xianxianさんの「白光のヴァルーシア ~What a beautiful hopes~」の感想

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**ネタバレ注意**

ゲームをクリアした人むけのレビューです。

これ以降の文章にはゲームの内容に関する重要な情報が書かれています。まだゲームをクリアしていない人がみるとゲームの面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。

「―それは、或る砂漠の都市の物語。それは、彼らの物語。あなたの物語。わたしの物語。」名作。桜井光のスチームパンクシリーズの4作目。ただし、今までのシリーズの集大成のため、過去の3作品をやった上でプレイした方が深みをまします。オムニバスというか群像劇スタイルで視点変更も多く、文章の癖もあって、慣れるまで、読みにくさがあります。
まず、今回は、今までのものとは違い、FC直販が袋ではなく、ダンボール箱で送られてきたことに感動しました。そして、FC特典の追加シナリオディスクと、予約特典のサントラと栞(私はアナ)が入っていました。

わたしの評価としては名作でした。とても、よくできたお話でした。ただし、キリスト教の宗教性も強く、世界としては共有している「Angel Bullet」あたりもできればプレイしておいたほうがいいかもしれません。アラビアン・ファンタジーとしてはよく出来ていますが、児童文学のようなもので、シリーズ全体を通さないと読み解けないものが多く、単体での評価は難しいと思われます。また、そのある種のメッセージ性の高さから、わかりやすい「燃え」とはいえず、むしろ勢いを止めている傾向が強いです。そのため、バトル要素を求める人にはあわない気がします。
この独自の世界を作り上げた街の景色などは、わたしは「イバラード」を思い起こします。
正直、今回、タイトルが「hope」と発表され、雑誌などでイベント絵が公開されたりした時点で、物語の方向性とかも予想でき「あーあ、シャルノスの二番煎じか。希望なんて、しょせんシャルノスの未来とあんま変わらないだろうな」と侮っていました。
ほんとに、侮っていてすみませんでした。シャルノスと被ったりするところや、話の結末としては、ありきたりなところもありますが、シリーズ集大成としてよくまとまっており、過程がとても工夫されていました。また、フルボイスということで、音がついて、声優さんがしゃべるから、ということがわかった上で、「テキストは同じ」でも「意味合いが違う」形の演出もあり、とても堪能しました。
用語辞典がつき、わかりやすくなったとはいえ、もともとの癖が強いため、ほんとに一見さんが、そのテキストからイメージできるかは微妙なところでしょう。過去作プレイしていると、イメージがすぐにできるので、忘れていた部分の再確認としては便利でした。ライアーソフトは初のフルボイスという感動モノで、私は、音声を全て聞いて、雰囲気に浸りながら遊んだので、目茶苦茶時間がかかりました。漢字の読みも難しいものが多く、声の無い地の文でも普通にルビをふっていません。「この字は訓読みだとどんな読み方だったっけ?」と考える必要が時々出ました。また、雰囲気作りを重視して、反復表現や誤読を誘う特殊な書き方を多用しており、ある意味で、わざとテンポを悪くしているテキストです。作風としては、姉妹ソフトの「霞外籠逗留記」や「紅殻町博物誌」に近いものがありました。あと、ライアーらしく、18禁ならではの、やばい発言もあり、「アフリカの有色人種にさえ劣ルわ」なんて文章もあったりします。当時の西洋人意識としては「普通」なんですが、現代の一般作品だと普通に問題になります。そのへんの作中の雰囲気作りのためなら、商業展開なんて関係ない、といわんばかりに無茶ぶりが素敵です。

私のTRPG経験からすると、「ゲヘナ」や「深淵」とイメージが被りました。文章を書く上での「お約束」というものを意図的に破っており、「小説」というよりは、「詩」や「叙事詩」。「光の物語」といいながら、どちらかというと暗い部分があり、暗いからこそ「光」
というものを描いている形です。
 また、最初に謎をポーンと出して、話を進めるために、けっこうわからない状態で話がすすみ、最後までやって理解すると、あそこでのキャラ発言や行動は、こういう意味なのか、と腑に落ちる部分が出たりもします。まあ、ふつうに2週目なんてめんどくさくて、誰がやるか!といわれるような気もしますが。


(構成・全部で11章構成)
実質、一本道です。各章ごとに、物語の視点となる人物が変化します。そして、章の最後に、その章の中心人物に問いかける形をとり、その人物の「願い」や「悩み」を掘り下げることで、内面を表現するという形をとっています。この時に、バックに星座が表現されますが、現在の星座とは少し形が違います。古代アラビアのほうの星座かもしれません。しし座は昔の形では、前足部分がなかったという話を聞いたことがありますから、現代日本に伝わる星座とは微妙に違うものを使用していると思われます。
ちなみに、夢見の歌姫に呼びかけられた名前と背景の星座が不整合なのものもあり、単なる雰囲気だけの配置なのか、わざとミスマッチしたのかは不明です。

