エストさんの「素晴らしき日々 ~不連続存在~」の感想

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ゲームをクリアした人むけのレビューです。

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シナリオの出来が非常に良かったです。ただ、作品のテーマを理解しないとやる価値は半減なのに、『論理哲学論考』を読んでないとおそらく理解不能なのが残念。これ表面的にストーリー追うだけだと面白くないしとんでもなく人を選ぶと思うんですけどもね。しかしこれが評価されてくれる事に嬉しさを感じてしまうような、エロゲならではの良い作品だったと思います。以下終の空Ⅱを中心に考察備忘録(2015/12/01大幅に加筆改訂)
多くの方が考察をしていると思いますが自分の備忘録としてざっと感想考察を。

シナリオはプレイヤー自身が論考を理解するにとどまらず体感することが出来るという稀有なシナリオだったと思います。それと同時に、プレイヤーに対してどんなに苦しいときでも悲しいときでも幸福はそこにある!という強いメッセージを投げかけてくれる非常にテーマ性の強い良いシナリオだと感じました。

以下簡単な考察
プロローグでは哲学的命題(論考という梯子)の存在にすら気づいていない由岐が、屋上での懐疑論争と銀河鉄道を経て、世界は言葉によって作る自らの論理空間であると気づき(=世界少女の正体は自分であると気づき)論考という梯子に手をかけて物語が始まる。

※論理空間=論考の用語。論理的に可能性のある事柄をまとめた総体

1章2章は終の空(語りえないもの)に至ろうとすることの否定がテーマだったのかな?(飛び降りた卓司を笑う彩名さんの描写がその象徴に思える)
私と世界の関係、世界の中に価値はないなど論考の基本的な考え方が説明されると共に、語り得ない物を語ろうとする者の破滅が描かれるなど、プレイヤーは論考のモチーフをなぞっていきます。

※終の空=世界の限界と作中で説明されているが、世界の限界(論理空間の限界)もまた語りえぬものである。論理が世界の限界を超えないと、その限界自体を語りえないからである、ここにおいて終の空=語りえぬものとなる(終の空Ⅱではもう少し積極的に説明されている、後掲)

3章4章は自分の世界(論理空間)を幸福に導くための「生への意思」がテーマ。
(言い換えれば、死という形而上学的概念に沈黙し、永遠の相に生きれるかがテーマ)
これを持てなかったざくろは自殺し、肯定できなかった(自分が破壊者であるという認識から抜けられなかった)皆守君は負ける。

5章6章は「生への意思」を肯定して「幸福」に生きるための物語。生への意思を抱いた間宮は勝利し、終の空という語りえぬものに沈黙する。そして死や生の意義(語りえぬもの)について沈黙した間宮は言葉を旋律に変えて音楽を道具として神(美)を感じ、自らの生を肯定する、即ち「幸福」に生きる(世界の美しさを旋律を通して感じ、自己の世界を、ひいては自己の生を美しきものとして肯定する)【素晴らしき日々END】

終の空Ⅱに関して
終の空Ⅱは多くの考察がなされているようですが、私には提示される仮定は全て意味がないように思えました。前半の仮定1-4(自己の存在への疑義への仮定)は自己が世界を知覚する以上私はここにあるだけ、という答え合わせ的なもので、共通の外側の世界などない以上は仮定に意味はなく(幻だとか魂だとか夢だとか考えるのは私の脳みそが水槽に浮かんでると考えるのと同じで思考の限界外であり)沈黙するしかないです(というかこの議論はプロローグの屋上でざくろが既に意味が無いと指摘している)
後半5-6についても、終の空とはどこともつながらない(世界内に)あってはいけない空とあるように、世界の限界の外側=「語りえぬもの」の象徴なのですから、それが何なのか/なぜ卓司が知りえたのかを語ることは「語りえぬもの」を語ることになってしまいます。これは作中で散々否定された行為ですからここは「沈黙する」が正解であり仮定に意味はありません。
自己の存在証明への疑義は外側の世界があってこそのものであり、世界の外側への疑義について私たちは「沈黙」しなけばなりません。ここの仮定はすべて思考の限界を超えて(論理空間を超えて、世界の限界を超えて)自己を問うており問うことには意味がない。ここでの彩名は笑いながらプレイヤーが沈黙したかテストしているようにすら感じます。
7偏在転生も同じ、説明は「語りえぬもの」と明記されていますね。他人の論理空間は当然語りえませんし、魂の転生もまた語りえない。
そして「語りえぬものに沈黙」することによりプレイヤーは今まで登ってきた論考(素晴らしき日々という物語)のナンセンスにも気づき、梯子を下ろす(ちなみにプロローグと終の空Ⅱのユキはプレイヤーの象徴に思える、プロローグにて論考に手をかけたプレイヤーは白い透明を抜け、すばひびで各種論考の命題を上った後再び白い透明を抜け論考の最終命題にたどり着いたと考えられる、終の空Ⅱが梯子の上の屋上を舞台とするのはこのために思える)
最後に、沈黙により死や生の意義を捨象したプレイヤーは素晴らしき日々(幸福な日々)を生きる、で終わるという流れですね。

