はハズレ年かなーとしか思えないワケで)

違う?
2015年04月13日15時42分37秒

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