第1章「それは、彼らの物語」(夢見はアスル。カウス(アラビア語でいて座)の子。バックの星座もいて座)
第2章「それは、剣の物語」(夢見はカシム。シャウザーア(ふたご座)の剣士。バックもふたご座)
第3章「それは、涙の物語」(夢見はナナイ。アクラブ(さそり座)の女。バックはおひつじ座)
第4章「それは、白光の幕間」(夢見はリザ。ハマル(おひつじ座の星)の女。バックは山羊座)
第5章「それは、砂漠の物語」(夢見はクセル。サンブラ(ムーア人の曲。音楽やお祭りの意味らしい。ある意味、この物語の「お祭り」の中心人物を意味しているのかもしれない)の少女。バックは多分、おとめ座。)
第6章「それは、盗賊の幕間」(夢見はアルディーン。アサド(しし座)の王。バックはしし座)

第7章「それは、記憶の物語」(夢見はハールート。サルターン(かに座。ただし、スルタンの方の可能性もあり)の人。バックはかに座)
第8章「それは、赫の物語」(夢見はヤザタ。ダルワ(おそらく、ダルゥ(みずがめ座?))の刺客。バックはさそり座。)
第9章「それは、恋の物語」(夢見はアナ。シャウザーアの剣士。バックはみずがめ座)
第10章「それは、神の物語」(夢見はヒルド。ハウト(南のうお座のファーマル・ハウト)の魔女。バックはうお座)
最終章「そして、あなたの物語」(夢見はレオ。ミーザー(てんびん座)の男。バックは現代のでは該当無し。ただし、形からして、てんびん座の一部と類似)
FC特典、補章「それは、彼女達の幕間」(ED直前のアナとクセルの会話シーン)


(おまけ)
おまけには、CG鑑賞101枠(差分あり、FC特典のCG含む)。
音楽鑑賞19。
シーン鑑賞72(ただし、Hシーンは6。しかも、女性視点中心、薄めなので、エロゲというよりは乙女ゲー)が収録。ゲームの用語辞典もあります。

(音楽)
OPとEDを除くと15曲。OPは「Tistrya」(ティシュトリア:天狼星の意味)。EDは「Achernar」。ボーカル付きと無しがそれぞれ、音楽鑑賞にあります。日本人がなんとなくイメージする明るいアラビアの音楽ではなく、ある意味本場ぽい、雑多でけだるげな感じの音楽がよく使われています。音楽自体の

(テキスト)
11921192さんが、言及しているのですが、ある意味で「くどい」上に「まちがった」日本語といえる使い方をしています。雰囲気作りのために、「日本語のお約束やルール」をあえて破って使っているように思えました。「言葉は伝達事項」という約束に従うなら、おかしいのは確かです。ただ、詩などで見られるような、何をイメージし、表現しようとしているのかを考えながら、プレイするとわからなくもないと思います。もっとも、そんな解釈を読み手に要求する時点で、娯楽作品としてはどうよ?といわれると反論できません(苦笑)。
「それは、深淵の黒だ。それは、恒星の蒼だ。夜の色とも空の色とも異なる色をまとって」という表現に11921192さんは言及し、「それは深淵の黒であり、恒星の蒼だ。」とまとめたほうがわかりやすいと書いています。それは、わたし達の「常識」では正しいと思います。ところが、この作品は、ファンタジーであり、クトゥルフ作品でもあります。つまり、クトゥルフ作品の、わたし達と同じ次元、同じ物質、同じ世界を「生きていない」ことが実は、前提としてあります。簡潔にいうと「神は私たち人間と同じ枠でとらえられない」という発想があると思います。
例えば、構成要素50%が青、50%が黒の車があるならば、「それ」は「青であり黒」といえるでしょう。
ところが、奇数秒では「青」色で、偶数秒は「黒」色に変化する車があったとします。この場合、青と黒が同時に存在しませんから、「それは青ではあるが黒ではない」「それは黒ではあるが青ではない」といえます。そのため、単独では成立して同時には成立しないとなります。
命題としては、「それはAである。それはBである」ならば「それはAでありBである」と必ずいえるのか?という命題みたいなものです。わたし達の常識の枠を超えたファンタジー世界を表現するとしては、わたしは「いい」と思います。ファンタジーの世界がわたし達と同じ物理法則に従うわけではないというのを表現していると思います。
わたしのイメージとしては、現実には無い変光星のような感じで、光を吸い込む漆黒の装甲になったかと思うと、青い光をはなったりするようなイメージかな?と思っています。
もうひとつ、ここの表現についてですが、「青色」といえば、「世界の美しさ」をテーマにしたセレナリアの色であり、「黒色」といえば「停滞」や「絶望」、「排煙の国」を扱ったシャルノスの色でもあります。「美しさ」と「醜さ」、「希望」や「絶望」が入れかわっている姿を意味しているのではないかと思われます。巨神が、ある種の「人間の文明」や産業世界の象徴みたいな存在ですから、行きすぎた「人間の文明」が「希望」であったり、「絶望」であったりすることを象徴しているのかな?と思いました。
一方で、わかりやすさをちっとも考慮していないあたりがさすがです。ほかには、霞外籠逗留記などでも見られた、雰囲気を出すために、「短くまとめる」ことが推奨される「文」にせず、華美な修飾表現を使うなどもありますね。