なんでこのラストが終の空Ⅱと名づけられたのかについてですが、すかぢさん曰く前作「終の空」は懐疑主義的な結論で終わったらしいです(私は未プレイ、オフィシャルアートワークのロングインタビューに書いてあったから知ってるだけです、末尾※4参照 神秘主義的哲学者とはウィトゲンシュタインの事と思われる)
「幸福」だとか「恋愛」だとか「神」だとかの形而上学的存在は本当に存在するの?という懐疑で終の空は終わってしまった。それに対して、「形而上学的概念は語ることはできないけれど、沈黙すべき場所に語りえぬものとしてたしかに存在はする。そしてそれは世界内の事実で示しうる(もしくは示しえないが存在している)のであり、その懐疑はナンセンスだ!」と解答を与えているのがこの終の空Ⅱなのだと思います。最後に由岐が「終の空はどことも繋がらないあってはいけない空、でもそれは本当だったのだろうか?」と言うのは、まさに語りえぬものがどこにも存在しえないことは語りえぬものの存在自体を否定することにはならず、語りえぬものがなお沈黙すべき場所に存在する事を示しているように思えます。要するに終の空は語れなくとも確かにあるのです(因みにこの直前の空が青いのくだりは空を世界の限界に見立てているのでしょう、- -の中には「私」が入ると考えます、このように考えれば直後と文脈が繋がります)
以上より、終の空Ⅱでは論考の最終命題である「語りえぬものには沈黙しなければならない」が表現されたのであり、それにより終の空との決別をする場所として(そもそもすばひびはこのためにすかぢさんが書いたらしい)終の空Ⅱという名前が冠されたのかなと考えています。

※追記分(補足として終の空Ⅱ冒頭の命題について)
「物理学の法則に反する事態は空間的に抽出できるものの,幾何学の法則に反する事態は空間的に抽出できない」
終の空Ⅱ冒頭で表示される論考の命題です。意味合いとしては、物理学は実際に成立しうる事態(成立したものが事実)と成立しないかもしれない事態について考える学問であり、そこには偶然が介入しうるため法則通りにはならないことがある。対して幾何学の法則(数学)は完全に論理的な学問であるから偶然は介入しえず、必ず法則通りになる、といったとこです。
正直なんでこの命題が表示されるのか謎だったのですが、要するにここでは、世界とは実際に成立している事実の集合(実際に成立した事態の集合)と捉えられ、その事態を構成する言葉によって成り立つものである、と言いたいのだと思います。そして物理学の法則はそこに成立していない事態(可能性)を読み込んで考える、つまり「世界は私の言葉で作る論理空間である」ということ。これを受けて命題を見ると、成立しなかった事態を含む論理空間内の事態全てについては言葉で意味を与えられる(空間的に抽出できる)が、論理空間内(世界内)から外れる世界の外側の事態(幾何学の法則に反する事態)は意味をなさない(空間的に抽出できない)、そして世界の外側の事態=語りえぬものであり、「語りえぬものには沈黙しなければならない」と本文の内容につながるよう説明できると思います。つまりこの命題は後半を言い直せば、「幾何学の法則に反する論理的に意味をなさない事態は論理空間的に抽出できない、よってそれらついては沈黙しなければならない」となり、こう考えるとまんま終の空Ⅱの主題を表現しているように考えられます(正直この命題は半分科学に足突っ込んでる+難解なので正しく理解できてる自信はないですが、内容的にはシュレディンガーの猫の量子力学論と同じな気がします)
ただこのように考えても、ではなぜ素直に論考の最終命題を表示しなかったのか?という疑問は残ってしまうのですが…

総評ですが、首尾一貫として作者にとっての論考をなぞるシナリオの完成度はほんとに素晴らしかったと思います。凄まじく論理的で完成された構造を持つ作品ですよね。プロローグから通して描かれたのは論考に手をかけ登り下すという一連の流れだったことが分かった時は鳥肌が立った思い出があります(笑)
そして、論考という梯子を下した先で「幸福に生きよ!」というメッセージは本当に良かった。素晴らしき日々という物語はあくまで間宮が幸福に生きるまでの物語であったけど、終の空Ⅱを経て私達プレイヤーもまた「幸福」に生きるという構造は流石だと思います。

残る疑問
最後に視点が彩名さんから外れるのは、論理哲学論考自体の象徴が彩名さん(彼女は論考から外れた行動をする人物を嘲笑う、他にも一見意味不明な発言は全て論考の考え方の表現になっている、2章での自らは語りえるものと沈黙せざるを得ないものとの境界にあるという発言は決定打だろう、その2つを分かつのが論考の意義であるから)と考えると、プレイヤーが今まで共にあった論考という梯子を、語りえぬものへ沈黙することにより手放すことの比喩だったのでしょうか。彩名さん2章で自分は人間という設定と言っちゃってますし、彩名さんと分離することにより読者は素晴らしき日々というループする世界(=論考)を手放すのですからこれが一番しっくりくる解釈な気がします。素晴らしき日々はプロローグからして論考に似せてますし、あくまで私の解釈では終の空Ⅱも論考の表現ですし。
まぁここばかりは色々な解釈が成り立ちそうです。(公式本に何か書いてあるのかな?書いてあったら教えてください)


サクラノ詩終えての追記(偏在転生説は果たして真正面から主張されているか?という疑問について)
すかぢさんがロングインタビューで、素晴らしき日々では他者は実在するだけで存在意義がないという考え方になってしまっているという旨の発言があるので、偏在転生という考え方は主張されてないかなと思います。
まぁそもそも共感を真っ向から肯定するこの思想はウィトゲンシュタインと相性悪いですし(ウィトゲンシュタイン的には痛みという感情に共感してるのではなく、痛みという言語は対応する動作の代理であり、人はそれに対応してかわいそう等の言語ゲームを行っているに過ぎない)、偏在転生と考えると他者の視点も私になって、他者は私に情報を与える存在として意義持ってしまうので。
しかし、おそらくこの偏在転生の話の元ネタは後期ウィトゲンシュタインの世界霊魂の話だと思うんですが、終の空Ⅱの主題があくまで懐疑主義との決別と考えるなら世界霊魂というまさに語りえぬものの存在を肯定しているという解釈も可能ではあるんですけどね。語りえないことは存在の否定ではないので。
難しいとこですが、「偏在転生」は、素晴らしき日々という物語は論理哲学論考の価値を体現する音無彩名と共にプレイヤーが見たものであるということを表すためのギミックに過ぎないのでしょう。そして語りえぬものに沈黙したプレイヤーは彩名と分離して梯子を手放すという事なのだと思います。もうここは「沈黙する」と思考放棄するしかないです。もう少しわかりやすく書いて欲しいですねw正直「神」の理解とかもサクラノ詩やらないと無理だよw

以下、残念だった点
惜しむらくは旋律(音楽)の説明が少し不足気味に感じた事。
あとプレイヤーへの配慮がもう少し欲しいです(笑)論考を理解して行動する役割の由岐にもっと解説させるなりギャラリーに論考の作品理解に必要な命題の解説置くなりしないと論考読んでる人でも厳しいかと。
プロローグとかも別に電波じゃないのに電波に見えてしまいますw
一番残念な点として、論理哲学論考の表現としての電波に見える表現と、狂った世界を描くための電波な表現(クトゥルフとか北欧神話とか卓司の見る神だとか後ライターの悪ふざけ)が混在していて読み解きにくいのは問題に感じました。難解というよりこれは「分かりにくい」だと思う。

紹介
1~6章でのテーマ関連について精緻な考察が見たい!という方は、
http://koyayoi.hatenablog.com/entry/2015/09/02/050606
様の考察を見る事をおすすめします。論考読んだことない人でもわかるレベルでかなり分かりやすく考察がされていますのでおすすめです。

終わりに
ようやく私の中ですばひびが終わった気がします。終の空Ⅱだけがずっと引っかかってたんですよね。
当たってるかは別としてようやく納得できて良かった(初回から4年たってしまったw)
最後に販促ですけど、
「素晴らしき日々」が自己内部の完結した営みにおいて「幸福」を目指すゲームなら、「サクラノ詩」は他者との関わりにおいて「幸福」を目指すゲームと整理できると思います。
すばひびを気に入ったならぜひサクラノ詩をどうぞ(笑)
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