そして、第一話と最終話の最初のルナの語りが対象になっています。ここに引用します。

(第一話)
「まず、はじめに。空の青、星の白。蒼天の目映さを目にして、星空の麗しさを目にして、わたしたちは知ることができたのです。ああ、父よ。母よ。わたしたちは知らずにいたのです。世界がこんなにも美しいことを。万色の美しさを、わたしたちは誰も。だから、今なら。だから、今こそ。迷わず、怯えず、ここから始めましょう。それは、或る砂漠の都市の物語。それは、彼らの物語。時に迷い、時に怯えて、それでも立ち止まることのない人々の。蒼天と星空の下で繰り広げられる物語。既に終わったはずの物語の残滓から、それでも、燃え尽きることなく、確かに生まれ出でたひとつの物語。彼らの物語。あなたの物語。わたしの物語。―それは白光きらめく物語。」

(最終話)
「そして、今。まさに。夜の黒。炎の赫。夜闇の暗がりを目にして、灼熱の目映さを目にして、わたしたちは何を知るというのでしょう。ああ、父よ。母よ。わたしたちは知っているはずなのです。世界がこんなにも残酷なことを。混沌の恐ろしさを、私たちの、皆が。だから、今なら。だから、今こそ。迷って、怯えて、それでも進めましょう。それは、或る砂漠の都市の物語。それは、彼らの物語。時に迷わず、時に怯えず、立ち止まることを迫られてしまう人々の。夜闇と灼熱の狭間で繰り広げられる物語。既に終わったはずの物語の残滓から、それでも、燃え尽きることなく、確かに今も輝き続けるひとつの物語。彼らの物語。あなたの物語。わたしの物語。―それは白光きらめく物語。」

で、対象な最終話ですが、ここで「時に迷わ『ず』」「時に怯え『ず』」という表現を使っているのも、普通なら「変」です。「時に~する」という表現は、「たまに~する」ですから「ふだんは~しない」という意味です。そこに「否定」を意味する「ず」をいれるのは変です。「ふだん~しないことはない」というくどさがでます。じゃあ、なんで、こんな表現しているかというのを推測すると、
1、第一話と対比で、第一話の冒頭文と反対の意味をするため。
2、わたしたち人間の「リアル人生」は「迷わないことなんてない」「おびえてばかり」の人生ということの強調。
3、この「時に」が副詞的な用法でない可能性。名詞で目的語の可能性。
この物語の「主人公となる資格を有した人間」たちは、未来に前進することを決断し、突き進んだ人たちです。ホラーのように、「恐ろしい」「停滞する」のではなく、彼らは、「未来(時)」に「迷わず」「怯えず」でした。つまり、「時に、迷わず。」「時に、怯えず。」「立ち止まることを迫られる(でも、前進することをやめない)」、「繰り広げられる」「光の物語」です。
たぶん、この手の複数の意味を持たすために、わざと誤読を誘う、「言葉の迷路」のような作りになっていると思います。普通の物語が「わかりやすい・整備された道」に対して、ユーザーの読みにくさを誘っています。

また、第一話は、ふつうの文章で、綺麗な世界をただ表現しているといえます。それは、セレナリアだったり、シャルノスやインガノックで最後に表現された「うつくしいもの」を意味していると思います。だから、このヴァルーシアの始まりは、これまでのシリーズの「結末」から始まっているともいえると思います。
 ところが、物語を進める上で、その世界が美しいものだけではないことが表現されます。それは、死を望むナナイだったり、人を殺すことにためらいを覚えていなかった人間だったりが登場して、去っていったり、色々ですが。最初に「青」「白」に対し、夜の「黒」や炎(文明や破壊の象徴でもある)の「赤」をだします。
そして、「星空の麗しさ」に対して、「夜闇の暗がり」を目にして、「わたし達は何を知る徒いうのでしょう」(実は、メタな視点になっており、エロゲのキャラが、画面の外のわたし達に、語っており、よびかけています。これは、同メーカーの「Forest」で似たようなことしています)
「作品」として完成され、「商品」として売られた時点で、これは「既に語られた物語」「終わってしまった物語」です。しかし、その「物語の残滓」から「燃え尽きることなく」「生まれ出でた」物語。そして、プレイして最終章まで、わたし達ユーザーがプレイすることで、「(わたし達の心の中で)今も輝き続けるひとつの物語」。
「(エロゲキャラとしての)彼らの物語」「(プレイした)あなたの物語」「(プレイしたわたし以外の人間。作り手である桜井さん。語り部であるかわしまりのさん。私以外の多くの他人の)わたしの物語」でもありますね。
この作品シリーズで表現したことを胸に生きてくださいね、という意味でのメッセージが込められています。

・(文は同じだが、演技や感情のこめ方で意味が変わって伝わる言葉がある)
《結社》の台詞で、「我らの願いは正しく進み続けるだけ」というのがあります。
たとえば、ザールがこの台詞を口にするとき、彼にとっては「ただの儀式の言葉」であり、そこに「こめる感情」は「存在しません」。
これがヒルドだと、最初に口にしていたときは、わたしは、
「(わたし達の目的や行動が正義。だから、敵をおしつぶして)我らの願いは正しく進み続けるだけ」
と思っていました。
ところが、最終章では、ヒルドは
「愚かな。ああ、愚かな。我らの願いは正しく進み続けるだけ。恐怖の嘆きに取り込まれて何とする。」
と嘆くのです。ここでは、「(まちがったり、歪んだ世の中だからこそ)我らの願いは、(難しいけど)正しく、すすみ続けるだけ」
という意味にとれます。演技の使い分けはさすがのベテラン声優さんですが、ボイスになること前提で、テキスト作られていますね。
これは、言葉のありかたの問題で、「言葉の内容」や「使い方」ではなく、そこに「込められた想い」を読み取るかどうかの問題ですね。
詩や演劇などでは、同じ文章でありながら、読み方を変えることで、相手への伝わり方が変わるので、色々変化させて読み上げるというのは、教えられます。
悲しく読むのか、楽しく読むのか。低い声で読むのか、甲高い声で読むのか。スピードを変えるだけでも受けるイメージが変わるなど、何種類もできます。

これは、わたしの思い込みではないと断言できるのが、作中で第5章で、クセルが、
「文字に込められた想いを読み取ることも、言葉に秘められた感情を受け取ることもない」
といっており、ライターの桜井さんが、文字の外にあるものを意識している考えがあると推測できました。

(シナリオ内容)
基本的に、キリスト色が強く、「ファウスト」やシェークスピアあたりと被っていそうです。
第3章では、恐怖に消える人が「どこかへ行きたい」ということを残しており、現実からの逃避願望という点で、シャルノスの話を踏まえていると思われます。

ホラーは嘆きであり、「ひとよ止まれ。ここから先には何もない。導かれるのは、恐怖だけ」という言葉は、神に最後は魂が救われる物語『ファウスト』の有名な台詞
「時よ止まれ。世界よ、お前は美しい」
との対比でしょう。このファウストが台詞を言う場面は、人や世界の美しさに感動しているときであり、このシリーズの「セレナリア」「インガノック」でテーマにした「世界」や「人」と関連が考えられます。それをふまえて、今回の作品では「否定」の方向で使っています。
ザールが最終章で、「踊れ、踊れ、哀れな黒影ども」という文は、おそらく、シェークスピアの文と比較できます。『マクベス』の「ついには歴史の最後の一瞬にたどりつく(審判の日をさす)。昨日という日はすべて愚かな人間が塵と化す、死への道を照らしてきた。消えろ、消えろ、つかの間のともし火。人生は歩き回る影法師、哀れな役者だ」
でしょう。
この作品のホラーが人間が「恐怖」におかされて、人間性を失った姿であることから、この作品の「ホラー」というのは、わたし達、現代人を普通にさすと思われます。
たとえば「指輪物語」では「魔力」や「権力」に犯された人間は、最後に「幽鬼」と化します。他に、エンデか何かの作品で、時間やお金に追われ、「虚無」や「空虚」に犯された人間は、人間性を喪失した姿で表現されていたはずです。

・これは光の物語
「初めに言(ことば)があった。言葉は神とともにあった。言は神であった。(中略)この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光は闇の中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」(ヨハネによる福音書)

光と愛と言葉による物語をつむごうとしたのが、このヴァルーシアではないかと思われます。

・右手の強調
これは、どこかでインガノックで考察されていたはずなのですが、「右手」は「神の右手」をさすのではないか、という話があったと思います。
まず、右手というときに、「神の万能」や「権威」を象徴したりするという話でした。まあ、だから、右手が無いヒルドは、「神の権威」や「恩寵」が「ない(もしくは拒否)」人物と考えられます。
そして、「手を伸ばす」という行為は、「意思を示す」ことや「行動をおこし、求めること」の象徴でもある、とかいう話だったはずです。だから、インガノックでも、「手を伸ばす」ことが強調されたわけです。あきらめるのではなく、意思を示し、行動しなさいということが訴えられているわけです。つまり「求めよ、さらば、与えられん。門をたたけ、そうすれば開かれるであろう」ですね。
また、これは「霞外籠逗留記」でも書いたことですが、「手」とは「人と人を結ぶもの」の象徴でもあります。ですから、「手が無い」という状態は、人と人の結びつきがない状態を意味します。カシムも「本来の手」は失われていますが、義手で補っています。これは、最初にもっていた「結びつき」を一度は失ったが、新しく代わりとなる結びつきを得た、ともとれます。洗礼などもそうですが、あれらは「仮の死」を迎えることで、「魂の再生」を象徴しますから、ただ漫然ともっていたつながりより、自覚した強固なつながりをもったことを意味しているかもしれません。ただ、義手ですから、「失われるかもしれない恐れ」もある「つながり」だとは思います。まあ、わたし達の人間関係もそんなものですけどね。失われるかもしれないから、維持する努力を払うものですから。
このあたりのカシムは「手をのばす」ことととの関連で「インガノック」のギー先生と同じ人間であるともとらえられます。
当然、ヒルドはつながりをもたない状態です。EDでは「再生した手」を持っていましたから、復活したつながりでもって、人とつきあっていく人生を歩む未来を示唆していると思われます。
「見誤るな。見据えよ。お前が見るべきは黄金色だけではない。それを取り巻くあらゆるものすべて、それらこそ、お前の見るべきもの」ということを作中でいうなど、孤独や視野閉塞に陥るのではなく、他人とつながることを強調しています。


実は、このへんのつながりもキリストはいっていたりするんですね。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしが人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。(中略)わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛しあいなさい」(ヨハネによる福音書)
敵を憎むのではなく、人とつながれ、愛せ、ということは、この作品では他にも見られます。

・アブホールと巨神とは?
アブホールを巨神が殺すのは、第一章からですが、なぜ、こんなに簡単に殺せるかです。これは、アブホールが「神」であり、巨神が「人の操るもの」であり「人間の機械文明」の象徴だからだと思われます。ニーチェの「神は死んだ。俺達が殺したのだ」というところでしょうか。この作品にただよう「暗さ」は、ニーチェのニヒリズムが根底にあるような気がします。作中でたびたび「神のいない」ことを強調されますし。どなたか「ニーチェなら俺に任せとけ!」という人が、ニーチェの考えと関連させて、この作品読み解いて欲しいです。
ただ、嘆くだけであり、救いを求めるアブホールは、何かに祈り、すがりつき、苦しんでいる、人間を救うものとして「作られた」「唯一神」以外と全く同じです。作中では、ナナイやヤザタが、自分が救われるものとして、アブホールを「神」とよびますし、「白き死の教団」や「ザハカ」は、狂信的にアブホールをあがめます。ナナイやヤザタは最終的に、アブホールだけにすがらないことから、「神にすがりつくだけの人間」の「否定」の形もそこには見受けられます。ザハカが「あなたたちは歪んでいるのです」という表現も、「あなたがたは原罪にまみれているのです」という風にとらえられます。
また、アブホールやホラーが放つ「光」は「塩の塊」になることや、アブホールが巨大な「塔」を壊した話などから、神がソドムとゴモラを滅ぼし、人や建物を塩の塊に変えたことや、バベルの塔の破壊などを踏まえたうえでの設定と思われます。
最終的に羽が生え異形の天使姿になるなど、あからさまです。
最終章で、12の塔から12のアブホールが生まれたのは、キリスト教の12使徒や12の民族をなぞったものでしょうし、機械卿の変じた13番目のアブホールが「巨神」を侵食し、失わせるなども、13番目の使徒が、神の子であるイエスを殺すことに一役買ったことに由来していると思われます。ちなみに、イエスが貼り付けにされた時に、空は数時間、暗黒に支配されたという話ですから、巨神がホラーに犯された時に、数時間、赤い闇に閉ざされたところともかぶります。キリストが死んだゴルゴダ(しゃれこうべ)の丘ですから、死して「白い仮面」(しゃれこうべの象徴)を被るのも当然となります。

逆に、レオが操る「巨神」は産業文明の象徴であり、「新しい神」の象徴です。作品中でも、鋼鉄と機関の行き着く先みたいなことも言っています。これは、産業革命時代を描いたイギリスの何かの小説で、大型機械が、人の血を吸うジャガーノート(神のみこしであり戦車)のような見方をしていたものがありましたし、産業革命の大型機械が巨大な力であり、新たな神、という見方をされていたのはまちがいないでしょう。
ただ、レオが操る巨神は「純粋な力」であり、文明社会の希望の側面が強いものとなっています。これは、レオが「古の人」であり、碩学の始祖的な立場にいるためです。プロメテウスが、人間の生活に発展をもたらすと最初に持ち込んだ「純粋な火」であり「道具」を象徴するためでしょう。
 それが、同じ碩学でも、レオから時代がたった結社があやつる機械と融合したものが、時計仕掛けの歪んだものになるのは、時が立つことで純粋な道具や力が人が扱える限界を超え、歪んだものと成り果ててきていることを示しているとも考えられます。巨大な歯車に巻き込まれる労働者の姿は、チャップリンの映画で有名ですしね。

・アスルをはじめ、子どもが優遇されるわけ
「するとイエスは幼な子らを呼び寄せて言われた、『神の国はこのような者の国である。だれでも幼な子のように神の国を受け入れるものでなければ、そこに入ることは決してできない』」(ルカによる福音書)
新約聖書では、幼子のよさをイエスは強調します。神の国はいるものは幼子である、と。こうしたことから、純粋さをもつ双子やアスルが作中でレオに優遇されていると思われます。
また、純粋無垢な「子ども」であることや「黄金瞳」もちのクセルがいることなど、この作品の「子ども」キャラは「シャルノス」の主人公・メアリと同じ立ち位置にいるといっていいと思われます。

・ バトルに盛り上がりがないのはなぜか?
これは、「バトル」=「敵を倒す」ことに否定的だからでしょう。
作中で、アスルの父が「何処にも敵はいない。ただ、嘆く声が無数にあるだけだ」といったりします。戦いでは救われない。敵を愛するのだという形での救いを表現したかったのではないかと思われます。
これは、「あなたの剣を元のところにおさめなさい。剣を取るものは皆、剣で滅びる」と処刑の前にキリストを守ろうと剣をもってさえぎろうとした弟子を止めたときのイエスの言葉であり、戦いの愚かさを否定しています。
また、「敵を愛し、憎むものに親切にせよ(隣人愛)」(ルカによる福音書)

「『光の中にいる』といいながら、その兄弟を憎むものは、今なお、闇の中にいるのである。兄弟を愛するものは、光の中にあるのであって、つまずくことはない。兄弟を憎むものは、闇の中におり、闇の中を歩くのであって、自分ではどこへ行くのかもわからない。(大略)私たちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。(大略)愛は、神から出たものなのである。全てを愛するものは、神から生まれたものであって、神を知っている、愛さないものは、神を知らない。神は愛である」(ヨハネ第一の手紙)

・アナが麦畑をあいするのは?
「(麦)畑は世界である。よい種というのは御国の子達で、毒麦は悪い者の子たちである。それをまいたもの敵は悪魔である。収穫とは世の終わりのことであり、刈る者は御使いたちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそのとおりになるであろう。」(マタイによる福音書)
「ユダは、イエスが罪に定められたのを見て後悔し、銀貨30枚を返して言った『わたしは罪の無い人の地を売るようなことをして罪を犯しました』。彼は銀貨を聖所に投げ捨て、首をつって死んだ。祭司長らは、その金を拾い上げ、外国人の墓地にした。そのために、この畑は今日まで血の畑といわれている。」(ルカによる福音書)

外国の機械文明を取り入れ、麦畑が無くなったヴァルーシアの話ともからみ、「麦畑がなくなる」=「世界がなくなる」(終末、審判の日)ことを組み込んでいると思われます。逆に、麦畑を愛するアナは、「世界を愛している人間」となります。声優も同じなわけですが、セレナリアのコニーと同じ、「世界を愛する人間」


・眠気を訴えるナナイ。
ナナイは序盤に、昼に『眠い、眠いのよ』といったりします。これは、キリスト教の教えでは、堕落した姿であり、光や救いに背を向けた人間の比喩に使われたりすることに合致します。

「あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである。私たちは、夜のものでも闇のものでもない。だから、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まして慎んでいよう。(中略)しかし、私たちは昼のものなのだから、信仰と愛との胸当てを身につけ、救いの望みのかぶとをかぶって、慎んでいよう。」(テサロニケ人への第一の手紙)

「天国に入るために、ひかりとその光をともすために必要な油を用意しなさい。目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。」

「彼らが眠っていたので、ペテロに言われた。『あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目を覚ましていることが出来なかったのか。誘惑に陥らないように目を覚まして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである』

このように、「目覚めていなさい」ということを話しています。ナナイはヤザタ(天使の意味)の愛の手紙で、「昼に眠れなく」なり、そして、この作品のラストでは、昼に歩き、太陽に右手をかざしてみるほどに強くなります。そして、困っていた少女に声をかけ、物を与えるようになります。目をふさぎ、与えられるだけの人間から成長した姿が描かれています。


(声優)
フルボイスとなったことで、男の声優さんが加わり、男キャラの魅力が輝く作品となっています(笑)。カシムとか、ヤザタとかハールートとか惚れるタイプのキャラが多いです。おまけに、物語の語り手の半分くらいが女性キャラになるため、エロゲというよりは乙女ゲーです。アスル役の理多さんは、純真な子ども役を見事に演じていました。ただし、作中で、ナナイが「このくらいの歳の子なら色目を使うこともあるのに」といっていたように、ある種の男の生々しさや弱さを感じなかったので、個人的には違和感を覚えないでもありませんでした。役としては問題ないのはわかるんですけどね。純粋すぎるキャラなので、汚れた大人のわたしが違和感持っているだけです。
ほかには、物語の外からの語り手ということで、かわしまりのさんが浮世離れした雰囲気を作っていますし、金田まひるさんが純粋さと残酷さと色気が組み合わさったような複雑な演技もしています。野月まひるさんの姐さんキャラもはまっています。あとは、色気ある演技の歌織さん、小次狼さん、古川徹人さん、胸肩腎さん、滝沢アツヤさん、越雪光さんといつものメンバーも含め、多くの方が端役も含めて上手にキャラを演じています。桜川未央さん、高槻つばささん、愛原瑞生さんも、ここ最近、姉妹ソフトで熱演見せてくれたいただけに満足できる演技でした。意外と言えば、今回、富樫ケイさんが参加していたことです。抜きゲのほうではよく見かける名前なのですが、シナリオ系ゲームではあまりみかけないだけに少し驚きました。しかし、いつもの強気そうに見えて、実は弱弱しさをもつキャラを演じており、今後、抜きゲだけではなく、シナリオ系のゲームでも活躍しているところをみたいなと思いました。


・声優情報
野月まひる(アナ)、かわしまりの(ルナ、リザ)、理多(アスル)、歌織(ナナイ)、金田まひる(ヒルド)、桜川未央(クセル、トト)、富樫ケイ(ムート)、高槻つばさ(ミミル)、
蘭丸(ヤザタ、ビモモ=ス)、愛原瑞生(ロスタ)、草村ケイ(カイ、女性市民)
柚木サチ(ハミーネ、リルー、女性市民、仮面の宮廷侍従)、
杉原 茉莉(ズィレ、ラクシュ、女性市民)Yakumo(ザハカ、団長)
高井戸雫(ミト、女王蟲)、小次狼(ザール、豪商、ホラー、男性市民、仮面の宮廷侍従)
古川徹人(カシム、カルベルティ)
胸肩腎(ハールート、機械卿、クバード、西享貴族、長老、ホラー、仮面の宮廷侍従)
滝沢アツヤ(レオ、ファルハード、ダラム、ランドルフ、ホラー、男性市民)
越雪光(アルディーン、セベク老、アルマ、男性市民)
柚季(ルク、ジェミマ、エヨカン)
榛名れん(マニージュ、イーシャ)

xianxianさんの「白光のヴァルーシア ~What a beautiful hopes~」の感想へのレス

  はじめまして。感想拝読いたしました。

  xianxianさんの感想とは関係ありませんが、私の感想で変なところがありましたね。「左手」は間違いでした。すみません。「右手」でした。読み間違いでした。読解力不足ですね。

  xianxianさんの読みの深さ、考察には脱帽です。この作品をしっかりとプレイなさっていて愛を感じました。正直私はこの作品を文字だけ流し読みした部分も多かったので、xianxianさんの解釈を読んで「なるほど」と、この作品を再プレイしたくなりました。またxianxianさんの感想の(テキスト)の部分でのご指摘は納得いたしました。ただ、それでももう少し違った表現は出来たのではないかと私は思います。

  わかりにくい文、読みにくい文、といった批判(私のを含む)への反論があるかもしれませんが、私はそれだけを批判しているのではないことを少しわかって欲しかったので、xianxianさんの感想へのレスを通じて、今ここに書き込ませてもらいました。この問題はこの「白光のヴァルーシア」がゲームという媒体であることなのです。「ゲームは娯楽だからわかりやすい文で!!」と言っているのではなく、ゲームという媒体では、たとえ読み返し機能があるとはいえ、小説とは違ってなるべく一度ですんなりと入ってこられる文章であることが大切だと私は思います。映画(DVDではなく)や芝居と同じように、もう一度繰り返すこと(DVDの巻き戻しのようなこと)が出来ないものとして、クリエイターには文を練ってもらいたいのです。映画でも芝居でも意味深であったりわかりにくいところはありますが、小説と違ってその答えあるいはその示唆するものは、時間を巻き戻すことなく観客にわかる仕掛けがあって欲しいのです。ともすると作り手は頭の中に完成された構想があるため、複雑な見せ方(映画でも芝居でも)をしてしまうことがありますが、私たち観客にとってはその作品は多くは一度きりのものなので、英文ではないですが、頭から見て(英文なら読んで)わかるような見せ方をして欲しいと思います。

  それと私はこの作品の表現について多少批判はしましたが、「日本語」についてやれ文法だの何だのと批判するつもりはありません。規範(「正しさ」はないという意味でこの言葉を使います)から大きくずれた文、詩的な文、いろいろな文があることは、小説であれ、芝居であれ、歌であれ、表現の可能性を豊かにしますし、そうした文の中には味わい深く、魅力あるものがあるのは確かです。しかし、以下の2点で「ヴァルーシア」の文章について言いたいことがあります。1 声に出したときこの文は魅力ある文であろうか? 2 具体的な描写や平易な文があってこそ、詩的な、又は抽象的な、あるいは暗示・予言的な語りは魅力を持つのではないだろうか? 1について、これは主観的な問題でしょうが、この作品の文は声に出したとき、それを聴いたときに何かしらの心地よさや鼓舞されるものを感じられたかというと、確かに幾つかは耳に心に響くものはありましたが、その多くはその技巧の割にそうでもありませんでした。またこの語りは、解釈へと誘うようなものではなく、「ちょっと何が言いたぃん?もう少しはっきりせぇ」とつっこみたくなる語りに感じてしまったのです。これは2の主張にもかかわってきますが、xianxianさんのように深みのある解釈を私もしたかったです。(私の頭では難しいでしょうが)しかし如何せん物語がスムーズに進まない!!もう少しでいいので、世界観にせよ、怪異にせよ、キャラのセリフにせよ具体的でわかりやすいものが欲しかったです。おそらく多くの方が解釈へ誘われる前にそれをあきらめてしまったのではないでしょうか?次回作があるのならもう少しいろいろな点でスッキリとしたものであって欲しいと私は思いました。

  長々と書いてしまい申し訳ありませんでした。何か独り言のようになってしまいましたが、これが私のxianxianさんの感想を読んで思ったことであり、私自身の感想の補足でもあります。失礼しました。
2009年12月05日17時43分50秒
>11921192さん
はじめまして。まず、私は、11921192さんへの反論はありません。というか、むしろ感謝しています。11921192さんが、こちらで文章のおかしさを指摘なさってくれたおかげで、私は、より注意して文章を読むことができました。また、読みにくい文というのももっともなことです。私も「商品」としてならば、まったく、その通りだ、と思います。
 そもそも、私は元々クリスチャンなので、聖書に由来があるものに関してならば、ある程度ピンと来るものがあります。しかし、日本人でどれだけ聖書になじみがあるのよ?と思います。また、書き忘れましたが、この作品では、時間軸は巻きもどすは、複数視点でいれかえるわ、と「売れる商業作品としてやっちゃいけないこと」をこれでもかと盛り込んでいます。ライターとメーカーがひねくれているとしか思えません。ただ、私はだからライアーソフトが大好きです。私の常識とか合理性とかを足蹴にして、違うものをみせてくれる。私がライアー作品に期待しているのはそれです。そして、ライアー作品は、昔から、わかる人間だけついてこいみたいなスタイルでしたから、私はそれに関してはあまり不満を感じません。
ライアー作品に関しては、私のユーザー紹介にも書いていますが、「信者」ですから、私の感想なんて一般の基準としては参考にすべきではありません。
私が、ここに書くのは、私の感想であり、メモ帳であり、なんか深い解釈がないかなと知りたくなった人が参考になる助けになればいい、とだけ思って書いています。
魅力的な文章に関しては、どうなんでしょうね?私は、たいていのものは楽しめる人なので、「魅力」感知能力が低いですね。あえて、私の中で11921192さんのいうことに近い言葉は、「テンポ」「リズム」ですね。通常のエロゲがミュージカルや映画のようなスピード感あるものだとしたら、桜井さんや希さんのようなライアーのライター陣は、能とかのような感じでしょうか。これは、別にどっちが上とかの話ではなく、リズムの問題ですね。私も睡眠不足のときに、能なんてみたら寝ますね。しかし、あの独特の間や声のとり方が、ある種の「異界」を作り出す要素になります。
 そのあたりは長くなるのでこれ以上はやめますが、正直、信者の私の評価で76点というところで、察していただけないでしょうか。シナリオとしては評価しているのですが、技巧に走りすぎな感はいなめません。11921192さんがおっしゃるように、もう少し、軽い冒険活劇ものであってもいいなと、私も思います。テーマ性ある作品は、ここで小休止して、単なるキャラクター冒険活劇でもいい名と思います。
……正直、頭使うようなゲームばかりだと、遊ぶのも書くのも疲れますから。
2009年12月06日03時08分06秒

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